1083◎御ご0069文ぶん章しょう

 

○ 一 帖

(1) 門徒弟子章

 ◎▼或人あるひといはく、 *当とう流りゅうの​こころ​は、 門もん徒とをば​かならず​わが弟子でしと​こころえ​おく​べく候そうろふ​やらん、 如来にょらい・聖しょう人にん (*親鸞) の御おん弟子でしと申もうす​べく候そうろふ​やらん、 その分別ふんべつを存ぞん知じせず候そうろふ。 また*在々ざいざい所々しょしょに小しょう門もん徒とを​もち​て候そうろふ​をも、 *このあひだ​は*手て次つぎの坊ぼう主ずには​あひ​かくし​おき候そうろふ​やう​に心しん中ちゅうを​もち​て候そうろふ。 これ​も​しかるべく​も​なき​よし、 人ひとの申もうさ​れ候そうろふ​あひだ、 おなじく​これ​も不ふ審しん*千万せんばんに候そうろふ。 御ごねんごろに承うけたまわり​たく候そうろふ。

 答こたへ​て​いはく、 この不ふ審しん*もつとも肝要かんようと​こそ存ぞんじ候そうらへ。 *かたのごとく耳みみに​とどめ​おき候そうろふ分ぶん、 申もうし​のぶ​べ%し。 きこしめさ​れ候そうらへ。

 故こ聖しょう人にんの仰おおせ​には、 「▲親鸞しんらんは弟子でし一人いちにんも​もた​ず」 と​こそ仰おおせ​られ候そうらひ​つれ。 「1084そのゆゑは、 *如来にょらいの教きょう法ぼうを十方じっぽう衆しゅ生じょうに説とき​きか​しむる​とき​は、 ただ▲如来にょらいの御おん代官だいかんを申もうし​つる​ばかり​なり。 さらに親鸞しんらんめづらしき法ほうをも​ひろめ​ず、 如来にょらいの教きょう法ぼうを​われ​も信しんじ、 ひと​にも​をしへ​きか​しむる​ばかり​なり。 その​ほか​は、 なに​を​をしへ​て弟で0070子しと​いは​ん​ぞ」 と仰おおせ​られ​つる​なり。

されば*とも同どう行ぎょうなる​べき​ものなり。 これ​によりて、 ▼聖しょう人にんは 「御おん同朋どうぼう・御おん同どう行ぎょう」 と​こそ、 *かしづき​て仰おおせ​られ​けり。

されば​ちかごろ​は*大だい坊ぼう主ず分ぶんの人ひとも、 われ​は*一いち流りゅうの安心あんじんの次し第だいをも​しら​ず、 たまたま弟子でしの​なか​に*信心しんじんの沙汰さたする在所ざいしょへ​ゆき​て聴ちょう聞もんし候そうろふ人ひとをば、 ことのほか*説諫せっかんを​くはへ候そうらひ​て、 あるいは​なか​を​たがひ​なんど​せ​られ候そうろふ​あひだ、 坊ぼう主ずも*しかしかと信心しんじんの一いち理りをも聴ちょう聞もんせず、 また弟子でしをば​かやうに*あひ​ささへ候そうろふ​あひだ、 われ​も信心しんじん決けつ定じょうせず、 弟子でしも信心しんじん決けつ定じょうせず​して、 一いっ生しょうは​むなしく​すぎゆく​やう​に候そうろふ​こと、 まことに*自じ損そん損そん他たの​とが、 のがれがたく候そうろふ。 *あさまし​あさまし。

 *古歌こかに​いはく、
  ▼うれしさ​を​むかし​は​そで​に​つつみ​けり こよひ​は身みにも​あまり​ぬる​かな

 「うれしさ​を​むかし​は​そで​に​つつむ」 といへる​こころ​は、 むかし​は雑ぞう行ぎょう・正しょう行ぎょう1085の分別ふんべつも​なく、 念仏ねんぶつだに​も申もうせ​ば、 往おう生じょうする​と​ばかり​おもひ​つる​こころ​なり。

「こよひ​は身みにも​あまる」 といへる​は、 *正しょう雑ぞうの分別ふんべつを​ききわけ、 *一向いっこう一心いっしんに​なり​て、 信心しんじん決けつ定じょうの​うへ​に仏恩ぶっとん報尽ほうじんの​ため​に念仏ねんぶつ申もうす​こころ​は、 おほきに各別かくべつなり。 かるがゆゑに身みの​おきどころ​も​なく、 をどりあがる​ほどに​おもふ​あひだ、 よろこび​は身みにも​うれしさ​が​あまり​ぬる​といへる​こころ​なり。

*あなかしこ、 あなかしこ。

0071*文明ぶんめい三年さんねん七月しちがつ十じゅう五ご日にち

(2) 出家発心章

 ^▼当とう流りゅう、 親鸞しんらん聖しょう人にんの一いち義ぎは、 *あながちに出しゅっ家け発心ほっしんの​かたち​を本ほんと​せず、 *捨しゃ家け棄き欲よくの​すがた​を標ひょうせ​ず、 ただ一念いちねん帰き命みょうの他た力りきの信心しんじんを決けつ定じょうせ​しむる​とき​は、 さらに男女なんにょ老ろう少しょうを​えらば​ざる​ものなり。

^されば​この信しんを​え​たる位くらいを、 ¬経きょう¼ (*大経・下) には 「▲即得そくとく往おう生じょう住じゅ不ふ退転たいてん」 と説とき、 ¬釈しゃく¼ (*論註・上意) には 「▲*一念いちねん発ぽっ起き入にゅう正定しょうじょう之し聚じゅ」 とも​いへり。 ^これ​すなはち*不ふ来迎らいこうの談だん、 平生へいぜい業ごう成じょうの義ぎなり。

 ^¬和わ讃さん¼ (*高僧和讃) に​いはく、 「▲弥陀みだの報ほう土どを​ねがふ​ひと 外儀げぎの​すがた​は​こと​なり​と 本願ほんがん名みょう号ごう信受しんじゅして 寤寐ごびに​わするる​こと​なかれ」 といへり。

^「外げ1086儀ぎの​すがた」 といふは、 在ざい家け・出しゅっ家け、 男なん子し・女人にょにんを​えらば​ざる​こころ​なり。

^つぎに 「本願ほんがん名みょう号ごう信受しんじゅして寤寐ごびに​わするる​こと​なかれ」 といふは、 かたち​は​いかやうなり​といふとも、 また罪つみは十じゅう悪あく・五ご逆ぎゃく、 謗法ほうぼう・闡提せんだいの​ともがら​なれども、 *回え心しん懴さん悔げして、 ふかく、 かかる​あさましき機きを​すくひ​まします弥陀みだ如来にょらいの本願ほんがんなり​と信しん知ちして、 *ふたごころなく如来にょらいを​たのむ​こころ​の、 ね​ても​さめ​ても憶念おくねんの心しんつね​にして​わすれ​ざる0072を、 本願ほんがんたのむ*決けつ定じょう心しんを​え​たる信心しんじんの行ぎょう人にんと​は​いふ​なり。

^さて​この​うへには、 たとひ行住ぎょうじゅう坐臥ざがに称名しょうみょうす​とも、 弥陀みだ如来にょらいの御ご恩おんを報ほうじ​まうす念仏ねんぶつなり​と​おもふ​べき​なり。 これ​を真実しんじつ信心しんじんを​え​たる決けつ定じょう往おう生じょうの行ぎょう者じゃと​は申もうす​なり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

  ▼あつき日ひに​ながるる​あせ​は​なみだ​かな かき​おく​ふで​の​あと​ぞ​をかしき

*文明ぶんめい三年さんねん七月しちがつ十じゅう八日はちにち

(3) 猟すなどり章

 ^▼まづ当とう流りゅうの安心あんじんの​おもむき​は、 あながちに​わが​こころ​の​わろき​をも、 また妄念もうねん妄もう執しゅうの​こころ​の​おこる​をも、 とどめよ​といふ​にも​あらず。

^ただ​あきなひ​をも​し、 奉公ほうこうをも​せよ、 猟りょう・*すなどり​をも​せよ、 かかる​あさましき罪業ざいごうに​のみ1087、 *朝ちょう夕せきまどひ​ぬる​われら​ごとき​の*いたづらもの​を、 たすけ​ん​と誓ちかひ​まします弥陀みだ如来にょらいの本願ほんがんにて​まします​ぞ​と​ふかく信しんじ​て、 一心いっしんに​ふたごころなく、 弥陀みだ一仏いちぶつの悲ひ願がんに*すがり​て、 *たすけ​ましませ​と​おもふ​こころ​の一念いちねんの信しんまこと​なれば、 かならず如来にょらいの御おんたすけ​に​あづかる​ものなり。

^この​うへには、 なに​と​こころえ​て念仏ねんぶつ申もうす​べき​ぞ​なれば、 往おう0073生じょうは​いま​の*信力しんりきに​より​て御おんたすけ​あり​つる​かたじけなき御ご恩おん報謝ほうしゃの​ため​に、 わが​いのち​あら​ん​かぎり​は、 報謝ほうしゃの​ため​と​おもひ​て念仏ねんぶつ申もうす​べき​なり。

^これ​を当とう流りゅうの安心あんじん決けつ定じょうし​たる信心しんじんの行ぎょう者じゃと​は申もうす​べき​なり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい三年さんねん十じゅう二に月がつ十じゅう八日はちにち

(4) 自問自答章

 ▼そもそも、 親鸞しんらん聖しょう人にんの一いち流りゅうにおいて​は、 平生へいぜい業ごう成じょうの義ぎにして、 来迎らいこうをも*執しゅうせ​られ候そうらは​ぬ​よし、 承うけたまわり​および候そうろふ​は、 いかが​はんべる​べき​や。 その平生へいぜい業ごう成じょうと申もうす​こと​も、 不ふ来迎らいこうなんど​の義ぎをも、 さらに存ぞん知じせず。 くはしく聴ちょう聞もんつかまつり​たく候そうろふ。

 答こたへ​て​いはく、 まことに​この不ふ審しんもつとも​もつて一いち流りゅうの肝要かんようと​おぼえ候そうろふ。 お1088ほよそ*当とう家けには、 一念いちねん発ぽっ起き平生へいぜい業ごう成じょうと談だんじ​て、 平生へいぜいに弥陀みだ如来にょらいの本願ほんがんの​われら​を​たすけ​たまふ​ことわり​を​ききひらく​こと​は、 宿しゅく善ぜんの開発かいほつに​よる​がゆゑなり​と​こころえ​て​のち​は、 わが​ちから​にて​は​なかり​けり、 仏ぶっ智ち他た力りきの​さづけ​に​より​て、 本願ほんがんの由ゆ来らい0074を存ぞん知じする​ものなり​と​こころうる​が、 すなはち平生へいぜい業ごう成じょうの義ぎなり。

されば平生へいぜい業ごう成じょうといふは、 いま​の​ことわり​を​ききひらき​て、 往おう生じょう*治じ定じょうと​おもひ定さだむる位くらいを、 一念いちねん発ぽっ起き住じゅう正定しょうじょう聚じゅとも、 平生へいぜい業ごう成じょうとも、 即得そくとく往おう生じょう住じゅう不ふ退転たいてんとも​いふ​なり。

 問とう​て​いはく、 一念いちねん往おう生じょう発ほっ起きの義ぎ、 くはしく​こころえ​られ​たり。 しかれども、 不ふ来迎らいこうの義ぎいまだ分別ふんべつせず候そうろふ。 ねんごろに​しめし​うけたまはる​べく候そうろふ。

 答こたへ​て​いはく、 不ふ来迎らいこうの​こと​も、 一念いちねん発ぽっ起き住じゅう正定しょうじょう聚じゅと沙汰さたせ​られ候そうろふ​とき​は、 さらに来迎らいこうを*期ごし候そうろふ​べき​こと​も​なき​なり。 そのゆゑは、 来迎らいこうを期ごする​なんど申もうす​こと​は、 諸しょ行ぎょうの機きにとりて​の​こと​なり。 真実しんじつ信心しんじんの行ぎょう者じゃは、 一念いちねん発ぽっ起きする​ところ​にて、 *やがて摂取せっしゅ不ふ捨しゃの光益こうやくに​あづかる​とき​は、 来迎らいこうまで​も​なき​なり​と​しら​るる​なり。

されば聖しょう人にんの仰おおせ​には、 「▲来迎らいこうは諸しょ行ぎょう往おう生じょうに​あり。 真実しんじつ信心しんじんの行ぎょう人にんは、 摂取せっしゅ不ふ捨しゃの​ゆゑに正定しょうじょう聚じゅに住じゅうす。 正定しょうじょう聚じゅに住じゅうする​がゆゑに1089、 かならず滅めつ度どに至いたる。 かるがゆゑに臨りん終じゅうまつ​こと​なし、 来迎らいこうたのむ​こと​なし」 (*御消息・一意) といへり。 この御おんことば​をもつて​こころう​べき​ものなり。

 問とう​て​いはく、 正定しょうじょうと滅めつ度どと​は一益いちやくと​こころう​べき​か、 また二に益やくと​こころう​べき​や0075。

 答こたへ​て​いはく、 一念いちねん発ぽっ起きの​かた​は正定しょうじょう聚じゅなり。 これ​は穢土えどの益やくなり。 つぎ​に滅めつ度どは浄じょう土どにて得うべき益やくにて​ある​なり​と​こころう​べき​なり。 されば二に益やくなり​と​おもふ​べき​ものなり。

 問とう​て​いはく、 かくのごとく​こころえ候そうろふ​とき​は、 往おう生じょうは治じ定じょうと存ぞんじ​おき候そうろふ​に、 なに​とて​わづらはしく信心しんじんを具ぐす​べき​なんど沙汰さた候そうろふ​は、 いかが​こころえ​はんべる​べき​や。 これ​も承うけたまわり​たく候そうろふ。

 答こたへ​て​いはく、 まことに​もつて、 この​たづね​の​むね肝要かんようなり。 されば​いま​の​ごとくに​こころえ候そうろふ​すがた​こそ、 すなはち信心しんじん決けつ定じょうの​こころ​にて候そうろふ​なり。

 問とう​て​いはく、 信心しんじん決けつ定じょうする​すがた、 すなはち平生へいぜい業ごう成じょうと不ふ来迎らいこうと正定しょうじょう聚じゅと​の道どう理りにて候そうろふ​よし、 *分ぶん明みょうに聴ちょう聞もんつかまつり候そうらひ​をはり​ぬ。 しかり​と​いへども、 信心しんじん治じ定じょうして​の​のち​には、 自じ身しんの往おう生じょう極楽ごくらくの​ため​と​こころえ​て念仏ねんぶつ申もう1090し候そうろふ​べき​か、 また仏恩ぶっとん報謝ほうしゃの​ため​と​こころう​べき​や、 いまだ​その​こころ​を得えず候そうろふ。

 答こたへ​て​いはく、 この不ふ審しんまた肝要かんようと​こそ​おぼえ候そうらへ。 そのゆゑは、 一念いちねんの*信心しんじん発得ほっとく0076以後いごの念仏ねんぶつをば、 自じ身しん往おう生じょうの業ごうと​は​おもふ​べから​ず、 ただ​ひとへに仏恩ぶっとん報謝ほうしゃの​ため​と​こころえ​らる​べき​ものなり。 されば*善導ぜんどう和か尚しょうの 「▲上じょう尽じん一いち形ぎょう下至げし一念いちねん」 (*礼讃・意) と釈しゃくせ​り。 「下至げし一念いちねん」 といふは信心しんじん決けつ定じょうの​すがた​なり、 「上じょう尽じん一いち形ぎょう」 は仏恩ぶっとん報尽ほうじんの念仏ねんぶつなり​と*きこえ​たり。 これ​をもつて​よくよく​こころえ​らる​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい四し年ねん十じゅう一月いちがつ二に十じゅう七日しちにち

(5) 雪中章

 ^▼そもそも、 当年とうねんより、 ことのほか、 *加か州しゅう・*能登のと・*越えっ中ちゅう、 両りょう三さん箇が国こくの​あひだ​より道俗どうぞく男女なんにょ、 *群くん集じゅうを​なし​て、 この*吉崎よしざきの山さん中ちゅうに参詣さんけいせ​らるる面々めんめんの心しん中ちゅうの​とほり、 いかが​と*心こころもとなく候そうろふ。

^そのゆゑは、 まづ当とう流りゅうの​おもむき​は、 このたび極楽ごくらくに往おう生じょうす​べき​ことわり​は、 他た力りきの信心しんじんを​え​たる​がゆゑなり。 しかれども、 この一いち流りゅうの​うち​において、 しかしかと​その信心しんじんの​すがた​をも​え​たる人ひと1091これ​なし。 かくのごとく​の​やから​は、 いかでか報ほう土どの往おう生じょうをば​たやすく​とぐ​べき​や。 一いち大だい事じといふは​これ​なり。

^幸さいわひに五里ごり・十じゅう里りの遠えん路ろを​しのぎ、 この雪ゆきの​うち​に参詣さんけいの​こころざし​は、 いかやうに​こころえ​られ​たる心しん中ちゅう0077ぞや。 千万せんばん心こころもと​なき次し第だいなり。

^所詮しょせん以い前ぜんは​いかやう​の心しん中ちゅうにて​あり​といふとも、 これ​より​のち​は心しん中ちゅうに​こころえ​おか​る​べき次し第だいを​くはしく申もうす​べし。 よくよく耳みみを​そばだて​て聴ちょう聞もんある​べし。

^そのゆゑは、 他た力りきの信心しんじんといふ​こと​を​*しかと心しん中ちゅうに​たくはへ​られ候そうらひ​て、 その​うへには、 仏恩ぶっとん報謝ほうしゃのために​は行住ぎょうじゅう坐臥ざがに念仏ねんぶつを申もうさ​る​べき​ばかり​なり。 この​こころえ​にて​ある​ならば、 このたび​の往おう生じょうは一いち定じょうなり。 この​うれしさ​のあまり​には、 *師し匠しょう坊ぼう主ずの在所ざいしょへ​も​あゆみ​を​はこび、 *こころざし​をも​いたす​べき​ものなり。

^これ​すなはち当とう流りゅうの義ぎを​よく​こころえ​たる信心しんじんの人ひとと​は申もうす​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい五ご年ねん二に月がつ八よう日か

(6) 睡眠章

 ^▼そもそも、 当年とうねんの夏なつこのごろ​は、 なにとやらん​ことのほか睡眠すいめんに​をかさ​れ​て、 ねむたく候そうろふ​は​いかん​と案あんじ候そうらへ​ば、 不ふ審しんも​なく往おう生じょうの死期しごも​ちかづく​か1092と​おぼえ候そうろふ。 まことに​もつて*あぢきなく名な残ごりをしく​こそ候そうらへ。 さりながら、 今日こんにちまで​も、 往おう生じょうの期ごも​いまや来きたら​ん​と油ゆ断だんなく​その*かまへ​は候そうろふ。

^それ​につけて0078も、 この在所ざいしょにおいて、 *以後いごまで​も信心しんじん決けつ定じょうする​ひと​の*退転たいてんなき​やう​にも候そうらへ​かし​と、 念願ねんがんのみ昼ちゅう夜や不ふ断だんに​おもふ​ばかり​なり。

^*この分ぶんにて​は往おう生じょうつかまつり候そうろふ​とも、 いま​は*子し細さいなく候そうろふ​べきに、 それ​につけて​も、 面々めんめんの心しん中ちゅうも​ことのほか油ゆ断だんども​にて​こそ​は候そうらへ。 いのち​の​あら​ん​かぎり​は、 われら​は​いま​の​ごとくに​て​ある​べく候そうろふ。 よろづ​につけて、 みなみな​の心しん中ちゅうこそ*不ふ足そくに存ぞんじ候そうらへ。

^明みょう日にちも​しら​ぬ​いのち​にて​こそ候そうろふ​に、 なにごと​を申もうす​も​いのち​をはり候そうらは​ば、 *いたづらごと​にて​ある​べく候そうろふ。 いのち​の​うち​に不ふ審しんも疾とく疾とく​はれ​られ候そうらは​では、 さだめて後悔こうかいのみ​にて候そうらは​んずる​ぞ、 御おんこころえ​ある​べく候そうろふ。

^あなかしこ、 あなかしこ。

 ^この障しょう子じの​そなた​の人々ひとびとの​かた​へ​まゐら​せ候そうろふ。 のち​の年としに​とり出だし​て御ご覧らん候そうらへ。

*文明ぶんめい五ご年ねん卯う月づき二に十じゅう五ご日にちこれ​を書かく。

(71093) 弥生中半章

 ▼さんぬる*文明ぶんめい第だい四しの暦れき、 *弥生やよい中半なかばの​ころ​か​と​おぼえ​はんべり​し​に、 *さ​も​あり​ぬ​らん0079と​みえ​つる女にょ性しょう一いち二に人にん、 男おとこなんど​あひ具ぐし​たる​ひとびと、 この山やまの​こと​を沙汰さたし​まうし​ける​は、 そもそも​このごろ吉崎よしざきの山さん上じょうに*一いち宇うの坊舎ぼうしゃを​たて​られ​て、 *言ごん語ご道断どうだん*おもしろき在所ざいしょかな​と申もうし候そうろふ。 なか​にも​ことに、 加賀かが・越えっ中ちゅう・能登のと・越えち後ご・信しな濃の・出羽でわ・奥おう州しゅう七しち箇か国こくより、 かの門もん下か中ちゅう、 この当山とうざんへ道俗どうぞく男女なんにょ参詣さんけいを​いたし、 群くん集じゅうせしむる​よし、 その*きこえ​かくれなし。 これ末代まつだいの不ふ思議しぎなり。 ただごと​とも​おぼえ​はんべら​ず。

さりながら、 かの門もん徒との面々めんめんには、 さても念仏ねんぶつ法門ぼうもんをば​なにと​すすめ​られ候そうろふ​やらん。 とりわけ信心しんじんといふ​こと​を​むね​と​をしへ​られ候そうろふ​よし、 ひとびと申もうし候そうろふ​なる​は、 いかやうなる​こと​にて候そうろふ​やらん。 くはしく​きき​まゐらせ​て、 われら​も​この罪業ざいごう深じん重じゅうの​あさましき女人にょにんの身みを​もち​て候そうらへ​ば、 その信心しんじんと​やらん​を​ききわけ​まゐらせ​て、 往おう生じょうを​ねがひ​たく候そうろふ​よし​を、 かの*山さん中ちゅうの​ひと​に​たづね​まうし​て候そうらへ​ば、

しめし​たまへ​る​おもむき​は、 「*なに​の​やう​も​なく、 ただ​わが身みは十じゅう悪あく・五ご逆ぎゃく、 *五ご障しょう・三さん従しょうの​あさましき​もの​ぞ​と​おもひ​て、 ふかく、 阿あ弥陀みだ如来にょらいは​かかる機きを​たすけ​まします御おんすがた​なり​と​こころえ​まゐらせ​て、 ふたごころなく弥陀みだを​たのみ1094たてまつり​て、 たすけ​たまへ​と​おもふ​こころ​の一念いちねんおこる​とき、 かたじけなく​も如来にょらいは▲八万はちまん四し千せんの光こう明みょう0080を放はなち​て、 その身みを摂取せっしゅし​たまふ​なり。 これ​を弥陀みだ如来にょらいの念仏ねんぶつの行ぎょう者じゃを摂取せっしゅし​たまふ​といへる​は​この​こと​なり。

摂取せっしゅ不ふ捨しゃといふは、 をさめとり​て​すて​たまは​ず​といふ​こころ​なり。 この​こころ​を信心しんじんを​え​たる人ひとと​は申もうす​なり。 さて​この​うへには、 ね​ても​さめ​ても*たつ​ても​ゐ​ても、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと申もうす念仏ねんぶつは、 弥陀みだに*はや​たすけ​られ​まゐらせ​つる​かたじけなさ​の、 弥陀みだの御ご恩おんを、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと​となへ​て報ほうじ​まうす念仏ねんぶつなり​と​こころう​べき​なり」 と​ねんごろに​かたり​たまひ​しかば、

この女人にょにんたち、 その​ほか​の​ひと、 申もうさ​れ​ける​は、 「まことに​われら​が根こん機きに​かなひ​たる弥陀みだ如来にょらいの本願ほんがんにて​ましまし候そうろふ​をも、 いま​まで信しんじ​まゐらせ候そうらは​ぬ​こと​の​あさましさ、 申もうす​ばかり​も候そうらは​ず。 いま​より​のち​は一向いっこうに弥陀みだを​たのみ​まゐらせ​て、 ふたごころなく一念いちねんに​わが往おう生じょうは如来にょらいの​かた​より御おんたすけ​あり​けり​と信しんじ​たてまつり​て、 その​のち​の念仏ねんぶつは、 仏恩ぶっとん報謝ほうしゃの称名しょうみょうなり​と​こころえ候そうろふ​べき​なり。 かかる不ふ思議しぎの宿しゅく縁えんに​あひ​まゐらせ​て、 *殊しゅ勝しょうの法ほうを​きき​まゐらせ候そうろふ​こと​の​ありがたさ​たふとさ、 *なかなか申もうす​ばかり​も​なく​おぼえ​はんべる​なり。 いま​は​はや​いとま申もうす​なり1095」 とて、 涙なみだを​うかめ​て、 みなみな​かへり​に​けり。

あなかしこ、 あなかしこ。

0081*文明ぶんめい五ご年ねん八月はちがつ十じゅう二に日にち

(8) 吉崎建立章

 ^▼*文明ぶんめい第三だいさん*初しょ夏か上旬じょうじゅんの​ころ​より、 *江ごう州しゅう志し賀がの郡こおり大おお津つ*三井みい寺でらの南みなみ別所べっしょ辺へんより、 なにとなく*ふと​しのび出いでで​て、 越前えちぜん・加賀かが諸所しょしょを経回けいがいせしめ​をはり​ぬ。

^よつて当国とうごく細ほそ呂ろ宜ぎの郷ごうの内うち吉崎よしざきといふ​この在所ざいしょ、 すぐれ​て​おもしろき​あひだ、 年来ねんらい虎こ狼ろうの​すみなれ​し​この山さん中ちゅうを​ひきたひらげ​て、 *七月しちがつ二に十じゅう七日しちにちより​かたのごとく一いち宇うを建こん立りゅうして、 昨日きのう今日きょうと過すぎゆく​ほどに、 はや三年さんねんの春秋しゅんじゅうは送おくり​けり。

^さるほどに道俗どうぞく男女なんにょ群くん集じゅうせしむ​と​いへども、 *さらに​なにへんともなき体ていなる​あひだ、 *当年とうねんより諸人しょにんの出入しゅつにゅうを​とどむる​こころ​は、 この在所ざいしょに居きょ住じゅうせしむる*根元こんげんは​なにごと​ぞ​なれば、 そもそも人界にんがいの生しょうを​うけ​て​あひ​がたき仏法ぶっぽうに​すでに​あへ​る身みが、 *いたづらに​むなしく*捺な落らくに沈しずま​ん​は、 まことに​もつてあさましき​こと​には​あらず​や。

^しかるあひだ念仏ねんぶつの信心しんじんを決けつ定じょうして極楽ごくらくの往おう生じょうを​とげ​ん​と​おもは​ざらん人々ひとびとは、 なにしに​この在所ざいしょへ来らい集じゅうせん​こと、 かなふ​べから​ざる​よし​の*成敗せいばいを​くはへ​をはり​ぬ。 これ​ひとへに名みょう聞もん・利り養ようを本ほんと​せ​ず、 ただ後ご生しょう1096菩ぼ提だいを​こと​と​する​がゆゑなり。

^しかれば0082、 見聞けんもんの諸人しょにん、 *偏へん執じゅうを​なす​こと​なかれ。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい五ご年ねん九く月がつ 日にち

(9) 物忌章

 ▼そもそも、 *当とう宗しゅうを、 昔むかしより人ひとこぞりて*をかしく​きたなき宗しゅうと申もうす​なり。 これ​まことに道どう理りの​さす​ところ​なり。

そのゆゑは、 当とう流りゅう人数にんじゅの​なか​において、 あるいは*他た門もん・他た宗しゅうに対たいし​て​はばかり​なく​わが家いえの義ぎを申もうし​あらはせ​る​いはれ​なり。 これ​おほきなる​あやまり​なり。 それ、 当とう流りゅうの掟おきてを​まもる​といふは、 わが流りゅうに伝つたふる​ところの義ぎを​しかと内心ないしんに​たくはへ​て、 外げ相そうに​その​いろ​を​あらはさ​ぬ​を、 よく​もの​に​こころえ​たる人ひとと​は​いふ​なり。

しかるに当世とうせいは​わが宗しゅうの​こと​を、 他た門もん・他た宗しゅうに​むかひ​て、 その*斟しん酌しゃくも​なく*聊りょう爾じに沙汰さたする​によりて、 当とう流りゅうを人ひとの*あさま​に​おもふ​なり。 かやうに​こころえ​の​わろき​ひと​の​ある​によりて、 当とう流りゅうを​きたなく​いまはしき宗しゅうと人ひとおもへ​り。 さらに​もつて​これ​は他た人にんわろき​には​あらず、 自じ流りゅうの人ひとわろき​に​よる​なり​と​こころう​べし。

つぎに*物ぶっ忌きといふ​こと​は、 わが流りゅうには仏法ぶっぽうについて*もの​いま​は​ぬ​といへる​こと​なり。 他た宗しゅうにも*公く1097方ぼうにも対たいし​ては、 などか物ものを​いま​ざらん​や。 他た宗しゅう0083・他た門もんに​むかひ​ては​もとより​いむ​べき​こと勿論もちろんなり。 また​よそ​の人ひとの物ものいむ​と​いひ​て​そしる​こと​ある​べから​ず。

しかり​と​いへども、 仏法ぶっぽうを修しゅ行ぎょうせん​ひと​は、 念仏ねんぶつ者しゃに​かぎら​ず、 物もの*さのみ​いむ​べから​ず​と、 あきらかに諸しょ経きょうの文もんにも​あまた​みえ​たり。

まづ ¬*涅ね槃はん経ぎょう¼ (梵行品) に​のたまはく、 「如来にょらい法ほう中ちゅう無有むう選せん択じゃく吉日きちにち良りょう辰しん」 といへり。 この文もんの​こころ​は、 「如来にょらいの法ほうの​なか​に吉日きちにち良りょう辰しんを​えらぶ​こと​なし」 となり。

また ¬*般舟はんじゅ経きょう¼ に​のたまはく、 「▲優婆うば夷い聞もん↢是ぜ三昧さんまい↡欲よく↠学がく者しゃ 乃至 自じ帰き↢命みょう仏ぶつ↡帰き命みょう↢法ほう↡帰き命みょう↢比丘びく僧そう↡ 不ふ↠得とく↠事じ↢余よ道どう↡不ふ↠得とく↠拝はい↢於お天てん↡不ふ↠得とく↠祠し↢鬼き神じん↡不ふ↠得とく↠視し↢吉きち良りょう日にち↡」 以上 といへり。 この文もんの​こころ​は、 「優婆うば夷いこの三昧さんまいを聞きき​て学まなば​ん​と欲ほっせ​ん​もの​は、 みづから仏ぶつに帰き命みょうし、 法ほうに帰き命みょうせよ、 比丘びく僧そうに帰き命みょうせよ、 余よ道どうに事つかふる​こと​を得えざれ、 天てんを拝はいする​こと​を得えざれ、 鬼き神じんを祠まつる​こと​を得えざれ、 吉きち良りょう日にちを視みる​こと​を得えざれ」 といへり。

かくのごとく​の経きょう文もんども​これ​あり​と​いへども、 この*分ぶんを出いだす​なり。 ことに念仏ねんぶつ行ぎょう者じゃは​かれら​に事つかふ​べから​ざる​やう​に​みえ​たり。 よくよく​こころう​べし。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい五ご年ねん九く月がつ 日にち

(101098) 当0084山多屋内方章

 ▼そもそも、 吉崎よしざきの当山とうざんにおいて*多屋たやの坊ぼう主ず達たちの*内方ないほうと​なら​ん​ひと​は、 まことに先せん世ぜの宿しゅく縁えんあさから​ぬ​ゆゑ​と​おもひ​はんべる​べき​なり。 それ​も後ご生しょうを一いち大だい事じと​おもひ、 信心しんじんも決けつ定じょうし​たらん身みにとりて​の​うへ​の​こと​なり。 しかれば、 内方ないほうと​なら​ん​ひとびと​は、 *あひかまへて信心しんじんを​よくよく​とら​る​べし。

それ、 まづ当とう流りゅうの安心あんじんと申もうす​こと​は、 おほよそ*浄じょう土ど一いっ家けの​うち​において、 あひ​かはり​て​ことに​すぐれ​たる​いはれ​ある​がゆゑに、 他た力りきの大だい信心しんじんと申もうす​なり。 されば​この信心しんじんを​え​たる​ひと​は、 十じゅう人にんは十じゅう人にんながら百ひゃく人にんは百ひゃく人にんながら、 今こん度どの往おう生じょうは一いち定じょうなり​と​こころう​べき​ものなり。 その安心あんじんと申もうす​は、 いかやうに​こころう​べき​こと​やらん、 くはしく​も​しり​はんべら​ざる​なり。

 答こたへ​て​いはく、 まことに​この不ふ審しん肝要かんようの​こと​なり。 おほよそ当とう流りゅうの信心しんじんを​とる​べき​おもむき​は、 まづわが身みは女人にょにんなれば、 罪つみふかき五ご障しょう・三さん従しょうとて​あさましき身みにて、 すでに十方じっぽうの如来にょらいも三さん世ぜの諸仏しょぶつにも​すて​られ​たる女人にょにんなり​ける​を、 かたじけなく​も弥陀みだ如来にょらいひとり​かかる機きを​すくは​ん​と誓ちかひ​たまひ​て、 すでに四し十じゅう八はち願がんを​おこし​たまへ​り。 その​うち第だい十じゅう八はちの願がんにおいて、 一切いっさいの悪人あくにん・女人にょにんを0085たすけ​たまへ​る​うへ​に、 なほ女人にょにんは罪つみふかく疑うたがいの​こころ​ふかき​によりて1099、 また​かさねて第三だいさん十じゅう五ごの願がんに​なほ女人にょにんを​たすけ​ん​といへる願がんを​おこし​たまへ​る​なり。 かかる弥陀みだ如来にょらいの御ご苦く労ろうあり​つる御ご恩おんの​かたじけなさ​よ​と、 ふかく​おもふ​べき​なり。

 問とう​て​いはく、 さて​かやうに弥陀みだ如来にょらいの​われら​ごとき​の​もの​を​すくは​ん​と、 たびたび願がんを​おこし​たまへ​る​こと​の​ありがたさ​を*こころえわけ​まゐらせ候そうらひ​ぬる​について、 *なにとやうに機きを​もち​て、 弥陀みだを​たのみ​まゐらせ候そうらは​ん​ずる​やらん、 くはしく​しめし​たまふ​べき​なり。

 答こたへ​て​いはく、 信心しんじんを​とり弥陀みだを​たのま​ん​と​おもひ​たまは​ば、 まづ*人間にんげんは​ただ夢ゆめ幻まぼろしの​あひだ​の​こと​なり、 後ご生しょうこそ​まことに*永よう生しょうの楽らっ果かなり​と*おもひとり​て、 人間にんげんは五ご十じゅう年ねん百ひゃく年ねんの​うち​の​たのしみ​なり、 後ご生しょうこそ一いち大だい事じなり​と​おもひ​て、 もろもろ​の雑ぞう行ぎょうを​このむ​こころ​を​すて、 あるいは​また、 もの​の​いまはしく​おもふ​こころ​をも​すて、 *一心いっしん一向いっこうに弥陀みだを​たのみ​たてまつり​て、 その​ほか余よの仏ぶつ・菩ぼ薩さつ・諸神しょじん等とうにも​こころ​を​かけ​ず​して、 ただ​ひとすぢに弥陀みだに帰きし​て、 このたび​の往おう生じょうは治じ定じょうなる​べし​と​おもは​ば、 その​ありがたさ​のあまり念仏ねんぶつを申もうし​て0086、 弥陀みだ如来にょらいの​われら​を​たすけ​たまふ御ご恩おんを報ほうじ​たてまつる​べき​なり。

