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夫浄土宗のこゝろ、 弥陀如来の他力本願のおもむきは、 末代造悪不善、 十悪・五逆の機にをいては、 いづれの法いづれの行をもてこれを修すといへども、 成仏得道の儀かなひがたしといふこと経釈ともに分明にきこへはんべりぬ。 夫諸宗のこゝろまちまちにして、 いづれも釈尊の説教なれば、 まことにこれ殊勝の法なりといへども、 如説に修行するひとまれなれば、成仏得道すべきことかなひがたし。 末代いまのときは、 機根最劣にして如説の修行もかなひがたきとき世なり。 これによりて弥陀如来の他力本願といふは、 いまの世かゝるときの衆生をたすけんがために、 五劫があひだ思惟し、 永劫が間修行して、 造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじとちかひましまして、 その願すでに成就して阿弥陀とならせたまへるほとけなり。 末代このごろの衆生にかぎりては、 このほとけの他力本願にすがりて弥陀をたのみたてまつらずは、 成仏するといふことあるべからざるなり。 しかればこの弥陀如来の他力本願をばなにとやうに信じ、 またなにと機をもちてたすからんずるやらん。 それ弥陀をたのむといふは、 なにのやうもなく他力の信心といふいはれをしりたらんひとは、 百人は百人ながら、 みな往生すべし。 その信心といふはいかやうなることぞといへば、 たゞ南无阿弥陀仏なり。 この南无阿弥陀仏の六字のこゝろを0320よくしりたるが、 すなはち他力信心のすがたなり。 このいはれをよくよくこゝろうべし。 まづ南无といふ二字はいかなるこゝろぞといふに、 やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、 後生たすけたまへとふたごゝろなく信じまひらするかたをさして、 南无とはまふすこゝろなり。 さて阿弥陀仏の四の字はいかなるこゝろぞといふに、 いまのごとくに弥陀を一心にたのみまひらせて、 うたがひのこゝろのなき衆生をば、 光明をはなちてそのひかりのうちにおさめをきましまして、 地獄へもおとしたまはずして、 一期のいのちつきぬれば、 かの極楽浄土へおくりたまへるこゝろを、 阿弥陀仏とはまふしたてまつるなり。 されば世間にひとのこゝろうるは、 くちに南无阿弥陀仏ととなへて、 たすからんずるやうにみなひとおもへり。 それはなをおぼつかなし。 よく南无阿弥陀仏の六の字のこゝろをしりわけたるが、 すなはち他力信心をえたる念仏行者の体とはいふなり。 これ当流にたつるところの信心のをもむきといふはこのこゝろなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

文明六年八月五日書之