0535黒谷上人語灯録巻第十四

厭欣沙門了慧集録

 

和語第二之四 当巻有九篇
 大胡太郎の妻室へつかはす御返事第十三
 熊谷の入道へつかはす御返事第十四
 津戸三郎へつかはす御返事第十五
 黒田の聖へつかはす御返事第十六
 越中の光明房へつかはす御返事第十七
 正如房へつかはす御文第十八
 禅勝房にしめす御詞第十九
 十二問答第二十
 十二箇条問答第二十一

 

0536十三、 大胡太郎の妻室へつかはす御返事

大胡の太郎実秀が妻室のもとへつかはす御返事 第十三

御文こまかにうけ給はり候ぬ。 まづはるかなる程に、 念仏の事きこしめさんがために、 わざと御つかひあげさせ給ひて候、 念仏の御心ざしの程、 近々あはれに候。

さてたづねおほせられて候念仏の事は、 往生極楽のためには、 いづれの行なりといへども、 念仏にすぎたる事は候はぬ也。 そのゆへは、 念仏はこれ弥陀の本願の行なるがゆへ也。

本願といふは、 阿弥陀ほとけ、 いまだほとけになり給はざりしむかし、 法蔵菩薩と申しゝいにしへ、 ほとけの国土をきよめ、 衆生を成就せんがために、 世自在王如来と申しゝほとけの御まえにして、 四十八の大願をおこし給ひしその中に、 一切衆生の往生のために、 一つの願をおこし給へる。 これを念仏往生の本願と申す也。

すなはち ¬无量寿経¼ の上巻にいはく、 「設我得仏、 十方衆生、 至心信楽、 欲生我国、 乃至十念、 若不生者、 不取正覚。」

善導和尚この願を釈しての給はく、 「若我成仏、 十方衆生、 称我名号下至十声、 若不生者不取正覚。 彼仏今現在世成仏。 当知、 本誓重願不虚、 衆生称念必得往生。」(礼讃)

念仏といふは、 仏の法身を憶念するにもあらず、 仏の相好を観念するにおあらず、 たゞ心0537をいたして、 もはら阿弥陀ほとけの名号を称念する、 これを念仏とは申也。 かるがゆへに 「称我名号」 とはいふ也。

念仏のほかの一切の行は、 これ弥陀の本願にあらざるがゆへに、 たとひめでたき行なりといへども、 念仏にはおよばざる也。 おほかたそのくにゝむまれんとおもはんものは、 そのほとけのちかひにしたがふべき也。 されば弥陀の浄土にむまれんとおもはん物は、 弥陀の誓願にしたがふべき也。 本願の念仏と、 本願にあらざる余行と、 さらにたくらぶべからず。 かるがゆへに往生極楽のためには、 念仏の行にすぎたる事は候はぬ也と申す也。

往生にあらざる道には、 余行又おのおのつかさどれるかたあり。 しかるに衆生の生死をはなるゝみち、 ほとけのおしへさまざまにおほく候へども、 このごろの人の三界をいで生死をはなるゝみちは、 たゞ極楽に往生し候ばかり也。 このむね聖教のおほきなることわり也。

次に極楽に往生するに、 その行さまざまにおほく候へども、 われらが往生せん事、 念仏にあらずはかなひがたく候也。 そのゆへは、 念仏はこれほとけの本願なるがゆへに、 願力にすがりて往生する事はやすし。

されば詮ずるところは、 極楽にあらずは生死をはなるべからず、 念仏にあらずは極楽へむまるべからざる物也。 ふかくこのむねを信ぜさせ給ひて、 一すぢに極楽をねがひ、 一0538すぢに念仏して、 このたびかならず生死をはなれんとおぼしめすべき也。

又一一の願のおはりに、 「若不生者不取正覚」 とちかひ給へり。 しかるに阿弥陀ほとけ、 仏になり給ひてよりこのかた、 すでに十劫をへ給へり。 まさにしるべし、 誓願むなしからず、 みなことごとく成就し給へる也。 その中に念仏往生の願、 ひとりむなしかるべからず。 しかれば、 衆生称念する物、 一人もむなしからず、 みなかならず往生する事をう。 もししからずは、 たれかほとけになり給へる事を信ずべきや。