これ1100を信心しんじんを​え​たる多屋たやの坊ぼう主ず達たちの内方ないほうの​すがた​と​は申もうす​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい五ご年ねん九く月がつ十じゅう一日いちにち

(11) 電光朝露章

 ▼それ​おもんみれ​ば、 人間にんげんは​ただ*電光でんこう朝ちょう露ろの夢ゆめ幻まぼろしの​あひだ​の​たのしみ​ぞかし。 たとひ​また栄えい華が栄耀えいように​ふけり​て、 おもふさま​の​こと​なり​といふとも、 それ​は​ただ五ご十じゅう年ねん乃ない至し百ひゃく年ねんの​うち​の​こと​なり。 もし​ただいま​も無む常じょうの風かぜきたり​て​さそひ​なば、 いかなる病びょう苦くに​あひ​て​か​むなしく​なり​なん​や。 まことに死しせん​とき​は、 かねて*たのみ​おき​つる妻さい子しも財宝ざいほうも、 わが身みには​ひとつ​も​あひ​そふ​こと​ある​べから​ず。 されば死出しでの山やま路じの​すゑ、 三さん塗ずの大たい河がをば​ただ​ひとり​こそ​ゆき​なんずれ。

これ​によりて、 ただ​ふかく​ねがふ​べき​は後ご生しょうなり、 また​たのむ​べき​は弥陀みだ如来にょらいなり、 信心しんじん決けつ定じょうして​まゐる​べき​は安あん養にょうの浄じょう土どなり​と​おもふ​べき​なり。 これ​について​ちかごろ​は、 この方ほうの念仏ねんぶつ者しゃの坊ぼう主ず達たち、 仏法ぶっぽうの次し第だいもつてのほか相そう違いす。

そのゆゑ0087は、 *門もん徒との​かた​より​もの​を​とる​を​よき弟子でしといひ、 これ​を信心しんじんの​ひと​といへり。 これ​おほきなる​あやまり​なり。 また弟子でしは坊ぼう主ずに​もの​を​だに​も1101おほく​まゐらせ​ば、 わが​ちから​かなは​ず​とも、 坊ぼう主ずの​ちから​にて​たすかる​べき​やう​に​おもへ​り。 これ​も​あやまり​なり。 かくのごとく坊ぼう主ずと門もん徒との​あひだ​において、 さらに当とう流りゅうの信心しんじんの​こころえ​の分ぶんは​ひとつ​も​なし。 まことに​あさまし​や。 師し・弟子でしともに極楽ごくらくには往おう生じょうせず​して、 むなしく地じ獄ごくに​おち​ん​こと​は疑うたがいなし。 なげき​ても​なほ​あまり​あり、 かなしみ​ても​なほ​ふかく​かなしむ​べし。

しかれば、 今日こんにちより​のち​は、 他た力りきの大だい信心しんじんの次し第だいを​よく存ぞん知じし​たらん​ひと​に​あひ​たづね​て、 信心しんじん決けつ定じょうして、 その信心しんじんの​おもむき​を弟子でしにも​をしへ​て、 もろともに今こん度どの一いち大だい事じの往おう生じょうを​よくよく​とぐ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい五ご年ねん九く月がつ中旬ちゅうじゅん

(12) 年来超勝寺章

 ▼*そもそも、 年来ねんらい*超勝ちょうしょう寺じの門もん徒とにおいて、 仏法ぶっぽうの次し第だいもつてのほか相そう違いせ​り。

その​いはれ​は、 まづ*座ざ衆しゅとて​これ​あり。 いかにも​その*座ざ上じょうに​あがり​て、 さかづき​なんど​まで​も0088ひと​より​さき​に飲のみ、 座ざ中ちゅうのひと​にも​また​その​ほか​たれたれ​にも、 *いみじく​おもは​れ​んずる​が、 まことに仏法ぶっぽうの肝要かんようたる​やう​に心しん中ちゅうに​こころえ​おき​たり。 これ​さらに往おう生じょう極楽ごくらくの​ため​に​あらず、 ただ世せ間けんの名みょう聞もんに似に1102たり。

しかるに当とう流りゅうにおいて*毎月まいがつの会合かいごうの由ゆ来らいは​なに​の用ようぞ​なれば、 在ざい家け無智むちの身みをもつて、 いたづらに​くらし、 いたづらに​あかして、 *一いち期ごは​むなしく過すぎ​て、 つひに三さん途ずに沈しずま​ん身みが、 一月いちがつに一いち度どなり​とも、 せめて念仏ねんぶつ修しゅ行ぎょうの人数にんじゅばかり道どう場じょうに​あつまり​て、 わが信心しんじんは、 ひと​の信心しんじんは、 いかが​ある​らん​といふ信心しんじん沙汰ざたを​す​べき用ようの会合かいごうなる​を、 ちかごろ​は​その信心しんじんといふ​こと​は​かつて是非ぜひの沙汰さたに​およば​ざる​あひだ、 言ごん語ご道どう断だんあさましき次し第だいなり。

所詮しょせん*自じ今こん以後いごは、 かたく会合かいごうの座ざ中ちゅうにおいて信心しんじんの沙汰さたを​す​べき​ものなり。 これ真実しんじつの往おう生じょう極楽ごくらくを​とぐ​べき​いはれ​なる​がゆゑなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい五ご年ねん九く月がつ下げ旬じゅん

(13) 此方十劫邪義章

 ^▼*そもそも、 ちかごろ​は、 この方ほう念仏ねんぶつ者しゃの​なか​において、 *不ふ思議しぎの名みょう言ごんを​つかひ​て、 これ​こそ0089信心しんじんを​え​たる​すがた​よ​といひ​て、 しかも​われ​は当とう流りゅうの信心しんじんを​よく知しり顔がおの*体ていに心しん中ちゅうに​こころえ​おき​たり。

^その​ことば​に​いはく、 「*十劫じっこう正しょう覚がくの​はじめ​より、 われら​が往おう生じょうを定さだめ​たまへ​る弥陀みだの御ご恩おんを​わすれ​ぬ​が信心しんじんぞ」 といへり。 これ​おほきなる​あやまり​なり。 *そも弥陀みだ如来にょらいの正しょう覚がくを成なり1103たまへ​る​いはれ​を​しり​たり​といふとも、 われら​が往おう生じょうす​べき他た力りきの信心しんじんといふ​いはれ​を​しら​ずは、 いたづらごと​なり。

^しかれば、 *向きょう後こうにおいて​は、 まづ当とう流りゅうの真実しんじつ信心しんじんといふ​こと​を​よくよく存ぞん知じす​べき​なり。

その信心しんじんといふは、 ¬大だい経きょう¼ には三信さんしんと説とき、 ¬*観かん経ぎょう¼ には三心さんしんと​いひ、 ¬*阿あ弥陀みだ経きょう¼ には一心いっしんと​あらはせ​り。

^三さん経ぎょうともに​その名なかはり​たり​と​いへども、 その​こころ​は​ただ他た力りきの一心いっしんを​あらはせ​る​こころ​なり。

^されば信心しんじんといへる​その​すがた​は​いかやうなる​こと​ぞ​といへ​ば、 まづ​もろもろ​の雑ぞう行ぎょうを​さしおき​て、 一向いっこうに弥陀みだ如来にょらいを​たのみ​たてまつり​て、 *自余じよの一切いっさいの諸神しょじん・諸仏しょぶつ等とうにも​こころ​を​かけ​ず、 一心いっしんに​もつぱら弥陀みだに帰き命みょうせば、 如来にょらいは光こう明みょうをもつて​その身みを摂取せっしゅして捨すて​たまふ​べから​ず。 これ​すなはち​われら​が一念いちねんの信心しんじん決けつ定じょうし​たる​すがた​なり。

^かくのごとく​こころえ​て​の​のち​は、 弥陀みだ如来にょらいの他た力りきの信心しんじんを​われら​に​あたへ​たまへ​る御ご恩おんを報ほうじ​たてまつる念仏ねんぶつなり​と​こころう​べし。

^これ​をもつて信心しんじん決けつ0090定じょうし​たる念仏ねんぶつの行ぎょう者じゃと​は申もうす​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい第だい五ご、 九く月がつ下げ旬じゅんの​ころ​これ​を書かく云々うんぬん。

(14)1104 誡誹謗章

 ▼そもそも、 当とう流りゅう念仏ねんぶつ者しゃの​なか​において、 *諸法しょほうを*誹ひ謗ほうす​べから​ず。 まづ越えっ中ちゅう・加賀かがならば、 *立山たてやま・*白山しらやまその​ほか諸しょ山寺やまでらなり。 越前えちぜんならば、 *平泉へいせん寺じ・*豊原とよはら寺じ等とうなり。

されば ¬経きょう¼ (大経) にも、 すでに 「▲唯ゆい除じょ五ご逆ぎゃく誹ひ謗ほう正しょう法ぼう」 と​こそ​これ​を​いましめ​られ​たり。 これ​によりて、 念仏ねんぶつ者しゃは​ことに諸しょ宗しゅうを謗ほうず​べから​ざる​ものなり。

また聖しょう道どう諸しょ宗しゅうの学者がくしゃ達たちも、 あながちに念仏ねんぶつ者しゃをば謗ほうず​べから​ず​と​みえ​たり。 その​いはれ​は、 経きょう釈しゃくともに​その文もんこれ​おほし​と​いへども、 まづ*八はっ宗しゅうの祖師そし龍りゅう樹じゅ菩ぼ薩さつの ¬智ち論ろん¼ (*大智度論) に​ふかく​これ​を​いましめ​られ​たり。 その文もんに​いはく、 「*自じ法ほう愛染あいぜん故こ 毀呰きし他た人にん法ぼう 雖すい持じ戒かい行ぎょう人にん 不ふ免めん地じ獄ごく苦く」 といへり。

かくのごとく​の論判ろんぱん分ぶん明みょうなる​とき​は、 いづれ​も仏説ぶっせつなり。 あやまりて謗ほうずる​こと​なかれ。 それ、 みな一いっ宗しゅう一いっ宗しゅうの​こと​なれば、 わが​たのま​ぬ​ばかり​にて​こそ​ある​べけれ。 ことさら当とう流りゅうの​なか​において、 なに​の分別ふんべつも​なき​もの、 他た宗しゅうを​そしる​こと*勿体もったいなき次し第だいなり。 あひかまへて​あひかまへて、 *一いっ0091所しょの坊ぼう主ず分ぶんたる​ひと​は、 この成敗せいばいを​かたく​いたす​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい五ご年ねん九く月がつ下げ旬じゅん

(15)1105 宗名章

 ▼問とう​て​いはく、 当とう流りゅうを​みな世せ間けんに流布るふして、 一向いっこう宗しゅうと​なづけ候そうろふ​は、 いかやうなる子し細さいにて候そうろふ​やらん、 不ふ審しんに​おぼえ候そうろふ。

 答こたへ​て​いはく、 あながちに​わが流りゅうを一向いっこう宗しゅうと​なのる​こと​は、 *別べっして祖師そし (親鸞) も定さだめ​られ​ず。 おほよそ阿あ弥陀みだ仏ぶつを一向いっこうに​たのむ​に​より​て、 みな人ひとの申もうし​なす​ゆゑ​なり。 しかり​と​いへども、 経きょう文もん (大経・下) に 「▲一向いっこう専念せんねん無む量りょう寿じゅ仏ぶつ」 と説とき​たまふ​ゆゑに、 一向いっこうに無む量りょう寿じゅ仏ぶつを念ねんぜよ​といへる​こころ​なる​とき​は、 一向いっこう宗しゅうと申もうし​たる​も子し細さいなし。

さりながら*開山かいさん (親鸞) は​この宗しゅうをば浄じょう土ど真しん宗しゅうと​こそ定さだめ​たまへ​り。 されば一向いっこう宗しゅうといふ名みょう言ごんは、 さらに本ほん宗しゅうより申もうさ​ぬ​なり​と​しる​べし。 されば*自余じよの浄じょう土ど宗しゅうは​もろもろ​の雑ぞう行ぎょうを​ゆるす。 わが聖しょう人にん (親鸞) は雑ぞう行ぎょうを​えらび​たまふ。 この​ゆゑに真実しんじつ報ほう土どの往おう生じょうを​とぐる​なり。 この​いはれ​ある​がゆゑに、 別べっして真しんの字じを入いれ​たまふ​なり。

 また​のたまはく、 当とう宗しゅうを​すでに浄じょう土ど真しん宗しゅうと​なづけ​られ候そうろふ​こと​は分ぶん明みょうに​きこえ​ぬ。 しかるに​この*宗しゅう体ていにて、 在ざい家けの罪つみふかき*悪あく逆ぎゃくの機きなり​といふとも、 弥陀みだの願力がんりきに​すがり​て​たやすく極楽ごくらくに往おう生じょうす​べき​やう、 くはしく承うけたまわり​はんべら​ん​と​おもふ0092なり。

 1106答こたへ​て​いはく、 当とう流りゅうの​おもむき​は、 信心しんじん決けつ定じょうし​ぬれ​ば​かならず真実しんじつ報ほう土どの往おう生じょうを​とぐ​べき​なり。 されば​その信心しんじんといふは​いかやうなる​こと​ぞ​といへ​ば、 なに​の*わづらひ​も​なく、 弥陀みだ如来にょらいを一心いっしんに​たのみ​たてまつり​て、 その余よの仏ぶつ・菩ぼ薩さつ等とうにも​こころ​を​かけ​ず​して、 一向いっこうに​ふたごころなく弥陀みだを信しんずる​ばかり​なり。 これ​をもつて信心しんじん決けつ定じょうと​は申もうす​ものなり。

信心しんじんといへる二字にじをば、 まこと​の​こころ​と​よめ​る​なり。 まこと​の​こころ​といふは、 行ぎょう者じゃの​わろき自じ力りきの​こころ​にて​は​たすから​ず、 如来にょらいの他た力りきの​よき​こころ​にて​たすかる​がゆゑに、 まこと​の​こころ​と​は申もうす​なり。

また名みょう号ごうをもつて​なに​の​こころえ​も​なく​して、 ただ​となへ​ては​たすから​ざる​なり。 されば ¬経きょう¼ (大経・下) には、 「▲聞もん其ご名みょう号ごう 信心しんじん歓かん喜ぎ」 と説とけ​り。 「その名みょう号ごうを聞きく」 といへる​は、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六ろく字じの名みょう号ごうを*無む名みょう無む実じつに​きく​に​あらず。 善ぜん知ぢ識しきに​あひ​て0093その​をしへ​を​うけ​て、 この南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの名みょう号ごうを南無なもと​たのめ​ば、 かならず阿あ弥陀みだ仏ぶつの​たすけ​たまふ​といふ道どう理りなり。 これ​を ¬経きょう¼ に 「信心しんじん歓かん喜ぎ」 と説とか​れ​たり。 これ​によりて、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの体たいは、 われら​を​たすけ​たまへ​る​すがた​ぞ​と​こころう​べき​なり。

かやうに​こころえ​て​のち​は、 行住ぎょうじゅう坐臥ざがに口くちに​となふる称名しょうみょうをば、 ただ弥陀みだ如にょ来らい1107の​たすけ​まします御ご恩おんを報ほうじ​たてまつる念仏ねんぶつぞ​と​こころう​べし。 これ​をもつて信心しんじん決けつ定じょうして極楽ごくらくに往おう生じょうする他た力りきの念仏ねんぶつの行ぎょう者じゃと​は申もうす​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい第だい五ご、 九く月がつ下げ旬じゅん第だい二に日にち*巳みの剋こくに至いたり​て加か州しゅう山やま中なか湯とう治じの内うちに​これ​を書かき集あつめ​をはり​ぬ。

釈しゃく*証しょう如にょ(花押)

 

○ 二 帖

(1)0094 御さらへ章

 ▼そもそも、 今こん度ど*一いち七しち箇か日にち報恩ほうおん講こうの​あひだ​において、 多屋たや内方ないほうも​その​ほか​の人ひとも、 大たい略りゃく信心しんじんを決けつ定じょうし​たまへ​る​よし​きこえ​たり。 *めでたく本望ほんもうこれ​に​すぐ​べから​ず。

さりながら、 その​まま​うちすて候そうらへ​ば、 信心しんじんも​うせ候そうろふ​べし。 *細々さいさいに信心しんじんの溝みぞを​さらへ​て、 弥陀みだの法水ほうすいを流ながせ​といへる​こと​ありげ​に候そうろふ。

それ​について、 女人にょにんの身みは十方じっぽう三さん世ぜの*諸仏しょぶつにも​すて​られ​たる身みにて候そうろふ​を、 阿あ弥陀みだ如にょ来らい1108なれば​こそ、 かたじけなく​も​たすけ​ましまし候そうらへ。

そのゆゑは、 女人にょにんの身みは​いかに真実しんじつ心しんに​なり​たり​といふとも、 疑うたがいの心こころは​ふかく​して、 また物ものなんど​の​いまはしく​おもふ心こころは​さらに失うせがたく​おぼえ候そうろふ。 ことに在ざい家けの身みは、 *世せい路ろに​つけ、 また子し孫そんなんど​の​こと​に*よそへ​ても、 ただ今こん生じょうに​のみ​ふけり​て、 これ​ほど​に、 はや目めに​みえ​て*あだなる人間にんげん界かいの*老ろう少しょう不ふ定じょうの​さかひ​と​しり​ながら、 ただいま三さん途ず・八難はちなんに沈しずま​ん​こと​をば、 露つゆちり​ほど​も心こころに​かけ​ず​して、 いたづらに​あかしくらす​は、 これ​つね​の人ひとの​ならひ​なり。 あさまし​といふ​も*おろかなり。

これ​によりて、 一心いっしん一向いっこうに弥陀みだ一仏いちぶつの悲ひ願がんに帰きし​て、 ふかく​たのみ​たてまつり​て、 もろもろの雑ぞう行ぎょうを修しゅする心こころを​すて、 また諸神しょじん・諸仏しょぶつに追つい従しょう申もうす心こころをも​みな​うちすて​て、 さて弥陀みだ如来にょらいと申もうす​は、 かかる​われら​ごとき​の​あさ0095ましき女人にょにんの​ため​に​おこし​たまへ​る本願ほんがんなれば、 まことに仏ぶっ智ちの不ふ思議しぎと信しんじ​て、 わが身みは​わろき​いたづらもの​なり​と​おもひつめ​て、 ふかく如来にょらいに*帰き入にゅうする心こころを​もつ​べし。

さて​この信しんずる心こころも念ねんずる心こころも、 弥陀みだ如来にょらいの御ご方便ほうべんより​おこさ​しむる​ものなり​と​おもふ​べし。 かやうに​こころうる​を、 すなはち他た力りきの信心しんじんを​え​たる人ひとと​は​いふなり。 また​この位くらいを、 あるいは正定しょうじょう聚じゅに住じゅうす​とも、 滅めつ度どに至いたる​とも1109、 等とう正しょう覚がくに至いたる​とも、 弥み勒ろくに​ひとし​とも申もうす​なり。 また​これ​を一念いちねん発ぽっ起きの往おう生じょう定さだまり​たる人ひととも申もうす​なり。

かくのごとく​こころえ​て​の​うへ​の称名しょうみょう念仏ねんぶつは、 弥陀みだ如来にょらいの​われら​が往おう生じょうを​やすく定さだめ​たまへ​る、 その御おんうれしさ​の御ご恩おんを報ほうじ​たてまつる念仏ねんぶつなり​と​こころう​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

 これ​について、 まづ当とう流りゅうの掟おきてを​よくよく​まもら​せたまふ​べし。 その​いはれ​は、 あひかまへて​いま​の​ごとく信心しんじんの​とほり​を​こころえ​たまは​ば、 身しん中ちゅうに​ふかく​をさめおき​て、 他た宗しゅう・他た人にんに対たいし​て​その​ふるまひ​を​みせ​ず​して、 また信心しんじんの​やう​をも​かたる​べから​ず。 一切いっさいの諸神しょじんなんど​をも​わが信しんぜ​ぬ​まで​なり、 *おろかに​す​べから​ず。

かくのごとく信心しんじんの​かた​も​その​ふるまひ​も​よき人ひとをば、 聖しょう人にん (親鸞) も 「よく​こころえ​たる信心しんじんの行ぎょう者じゃなり」 と仰おおせ​られ​たり。 ただ​ふかく​こころ​をば仏法ぶっぽうに​とどむ​べき0096なり。

あなかしこ、 あなかしこ。

 *文明ぶんめい第だい五ご、 十じゅう二に月がつ八よう日かのひこれを書かきて*当山とうざんの多屋たや内方ないほうへ​まゐらせ候そうろふ。 この​ほか​なほなほ不ふ審しんの​こと候そうらは​ば、 かさねて問とは​せたまふ​べく候そうろふ。

*所送しょそう寒暑かんしょ *五ご十じゅう九く歳さい *御判

  ▼のち​の代よの​しるし​の​ため​に​かきおき​し *のり​の​ことの葉はかたみ​とも​なれ

(2)1110 出立章

 ▼そもそも、 開山かいさん聖しょう人にん (親鸞) の御ご一いち流りゅうには、 それ信心しんじんといふ​こと​をもつて先さきと​せ​られ​たり。

その信心しんじんといふは​なに​の用ようぞ​といふ​に、 *無む善ぜん造悪ぞうあくの​われら​が​やう​なる​あさましき凡ぼん夫ぶが、 たやすく弥陀みだの浄じょう土どへ​まゐり​なんずる​ため​の出で立たちなり。 この信心しんじんを獲ぎゃく得とくせずは極楽ごくらくには往おう生じょうせず​して、 無む間けん地じ獄ごくに堕だ在ざいす​べき​ものなり。

これ​によりて、 その信心しんじんを​とら​んずる​やう​は​いかん​といふ​に、 それ弥陀みだ如来にょらい一仏いちぶつを​ふかく​たのみ​たてまつり​て、 自余じよの諸善しょぜん万まん行ぎょうに​こころ​を​かけ​ず、 また諸神しょじん・諸しょ菩ぼ薩さつにおいて、 *今こん生じょうのいのり​を​のみ​なせる​こころ​を失うしなひ、 また​わろき自じ力りきなんど​いふ*ひがおもひ​をも​なげすて0097て、 弥陀みだを一心いっしん一向いっこうに信しん楽ぎょうして​ふたごころ​の​なき人ひとを、 弥陀みだは​かならず*遍へん照じょうの光こう明みょうをもつて、 その人ひとを摂取せっしゅして捨すて​たまは​ざる​ものなり。

かやうに信しんを​とる​うへには、 ね​ても​おき​ても​つね​に申もうす念仏ねんぶつは、 かの弥陀みだの​われら​を​たすけ​たまふ御ご恩おんを報ほうじ​たてまつる念仏ねんぶつなり​と​こころう​べし。 かやう​に​こころえ​たる人ひとを​こそ、 まことに当とう流りゅうの信心しんじんを​よく​とり​たる正しょう義ぎと​は​いふ​べき​ものなり。 この​ほか​に​なほ信心しんじんといふ​こと​の​あり​といふ人ひとこれ​あらば、 おほきなる​あやまり​なり。 すべて*承しょう引いんす​べから​ざる​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

 1111いま​この文ふみに​しるす​ところの​おもむき​は、 当とう流りゅうの親鸞しんらん聖しょう人にんすすめ​たまへ​る信心しんじんの正しょう義ぎなり。 この分ぶんを​よくよく​こころえ​たらん人々ひとびとは、 あひかまへて他た宗しゅう・他た人にんに対たいし​て​この信心しんじんの​やう​を沙汰さたす​べから​ず。 また自余じよの一切いっさいの仏ぶつ・菩ぼ薩さつならびに諸神しょじん等とうをも​わが信しんぜ​ぬ​ばかり​なり。 あながちに​これ​を​かろしむ​べから​ず。 これ​まことに弥陀みだ一仏いちぶつの功く徳どくの​うち​に、 みな一切いっさいの諸神しょじんは​こもれ​り​と​おもふ​べき​ものなり。 総そうじて一切いっさいの*諸法しょほうにおいて​そしり​を​なす​べから​ず。 これ​をもつて当とう流りゅうの掟おきてを​よく​まもれ​る人ひとと​なづく​べし。

されば聖しょう人にんの​いはく、 「▲たとひ牛うし盗人ぬすびとと​は​いは​る​とも、 もしは後世ごせ者しゃ、 もしは善人ぜんにん、 もしは仏法ぶっぽう者しゃと​みゆる​やう0098に​ふるまふ​べから​ず」 (*改邪鈔) と​こそ仰おおせ​られ​たり。 この​むね​を​よくよく​こころえ​て念仏ねんぶつをば修しゅ行ぎょうす​べき​ものなり。

*文明ぶんめい第だい五ご、 十じゅう二に月がつ十じゅう二に日にちの夜よこれ​を書かく。

(3) 神明三ヶ条章

 ▼それ、 当とう流りゅう開山かいさん聖しょう人にん (親鸞) の​ひろめ​たまふ​ところの一いち流りゅうの​なか​において、 みな勧かん化けを​いたす​に​その不ふ同どうこれ​ある​あひだ、 所詮しょせん向きょう後こうは、 当山とうざん多屋たや坊ぼう主ず以下いげその​ほか一巻いっかんの聖教しょうぎょうを読よま​ん人ひとも、 また来らい集じゅうの面々めんめんも、 各々かくかくに当とう門もん下か1112に*その名なを​かけ​ん​ともがら​まで​も、 この三さん箇か条じょうの*篇目へんもくをもつて​これ​を存ぞん知じせしめ​て、 自じ今こん以後いご、 その*成敗せいばいを​いたす​べき​ものなり。

 一 諸法しょほう・諸しょ宗しゅうともに​これ​を誹ひ謗ほうす​べから​ず。

 一 諸神しょじん・諸仏しょぶつ・菩ぼ薩さつを​かろしむ​べから​ず。

 一 信心しんじんを​とら​しめ​て報ほう土ど往おう生じょうを​とぐ​べき事こと。

 右みぎこの三さん箇か条じょうの旨むねを​まもり​て、 ふかく心底しんていに​たくはへ​て、 これ​をもつて本ほんと​せ​ざら​ん人々ひとびとにおいて​は、 この当山とうざんへ出入しゅつにゅうを停ちょう止じす​べき​ものなり。

そもそも、 さんぬる*文ぶん0099明めい第三だいさんの暦れき、 *仲ちゅう夏かの​ころ​より*花か洛らくを出いで​て、 おなじき年とし七月しちがつ下げ旬じゅんの候こう、 すでに​この当山とうざんの風ふう波はあらき在所ざいしょに草庵そうあんを​しめ​て、 この四箇しか年ねんの​あひだ居きょ住じゅうせしむる根元こんげんは、 別べつの子し細さいに​あらず。 この三さん箇か条じょうの​すがた​をもつて、 かの北国ほっこく中ちゅうにおいて、 当とう流りゅうの信心しんじん未み決けつ定じょうの​ひと​を、 おなじく*一いち味みの安心あんじんに​なさ​んがため​の​ゆゑ​に、 今日こんにち今こん時じまで*堪忍かんにんせしむる​ところ​なり。 よつて​この​おもむき​をもつて​これ​を信用しんようせ​ば、 まことに​この年月としつきの在国ざいこくの本ほん意いたる​べき​ものなり。

 一 *神明しんめいと申もうす​は、 それ仏法ぶっぽうにおいて信しんも​なき衆しゅ生じょうの​むなしく地じ獄ごくに​おち​ん​こと​を​かなしみ​おぼしめし​て、 これ​を​なにと​して​も​すくは​ん​が​ため​に、 仮かりに神かみ1113と​あらはれ​て、 いささかなる縁えんをもつて、 それ​を​たより​として、 つひに仏法ぶっぽうに​すすめ入いれ​しめ​ん​ため​の方便ほうべんに、 神かみと​は​あらはれ​たまふ​なり。

しかれば、 今いまの時ときの衆しゅ生じょうにおいて、 弥陀みだを​たのみ信心しんじん決けつ定じょうして念仏ねんぶつを申もうし、 極楽ごくらくに往おう生じょうす​べき身みと​なり​なば、 一切いっさいの神明しんめいは、 かへりて​わが本懐ほんがいと​おぼしめし​て​よろこび​たまひ​て、 念仏ねんぶつの行ぎょう者じゃを守しゅ護ごし​たまふ​べき​あひだ、 *とりわき神かみを​あがめ​ね​ども、 ただ弥陀みだ一仏いちぶつを​たのむ​うち​に​みな​こもれ​る​がゆゑに、 別べっして​たのま​ざれ​ども信しんずる​いはれ​の​ある​がゆゑなり。

 0100一 当とう流りゅうの​なか​において、 諸法しょほう・諸しょ宗しゅうを誹ひ謗ほうする​こと​しかるべから​ず。 いづれ​も釈しゃ迦か一代いちだいの説せっ教きょうなれば、 *如説にょせつに修しゅ行ぎょうせば​その益やくある​べし。 さりながら末代まつだいわれら​ごとき​の*在ざい家け止し住じゅうの身みは、 聖しょう道どう諸しょ宗しゅうの教きょうに​およば​ねば、 それ​を​わが​たのま​ず、 信しんぜ​ぬ​ばかり​なり。

 一 諸仏しょぶつ・菩ぼ薩さつと申もうす​こと​は、 それ弥陀みだ如来にょらいの分身ぶんしんなれば、 十方じっぽう諸仏しょぶつのために​は*本ほん師し*本仏ほんぶつなる​がゆゑに、 阿あ弥陀みだ一仏いちぶつに帰きし​たてまつれ​ば、 すなはち諸仏しょぶつ・菩ぼ薩さつに帰きする​いはれ​ある​がゆゑに、 阿あ弥陀みだ一体いったいの​うち​に諸仏しょぶつ・菩ぼ薩さつは​みな​ことごとく​こもれ​る​なり。

 1114一 開山かいさん親鸞しんらん聖しょう人にんの​すすめ​まします​ところの弥陀みだ如来にょらいの他た力りき真実しんじつ信心しんじんといふは、 もろもろ​の雑ぞう行ぎょうを​すて​て専修せんじゅ専念せんねん・一向いっこう一心いっしんに弥陀みだに帰き命みょうする​をもつて、 本願ほんがんを信しん楽ぎょうする*体たいと​す。 されば*先達せんだつより承うけたまわり​つたへ​し​が​ごとく、 弥陀みだ如来にょらいの真実しんじつ信心しんじんをば、 いくたび​も他た力りきより​さづけ​らるる​ところの仏ぶっ智ちの不ふ思議しぎなり​と​こころえ​て、 一念いちねんをもつて​は往おう生じょう治じ定じょうの*時じ剋こくと定さだめ​て、 その​とき​の命いのちのぶれ​ば自じ然ねんと*多た念ねんに​およぶ道どう理りなり。

これ​によりて、 平生へいぜいの​とき一念いちねん往おう生じょう治じ定じょうの​うへ​の仏恩ぶっとん報尽ほうじんの多た念ねんの称名しょうみょうと*ならふ​ところ​なり。 しかれば、 祖師そし聖しょう人にん (親鸞) 御ご相伝そうでん一いち流りゅうの肝要かんようは、 ただ0101この信心しんじんひとつ​に​かぎれ​り。 これ​を​しら​ざる​をもつて*他た門もんと​し、 これ​を​しれ​る​をもつて真しん宗しゅうの​しるし​と​す。 その​ほか​かならずしも外げ相そうにおいて当とう流りゅう念仏ねんぶつ者しゃの​すがた​を他た人にんに対たいし​て​あらはす​べから​ず。 これ​をもつて真しん宗しゅうの信心しんじんを​え​たる行ぎょう者じゃの​ふるまひ​の*正しょう本ほんと​なづく​べき​ところ*件くだんの​ごとし。

*文明ぶんめい六年ろくねん甲きのえ午うま正しょう月がつ十じゅう一日いちにちこれ​を書かく。

(4) 横截五悪趣章

 ^▼それ、 弥陀みだ如来にょらいの*超ちょう世せの本願ほんがんと申もうす​は、 末代まつだい濁じょく世せの造悪ぞうあく不ふ善ぜんの​われら​ごとき1115の凡ぼん夫ぶの​ため​に​おこし​たまへ​る無む上じょうの誓願せいがんなる​がゆゑなり。

^しかれば、 これ​を​なにとやうに心こころをも​もち、 なにとやうに弥陀みだを信しんじ​て、 かの浄じょう土どへ​は往おう生じょうす​べき​やらん、 さらに​その分別ふんべつなし。 くはしく​これ​を​をしへ​たまふ​べし。

 ^答こたへ​て​いはく、 末代まつだい今いまの時ときの衆しゅ生じょうは、 ただ一ひとすぢ​に弥陀みだ如来にょらいを​たのみ​たてまつり​て、 余よの仏ぶつ・菩ぼ薩さつ等とうをも​ならべ​て信しんぜ​ね​ども、 一心いっしん一向いっこうに弥陀みだ一仏いちぶつに帰き命みょうする衆しゅ生じょうをば、 いかに罪つみふかく​とも仏ぶつの*大だい慈じ大だい悲ひをもつて​すくは​ん​と誓ちかひ​たまひ​て、 大だい光こう明みょうを放はなち​て、 その光こう明みょうの​うち​に摂おさめ取とり​まします​ゆゑに、 この​こころ​を ¬経きょう¼ (*観経) には0102、 「▲光こう明みょう遍へん照じょう 十方じっぽう世せ界かい 念仏ねんぶつ衆しゅ生じょう 摂取せっしゅ不ふ捨しゃ」 と説とき​たまへ​り。

^されば五ご道どう・六道ろくどうといへる悪趣あくしゅに​すでに​おもむく​べき​みち​を、 弥陀みだ如来にょらいの願力がんりきの不ふ思議しぎとして​これ​を​ふさぎ​たまふ​なり。

^この​いはれ​を​また ¬経きょう¼ (*大経・下) には、 「▲横截おうぜつ五ご悪趣あくしゅ悪趣あくしゅ自じ然ねん閉ぺい」 と説とか​れ​たり。

^かるがゆゑに、 如来にょらいの誓願せいがんを信しんじ​て一念いちねんの疑ぎ心しんなき​とき​は、 いかに地じ獄ごくへ​おち​ん​と​おもふ​とも、 弥陀みだ如来にょらいの摂取せっしゅの光こう明みょうに摂おさめ取とら​れ​まゐらせ​たらん身みは、 わが​はからひ​にて地じ獄ごくへ​も​おち​ず​して極楽ごくらくに​まゐる​べき身みなる​がゆゑなり。

^かやう​の道どう理りなる​とき​は、 *昼ちゅう夜や朝ちょう暮ぼは、 如来にょらい大だい悲ひの御ご恩おんを*雨山あめやまに​かうぶり​たる​われら​なれば1116、 ただ口くちに​つね​に称名しょうみょうを​となへ​て、 かの仏恩ぶっとんを報謝ほうしゃの​ため​に念仏ねんぶつを申もうす​べき​ばかり​なり。

^これ​すなはち真実しんじつ信心しんじんを​え​たる​すがた​といへる​は​これ​なり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

**文明ぶんめい六ろく、 二に月がつ十じゅう五ご日にちのひの夜よ、 大だい聖しょう世せ尊そん (釈尊) *入にゅう滅めつの昔むかしを​おもひ​いで​て、 灯ともしびの下もとにおいて老眼ろうがんを拭のごひ筆ふでを染そめ​をはり​ぬ。

満六十 御判

(5)0103 珠数章

 ^▼そもそも、 この三さん四し年ねんの​あひだ​において、 当山とうざんの念仏ねんぶつ者しゃの*風ふ情ぜいを​み​およぶ​に、 まことに​もつて他た力りきの安心あんじん決けつ定じょうせしめ​たる分ぶんなし。

^そのゆゑは、 *珠じゅ数ずの一連いちれんをも​もつ​ひと​なし。 さるほどに仏ほとけをば手てづかみ​に​こそ​せ​られ​たり。 聖しょう人にん (親鸞)、 まつたく 「珠じゅ数ずを​すて​て仏ぶつを拝おがめ」 と仰おおせ​られ​たる​こと​なし。 さりながら珠じゅ数ずを​もた​ず​とも、 往おう生じょう浄じょう土どのために​は​ただ他た力りきの信心しんじん一ひとつ​ばかり​なり。 それ​には​さはり​ある​べから​ず。

