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夫南无阿弥陀仏と申すはわづかにそのかず六字なれば、 さのみ功能のあるべきとも覚ず候。 しかれどもこの六字のうちには無上甚深の利益の広大なるよし、 内々うけたまはりをよべり。 あはれくはしく愚痴の我等にをしへたまひ候はゞ、 忝く存ずべく候。 また他力の安心と申もこの六字のこゝろにこもれりなんど仰られ候あひだ、 くはしく存知せしめたく候。 答て云、 我等もくはしく存知つかまつりたるむねはなく候へども、 このごろおほよそ聴聞を耳にふれをき候をもむき、 かたのごとくかたり申すべきにて候。 おぼろげに御きゝ候ては、 我等が後日のあやまりにもなるべく候。 かへすがへすも解脱の耳をそばだてゝ、 ふかく歓喜の思を御なし候て、 よくよく御きゝあるべくさふらふ。 抑この南无阿弥陀仏と申す六字を善導釈していはく、 「南无といふは帰命なり、 またこれ発願廻向の義なり。 阿弥陀仏といふはその行なり。 この義をもてのゆへにかならず往生することをう」 (玄義分) といへり。 さればこの釈のこゝろをばなにとこゝろうべきぞといふに、 これに二の0485義あり。 一には帰命、 二には発願廻向の義なり。 これをこゝろうべきやうは、 たとへば一生造悪の愚痴の我等なれども、 南无と帰すればやがて阿弥陀仏のそのたのう機をしろしめすなり。 また帰命といふはたすけたまへと申すこゝろなり。 この帰命の衆生を弥陀のすくひましますこゝろが、 すなはち発願廻向のこゝろなり。 また発願廻向といふは阿弥陀如来の御かたより大善大功徳をあたへたまふこゝろなり。 この大善大功徳を我等衆生にあたへましますゆへに、 无始曠劫よりつくりをきたる悪業煩悩を一時に消滅したまふゆへに、 我等が悪業のをそろしきつみことごとくみなきえて、 すでに无上涅槃のくらゐにひとしきがゆへに、 正定聚不退のくらゐにいたるとはいふなり。 さればこそ、 この南无阿弥陀仏の六字は、 われらが往生すべきすがたなりといよいよしらるゝものなり。 又他力の信心をうるといふも、 たゞこの南无阿弥陀仏の六字のうちにみなこもれるものなりとおもふべし。 さればかずはたゞ六字にてすくなけれども、 その功能のふかきことはさらにきはほとりもなきいはれあるがゆへなりとしるべきものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。