三宝滅尽の時なりといへども、 一念すればなを往生す。 五逆重罪の人なりといえども、 十念すれば又往生す。 いかにいはんや、 三宝の世にむまれて五逆をつくらざるわれら、 弥陀の名号をとなえんに、 往生うたがふべからず。

いまこの願にあへる事は、 ま事にこれおぼろげの縁にあらず。 よくよくよろこびおぼしめすべし。 たとひ又あふといふとも、 もし信ぜずはあはざるがごとし。 いまふかくこの願を信ぜさせ給へり、 往生うたがひおぼしめすべからず。 かならずかならずふた心なくよくよく御念仏候ひて、 このたび生死をはなれ極楽にむまれさせ給ふべし。

又 ¬観无量寿経¼ にいはく、 「一一光明、 遍照十方世界念仏衆生、 摂取不捨。」 これは弥陀の光明たゞ念仏の衆生をてらして、 余の一切の行人をばてらさずといふ也0539。 たゞし、 余の行をしても極楽をねがはば、 ほとけのひかりてらして摂取し給ふべし。 なんぞたゞ念仏のものばかりをえらびて、 てらし給ふや。

善導和尚釈しての給はく、 「弥陀身色如金山、 相好光明照十方、 唯有念仏蒙光摂、 当知本願最為強。」(礼讃)

念仏はこれ弥陀の本願の行なるがゆへに、 成仏の光明返りて本地の誓願をてらし給ふ也。 余行はこれ本願にあらざるがゆへに、 弥陀の光明きらひててらし給はざる也。

いま極楽をもとめん人、 本願の念仏を行じて、 摂取のひかりにて­ら½されんとおぼしめすべし。 これにつけても念仏の大切に候、 よくよく申させ給ふべし。

又釈迦如来、 この ¬経¼ の中に定散のもろもろの行をときおはりてのちに、 まさしく阿難に付嘱し給時に、 かみにとくところの定散の三福業、 定善の十三観をば付嘱せずして、 たゞ念仏の一行を付嘱し給へり。 ¬経¼(観経) にいはく、 「仏告阿難、 汝好持是語。 持是語者、 即是持无量寿仏名。」

善導和尚この文を釈しての給はく、 「従仏告阿難汝持是語已下、 正明付嘱弥陀名号、 流通於遐代。 上来雖説定散両門之益、 望仏本願、 意在衆生一向専称弥陀仏名。」

これは定散のもろもろの行は、 弥陀の本願にあらず。 かるがゆへに釈迦如来の、 往生の行を付嘱し給ふに、 余の定善・散善をば付嘱せずして、 念仏はこれ弥陀の本願0540なるがゆへに、 まさしくえらびて本願の行を付嘱し給へる也。

いま釈迦のおしへにしたがひて往生をもとめん物、 付嘱の念仏を修して、 釈尊の御心にかなふべし。 これにつきても又よくよく御念仏候て、 ほとけの付嘱にかなはせ給ふべし。

又六方恒沙の諸仏、 舌をのべて、 三千大千世界におほひて、 もはらたゞ弥陀の名号をとなへて往生すといふは、 これ真実なりと証誠し給ふ也。 これ又念仏は弥陀の本願なるゆへに、 六方恒沙の諸仏、 これを証誠し給ふ也。 余の行は本願にあらざるがゆへに、 諸仏も証誠し給はざる也。 これにつけても又よくよく御念仏せさせ給ひて、 六方の諸仏の護念をかぶらせ給ふべし。

弥陀の本願、 釈尊の付嘱、 六方の護念、 一一にむなしからず。 このゆへに、 余仏の行は諸行にはすぐれたる也。

又善導和尚はこれ弥陀の化身也。 浄土の祖師おほしといへども、 たゞひとへに善導による。 往生の行おほしといへどもおほきにわかちて二とし給へり。 一には専修、 いはゆる念仏也。 二には雑修、 いはゆる一切のもろもろの行也。 上にいふところの定散等これ也。

¬往生礼讃¼ に云く、 「若能如上念念相続、 畢命為期者、 十即十生、 百即百生。 何以故。 无外雑縁得正念故、 与仏本願相応故、 不違教故、 随順仏語故。 若欲捨専修雑業者、 百時希得一二、 千時希得五三。 何以故。 由雑縁乱0541動失正念故、 与仏本願不相応故、 与教相違故、 不順仏語故、 係念不相応故、 憶想間断故。」 これは専修と雑行との得失なり。