^まづ大だい坊ぼう主ず分ぶんたる人ひとは、 袈裟けさをも​かけ、 珠じゅ数ずを​もち​ても子し細さいなし。 これ​によりて真実しんじつ信心しんじんを獲ぎゃく得とくし​たる人ひとは、 かならず口くちにも出だし、 また*色いろにも​その​すがた​は​みゆる​なり。 しかれば、 *当とう時じは​さらに真実しんじつ信心しんじんを*うつくしく1117え​たる人ひと、 いたりて​まれなり​と​おぼゆる​なり。

^それ​は​いかん​ぞ​なれば、 弥陀みだ如来にょらいの本願ほんがんの​われら​が​ため​に相応そうおうし​たる​たふとさ​の​ほど​も、 身みには​おぼえ​ざる​がゆゑに、 いつ​も信心しんじんの​ひととほり​をば、 われ​こころえ顔がおの​よし​にて、 なにごと​を聴ちょう聞もんする​にも、 その​こと​と​ばかり​おもひ​て、 耳みみへ​も​しかしかと​も​いら​ず、 ただ人ひとまね​ばかり​の*体ていたらく​なり​と​みえ​たり。

^この分ぶんにて​は、 自じ身しんの往おう生じょう極楽ごくらくも​いま​は​いかが​と​あやふく​おぼゆる​なり。 いはんや門もん徒と・同朋どうぼうを勧かん化けの儀ぎも、 なかなか​これ​ある​べから​ず。 かくのごとき​の心しん中ちゅうにて​は0104今こん度どの報ほう土ど往おう生じょうも不可ふかなり。

^*あらあら*勝しょう事しや。 ただ​ふかく​こころ​を​しづめ​て思し案あんある​べし。 まことに​もつて人間にんげんは出いづる息いきは入いる​を​また​ぬ​ならひ​なり。 あひかまへて油ゆ断だんなく仏法ぶっぽうを​こころ​に​いれ​て、 信心しんじん決けつ定じょうす​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六ろく、 二に月がつ十じゅう六日ろくにち早そう朝ちょうに​にはかに筆ふでを染そめ​をはり​ぬ​のみ。

(6) 掟章

 ▼そもそも、 当とう流りゅうの他た力りき信心しんじんの​おもむき​を​よく聴ちょう聞もんして、 決けつ定じょうせしむる​ひと​これ​あらば、 その信心しんじんの​とほり​をもつて心底しんていに​をさめ​おき​て、 他た宗しゅう・他た人にんに対たいして沙汰さたす​べから​ず。 また▼*路次ろし・大道だいどうわれわれ​の在所ざいしょなんど​にて​も、 あらはに人ひと1118をも​はばから​ず​これ​を*讃嘆さんだんす​べから​ず。

つぎ​には*守しゅ護ご・*地じ頭とう方ほうに​むき​ても、 われ​は信心しんじんを​え​たり​といひて疎そ略りゃくの儀ぎなく、 いよいよ*公事くじを​まつたくす​べし。 また諸神しょじん・諸仏しょぶつ・菩ぼ薩さつをも​おろそかに​す​べから​ず。 これ​みな南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六ろく字じの​うち​に​こもれ​る​がゆゑなり。 ことに​ほか​には*王法おうぼうをもつて​おもて​と​し、 内心ないしんには他た力りきの信心しんじんを​ふかく​たくはへ​て、 世せ間けんの*仁じん義ぎをもつて本ほんと​す​べし。

これ​すなはち当とう流りゅうに定さだむる​ところの掟おきての​おも0105むき​なり​と​こころう​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねん二に月がつ十じゅう七日しちにちこれを書かく。

(7) 易往無人章

 ^▼しづかに​おもんみれ​ば、 それ人間にんげん界かいの生しょうを受うくる​こと​は、 まことに五ご戒かいを​たもて​る*功く力りきに​より​て​なり。 これ​おほきに​まれなる​こと​ぞかし。 ただし人界にんがいの生しょうは​わづかに*一旦いったんの*浮ふ生しょうなり、 後ご生しょうは永よう生しょうの楽らっ果かなり。

^たとひ​また栄えい華がに​ほこり栄耀えいように​あまる​といふとも、 *盛じょう者しゃ必衰ひっすい会え者しゃ定じょう離りの​ならひ​なれば、 ひさしく​たもつ​べき​に​あらず。 ただ五ご十じゅう年ねん百ひゃく年ねんの​あひだ​の​こと​なり。 それ​も老ろう少しょう不ふ定じょうと​きく​とき​は、 まことに​もつて​たのみ​すくなし。

^これ​によりて、 今いまの時ときの衆しゅ生じょうは1119、 他た力りきの信心しんじんを​え​て浄じょう土どの往おう生じょうを​とげ​ん​と​おもふ​べき​なり。

^そもそも、 その信心しんじんを​とら​んずる​には、 さらに智慧ちえも​いら​ず、 *才学さいかくも​いら​ず、 富貴ふきも貧びん窮ぐも​いら​ず、 善人ぜんにんも悪人あくにんも​いら​ず、 男なん子しも女人にょにんも​いら​ず、 ただ​もろもろ​の雑ぞう行ぎょうを​すて​て正行しょうぎょうに帰きする​をもつて本ほん意いと​す。

^その正行しょうぎょうに帰きする​といふは、 なにのやうも​なく弥陀みだ如来にょらいを一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつる理ことわりばかり​なり。

^かやうに信しんずる衆しゅ生じょうを​あまねく光こう明みょうの​なか​に摂取せっしゅして0106捨すて​たまは​ず​して、 *一いち期ごの命いのち尽つき​ぬれ​ば​かならず浄じょう土どに​おくり​たまふ​なり。

^この一念いちねんの安心あんじん一つ​にて浄じょう土どに往おう生じょうする​こと​の、 あら、 やう​も​いら​ぬ​とりやす​の安心あんじんや。 されば安心あんじんといふ二字にじをば、 「やすき​こころ」 と​よめ​る​は​この​こころ​なり。

^さらに​なにの造ぞう作さも​なく、 一心いっしん一向いっこうに如来にょらいを​たのみ​まゐらする信心しんじんひとつ​にて、 極楽ごくらくに往おう生じょうす​べし。

^あら、 こころえやす​の安心あんじんや、 また、 あら、 往ゆきやす​の浄じょう土どや。

^これによりて ¬大だい経きょう¼ (下) には、 「▲易い往おう而に無む人にん」 と​これ​を説とか​れ​たり。

^この文もんの​こころ​は、 「安心あんじんを​とり​て弥陀みだを一向いっこうに​たのめ​ば、 浄じょう土どへ​は​まゐりやすけれ​ども、 信心しんじんを​とる​ひと​まれなれ​ば、 浄じょう土どへ​は往ゆきやすく​して人ひとなし」 といへる​は​この経きょう文もんの​こころ​なり。

^かくのごとく​こころうる​うへには、 昼ちゅう夜や朝ちょう暮ぼに​となふる​ところの1120名みょう号ごうは、 大だい悲ひ弘ぐ誓ぜいの御ご恩おんを報ほうじ​たてまつる​べき​ばかり​なり。

^かへすがへす仏法ぶっぽうに​こころ​を​とどめ​て、 とりやすき信心しんじんの​おもむき​を存ぞん知じして、 かならず今こん度どの一いち大だい事じの報ほう土どの往おう生じょうを​とぐ​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねん三月さんがつ三みっ日かこれ​を清せい書しょす。

(8)0107 本師本仏章

 ▼それ、 十じゅう悪あく・五ご逆ぎゃくの罪人ざいにんも、 五ご障しょう・三さん従しょうの女人にょにんも、 むなしく​みな十方じっぽう三さん世ぜの諸仏しょぶつの悲ひ願がんに​もれ​て、 すてはて​られ​たる​われら​ごとき​の凡ぼん夫ぶなり。 しかれば、 ここ​に弥陀みだ如来にょらいと申もうす​は、 三さん世ぜ十方じっぽうの諸仏しょぶつの本ほん師し本仏ほんぶつなれば、 久く遠おん実じつ成じょうの古こ仏ぶつとして、 いま​の​ごとき​の諸仏しょぶつに​すて​られ​たる末代まつだい不ふ善ぜんの凡ぼん夫ぶ、 五ご障しょう・三さん従しょうの女人にょにんをば、 弥陀みだに​かぎり​て​われ​ひとり​たすけ​ん​といふ超ちょう世せの大願だいがんを​おこし​て、 われら一切いっさい衆しゅ生じょうを平びょう等どうに​すくは​ん​と誓ちかひ​たまひ​て、 無む上じょうの誓願せいがんを​おこし​て、 すでに阿あ弥陀みだ仏ぶつと​なり​ましまし​けり。

この如来にょらいを​ひとすぢに​たのみ​たてまつら​ずは、 末代まつだいの凡ぼん夫ぶ、 極楽ごくらくに往おう生じょうする​みち、 ふたつ​も​みつ​も​ある​べから​ざる​ものなり。 これ​によりて、 親鸞しんらん聖しょう人にんの​すすめ​まします​ところの他た力りきの信心しんじんといふ​こと​を​よく存ぞん知じせしめ​ん​ひと​は、 かならず十じゅう人にんは十じゅう人にんながら、 みな​かの1121浄じょう土どに往おう生じょうす​べし。 されば​この信心しんじんを​とり​て​かの弥陀みだの報ほう土どに​まゐら​ん​と​おもふ​について、 なにとやうに​こころ​をも​もち​て、 なにとやうに​その信心しんじんと​やらん​を​こころう​べき​や。 ねんごろに​これ​を​きか​ん​と​おもふ​なり。

 答こたへ​て​いはく、 それ、 当とう流りゅう親鸞しんらん聖しょう人にんの​をしへ​たまへ​る​ところの他た力りき信心しんじんの​おもむき0108といふは、 なにのやうも​なく、 わが身みは​あさましき罪つみふかき身みぞ​と​おもひ​て、 弥陀みだ如来にょらいを一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつり​て、 もろもろ​の雑ぞう行ぎょうを​すて​て専修せんじゅ専念せんねんなれば、 かならず遍へん照じょうの光こう明みょうの​なか​に摂おさめ取とら​れ​まゐらする​なり。 これ​まことに​われら​が往おう生じょうの決けつ定じょうする​すがた​なり。

この​うへ​に​なほ​こころう​べき​やう​は、 一心いっしん一向いっこうに弥陀みだに帰き命みょうする一念いちねんの信心しんじんに​より​て、 はや往おう生じょう治じ定じょうの​うへには、 行住ぎょうじゅう坐臥ざがに口くちに申もうさ​ん​ところの称名しょうみょうは、 弥陀みだ如来にょらいの​われら​が往おう生じょうを​やすく定さだめ​たまへ​る大だい悲ひの御ご恩おんを報尽ほうじんの念仏ねんぶつなり​と​こころう​べき​なり。 これ​すなはち当とう流りゅうの信心しんじんを決けつ定じょうし​たる人ひとといふ​べき​なり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねん三月さんがつ中旬ちゅうじゅん

(9) 忠臣貞女章

 ▼そもそも、 阿あ弥陀みだ如来にょらいを​たのみ​たてまつる​について、 自余じよの万善まんぜん万まん行ぎょうをば、 1122すでに雑ぞう行ぎょうと​なづけ​て​きらへ​る​その​こころ​は​いかん​ぞ​なれば、 それ弥陀みだ仏ぶつの誓ちかひ​まします​やう​は、 一心いっしん一向いっこうに​われ​を​たのま​ん衆しゅ生じょうをば、 いかなる罪つみふかき機きなり​とも、 すくひ​たまは​ん​といへる大願だいがんなり。

しかれば、 一心いっしん一向いっこうといふは、 阿あ弥陀みだ仏ぶつにおいて0109、 二に仏ぶつを​ならべ​ざる​こころ​なり。

この​ゆゑに人間にんげんにおいて​も、 まづ主しゅをば​ひとり​ならでは​たのま​ぬ道どう理りなり。 されば*外げ典てんの​ことば​に​いはく、 「忠ちゅう臣しんは二じ君くんに​つかへ​ず、 貞女ていじょは二夫じふを​ならべ​ず」 (*史記・意) といへり。 阿あ弥陀みだ如来にょらいは三さん世ぜ諸仏しょぶつのために​は本ほん師し師し匠しょうなれば、 その師し匠しょうの仏ぶつを​たのま​ん​には、 いかでか弟子でしの諸仏しょぶつの​これ​を​よろこび​たまは​ざる​べき​や。 この​いはれ​をもつて​よくよく​こころう​べし。

さて南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつといへる*行ぎょう体たいには、 一切いっさいの諸神しょじん・諸仏しょぶつ・菩ぼ薩さつも、 その​ほか万善まんぜん万まん行ぎょうも、 ことごとく​みな​こもれ​る​がゆゑに、 なにの不ふ足そくありて​か、 諸しょ行ぎょう諸善しょぜんに​こころ​を​とどむ​べき​や。 すでに南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつといへる名みょう号ごうは、 万善まんぜん万まん行ぎょうの総体そうたいなれば、 いよいよ​たのもしき​なり。

これ​によりて、 その阿あ弥陀みだ如来にょらいをば​なにと​たのみ、 なにと信しんじ​て、 かの極楽ごくらく往おう生じょうを​とぐ​べき​ぞ​なれば、 なにのやうも​なく、 ただ​わが身みは極悪ごくあく深じん重じゅうの​あさましき​もの​なれば、 地じ獄ごくならでは​おもむく​べき​かた​も​なき身みなる​を、 かたじけなく1123も弥陀みだ如来にょらいひとり​たすけ​ん​といふ誓願せいがんを​おこし​たまへ​り​と​ふかく信しんじ​て、 一念いちねん帰き命みょうの信心しんじんを​おこせ​ば、 まことに宿しゅく善ぜんの開発かいほつに​もよほさ​れ​て、 仏ぶっ智ちより他た力りきの信心しんじんを​あたへ​たまふ​がゆゑに、 *仏心ぶっしんと凡心ぼんしんと​ひとつ​に​なる​ところ​を​さし​て、 信心しんじん獲ぎゃく得とくの行ぎょう者じゃと​は​いふ​なり。

この​うへには、 ただ​ね​ても​おき​ても​へだて0110なく念仏ねんぶつを​となへ​て、 大だい悲ひ弘ぐ誓ぜいの御ご恩おんを​ふかく報謝ほうしゃす​べき​ばかり​なり​と​こころう​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六歳ろくさい三月さんがつ十じゅう七日しちにちこれ​を書かく。

(10) 仏心凡心一体章

 ▼それ、 当とう流りゅう親鸞しんらん聖しょう人にんの​すすめ​まします​ところの一いち義ぎの​こころ​といふは、 まづ他た力りきの信心しんじんをもつて肝要かんようと​せ​られ​たり。 この他た力りきの信心しんじんといふ​こと​を​くはしく​しら​ずは、 今こん度どの一いち大だい事じの往おう生じょう極楽ごくらくは​まことに​もつて​かなふ​べから​ず​と、 経きょう釈しゃくともに​あきらかに​みえ​たり。 されば​その他た力りきの信心しんじんの​すがた​を存ぞん知じして、 真実しんじつ報ほう土どの往おう生じょうを​とげ​ん​と​おもふ​について​も、 いかやうに​こころ​をも​もち、 また​いかやうに機きをも​もち​て、 かの極楽ごくらくの往おう生じょうをば​とぐ​べき​やらん。 その​むね​を​くはしく​しり​はんべら​ず。 ねんごろに​をしへ​たまふ​べし。 それ​を聴ちょう聞もん1124して​いよいよ堅けん固ごの信心しんじんを​とら​ん​と​おもふ​なり。

 答こたへ​て​いはく、 そもそも当とう流りゅうの他た力りき信心しんじんの​おもむき​と申もうす​は、 あながちに​わが身みの罪つみの​ふかき​にも​こころ​を​かけ​ず、 ただ阿あ弥陀みだ如来にょらいを一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつり0111て、 かかる十じゅう悪あく・五ご逆ぎゃくの罪人ざいにんも、 五ご障しょう・三さん従しょうの女人にょにんまで​も、 みな​たすけ​たまへ​る不ふ思議しぎの誓願力がんりきぞ​と​ふかく信しんじ​て、 さらに一念いちねんも本願ほんがんを疑うたがふ​こころ​なけれ​ば、 かたじけなく​も​その心こころを如来にょらいの​よく​しろしめし​て、 すでに行ぎょう者じゃの​わろき​こころ​を如来にょらいの​よき御おんこころ​と​おなじ​もの​に​なし​たまふ​なり。

この​いはれ​をもつて仏心ぶっしんと凡心ぼんしんと一体いったいに​なる​といへる​は​この​こころ​なり。 これ​によりて、 弥陀みだ如来にょらいの遍へん照じょうの光こう明みょうの​なか​に摂おさめ取とら​れ​まゐらせ​て、 一いち期ごの​あひだ​は​この光こう明みょうの​うち​に​すむ身みなり​と​おもふ​べし。 さて​いのち​も尽つき​ぬれ​ば、 すみやかに真実しんじつの報ほう土どへ​おくり​たまふ​なり。

しかれば、 この​ありがたさ​たふとさ​の弥陀みだ大だい悲ひの御ご恩おんをば、 いかが​して報ほうず​べき​ぞ​なれば、 昼ちゅう夜や朝ちょう暮ぼには​ただ称名しょうみょう念仏ねんぶつばかり​を​となへ​て、 かの弥陀みだ如来にょらいの御ご恩おんを報ほうじ​たてまつる​べき​ものなり。 この​こころ​すなはち、 当とう流りゅうに​たつる​ところの一念いちねん発ぽっ起き平生へいぜい業ごう成じょうといへる義ぎこれ​なり​と​こころう​べし。

されば​かやうに弥陀みだを一心いっしんに​たのみ​たてまつる​も、 なにの功く労ろう1125も​いら​ず。 また信心しんじんを​とる​といふ​も​やすけれ​ば、 仏ぶつに成なり極楽ごくらくに往おう生じょうする​こと​も​なほ​やすし。 あら、 たふと​の弥陀みだの本願ほんがんや、 あら、 たふと​の他た力りきの信心しんじんや。 さらに往おう生じょうにおいて​その疑うたがいなし。

しかるに​この​うへ​において、 なほ身みの​ふるまひ​について​この​むね​を​よく​こころう0112べき​みち​あり。 それ、 一切いっさいの神かみも仏ほとけと申もうす​も、 いま​この​うる​ところの他た力りきの信心しんじんひとつ​を​とら​しめ​んがため​の方便ほうべんに、 もろもろ​の神かみ・もろもろ​の​ほとけ​と​あらはれ​たまふ​いはれ​なれば​なり。 しかれば、 一切いっさいの仏ぶつ・菩ぼ薩さつも、 もとより弥陀みだ如来にょらいの分身ぶんしんなれば、 みな​ことごとく、 一念いちねん南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと帰き命みょうし​たてまつる​うち​に​みな​こもれ​る​がゆゑに、 おろかに​おもふ​べから​ざる​ものなり。

また​この​ほか​に​なほ​こころう​べき​むね​あり。 それ、 国くにに​あらば守しゅ護ご方ほう、 ところ​に​あらば地じ頭とう方ほうにおいて、 われ​は仏法ぶっぽうを​あがめ信心しんじんを​え​たる身みなり​と​いひ​て、 疎そ略りゃくの儀ぎ*ゆめゆめ​ある​べから​ず。 いよいよ公事くじを​もつぱらに​す​べき​ものなり。 かくのごとく​こころえ​たる人ひとを​さし​て、 信心しんじん発得ほっとくして後ご生しょうを​ねがふ念仏ねんぶつ行ぎょう者じゃの​ふるまひ​の本ほんと​ぞ​いふ​べし。

これ​すなはち仏法ぶっぽう・王法おうぼうを​むねと​まもれ​る人ひとと​なづく​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねん五ご月がつ十じゅう三日さんにちこれ​を書かく。

(111126) 五重義章

 ^▼それ、 当とう流りゅう親鸞しんらん聖しょう人にんの勧かん化けの​おもむき、 近年きんねん諸国しょこくにおいて*種々しゅじゅ不ふ同どうなり。 これ​おほきに0113あさましき次し第だいなり。

^そのゆゑは、 まづ当とう流りゅうには、 他た力りきの信心しんじんをもつて凡ぼん夫ぶの往おう生じょうを*先さきと​せ​られ​たる​ところ​に、 その信心しんじんの​かた​をば​おしのけ​て*沙汰さたせず​して、 その​すすむる​ことば​に​いはく、 「*十劫じっこう正しょう覚がくの​はじめ​より​われら​が往おう生じょうを弥陀みだ如来にょらいの定さだめ​ましまし​たまへ​る​こと​を​わすれ​ぬ​が​すなはち信心しんじんの​すがた​なり」 といへり。 これ​さらに、 弥陀みだに帰き命みょうして他た力りきの信心しんじんを​え​たる分ぶんは​なし。

^されば​いかに十劫じっこう正しょう覚がくの​はじめ​より​われら​が往おう生じょうを定さだめ​たまへ​る​こと​を​しり​たり​といふとも、 われら​が往おう生じょうす​べき他た力りきの信心しんじんの​いはれ​を​よく​しら​ずは、 極楽ごくらくには往おう生じょうす​べから​ざる​なり。

^また​ある​ひと​の​ことば​に​いはく、 「たとひ弥陀みだに帰き命みょうす​といふとも善ぜん知ぢ識しきなく​は​いたづらごと​なり、 この​ゆゑに​われら​において​は善ぜん知ぢ識しきばかり​を​たのむ​べし」 と云々うんぬん。

^これ​も​うつくしく当とう流りゅうの信心しんじんを​え​ざる人ひとなり​と​きこえ​たり。

^そもそも、 善ぜん知ぢ識しきの*能のうといふは、 一心いっしん一向いっこうに弥陀みだに帰き命みょうし​たてまつる​べし​と、 ひと​を​すすむ​べき​ばかり​なり。 これ​によりて五ご重じゅうの義ぎを​たて​たり。 一ひとつ​には宿しゅく善ぜん、 二ふたつ​には善ぜん知ぢ識しき、 三みつ​には光こう明みょう、 四よつ​には信心しんじん、 五いつつ​には*名みょう号ごう。 この五ご重じゅうの義ぎ、 成じょう就じゅせずは往おう生じょうは​かなふ​べから​ず1127と​みえ​たり。

^されば善ぜん知ぢ識しきといふは、 阿あ弥陀みだ仏ぶつに帰き命みょうせよ​と​いへ​る​つかひ​なり。 宿しゅく善ぜん開発かいほつして善ぜん知ぢ識しきに​あは​ずは、 往おう生じょうは​かなふ​べから​ざる0114なり。 しかれども、 帰きする​ところの弥陀みだを​すて​て、 ただ善ぜん知ぢ識しきばかり​を本ほんと​す​べき​こと、 おほきなる​あやまり​なり​と​こころう​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねん五ご月がつ二十はつ日か

(12) 人間五十年章

 ▼それ、 人間にんげんの五ご十じゅう年ねんを​かんがへみる​に、 *四し王天おうてんといへる天てんの一日いちにち一いち夜やに​あひ​あたれ​り。 また​この四し天王てんのうの五ご十じゅう年ねんをもつて、 *等活とうかつ地じ獄ごくの一日いちにち一いち夜やと​する​なり。

これ​によりて、 みな​ひと​の地じ獄ごくに​おち​て苦くを受うけ​ん​こと​をば​なに​とも​おもは​ず、 また浄じょう土どへ​まゐり​て無む上じょうの楽らくを受うけ​ん​こと​をも分別ふんべつせず​して、 いたづらに​あかし、 むなしく月つき日ひを送おくり​て、 さらに​わが身みの一心いっしんをも決けつ定じょうする分ぶんも​しかしかと​も​なく、 また一巻いっかんの聖教しょうぎょうを​まなこ​に​あて​て​みる​こと​も​なく、 一いっ句くの法門ほうもんを​いひ​て門もん徒とを勧かん化けする義ぎも​なし。 ただ朝ちょう夕せきは、 ひま​を​ねらひ​て、 枕まくらを​とも​と​して眠ねむり臥ふせ​らん​こと、 まことに​もつて​あさましき次し第だいに​あらず​や。 しづかに思し案あんを​めぐらす​べき​ものなり。

この​ゆゑに今日こんにち今こん時じより​して、 *不ふ法ほう懈け怠だい1128に​あら​ん​ひとびと​は、 いよいよ信しん0115心じんを決けつ定じょうして真実しんじつ報ほう土どの往おう生じょうを​とげ​ん​と​おもは​ん​ひと​こそ、 まことに​その身みの徳とくとも​なる​べし。 これ​また*自じ行ぎょう化他けたの道どう理りに​かなへ​り​と​おもふ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

時ときに*文明ぶんめい第六だいろく、 六月ろくがつ*中なかの二ふつ日かのひ、 あまりの炎天えんてんの暑あつさ​に、 これ​を筆ふでに​まかせ​て書かき​しるし​をはり​ぬ。

(13) 我宗名望章

 ▼それ、 当とう流りゅうに定さだむる​ところの掟おきてを​よく守まもる​といふは、 他た宗しゅうにも世せ間けんにも対たいし​ては、 わが一いっ宗しゅうの​すがた​を​あらはに人ひとの目めに​みえ​ぬ​やう​に​ふるまへ​る​をもつて本ほん意いと​する​なり。

しかるに​ちかごろ​は当とう流りゅう念仏ねんぶつ者しゃの​なか​において、 わざと人ひと目めに​みえ​て一いち流りゅうの​すがた​を​あらはし​て、 これ​をもつて​わが宗しゅうの*名望めいぼうの​やう​に​おもひ​て、 ことに他た宗しゅうを*こなし​おとしめ​ん​と​おもへ​り。 これ言ごん語ご道どう断だんの次し第だいなり。 *さらに聖しょう人にん (親鸞) の定さだめ​ましまし​たる御ぎょ意いに​ふかく​あひ​そむけ​り。

そのゆゑは、 「▲すでに牛うしを盗ぬすみ​たる人ひとと​は​いは​る​とも、 当とう流りゅうの​すがた​を​みゆ​べから​ず」 (改邪鈔・意) と​こそ仰おおせ​られ​たり。 この御おんことば​をもつて​よくよく​こころう​べし。

つぎ​に▽当とう流りゅうの安心あんじんの​おもむき​を0116くはしく​しら​ん​と​おもは​ん​ひと1129は、 あながちに智慧ちえ・才学さいかくも​いら​ず、 男女なんにょ・貴き賎せんも​いら​ず、 ただ​わが身みは罪つみふかき​あさましき​もの​なり​と​おもひとり​て、 かかる機きまで​も​たすけ​たまへ​る​ほとけ​は阿あ弥陀みだ如来にょらいばかり​なり​と​しり​て、 なにのやうも​なく、 ひとすぢに​この阿あ弥陀みだほとけ​の御袖おんそでに*ひしと​すがり​まゐらする​おもひ​を​なし​て、 後ご生しょうを​たすけ​たまへ​と​たのみ​まうせ​ば、 この阿あ弥陀みだ如来にょらいは​ふかく​よろこび​ましまし​て、 その御おん身みより八万はちまん四し千せんの​おほきなる光こう明みょうを放はなち​て、 その光こう明みょうの​なか​に​その​ひと​を摂おさめ入いれ​て​おき​たまふ​べし。

されば​この​こころ​を ¬経きょう¼ (観経) には、 まさに 「▲光こう明みょう遍へん照じょう 十方じっぽう世せ界かい 念仏ねんぶつ衆しゅ生じょう 摂取せっしゅ不ふ捨しゃ」 と​は説とか​れ​たり​と​こころう​べし。

さては​わが身みの​ほとけ​に成なら​んずる​こと​は、 なにの​わづらひ​も​なし。 あら、 殊しゅ勝しょうの超ちょう世せの本願ほんがんや、 ありがた​の弥陀みだ如来にょらいの光こう明みょうや。 この光こう明みょうの縁えんに​あひ​たてまつら​ずは、 *無始むしより​このかた​の無む明みょう*業ごっ障しょうの​おそろしき病やまいの​なほる​といふ​こと​は、 さらに​もつて​ある​べから​ざる​ものなり。

しかるに​この光こう明みょうの縁えんに​もよほさ​れ​て、 宿しゅく善ぜんの機きありて、 他た力りきの信心しんじんといふ​こと​をば​いま​すでに​え​たり。 これ*しかしながら、 弥陀みだ如来にょらいの御方おんかたより​さづけ​ましまし​たる信心しんじんと​は​やがて​あらはに​しら​れ​たり。

かるがゆゑに、 行ぎょう者じゃの​おこす​ところの信心しんじんに​あらず1130、 弥陀みだ如来にょらい他た力りきの大だい信心しんじんといふ​こと0117は、 いま​こそ​あきらかに​しら​れ​たり。

これ​によりて、 かたじけなく​も​ひとたび他た力りきの信心しんじんを​え​たらん人ひとは、 みな弥陀みだ如来にょらいの御ご恩おんの​ありがたき​ほど​を​よくよく​おもひはかり​て、 仏恩ぶっとん報謝ほうしゃのために​は​つね​に称名しょうみょう念仏ねんぶつを申もうし​たてまつる​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねん七月しちがつ三みっ日かこれ​を書かく。

(14) 秘事法門章

 ▼それ、 越前えちぜんの国くにに​ひろまる​ところの*秘事ひじ法門ぼうもんといへる​こと​は、 さらに仏法ぶっぽうにて​は​なし、 あさましき外げ道どうの法ほうなり。 これ​を信しんずる​もの​は​ながく無む間けん地じ獄ごくに沈しずむ​べき業ごうにて、 いたづらごと​なり。 この秘事ひじを​なほ​も執しゅう心しんして肝要かんようと​おもひ​て、 *ひと​を​へつらひ​たらさ​ん​もの​には、 あひかまへて​あひかまへて*随逐ずいちくす​べから​ず。 いそぎ​その秘事ひじを​いは​ん人ひとの手てを​はなれ​て、 はやく​さづくる​ところの秘事ひじを​ありのまま​に懴さん悔げして、 ひと​に​かたり​あらはす​べき​ものなり。

▽そもそも、 当とう流りゅう勧かん化けの​おもむき​を​くはしく​しり​て、 極楽ごくらくに往おう生じょうせん​と​おもは​ん​ひと​は、 まづ他た力りきの信心しんじんといふ​こと​を存ぞん知じす​べき​なり。 それ、 他た力りきの信心しんじんといふは​なにの要ようぞ​といへ​ば、 かかる​あさましき0118われら​ごとき​の凡ぼん夫ぶの身みが、 たやすく浄じょう土どへ​まゐる1131べき*用よう意いなり。 その他た力りきの信心しんじんの​すがた​といふは​いかなる​こと​ぞ​といへ​ば、 なにのやうも​なく、 ただ​ひとすぢに阿あ弥陀みだ如来にょらいを一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつり​て、 たすけ​たまへ​と​おもふ​こころ​の一念いちねんおこる​とき、 かならず弥陀みだ如来にょらいの摂取せっしゅの光こう明みょうを放はなち​て、 その身みの娑しゃ婆ばに​あら​ん​ほど​は、 この光こう明みょうの​なか​に​をさめ​おき​まします​なり。 これ​すなはち​われら​が往おう生じょうの定さだまり​たる​すがた​なり。

されば*南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと申もうす体たいは、 われら​が他た力りきの信心しんじんを​え​たる​すがた​なり。 この信心しんじんといふは、 この南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの​いはれ​を​あらはせ​る​すがた​なり​と​こころう​べき​なり。 されば​われら​が​いま​の他た力りきの信心しんじんひとつ​を​とる​に​より​て、 極楽ごくらくに​やすく往おう生じょうす​べき​こと​の、 さらに​なにの疑うたがいも​なし。 あら、 殊しゅ勝しょうの弥陀みだ如来にょらいの他た力りきの本願ほんがんや。

この​ありがたさ​の弥陀みだの御ご恩おんをば、 いかが​して報ほうじ​たてまつる​べき​ぞ​なれば、 ただ​ね​ても​おき​ても南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつ、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと​となへ​て、 かの弥陀みだ如来にょらいの仏恩ぶっとんを報ほうず​べき​なり。 されば南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと​となふる​こころ​は​いかん​ぞ​なれば、 阿あ弥陀みだ如来にょらいの御おんたすけ​あり​つる​こと​の​ありがたさ​たふとさ​よ​と​おもひ​て、 それ​を​よろこび​まうす​こころ​なり​と​おもふ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

0119*文明ぶんめい六年ろくねん七月しちがつ五いつ日か

(151132) 九品長楽寺章

 ▼そもそも、 日本にっぽんにおいて浄じょう土ど宗しゅうの家々いえいえを​たて​て、 *西山せいざん・*鎮西ちんぜい・*九く品ぼん・*長ちょう楽らく寺じとて、 その​ほか​あまた​に​わかれ​たり。 これ​すなはち法然ほうねん聖しょう人にんの​すすめ​たまふ​ところの義ぎは一いち途ずなり​と​いへども、 あるいは聖しょう道どう門もんにて​あり​し人々ひとびとの、 聖しょう人にん (源空) へ​まゐり​て浄じょう土どの法門ほうもんを聴ちょう聞もんし​たまふ​に、 うつくしく​その理ことわり耳みみに​とどまら​ざる​に​より​て、 わが本ほん宗しゅうの​こころ​を​いまだ​すてやら​ず​して、 かへりて​それ​を浄じょう土ど宗しゅうに​ひきいれ​ん​と​せし​に​より​て、 その不ふ同どうこれ​あり。

しかり​と​いへども、 あながちに​これ​を誹ひ謗ほうする​こと​ある​べから​ず。 肝要かんようは、 ただ​わが一いっ宗しゅうの安心あんじんを​よく​たくはへ​て、 自じ身しんも決けつ定じょうし人ひとをも勧かん化けす​べき​ばかり​なり。

それ、 当とう流りゅうの安心あんじんの​すがた​は​いかん​ぞ​なれば、 まづ​わが身みは十じゅう悪あく・五ご逆ぎゃく、 五ご障しょう・三さん従しょうの​いたづらもの​なり​と​ふかく​おもひつめ​て、 その​うへ​に​おもふ​べき​やう​は、 かかる​あさましき機きを本ほんと​たすけ​たまへ​る弥陀みだ如来にょらいの不ふ思議しぎの本願ほんがん力りきなり​と​ふかく信しんじ​たてまつり​て、 すこし​も疑ぎ心しんなけれ​ば、 かならず弥陀みだは摂取せっしゅし​たまふ​べし。

この​こころ​こそ、 すなはち他た力りき真実しんじつの信心しんじんを​え​たる​すがた​と​は​いふ​べき​なり0120。 かくのごとき​の信心しんじんを、 一念いちねんとら​んずる​こと​は​さらに​なにのやうも​いら​ず。 あら、 こころえやす​の他た力りきの信心しんじんや、 あら、 行ぎょうじやす​の名みょう号ごうや。

1133しかれば、 この信心しんじんを​とる​といふ​も別べつの​こと​には​あらず、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六むつ​の字じを​こころえわけ​たる​が、 すなはち他た力りき信心しんじんの体たいなり。

また南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつといふは​いかなる​こころ​ぞ​といへ​ば、 「南無なも」 といふ二字にじは、 すなはち極楽ごくらくへ往おう生じょうせん​と​ねがひ​て弥陀みだを​ふかく​たのみ​たてまつる​こころ​なり。 さて 「阿あ弥陀みだ仏ぶつ」 といふは、 かくのごとく​たのみ​たてまつる衆しゅ生じょうを​あはれみ​ましまし​て、 無始むし曠劫こうごうより​このかた​の​おそろしき罪つみとが​の身みなれども、 弥陀みだ如来にょらいの光こう明みょうの縁えんに​あふ​に​より​て、 ことごとく無む明みょう業ごっ障しょうの​ふかき罪つみとが​たちまちに消しょう滅めつする​に​より​て、 すでに正定しょうじょう聚じゅの数かずに住じゅうす。 かるがゆゑに*凡身ぼんしんを​すて​て仏身ぶっしんを証しょうする​といへる​こころ​を、 すなはち阿あ弥陀みだ如来にょらいと​は申もうす​なり。

