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▼そもそも今月こんがつ二に十じゅう八日はちにちの報恩ほうおん講こう者は、 昔しゃく年ねんよりの流る例れいたり。 これによりて近国きんごく遠国えんごくの門葉もんよう、 報恩ほうおん謝徳しゃとくの懇こん志しをはこぶところなり。 二に六ろく時じ中ちゅうの称名しょうみょう念仏ねんぶつ、 今こん古こ退転たいてんなし。

抑今月廿八日之報恩講者、 従 の↢昔年↡為 り↢流例↡。 因 て↠茲 に近国遠国之門葉、 運 ぶ↢報恩謝徳之懇志 を↡処也。 二六時中之称名念仏、 今古无 し↢退転↡。

-これすなはち開山かいさん聖しょう人にんの法ほう流りゅう、 一天いってん四し海かいの勧かん化け比ひ類るいなきがいたすところなり。 このゆゑに七しち昼ちゅう夜やの時じ節せつにあひあたり、 不ふ法ほう不ふ審しんの根こん機きにおいては、 往おう生じょう浄じょう土どの信心しんじん獲ぎゃく得とくせしむべきものなり。 これしかしながら今月こんがつ聖しょう人にんの御ご正しょう忌きの報恩ほうおんたるべし。 しからざらん輩ともがらにおいては、 報恩ほうおん謝徳しゃとくの志こころざしなきににたるものか。

-是則開山聖人之法流、 一天四海之勧化所 ろ↠致 す↠无 が↢比類↡也。 此故相↢当 り七昼夜之時節 に↡、 於↢ ては不法不審之根機 に↡、 往生浄土之信心可 き↠令↢獲得↡者 の也 り。 是 れ併 ら今月聖人之御正忌之可 し↠為↢報恩↡。 於 て↢不↠ざらん然輩 に↡者は、 似 る↠无 に↢報恩謝徳之志 し↡者歟。

-これによりてこのごろ真しん宗しゅうの念仏ねんぶつ者しゃと号ごうする中なかに、 誠まことに心底しんていより当とう流りゅうの安心あんじん決けつ定じょうなきあひだ、 あるいは名みょう聞もん、 あるいは人並ひとなみに報謝ほうしゃをいたす由よしの風ふ情ぜいこれあり。 もつてのほかしかるべからざる次し第だいなり。

-依↠之 に此比号↢ する真宗の念仏者 と↡中 に、 誠 に自 り↢心底↡当流之安心无 き↢決定↡間、 或 は名聞、 或 は人並なみに致 す↢報謝 を↡由之風情在↠之。 以 の外不ざ↠る可↠然 る次第也。

-そのゆゑはすでに万ばん里りの遠えん路ろを凌しのぎ莫太ばくだいの辛労しんろうをいたして上じょう洛らくの輩ともがら、 いたづらに名みょう聞もん人並ひとなみの心しん中ちゅうに住じゅうすること口くち惜おしき次し第だいにあらずや、 すこぶる不ふ足そくの所存しょぞんといひつべし。 ただし無む宿しゅく善ぜんの機きに至いたりては力ちから及およばず。 しかりといへども無二むにの懺さん悔げをいたし、 一心いっしんの正しょう念ねんに趣おもむかば、 いかでか聖しょう人にんの御ご本ほん意いに達たっせざらんや。

-其 の故者既 に凌 ぎ↢万里之遠路 を↡致いた↢ して莫太之辛労 を↡上洛之輩、 徒 に住↢ する名聞人並なみ之心中 に↡事非 ず↢口惜次第↡哉、 頗  ぶる可↠謂↢不足之所存 と↡。 但至↢ りて无宿善之機 に↡者不↠及↠力。 雖↠然 と致 し↢无二之懺悔 を↡、 趣 は↢一心之正念 に↡、 争 か聖人之不↠ざらん達 せ↢御本意 に↡哉。