得といふは、 往生する事をう。 いはく念仏するものは、 十人はすなはち十人ながら往生し、 百人はすなはち百人ながら往生すといふ、 これ也。 失といふは、 いはく往生の益をうしなへる也。 雑修のものは、 百人が中にまれに一、 二人往生する事をえてその余はむまれず。 千人が中にまれに五、 三人むまれてその余は又むまれず。

専修のものゝみみなむまるゝ事をうるは、 なんのゆへぞ。 阿弥陀ほとけの本願に相応せるがゆへ也、 釈迦如来のおしへに随順せるがゆへ也。 雑業のものゝむまるゝ事すくなきは、 なんのゆへぞ。 弥陀の本願にたがへるがゆへ也、 釈迦のおしへにしたがはざるがゆへ也。 念仏して浄土をもとむるものは、 二尊の御心にふかくかなへり。 雑を修して浄土をもとむるものは、 二仏の御心にそむけり。

善導和尚、 二行の得失を判ぜる事、 これのみにあらず。 ¬観経の疏¼ と申すふみの中に、 おほくの得失をあげたり。 しげきがゆへにいださず。 これをもてしりぬべし。

およそこの念仏は、 そしる物は地獄におちて五劫苦をうくる事きわまりなし、 信ずる物は浄土にむまれて永劫楽をうくる事きわまりまし。 なをなをいよいよ信心をふかくして、 ふた心なく念仏せ0542させ給ふべし。

くはしき事は、 御文にはつくしがたく候。 この御つかひ申候べし。

正月廿八日  源空

わたくしにいはく、 この御文は正治元年己未、 御つかひは蓮上房尊覚なり。

 

十四、 熊谷の入道へつかはす御返事

熊谷の入道へつかはす御返事 第十四

御文くはしくうけ給はり候ぬ。 か様にまめやかに、 大事におぼしめし候らん。 返々ありがたく候。 ま事にこのたび、 かまへて往生しなんと、 おぼしめしきるべく候。

うけがたき人身すでにうけたり、 あひがたき念仏往生の法門にあひたり。 娑婆をいとふ心あり、 極楽をねがふ心おこりたり。 弥陀の本願ふかし、 往生はたなごゝろにあるたび也。 ゆめゆめ御念仏おこたらず、 決定往生のよしを存ぜさせ給ふべく候。 何事もとゞめ候ぬ。

九月十六日  源空

 

十五、 津戸三郎へつかはす御返事

津戸の三郎入道へつかはす御返事 第十五

0543文くはしくうけ給はり候ぬ。 又たづねおほせられて候事ども、 おほやうしるし申候。

十五、 津戸三郎へつかはす御返事 一

一 熊谷入道・津戸三郎は、 无智のものなればこそ、 但念仏をはすゝめたれ、 有智の人にはかならずしも念仏にはかぎるべからずと申すよしきこへて候らん、 きわめたるひが事にて候。

そのゆへは、 念仏の行は、 もとより有智・无智にかぎらず、 弥陀のむかしちかひ給ひし本願も、 あまねく一切衆生のため也。 无智のためには念仏を願じ、 有智のためには余のよかく行を願じ給ふ事なし。

「十方衆生」(大経巻上) の句に、 ひろく有智・无智、 有罪・无罪、 善人・悪人、 持戒・破戒、 賢愚、 男女、 もしはほとけの在世の衆生、 もしはほとけの滅後のこのごろの衆生、 もしは釈迦の末法万年のゝち三宝みなうせてのおはりの衆生までも、 みなこもれる也。

又善導和尚、 弥陀の化身として専修念仏をすゝめ給へるも、 ひろく一切衆生のためにすゝめて、 无智の人にのみかぎる事は候はず。 ひろき弥陀の本願をたのみ、 あまねき善導のすゝめをひろめん物、 いかでか无智の人にかぎりて、 有智の人をへだてんや。 もししからば、 弥陀の本願にもそむき、 善導の御心にもかなふべからず。

さればこの辺にまうできて、 往生のみちをとひたづね候人には、 有智・无智0544を論ぜず、 みな念仏の行ばかりを申候也。 しかるに虚言を構えて、 さやうに念仏を申とゞめんとする物は、 さきの世に、 念仏三昧、 浄土の法門をきかず、 のちの世に又三悪道に返るべきものゝ、 さやうの事をばたくみ申候事にて候也。 そのよし聖教に見えて候也。