されば 「阿あ弥陀みだ」 といふ三さん字じをば、 *をさめ・たすけ・すくふ​と​よめ​る​いはれ​ある​がゆゑなり。

かやうに信心しんじん決けつ定じょうして​の​うへには、 ただ弥陀みだ如来にょらいの仏恩ぶっとんの​かたじけなき​こと​を​つね​に​おもひ​て称名しょうみょう念仏ねんぶつを申もうさ​ば、 それ​こそ​まことに弥陀みだ如来にょらいの仏恩ぶっとんを報ほうじ​たてまつる​ことわり​に​かなふ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六ろく、 七月しちがつ九ここぬ日かこれ​を書かく。

0121釈しゃく証しょう如にょ(花押)

 

○1134 三 帖

(1)0122 其名ばかり章

 ▼そもそも、 当とう流りゅうにおいて、 *その名なばかり​を​かけ​ん​ともがら​も、 また​もとより門もん徒とたらん人ひとも、 安心あんじんの​とほり​を​よく​こころえ​ずは、 あひかまへて、 今日こんにちより​して、 他た力りきの大だい信心しんじんの​おもむき​を​ねんごろに人ひとに​あひ​たづね​て、 報ほう土ど往おう生じょうを決けつ定じょうせしむ​べき​なり。

それ、 一いち流りゅうの安心あんじんを​とる​といふ​も、 なにのやうも​なく、 ただ一ひとすぢに阿あ弥陀みだ如来にょらいを​ふかく​たのみ​たてまつる​ばかり​なり。

しかれども、 この阿あ弥陀みだ仏ぶつと申もうす​は、 いかやうなる​ほとけ​ぞ、 また​いかやうなる機きの衆しゅ生じょうを​すくひ​たまふ​ぞ​といふ​に、 三さん世ぜの諸仏しょぶつに​すて​られ​たる​あさましき​われら凡ぼん夫ぶ女人にょにんを、 われ​ひとり​すくは​ん​といふ大願だいがんを​おこし​たまひ​て、 五ご劫こうが​あひだ​これ​を思し惟ゆいし、 永劫ようごうが​あひだ​これ​を修しゅ行ぎょうして、 それ衆しゅ生じょうの罪つみにおいて​は、 いかなる十じゅう悪あく・五ご逆ぎゃく、 謗法ほうぼう・闡提せんだいの​ともがら​なり​といふとも、 すくは​ん​と誓ちかひ​ましまし​て、 すでに諸仏しょぶつの悲ひ願がんに​こえ​すぐれ​たまひ​て、 その願がん成じょう就じゅして阿あ弥陀みだ如来にょらいと​は​なら​せたまへ​る​を、 すなはち阿あ弥陀みだ仏ぶつと​は申もうす​なり。

これ​によりて、 この仏ほとけをば​なに1135と​たのみ、 なに​と​こころ​をも​もち​て​か​たすけ​たまふ​べき​ぞ​といふ​に、 それ​わが身みの罪つみの​ふかき​こと​をば​うちおき​て、 ただ​かの阿あ弥陀みだ仏ぶつを​ふたごころなく一向いっこうに​たのみ​まゐらせ​て、 一念いちねんも疑うたがふ心こころなく​は、 かならず​たすけ​たまふ​べし。 0123しかるに弥陀みだ如来にょらいには、 すでに摂取せっしゅと光こう明みょうといふ二ふたつ​の​ことわり​をもつて、 衆しゅ生じょうをば済さい度どし​たまふ​なり。 まづ​この光こう明みょうに宿しゅく善ぜんの機きの​ありて照てらさ​れ​ぬれ​ば、 つもる​ところの業ごっ障しょうの罪つみみな消きえ​ぬる​なり。

さて摂取せっしゅといふは​いかなる​こころ​ぞ​といへ​ば、 この光こう明みょうの縁えんに​あひ​たてまつれ​ば、 罪ざい障しょうことごとく消しょう滅めつする​によりて、 やがて衆しゅ生じょうを​この光こう明みょうの​うち​に摂おさめ​おか​るる​によりて、 摂取せっしゅと​は申もうす​なり。 この​ゆゑに、 阿あ弥陀みだ仏ぶつには摂取せっしゅと光こう明みょうと​の二ふたつ​をもつて肝要かんようと​せ​らるる​なり​と​きこえ​たり。 されば一念いちねん帰き命みょうの信心しんじんの定さだまる​といふ​も、 この摂取せっしゅの光こう明みょうに​あひ​たてまつる時じ剋こくを​さし​て、 信心しんじんの定さだまる​と​は申もうす​なり。

しかれば、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつといへる行ぎょう体たいは、 すなはち​われら​が浄じょう土どに往おう生じょうす​べき​ことわり​を、 この六ろく字じに​あらはし​たまへ​る御おんすがた​なり​と、 いま​こそ​よく​は​しら​れ​て、 いよいよ​ありがたく​たふとく​おぼえ​はんべれ。

さて​この信心しんじん決けつ定じょうの​うへには、 ただ阿あ弥陀みだ如来にょらいの御ご恩おんを雨山あめやまにかうぶり​たる​こと​を​のみ​よろこび​おもひ​たてまつり1136て、 その報謝ほうしゃのために​は、 ね​ても​さめ​ても念仏ねんぶつを申もうす​べき​ばかり​なり。 それ​こそ​まことに仏恩ぶっとん報尽ほうじんの​つとめ​なる​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六ろく、 七月しちがつ十じゅう四よっ日かこれ​を書かく。

(2)0124 如説修行章

 ▼それ、 諸しょ宗しゅうの​こころ​まちまちに​して、 いづれ​も釈しゃ迦か一代いちだいの説せっ教きょうなれば、 まことに​これ殊しゅ勝しょうの法ほうなり。 もつとも*如説にょせつに​これ​を修しゅ行ぎょうせん​ひと​は、 成じょう仏ぶつ得道とくどうす​べき​こと、 さらに疑うたがいなし。 しかるに末代まつだいこのごろ​の衆しゅ生じょうは、 *機き根こん最劣さいれつにして如説にょせつに修しゅ行ぎょうせん人ひとまれなる時じ節せつなり。

ここ​に弥陀みだ如来にょらいの他た力りき本願ほんがんといふは、 今いまの世よにおいて、 かかる時ときの衆しゅ生じょうを​むねと​たすけ​すくは​んがために、 五ご劫こうが​あひだ​これ​を思し惟ゆいし、 永劫ようごうが​あひだ​これ​を修しゅ行ぎょうして、 「造悪ぞうあく不ふ善ぜんの衆しゅ生じょうを​ほとけ​に​なさ​ずは、 われ​も正しょう覚がく成なら​じ」 と、 *ちかごと​を​たて​ましまし​て、 その願がんすでに成じょう就じゅして阿あ弥陀みだと​なら​せたまへ​る​ほとけ​なり。 末代まつだい今いまの時ときの衆しゅ生じょうにおいて​は、 この​ほとけ​の本願ほんがんに​すがり​て弥陀みだを​ふかく​たのみ​たてまつら​ずんば、 成じょう仏ぶつする​といふ​こと​ある​べから​ざる​なり。

 そもそも、 阿あ弥陀みだ如来にょらいの他た力りき本願ほんがんをば​なにとやうに信しんじ、 また​なにとやうに機き1137を​もち​て​か​たすかる​べき​ぞ​なれば、 それ弥陀みだを信しんじ​たてまつる​といふは、 なにのやうも​なく、 他た力りきの信心しんじんといふ​いはれ​を​よく​しり​たらん​ひと​は、 *たとへば十じゅう人にんは十じゅう人にんながら、 みな​もつて極楽ごくらくに往おう生じょうす​べし。

さて​その他た力りきの信心しんじんといふは​いかやうなる​こと0125ぞ​といへ​ば、 ただ南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつなり。 この南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六むつの字じの​こころ​を​くはしく​しり​たる​が、 すなはち他た力りき信心しんじんの​すがた​なり。 されば、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつといふ六ろく字じの体たいを​よくよく​こころう​べし。

まづ 「南無なも」 といふ二字にじは​いかなる​こころ​ぞ​といへ​ば、 やう​も​なく弥陀みだを一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつり​て、 後ご生しょうたすけ​たまへ​と​ふたごころなく信しんじ​まゐらする​こころ​を、 すなはち南無なもと​は申もうす​なり。

つぎ​に 「阿あ弥陀みだ仏ぶつ」 といふ四字しじは​いかなる​こころ​ぞ​といへ​ば、 いま​の​ごとくに弥陀みだを一心いっしんに​たのみ​まゐらせ​て、 疑うたがいの​こころ​の​なき衆しゅ生じょうをば、 かならず弥陀みだの御おん身みより光こう明みょうを放はなち​て照てらし​ましまし​て、 その​ひかり​の​うち​に摂おさめ​おき​たまひ​て、 さて一いち期ごの​いのち尽つき​ぬれ​ば、 かの極楽ごくらく浄じょう土どへ​おくり​たまへ​る​こころ​を、 すなはち阿あ弥陀みだ仏ぶつと​は申もうし​たてまつる​なり。

されば世せ間けんに沙汰さたする​ところの念仏ねんぶつといふは、 ただ口くちに​だに​も南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと​となふれ​ば、 たすかる​やう​に​みな人ひとの​おもへ​り。 それ​は*おぼつかなき​こと​なり1138。

さりながら、 *浄じょう土ど一いっ家けにおいて​さやうに沙汰さたする​かた​も​あり、 是非ぜひす​べから​ず。 これ​は​わが一いっ宗しゅうの開山かいさん (親鸞) の​すすめ​たまへ​る​ところの一いち流りゅうの安心あんじんの​とほり​を申もうす​ばかり​なり。 宿しゅく縁えんの​あら​ん​ひと​は、 これ​を​きき​て​すみやかに今こん度どの極楽ごくらく往おう生じょうを​とぐ​べし。

かくのごとく​こころえ​たらん​ひと、 名みょう0126号ごうを​となへ​て、 弥陀みだ如来にょらいの​われら​を​やすく​たすけ​たまへ​る御ご恩おんを雨山あめやまに​かうぶり​たる、 その仏恩ぶっとん報尽ほうじんのために​は、 称名しょうみょう念仏ねんぶつす​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねん八月はちがつ五いつ日かこれ​を書かく。

(3) 性光門徒章

 ▼この方ほう*河尻かわじり*性しょう光こう門もん徒との面々めんめんにおいて、 仏法ぶっぽうの信心しんじんの​こころえ​は​いかやうなる​らん。 まことに​もつて*こころもとなし。 しかり​と​いへども、 いま当とう流りゅう一いち義ぎの​こころ​を​くはしく沙汰さたす​べし。 おのおの耳みみを​そばだて​て​これ​を​きき​て、 この​おもむき​をもつて本ほんと​おもひ​て、 今こん度どの極楽ごくらくの往おう生じょうを治じ定じょうす​べき​ものなり。

それ、 弥陀みだ如来にょらいの念仏ねんぶつ往おう生じょうの本願ほんがん (第十八願) と申もうす​は、 いかやうなる​こと​ぞ​といふ​に、 在ざい家け無智むちの​もの​も、 また十じゅう悪あく・五ご逆ぎゃくの​やから​に​いたる​まで​も、 なにのやうも​なく他た力りきの信心しんじんといふ​こと​を​ひとつ決けつ定じょうすれば、 みな​ことごとく極ごく1139楽らくに往おう生じょうする​なり。

されば​その信心しんじんを​とる​といふは、 いかやうなる​むつかしき​こと​ぞ​といふ​に、 なにの​わづらひ​も​なく、 ただ​ひとすぢに阿あ弥陀みだ如来にょらいを​ふたごころなく​たのみ​たてまつり​て、 余よへ​こころ​を散ちらさ​ざらん0127ひと​は、 たとへば十じゅう人にんあらば十じゅう人にんながら、 みな​ほとけ​に成なる​べし。 この​こころ​ひとつ​を​たもた​ん​は​やすき​こと​なり。

ただ声こえに出だし​て念仏ねんぶつばかり​を​となふる​ひと​は*おほやうなり、 それ​は極楽ごくらくには往おう生じょうせず。 この念仏ねんぶつの​いはれ​を​よく​しり​たる人ひとこそ​ほとけ​には成なる​べけれ。 なにのやうも​なく、 弥陀みだを​よく信しんずる​こころ​だに​も​ひとつ​に定さだまれ​ば、 やすく浄じょう土どへ​は​まゐる​べき​なり。

この​ほか​には、 わづらはしき*秘事ひじといひ​て、 ほとけ​をも拝おがま​ぬもの​は​いたづらもの​なり​と​おもふ​べし。

これ​によりて、 阿あ弥陀みだ如来にょらいの他た力りき本願ほんがんと申もうす​は、 すでに末代まつだい今いまの時ときの罪つみふかき機きを本ほんとして​すくひ​たまふ​がゆゑに、 在ざい家け止し住じゅうの​われら​ごとき​のために​は相応そうおうし​たる他た力りきの本願ほんがんなり。 あら、 ありがた​の弥陀みだ如来にょらいの誓願せいがんや、 あら、 ありがた​の釈しゃ迦か如来にょらいの*金言きんげんや。 仰あおぐ​べし、 信しんず​べし。

しかれば、 いふ​ところの​ごとく​こころえ​たらん人々ひとびとは、 これ​まことに当とう流りゅうの信心しんじんを決けつ定じょうし​たる念仏ねんぶつ行ぎょう者じゃの​すがた​なる​べし。

さて​この​うへには一いち期ごの​あひだ申もうす念仏ねんぶつの​こころ​は、 弥陀みだ如来にょらいの​われら1140を​やすく​たすけ​たまへ​る​ところの雨山あめやまの御ご恩おんを報ほうじ​たてまつら​んがため​の念仏ねんぶつなり​と​おもふ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねん八月はちがつ六むゆ日かこれ​を書かく。

(4)0128 大聖世尊章

 ^▼それ、 *つらつら人間にんげんの*あだなる体ていを案あんずる​に、 生しょうある​もの​は​かならず死しに帰きし、 盛さかんなる​もの​は​つひに衰おとろふる​ならひ​なり。 されば​ただ​いたづらに​あかし、 いたづらに​くらして、 年月ねんげつを送おくる​ばかり​なり。 これ​まことに​なげき​ても​なほ​かなしむ​べし。

^この​ゆゑに、 上かみは大だい聖しょう世せ尊そん (*釈尊) より​はじめ​て、 下しもは悪あく逆ぎゃくの提だい婆ばに​いたる​まで、 のがれがたき​は無む常じょうなり。

^しかれば、 まれに​も受うけがたき​は人身にんじん、 あひ​がたき​は仏法ぶっぽうなり。 たまたま仏法ぶっぽうに​あふ​こと​を得えたり​といふとも、 自じ力りき修しゅ行ぎょうの門もんは、 末代まつだいなれば、 今いまの時ときは*出しゅつ離り生しょう死じの​みち​は​かなひがたき​あひだ、 弥陀みだ如来にょらいの本願ほんがんに​あひ​たてまつら​ずは​いたづらごと​なり。

^しかるに​いま​すでに​われら弘ぐ願がんの一法いっぽうに​あふ​こと​を得えたり。 この​ゆゑに、 ただ​ねがふ​べき​は極楽ごくらく浄じょう土ど、 ただ​たのむ​べき​は弥陀みだ如来にょらい、 これ​によりて信心しんじん決けつ定じょうして念仏ねんぶつ申もうす​べき​なり。

^しかれば、 世よの​なか​に​ひと​の​あまねく​こころえおき​たる​とほり​は、 ただ1141声こえに出だし​て南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと​ばかり​となふれ​ば、 極楽ごくらくに往おう生じょうす​べき​やう​に​おもひ​はんべり。 それ​は​おほきに​おぼつかなき​こと​なり。

^されば南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと申もうす六ろく字じの体たいは​いかなる​こころ​ぞ​といふ​に、 阿あ弥陀みだ如来にょらいを一向いっこうに​たのめ​ば、 ほとけ​その衆しゅ生じょうを​よく​しろしめし​て、 すくひ0129たまへ​る御おんすがた​を、 この南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六ろく字じに​あらはし​たまふ​なり​と​おもふ​べき​なり。

^しかれば、 この阿あ弥陀みだ如来にょらいをば​いかが​して信しんじ​まゐらせ​て、 後ご生しょうの一いち大だい事じをば​たすかる​べき​ぞ​なれば、 なにの​わづらひ​も​なく、 もろもろ​の雑ぞう行ぎょう雑善ぞうぜんを​なげすて​て、 一心いっしん一向いっこうに弥陀みだ如来にょらいを​たのみ​まゐらせ​て、 ふたごころなく信しんじ​たてまつれ​ば、 その​たのむ衆しゅ生じょうを光こう明みょうを放はなち​て​その​ひかり​の​なか​に摂おさめ入いれ​おき​たまふ​なり。

^これをすなはち弥陀みだ如来にょらいの*摂取せっしゅの光益こうやくに​あづかる​と​は申もうす​なり。 また​は*不ふ捨しゃの誓益せいやくとも​これ​を​なづくる​なり。

^かくのごとく阿あ弥陀みだ如来にょらいの光こう明みょうの​うち​に摂おさめ​おか​れ​まゐらせ​て​の​うへには、 一いち期ごの​いのち尽つき​なば​ただちに真実しんじつの報ほう土どに往おう生じょうす​べき​こと、 その疑うたがいある​べから​ず。

^この​ほか​には別べつの仏ぶつをも​たのみ、 また余よの功く徳どく善根ぜんごんを修しゅし​ても​なに​にか​は​せん。 あら、 たふと​や、 あら、 ありがた​の阿あ弥陀みだ如来にょらいや。 かやう​の雨山あめやまの御ご恩おんをば​いかが​して報ほうじ​たてまつる​べき​ぞや。

^ただ南無なも阿あ1142弥陀みだ仏ぶつ、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと声こえに​となへ​て、 その恩徳おんどくを​ふかく報尽ほうじん申もうす​ばかり​なり​と​こころう​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねん八月はちがつ十じゅう八日はちにち

(5)0130 諸仏悲願章

 ▼そもそも、 諸仏しょぶつの悲ひ願がんに弥陀みだの本願ほんがんの​すぐれ​ましまし​たる、 その​いはれ​を​くはしく​たづぬる​に、 すでに十方じっぽうの諸仏しょぶつと申もうす​は、 いたりて罪つみふかき衆しゅ生じょうと、 五ご障しょう・三さん従しょうの女人にょにんをば​たすけ​たまは​ざる​なり。 この​ゆゑに諸仏しょぶつの願がんに阿あ弥陀みだ仏ぶつの本願ほんがんは​すぐれ​たり​と申もうす​なり。

さて弥陀みだ如来にょらいの超ちょう世せの大願だいがんは​いかなる機きの衆しゅ生じょうを​すくひ​まします​ぞ​と申もうせ​ば、 十じゅう悪あく・五ご逆ぎゃくの罪人ざいにんも、 五ご障しょう・三さん従しょうの女人にょにんに​いたる​まで​も、 みな​ことごとく​もらさ​ず​たすけ​たまへ​る大願だいがんなり。 されば一心いっしん一向いっこうに​われ​を​たのま​ん衆しゅ生じょうをば、 かならず十じゅう人にんあらば十じゅう人にんながら、 極楽ごくらくへ*引いん接じょうせん​と​のたまへ​る他た力りきの大だい誓願せいがん力りきなり。

これ​によりて、 かの阿あ弥陀みだ仏ぶつの本願ほんがんをば、 われら​ごとき​の​あさましき凡ぼん夫ぶは、 なにとやうに​たのみ、 なにとやうに機きを​もち​て、 かの弥陀みだをば​たのみ​まゐらす​べき​ぞや。 その​いはれ​を​くはしく​しめし​たまふ​べし。 その​をしへ​の​ごとく信心しんじんを​とり​て、 弥陀みだをも信しんじ、 極楽ごくらくをも1143ねがひ、 念仏ねんぶつをも申もうす​べき​なり。

 答こたへ​て​いはく、 まづ世せ間けんに​いま流布るふして​むねと​すすむる​ところの念仏ねんぶつと申もうす​は、 ただ*なにの分別ふんべつも​なく南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと​ばかり​となふれ​ば、 みな​たすかる​べき​やう​に​おもへ​り。 それ​は​おほきに​おぼつかなき​こと​なり。 京きょう・田舎いなかの​あひだ​において0131、 浄じょう土ど宗しゅうの流りゅう義ぎまちまちに​わかれ​たり。 しかれども、 それ​を是非ぜひする​には​あらず、 ただ​わが開山かいさん (親鸞) の*一いち流りゅう相伝そうでんの​おもむき​を申もうし​ひらく​べし。

それ、 解げ脱だつの耳みみを​すまし​て*渇仰かつごうの​かうべ​を​うなだれ​て​これ​を​ねんごろに​きき​て、 信心しんじん歓かん喜ぎの​おもひ​を​なす​べし。 それ、 在ざい家け止し住じゅうの​やから一いっ生しょう造悪ぞうあくの​もの​も、 ただ​わが身みの罪つみの​ふかき​には目めを​かけ​ず​して、 それ弥陀みだ如来にょらいの本願ほんがんと申もうす​は​かかる​あさましき機きを本ほんと​すくひ​まします不ふ思議しぎの願力がんりきぞ​と​ふかく信しんじ​て、 弥陀みだを一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつり​て、 他た力りきの信心しんじんといふ​こと​を一ひとつ​こころう​べし。

さて他た力りきの信心しんじんといふ体たいは​いかなる​こころ​ぞ​といふ​に、 この南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六ろく字じの名みょう号ごうの体たいは、 阿あ弥陀みだ仏ぶつの​われら​を​たすけ​たまへ​る​いはれ​を、 この南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの名みょう号ごうに​あらはし​ましまし​たる御おんすがた​ぞ​と​くはしく​こころえわけ​たる​をもつて、 他た力りきの信心しんじんを​え​たる人ひとと​は​いふ​なり。

この 「南無なも」 といふ二に1144字じは、 衆しゅ生じょうの阿あ弥陀みだ仏ぶつを一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつり​て、 たすけ​たまへ​と​おもひ​て、 余よ念ねんなき​こころ​を帰き命みょうと​は​いふ​なり。

つぎ​に 「阿あ弥陀みだ仏ぶつ」 といふ四よつ​の字じは、 南無なもと​たのむ衆しゅ生じょうを、 阿あ弥陀みだ仏ぶつの​もらさ​ず​すくひ​たまふ​こころ​なり。 この​こころ​を​すなはち摂取せっしゅ不ふ捨しゃと​は申もうす​なり。

「摂取せっしゅ不ふ捨しゃ」 といふは、 念仏ねんぶつの行ぎょう者じゃを弥陀みだ如来にょらいの光こう明みょうの​なか​に​をさめとり​て​すて​たまは​ず​といへる0132こころ​なり。

されば​この南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの体たいは、 われら​を阿あ弥陀みだ仏ぶつの​たすけ​たまへ​る*支し証しょうの​ため​に、 御名みなを​この南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六ろく字じに​あらはし​たまへ​る​なり​と​きこえ​たり。 かくのごとく​こころえわけ​ぬれ​ば、 われら​が極楽ごくらくの往おう生じょうは治じ定じょうなり。

あら、 ありがた​や、 たふと​や​と​おもひ​て、 この​うへには、 はや​ひとたび弥陀みだ如来にょらいに​たすけ​られ​まゐらせ​つる​のち​なれば、 御おんたすけ​あり​つる御おんうれしさ​の念仏ねんぶつなれば、 この念仏ねんぶつをば仏恩ぶっとん報謝ほうしゃの称名しょうみょうとも​いひ、 また信しんの​うへ​の称名しょうみょうとも申もうし​はんべる​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねん九く月がつ六むゆ日かこれ​を書かく。

(6) 唯能常称章

 ^▼それ、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと申もうす​は​いかなる​こころ​ぞ​なれば、 まづ 「南無なも」 といふ二に1145字じは、 帰き命みょうと発願ほつがん回え向こうと​の​ふたつ​の​こころ​なり。 また 「南無なも」 といふは願がんなり、 「阿あ弥陀みだ仏ぶつ」 といふは行ぎょうなり。

^されば雑ぞう行ぎょう雑善ぞうぜんを​なげすて​て専修せんじゅ専念せんねんに弥陀みだ如来にょらいを​たのみ​たてまつり​て、 たすけ​たまへ​と​おもふ帰き命みょうの一念いちねんおこる​とき、 かたじけなく​も遍へん照じょうの光こう明みょうを放はなち​て行ぎょう者じゃを摂取せっしゅし​たまふ​なり。 この​こころ​すなはち阿あ弥陀みだ仏ぶつの四よつ​の字じ0133の​こころ​なり。 また発願ほつがん回え向こうの​こころ​なり。

^これ​によりて、 「南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつ」 といふ六ろく字じは、 ひとへに​われら​が往おう生じょうす​べき他た力りき信心しんじんの​いはれ​を​あらはし​たまへ​る御名みななり​と​みえ​たり。

^この​ゆゑに、 願がん成じょう就じゅの文もん (*大経・下) には、 「▲聞もん其ご名みょう号ごう信心しんじん歓かん喜ぎ」 と説とか​れ​たり。 この文もんの​こころ​は、 「その名みょう号ごうを​きき​て信心しんじん歓かん喜ぎす」 といへり。

^「その名みょう号ごうを​きく」 といふは、 ただ​おほやうに​きく​に​あらず。 善ぜん知ぢ識しきに​あひ​て、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六むつ​の字じの​いはれ​を​よく​ききひらき​ぬれ​ば、 報ほう土どに往おう生じょうす​べき他た力りき信心しんじんの道どう理りなり​と​こころえ​られ​たり。 かるがゆゑに、 「信心しんじん歓かん喜ぎ」 といふは、 すなはち信心しんじん定さだまり​ぬれ​ば、 浄じょう土どの往おう生じょうは疑うたがいなく​おもう​て​よろこぶ​こころ​なり。

^この​ゆゑに弥陀みだ如来にょらいの*五ご劫こう兆ちょう載さい永劫ようごうの御ご苦く労ろうを案あんずる​にも、 われら​を​やすく​たすけ​たまふ​こと​の​ありがたさ、 たふとさ​を​おもへ​ば​なかなか申もうす​も​おろかなり。

^されば1146 ¬和わ讃さん¼ (正像末和讃) に​いはく、 「▲南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの回え向こうの 恩徳おんどく広大こうだい不ふ思議しぎにて 往相おうそう回え向こうの利り益やくには 還相げんそう回え向こうに回え入にゅうせ​り」 といへる​は​この​こころ​なり。

^また 「*正しょう信しん偈げ」 には​すでに 「▲唯能ゆいのう常称じょうしょう如来にょらい号ごう 応報おうほう大だい悲ひ弘ぐ誓ぜい恩おん」 と​あれば、 ^いよいよ行住ぎょうじゅう坐臥ざが時じ処しょ諸縁しょえんを​きらは​ず、 仏恩ぶっとん報尽ほうじんの​ため​に​ただ称名しょうみょう念仏ねんぶつす​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

0134*文明ぶんめい六年ろくねん十じゅう月がつ二十はつ日かこれ​を書かく。

(7) 彼此三業章

 ▼そもそも、 親鸞しんらん聖しょう人にんの​すすめ​たまふ​ところの一いち義ぎの​こころ​は、 ひとへに​これ末代まつだい濁じょく世せの在ざい家け無智むちの​ともがら​において、 なにの​わづらひ​も​なく、 すみやかに疾とく浄じょう土どに往おう生じょうす​べき他た力りき信心しんじんの一いち途ずばかり​をもつて*本ほんと​をしへ​たまへ​り。 しかれば、 それ阿あ弥陀みだ如来にょらいは、 すでに十じゅう悪あく・五ご逆ぎゃくの愚ぐ人にん、 五ご障しょう・三さん従しょうの女人にょにんに​いたる​まで、 ことごとく​すくひ​まします​といへる​こと​をば、 いかなる人ひとも​よく​しり​はんべり​ぬ。

しかるに​いま​われら凡ぼん夫ぶは、 阿あ弥陀みだ仏ぶつをば​いかやうに信しんじ、 なにとやうに​たのみ​まゐらせ​て、 かの極楽ごくらく世せ界かいへ​は往おう生じょうす​べき​ぞ​といふ​に、 ただ​ひとすぢに弥陀みだ如来にょらいを信しんじ​たてまつり​て、 その余よは​なにごと​も​うちすて1147て、 一向いっこうに弥陀みだに帰きし、 一心いっしんに本願ほんがんを信しんじ​て、 阿あ弥陀みだ如来にょらいにおいて​ふたごころなく​は、 かならず極楽ごくらくに往おう生じょうす​べし。 この道どう理りをもつて、 すなはち他た力りき信心しんじんを​え​たる​すがた​と​は​いふ​なり。

そもそも、 信心しんじんといふは、 阿あ弥陀みだ仏ぶつの本願ほんがんの​いはれ​を​よく分別ふんべつして、 一心いっしんに弥陀みだに帰き命みょうする​かた​をもつて、 他た力りきの安心あんじんを決けつ定じょうす​と​は申もうす​なり。 されば南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六ろく字じ0135の​いはれ​を​よく​こころえわけ​たる​をもつて、 信心しんじん決けつ定じょうの*体たいと​す。

しかれば、 「南無なも」 の二字にじは、 衆しゅ生じょうの阿あ弥陀みだ仏ぶつを*信しんずる機きなり。 つぎ​に 「阿あ弥陀みだ仏ぶつ」 といふ四よつ​の字じの​いはれ​は、 弥陀みだ如来にょらいの衆しゅ生じょうを*たすけ​たまへ​る法ほうなり。 この​ゆゑに、 機き法ほう一体いったいの南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつといへる​は​この​こころ​なり。

これ​によりて、 衆しゅ生じょうの三業さんごうと弥陀みだの三業さんごうと一体いったいに​なる​ところ​を​さし​て、 *善導ぜんどう和か尚しょうは 「▲彼此ひし三業さんごう不ふ相そう捨しゃ離り」 (*定善義) と釈しゃくし​たまへ​る​も、 この​こころ​なり。

されば一念いちねん帰き命みょうの信心しんじん決けつ定じょうせしめ​たらん人ひとは、 かならず​みな報ほう土どに往おう生じょうす​べき​こと、 さらに​もつて​その疑うたがいある​べから​ず。 あひかまへて自じ力りき執しゅう心しんの*わろき機きの​かた​をば​ふりすて​て、 ただ不ふ思議しぎの願力がんりきぞ​と​ふかく信しんじ​て、 弥陀みだを一心いっしんに​たのま​ん​ひと​は、 たとへば十じゅう人にんは十じゅう人にんながら、 みな真実しんじつ報ほう土どの往おう生じょうを​とぐ​べし。

この​うへには、 ひたすら弥陀みだ如来にょらいの1148御ご恩おんの​ふかき​こと​を​のみ​おもひ​たてまつり​て、 つね​に報謝ほうしゃの念仏ねんぶつを申もうす​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい七年しちねん二に月がつ二に十じゅう三日さんにち

(8) 当国他国十劫邪義章

 ▼そもそも、 このごろ当国とうごく他た国こくの​あひだ​において、 当とう流りゅう安心あんじんの​おもむき、 ことのほか相そう違いし​て、 みな人ひとごと0136に​われ​は​よく心こころ得えたり​と思おもひ​て、 さらに法ほう義ぎに​そむく​とほり​をも​あながちに人ひとに​あひ​たづね​て、 真実しんじつの信心しんじんを​とら​ん​と​おもふ人ひとすくなし。 これ​まことに​あさましき執しゅう心しんなり。

すみやかに​この心こころを*改がい悔け懴さん悔げして、 当とう流りゅう真実しんじつの信心しんじんに住じゅうし​て、 今こん度どの報ほう土ど往おう生じょうを決けつ定じょうせず​は、 まことに▲宝たからの山やまに入いり​て、 手てを​むなしく​して​かへら​ん​に​ことなら​ん​ものか。

この​ゆゑに​その信心しんじんの相そう違いし​たる詞ことばに​いはく、 「それ、 弥陀みだ如来にょらいは​すでに*十劫じっこう正しょう覚がくの​はじめ​より​われら​が往おう生じょうを定さだめ​たまへ​る​こと​を、 いまに​わすれ​ず疑うたがは​ざる​が​すなはち信心しんじんなり」 と​ばかり​こころえ​て、 弥陀みだに帰きし​て信心しんじん決けつ定じょうせしめ​たる分ぶんなく​は、 報ほう土ど往おう生じょうす​べから​ず。 されば*そばさま​なる​わろき​こころえ​なり。

これ​によりて、 当とう流りゅう安心あんじんの​その​すがた​を​あらはさ​ば、 すなはち南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの体たいを1149よく​こころうる​をもつて、 他た力りき信心しんじんを​え​たる​と​は​いふ​なり。

されば 「南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつ」 の六ろく字じを善導ぜんどう釈しゃくし​て​いはく、 「▲南無なもといふは帰き命みょう、 また​これ発願ほつがん回え向こうの義ぎなり」 (玄義分) といへり。 その意こころいかん​ぞ​なれば、 阿あ弥陀みだ如来にょらいの*因いん中ちゅうにおいて、 われら凡ぼん夫ぶの往おう生じょうの行ぎょうを定さだめ​たまふ​とき、 凡ぼん夫ぶの​なす​ところの回え向こうは自じ力りきなる​がゆゑに成じょう就じゅしがたき​に​より​て、 阿あ弥陀みだ如来にょらいの凡ぼん夫ぶの​ため​に御ご身労しんろうありて、 この回え向こうを​われら​に​あたへ​んがために回え向こう成じょう就じゅし​たまひ​て、 一念いちねん南無なもと帰き命みょうする​ところ​にて、 この回え向こうを​われら凡ぼん夫ぶに​あたへ​まします0137なり。

かるがゆゑに、 凡ぼん夫ぶの方かたより​なさ​ぬ回え向こうなる​がゆゑに、 これ​をもつて如来にょらいの回え向こうをば行ぎょう者じゃの​かた​より​は不ふ回え向こうと​は申もうす​なり。

この​いはれ​ある​がゆゑに、 「南無なも」 の二字にじは帰き命みょうの​こころ​なり、 また発願ほつがん回え向こうの​こころ​なり。 この​いはれ​なる​がゆゑに、 南無なもと帰き命みょうする衆しゅ生じょうを​かならず摂取せっしゅし​て捨すて​たまは​ざる​がゆゑに、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと​は申もうす​なり。 これ​すなはち一念いちねん帰き命みょうの他た力りき信心しんじんを獲ぎゃく得とくする平生へいぜい業ごう成じょうの念仏ねんぶつ行ぎょう者じゃといへる​は​この​こと​なり​と​しる​べし。

かくのごとく​こころえ​たらん人々ひとびとは、 いよいよ弥陀みだ如来にょらいの御ご恩徳おんどくの深遠じんじんなる​こと​を信しん知ちし​て、 行住ぎょうじゅう坐臥ざがに称名しょうみょう念仏ねんぶつす​べし。 これ​すなはち 「▲憶念おくねん弥陀みだ仏ぶつ本願ほんがん 自じ然ねん1150即そく時じ入にゅう必ひつ定じょう 唯能ゆいのう常称じょうしょう如来にょらい号ごう 応報おうほう大だい悲ひ弘ぐ誓ぜい恩おん」 (正信偈) といへる文もんの​こころ​なり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい七しち、 二に月がつ二に十じゅう五ご日にち

▼あすみんと おもふこゝろは さくら花 よるはあらしの ふかきものかは

(9) 御命日章

 ▼そもそも、 今日こんにちは鸞らん聖しょう人にん (親鸞) の御ご命日めいにちとして、 かならず報恩ほうおん謝徳しゃとくの​こころざし​を​はこば​ざる人ひと、 これ​すくなし。 しかれども、 かの諸人しょにんの​うへ​において、 あひ​こころう​べき​おもむき​は、 もし本願ほんがん他た力りきの真実しんじつ信心しんじんを獲ぎゃく得とくせ​ざらん未み安心あんじんの​ともがら​は、 今日こんにちに0138かぎり​て​あながちに*出しゅっ仕しを​いたし、 この講こう中ちゅうの座ざ敷しきを​ふさぐ​をもつて真しん宗しゅうの肝要かんようと​ばかり​おもは​ん人ひとは、 いかでか​わが聖しょう人にんの御ぎょ意いには​あひ​かなひがたし。

