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 報恩講

抑当月廿八日者例年のきうぎのため開山聖人御遷化之正忌たる処なり。 依之諸国門下のたぐひ、 此時節にあひあたりて、 運参詣之志欲致報恩之誠。 而間於毎年七日不断念仏之勤行をはげまさんと凝す。 是則真実信心之行者令繁昌謂歟。 誠にもて念仏得堅固之可謂時節到来とも覚侍れ。 このゆへに七昼夜勤行之内に令致参詣之輩之中におひて、 誠に人まねばかりに致出仕やからこれあるべし。彼仁におひては、 はやく御影前にありて廻心懴悔して本願の正意に帰して、 一念発起の安心のおもむきをあひたづねて、 ねんごろに真実信心をまふくべきものなり。 夫南无阿弥陀仏といふは、 則是念仏行者之安心之体也とみえたり。 そのゆへは南无といふは帰命也、 帰命と者我等ごときの无善造悪の凡夫のうへにをひて、 阿弥陀仏をたのみたてまつるこゝろなり。 そのたのむこゝろといふは、 すなはちすでに阿弥陀仏の衆生を摂取して往還二種の廻向を衆生にあたへましますこゝろなり。 しかれば此比諸国におひて当流門人の中に、 おほく祖師の定めおかるゝ聖教之所判になきくせ法門をたてゝ、 当流之法義をみだすこと以外の次第也。 所詮此一七ヶ日報恩講の中にをひて、 はやくそのあやまりをひるがへして正義にもとづくべきものなり。

一 仏法を棟梁し、 如形坊主分をもちたらん人の身のう0416へにをひて、 いさゝかも相承せざるしらぬ法門をときて人にかたり、 我れものしりとおもはれんとて、 えせ法門をもて人を勧化すること、 近代以外在々所々に繁昌すと 云々。 これ言語道断之次第也。

一 京都本願寺御影前へ参詣申す身なりと云て、 いかなる人の中ともいはず、 大道・大路にても、 又関・渡の船中にても、 はゞからず仏法方のことを人に顕露に沙汰すること、 大なるあやまりなり。

一 人ありていはく、 我身はいかなる仏法を信ずる人ぞと相尋ことありとも、 しかと当流の念仏申者とはこたふべからず、 たゞなに宗ともなきものなり、 念仏はたふときことゝ存じたるばかりなるものとこたふべし。 是則当流聖人のをしへまします所の仏法者とみえざる人のすがたなり。 此等の趣をよくよくこゝろゑて、 外相にその色をみせざるをもて、 当流の正義とおもふべきものなり。 就此此両三年報恩講中にをひて、 衆中として定置ところの義一として違変あるべからず。 此衆中にをひて万一相違之子細在之、 ながき世までも開山聖人の不可為御門徒者、 堅為衆中当年之報恩講中にをひてその成敗をいたすべきものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

文明十五年十一月廿二日