「見有修行起瞋毒方便破壊競生怨
如此生盲闡提輩毀滅頓教永沈淪
超過大地微塵劫未可得離三塗身」(法事讃巻下)

と申たる也。

この文の心は、 浄土をねがひ念仏を行ずる物を見ては、 いかりをおこし毒心をふかくして、 はかり事をめぐらし様様の方便をなして、 念仏の行をやぶり、 あらそひてあだをなし、 これをとゞめんとする也。

かくのごときの人は、 むまれてよりこのかた、 仏法の眼しゐて、 ほとけのためをうしなへる闡提のともがら也。 この弥陀の名号をとなへて、 ながき生死をたちまちにきり、 常住の極楽に往生すといふ頓教の御のりをそしりほろぼして、 このつみによりて、 ながく三悪道にしづむといへる也。

かくのごとくの人は、 大地微塵劫をすぐとも、 ながく三悪道の身をはなるゝ事をうべからずといへる也。 さればさやうに虚言をたくみて0545申候らん人は、 返りてあはれむべき物也。 さほどのものゝ申さんによりて、 念仏にうたがひをなし、 不審をおこさん物は、 いふにたらぬ程の事にてこそは候はめ。

おほかた弥陀に縁あさく、 往生に時いたらぬ物は、 きけども信ぜず、 おこなふを見てははらをたて、 いかりをふくみて、 さまたげんとする事にて候なり。 その心をえて、 いかに人申すとも、 御心ばかりはゆるがせ給ふべからず。 あながちに信ぜざらんは、 仏なをちからおよび給ふまじ。 いかにいはんや、 凡夫はちからおよぶまじき事也。

かゝる不信の衆生のために、 慈悲をおこし利益せんと思はんにつけても、 とく極楽へまいりてさとりをひらきて、 生死に返りて誹謗不信の物をもわたし、 一切衆生をあまねく利益せんと思ふべき事にて候也。 このよしを心えておはしますべし。

十五、 津戸三郎へつかはす御返事 二

一 一家の人々の善願に結縁助成せん事、 この条左右におよばず、 もともしかるべき事に候。 念仏の行をさまたぐる事をこそ、 専修の行には制したる事にて候へ。 人々のあるいは堂をつくり、 ほとけをつくり、 経をもかき、 僧をも供養せんには、 ちからをくはへ縁をむすばんが、 念仏をさまたげ、 専修をさうるほどの事には候まじきなり。

0546十五、 津戸三郎へつかはす御返事 三

一 念仏申させ給はんには、 心をつねにかけて、 口にわすれずとなふるが、 めでたき事にて候也。 念仏の行は、 もとより行住坐臥・時処諸縁をきらはぬ行にて候へば、 たとひ身もきたなく、 口もきたなくとも、 心をきよくして、 わすれず申させ給はん事は、 返々神妙に候。 ひまなくさやうに申させ給はんこそ、 返々ありがたくめでたく候へ。

いかならんところ、 いかなる時なりとも、 わすれず申させ給はゞ、 往生の業にかならずなり候はんずる也。 この心なからん人には、 おしへさせ給ふべし。 いかならん時にも申されざらんをこそ、 ねうじて申さばやとおもふべきに、 申されんをねうじて申させ給はぬ事は、 いかでか候べき、 ゆめゆめ候まじ。 たゞいかなるおりにもきらはず申させ給ふべし。

十五、 津戸三郎へつかはす御返事 四

一 念仏の行あながちに信ぜざらん人に論じあひ、 又あらぬ行、 ことさとりの人にむかひて、 いたくしゐておほせらるゝ事候まじく候。 異解・異学の人を見ては、 これを恭敬して、 かろしめ、 あなづる事なかれと申たる事にて候也。

さればおなじ心に極楽をねがひ、 念仏を申さん人には、 たとひ塵刹のほかの人なりとも、 同行のおもひをなして、 一仏浄土にむまれんとおもふべき事にて候也。

阿弥陀仏に縁なく、 極楽浄土にちぎりすくなく候はん人の、 信もおこらず、 ねがはしくもなく0547候はんには、 ちからおおよばず。 たゞ心にまかせて、 いかならんおこなひをもして、 後生たすかりて、 三悪道をはなるべき事を、 人の心にしたがひて、 すゝめ給ふべき也。