しかり​と​いへども、 わが在所ざいしょに​ありて報謝ほうしゃの​いとなみ​をも​はこば​ざらん​ひと​は、 *不ふ請しょうにも出しゅっ仕しを​いたし​ても​よろしかる​べき​か。 されば毎月まいがつ二に十じゅう八日はちにちごと​に​かならず出しゅっ仕しを​いたさ​ん​と​おもは​ん​ともがら​においては、 あひかまへて、 日ひごろ​の信心しんじんの​とほり決けつ定じょうせ​ざらん未み安心あんじんの​ひと​も、 すみやかに本願ほんがん真実しんじつの他た力りき信心しんじんを​とり​て、 わが身みの今こん度どの報ほう土ど往おう生じょうを決けつ定じょうせしめ​ん​こそ、 まことに聖しょう人にん報恩ほうおん謝徳しゃとくの*懇こん志しに​あひ​かなふ​べけれ。

また自じ1151身しんの極楽ごくらく往おう生じょうの一いち途ずも治じ定じょうし​をはり​ぬ​べき道どう理りなり。 これ​すなはち​まことに 「▲自じ信しん教きょう人にん信しん 難なん中ちゅう転てん更きょう難なん 大だい悲ひ伝でん普化ぷけ 真しん成じょう報ほう仏恩ぶっとん」 (*礼讃) といふ釈しゃく文もんの​こころ​にも符ふ合ごうせ​る​ものなり。

それ、 聖しょう人にん御ご入にゅう滅めつは​すでに*一いっ百ぴゃく余よ歳さいを経ふと​いへども、 かたじけなく​も目前もくぜんにおいて真影しんねいを拝はいし​たてまつる。 また*徳音とくいんは​はるかに無む常じょうの風かぜに​へだつ​と​いへども、 まのあたり*実じつ語ごを相そう承じょう血けち脈みゃくして​あきらかに耳みみの底そこに​のこし​て、 一いち流りゅうの他た力りき真実しんじつの信心しんじんいまに​たえ​せ​ざる​ものなり。

これ​によりて、 いま​この時じ節せつに​いたり​て、 本願ほんがん真実しんじつの信心しんじんを獲ぎゃく得とくせしむる人ひとなく​は、 まことに宿しゅく善ぜんの​もよほし​に​あづから​ぬ身みと​おもふ​べし。 *もし宿しゅく善ぜん開発かいほつの機きにても0139われら​なく​は、 むなしく今こん度どの往おう生じょうは不ふ定じょうなる​べき​こと、 なげき​ても​なほ​かなしむ​べき​は​ただ​この一いち事じなり。 しかるに​いま本願ほんがんの一道いちどうに​あひ​がたく​して、 まれに無む上じょうの本願ほんがんに​あふ​こと​を得えたり。 まことに​よろこび​の​なか​の​よろこび、 なにごと​か​これ​に​しか​ん。 たふとむ​べし、 信しんず​べし。

これ​によりて、 年月としつき日ひごろ​わが​こころ​の*わろき迷心めいしんを​ひるがへし​て、 たちまちに本願ほんがん一実いちじつの他た力りき信心しんじんに​もとづか​ん​ひと​は、 真実しんじつに聖しょう人にんの御ぎょ意いに​あひ​かなふ​べし。 これ​しかしながら、 今日こんにち聖しょう人にんの報恩ほうおん謝徳しゃとくの御おんこころざし​にも​あひ​そなはり1152つ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい七年しちねん五ご月がつ二に十じゅう八日はちにちこれ​を書かく。

(10) 神明六ヶ条章

 ▼そもそも、 当とう流りゅう門もん徒と中ちゅうにおいて、 この六ろく箇か条じょうの篇目へんもくの​むね​を​よく存ぞん知じして、 仏法ぶっぽうを内心ないしんに​ふかく信しんじ​て、 外げ相そうに​その​いろ​を​みせ​ぬ​やう​に​ふるまふ​べし。 しかれば、 このごろ当とう流りゅう念仏ねんぶつ者しゃにおいて、 わざと一いち流りゅうの​すがた​を他た宗しゅうに対たいし​て​これ​を​あらはす​こと、 もつてのほか​の​あやまり​なり。 所詮しょせん向きょう後こうこの題目だいもくの次し第だいを​まもり​て、 仏法ぶっぽうをば修しゅ行ぎょうす0140べし。 もし​この​むね​を​そむか​ん​ともがら​は、 ながく門もん徒と中ちゅうの*一列いちれつたる​べから​ざる​ものなり。

 一 神社じんじゃを​かろしむる​こと​ある​べから​ず。
 一 諸仏しょぶつ・菩ぼ薩さつならびに諸堂しょどうを​かろしむ​べから​ず。
 一 諸しょ宗しゅう・諸法しょほうを誹ひ謗ほうす​べから​ず。
 一 守しゅ護ご・地じ頭とうを疎そ略りゃくに​す​べから​ず。
 一 国くにの仏法ぶっぽうの次し第だい、 *非義ひぎたる​あひだ、 正しょう義ぎに​おもむく​べき事こと。
 一 当とう流りゅうに​たつる​ところの他た力りき信心しんじんをば内心ないしんに​ふかく決けつ定じょうす​べし。

 1153一ひとつ​には、 一切いっさいの神明しんめいと申もうす​は、 本ほん地じは仏ぶつ・菩ぼ薩さつの変へん化げにて​ましませ​ども、 この界かいの衆しゅ生じょうを​みる​に、 仏ぶつ・菩ぼ薩さつには​すこし​ちかづきにくく​おもふ​あひだ、 神明しんめいの方便ほうべんに、 仮かりに神かみと​あらはれ​て、 衆しゅ生じょうに縁えんを結むすび​て、 その​ちから​をもつて​たより​として、 つひに仏法ぶっぽうに​すすめいれ​んがため​なり。

これ​すなはち 「和わ光こう同塵どうじんは結縁けちえんの​はじめ、 八相はっそう成じょう道どうは利り物もつの​をはり」 (*摩訶止観) といへる​は​この​こころ​なり。 されば今いまの世よの衆しゅ生じょう、 仏法ぶっぽうを信しんじ念仏ねんぶつをも申もうさ​ん人ひとをば、 神明しんめいは*あながちに​わが本ほん意いと​おぼしめす​べし。 この​ゆゑに、 弥陀みだ一仏いちぶつの悲ひ願がんに帰きすれ​ば、 とりわけ神明しんめいを​あがめ0141ず信しんぜ​ね​ども、 その​うち​に​おなじく信しんずる​こころ​は​こもれ​る​ゆゑなり。

 二ふたつ​には、 諸仏しょぶつ・菩ぼ薩さつと申もうす​は、 神明しんめいの本ほん地じなれば、 今いまの時ときの衆しゅ生じょうは阿あ弥陀みだ如来にょらいを信しんじ念仏ねんぶつ申もうせ​ば、 一切いっさいの諸仏しょぶつ・菩ぼ薩さつは、 わが本ほん師し阿あ弥陀みだ如来にょらいを信しんずる​に、 その​いはれ​ある​によりて、 わが本懐ほんがいと​おぼしめす​がゆゑに、 別べっして諸仏しょぶつをとりわき信しんぜ​ね​ども、 阿あ弥陀みだ仏ぶつ一仏いちぶつを信しんじ​たてまつる​うち​に、 一切いっさいの諸仏しょぶつも菩ぼ薩さつも​みな​ことごとく​こもれ​る​がゆゑに、 ただ阿あ弥陀みだ如来にょらいを一心いっしん一向いっこうに帰き命みょうすれば、 一切いっさいの諸仏しょぶつの智慧ちえも功く徳どくも、 弥陀みだ一体いったいに帰きせ​ず​といふ​こと​なき​いはれ​なれば1154なり​と​しる​べし。

 三みつ​には、 諸しょ宗しゅう・諸法しょほうを誹ひ謗ほうする​こと​おほきなる​あやまり​なり。 その​いはれ​すでに*浄じょう土どの三さん部ぶ経きょうに​みえ​たり。 また諸しょ宗しゅうの学者がくしゃも、 念仏ねんぶつ者しゃをば​あながちに誹ひ謗ほうす​べから​ず。 自じ宗しゅう・他た宗しゅうともに​その​とが​のがれがたき​こと道どう理り必然ひつぜんせ​り。

 四よつ​には、 守しゅ護ご・地じ頭とうにおいて​は、 かぎり​ある年ねん貢ぐ*所当しょとうを​ねんごろに沙汰さたし、 その​ほか*仁じん義ぎをもつて本ほんと​す​べし。

 五いつつ​には、 国くにの仏法ぶっぽうの次し第だい、 当とう流りゅうの正しょう義ぎに​あらざる​あひだ、 かつは邪見じゃけんに​みえ​たり。 所詮しょせん自じ今こん以後いごにおいて​は、 当とう流りゅう真実しんじつの正しょう義ぎを​きき​て、 日ひごろ​の悪心あくしんを​ひるがへし​て0142、 善心ぜんしんに​おもむく​べき​ものなり。

 六むつ​には、 当とう流りゅう真実しんじつの念仏ねんぶつ者しゃといふは、 開山かいさん (親鸞) の定さだめおき​たまへ​る正しょう義ぎを​よく存ぞん知じして、 造悪ぞうあく不ふ善ぜんの身みながら極楽ごくらくの往おう生じょうを​とぐる​をもつて宗しゅうの本ほん意いと​す​べし。

それ一いち流りゅうの安心あんじんの正しょう義ぎの​おもむき​といふは、 なにのやうも​なく、 阿あ弥陀みだ如来にょらいを一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつり​て、 われ​は​あさましき悪業あくごう煩悩ぼんのうの身みなれども、 かかる​いたづらもの​を本ほんと​たすけ​たまへ​る弥陀みだ願力がんりきの強縁ごうえんなり​と不可ふか思議しぎに​おもひ​たてまつり​て、 一念いちねんも疑ぎ心しんなく、 おもふ​こころ​だに​も堅けん固ご1155なれば、 かならず弥陀みだは無礙むげの光こう明みょうを放はなち​て​その身みを摂取せっしゅし​たまふ​なり。

かやうに信心しんじん決けつ定じょうし​たらん​ひと​は、 十じゅう人にんは十じゅう人にんながら、 みな​ことごとく報ほう土どに往おう生じょうす​べし。 この​こころ​すなはち他た力りきの信心しんじんを決けつ定じょうし​たる​ひと​なり​といふ​べし。

この​うへ​に​なほ​こころう​べき​やう​は、 まことに​ありがたき阿あ弥陀みだ如来にょらいの広大こうだいの御ご恩おんなり​と​おもひ​て、 その仏恩ぶっとん報謝ほうしゃの​ため​に​は、 ね​ても​おき​ても​ただ南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと​ばかり​となふ​べき​なり。 されば​この​ほか​には、 また後ご生しょうの​ため​とて​は、 なにの不ふ足そくありて​か、 相伝そうでんも​なき​しら​ぬ*えせ法門ぼうもんを​いひ​て、 ひと​をも​まどはし、 *あまつさへ法ほう流りゅうをも​けがさ​ん​こと、 まことに​あさましき次し第だいに​あらず​や。 よくよく​おもひ​はからふ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あ0143なかしこ。

*文明ぶんめい七年しちねん七月しちがつ十じゅう五ご日にち

(11) 毎年不闕章

 ▼そもそも、 今月こんがつ二に十じゅう八日はちにちは開山かいさん聖しょう人にん (親鸞) *御ご正しょう忌きとして、 毎年まいねん*不ふ闕けつに​かの知ち恩おん報徳ほうとくの御おん仏ぶつ事じにおいて​は、 あらゆる国郡こくぐんその​ほか​いかなる卑ひ劣れつの​ともがら​まで​も、 その御ご恩おんを​しら​ざる​もの​は​まことに木石ぼくせきに​ことなら​ん​ものか。

これ​について*愚ぐ老ろう、 この四五しご箇か年ねんの​あひだ​は、 なにとなく*北陸ほくりくの山海さんかいの​かたほとり1156に居きょ住じゅうす​と​いへども、 はからざるに​いまに存命ぞんめいせしめ、 *この当国とうごくに​こえ、 はじめて今年こんねん、 聖しょう人にん御ご正しょう忌きの報恩ほうおん講こうに​あひ​たてまつる条じょう、 まことに​もつて不可ふか思議しぎの宿しゅく縁えん、 よろこび​ても​なほ​よろこぶ​べき​ものか。

しかれば、 自じ国こく他た国こくより来らい集じゅうの諸人しょにんにおいて、 まづ開山かいさん聖しょう人にんの定さだめ​おか​れ​し御おん掟おきての​むね​を​よく存ぞん知じす​べし。

その御おんことば​に​いはく、 「▲たとひ牛うし盗人ぬすびとと​は​よば​る​とも、 仏法ぶっぽう者しゃ・後世ごせ者しゃと​みゆる​やう​に振ふる舞まふ​べから​ず。 また外ほかには*仁じん・義ぎ・礼れい・智ち・信しんを​まもり​て王法おうぼうをもつて先さきと​し、 内心ないしんには​ふかく本願ほんがん他た力りきの信心しんじんを本ほんと​す​べき」 よし​を、 ねんごろに仰おおせ定さだめ​おか​れ​し​ところ0144に、

近代きんだいこのごろ​の人ひとの仏法ぶっぽう知しり顔がおの体ていたらく​を​みおよぶ​に、 外げ相そうには仏法ぶっぽうを信しんずる​よし​を​ひと​に​みえ​て、 内心ないしんには​さらに​もつて当とう流りゅう安心あんじんの一いち途ずを決けつ定じょうせしめ​たる分ぶんなく​して、 あまつさへ相伝そうでんも​せざる聖教しょうぎょうを​わが身みの*字じぢから​をもつて​これ​を​よみ​て、 しら​ぬ​えせ法門ぼうもんを​いひ​て、 自他じたの門もん徒と中ちゅうを経回けいがいして虚言きょごんを​かまへ、 *結けっ句く本ほん寺じより​の成敗せいばいと号ごうし​て人ひとを​たぶろかし、 物ものを​とり​て当とう流りゅうの一いち義ぎを​けがす条じょう、 真実しんじつ真実しんじつあさましき次し第だいに​あらず​や。

これ​によりて、 今月こんがつ二に十じゅう八日はちにちの御ご正しょう忌き七日しちにちの報恩ほうおん講こう中ちゅうにおいて、 わろき心しん中ちゅうの​とほり​を改がい悔け懴さん悔げして、 おのおの正しょう義ぎに​おもむか​ずは、 たとひ1157この七日しちにちの報恩ほうおん講こう中ちゅうにおいて、 *足あし手てを​はこび、 人ひとまね​ばかり​に報恩ほうおん謝徳しゃとくの​ため​と号ごうす​とも、 さらに​もつて​なにの*所詮しょせんも​ある​べから​ざる​ものなり。

されば弥陀みだ願力がんりきの信心しんじんを獲ぎゃく得とくせしめ​たらん人ひとの​うへ​において​こそ、 仏恩ぶっとん報尽ほうじんとも、 また師し徳とく報謝ほうしゃなんど​とも申もうす​こと​は​ある​べけれ。 この道どう理りを​よくよく​こころえ​て足あし手てをも​はこび、 聖しょう人にんをも​おもんじ​たてまつら​ん人ひとこそ、 真実しんじつに*冥みょう慮りょにも​あひ​かなひ、 また別べっして​は、 当月とうがつ御ご正しょう忌きの報恩ほうおん謝徳しゃとくの懇こん志しにも​ふかく​あひ​そなはり​つ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい七年しちねん十じゅう一月いちがつ二に十じゅう一日いちにちこれ​を書かく。

(120145) 宿善有無章

 ▼そもそも、 いにしへ近年きんねんこのごろ​の​あひだ​に、 諸国しょこく在々ざいざい所々しょしょにおいて、 随分ずいぶん、 仏法ぶっぽう者しゃと号ごうし​て法門ほうもんを讃嘆さんだんし勧かん化けを​いたす​ともがら​の​なか​において、 さらに真実しんじつに​わが​こころ当とう流りゅうの正しょう義ぎに​もとづか​ず​と​おぼゆる​なり。

その​ゆゑ​を​いかん​といふ​に、 まづ​かの心しん中ちゅうに​おもふやう​は、 われ​は仏法ぶっぽうの*根源こんげんを​よく知しり顔がおの体ていにて、 しかも​たれ​に相伝そうでんし​たる分ぶんも​なく​して、 あるいは縁えんの端はし、 障しょう子じの外そとにて、 ただ自じ然ねんと*ききとり法門ぼうもんの分斉ぶんざいをもつて、 真実しんじつに仏法ぶっぽうに​その​こころざし1158は​あさく​して、 われ​より​ほか​は仏法ぶっぽうの次し第だいを存ぞん知じし​たる​もの​なき​やう​に​おもひ​はんべり。

これ​によりて、 たまたま​も当とう流りゅうの正しょう義ぎを​かたのごとく讃嘆さんだんせしむる​ひと​を​みて​は、 あながちに​これ​を*偏へん執じゅうす。 すなはち​われ​ひとり​よく知しり顔がおの風ふ情ぜいは、 第一だいいちに憍きょう慢まんの​こころ​に​あらず​や。

かくのごとき​の心しん中ちゅうをもつて、 諸方しょほうの門もん徒と中ちゅうを経回けいがいし​て聖教しょうぎょうを​よみ、 あまつさへ​わたくし​の義ぎをもつて本ほん寺じより​の​つかひ​と号ごうし​て、 人ひとを*へつらひ、 虚言きょごんを​かまへ、 もの​を​とる​ばかり​なり。 これら​の​ひと​をば、 なにと​して​よき仏法ぶっぽう者しゃ、 また聖教しょうぎょうよみ​と​は​いふ​べき​をや。 あさまし​あさまし。 なげき​ても​なほ​なげく​べき​は​ただ​この一いち事じなり。

これ​によりて、 まづ当とう流りゅうの義ぎを​たて、 ひと​を勧かん化けせん​と​おもは0146ん​ともがら​において​は、 その勧かん化けの次し第だいを​よく存ぞん知じす​べき​ものなり。

 それ、 当とう流りゅうの他た力りき信心しんじんの​ひととほり​を​すすめ​ん​と​おもは​ん​には、 まづ宿しゅく善ぜん・無む宿しゅく善ぜんの機きを*沙汰さたす​べし。 されば​いかに昔むかしより当とう門もん徒とに​その名なを​かけ​たる​ひと​なり​とも、 無む宿しゅく善ぜんの機きは信心しんじんを​とり​がたし。 まことに宿しゅく善ぜん開発かいほつの機きは​おのづから信しんを決けつ定じょうす​べし。 されば無む宿しゅく善ぜんの機きの​まへ​において​は、 正しょう雑ぞう二に行ぎょうの沙汰さたを​する​とき​は、 かへりて誹ひ謗ほうの*もとゐ​と​なる​べき​なり。 この宿しゅく善ぜん・無む宿しゅく1159善ぜんの道どう理りを分別ふんべつせず​して、 手てびろ​に世せ間けんの​ひと​をも​はばから​ず勧かん化けを​いたす​こと、 もつてのほか​の当とう流りゅうの掟おきてに​あひ​そむけり。

されば ¬大だい経きょう¼ (下) に​のたまはく、 「▲若にゃく人にん無む善本ぜんぽん不ふ得とく聞もん此し経きょう」 とも​いひ、 「▲若にゃく聞もん此し経きょう 信しん楽ぎょう受じゅ持じ 難なん中ちゅう之し難なん 無過むか斯し難なん」 とも​いへ​り。

また善導ぜんどうは 「▲過去かこ已い曽ぞう 修しゅ習じゅう此し法ほう 今得こんとく重じゅう聞もん 則そく生しょう歓かん喜ぎ」 (*定善義) とも釈しゃくせ​り。

いづれの経きょう釈しゃくに​よる​とも、 すでに宿しゅく善ぜんに​かぎれ​り​と​みえ​たり。 しかれば、 宿しゅく善ぜんの機きを​まもり​て、 当とう流りゅうの法ほうをば​あたふ​べし​と​きこえ​たり。 この​おもむき​を​くはしく存ぞん知じして、 ひと​をば勧かん化けす​べし。

ことに​まづ王法おうぼうをもつて本ほんと​し、 仁じん義ぎを先として、 *世せ間けん通つう途ずの義ぎに順じゅんじ​て、 当とう流りゅう安心あんじんをば内心ないしんに​ふかく​たくはへ​て、 外げ相そうに法ほう流りゅうの​すがた​を他た宗しゅう・他家たけに​みえ​ぬ​やう​に​ふるまふ​べし。 この​こころ​をもつて当とう流りゅう真実しんじつの正しょう義ぎを​よく存ぞん知じせしめ​たる​ひと0147と​は​なづく​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい八年はちねん正しょう月がつ二に十じゅう七日しちにち

(13) 夫当流門徒中章

 ▼それ、 当とう流りゅう門もん徒と中ちゅうにおいて、 すでに安心あんじん決けつ定じょうせしめ​たらん人ひとの身みの​うへ​にも、 また未み決けつ定じょうの人ひとの安心あんじんを​とら​ん​と​おもは​ん人ひとも、 こころう​べき次し第だいは、 まづ1160ほか​には王法おうぼうを本ほんと​し、 諸神しょじん・諸仏しょぶつ・菩ぼ薩さつを​かろしめ​ず、 また諸しょ宗しゅう・諸法しょほうを謗ほうぜ​ず、 国くにところ​に​あらば守しゅ護ご・地じ頭とうに​むき​ては疎そ略りゃくなく、 かぎり​ある年ねん貢ぐ所当しょとうを*つぶさに沙汰さたを​いたし、 その​ほか仁じん義ぎをもつて本ほんと​し、 また後ご生しょうのために​は内心ないしんに阿あ弥陀みだ如来にょらいを一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつり​て、 自余じよの雑ぞう行ぎょう雑善ぞうぜんに​こころ​をば​とどめ​ず​して、 一念いちねんも疑ぎ心しんなく信しんじ​まゐらせ​ば、 かならず真実しんじつの極楽ごくらく浄じょう土どに往おう生じょうす​べし。

この​こころえ​の​とほり​をもつて、 すなはち弥陀みだ如来にょらいの他た力りきの信心しんじんを​え​たる念仏ねんぶつ行ぎょう者じゃの​すがた​と​は​いふ​べし。

かくのごとく念仏ねんぶつの信心しんじんを​とり​て​の​うへ​に、 なほ​おもふ​べき​やう​は、 さても​かかる​われら​ごとき​の​あさましき一いっ生しょう造悪ぞうあくの罪つみふかき身みながら、 ひとたび一念いちねん帰き命みょうの信心しんじんを​おこせ​ば、 仏ぶつの願力がんりきに​より​て​たやすく​たすけ0148たまへる弥陀みだ如来にょらいの不ふ思議しぎに​まします超ちょう世せの本願ほんがんの強縁ごうえんの​ありがたさ​よ​と、 ふかく​おもひ​たてまつり​て、 その御ご恩おん報謝ほうしゃの​ため​に​は、 ね​ても​さめ​ても​ただ念仏ねんぶつばかり​を​となへ​て、 かの弥陀みだ如来にょらいの仏恩ぶっとんを報ほうじ​たてまつる​べき​ばかり​なり。

この​うへには後ご生しょうの​ため​に​なに​を​しり​ても所用しょようなき​ところ​に、 ちかごろ​もつてのほか、 みな人ひとの​なにの不ふ足そくありて​か、 相伝そうでんも​なき​しら​ぬ*くせ法門ぼうもんを​いひ​て人ひとをも​まどはし、 また無む上じょうの法ほう流りゅうをも​けがさ​ん​こと1161、 まことに​もつて​あさましき次し第だいなり。 よくよく​おもひ​はからふ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい八年はちねん七月しちがつ十じゅう八日はちにち

釈しゃく証しょう如にょ(花押)

 

○ 四 帖

(1)0149 真宗念仏行者章

 ▼それ、 真しん宗しゅう念仏ねんぶつ行ぎょう者じゃの​なか​において、 法ほう義ぎについて​その​こころえ​なき次し第だいこれ​おほし。

しかるあひだ、 大概たいがいその​おもむき​を​あらはし​をはり​ぬ。 所詮しょせん自じ今こん以後いごは、 同心どうしんの行ぎょう者じゃは​この​ことば​をもつて本ほんと​す​べし。 これ​について​ふたつ​の​こころ​あり。 一ひとつ​には、 自じ身しんの往おう生じょうす​べき安心あんじんを​まづ治じ定じょうす​べし。 二ふたつ​には、 ひと​を勧かん化けせん​に宿しゅく善ぜん・無む宿しゅく善ぜんの​ふたつ​を分別ふんべつして勧かん化けを​いたす​べし。 この道どう理りを心しん中ちゅうに決けつ定じょうして​たもつ​べし。

しかれば、 わが往おう生じょうの一段いちだんにおいて​は、 内心ないしんに​ふかく一念いちねん発ぽっ起きの信心しんじんを​たくはへ​て、 しかも他た力りき仏恩ぶっとんの称名しょうみょうを*たしなみ1162、 その​うへ​には​なほ王法おうぼうを先さきとし、 仁じん義ぎを本ほんと​す​べし。 また諸仏しょぶつ・菩ぼ薩さつ等とうを疎そ略りゃくに​せず、 諸法しょほう・諸しょ宗しゅうを*軽きょう賎せんせず、 ただ世せ間けん通つう途ずの義ぎに順じゅんじ​て、 外げ相そうに当とう流りゅう法ほう義ぎの​すがた​を*他た宗しゅう・他た門もんの​ひと​に​みせ​ざる​をもつて、 当とう流りゅう聖しょう人にん (親鸞) の掟おきてを​まもる真しん宗しゅう念仏ねんぶつの行ぎょう者じゃと​いひ​つ​べし。

ことに当とう時じこのごろ​は、 あながちに偏へん執じゅうす​べき耳みみを​そばだて、 謗難ぼうなんの​くちびる​を​めぐらす​をもつて本ほんと​する時じ分ぶんたる​あひだ、 かたく​その用捨ようしゃある​べき​ものなり。

そもそも、 当とう流りゅうに​たつる​ところの他た力りきの三信さんしんといふは、 第だい十じゅう八はちの願がんに 「▲至し心しん信しん楽ぎょう欲よく生しょう我が国こく」 といへり。 これ​すなはち三信さんしんと​は​いへども、 ただ弥陀みだを​たのむ​ところの0150行ぎょう者じゃ帰き命みょうの一心いっしんなり。

そのゆゑは​いかん​といふ​に、 宿しゅく善ぜん開発かいほつの行ぎょう者じゃ、 一念いちねん弥陀みだに帰き命みょうせん​と​おもふ​こころ​の一念いちねんおこる*きざみ、 仏ぶつの*心光しんこう、 かの一念いちねん帰き命みょうの行ぎょう者じゃを摂取せっしゅし​たまふ。 その時じ節せつを​さし​て至し心しん・信しん楽ぎょう・欲よく生しょうの三信さんしんとも​いひ、 また​この​こころ​を願がん成じょう就じゅの文もん (*大経・下) には 「▲即得そくとく往おう生じょう住じゅ不ふ退転たいてん」 と説とけ​り。 あるいは​この位くらいを、 すなはち真実しんじつ信心しんじんの行ぎょう人にんとも、 宿しゅく因いん深厚じんこうの行ぎょう者じゃとも、 平生へいぜい業ごう成じょうの人ひととも​いふ​べし。 されば弥陀みだに帰き命みょうす​といふ​も、 信心しんじん獲ぎゃく得とくす​といふ​も、 宿しゅく善ぜんに​あらず​といふ​こと​なし。

しかれば、 念仏ねんぶつ往おう生じょうの根こん機きは、 宿しゅく因いん1163の​もよほし​に​あらず​は、 われら今こん度どの報ほう土ど往おう生じょうは不可ふかなり​と​みえ​たり。

この​こころ​を聖しょう人にんの御おんことば​には 「▲遇ぐ獲ぎゃく信心しんじん遠おん慶きょう宿しゅく縁えん」 (*文類聚鈔) と仰おおせ​られ​たり。 これ​によりて、 当とう流りゅうの​こころ​は、 人ひとを勧かん化けせん​と​おもふ​とも、 宿しゅく善ぜん・無む宿しゅく善ぜんの​ふたつ​を分別ふんべつせず​は​いたづらごと​なる​べし。 この​ゆゑに、 宿しゅく善ぜんの有無うむの根こん機きを​あひ​はかり​て人ひとをば勧かん化けす​べし。

しかれば、 近代きんだい当とう流りゅうの仏法ぶっぽう者しゃの風ふ情ぜいは、 是非ぜひの分別ふんべつなく当とう流りゅうの義ぎを*荒こう涼りょうに讃嘆さんだんせしむる​あひだ、 真しん宗しゅうの正しょう意い、 この​いはれ​に​より​て​あひ​すたれ​たり​と​きこえ​たり。 かくのごとき​ら​の次し第だいを委い細さいに存ぞん知じして、 当とう流りゅうの一いち義ぎをば讃嘆さんだんす​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

0151 *文明ぶんめい九く年ねん丁ひのとの酉とり正しょう月がつ八よう日か

(2) 定命章

 ▼それ、 人間にんげんの寿じゅ命みょうを​かぞふれ​ば、 *今いまの時ときの定命じょうみょうは五ご十じゅう六ろく歳さいなり。 しかるに当とう時じにおいて、 年とし五ご十じゅう六ろくまで生いき延のび​たらん人ひとは、 まことに​もつて*いかめしき​こと​なる​べし。

これ​によりて、 予よすでに*頽齢たいれい六ろく十じゅう三さん歳さいに​せまれ​り。 *勘篇かんべんすれば年としは​はや七年しちねんまで生いき延のび​ぬ。 これ​につけて​も、 前業ぜんごうの所感しょかんなれば、 いかなる病びょう患げんを​うけ​て​か死しの縁えんに​のぞま​ん​と​おぼつかなし。 これ​さらに​はから​ざる1164次し第だいなり。 ことに​もつて当とう時じの体ていたらく​を​みおよぶ​に、 *定じょう相そうなき時じ分ぶんなれば、 人間にんげんの​かなしさ​は​おもふやう​にも​なし。 あはれ死しな​ばや​と​おもは​ば、 やがて死しな​れ​なん世よにても​あらば、 などか​いま​まで​この世よに​すみ​はんべり​なん。

ただ​いそぎ​ても生うまれ​たき​は極楽ごくらく浄じょう土ど、 ねがう​ても​ねがひ​え​ん​もの​は無漏むろの仏体ぶったいなり。 しかれば、 一念いちねん帰き命みょうの他た力りき安心あんじんを仏ぶっ智ちより獲ぎゃく得とくせしめ​ん身みの上うえにおいて​は、 *畢ひつ命みょう為期いごまで仏恩ぶっとん報尽ほうじんの​ため​に称名しょうみょうを​つとめ​ん​に​いたり​ては、 あながちに​なにの不ふ足そくありて​か、 *先せん生しょうより定さだまれ​る​ところの死期しごを​いそが​ん​も、 かへりて​おろかに​まどひ​ぬる​か​とも​おもひ0152はんべる​なり。 この​ゆゑに愚ぐ老ろうが身しん上じょうに​あて​て​かくのごとく​おもへ​り。 たれの​ひとびと​も​この心しん中ちゅうに住じゅうす​べし。

ことに​もつて、 この世せ界かいの​ならひ​は老ろう少しょう不ふ定じょうにして電光でんこう朝ちょう露ろの​あだなる身みなれば、 いま​も無む常じょうの風かぜきたら​ん​こと​をば​しら​ぬ体ていにて​すぎゆき​て、 後ご生しょうをば​かつて​ねがは​ず、 ただ今こん生じょうをば​いつ​まで​も生いき延のび​んずる​やう​に​こそ​おもひ​はんべれ。 あさまし​といふ​も​なほ​おろかなり。 いそぎ今日こんにちより弥陀みだ如来にょらいの他た力りき本願ほんがんを​たのみ、 一向いっこうに無む量りょう寿じゅ仏ぶつに帰き命みょうして、 真実しんじつ報ほう土どの往おう生じょうを​ねがひ、 称名しょうみょう念仏ねんぶつせしむ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

 時とき1165に*文明ぶんめい九く年ねん九く月がつ十じゅう七日しちにちにはかに思おもひ出いづる​の​あひだ、 *辰たつの剋こく以い前ぜんに早々そうそうこれ​を書かき記しるし​をはり​ぬ。

*信しん証しょう院いん六ろく十じゅう三さん歳さい

  ▼かきおく​も​ふで​に​まかする​ふみ​なれば ことば​の​すゑ​ぞ​をかしかり​ける

(3) 当時世上章

 ▼それ、 *当とう時じ世せ上じょうの体ていたらく、 いつ​の​ころ​にか*落居らっきょす​べき​とも​おぼえ​はんべら​ざる風ふ情ぜいなり。

しかるあひだ、 諸国しょこく往来おうらいの通つう路ろに​いたる​まで​も、 たやすから​ざる時じ分ぶんなれば、 仏法ぶっぽう・世せ法ほうにつけて​も千万せんばん迷惑めいわくの​をりふし​なり。 これ​によりて、 あるいは霊仏れいぶつ0153・霊社れいしゃ参詣さんけいの諸人しょにんも​なし。 これ​につけて​も、 人間にんげんは老ろう少しょう不ふ定じょうと​きく​とき​は、 いそぎ​いかなる功く徳どく善根ぜんごんをも修しゅし、 いかなる菩ぼ提だい涅ね槃はんをも​ねがふ​べき​こと​なり。

しかるに今いまの世よも末法まっぽう濁じょく乱らんと​は​いひ​ながら、 ここ​に阿あ弥陀みだ如来にょらいの他た力りき本願ほんがんは、 今いまの時じ節せつは​いよいよ不可ふか思議しぎに​さかりなり。 されば​この広大こうだいの悲ひ願がんに​すがり​て、 在ざい家け止し住じゅうの​ともがら​において​は、 一念いちねんの信心しんじんを​とり​て法ほっ性しょう常じょう楽らくの浄じょう刹せつに往おう生じょうせず​は、 まことに​もつて宝たからの山やまに入り​て、 手てを​むなしく​して​かへら​ん​に似にたる​もの​か。 よくよく​こころ​を​しづめ​て​これ​を案あんず​べし1166。

しかれば、 諸仏しょぶつの本願ほんがんを​くはしく​たづぬる​に、 五ご障しょうの女人にょにん、 五ご逆ぎゃくの悪人あくにんをば​すくひ​たまふ​こと​かなは​ず​と​きこえ​たり。 これ​につけて​も阿あ弥陀みだ如来にょらいこそ​ひとり無む上じょう殊しゅ勝しょうの願がんを​おこし​て、 悪あく逆ぎゃくの凡ぼん夫ぶ、 五ご障しょうの女質にょしつをば、 われ​たすく​べき​といふ大願だいがんをば​おこし​たまひ​けり。 ありがたし​といふ​も​なほ​おろかなり。

これ​によりて、 むかし釈しゃく尊そん、 *霊りょう鷲じゅ山せんに​ましまし​て、 *一いち乗じょう法ほっ華けの妙みょう典でんを説とか​れ​し​とき、 *提だい婆ば・*阿あ闍じゃ世せの逆ぎゃく害がいを​おこし、 釈しゃ迦か、 *韋い提だいをして安あん養にょうを​ねがは​しめ​たまひ​し​によりて、 かたじけなく​も霊りょう山ぜん法ほっ華けの*会座えざを没もっし​て王おう宮ぐに降臨ごうりんして、 韋い提だい希け夫ぶ人にんの​ため​に浄じょう土どの教きょうを​ひろめ​ましまし​し​によりて、 弥陀みだの本願ほんがんこの​とき​に​あたり​て​さかんなり。

▲このゆゑに*法ほっ華けと念仏ねんぶつと同どう0154時じの教きょうといへる​こと​は、 この​いはれ​なり。 これ​すなはち末代まつだいの五ご逆ぎゃく・女人にょにんに安あん養にょうの往おう生じょうを​ねがは​しめ​んがため​の方便ほうべんに、 釈しゃ迦か、 韋い提だい・調じょう達だつ (提婆達多)・闍じゃ世せの五ご逆ぎゃくを​つくり​て、 かかる機きなれども、 不ふ思議しぎの本願ほんがんに帰きすれ​ば、 かならず安あん養にょうの往おう生じょうを​とぐる​ものなり​と​しら​せ​たまへ​り​と​しる​べし。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい九く歳さい九く月がつ二に十じゅう七日しちにちこれ​を記しるす。