一 諸国参詣之輩の中にをいて、 在所をきらはず、 何なる大道・大路、 又関屋・渡之船中にても、 更无↢其憚 り↡仏法方之次第を顕露人にかたる事、 不↠ ざる可↠然 る事。

一 在々所々にをいて、 当流に更に沙汰せざるめづらしき法門を讃嘆し、 をなじく宗義になき面白き名目なんどをつかふ人これおほし。 以外の僻案なり。 自今已後、 堅可↢停止↡者也。

一 此七ヶ日報恩講中にをいては、 一人ものこらず信心未定の輩は、 心中をはゞからず改悔懺悔の心ををこして、 真実信心を獲得すべきものなり。

一 本より我安心のおもむきいまだ決定せしむる分もなきあひだ、 其の不審をいたすべきところに、 心中につゝみてありのまゝにかたらざる類 ひあるべし。 これをせ0421めあひたづぬるところに、 ありのまゝに心中をかたらずして、 当場ばをいひぬけんとする人のみなり、 无↢勿体↡次第なり。 心中をのこさずかたりて、 真実信心にもとづくべきものなり。

一 近年仏法之棟梁たる坊主達、 我信心はきはめて不足にて、 結句門徒・同朋は信心は決定するあひだ、 坊主の信心不足の由を申せば以外令↢立腹↡条、 言語道断の次第なり。 已後にをいては師弟ともに可↠住↢一味之安心↡事。

一 坊主分之人、 近比は事外重坏はい之由、 有↢其聞↡。 言語道断不ざる↠可↠然次第なり。 あながちに酒をのむ人を停止せよといふにはあらず。 仏法につけ門徒につけ、 重坏なればかならずやゝもすれば酔狂のみ令↢出来↡あひだ、 不↠可↠然。 さあらんときは坊主分は停止せられても、 誠に興隆仏法とも可↠謂歟。 不ず↠然者一盞にても可↠然歟。 これも仏法に志のうすきによりての事なれば、 是をとゞまらざるも道理歟。 ふかく思案あるべきものなり。

一 信心決定の人も、 細々に同行に会合之時は、 相互に信心の沙汰あらば、 これすなはち真宗繁昌之根源也。

一 当流の信心決定すといふ体は、 すなはち南无阿弥陀仏の六字のすがたとこゝろうべきなり。 既善導釈して云、 「言南无者即是帰命亦是発願廻向之義言阿弥陀仏者即是其行」 (玄義分) といへり。 南无と衆生が弥陀に帰命すれば、 阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、 万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。 このこゝろすなはち 「阿弥陀仏即是其行」 といふこゝろなり。 このゆへに南无と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法0422とが一体となるところをさして、 機法一体の南无阿弥陀仏とは申すなり。

-故に阿弥陀仏之昔法蔵比丘たりしとき、 衆生仏にならずは我も正覚ならじとちかひましますとき、 その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、 いまの南无阿弥陀仏なりとこゝろうべし。 これすなはちわれらが往生のさだまりたる証拠なり。 されば他力の信心獲得すといふも、 たゞこの六字のこゝろなりと落居すべきものなり。

抑この八ヶ条之趣如 し↠此 の。 然 る間当寺建立は既に九ヶ年にをよべり。 毎年之報恩講中にをひて、 面々各々に随分信心決定のよし領納ありといへども、 昨日今日までも、 その信心のおもむき不同なるあひだ、 所詮なきもの歟。 雖↠然当年之報恩講中にかぎりて、 不信心のともがら、 今月報恩講の中に早速に真実信心を獲得なくは、 年々を経といふとも同篇たるべき様にみえたり。

-しかるあひだ愚老が年齢既に七旬にあまりて、 来年之報恩講をも期しがたき身なるあひだ、 各々に真実に決定信をえしめん人あらば、 一は聖人今月の報謝のため、 一は愚老がこの七、 八ヶ年之あひだの本懐ともおもひはんべるべきものなり。

-穴賢、 穴賢。

*文明十七年十一月廿三日