又さは候へども、 ちりばかりもかなひぬべからん人には、 阿弥陀ほとけをすゝめ、 極楽をねがはすべき也。 いかに申すとも、 この世の人の極楽にむまれて生死をはなれん事、 念仏ならで極楽にむまるゝ事は候まじき事にて候也。 このあひだの事をば、 人の心にしたがひて、 はからふべきにて候也。

いかさまにも物をあらそふ事は、 ゆめゆめ候まじき事にて候。 もしはそしり、 もしは信ぜざらん物をば、 ひさしく地獄にありて、 又地獄へ返るべき物なりとよくよく心えて、 こわがらで、 こしらへすゝむべきにて候。

又よもとおもひまいらせ候へども、 いかなる人申すとも、 念仏の御心なんど、 たぢろぎおぼしめす事あるべからず候。 たとひ千仏世にいでゝ、 念仏は往生すべからずと、 まのあたりおしへさせ候ふとも、 これは釈迦・弥陀よりはじめて、 恒沙のほとけの証誠せさせ給ふ事なればとおぼしめして、 心ざしを金剛よりもかたくして、 このたびかならず阿弥陀ほとけの御まえへまいらんずるとおぼしめすべきにて候也。

かくのごときの事、 かたはしを申さんに、 御心え候て、 わがため人のためにおこなはせ候ふべし。

0548九月十八日  真勧

 

十六、 黒田の聖へつかはす御返事

黒田の聖へつかはす御返事 第十六

末代の衆生を往生極楽の機にあてゝみるに、 行すくなしとてうたがふべからず、 一念・十念にたりぬべし。

罪人なりとてうたがふべからず。 罪根ふかきをもきらはず。

時くだれりとてうたがふべからず、 法滅已後の衆生なを往生すべし、 いはんやこのごろをや。

わが身わろしとてうたがふべからず、 自身はこれ煩悩具足せる凡夫なりといへり。

十方に浄土おほけれども、 西方をねがふは十悪・五逆の衆生もむまるゝゆへ也。

諸仏の中に弥陀に帰したてまつるは、 三念・五念にいたるまで、 みづからきたりてむかへ給ふがゆへ也。

諸行の中に念仏をもちゐるは、 かのほとけの本願なるがゆへ也。

いま弥陀の本願に乗じて往生してんには、 願として成ぜずといふ事あるべからず。 本願に乗ずる事は、 たゞ信心のふかきによるべし。

うけがたき人身をうけて、 あひがたき本願にあひて、 おこしがたき道心をおこして、 はなれがたき輪廻のさとりをはなれて、 むまれがたき浄土に往生せん事は、 よろこびがなかのよろこび也。

つみをば十悪・五逆のものなをむまると信じて、 小0549罪をもおかさじとおもふべし。 罪人なをむまる、 いかにいはんや善人をや。

行は一念・十念むなしからずと信じて、 无間に修すべし。 一念なをむまる、 いかにいはんや多念をや。

阿弥陀は、 不取正覚の詞成就して現にかのくにゝましませば、 さだめていのとおはらん時には来迎し給はんずらん。 釈尊は、 よきかなや、 わがおしへにしたがひて、 生死をはなれんとすと知見し給ふらん。 六方諸仏は、 よろこばしきかな、 われらが証誠を信じて、 不退の浄土に往生せんとすとよろこび給ふらんと。

天にあふぎ地にふしてもよろこびつゝ、 このたび弥陀の本願にあへる事を、 行住坐臥にも報ずべし。 かのほとけの恩徳を、 たのみてもなをたのむべきは乃至十念の詞、 信じてもなを信ずべきは必得往生の文なり。

 

十七、 越中の光明房へつかはす御返事

越中国光明房へつかはす御返事 第十七

一念往生の義は、 京中にもほゞ流布するよしうけ給はるところ也。 およそ言語道断の事也、 ま事にほとほと御問にもおよぶべからざる事歟。

¬双巻経¼(大経巻下) の中には 「乃至一念信心歓喜」 といひ、 又善導和尚の ¬疏¼(礼讃) には 「上一形を尽し下十声・一声にいたるまでも、 さだめて往生する事をうと信じて、 乃至一念もうたがふ心0550なかれ」 といへる。 これらの文をあしく料簡するともがらの、 かゝる大邪見に住して申候ところ也。

