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抑男子も女人も罪のふかゝらむともがらは、 諸仏の悲願をたのみても、 いまの世は末代悪世なれば、 諸仏の御ちかひにては中々かなはざる時なり。 これによりて阿弥陀如来と申奉るは、 諸仏にすぐれて、 十悪・五逆の罪人を我たすけんといふ大願をおこしましまして、 阿弥陀仏となり給へり。 この仏をふかくたのみて一念にたすけ給へと申さむ衆生を、 我たすけずは正覚ならじとひかひまします弥陀なれば、 我らが極楽に往生せん事は更にうたがひなし。 このゆへに一心一向に阿弥陀0480如来たすけましませとふかく心にうたがひなく信じて、 我身の罪のふかき事をばうちすてゝ仏にまかせまいらせて、 一念の信心さだまらむ輩は、 十人は十人ながら百人は百人ながら、 みな浄土に往生すべき事、 さらにうたがひなし。 このうへにはなをなをたふとくおもひたてまつらむ心のおこらむ時は、 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と、 時をもきらはずところをもいはず念仏申べし。 これをすなはち仏恩報謝の念仏と申なり。

[南无なもといふ 二字にじのうちには 弥陀みだをたのむ
こゝろありとは たれもしるべし

ほれぼれと 弥陀みだをたのまん ひとはみな
つみはほとけに まかすべきなり

つみふかき ひとをたすくる のりなれば
弥陀みだにまされる ほとけあらじな]