(41167) 三首詠歌章

 ▼それ、 秋あきも去さり春はるも去さり​て、 年月としつきを送おくる​こと、 昨日きのうも過すぎ今日こんにちも過すぐ。 いつ​の​ま​にか​は年老ねんろうの​つもる​らん​とも​おぼえ​ず​しら​ざり​き。

しかるに​その​うち​には、 さりとも、 あるいは*花か鳥ちょう風月ふうげつの​あそび​にも​まじはり​つらん。 また歓楽かんらく苦く痛つうの悲喜ひきにも​あひ​はんべり​つらん​なれども、 いまに​それ​とも​おもひ​いだす​こと​とて​は​ひとつ​も​なし。 ただ​いたづらに​あかし、 いたづらに​くらし​て、 老おいの白しら髪がと​なりはて​ぬる身みの​ありさま​こそ​かなし​けれ。 されども今日こんにちまで​は無む常じょうの​はげしき風かぜにも​さそは​れ​ず​して、 *わが身みありがほ​の体ていを​つらつら案あんずる​に、 ただ夢ゆめの​ごとし、 幻まぼろしの​ごとし。 いま​において​は、 生しょう死じ出しゅつ離りの一道いちどうならでは、 ねがふ​べき​かた​とて​は​ひとつ​も​なく0155、 また​ふたつ​も​なし。

これ​によりて、 ここ​に*未み来らい悪あく世せの​われら​ごとき​の衆しゅ生じょうを​たやすく​たすけ​たまふ阿あ弥陀みだ如来にょらいの本願ほんがんの​まします​と​きけ​ば、 まことに​たのもしく、 ありがたく​も​おもひ​はんべる​なり。 この本願ほんがんを​ただ*一念いちねん無疑むぎに至し心しん帰き命みょうし​たてまつれ​ば、 わづらひ​も​なく、 *その​とき臨りん終じゅうせば往おう生じょう治じ定じょうす​べし。 もし​その​いのち​のび​なば、 一いち期ごの​あひだ​は仏恩ぶっとん報謝ほうしゃの​ため​に念仏ねんぶつして畢ひつ命みょうを期ごと​す​べし。 これ​すなはち平生へいぜい業ごう成じょうの​こころ​なる​べし​と、 たしかに聴ちょう聞もんせしむる​あひだ、 その決けつ定じょうの信心しんじんの​とほり、 いまに耳みみの底そこに1168退転たいてんせしむる​こと​なし。 ありがたし​といふ​も​なほ​おろかなる​ものなり。

されば弥陀みだ如来にょらい他た力りき本願ほんがんの​たふとさ​ありがたさ​のあまり、 かくのごとく口くちに​うかむ​に​まかせ​て​この​こころ​を詠えい歌かに​いはく、

  ▼ひとたびも ほとけ​を​たのむ​こころ​こそ まこと​の​のり​に​かなふ​みち​なれ

  ▼つみ​ふかく如来にょらいを​たのむ身みに​なれば のり​の​ちから​に西にしへ​こそ​ゆけ

  ▼法のりを​きく​みち​に​こころ​の​さだまれ​ば 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと​となへ​こそ​すれ と。

 わが身みながら​も本願ほんがんの一法いっぽうの殊しゅ勝しょうなる​あまり、 かく申もうし​はんべり​ぬ。 この三首さんしゅの歌うたの​こころ​は、 はじめ​は、 一念いちねん帰き命みょうの信心しんじん決けつ定じょうの​すがた​を​よみ​はんべり。 のち0156の歌うたは、 *入にゅう正定しょうじょう聚じゅの益やく、 *必ひっ至し滅めつ度どの​こころ​を​よみ​はんべり​ぬ。 つぎ​の​こころ​は、 *慶きょう喜き金剛こんごうの信心しんじんの​うへには、 知ち恩おん報徳ほうとくの​こころ​を​よみ​はんべり​し​なり。

されば他た力りきの信心しんじん発得ほっとくせしむる​うへ​なれば、 せめて​は​かやうに​くちずさみ​ても、 仏恩ぶっとん報尽ほうじんの​つとめ​にも​や​なり​ぬ​べき​とも​おもひ、 また​きく​ひと​も宿しゅく縁えんあらば、 などや​おなじ​こころ​に​なら​ざらん​と​おもひ​はんべり​し​なり。

しかるに予よすでに*七しち旬しゅんの​よはひ​に​および、 ことに愚ぐ闇あん無む才さいの身みとして、 *片腹かたはらいたく​も​かくのごとく*しら​ぬ​えせ法門ぼうもんを申もうす​こと、 かつは斟しん酌しゃくをも​かへりみ​ず、 ただ1169本願ほんがんの​ひとすぢ​の​たふとさ​ばかり​のあまり、 卑ひ劣れつの​この*ことの葉はを筆ふでに​まかせ​て書かきしるし​をはり​ぬ。 のち​に​み​ん人ひと、 そしり​を​なさ​ざれ。 これ​まことに*讃さん仏ぶつ乗じょうの縁えん・転てん法輪ぼうりんの因いんとも​なり​はんべり​ぬ​べし。 あひかまへて偏へん執じゅうを​なす​こと​ゆめゆめ​なかれ。

あなかしこ、 あなかしこ。

 時ときに*文明ぶんめい年ねん中ちゅう丁ひのと酉のとり*暮ぼ冬とう仲旬ちゅうじゅんの​ころ、 炉ろ辺へんにおいて暫ざん時じに​これ​を書かき記しるす​ものなり​と云々うんぬん。

 右みぎこの書しょは、 当所とうしょ*はりの木き原はら辺へんより*九く間けん在ざい家けへ*仏ぶっ照しょう寺じ所用しょようありて出行しゅつぎょうの​とき、 路次ろしにて​この書しょを​ひろひ​て*当坊とうぼうへ​もちきたれ​り。

*文明ぶんめい九く年ねん十じゅう二に月がつ二ふつ日か

(5)0157 中古以来章

 ▼それ、 *中ちゅう古こ以い来らい当とう時じに​いたる​まで​も、 当とう流りゅうの勧かん化けを​いたす​その人数にんじゅの​なか​において、 さらに宿しゅく善ぜんの有無うむといふ​こと​を​しらず​して勧かん化けを​なす​なり。

所詮しょせん自じ今こん以後いごにおいて​は、 この​いはれ​を存ぞん知じせしめ​て、 たとひ聖教しょうぎょうをも​よみ、 また暫ざん時じに法門ほうもんを​いは​ん​とき​も、 この​こころ​を覚かく悟ごして一いち流りゅうの法ほう義ぎをば讃嘆さんだんし、 あるいは​また仏法ぶっぽう聴ちょう聞もんの​ため​に​とて人数にんじゅおほく​あつまり​たらん​とき​も、 この人にん数じゅ1170の​なか​において、 もし無む宿しゅく善ぜんの機きや​ある​らん​と​おもひ​て、 一いち流りゅう真実しんじつの法ほう義ぎを沙汰さたす​べから​ざる​ところ​に、 近代きんだい人々ひとびとの勧かん化けする体ていたらく​を​みおよぶ​に、 この覚かく悟ごは​なく、 ただ​いづれの機きなり​とも​よく勧かん化けせば、 などか当とう流りゅうの安心あんじんに​もとづか​ざらん​やう​に​おもひ​はんべり​き。 これ​あやまり​と​しる​べし。 かくのごとき​の次し第だいを​ねんごろに存ぞん知じして、 当とう流りゅうの勧かん化けをば​いたす​べき​ものなり。

中ちゅう古ここのごろ​に​いたる​まで、 さらに​その​こころ​を得えて​うつくしく勧かん化けする人ひとなし。 これら​の​おもむき​を​よくよく覚かく悟ごして、 かたのごとく​の勧かん化けをば​いたす​べき​ものなり。

そもそも、 今月こんがつ二に十じゅう八日はちにちは、 毎年まいねんの儀ぎとして、 懈け怠だいなく開山かいさん聖しょう人にん (親鸞) の報恩ほうおん謝徳しゃとくの​ため​に念仏ねんぶつ勤ごん行ぎょうを​いたさ​ん​と擬ぎする人数にんじゅこれ​おほし。 まことに​もつて▲流ながれを汲くん​で本源ほんげんを​たづぬる道どう理りを0158存ぞん知じせ​る​がゆゑなり。 ひとへに​これ聖しょう人にんの勧かん化けの​あまねき​が​いたす​ところ​なり。

しかるあひだ、 近年きんねんことのほか当とう流りゅうに讃嘆さんだんせざる*ひが法門ぼうもんを​たて​て、 諸人しょにんを​まどは​しめ​て、 あるいは​その​ところ​の地じ頭とう・領りょう主しゅにも​とがめ​られ、 わが身みも悪見あくけんに住じゅうして、 当とう流りゅうの真実しんじつなる安心あんじんの​かた​も​ただしから​ざる​やう​に​みおよべ​り。 あさましき次し第だいに​あらず​や。 かなしむ​べし、 おそる​べし。

所詮しょせん今月こんがつ報恩ほうおん講こう七しち昼ちゅう夜やの​うち​において、 各々かくかくに改がい悔け1171の心こころを​おこし​て、 わが身みの​あやまれ​る​ところ​の心しん中ちゅうを心底しんていに​のこさ​ず​して、 *当とう寺じの*御ご影前えいぜんにおいて、 回え心しん懴さん悔げして、 諸人しょにんの耳みみに​これ​を​きか​しむる​やう​に毎日まいにち毎まい夜やに​かたる​べし。

これ​すなはち 「▲謗法ほうぼう闡提せんだい回え心しん皆往かいおう」 (*法事讃・上) の御おん釈しゃくにも​あひ​かなひ、 また 「▲自じ信しん教きょう人にん信しん」 (*礼讃) の義ぎにも相応そうおうす​べき​ものなり。 しからば​まことに​こころ​あら​ん人々ひとびとは、 この回え心しん懴さん悔げを​きき​ても、 げにも​と​おもひ​て、 おなじく日ひごろ​の悪心あくしんを​ひるがへし​て善心ぜんしんに​なりかへる人ひとも​ある​べし。 これ​ぞ​まことに今月こんがつ聖しょう人にんの御ぎょ忌きの本懐ほんがいに​あひ​かなふ​べし。 これ​すなはち報恩ほうおん謝徳しゃとくの懇こん志したる​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい十じゅう四よ年ねん十じゅう一月いちがつ二に十じゅう一日いちにち

(6)0159 三ヶ条章

 ▼そもそも、 当月とうがつの報恩ほうおん講こうは、 開山かいさん聖しょう人にん (親鸞) の御ご*遷せん化げの正しょう忌きとして、 例年れいねんの旧きゅう儀ぎと​す。

これ​によりて、 遠国えんごく近国きんごくの門もん徒との​たぐひ、 この時じ節せつに​あひ​あたり​て、 参詣さんけいの​こころざし​を​はこび、 報謝ほうしゃの​まこと​を​いたさ​ん​と欲ほっす。 しかるあひだ、 毎年まいねん*七しち昼ちゅう夜やの​あひだ​において、 念仏ねんぶつ勤ごん行ぎょうを​こらし​はげます。 これ​すなはち真実しんじつ信心しんじんの行ぎょう者じゃ繁はん昌じょうせしむる​ゆゑ​なり。 まことに​もつて*念仏ねんぶつ得とく堅けん固ごの時じ節せつ1172到来とうらいと​いひ​つ​べき​ものか。

この​ゆゑに、 一いち七しち箇か日にちの​あひだ​において参詣さんけいを​いたす​ともがら​の​なか​において、 まことに人ひとまね​ばかり​に御ご影前えいぜんへ出しゅっ仕しを​いたす​やから​これ​ある​べし。 かの*仁体じんたいにおいて、 はやく御ご影前えいぜんに​ひざまづい​て回え心しん懴さん悔げの​こころ​を​おこし​て、 本願ほんがんの正しょう意いに帰き入にゅうして、 一念いちねん発ぽっ起きの真実しんじつ信心しんじんを*まうく​べき​ものなり。

それ、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつといふは、 すなはち​これ念仏ねんぶつ行ぎょう者じゃの*安心あんじんの体たいなり​と​おもふ​べし。 その​ゆゑは、 「南無なも」 といふは帰き命みょうなり。 「即そく是ぜ帰き命みょう」 といふは、 われら​ごとき​の*無む善ぜん造悪ぞうあくの凡ぼん夫ぶの​うへ​において、 阿あ弥陀みだ仏ぶつを​たのみ​たてまつる​こころ​なり​と​しる​べし。 その​たのむ​こころ​といふは、 すなはち​これ、 阿あ弥陀みだ仏ぶつの、 衆しゅ生じょうを八万はちまん四し千せんの大だい光こう明みょうの​なか​に摂取せっしゅして、 往還おうげん二に種しゅの回え向こうを衆しゅ生じょうに​あたへ​まします​こころ​なり。

されば信心しんじんといふ​も別べつの​こころ​に​あらず0160。 みな南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの​うち​に​こもり​たる​もの​なり。

ちかごろ​は、 人ひとの別べつの​こと​の​やう​に​おもへ​り。 これ​について諸国しょこくにおいて、 当とう流りゅう門人もんにんの​なか​に、 おほく祖師そし (親鸞) の定さだめ​おか​るる​ところの聖教しょうぎょうの所判しょはんに​なき​くせ法門ぼうもんを沙汰さたして法ほう義ぎを​みだす条じょう、 もつてのほか​の次し第だいなり。 所詮しょせんかくのごとき​の​やから​において​は、 あひかまへて、 この一いち七しち箇か日にち報恩ほうおん講こうの​うち​にありて、 その​あやまり​を1173ひるがへし​て正しょう義ぎにもとづく​べき​ものなり。

 一 *仏法ぶっぽうを棟とう梁りょうし、 かたのごとく坊ぼう主ず分ぶんを​もち​たらん人ひとの身しん上じょうにおいて、 いささか​も相そう承じょうも​せざる​しら​ぬ​えせ法門ぼうもんをもつて人ひとに​かたり、 われ物ものしり​と​おもは​れ​ん​ため​に​とて、 近代きんだい在々ざいざい所々しょしょに繁はん昌じょうす​と云々うんぬん。 これ言ごん語ご道どう断だんの次し第だいなり。

 一 *京きょう都と本願ほんがん寺じ御ご影えいへ参詣さんけい申もうす身みなり​と​いひ​て、 いかなる人ひとの​なか​とも​いは​ず、 大道だいどう・大おお路じにても、 また*関せき・渡わたりの船せん中ちゅうにても、 はばからず*仏法ぶっぽう方がたの​こと​を人ひとに顕けん露ろに​かたる​こと、 おほきなる​あやまり​なり。

 一 人ひとありて​いはく、 「わが身みは​いかなる仏法ぶっぽうを信しんずる人ひとぞ」 と​あひ​たづぬる​こと​あり​とも、 しかと 「当とう流りゅうの念仏ねんぶつ者しゃなり」 と答こたふ​べから​ず。 ただ 「なに宗しゅうとも​なき、 念仏ねんぶつばかり​は​たふとき​こと​と存ぞんじ​たる​ばかり​なる​もの​なり」 と答こたふ​べし。 これ​すなはち当とう流りゅう0161聖しょう人にん (親鸞) の​をしへ​まします​ところの、 仏法ぶっぽう者しゃと​みえ​ざる人ひとの​すがた​なる​べし。

されば​これら​の​おもむき​を​よくよく存ぞん知じして、 外げ相そうに​その​いろ​を​みせ​ざる​をもつて、 当とう流りゅうの正しょう義ぎと​おもふ​べき​ものなり。 これ​について、 この両りょう三年さんねんの​あひだ報恩ほうおん講こう中ちゅうにおいて、 *衆しゅ中ちゅうとして定さだめおく1174ところの義ぎひとつ​として違い変へんある​べから​ず。 この衆しゅ中ちゅうにおいて万一まんいち相そう違いせしむる子し細さいこれ​あらば、 ながき世よ、 開山かいさん聖しょう人にん (親鸞) の御ご門もん徒とたる​べから​ざる​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい十じゅう五ご年ねん十じゅう一月いちがつ 日にち

(7) 六ヶ条章

 ▼そもそも、 今月こんがつ報恩ほうおん講こうの​こと、 例年れいねんの旧きゅう儀ぎとして七日しちにちの勤ごん行ぎょうを​いたす​ところ、 いまに​その退転たいてんなし。

しかるあひだ、 この時じ節せつに​あひ​あたり​て、 諸国しょこく*門葉もんようの​たぐひ、 報恩ほうおん謝徳しゃとくの懇こん志しを​はこび、 称名しょうみょう念仏ねんぶつの*本ほん行ぎょうを尽つくす。 まことに​これ専修せんじゅ専念せんねん決けつ定じょう往おう生じょうの徳とくなり。 この​ゆゑに諸国しょこく参詣さんけいの​ともがら​において、 一いち味みの安心あんじんに住じゅうする人ひとまれなる​べし​と​みえ​たり。 そのゆゑは真実しんじつに仏法ぶっぽうに​こころざし​は​なく​して、 ただ人ひとまね​ばかり、 あるいは*仁じん義ぎまで​の風ふ情ぜいならば、 まことに​もつて​なげかしき次し第だいなり。

その0162いはれ​いかん​といふ​に、 未み安心あんじんの​ともがら​は不ふ審しんの次し第だいをも沙汰さたせざる​とき​は、 不ふ信しんの​いたり​とも​おぼえ​はんべれ。 されば​はるばる​と万ばん里りの遠えん路ろを​しのぎ、 また莫大ばくだいの苦く労ろうを​いたし​て上じょう洛らくせしむる​ところ、 さらに​もつて​その所詮しょせんなし。 かなしむ​べし、 かなしむ​べし。 ただし*不ふ宿しゅく1175善ぜんの機きならば無む用ようと​いひ​つ​べき​ものか。

 一 近年きんねんは仏法ぶっぽう繁はん昌じょうとも​みえ​たれ​ども、 まことに​もつて坊ぼう主ず分ぶんの人ひとに​かぎり​て、 信心しんじんの​すがた一向いっこう*無ぶ沙汰さたなり​と​きこえ​たり。 もつてのほか​なげかしき次し第だいなり。

 一 *すゑずゑ​の門もん下かの​たぐひ​は、 他た力りきの信心しんじんの​とほり聴ちょう聞もんの​ともがら​これ​おほき​ところ​に、 坊ぼう主ずより​これ​を*腹ふく立りゅうせしむる​よし​きこえ​はんべり。 言ごん語ご道どう断だんの次し第だいなり。

 一 田舎いなかより参詣さんけいの面々めんめんの身しん上じょうにおいて​こころう​べき旨むねあり。 そのゆゑは、 他た人にんの​なか​とも​いは​ず、 また大道だいどう・路次ろしなんど​にても、 *関せき屋や・船せん中ちゅうをも​はばから​ず、 仏法ぶっぽう方がたの讃嘆さんだんを​する​こと*勿体もったいなき次し第だいなり。 かたく停ちょう止じす​べき​なり。

 一 当とう流りゅうの念仏ねんぶつ者しゃを、 あるいは人ひとありて、 「なに宗しゅうぞ」 と​あひ​たづぬる​こと​たとひ​あり​とも、 しかと 「当とう宗しゅう念仏ねんぶつ者しゃ」 と答こたふ​べから​ず。 ただ 「なに宗しゅうとも​なき念仏ねんぶつ者しゃなり」 と答こたふ​べし。 これ​すなはち​わが聖しょう人にん (親鸞) の仰おおせおか​るる​ところの、 *仏法ぶっぽう者しゃ気き色しょくみえ​ぬ0163ふるまひ​なる​べし。 この​おもむき​を​よくよく存ぞん知じして、 外げ相そうに​その​いろ​を​はたらく​べから​ず。 まことに​これ当とう流りゅうの念仏ねんぶつ者しゃの​ふるまひ1176の正しょう義ぎたる​べき​ものなり。

 一 仏法ぶっぽうの由ゆ来らいを、 障しょう子じ・かき​ごし​に聴ちょう聞もんして、 内心ないしんに​さぞ​と​たとひ領りょう解げす​といふ​とも、 かさねて人ひとにその​おもむき​を​よくよく​あひ​たづね​て、 信心しんじんの​かた​をば治じ定じょうす​べし。 その​まま​わが心こころに​まかせ​ば、 かならず​かならず​あやまり​なる​べし。 ちかごろ​これら​の子し細さい当とう時じさかんなり​と云々うんぬん。

 一 信心しんじんを​え​たる​とほり​をば、 いくたび​も​いくたび​も人ひとに​たづね​て他た力りきの安心あんじんをば治じ定じょうす​べし。 *一往いちおう聴ちょう聞もんして​は​かならず​あやまり​ある​べき​なり。

 右みぎこの六ろっ箇か条じょうの​おもむき​よくよく存ぞん知じす​べき​ものなり。 近年きんねん仏法ぶっぽうは人ひとみな聴ちょう聞もんす​と​は​いへども、 一往いちおうの義ぎを​きき​て、 真実しんじつに信心しんじん決けつ定じょうの人ひとこれ​なき​あひだ、 安心あんじんも*うとうとしき​がゆゑなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい十じゅう六年ろくねん十じゅう一月いちがつ二に十じゅう一日いちにち

(8) 八ヶ条章

 ▼そもそも、 今月こんがつ二に十じゅう八日はちにちの報恩ほうおん講こうは*昔しゃく年ねんより​の*流る例れいたり。 これによりて、 近国きんごく遠国えんごくの門葉もんよう0164、 報恩ほうおん謝徳しゃとくの懇こん志しを​はこぶ​ところ​なり。 *二に六ろく時じ中ちゅうの称名しょうみょう念仏ねんぶつ、 今こん古こ退転たいてんなし。

これ​すなはち開山かいさん聖しょう人にん (親鸞) の法ほう流りゅう、 *一天いってん四し海かいの勧かん化け比ひ類るい1177なき​が​いたす​ところ​なり。 この​ゆゑに七しち昼ちゅう夜やの時じ節せつに​あひ​あたり、 不ふ法ほう不ふ信しんの根こん機きにおいて​は、 往おう生じょう浄じょう土どの信心しんじん獲ぎゃく得とくせしむ​べき​ものなり。 これ​しかしながら、 今月こんがつ聖しょう人にんの*御ご正しょう忌きの報恩ほうおんたる​べし。 しからざら​ん​ともがら​において​は、 報恩ほうおん謝徳しゃとくの​こころざし​なき​に似にたる​ものか。

これ​によりて、 このごろ真しん宗しゅうの念仏ねんぶつ者しゃと号ごうする​なか​に、 まことに心底しんていより当とう流りゅうの安心あんじん決けつ定じょうなき​あひだ、 あるいは名みょう聞もん、 あるいは​ひとなみ​に報謝ほうしゃを​いたす​よし​の風ふ情ぜいこれ​あり。 もつてのほか​しかるべから​ざる次し第だいなり。

そのゆゑは、 すでに万ばん里りの遠えん路ろを​しのぎ莫大ばくだいの辛労しんろうを​いたし​て上じょう洛らくの​ともがら、 いたづらに名みょう聞もんひとなみ​の心しん中ちゅうに住じゅうする​こと口くち惜おしき次し第だいに​あらず​や。 すこぶる*不ふ足そくの所存しょぞんと​いひ​つ​べし。 ただし無む宿しゅく善ぜんの機きに​いたり​ては​ちから​およば​ず。 しかり​と​いへども、 *無二むにの懴さん悔げを​いたし、 一心いっしんの正しょう念ねんに​おもむか​ば、 いかでか聖しょう人にんの御ご本ほん意いに達たっせ​ざらん​ものを​や。

 一 諸国しょこく参詣さんけいの​ともがらの​なか​において、 在所ざいしょを​きらは​ず、 いかなる大道だいどう・大おお路じ、 また関せき屋や・渡わたりの船せん中ちゅうにても、 さらに​その​はばかり​なく仏法ぶっぽう方がたの次し第だいを顕けん露ろに人ひとに​かたる0165こと、 しかるべから​ざる事こと。

 一 在々ざいざい所々しょしょにおいて、 当とう流りゅうに​さらに沙汰さたせざる*めづらしき法門ほうもんを讃嘆さんだんし、 1178おなじく宗しゅう義ぎに​なき*おもしろき名みょう目もくなんど​を​つかふ人ひとこれ​おほし。 もつてのほか​の*僻案へきあんなり。 自じ今こん以後いご、 かたく停ちょう止じす​べき​ものなり。

 一 この七しち箇か日にち報恩ほうおん講こう中ちゅうにおいて​は、 一人いちにんも​のこら​ず信心しんじん未み定じょうの​ともがら​は、 心しん中ちゅうを​はばから​ず改がい悔け懴さん悔げの心こころを​おこし​て、 真実しんじつ信心しんじんを獲ぎゃく得とくす​べき​ものなり。

 一 もとより​わが安心あんじんの​おもむき​いまだ決けつ定じょうせしむる分ぶんも​なき​あひだ、 その不ふ審しんを​いたす​べき​ところ​に、 心しん中ちゅうを​つつみ​て​ありのまま​に​かたら​ざる​たぐひ​ある​べし。 これ​を​せめ​あひ​たづぬる​ところ​に、 ありのまま​に心しん中ちゅうを​かたら​ず​して、 *当とう場ばを​いひぬけ​ん​と​する人ひとのみ​なり。 勿体もったいなき次し第だいなり。 心しん中ちゅうを​のこさ​ず​かたり​て、 真実しんじつ信心しんじんに​もとづく​べき​ものなり。

 一 近年きんねん仏法ぶっぽうの棟とう梁りょうたる坊ぼう主ず達たち、 わが信心しんじんは​きはめて不ふ足そくにて、 *結けっ句く門もん徒と・同朋どうぼうは信心しんじんは決けつ定じょうする​あひだ、 坊ぼう主ずの信心しんじん不ふ足そくの​よし​を申もうせ​ば、 もつてのほか腹ふく立りゅうせしむる条じょう、 言ごん語ご道どう断だんの次し第だいなり。 以後いごにおいて​は、 師し弟ていともに一いち味みの安心あんじんに住じゅうす​べき事こと。

 0166一 坊ぼう主ず分ぶんの人ひと、 ちかごろ​は​ことのほか*重じゅう杯はいの​よし、 その​きこえ​あり。 言ごん語ご道どう断だんしかるべから​ざる次し第だいなり。 あながちに酒さけを飲のむ人ひとを停ちょう止じせよ​といふ​には1179あらず。 仏法ぶっぽうに​つけ門もん徒とに​つけ、 重じゅう杯はいなれば、 かならず​ややもすれば酔すい狂きょうのみ出しゅつ来らいせしむる​あひだ、 しかるべから​ず。 *さ​あら​ん​とき​は、 坊ぼう主ず分ぶんは停ちょう止じせ​られ​ても、 まことに*興こう隆りゅう仏法ぶっぽうとも​いひ​つ​べき​か。 しからずは、 *一盞いっさんにても​しかるべき​か。 これ​も仏法ぶっぽうに​こころざし​の​うすき​に​より​て​の​こと​なれば、 これ​を​とどま​ら​ざる​も道どう理りか。 ふかく思し案あんある​べき​ものなり。

 一 信心しんじん決けつ定じょうの​ひと​も、 *細々さいさいに同どう行ぎょうに会合かいごうの​とき​は、 あひ​たがひに*信心しんじんの沙汰さたあらば、 これ​すなはち真しん宗しゅう繁はん昌じょうの根元こんげんなり。

 一 当とう流りゅうの信心しんじん決けつ定じょうす​といふ体たいは、 すなはち南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六ろく字じの​すがた​と​こころう​べき​なり。 すでに善導ぜんどう釈しゃくし​て​いはく、 「▲言ごん南無なも者しゃ 即そく是ぜ帰き命みょう 亦やく是ぜ発願ほつがん回え向こう之し義ぎ 言ごん阿あ弥陀みだ仏ぶつ者しゃ 即そく是ぜ其ご行ぎょう」 (*玄義分) といへり。 「南無なも」 と衆しゅ生じょうが弥陀みだに帰き命みょうすれば、 阿あ弥陀みだ仏ぶつの​その衆しゅ生じょうを​よく​しろしめし​て、 万善まんぜん万まん行ぎょう恒沙ごうじゃの功く徳どくを​さづけ​たまふ​なり。 この​こころ​すなはち 「阿あ弥陀みだ仏ぶつ即そく是ぜ其ご行ぎょう」 といふ​こころ​なり。 この​ゆゑに、 南無なもと帰き命みょうする機きと阿あ弥陀みだ仏ぶつの​たすけ​まします法ほうと​が一体いったいなる​ところ​を​さし​て、 機き0167法ほう一体いったいの南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと​は申もうす​なり。

かるがゆゑに、 阿あ弥陀みだ仏ぶつの、 むかし法蔵ほうぞう比丘びくたり​し​とき、 「衆しゅ生じょう仏ぶつに成なら​ずは1180われ​も正しょう覚がく成なら​じ」 と誓ちかひ​まします​とき、 その正しょう覚がくすでに成じょうじ​たまひ​し​すがた​こそ、 いま​の南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつなり​と​こころう​べし。 これ​すなはち​われら​が往おう生じょうの定さだまり​たる証しょう拠こなり。 されば他た力りきの信心しんじん獲ぎゃく得とくす​といふ​も、 ただ​この六ろく字じの​こころ​なり​と*落居らっきょす​べき​ものなり。

 そもそも、 この八はち箇か条じょうの​おもむき​かくのごとし。 しかるあひだ、 *当とう寺じ建こん立りゅうは​すでに九く箇か年ねんに​およべ​り。 毎年まいねんの報恩ほうおん講こう中ちゅうにおいて、 面々めんめん各々かくかくに随分ずいぶん信心しんじん決けつ定じょうの​よし*領りょう納のうあり​と​いへども、 昨日きのう今日きょうまで​も、 その信心しんじんの​おもむき不ふ同どうなる​あひだ、 所詮しょせんなき​ものか。 しかり​と​いへども、 当年とうねんの報恩ほうおん講こう中ちゅうに​かぎり​て、 不ふ信心しんじんの​ともがら、 今月こんがつ報恩ほうおん講こうの​うち​に早速さっそくに真実しんじつ信心しんじんを獲ぎゃく得とくなく​は、 年々ねんねんを経ふといふ​とも*同篇どうへんたる​べき​やう​に​みえ​たり。

しかるあひだ愚ぐ老ろうが年齢ねんれいすでに*七しち旬しゅんに​あまり​て、 来年らいねんの報恩ほうおん講こうをも期ごし​がたき身みなる​あひだ、 各々かくかくに真実しんじつに決けつ定じょう信しんを​え​しめ​ん人ひとあらば、 一ひとつは聖しょう人にん今月こんがつの報謝ほうしゃの​ため、 一ひとつ​は愚ぐ老ろうが​この七八しちはっ箇か年ねんの​あひだ​の本懐ほんがいとも​おもひ​はんべる​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい十じゅう七年しちねん十じゅう一月いちがつ二に十じゅう三日さんにち

(91181) 疫0168癘章

 ▼当とう時じこのごろ、 ことのほか​に*疫癘えきれいとて​ひと死し去きょす。 これ​さらに疫癘えきれいによりて​はじめて死しする​には​あらず。 生うまれ​はじめ​し​より​して定さだまれる*定じょう業ごうなり。 さのみ​ふかく​おどろく​まじき​こと​なり。

しかれども、 今いまの時じ分ぶんに​あたり​て死し去きょする​とき​は、 *さも​あり​ぬ​べき​やう​に​みな​ひと​おもへ​り。 これ​まことに道どう理りぞかし。

この​ゆゑに▼阿あ弥陀みだ如来にょらいの仰おおせ​られ​ける​やう​は、 「末代まつだいの凡ぼん夫ぶ罪業ざいごうの​われら​たらん​もの、 罪つみは​いかほど​ふかく​とも、 われ​を一心いっしんに​たのま​ん衆しゅ生じょうをば、 かならず​すくふ​べし」 と仰おおせ​られ​たり。 かかる​とき​は​いよいよ阿あ弥陀みだ仏ぶつを​ふかく​たのみ​まゐらせ​て、 極楽ごくらくに往おう生じょうす​べし​と​おもひとり​て、 一向いっこう一心いっしんに弥陀みだを​たふとき​こと​と疑うたがふ​こころ露つゆちり​ほど​も​もつ​まじき​こと​なり。

かくのごとく​こころえ​の​うへには、 ね​ても​さめ​ても南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつ、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと申もうす​は、 かやうに​やすく​たすけ​まします御おんありがたさ御おんうれしさ​を申もうす御礼おんれいの​こころ​なり。 これ​を​すなはち仏恩ぶっとん報謝ほうしゃの念仏ねんぶつと​は申もうす​なり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*延徳えんとく四し年ねん六月ろくがつ 日にち

(100169) 今の世章

 ^▼今いまの世よに​あら​ん女人にょにんは、 みなみな​こころ​を一ひとつ​にして阿あ弥陀みだ如来にょらいを​ふかく​たのみ1182たてまつる​べし。 その​ほか​には、 いづれの法ほうを信しんず​といふ​とも、 後ご生しょうの​たすかる​といふ​こと​ゆめゆめ​ある​べから​ず​と​おもふ​べし。

^されば弥陀みだをば​なにとやうに​たのみ、 また後ご生しょうをば​なにと​ねがふ​べき​ぞ​といふ​に、 なにの​わづらひ​も​なく、 ただ一心いっしんに弥陀みだを​たのみ、 後ご生しょうたすけ​たまへ​と​ふかく​たのみ​まうさ​ん人ひとをば、 かならず御おんたすけ​あら​ん​こと​は、 さらさら​つゆ​ほど​も疑うたがいある​べから​ざる​ものなり。

^この​うへには、 はや、 しかと御おんたすけ​ある​べき​こと​の​ありがたさ​よ​と​おもひ​て、 仏恩ぶっとん報謝ほうしゃの​ため​に念仏ねんぶつ申もうす​べき​ばかり​なり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*八はち十じゅう三歳さんさい 御判

(11) 機法一体章

 ^▼南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと申もうすは、 いかなる心こころにて候そうろふ​や。 しかれば、 なにと弥陀みだを​たのみ​て報ほう土ど往おう生じょうをば​とぐ​べく候そうろふ​やらん。

^これ​を心こころ得うべき​やう​は、 まづ南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六ろく字じの​すがた​をよくよく心こころ得えわけ​て、 弥陀みだをば​たのむ​べし。

^そもそも、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの体たいは、 すなはち0170われら衆しゅ生じょうの後ご生しょうたすけ​たまへ​と​たのみ​まうす心こころなり。 すなはち​たのむ衆しゅ生じょうを阿あ弥陀みだ如来にょらいの​よく​しろしめし​て、 すでに*無む上じょう大だい利りの功く徳どくを​あたへ​まします​なり。 これ​を衆しゅ生じょうに回え向こうし​たまへ​る​といへる1183は​この心こころなり。

^されば弥陀みだを​たのむ機きを阿あ弥陀みだ仏ぶつの​たすけ​たまふ法ほうなる​がゆゑに、 これ​を機き法ほう一体いったいの南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつといへる​は​この​こころ​なり。 これ​すなはち​われら​が往おう生じょうの定さだまり​たる他た力りきの信心しんじんなり​と​は心こころ得うべき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*明応めいおう六年ろくねん五ご月がつ二に十じゅう五ご日にちこれ​を書かき​をはり​ぬ。       八はち十じゅう三歳さんさい

(12) 毎月両度章

 ^▼そもそも、 *毎月まいがつ両りょう度どの寄合よりあいの由ゆ来らいは​なにの​ため​ぞ​といふ​に、 さらに他たの​こと​に​あらず。 自じ身しんの往おう生じょう極楽ごくらくの信心しんじん獲ぎゃく得とくの​ため​なる​がゆゑなり。

^しかれば、 *往おう古こより今いまに​いたる​まで​も、 毎月まいがつの寄合よりあいといふ​こと​は、 いづく​にも​これ​あり​と​いへども、 さらに*信心しんじんの沙汰さたとて​は、 かつて​もつて​これ​なし。 ことに近年きんねんは、 いづく​にも寄合よりあいの​とき​は、 ただ*酒しゅ・飯はん・茶ちゃなんど​ばかり​にて​みなみな退散たいさんせ​り。 これ​は仏法ぶっぽうの本ほん意いには​しかるべから​ざる次し第だいなり。

