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そもそも今月こんがつじゅう八日はちにち報恩ほうおんこうしゃくねんよりのれいたり。 これによりて近国きんごく遠国えんごく門葉もんよう報恩ほうおん謝徳しゃとくこんをはこぶところなり。 ろくちゅう称名しょうみょう念仏ねんぶつこん退転たいてんなし。 これすなはち開山かいさんしょうにんほうりゅう一天いってんかいかんるいなきがいたすところなり。 このゆゑにしちちゅうせつにあひあたり、 ほうしんこんにおいては、 おうじょうじょう信心しんじんぎゃくとくせしむべきものなり。 これしかしながら今月こんがつしょうにんしょう報恩ほうおんたるべし。 しからざらんともがらにおいては、 報恩ほうおん謝徳しゃとくこころざしなきににたるものか。 これによりてこのごろしんしゅう念仏ねんぶつしゃごうするなかに、 まこと心底しんていよりとうりゅう安心あんじんけつじょうなきあひだ、 あるいはみょうもん、 あるいは人並ひとなみ報謝ほうしゃをいたすよしぜいこれあり。 もつてのほかしかるべからざるだいなり。 そのゆゑはすでにばんえんしの莫太ばくだい辛労しんろうをいたしてじょうらくともがら、 いたづらにみょうもん人並ひとなみしんちゅうじゅうすることくちしきだいにあらずや、 すこぶるそく所存しょぞんといひつべし。 ただし宿しゅくぜんいたりてはちからおよばず。 しかりといへども無二むにさんをいたし、 一心いっしんしょうねんおもむかば、 いかでかしょうにんほんたっせざらんや。

抑今月廿八日之報恩講者、  の↢昔年↡ り↢流例↡。  て に近国遠国之門葉、  ぶ↢報恩謝徳之懇 を↡処也。 二六時中之称名念仏、 今古 し↢退転↡。 是則開山聖人之法流、 一天四海之勧化 ろ す が↢比類↡也。 此故相↢ り七昼夜之時 に↡、 於↢ ては不法不審之根 に↡、 往生浄土之信心 き↠令↢獲得↡ の り れ ら今月聖人之御正忌之 し↠為↢報恩↡。  て不↠ざらん に る に↢報恩謝徳之 し↡者歟。 依↠ に此比号↢ する真宗の念仏 と に に り↢心底↡当流之安心 き↢決定↡間、  は名聞、  はなみ す↢報 を↡由之風情在↠之。  の可↠ る次第也。  の故者 に ぎ↢万里之遠 をいたして莫太之辛 を↡上洛之輩、  に住↢ する名聞人なみ之心 に↡事 ず↢口惜次第↡哉、  ぶる可↠謂↢不足之所 と↡。 但至↢ りて无宿善之 に↡者不↠及↠力。 雖↠ と し↢无二之懺 を↡、  は↢一心之正 に↡、  か聖人之不↠ざらん せ↢御本 に↡哉。

一 諸国参詣之輩の中にをいて、 在所をきらはず、 何なる大道・大路、 又関屋・渡之船中にても、 更无↢其 り↡仏法方之次第を顕露人にかたる事、 不↠ ざる可↠ る事。

一 在々所々にをいて、 当流に更に沙汰せざるめづらしき法門を讃嘆し、 をなじく宗義になき面白き名目なんどをつかふ人これおほし。 以外の僻案なり。 自今已後、 堅可↢停止↡者也。

一 此七ヶ日報恩講中にをいては、 一人ものこらず信心未定の輩は、 心中をはゞからず改悔懺悔の心ををこして、 真実信心を獲得すべきものなり。

一 本より我安心のおもむきいまだ決定せしむる分もなきあひだ、 其の不審をいたすべきところに、 心中につゝみてありのまゝにかたらざる ひあるべし。 これをせ0421めあひたづぬるところに、 ありのまゝに心中をかたらずして、 当をいひぬけんとする人のみなり、 无↢勿体↡次第なり。 心中をのこさずかたりて、 真実信心にもとづくべきものなり。

一 近年仏法之棟梁たる坊主達、 我信心はきはめて不足にて、 結句門徒・同朋は信心は決定するあひだ、 坊主の信心不足の由を申せば以外令↢立腹↡条、 言語道断の次第なり。 已後にをいては師弟ともに可↠住↢一味之安心↡事。

一 坊主分之人、 近比は事外重はい之由、 有↢其聞↡。 言語道断ざる↠可↠然次第なり。 あながちに酒をのむ人を停止せよといふにはあらず。 仏法につけ門徒につけ、 重坏なればかならずやゝもすれば酔狂のみ令↢出来↡あひだ、 不↠可↠然。 さあらんときは坊主分は停止せられても、 誠に興隆仏法とも可↠謂歟。 ↠然者一盞にても可↠然歟。 これも仏法に志のうすきによりての事なれば、 是をとゞまらざるも道理歟。 ふかく思案あるべきものなり。

一 信心決定の人も、 細々に同行に会合之時は、 相互に信心の沙汰あらば、 これすなはち真宗繁昌之根源也。

一 当流の信心決定すといふ体は、 すなはち南无阿弥陀仏の六字のすがたとこゝろうべきなり。 既善導釈して云、 「言南无者即是帰命亦是発願廻向之義言阿弥陀仏者即是其行」 (玄義分) といへり。 南无と衆生が弥陀に帰命すれば、 阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、 万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。 このこゝろすなはち 「阿弥陀仏即是其行」 といふこゝろなり。 このゆへに南无と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法0422とが一体となるところをさして、 機法一体の南无阿弥陀仏とは申すなり。 故に阿弥陀仏之昔法蔵比丘たりしとき、 衆生仏にならずは我も正覚ならじとちかひましますとき、 その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、 いまの南无阿弥陀仏なりとこゝろうべし。 これすなはちわれらが往生のさだまりたる証拠なり。 されば他力の信心獲得すといふも、 たゞこの六字のこゝろなりと落居すべきものなり。

抑この八ヶ条之趣 し の る間当寺建立は既に九ヶ年にをよべり。 毎年之報恩講中にをひて、 面々各々に随分信心決定のよし領納ありといへども、 昨日今日までも、 その信心のおもむき不同なるあひだ、 所詮なきもの歟。 雖↠然当年之報恩講中にかぎりて、 不信心のともがら、 今月報恩講の中に早速に真実信心を獲得なくは、 年々を経といふとも同篇たるべき様にみえたり。 しかるあひだ愚老が年齢既に七旬にあまりて、 来年之報恩講をも期しがたき身なるあひだ、 各々に真実に決定信をえしめん人あらば、 一は聖人今月の報謝のため、 一は愚老がこの七、 八ヶ年之あひだの本懐ともおもひはんべるべきものなり。 穴賢、 穴賢。

*文明十七年十一月廿三日