「乃至」 といひ 「下至」 といへるは、上み一形をつくすをかねたる詞也。 しかるをこのごろの愚痴・无智のともがらのおほく、 ひとえに十念・一念なりと執して上尽一形をすつる条、 无慚・无愧の事也。 ま事に十念・一念までもほとけの大悲本願、 なをかならず引摂し給ふ无上の功徳なりと信じて、 一期不退に行ずべき也。 文証おほしといへども、 これを出すにおよばず、 不足言の事也。

こゝにかの邪見の人、 この難をうけて、 答へていはく、 わがいふところも、 信を一念にとりて念ずべき也。 しかりといひて、 又念仏すべからずとはいはずと 云云。 ことばは尋常なるににたれども、 心は邪見をはなれず。 しかるゆへは、 決定の信心をもて一念してのちは、 又念ずといふとも、 十悪・五逆なをさわりをなさず、 いはんや、 余の小罪をやと信ずべき也といふ。

このおもひに住せん物は、 たとひ多念すといふとも、 あにほとけの御心にかなはんや、 いづれの経論のいかなる説ぞや。 これひとへに懈怠・无道心のいたり、 不当・不善のたぐひの、 ほしいまゝに悪をつくらんとおもひていふ事なり。 又念ぜずは、 その悪かの勝因をさへて、 むしろ三塗におちざらんや。

かの一生造悪のものゝ臨終に十念して往生する0551は、 これ懺悔念仏のちから也。 この悪義には混乱すべからず。 かれは懺悔の人也、 これは邪見の人也。 なをなを不可説の事也。

たとひ精進のものなりといふとも、 この義をきかばかならず懈怠になりなん。 まれに持戒の人ありといふとも、 この説を信ぜばすなはち无慚になりぬべし。 およそかくのごときの人は、 附仏法の外道也、 師子の中のむし也。

又うたがふらくは、 天魔波旬のために、 その正解をうばゝれたるともがらの、 もろもろの往生の人をさまたげんとするか。もともあやしむべし、 ふかくおそるべし。 ことごと筆端につくしがたし。 あなかしこ、 あなかしこ。

 

十八、 正如房へつかはす御文

正如房へつかはす御文 第十八

正如房の御事こそ、 返々あさましく候へ。 そのゝちは、 心ならずうときやうになりまいらせて、 念仏の御信もいかゞと、 ゆかしくおもひまいらせ候つれども、 さしたる事も候はず。

又申すべきたよりも候はぬやうにて、 思ながら、 なにとなく、 むなしくまかりすぎ候つるに、 たゞれいならぬ御事大事になんどばかりうけ給はり候はんだにも、 いま一度見まいらせたく、 おはりまでの御念仏の事も、 おぼつˆか0552½なくこそおもひまいらせ候べきに、 まして御心にかけて、 つねに御たづね候らんこそ、 ま事にあはれにも心ぐるしくも、 おもひまいらせ候へ。

左右なくうけ給はり候まゝに、 まいり候て見まいらせたく候へども、 思ひきりてしばしゐでありき候はで、 念仏申候はゞやと思ひはじめたる事の候を、 様にこそよる事にて候へ。

これをば退してもまいるべきにて候に又思ひ候へば、 詮じては、 この世の見参とてもかくても候なん。 屍ねを執するまどひにもなり候ひぬべし。 たれとてもとまりはつべき身にも候はず、 われも人もたゞおくれさきだつかわりめばかりにてこそ候へ。

そのたえまを思ひ候も、 又いつまでぞとさだめなきうへに、 たとひ久しと申候とも、 ゆめまぼろしいく程かは候べきなれば、 たゞかまえてかまえておなじ仏の国にまいりあひて、 はちすの上にてこの世のいぶせさをもはるけ、 ともに過去の因縁をもかたり、 たがひに未来の化道をもたすけん事こそ、 返々も詮にて候べきと、 はじめよりも申おき候しが、 返々も本願をとりつめまいらせて、 一念もうたがふ御心なく、 十声も南無阿弥陀仏と申せば、 わが身はたとひいかに罪ふかくとも、 ほとけの願力によりて一定往生するぞとおぼしめして、 よくよく一すぢに念仏の候べき也。