^いかにも不ふ信しんの面々めんめんは、 *一段いちだんの不ふ審しんをも​たて​て、 信心しんじんの有無うむ0171を沙汰さたす​べき​ところ​に、 なにの所詮しょせんも​なく退散たいさんせしむる条じょう、 しかるべから​ず​おぼえ​はんべり。 よくよく思し案あんを​めぐらす​べき​こと​なり。

^所詮しょせん自じ今こん以後いごにおいて​は、 不ふ信しんの面々めんめんは​あひ​たがひに信心しんじんの讃さん1184嘆だんある​べき​こと肝要かんようなり。

 ^それ、 当とう流りゅうの安心あんじんの​おもむき​といふは、 あながちに​わが身みの罪ざい障しょうの​ふかき​に​よら​ず、 ただ​もろもろ​の雑ぞう行ぎょうの​こころ​を​やめ​て、 一心いっしんに阿あ弥陀みだ如来にょらいに帰き命みょうして、 今こん度どの一いち大だい事じの後ご生しょうたすけ​たまへ​と​ふかく​たのま​ん衆しゅ生じょうをば、 ことごとく​たすけ​たまふ​べき​こと、 さらに疑うたがいある​べから​ず。 かくのごとく​よく​こころえ​たる人ひとは、 まことに▲百ひゃく即そく百生ひゃくしょうなる​べき​なり。

^この​うへには、 毎月まいがつの寄合よりあいを​いたし​ても、 報恩ほうおん謝徳しゃとくの​ため​と​こころえ​なば、 これ​こそ真実しんじつの信心しんじんを*具ぐ足そくせしめ​たる行ぎょう者じゃとも​なづく​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*明応めいおう七年しちねん二に月がつ二に十じゅう五ご日にちこれ​を書かく。

毎月まいがつ両りょう度ど講こう衆しゅ中ちゅうへ 八はち十じゅう四し歳さい

(130172) 孟夏仲旬章

 ▼それ、 秋あき去さり春はる去さり、 すでに当年とうねんは明応めいおう第七だいしち*孟もう夏か仲旬ちゅうじゅんごろ​に​なり​ぬれ​ば、 予よが年齢ねんれいつもり​て八はち十じゅう四し歳さいぞかし。 しかるに当年とうねんに​かぎり​て、 ことのほか病びょう気きに​をかさるる​あひだ、 耳に目もく・手足しゅそく・身体しんたいこころやすから​ざる​あひだ、 これ​しかしながら*業ごう病びょうの​いたり​なり。 また​は往おう生じょう極楽ごくらくの*先相せんそうなり​と覚かく悟ごせしむる​ところ1185なり。

これ​によりて、 法然ほうねん聖しょう人にんの御おんことば​に​いはく、 「*浄じょう土どを​ねがふ行ぎょう人にんは、 病びょう患げんを得えて​ひとへに​これ​を​たのしむ」 と​こそ仰おおせ​られ​たり。 しかれども、 あながちに病びょう患げんを​よろこぶ​こころ、 さらに​もつて​おこら​ず。 あさましき身みなり。 はづ​べし、 かなしむ​べき​ものか。

さりながら予よが安心あんじんの一いち途ず、 一念いちねん発ぽっ起き平生へいぜい業ごう成じょうの宗しゅう旨しにおいて​は、 いま一いち定じょうの​あひだ仏恩ぶっとん報尽ほうじんの称名しょうみょうは行住ぎょうじゅう坐臥ざがに​わすれ​ざる​こと間断けんだんなし。

これ​について、 ▼ここ​に愚ぐ老ろう一身いっしんの述じゅっ懐かいこれ​あり。 その​いはれ​は、 われら居きょ住じゅうの在所ざいしょ在所ざいしょの門もん下かの​ともがら​において​は、 おほよそ心しん中ちゅうを​みおよぶ​に、 *とりつめ​て信心しんじん決けつ定じょうの​すがた​これ​なし​と​おもひ​はんべり。 おほきに​なげき​おもふ​ところ​なり。

そのゆゑは、 愚ぐ老ろうすでに*八はち旬しゅんの齢よわいすぐる​まで存ぞん命めいせしむる​しるし​には、 信心しんじん決けつ定じょうの行ぎょう者じゃ繁はん昌じょうありて​こそ、 いのち​ながき​しるし​とも​おもひ​はんべる​べき​に、 0173さらに​しかしかと​も決けつ定じょうせしむる​すがた​これ​なし​と​みおよべ​り。 その​いはれ​を​いかん​といふ​に、 そもそも人間にんげん界かいの老ろう少しょう不ふ定じょうの​こと​を​おもふ​につけて​も、 いかなる病やまいを​うけ​て​か死しせん​や。

かかる世よのなか​の風ふ情ぜいなれば、 いかにも一日いちにちも*片へん時じも​いそぎ​て信心しんじん決けつ定じょうして、 今こん度どの往おう生じょう極楽ごくらくを一いち定じょうして、 その​のち人間にんげんの​ありさま​に​まかせ​て、 世よを過すごす​べき​こと肝かん要よう1186なり​と​みなみな​こころう​べし。

この​おもむき​を心しん中ちゅうに​おもひいれ​て、 一念いちねんに弥陀みだを​たのむ​こころ​を​ふかく​おこす​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*明応めいおう七年しちねん*初しょ夏か*仲旬ちゅうじゅん第だい一日いちにち

八はち十じゅう四し歳さい*老衲ろうのうこれ​を書かく。

  ▼弥陀みだの名なを​きき​うる​こと​の​ある​ならば 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと​たのめ​みな​ひと

(14) 一流安心章

 ^▼一いち流りゅう安心あんじんの体たいといふ事こと。

 ^南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六ろく字じの​すがた​なり​と​しる​べし。

^この六ろく字じを善導ぜんどう大だい師し釈しゃくし​て​いはく、 「▲言ごん南無なも者しゃ 即そく是ぜ帰き命みょう 亦やく是ぜ発願ほつがん回え向こう之し義ぎ 言ごん阿あ弥陀みだ仏ぶつ者しゃ 即そく是ぜ其ご行ぎょう 以い斯し義ぎ故こ 必得ひっとく往おう生じょう」 (玄義分) 0174といへり。

^まづ 「南無なも」 といふ二字にじは、 すなはち帰き命みょうといふ​こころ​なり。 「帰き命みょう」 といふは、 衆しゅ生じょうの阿あ弥陀みだ仏ぶつ後ご生しょうたすけ​たまへ​と​たのみ​たてまつる​こころ​なり。

また 「発願ほつがん回え向こう」 といふは、 たのむ​ところの衆しゅ生じょうを摂取せっしゅして​すくひ​たまふ​こころ​なり。 これ​すなはち*やがて 「阿あ弥陀みだ仏ぶつ」 の四字しじの​こころ​なり。

^されば​われら​ごとき​の*愚痴ぐち闇鈍あんどんの衆しゅ生じょうは、 なにと​こころ​を​もち、 また弥陀みだをば​なにと​たのむ​べき​ぞ​といふ​に、 もろもろ​の雑ぞう1187行ぎょうを​すて​て一向いっこう一心いっしんに後ご生しょうたすけ​たまへ​と弥陀みだを​たのめ​ば、 決けつ定じょう極楽ごくらくに往おう生じょうす​べき​こと、 さらに​その疑うたがいある​べから​ず。

^この​ゆゑに南無なもの二字にじは、 衆しゅ生じょうの弥陀みだを​たのむ機きの​かた​なり。 また阿あ弥陀みだ仏ぶつの四字しじは、 たのむ衆しゅ生じょうを​たすけ​たまふ​かた​の法ほうなる​がゆゑに、 これ​すなはち機き法ほう一体いったいの南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと申もうす​こころ​なり。

^この道どう理りある​がゆゑに、 われら一切いっさい衆しゅ生じょうの往おう生じょうの体たいは南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと​きこえ​たり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*明応めいおう七年しちねん四し月がつ 日にち

(15) 大坂建立章

 ^▼そもそも、 当国とうごく摂せっ州しゅう*東ひがし成郡なりのこおり生玉いくたまの庄しょう内ない大坂おおざかといふ在所ざいしょは、 往おう古こより​いかなる約束やくそくの0175ありける​にや、 さんぬる*明応めいおう第だい五ごの秋あき下げ旬じゅんの​ころ​より、 *かりそめ​ながら​この在所ざいしょを​みそめ​し​より、 すでに​かたのごとく*一いち宇うの坊舎ぼうしゃを建こん立りゅうせしめ、 当年とうねんは​はや​すでに三年さんねんの星霜せいそうを​へ​たり​き。 これ​すなはち*往おう昔じゃくの宿しゅく縁えんあさから​ざる因縁いんねんなり​と​おぼえ​はんべり​ぬ。

^それ​について、 この在所ざいしょに居きょ住じゅうせしむる根元こんげんは、 あながちに一いっ生しょう涯がいを​こころやすく過すごし、 栄えい華が栄耀えいようを​このみ、 また花か鳥ちょう風月ふうげつにも​こころ​を​よせ​ず、 *あはれ無む上じょう菩ぼ提だいのために​は信心しんじん決けつ定じょうの行ぎょう者じゃ1188も繁はん昌じょうせしめ、 念仏ねんぶつをも申もうさ​ん​ともがら​も出しゅつ来らいせしむる​やう​にも​あれ​かし​と、 おもふ*一念いちねんの​こころざし​を​はこぶ​ばかり​なり。 また​いささか​も世せ間けんの人ひとなんど​も偏へん執じゅうの​やから​も​あり、 *むつかしき題目だいもくなんど​も出しゅつ来らいあら​ん​とき​は、 すみやかに​この在所ざいしょにおいて*執しゅう心しんの​こころ​を​やめ​て、 退たい出しゅつす​べき​ものなり。

^これ​によりて、 いよいよ貴き賎せん道俗どうぞくを​えらば​ず、 金剛こんごう堅けん固ごの信心しんじんを決けつ定じょうせしめ​ん​こと、 まことに弥陀みだ如来にょらいの本願ほんがんに​あひ​かなひ、 別べっして​は聖しょう人にん (親鸞) の御ご本ほん意いに*たり​ぬ​べき​ものか。

^それ​について、 愚ぐ老ろうすでに当年とうねんは八はち十じゅう四し歳さいまで存命ぞんめいせしむる条じょう不ふ思議しぎなり。 まことに当とう流りゅう法ほう義ぎにも*あひ​かなふ​か​の​あひだ、 本望ほんもうの​いたり​これ​に​すぐ​べから​ざる​ものか。

^しかれば、 愚ぐ老ろう当年とうねんの夏なつごろ​より*違い例れいせしめて、 いま​において*本復ほんぷくの​すがた​これ​なし。 つひに​は当年とうねん寒かん中ちゅうには0176かならず往おう生じょうの本懐ほんがいを​とぐ​べき条じょう一いち定じょうと​おもひ​はんべり。

^▼あはれ、 あはれ、 存命ぞんめいの​うち​に​みなみな信心しんじん決けつ定じょうあれ​かし​と、 *朝ちょう夕せきおもひ​はんべり。 まことに宿しゅく善ぜんまかせ​と​は​いひ​ながら、 述じゅっ懐かいの​こころ​しばらく​も​やむ​こと​なし。

^また​は​この在所ざいしょに三年さんねんの居きょ住じゅうを​ふる​その甲斐かいとも​おもふ​べし。 あひかまへて​あひかまへて、 この一いち七しち箇か日にち報恩ほうおん講こうの​うち​において、 信心しんじん決けつ定じょうありて、 われ​ひと一同いちどうに往おう生じょう1189極楽ごくらくの本ほん意いを​とげ​たまふ​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

 *明応めいおう七年しちねん十じゅう一月いちがつ二に十じゅう一日いちにちより​はじめ​て、 これ​を​よみ​て人々ひとびとに信しんを​とら​す​べき​ものなり。

釈しゃく証しょう如にょ(花押)

 

○ 五 帖

(1)0177 末代無智章

 ^▼末代まつだい無智むちの在ざい家け止し住じゅうの男女なんにょたらん​ともがら​は、 こころ​を​ひとつ​にして阿あ弥陀みだ仏ぶつを​ふかく​たのみ​まゐらせ​て、 さらに余よの​かた​へ​こころ​を​ふら​ず、 ▼一心いっしん一向いっこうに仏ぶつたすけ​たまへ​と申もうさん衆しゅ生じょうをば、 たとひ罪業ざいごうは深じん重じゅうなり​とも、 かならず弥陀みだ如来にょらいは​すくひ​まします​べし。

^これ​すなはち第だい十じゅう八はちの念仏ねんぶつ往おう生じょうの誓願せいがんの​こころ​なり。

^かくのごとく決けつ定じょうして​の​うへには、 ね​ても​さめ​ても​いのち​の​あら​ん​かぎり​は、 称名しょうみょう念仏ねんぶつす​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(21190) 八万法蔵章

 ^▼それ、 *八万はちまんの法蔵ほうぞうを​しる​といふ​とも、 *後世ごせを​しら​ざる人ひとを愚ぐ者しゃと​す。 たとひ*一文いちもん不知ふちの*尼あま入にゅう道どうなり​といふ​とも、 後世ごせを​しる​を智ち者しゃと​す​といへり。

^しかれば、 当とう流りゅうの​こころ​は、 あながちに​もろもろ​の聖教しょうぎょうを​よみ、 もの​を​しり​たり​といふ​とも、 一念いちねんの信心しんじんの​いはれ​を​しらざる人ひとは、 いたづらごと​なり​と​しる​べし。

^されば聖しょう人にん (親鸞) の御おんことば​にも、 「一切いっさいの男女なんにょたらん身みは、 弥陀みだの本願ほんがんを信しんぜ​ず​して​は、 *ふつと​たすかる​といふ​こと​ある​べから​ず」 と仰おおせ​られ​たり。

^この​ゆゑに​いかなる女人にょにんなり​といふ0178とも、 もろもろ​の雑ぞう行ぎょうを​すて​て、 一念いちねんに弥陀みだ如来にょらい今こん度どの後ご生しょうたすけ​たまへ​と​ふかく​たのみ​まうさ​ん人ひとは、 十じゅう人にんも百ひゃく人にんも​みな​ともに弥陀みだの報ほう土どに往おう生じょうす​べき​こと、 さらさら疑うたがいある​べから​ざる​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(3) 在家尼女房章

 ^▼それ、 在ざい家けの*尼あま女にょう房ぼうたらん身みは、 なにのやうも​なく、 一心いっしん一向いっこうに阿あ弥陀みだ仏ぶつを​ふかく​たのみ​まゐらせ​て、 後ご生しょうたすけ​たまへ​と申もうさ​ん​ひと​をば、 みなみな御おんたすけ​ある​べし​と​おもひとり​て、 さらに疑うたがいの​こころ​ゆめゆめ​ある​べから​ず。

^これ​すなはち*弥陀みだ如来にょらいの御おんちかひ​の他た力りき本願ほんがんと​は申もうす​なり。

^この​うへには、 なほ後ご1191生しょうの​たすから​ん​こと​の​うれしさ​ありがたさ​を​おもは​ば、 ただ南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつ、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと​となふ​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(4) 抑男子女人章

 ^▼そもそも、 男なん子しも女人にょにんも罪つもの​ふかから​ん​ともがら​は、 諸仏しょぶつの悲ひ願がんを​たのみ​ても、 今いまの時じ分ぶんは末代まつだい悪あく世せなれば、 諸仏しょぶつの御おんちから​にて​は、 なかなか​かなは​ざる時ときなり。 これ​によりて0179、 阿あ弥陀みだ如来にょらいと申もうし​たてまつる​は、 諸仏しょぶつに​すぐれ​て、 十じゅう悪あく・五ご逆ぎゃくの罪人ざいにんを​われ​たすけ​ん​といふ大願だいがんを​おこし​ましまし​て、 阿あ弥陀みだ仏ぶつと​なり​たまへ​り。

^「この仏ぶつを​ふかく​たのみ​て、 一念いちねん御おんたすけ候そうらへ​と申もうさ​ん衆しゅ生じょうを、 われ​たすけ​ずは正しょう覚がく成なら​じ」 と誓ちかひ​まします弥陀みだなれば、 われら​が極楽ごくらくに往おう生じょうせん​こと​は​さらに疑うたがいなし。

^この​ゆゑに、 一心いっしん一向いっこうに阿あ弥陀みだ如来にょらいたすけ​たまへ​と​ふかく心に疑うたがいなく信しんじ​て、 わが身みの罪つみの​ふかき​こと​をば*うちすて、 仏ぶつに​まかせ​まゐらせ​て、 一念いちねんの信心しんじん定さだまら​ん輩ともがらは、 十じゅう人にんは十じゅう人にんながら百ひゃく人にんは百ひゃく人にんながら、 みな浄じょう土どに往おう生じょうす​べき​こと、 さらに疑うたがいなし。

^この​うへには、 なほなほ​たふとく​おもひ​たてまつら​ん​こころ​の​おこら​ん​とき​は、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつ、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと、 時ときをも​いは​ず、 ところ​をも​きらは​ず、 念仏ねんぶつ申もうす​べし。 これ​を​すなはち仏ぶっ1192恩とん報謝ほうしゃの念仏ねんぶつと申もうす​なり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*▼南无といふ 二字の​うち​には 弥陀を​たのむ こゝろ​あり​と​は たれ​も​しる​べし

▼ほれぼれと 弥陀を​たのま​ん ひと​は​みな つみ​は​ほとけ​に まかす​べき​なり

▼つみ​ふかき ひと​を​たすくる のり​なれば 弥陀​に​まされる ほとけ​あら​じ​な

(5) 信心獲得章

 ^▼信心しんじん獲ぎゃく得とくす​といふは第だい十じゅう八はちの願がんを​こころうる​なり。 この願がんを​こころうる​といふは、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの*すがたを​こころうる​なり。 この​ゆゑに、 南無なもと帰き命みょうする一念いちねんの処ところに発願ほつがん回え向こうの​こころ​ある​べし。 これ​すなはち弥陀みだ如来にょらいの凡ぼん夫ぶに回え向こうし​まします0180こころ​なり。

^これ​を ¬*大だい経きょう¼ (上) には、 「▲令りょう諸しょ衆しゅ生じょう功く徳どく成じょう就じゅ」 と説とけ​り。 されば無始むし以い来らいつくり​と​つくる悪業あくごう煩悩ぼんのうを、 のこる​ところ​も​なく願力がんりき不ふ思議しぎをもつて消しょう滅めつする​いはれ​ある​がゆゑに、 正定しょうじょう聚じゅ不ふ退たいの位くらいに住じゅうす​となり。

^これ​によりて、 「▲煩悩ぼんのうを断だんぜ​ず​して涅ね槃はんをう」 といへる​は​この​こころ​なり。 この義ぎは*当とう流りゅう一いち途ずの所談しょだんなる​ものなり。 他た流りゅうの人ひとに対たいし​て、 かくのごとく*沙汰さたある​べから​ざる​ところ​なり。 よくよく​こころう​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(6) 一念大利章

 ^▼一念いちねんに弥陀みだを​たのみ​たてまつる行ぎょう者じゃには、 無む上じょう大だい利りの功く徳どくを​あたへ​たまふ​こころ​を、 ¬和わ讃さん¼ (*正像末和讃) に聖しょう人にん (親鸞) の​いはく、 「▲五ご濁じょく悪あく世せの有う情じょうの 選せん択じゃく本願ほんがん信しんずれ​ば 不可ふか称しょう不可ふか説せつ不可ふか思議しぎの 功く徳どくは行ぎょう者じゃの身みに​みて​り1193」。

^この和わ讃さんの心こころは、 「五ご濁じょく悪あく世せの衆しゅ生じょう」 といふは一切いっさいわれら女人にょにん・悪人あくにんの​こと​なり。

^されば​かかる​あさましき一いっ生しょう造悪ぞうあくの凡ぼん夫ぶなれども、 弥陀みだ如来にょらいを一心いっしん一向いっこうに​たのみ​まゐらせ​て、 後ご生しょうたすけ​たまへ​と申もうさ​ん​もの​をば、 かならず​すくひ​まします​べき​こと、 さらに疑うたがふ​べから​ず。

^かやうに弥陀みだを​たのみ​まうす​もの0181には、 不可ふか称しょう不可ふか説せつ不可ふか思議しぎの大だい功く徳どくを​あたへ​まします​なり。 「不可ふか称しょう不可ふか説せつ不可ふか思議しぎの功く徳どく」 といふ​こと​は、 かず​かぎり​も​なき大だい功く徳どくの​こと​なり。

^この大だい功く徳どくを、 一念いちねんに弥陀みだを​たのみ​まうす​われら衆しゅ生じょうに回え向こうし​まします​ゆゑに、 過去かこ・未み来らい・現在げんざいの三さん世ぜの業ごっ障しょう一いち時じに罪つみ消きえ​て、 正定しょうじょう聚じゅの位くらい、 また等とう正しょう覚がくの位くらいなんど​に定さだまる​ものなり。

^この​こころ​を​また ¬和わ讃さん¼ (正像末和讃・意) に​いはく、 「▲弥陀みだの本願ほんがん信しんず​べし 本願ほんがん信しんずる​ひと​は​みな 摂取せっしゅ不ふ捨しゃの利り益やくゆゑ 等とう正しょう覚がくに​いたる​なり」 といへり。

^「摂取せっしゅ不ふ捨しゃ」 といふは、 これ​も、 一念いちねんに弥陀みだを​たのみ​たてまつる衆しゅ生じょうを光こう明みょうの​なか​に​をさめとり​て、 信しんずる​こころ​だに​も​かはら​ねば、 すて​たまは​ず​といふ​こころ​なり。

^この​ほか​に​いろいろ​の法門ほうもんども​あり​と​いへども、 ただ一念いちねんに弥陀みだを​たのむ衆しゅ生じょうは​みな​ことごとく報ほう土どに往おう生じょうす​べき​こと、 ゆめゆめ疑うたがふ​こころ​ある​べから​ざる​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(71194) 五障三従章

 ▼それ、 女人にょにんの身みは、 五ご障しょう・三さん従しょうとて、 男おとこに​まさり​て​かかる​ふかき罪つみの​ある​なり。 この​ゆゑに一切いっさいの女人にょにんをば、 十方じっぽうに​まします諸仏しょぶつも、 わが​ちから​にて​は女人にょにんをば0182ほとけ​に​なし​たまふ​こと、 さらに​なし。

しかるに阿あ弥陀みだ如来にょらいこそ、 女人にょにんをば​われ​ひとり​たすけ​ん​といふ大願だいがん (第三十五願) を​おこし​て​すくひ​たまふ​なり。 この​ほとけ​を​たのま​ずは、 女人にょにんの身みの​ほとけ​に成なる​といふ​こと​ある​べから​ざる​なり。

これ​によりて、 なにと​こころ​をも​もち、 また​なにと阿あ弥陀みだほとけ​を​たのみ​まゐらせ​て​ほとけ​に成なる​べき​ぞ​なれば、 なにのやうも​いら​ず、 ただ​ふたごころなく一向いっこうに阿あ弥陀みだ仏ぶつばかり​を​たのみ​まゐらせ​て、 後ご生しょうたすけ​たまへ​と​おもふ​こころ​ひとつ​にて、 やすく​ほとけ​に成なる​べき​なり。

この​こころ​の*露つゆちり​ほど​も疑うたがいなけれ​ば、 かならず​かならず極楽ごくらくへ​まゐり​て、 *うつくしき​ほとけ​と​は成なる​べき​なり。

さて​この​うへ​に​こころう​べき​やう​は、 ときどき念仏ねんぶつを申もうし​て、 かかる​あさましき​われら​を​やすく​たすけ​まします阿あ弥陀みだ如来にょらいの御ご恩おんを、 御おんうれしさ​ありがたさ​を報ほうぜ​ん​ため​に、 念仏ねんぶつ申もうす​べき​ばかり​なり​と​こころう​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

(81195) 五劫思惟章

 ▼それ、 *五ご劫こう思し惟ゆいの本願ほんがんといふ​も、 *兆ちょう載さい永劫ようごうの修しゅ行ぎょうといふ​も、 ただ​われら一切いっさい衆しゅ生じょうを​あながちに​たすけ​たまは​んがため​の方便ほうべんに、 阿あ弥陀みだ如来にょらい、 御ご身労しんろうありて、 南無なも阿あ弥陀みだ0183仏ぶつといふ本願ほんがん (第十八願) を​たて​ましまし​て、 「まよひ​の衆しゅ生じょうの一念いちねんに阿あ弥陀みだ仏ぶつを​たのみ​まゐらせ​て、 もろもろ​の雑ぞう行ぎょうを​すて​て一向いっこう一心いっしんに弥陀みだを​たのま​ん衆しゅ生じょうを​たすけ​ずんば、 われ正しょう覚がく取とら​じ」 と誓ちかひ​たまひ​て、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと​なり​まします。 これ​すなはち​われら​が​やすく極楽ごくらくに往おう生じょうす​べき​いはれ​なり​と​しる​べし。

されば南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六ろく字じの​こころ​は、 一切いっさい衆しゅ生じょうの報ほう土どに往おう生じょうす​べき​すがた​なり。 この​ゆゑに南無なもと帰き命みょうすれば、 やがて阿あ弥陀みだ仏ぶつの​われら​を​たすけ​たまへ​る​こころ​なり。 この​ゆゑに 「南無なも」 の二字にじは、 衆しゅ生じょうの弥陀みだ如来にょらいに​むかひ​たてまつり​て後ご生しょうたすけ​たまへ​と申もうす​こころ​なる​べし。 かやうに弥陀みだを​たのむ人ひとを​もらさ​ず​すくひ​たまふ​こころ​こそ、 「阿あ弥陀みだ仏ぶつ」 の四字しじの​こころ​にて​ありけり​と​おもふ​べき​ものなり。

これ​によりて、 いかなる十じゅう悪あく・五ご逆ぎゃく、 五ご障しょう・三さん従しょうの女人にょにんなり​とも、 もろもろ​の雑ぞう行ぎょうを​すて​て、 ひたすら後ご生しょうたすけ​たまへ​と​たのま​ん人ひとをば、 たとへば十じゅう人にんも​あれ百ひゃく人にんも​あれ、 みな​ことごとく​もらさ​ず​たすけ​たまふ​べし。 この​おもむき​を疑うたがいなく信しんぜ​ん輩ともがらは、 真しん実じつ1196の弥陀みだの浄じょう土どに往おう生じょうす​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

(9)0184 一切聖教章

 ^▼当とう流りゅうの安心あんじんの一いち義ぎといふは、 ただ南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六ろく字じの​こころ​なり。

^たとへば南無なもと帰き命みょうすれば、 やがて阿あ弥陀みだ仏ぶつの​たすけ​たまへ​る​こころ​なる​がゆゑに、 「南無なも」 の二字にじは帰き命みょうの​こころ​なり。

^「帰き命みょう」 といふは、 衆しゅ生じょうの、 もろもろ​の▼雑ぞう行ぎょうを​すて​て、 阿あ弥陀みだ仏ぶつ後ご生しょうたすけ​たまへ​と一向いっこうに​たのみ​たてまつる​こころ​なる​べし。

^この​ゆゑに衆しゅ生じょうを​もらさ​ず弥陀みだ如来にょらいの​よく​しろしめし​て、 たすけ​まします​こころ​なり。 これ​によりて、 南無なもと​たのむ衆しゅ生じょうを阿あ弥陀みだ仏ぶつの​たすけ​まします道どう理りなる​がゆゑに、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六ろく字じの​すがた​は、 すなはち​われら一切いっさい衆しゅ生じょうの平びょう等どうに​たすかり​つる​すがた​なり​と​しら​るる​なり。

^されば他た力りきの信心しんじんを​うる​といふ​も、 これ​しかしながら南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六ろく字じの​こころ​なり。 この​ゆゑに一切いっさいの聖教しょうぎょうといふ​も、 ただ南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六ろく字じを信しんぜ​しめ​んがため​なり​といふ​こころ​なり​と​おもふ​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(10) 聖人一流章

 ^▼聖しょう人にん (親鸞) 一いち流りゅうの御ご勧かん化けの​おもむき​は、 信心しんじんをもつて*本ほんと​せ​られ候そうろふ。 その1197ゆゑは、 もろもろ0185の雑ぞう行ぎょうを​なげすて​て、 一心いっしんに弥陀みだに帰き命みょうすれば、 不可ふか思議しぎの願力がんりきとして、 仏ぶつの​かた​より往おう生じょうは治じ定じょうせしめ​たまふ。

^その位くらいを 「▲一念いちねん発ぽっ起き入にゅう正定しょうじょう之し聚じゅ」 (*論註・上意) とも釈しゃくし、 その​うへ​の称名しょうみょう念仏ねんぶつは、 如来にょらいわが往おう生じょうを定さだめ​たまひ​し御ご恩おん報尽ほうじんの念仏ねんぶつと​こころう​べき​なり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(11) 御正忌章

 ^▼そもそも、 この御ご正しょう忌きの​うち​に参詣さんけいを​いたし、 こころざし​を​はこび、 報恩ほうおん謝徳しゃとくを​なさ​ん​と​おもひ​て、 *聖しょう人にんの御おんまへ​に​まゐら​ん​ひと​の​なか​において、 信心しんじんを獲ぎゃく得とくせしめ​たる​ひと​も​ある​べし、 また不ふ信心しんじんの​ともがら​も​ある​べし。 *もつてのほかの大だい事じなり。

^そのゆゑは、 信心しんじんを決けつ定じょうせず​は今こん度どの報ほう土どの往おう生じょうは不ふ定じょうなり。 されば不ふ信しんの​ひと​も​すみやかに決けつ定じょうの​こころ​を​とる​べし。

^*人間にんげんは不ふ定じょうの​さかひ​なり。 *極楽ごくらくは常住じょうじゅうの国くになり。 されば不ふ定じょうの人間にんげんに​あら​ん​より​も、 常住じょうじゅうの極楽ごくらくを​ねがふ​べき​ものなり。 されば当とう流りゅうには信心しんじんの​かた​をもつて先さきと​せ​られ​たる​その​ゆゑ​を​よく​しら​ずは、 いたづらごと​なり。 いそぎ​て安心あんじん決けつ定じょうし​て、 浄じょう土どの往おう生じょうを​ねがふ​べき​なり。

^それ*人間にんげんに流布るふして​みな人ひとの​こころえ​たる​とほり​は、 なにの分別ふんべつも​なく口くちに​ただ称しょう0186名みょうばかり​を​となへ​たら​ば、 極楽ごくらくに1198往おう生じょうす​べき​やう​に​おもへ​り。 それ​は​おほきに​おぼつかなき次し第だいなり。

^他た力りきの信心しんじんを​とる​といふ​も、 別べつの​こと​には​あらず。 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六むつ​の字じの​こころ​を​よく​しり​たる​をもつて、 信心しんじん決けつ定じょうす​と​は​いふ​なり。

^そもそも、 信心しんじんの体たいといふ​は、 ¬経きょう¼ (大経・下) に​いはく、 「▲聞もん其ご名みょう号ごう信心しんじん歓かん喜ぎ」 といへり。

^*善導ぜんどうの​いはく、 「▲ª南無なもº といふは帰き命みょう、 また​これ発願ほつがん回え向こうの義ぎなり。 ª阿あ弥陀みだ仏ぶつº といふは​すなはち​その行ぎょう」 (*玄義分) といへり。

^「南無なも」 といふ二字にじの​こころ​は、 もろもろ​の雑ぞう行ぎょうを​すて​て、 疑うたがいなく一心いっしん一向いっこうに阿あ弥陀みだ仏ぶつを​たのみ​たてまつる​こころ​なり。

^さて 「阿あ弥陀みだ仏ぶつ」 といふ四よつ​の字じの​こころ​は、 一心いっしんに弥陀みだを帰き命みょうする衆しゅ生じょうを、 やう​も​なく​たすけ​たまへ​る​いはれ​が、 すなはち阿あ弥陀みだ仏ぶつの四よつ​の字じの​こころ​なり。

^されば南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの体たいを​かくのごとく​こころえわけ​たる​を、 信心しんじんを​とる​と​は​いふ​なり。 これ​すなはち他た力りきの信心しんじんを​よく​こころえ​たる念仏ねんぶつの行ぎょう者じゃと​は申もうす​なり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(12) 御袖章

 ^▼当とう流りゅうの安心あんじんの​おもむき​を​くはしく​しら​ん​と​おもは​ん​ひと​は、 あながちに智慧ちえ・才学さいかく0187も​いら​ず、 ただ​わが身みは罪つみふかき​あさましき​もの​なり​と​おもひとり​て1199、 かかる機きまで​も​たすけ​たまへ​る​ほとけ​は阿あ弥陀みだ如来にょらいばかり​なり​と​しり​て、 なにのやうも​なく、 ひとすぢに​この阿あ弥陀みだほとけ​の御袖おんそでに​ひしと​すがり​まゐらする​おもひ​を​なし​て、 後ご生しょうを​たすけ​たまへ​と​たのみ​まうせ​ば、 この阿あ弥陀みだ如来にょらいは​ふかく​よろこび​ましまし​て、 その御おん身みより八万はちまん四し千せんの​おほきなる光こう明みょうを放はなち​て、 その光こう明みょうの​なか​に​その人ひとを摂おさめ入いれ​て​おき​たまふ​べし。

^されば​この​こころ​を ¬経きょう¼ (*観経) には、 「▲光こう明みょう遍へん照じょう 十方じっぽう世せ界かい 念仏ねんぶつ衆しゅ生じょう 摂取せっしゅ不ふ捨しゃ」 と​は説とか​れ​たり​と​こころう​べし。 さては​わが身みの​ほとけ​に成なら​んずる​こと​は、 なにの​わづらひ​も​なし。

^あら、 殊しゅ勝しょうの超ちょう世せの本願ほんがんや、 ありがた​の弥陀みだ如来にょらいの光こう明みょうや。 この光こう明みょうの縁えんに​あひ​たてまつら​ずは、 無始むしより​このかた​の無む明みょう業ごっ障しょうの​おそろしき病やまいの​なほる​といふ​こと​は、 さらに​もつて​ある​べから​ざる​ものなり。

^しかるに​この光こう明みょうの縁えんに​もよほさ​れ​て、 宿しゅく善ぜんの機きありて、 他た力りき信心しんじんといふ​こと​をば​いま​すでに​え​たり。 これ​しかしながら、 弥陀みだ如来にょらいの御おんかた​より​さづけ​ましまし​たる信心しんじんと​は​やがて​あらはに​しら​れ​たり。

^かるがゆゑに行ぎょう者じゃの​おこす​ところの信心しんじんに​あらず、 弥陀みだ如来にょらい他た力りきの大だい信心しんじんといふ​こと​は、 いま​こそ​あきらかに​しら​れ​たり。

^これ​によりて、 かたじけなく​も​ひとたび0188他た力りきの信心しんじんを​え​たらん1200人ひとは、 みな弥陀みだ如来にょらいの御ご恩おんを​おもひはかり​て、 仏恩ぶっとん報謝ほうしゃの​ため​に​つね​に称名しょうみょう念仏ねんぶつを申もうし​たてまつる​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(13) 無上甚深章

 ^▼それ、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと申もうす文もん字じは、 その数かずわづかに六ろく字じなれば、 さのみ功く能のうの​ある​べき​とも​おぼえ​ざる​に、 この六ろく字じの名みょう号ごうの​うち​には無む上じょう甚深じんじんの功く徳どく利り益やくの広大こうだいなる​こと、 さらに​その​きはまり​なき​ものなり。

^されば信心しんじんを​とる​といふ​も、 この六ろく字じの​うち​に​こもれ​り​と​しる​べし。 さらに別べつに信心しんじんとて六ろく字じの​ほか​には​ある​べから​ざる​ものなり。

 ^そもそも、 この 「南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつ」 の六ろく字じを善導ぜんどう釈しゃくして​いはく、 「▲ª南無なもº といふ​は帰き命みょうなり、 また​これ発願ほつがん回え向こうの義ぎなり。 ª阿あ弥陀みだ仏ぶつº といふ​は​その行ぎょうなり。 この義ぎをもつて​の​ゆゑに​かならず往おう生じょうする​こと​を得う」 (玄義分) といへり。

