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抑いにしへこのごろのあひだにおいて、 摂津国・河内・大和・和泉・近江五ヶ国のうち仏法者と号する中に、 当流法門を讃嘆し、 行者を勧化するともがらをみおよぶに、 さらにもてわが一心のうへに当流正義をくはしく分別せずして、 たれ人にねんごろに相伝せしめたる分もなくして、 あるひは縁のはし、 障子のそとにて0347、 一往の義をもて自然ときゝとり法門の分斉にて、 しかもわが身も真実に仏法にそのこゝろざしはあさくして、 結句われよりほかには当流の儀存知せしめたる人なきやうにおもひはんべり。 これによりてたまたまも当流正義をかたのごとく讃嘆するひとをみきゝては、 あながちにこれを偏執して、 われひとりしりがほの風情は大憍慢の心にあらずや。 かくのごとくの所存をさしはさみて、 諸門徒中を経廻して聖教をよみ勧化をいたし、 あまさへわたくしの義をもて本寺よりのつかひと号して、 人をへつらひ虚言をかまへ、 ものをとるを本とせり。 いかでかこれらの人をば、 真実の念仏者、 聖教よみといふべきや。 あさましあさまし。 まことにもてなげきてもなげき、 かなしみてもかなしむべきはたゞこの一事なり。 これによりて当流の実義は、 まづわが安心を決定して、 そののち人をも勧化し聖教をもよむべし。 それ真宗一流の信心のひととをりをすゝめんとおもはゞ、 まづ宿善・无宿善のいはれをしりて仏法をば讃嘆すべし。 されば往古より当流門下にその名をかけたるひとなりとも、 過去の宿縁なくは信心をとりがたし。 まことに宿善の機は、 おのづから信心を決定すべし。 それに无宿善の機のまへにおいて、 一向専修の名言をさきとし、 正雑二行の沙汰をするときは、 かへりて誹謗のもとゐとなりぬべし。 この宿善・无宿善のふたつの道理をこゝろえずして、 手びろに世間者をもいづくをもはゞからず勧化をいたすこと、 もてのほかの当流のおきてにあひそむけり。 されば ¬大経¼ (巻下) にいはく、 「若人无善本 不得聞此経」 ともいひ、 「若聞此経信楽受持難中之難无過此難」 といへり。 また善0348導は、 「過去已曽修習此法今得重聞即生歓喜」 (定善義) とも釈せり。 いづれの経釈によるとも、 宿善にかぎれりとみえたり。 しかるあひだ宿善の機をまもりて当流の法をばあたふべしときこへたり。 これらのおもむきをくはしく存知して、 ひとをば勧化すべし。 ことにまづ王法をもて本とし、 仁義をもて先として、 世間通途の義に順じて、 当流安心をば内心にふかくたくはへて、 外相に法流のすがたをも、 他宗・他家にそのいろをみせぬやうにふるまふべし。 これをもて当流の正義をよく分別せしめたる念仏行者となづくべきものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

*文明九年三月 日