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夫当流をみな世間に流布して一向宗と号すること、 さらに本宗にをいてその沙汰なし、 いかやうの子細にてさふらふやらん。

答ていはく、 あながちにわが流を一向宗とわが宗よりなづくることはなきなり。 ことに祖師聖人は浄土真宗とこそ定められたり。 おほよす経文をみるに、 「一向専念无量寿仏」 (大経巻下) とときたまへり。 この文によるに、 一向にもはら无量寿仏を念ずといへるこゝろによりて、 みなひとのこぞりて一向宗といへる歟。 そのときは道理至極ときこゑたり。 しかりといへども開山は、 この宗をば浄土真宗とこそおほせられたり。 されば一向宗といへる名言は、 本宗よりさだめざることなりとこゝろうべきものなり。 これによりて自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるすがゆへに、 憍慢・辺地に胎生するなり。 わが聖人の一流は雑行をきらふ、 このゆへに真実報土の往生をとぐるなり。 このいはれあるがゆへに、 別して真の字をくはへて浄土真宗とはいへるなりとこゝろうべし。 またいはく、 当流をば浄土真宗となづけ候こと文明にきこえぬ。 しかるにこの宗体にて、 在家のつみふかき悪逆の機なりといふとも、 弥陀の願力にすがりてたやすく極楽に往生すべきやう、 くはしくうけたまはりたくさふらふ。

答ていはく、 当流のおもむきは、 信心決定しぬればかならず真実報土の往生をとぐべきなり。 さればその信心といふはいかやうなる子細ぞといへば、 なにのわづらひもなく阿弥陀如来を一心にたのみたてまつりて、 その余の仏・菩薩にもこゝろをかけずして、 一向にふたごゝろなく弥陀を信ずるばかりなり。 これをもて信心決定すとはまふすなり。 信心といへる二字をば、 まことのこゝろとよめるなり。 まことのこゝろといふは0271、 行者のわろき自力のこゝろにてはたすからず、 如来の他力のよきこゝろにてたすかるがゆへに、 まことのこゝろとはまふすなり。 また名号をもてなにのこゝろえもなくして、 たゞとなへてはたすからざるなり。 されば ¬経¼ (大経巻下) には 「聞其名号信心歓喜」 ととけり。 「その名号をきく」 といへるは、 南无阿弥陀仏の名号を南无とたのめば、 かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。 これを ¬経¼ に 「信心歓喜」 ととかれたり。 これによりて南无阿弥陀仏の体は、 われらをたすけたまへるすがたぞとこゝろうべきなり。 かやうにこゝろへてののちには、 行住座臥のくちにとなふる称名をば、 たゞ弥陀如来のわれらをたすけましますところのありがたさの御恩を報じたてまつる念仏なりとこゝろうべし。 これをもて信心決定して極楽に往生する他力の念仏行者とまふすものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

*文明第五 九月下旬第二日至于巳剋於加州山中湯治之内所書集之草案令清書也