^しかれば、 この釈しゃくの​こころ​を​なにと​こころう​べき​ぞ​といふ​に、 たとへば​われら​ごとき​の悪業あくごう煩悩ぼんのうの身みなり​といふ​とも、 一念いちねん阿あ弥陀みだ仏ぶつに帰き命みょうせば、 かならず​その機きを​しろしめし​て​たすけ​たまふ​べし。

^それ0189帰き命みょうといふは​すなはち​たすけ​たまへ​と申もうす​こころ​なり。 されば一念いちねんに弥陀みだを​たのむ衆しゅ生じょうに無む上じょう大だい利りの功く1201徳どくを​あたへ​たまふ​を、 発願ほつがん回え向こうと​は申もうす​なり。

^この発願ほつがん回え向こうの大善だいぜん大だい功く徳どくを​われら衆しゅ生じょうに​あたへ​まします​ゆゑに、 無始むし曠劫こうごうより​このかた​つくりおき​たる悪業あくごう煩悩ぼんのうをば一いち時じに消しょう滅めつし​たまふ​ゆゑに、 われら​が煩悩ぼんのう悪業あくごうは​ことごとく​みな消きえ​て、 すでに正定しょうじょう聚じゅ不ふ退転たいてんなんど​いふ位くらいに住じゅうす​と​は​いふ​なり。

^この​ゆゑに、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの六ろく字じの​すがた​は、 われら​が極楽ごくらくに往おう生じょうす​べき​すがた​を​あらはせ​る​なり​と、 いよいよ​しら​れ​たる​ものなり。 されば安心あんじんといふ​も、 信心しんじんといふ​も、 この名みょう号ごうの六ろく字じの​こころ​を​よくよく​こころうる​もの​を、 他た力りきの大だい信心しんじんを​え​たる​ひと​と​は​なづけ​たり。

^かかる殊しゅ勝しょうの道どう理りある​がゆゑに、 ふかく信しんじ​たてまつる​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(14) 上臈下主章

 ▼それ、 一切いっさいの女人にょにんの身みは、 人ひとしれ​ず罪つみの​ふかき​こと、 *上じょう臈ろうにも*下主げすにも​よら​ぬ​あさましき身みなり​と​おもふ​べし。

それ​につきて​は、 なにとやうに弥陀みだを信しんず​べき​ぞ​といふ​に、 なにの​わづらひ​も​なく、 阿あ弥陀みだ如来にょらいを​ひしと​たのみ​まゐらせ​て、 今こん度どの一いち0190大だい事じの後ご生しょうたすけ​たまへ​と申もうさ​ん女人にょにんをば、 *あやまたず​たすけ​たまふ​べし。

さて​わが身みの罪つみの​ふかき​こと​をば​うちすて​て、 弥陀みだに​まかせ​まゐらせ​て1202、 ただ一心いっしんに弥陀みだ如来にょらい後ご生しょうたすけ​たまへ​と​たのみ​まうさ​ば、 その身みを​よく​しろしめし​て​たすけ​たまふ​べき​こと、 疑うたがいある​べから​ず。 たとへば十じゅう人にんあり​とも百ひゃく人にんあり​とも、 みな​ことごとく極楽ごくらくに往おう生じょうす​べき​こと、 さらに​その疑うたがふ​こころ​つゆ​ほど​も​もつ​べから​ず。

かやうに信しんぜ​ん女人にょにんは浄じょう土どに生うまる​べし。 ▼かくのごとく​やすき​こと​を、 いま​まで信しんじ​たてまつら​ざる​こと​の​あさましさ​よ​と​おもひ​て、 なほなほ​ふかく弥陀みだ如来にょらいをたのみ​たてまつる​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

(15) 弥陀如来本願章

 ▼それ、 弥陀みだ如来にょらいの本願ほんがんと申もうす​は、 なにたる機きの衆しゅ生じょうを​たすけ​たまふ​ぞ。 また​いかやうに弥陀みだを​たのみ、 いかやうに心を​もち​て​たすかる​べき​やらん。

まづ機きを​いへ​ば、 十じゅう悪あく・五ご逆ぎゃくの罪人ざいにんなり​とも、 五ご障しょう・三さん従しょうの女人にょにんなり​とも、 さらに​その罪業ざいごうの深じん重じゅうに*こころ​をば​かく​べから​ず。 ただ他た力りきの大だい信心しんじん一ひとつ​にて、 真実しんじつの極楽ごくらく往おう生じょうを​とぐ​べき​ものなり。

されば​その信心しんじんといふは、 いかやうに​こころ​を​もち​て、 弥陀みだをば​なにと0191やう​に​たのむ​べき​やらん。 それ、 信心しんじんを​とる​といふは、 やう​も​なく、 ただ​もろもろ​の雑ぞう行ぎょう雑修ざっしゅ自じ力りきなんど​いふ​わろき心こころを​ふりすて​て、 一心いっしんに​ふかく弥陀みだに帰きするこころ​の疑うたがいなき​を真実しんじつ信心しんじんと​は申もうす​なり1203。

かくのごとく一心いっしんに​たのみ、 一向いっこうに​たのむ衆しゅ生じょうを、 かたじけなく​も弥陀みだ如来にょらいは​よく​しろしめし​て、 この機きを、 光こう明みょうを放はなち​て​ひかり​の​なか​に摂おさめ​おき​ましまし​て、 極楽ごくらくへ往おう生じょうせしむ​べき​なり。 これ​を念仏ねんぶつ衆しゅ生じょうを摂取せっしゅし​たまふ​といふ​こと​なり。

この​うへには、 たとひ一いち期ごの​あひだ申もうす念仏ねんぶつなり​とも、 仏恩ぶっとん報謝ほうしゃの念仏ねんぶつと​こころう​べき​なり。

これ​を当とう流りゅうの信心しんじんを​よく​こころえ​たる念仏ねんぶつ行ぎょう者じゃといふ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

(16) 白骨章

 ^▼それ、 人間にんげんの*浮ふ生しょうなる相そうを​つらつら*観かんずる​に、 ▲おほよそ​はかなき​もの​は​この世よの*始し中ちゅう終じゅう、 まぼろし​の​ごとくなる一いち期ごなり。 されば​いまだ万歳まんざいの人身にんじんを受うけ​たり​といふ​こと​を​きか​ず、 一いっ生しょう過すぎ​やすし。

^▲いま​に​いたり​て​たれ​か*百ひゃく年ねんの形ぎょう体たいを​たもつ​べき​や。 われ​や先さき、 人ひとや先さき、 今日きょうとも​しら​ず、 明日あすとも​しら​ず、 *おくれ​さきだつ人ひとは*もと0192の​しづく​すゑ​の露つゆより​も*しげし*といへり。 されば*朝あしたには紅顔こうがんありて夕ゆうべには白骨はっこつと​なれる身みなり。

^すでに無む常じょうの風かぜきたり​ぬれ​ば、 すなはち▲ふたつ​の​まなこ​たちまちに閉とぢ、 ひとつ​の息いきながく​たえ​ぬれ​ば、 ▲紅顔こうがんむなしく変へんじ​て*桃とう李りの​よそほひ​を失うしなひ​ぬる​とき​は、 六親ろくしん眷属けんぞくあつまり​て​なげき​かなしめ1204ども、 さらに​その甲斐かいある​べから​ず。

^*さて​しも​ある​べき​こと​なら​ね​ば​とて、 ▲*野や外がいに​おくり​て*夜半よわの煙けむりと​なしはて​ぬれ​ば、 ただ白骨はっこつのみ​ぞ​のこれ​り。 あはれ​といふ​も​なかなか​おろかなり。

^されば人間にんげんの​はかなき​こと​は老ろう少しょう不ふ定じょうの*さかひ​なれば、 たれ​の人ひとも​はやく後ご生しょうの一いち大だい事じを心こころに​かけ​て、 阿あ弥陀みだ仏ぶつを​ふかく​たのみ​まゐらせ​て、 念仏ねんぶつ申もうす​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(17) 一切女人章

 ^▼それ、 一切いっさいの女人にょにんの身みは、 後ご生しょうを大だい事じに​おもひ、 仏法ぶっぽうを​たふとく​おもふ心こころあらば、 なにのやうも​なく、 阿あ弥陀みだ如来にょらいを​ふかく​たのみ​まゐらせ​て、 もろもろ​の雑ぞう行ぎょうを​ふりすて​て、 一心いっしんに後ご生しょうを御おんたすけ候そうらへ​と​ひしと​たのま​ん女人にょにんは、 かならず極楽ごくらくに往おう生じょうす​べき​こと、 さらに疑うたがいある​べから​ず。

^かやうに*おもひとり​て​の​のち​は、 0193ひたすら弥陀みだ如来にょらいの​やすく御おんたすけ​に​あづかる​べき​こと​の​ありがたさ、 また​たふとさ​よ​と​ふかく信しんじ​て、 ね​ても​さめ​ても南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつ、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと申もうす​べき​ばかり​なり。 これ​を信心しんじんとり​たる念仏ねんぶつ者しゃと​は申もうす​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(181205) 当流聖人章

 ^▼当とう流りゅう聖しょう人にん (親鸞) の​すすめ​まします安心あんじんといふは、 なにのやうも​なく、 まづ​わが身みの​あさましき罪つみの​ふかき​こと​をば​うちすて​て、 もろもろ​の雑ぞう行ぎょう雑修ざっしゅの​こころ​を*さしおき​て、 一心いっしんに阿あ弥陀みだ如来にょらい後ご生しょうたすけ​たまへ​と、 一念いちねんに​ふかく​たのみ​たてまつら​ん​もの​をば、 たとへば十じゅう人にんは十じゅう人にん百ひゃく人にんは百ひゃく人にんながら、 みな​もらさ​ず​たすけ​たまふ​べし。

^これ​さらに疑うたがふ​べから​ざる​ものなり。 かやうに​よく​こころえ​たる人ひとを信心しんじんの行ぎょう者じゃといふ​なり。

^さて​この​うへには、 なほ​わが身みの後ご生しょうの​たすから​ん​こと​の​うれしさ​を​おもひいださ​ん​とき​は、 ね​ても​さめ​ても南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつ、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと​となふ​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(190194) 末代悪人章

 ▼それ、 末代まつだいの悪人あくにん・女人にょにんたらん輩ともがらは、 みなみな心こころを一ひとつ​にして阿あ弥陀みだ仏ぶつを​ふかく​たのみ​たてまつる​べし。 その​ほか​には、 いづれの法ほうを信しんず​といふ​とも、 後ご生しょうの​たすかる​といふ​こと​ゆめゆめ​ある​べから​ず。 しかれば、 阿あ弥陀みだ如来にょらいをば​なにとやうに​たのみ、 後ご生しょうをば​ねがふ​べき​ぞ​といふ​に、 なにの​わづらひ​も​なく、 ただ一心いっしんに阿あ弥陀みだ如来にょらいを​ひしと​たのみ、 後ご生しょうたすけ​たまへ​と​ふかく​たのみ​まうさ​ん人ひとをば、 かならず御おんたすけ​ある​べき​こと、 さらさら疑うたがいある​べから​ざる​ものなり1206。

あなかしこ、 あなかしこ。

(20) 女人成仏章

 ▼それ、 一切いっさいの女人にょにんたらん身みは、 弥陀みだ如来にょらいを​ひしと​たのみ、 後ご生しょうたすけ​たまへ​と申もうさ​ん女人にょにんをば、 かならず御おんたすけ​ある​べし。 さるほどに、 *諸仏しょぶつの​すて​たまへ​る女人にょにんを、 阿あ弥陀みだ如来にょらいひとり、 われ​たすけ​ずんば​また​いづれの仏ぶつの​たすけ​たまは​ん​ぞ​と​おぼしめし​て、 無む上じょうの大願だいがんを​おこし​て、 われ諸仏しょぶつに​すぐれ​て女人にょにんを​たすけ​ん​とて、 五ご劫こうが​あひだ思し惟ゆいし、 永劫ようごうが​あひだ修しゅ行ぎょうし​て、 *世よに​こえ​たる大願だいがんを​おこし​て、 女人にょにん成じょう仏ぶつ0195といへる殊しゅ勝しょうの願がん (第三十五願) を​おこし​まします弥陀みだなり。

この​ゆゑに​ふかく弥陀みだを​たのみ、 後ご生しょうたすけ​たまへ​と申もうさ​ん女人にょにんは、 みなみな極楽ごくらくに往おう生じょうす​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

(21) 経釈明文

 ^▼当とう流りゅうの安心あんじんといふ​は、 なにのやうも​なく、 もろもろ​の雑ぞう行ぎょう雑修ざっしゅの​こころ​を​すて​て、 わが身みは​いかなる罪業ざいごうふかく​とも、 それ​をば仏ぶつに​まかせ​まゐらせ​て、 ただ一心いっしんに阿あ弥陀みだ如来にょらいを一念いちねんに​ふかく​たのみ​まゐらせ​て、 御おんたすけ候そうらへ​と申もうさ​ん衆しゅ生じょうをば、 十じゅう人にんは十じゅう人にん百ひゃく人にんは百ひゃく人にんながら、 ことごとく​たすけ​たまふ​べし。 これ1207さらに疑うたがふ​こころ​つゆ​ほど​も​ある​べから​ず。

^かやうに信しんずる機きを安心あんじんを​よく決けつ定じょうせしめ​たる人ひとと​は​いふ​なり。 この​こころ​を​こそ*経きょう釈しゃくの明文めいもんには、 「一念いちねん発ぽっ起き住じゅう正定しょうじょう聚じゅ」 とも 「平生へいぜい業ごう成じょうの行ぎょう人にん」 とも​いふ​なり。

^されば​ただ弥陀みだ仏ぶつを一念いちねんに​ふかく​たのみ​たてまつる​こと肝要かんようなり​と​こころう​べし。 この​ほか​には、 弥陀みだ如来にょらいの​われら​を​やすく​たすけ​まします御ご恩おんの​ふかき​こと​を​おもひ​て、 行住ぎょうじゅう坐臥ざがに​つね​に念仏ねんぶつを申もうす​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(220196) 当流勧化章

 ^▼そもそも、 当とう流りゅう勧かん化けの​おもむき​を​くはしく​しり​て、 極楽ごくらくに往おう生じょうせ​ん​と​おもは​ん​ひと​は、 まづ他た力りきの信心しんじんといふ​こと​を存ぞん知じす​べき​なり。

^それ、 他た力りきの信心しんじんといふは​なにの要ようぞ​と​いへ​ば、 かかる​あさましき​われら​ごとき​の凡ぼん夫ぶの身みが、 たやすく浄じょう土どへ​まゐる​べき*用よう意いなり。

^その他た力りきの信心しんじんの​すがた​といふは​いかなる​こと​ぞ​と​いへ​ば、 なにのやうも​なく、 ただ​ひとすぢに阿あ弥陀みだ如来にょらいを一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつり​て、 たすけ​たまへ​と​おもふ​こころ​の一念いちねんおこる​とき、 かならず弥陀みだ如来にょらいの摂取せっしゅの光こう明みょうを放はなち​て、 その身みの娑しゃ婆ばに​あら​ん​ほど​は、 この光こう明みょうの​なか​に摂おさめ​おき​まします​なり。 これ​すなはち​われら​が往おう生じょうの定さだまり​たる1208すがた​なり。

^されば*南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと申もうす体たいは、 われら​が他た力りきの信心しんじんを​え​たる​すがた​なり。 この信心しんじんといふは、 この南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつの​いはれ​を​あらはせ​る​すがた​なり​と​こころう​べき​なり。 されば​われら​が​いま​の他た力りきの信心しんじんひとつ​を​とる​によりて、 極楽ごくらくに​やすく往おう生じょうす​べき​こと​の、 さらに​なにの疑うたがいも​なし。

^あら、 殊しゅ勝しょうの弥陀みだ如来にょらいの本願ほんがんや。 この​ありがたさ​の弥陀みだの御ご恩おんをば、 いかが​して報ほうじ​たてまつる​べき​ぞ​なれば、 ただ​ね​ても​おき​ても南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと​となへ​て、 かの弥陀みだ如来にょらいの仏恩ぶっとんを報ほうず​べき​なり。

^されば南な0197無も阿あ弥陀みだ仏ぶつと​となふる​こころ​は​いかん​ぞ​なれば、 阿あ弥陀みだ如来にょらいの御おんたすけ​あり​つる​ありがたさ​たふとさ​よ​と​おもひ​て、 それ​を​よろこび​まうす​こころ​なり​と​おもふ​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

釈しゃく*証しょう如にょ(花押)

 

底本は和歌山県鷺森別院蔵証如上人開版本ˆ浄聖全と同一ˇ。
手次 教えを人々にとりつぐこと。 ここでは所属する寺をいう。
し。/く[御文章集成(9)]
如来の御代官 如来に代って教えを伝える者。
とも同行 同朋同行というのに同じ。
信心の沙汰 信心しんじんについて話し合うこと。
あひささへ さまたげて。
古歌にいはく… ¬和わ漢かん朗詠ろうえい集しゅう¼ 等にみえる歌。
正雑の分別をききわけ 他力の正行と自力の雑ぞう行ぎょうをはっきりと聞きひらいて。 自力をすてて他力に帰すべき道理を聞きひらいて。
一念発起… 「一念発起すれば正定の聚に入る」 信心が初めておこった時、 浄土に往生することが正まさしく定まり、 仏になることが決けつ定じょうしている仲間となる。
不来迎の談 臨終の来迎をたのまないという法義。 →不ふ来迎らいこう
すがりて たよりとして。 阿弥陀如来の本願にすべてをまかせること。
たすけましませ 「たすけたまへ」 に同じ。
執せられ候はぬ こだわらりなさらない。
当家 浄土真宗を指す。
期し 期待して。
きこえたり うけたまわっている。
心もとなく 気がかりで。 おぼつかなく。
師匠坊主 師にあたる僧侶。
こころざし 懇こん志し。
あぢきなく やるせなく。
以後までも 私 (蓮如) が亡きあとも。
退転 ここでは無くなること、 途絶えることの意。
この分にては 私 (蓮如) については。
子細なく さしつかえなく。 問題なく。
さもありぬらんとみえつる 身分が高いと見受けられた。
一宇の坊舎 一軒の僧坊。
おもしろき すばらしい。
きこえかくれなし うわさが広く知れわたっている。
山中のひと 吉崎よしざきの僧侶のこと。
たつてもゐても 立ってもすわっても。
殊勝の法 とくにすぐれた教え。 阿弥陀如来の本願をいう。
なかなか 容易には。 とても。
江州志賀郡大津 現在の滋賀県大津市。
三井寺南別所辺 三井寺は園おん城じょう寺じの通称。 南別所は同寺五別所の一つ近松寺のこと。 寛正6年 (1465)、 延えん暦りゃく寺じの衆徒によって大谷本願寺が破却された後、 蓮如上人はこの近松寺の傍に御坊 (後の顕証寺。 現在の近松ちかまつ別院べついんの起源) を建て親鸞聖人の御影を安置した。
さらになにへんともなき体 全く何のかいもないようす。
成敗 ここでは諸人の出入りを止めたこと。
当宗 浄土真宗を指す。
をかしくきたなき宗 物忌ものいみをしない浄土真宗を非難していう。
他門他宗 浄土真宗以外をいう。 他門は浄土門内の西せい山ざん・鎮西ちんぜい等の諸流、 他宗は聖しょう道どう門もん諸宗。
ものいまはぬ 物忌ものいみをしない。
分 一部分。
浄土一家 浄土往生を説いた法然ほうねん上人の流れを汲む一門。
なにとやうに機を… 救いの対象である人や人の境きょう界がいをどのように心得て。
おもひとりて 十分に理解して。 心に思い定めて。
たのみおきつる あてにしていた。
門徒のかたより… 物とり安心あんじんとか施せ物もつだのみといわれる異義を指す。
そもそも 右傍に 「これは超勝寺にて」 と註記する異本がある。
座衆 座主 (講の中心人物) とする説、 講の中の特定の人々とする説などがある。
座上 上席。
いみじく 大変立派に。
毎月の会合 毎月、 定められた日に門徒が集まり、 講こうと呼ばれる会合が開かれた。
そもそも 右傍に 「これも超勝寺にて」 と註記する異本がある。
不思議の名言 正しい根拠のないあやしげな言葉や文句。
十劫正覚の… 時宗等の影響を受けた十劫じっこう秘事ひじ (十劫安心あんじん) の異義に対する批判。 十劫のむかし阿弥陀仏が正覚成就し、 衆しゅ生じょうの往生を定めたと知ることを信であると主張するのは、 自力雑ぞう行ぎょうをすてて他力をたのむ廃はい立りゅうの信心が欠けていると批判する。
諸法 諸宗の教え。
立山 富山県南部にある山で、 修験道の霊場。
白山 石川・岐阜両県境にある山で、 修験道の霊場。
平泉寺 福井県勝山市にあった天台てんだい宗しゅうの寺で、 白山の別当寺。
豊原寺 福井県坂井郡丸岡町にあった天台宗の寺で白山の別当寺。
八宗の祖師 龍樹菩薩の教学は広く諸宗の基礎となっているので、 このようにいう。 →八はっ宗しゅう
自法愛染故… 「みづからの法を愛染するがゆゑに他人の法を毀呰きしすれば、 戒行を持つ人なりといへども地獄の苦を免れず」
勿体なき もってのほか。
一所の坊主分 一つの道場寺院を支配する僧侶。
別して 特別に。
自余の浄土宗 法然ほうねん上人の流れを汲む宗派のうち浄土真宗以外のもの。 西山せいざん流・鎮西ちんぜい流・九く品ぼん寺じ流・長ちょう楽らく寺じ流などを指す。
無名無実に 実質のともなわないこと。 ここでは、 名号の実義を心にかけないこと。
一七箇日 満七昼夜。 報恩講の行われる期間。
めでたく 結構なことで。
細々に しばしば。 たびたび。
諸仏にもすてられたる 諸仏の本願に女人成仏の願がないので、 このようにいう。 →補註14
よそへても つけても。
おろかに 疎かに。 いいかげんに。
当山 吉崎よしざき御坊のこと。
所送寒暑 寒暑 (冬と夏のことで、 一年の意) を送るところ。
五十九歳 底本に 「五十八歳」 とあるのを改めた。
御判 ここに蓮如上人の花か押おうが記されていたことを示す。
のりのことの葉 教えの言葉の意。
無善造悪 善ぜん行ぎょう善根ぜんごんがなく悪のみを行うという意。
出立 用意。 したく。
今生のいのり 利己的な現げん世ぜの利り益やくを祈き願がんすること。
その名をかけんともがら 門徒としてその名をつらねる人々。
ならふ 相そう承じょうする。 うけたまわる。
他門 浄土門内の西山せいざん・鎮西ちんぜい等の異流を指す。
正本 正しいよりどころ。
件のごとし 文書や書状などの末尾に記す慣用語。 前述の通りである。 右の通りである。
文明六年二月十五日 真宗寺本には 「文明六年三月 日」 とある。
入滅 釈尊の入滅は二月十五日と伝えられている。
珠数 数珠とも書く。
色 ようす。
うつくしく 見事に。 立派に。 申し分なく。
勝事 ここでは残念なこと、 悲しむべきことの意。
讃嘆 ここでは法話、 法談の意。
盛者必衰… 勢いの盛んな者にも必ず衰える時があり、 出会った者には必ず離れる時がくるということ。
仏心と凡心 凡ぼん夫ぶの煩悩ぼんのうの心の全体に仏心がいたりとどいて、 煩悩具足の凡夫を仏に成るべき身とならしめることで、 信心の利り益やくをいう。 これをまた仏凡一体という。
信心発得 信心を得ること。
種々不同 いろんな異義があること。 ここでは善ぜん知ぢ識しきだのみ、 十劫じっこう秘事ひじなどを批判している。
先 第一。
沙汰せずして 問題にしないで。 なおざりにするという意。
能 役目。 はたらき。
名号 ここでは信心を得た後の称名のこと。
四王天 四し天王てんのうのいる天界。 六ろく欲天よくてんの最下。
不法 仏法に背くこと。
中の二日 中旬の第二日。 十二日。
こなしおとしめん けなしみくだしてやろう。
ひとを… 人に取り入ってだまそうとする者。
用意 前から準備しておくこと。 ここでは信心が往生の正因であることをいう。
南無阿弥陀仏と申す体は 南無阿弥陀仏というものは。
をさめたすけすくふ 空くう也や作と伝える ¬六ろく字じ口く伝でん¼ の語を依用したものといわれるが、 ここでの意は、 親鸞聖人の 「摂取せっしゅしてすてざれば阿弥陀となづけたてまつる」 (浄土和讃・82) という文などによっている。
その名ばかりをかけんともがら 他宗派から真宗門徒になり、 まだ法義をよく聞いていないもの。
たとへば 例をもうけて示せばという意。
浄土一家 浄土往生を説いた法然ほうねん上人の流れを汲む一門。
性光門徒 蓮如上人の弟子の性光坊の門徒。
おほやう 大まかな。 細かさがないこと。
秘事 秘事ひじ法門ぼうもん。 ここでは越前えちぜん (現在の福井県) にひろまっていた不拝おがまずの秘事ひじをいう。
摂取の光益・不捨の誓益 摂取せっしゅ不ふ捨しゃの利り益やくのこと。 阿弥陀仏の光こう明みょうによってめぐまれるものであるから光益といい、 阿弥陀仏の誓願せいがんにもとづくものであるから誓益という。 
なにの分別もなく 本願名みょう号ごうのいわれを聞きひらくこともなく。
一流相伝のおもむき 浄土真宗に伝えられる法義。
五劫兆載永劫 →五ご劫こう思し惟ゆい、 兆ちょう載さい永劫ようごう
本 根本。 肝要。
信ずる機 ここでの機は、 救われるべきもの (機) の上に与えられている信心そのもののこと。
たすけたまへる法 衆生を救う道理 (法) をあらわしているから、 阿弥陀仏を法という。
わろき機 本願にそむく自力疑心のことをいう。
そばさま 側そば (傍) さま。 真実に背き外れたこと。
不請にも 気に入らないけれど。 いやいやながら。
一百余歳を経 文明七年は1475年であるから、 親鸞聖人の示じ寂じゃくよりすでに二百余歳を経ていることになる。
実語 真実の言葉。 親鸞聖人の言葉。
もし…なくは  「われらもし宿善開発の機にてもなくは」、 または 「もし宿善開発の機にてもなくはわれら」 の顚倒法。
わろき迷心 本願を疑って出しゅつ離りの道に迷う自力の心。
一列 なかま。
非義 宗義にそむいていること。
不闕に 欠かさずに。
愚老 ここでは蓮如上人の自称。
北陸の山海のかたほとり 吉崎よしざきを指す。
この当国にこえ 蓮如上人はこの年八月に吉崎よしざきから河内かわちの出で口ぐちに移った。
仁義礼智信 →五ご常じょう
字ちから ことばを理解する能力。
結句本寺よりの成敗… あげくのはてには、 本山よりの命令であるといって他人をだまして。
足手をはこび ここでは参詣するという意。
冥慮 仏祖のおぼしめし。 ここでは親鸞聖人のおぼしめし。
ききとり法門 正式に教授されることなく、 自然に聞き覚えた法義。
へつらひ とり入り。
沙汰 ここでは考えわきまえる、 見定めるというほどの意。
世間通途の義 世間一般の風習。
つぶさに沙汰をいたし もれなく処置し。
たしなみ つとめて。 こころがけて。
他宗他門 真宗教団以外をいう。 他門とは浄土門内の西せい山ざん・鎮西ちんぜい等の諸流、 他宗とは聖しょう道どう門もん諸宗を指す。
今の時の定命は… 釈尊の入にゅう滅めつ時を起点として、 時代が百年を経過するごとに人寿が一歳減少するという説にもとづいたもの。 当時は釈尊の入滅後、 約二千四百年と考えられていたから、 釈尊の寿命八十歳より、 二十四歳を減じて、 定命を五十六歳と計算した。
いかめしきこと なみなみでないこと。
定相なき時分 秩序が乱れて定まりのない時代。
当時世上の体たらく この頃、 土一揆、 戦いくさなどで世の中が騒乱状態であった。
五障 →補註14
一乗法華の妙典 一乗の理を明かす ¬法華ほけ経きょう¼ のこと。
会座を没して 説法を中止して。
法華と念仏と… 釈尊が霊りょう鷲じゅ山せんでの ¬法華ほけ経きょう¼ の説法を一時中止して王宮において ¬観経¼ の念仏の教えを説かれたことをいう。 覚如かくにょ上人の ¬口伝鈔¼ (15) 等にみえる。
花鳥風月のあそび 春は花鳥を、 秋は風月を楽しむこと。 風流な遊び。
わが身ありがほ いかにも自分は死とは無縁であるかのように思っていること。
未来悪世 釈尊が出現した時を基準にして、 現在のことを未来という。 現在が、 釈尊から遠く時代のくだった、 悪のはびこる時代であるということ。
そのとき臨終… 往生治定は、 往生することに定まること。 ここでは 「臨終せば」 とあり、 短命な臨終の機についていったもの。
入正定聚の益 現生十種益の第十益。 →正定しょうじょう聚じゅ
必至滅度 必ず仏のさとりを得ること。 第十一願によって与えられる利り益やく。
慶喜金剛の信心 第十八願の信心をあらわした語。
七旬のよはひにおよび 六十歳を過ぎて、 第七旬に入ったということ。 旬は十年の意。
片腹いたくも 見苦しくも。
しらぬえせ法門 ここでは自分でさとりきわめた法門ではなく、 教えられたとおりを、 口まねして説いている形ばかりの教えに過ぎないと卑謙した言葉。
ことの葉 前掲の三首の詠歌を指す。
文明年中丁酉 文明九年。
はりの木原 地名。 現在の大阪府茨木市。
九間在家 地名。 現在の大阪府茨木市。
仏照寺 仏ぶっ性しょう寺じの住持、 教きょう光こうを指すものか。
当坊 蓮如上人が吉崎よしざきより移った出で口ぐちの坊をいう。 光善こうぜん寺じがその跡を伝える。
中古 古 (むかし) を上古・中古・下古と三分したことによるが、 下古をいわない場合もある。 浄土真宗では親鸞聖人より第三代の覚如かくにょ上人までを上古、 それ以後を中古という。
当寺 山科やましな本願寺を指す。
懇志 ねんごろなこころざし。
七昼夜 満七昼夜。 報恩講の行われる期間。
念仏得堅固 念仏の教えが盛んになること。
安心の体 信心の本体。 信心そのもの。
仏法を棟梁し… 仏法興隆の上で中心的役割を果すべき人のこと。 棟梁は、 人を建物の棟むね、 梁はりに喩えたもの。
京都本願寺 山科やましな本願ほんがん寺じのこと。
関渡の船中 関は関所。 渡の船中は渡し船の中。
仏法方 法義の問題。
衆中として 報恩講に参詣した坊主衆や門徒衆の仲間として。
仁義 ここでは世間体をつくろうこと。
不宿善の機 宿しゅく善ぜんなきもの。
無沙汰 なおざりにすること。
勿体なき もってのほか。 ふとどきな。 不都合な。
仏法者気色 仏法者らしい様子。
不足の所存 行き届かない考え。 考えが足りないこと。
無二の懴悔 徹底してあやまちを悔い改めること。 ここでは自力心をひるがえすこと。
めづらしき法門 変った教え。 浄土真宗の教義とは異なる教え。
おもしろき名目 相そう承じょうにないめずらしい変った言葉 (異義のこと)。
さあらんとき そうである時は。
興隆仏法 仏法を盛んにすること。
細々に しばしば。
当寺建立はすでに九箇年 当寺は山科やましな本願寺を指す。 蓮如上人が山科の地に本願寺の造営を決定してから九箇年という意。
七旬 旬は十年の意。
さもありぬべきやうに (疫癘で死ぬ) かのようにという意。
八十三歳 明応六年 (1497)。
毎月両度の寄合 毎月、 親鸞聖人の命日の二十八日と法然ほうねん上人の命日の二十五日に会合をもった。
酒飯茶なんどばかり… 飲食だけで終ってしまうという意。
一段の 一つの。
具足 たしかにそなえていること。
業病 ここでは老衰のことをいう。 →補註5
先相 先だってあらわれる相。 まえぶれ。
浄土をねがふ… 聖しょう冏げいの ¬伝でん通つう記き糅にゅう鈔しょう¼ 巻四十三、 尭ぎょう慧えの ¬選せん択ちゃく集しゅう私し集しゅう鈔しょう¼ 巻四にこの旨がみえる。
とりつめて たしかに。
八旬の齢 旬は十年の意。
仲旬第一日 十一日。
老衲 ここでは蓮如上人の自称。
愚痴闇鈍 真実の道理がわからず、 心が暗く愚かで、 仏法に対する反応が鈍いこと。
東成郡生玉の庄内大坂 現在の大阪城付近。 蓮如上人は明応五年 (1496)、 この地に坊舎を造営した。 後の大阪石山本願寺。
かりそめ 一時的であること。 偶然であること。
一宇の坊舎 一軒の僧坊。
あはれ ああ。 何とかして、 是非ともという意を含む。
一念のこころざし 深く念願する心。
むつかしき題目 無理難題のことがら。
執心 執着心。 ここでは是非ともこの土地にとどまりたいという執着心。
たりぬべきものか 十分に添うことができるはずであろうか。
あひかなふかのあひだ かなうかと思うと。
一定 確かに定まっていること。
八万の法蔵 八万は多数の意。 仏の説いた教法全体のこと。
後世をしらざる人 後ご生しょうの一大事について関心のない者。
弥陀如来の御ちかひ 第十八願のこと。 →本願ほんがん
末代悪世 末法まっぽう五ご濁じょくの世。
南无といふ… 実如本(本誓寺)。
すがた いわれ。 おもむき。
当流一途の所談 浄土真宗独自の特別な教え。
沙汰あるべからざる 説いてはならない。
露ちりほども ほんの少しも。
たとへば 例をもうけて示せばという意。
本 根本。 肝要。
聖人の御まへ 親鸞聖人の御ご真影しんねいの前。
もつてのほかの大事 なによりも大事なこと。
人間は不定のさかひ 人間界は生滅変化する無常の境きょう界がいであるという意。
極楽は常住の国 極楽浄土は永遠に変らない真実の世界であるという意。
人間に流布して 世間にひろまって。 世間一般に。
こころをば… (罪の重さを) 気にしてはならない、 心配してはいけないという意。
観ずるに 心をしずめて考えてみると。
始中終 始は少年期、 中は壮年期、 終は老年期のこと。 人の一生をいう。
百年の形体 百歳の身体。
おくれさきだつ人 人より後に生き残る人と、 人より先に死ぬ人。 生き残る人と死ぬ人。
もとのしづくすゑの露 草木の根もとにおちるしずく、 草の葉の末にやどる露のことで、 人の死の先後は予想できないことをあらわす。
といへり 以上の文は ¬存覚ぞんかく法ほう語ご¼ に引く後ご鳥羽とば上皇の ¬無む常じょう講式こうしき¼ からの引用であるため 「といへり」 という。
朝には… ¬和わ漢かん朗詠ろうえい集しゅう¼ (下) の義孝よしたか少将の詩に 「朝に紅顔ありて世路に誇れども、 暮に白骨となりて郊原に朽ちぬ」 とある。
桃李のよそほひ 桃や李 (スモモ) の花のように美しいすがた。
さてしも… いつまでもそうしてはいられないので。
野外におくりて 野辺の送りをして。 遺骸を火葬場に送ること。
夜半の煙 夜のけむり。 遺骸を火葬するようすをいう。
おもひとりてののちは 信心決けつ定じょうしたうえは。
さしおきて 捨て去って。
諸仏のすてたまへる女人 諸仏の本願に女人成仏の願がないので、 このようにいう。 →補註14
世にこえたる くらべようのない。
経釈の明文 ¬大経¼ (下) の第十一願成就文、 第十八願成就文、 「易行品」 の 「即の時に必定に入る」、 ¬論註¼ (上) の 「すなはち大乗小乗の聚に入る」 などの文を指す。
用意 前から準備しておくこと。 ここでは信心が往生の正因であることをいう。
南無阿弥陀仏と申す体は 南無阿弥陀仏というものは。