われらが往生はゆめゆめわが身のよしあしきにはより候0553まじ。 ひとへにほとけの御ちからばかりにて候べき也。 わがひからばかりにてはいかにめでたく貴とき人と申すとも、 末法のこのごろ、 たゞちに浄土にむまるゝ程の事はありがたくぞ候べき。

又仏の御ちからにて候はんには、 いかに罪ふかくおろかにつたなき身なりとも、 それにはより候まじ。 たゞ仏の願力を、 信じ信ぜざるにぞより候べき。

されば ¬観无量寿経¼ にとかれて候は、 むまれてよりこのかた、 念仏一遍も申さず、 それならぬ善根もつやつやなくて、 あさゆふものころしぬすみし、 かくのごときのもろもろのつみのみつくりて、 とし月をゆけども、 一念も懺悔の心もなくて、 あかしくらしたるものゝ、 おはりの時に善知識のすゝむるにあひて、 たゞ一声南無阿弥陀仏と申したるによりて、 五十億劫があひだ生死にめぐるべき罪を滅して、 化仏・菩薩三尊の来迎にあづかりて、 仏の名をとなふるがゆえに罪滅せり、 われきたりてなんぢをむかふとほめられまいらせて、 すなはちかの国に往生すと候。

又五逆罪と申て、 現身に父をころし、 母をころし、 悪心をもて仏をころし、 諸宗を破し、 かくのごとくおもきつみをつくりて、 一念懺悔の心もなからん、 そのつみによりて无間地獄におちて、 おほくの劫をおくりて苦をうくべからん物、 おはりの時に、 善知識のすゝめによりて、 南無阿弥陀仏と0554十声となふるに、 一声におのおの八十億劫があひだ生死にめぐるべき罪を滅して、 往生すとゝかれて候めれば、 さほどの罪人だにもたゞ十声・一声の念仏にて往生はし候へ。 ま事に仏の本願のちからならでは、 いかでかさる事候べきとおぼへ候、 本願むなしからずといふ事は、 これにても信じつべくこそ候へ。

これはまさしき仏説にて候。 仏の御言ばゝ、 一言もあやまらずと申候へば、 たゞあふぎても信ずべきにて候。 これをうたがはゞ、 仏の御そら事と申すにもなりぬべく候。 返りては又そのつみも候ひぬべしとこそおぼへ候へ。 ふかく信ぜさせ給ふべく候。

さて往生せさせおはしますまじき様にのみ申きかせまいらする人々の候らんこそ、 返々あさましく心ぐるしく候へ。 いかなる智者めでたき人々おほせらるとも、 それになおどろかせおはしまし候そ。 おのおののみちにはめでたく貴き人なりとも、 さとりあらず行ことなる人の申候事は、 往生浄土のためには、 中々ゆゝしき退縁・悪知識とも申ぬべき事どもにて候。

たゞ凡夫のはからひをばきゝいれさせおはしまさで、 一すぢに仏の御ちかひをたのみまいらせおはしますべく候。

さとりことなる人の往生いひさまたげんによりて、 一念もうたがふ心あるべからずといふことはりは、 善導和尚のよくよくこまかにおほせられおきたる事にて候也。

たと0555ひおほくのほとけ、 そらの中にみちみちて、 ひかりをはなちしたをのべて、 悪をつくりたる凡夫なりとも、 一念してかならず往生すといふ事はひが事ぞ、 信ずべからずとの給ふとも、 それによりて一念もうたがふ心あるべからず。

そのゆへは、 阿弥陀仏のいまだ仏になり給はざりしむかし、 はじめて道心をおこし給ひし時、 われほとけになりたらんに、 わが名をのなふる事十声・一声までせん物、 わがくにゝむまれずは、 われほとけにならじとちかひ給ひたりしその願むなしからず、 すでに仏になり給へり。

又釈迦仏、 この娑婆世界にいでゝ、 一切衆生のために、 かの本願をとき、 念仏往生をすゝめ給へり。

又六方恒沙の諸仏、 この念仏して一定往生すと釈迦仏のとき給へるは決定也、 もろもろの衆生一念もうたがふべからず。 ことごとく一仏ものこらず、 あらゆる諸仏みなことごとく証誠し給へり。

すでに阿弥陀仏は願にたて、 釈迦仏はその願をとき、 六方諸仏はその説を証誠し給へるうゑ、 このほかはなにほとけの、 又これらの諸仏にたがひて、 凡夫往生せずとはの給ふべきぞといふことはりをもて、 仏現じての給ふとも、 それにおどろきて信心をやぶりうたがふ心あるべからず。 いはんや、 菩薩たちのの給はんをや、 又辟支仏をやと、 こまごまと善導は釈し給ひて候也。

ましてこのごろの凡夫のいか0556に申候はんによりて、 げにいかゞあらんずらんなんど、 不定におぼしめす御心、 ゆめゆめ候まじく候。 いかにめでたき人と申すとも、 善導和尚にまさりて往生の道をしりたらん事もかたく候。

善導又凡夫にあらず、 阿弥陀仏の化身也。 阿弥陀仏のわが本願ひろく衆生に往生せさせん料に、 かりに人とむまれて善導とは申候也。 そのおしへは、 申せば仏説にてこそ候へ。 あなかしこ、 あなかしこ。 うたがひおぼしめすまじきにて候。

又はじめより仏の本願に信をおこさせおはしまして候し御心の程、 見まいらせ候に、 なにしにかは往生はうたがひおぼしめし候べき。 経にとかれて候ごとく、 いまだ往生の道もしらぬ人にとりての事にて候。 もとよりよくよくきこしめししたゝめて、 そのうゑ御念仏功つもりたる事にて候はんには、 かならず又臨終の善知識にあはせおはしまさずとも、 往生は一定せさせおはしますべき事にてこそ候へ。

中々あらぬさまなる人は、 あしく候なん。 たゞいかならん人にても、 尼女房なりとも、 つねに御まへに候はん人に、 念仏申させて、 きかせおはしまして、 御心一つをつよくおぼしめして、 たゞ中々一向に、 凡夫の善知識をおぼしめしすてゝ、 仏を善知識にたのみまいらせさせ給ふべく候。

もとよりほとけの来迎は、 臨終正念のためにて候也。 それを人の、 みな臨終正念にて念0557仏申たるに、 仏はむかへ給ふとのみ心えて候は、 仏の願を信ぜず、 経の文を信ぜぬにて候也。

¬称讃浄土経¼ には、 「慈悲をもてくわへたすけて、 心をしてみだらしめ給はず」 とゝかれて候也。 たゞの時によくよく申おきたる念仏によりて、 仏は来迎し給ふ時に、 正念には住すと申すべきにて候也。

たれも仏をたのむ心はすくなくして、 よしなき凡夫の善知識をたのみ、 さきの念仏をばむなしくおもひなして、 臨終正念をのみいのる事どもにて候が、 ゆゝしきひがゐんの事にて候也。

これをよくよく御心えて、 つねに御目をふさぎ、 掌をあはせて、 御心をしづめておぼしめすべく候。 ねがはくは阿弥陀仏、 本願をあやまたず、 臨終の時かならずわがまへに現じて、 慈悲をもてくわへたすけて、 正念に住せしめ給へと、 御心にもおぼしめして、 口にも申させ給ふべく候。 これにすぎたる事候まじ。 心よはくおぼしめす事の候まじき也。

か様に念仏をかきこもりて申候はんあんどおもひ候も、 ひとへにわが身一つのためとのみは、 もとよりおもひ候はず。 おりしもこの御事をかくうけ給はり候ぬれば、 いまよりは一念ものこさず、 ことごとくその往生の御たすけになさんとこそ廻向しまいらせ候はんずれば、 かまへてかまへておぼしめすさまに遂させまいらせ候はゞやとこそは、 ふかく念じまいらせ候へ。

もしこの0558心ざしま事ならば、 いかでか又御たすけにもならで候べき、 たのみおぼしめさるべきにて候。

おほかたは申いで候し一ことばに御心をとゞめさせおはします事も、 この世一つの事にて候はじと、 さきの世もゆかしくあはれにこそおもひしらるゝ事にて候へば、 うけ給はる事は、 このたびま事にさきだゝせおはしますにても、 又おもはずにさきだちまいらせ候事になるさだめなさにて候とも、 つゐに一仏浄土にまいりあひまいらせ候はんは、 うたがひなくおぼへ候。

ゆめまぼろしのこの世にて、 いま一度なんどおもひ申候事は、 とてもかくても候ひなん。 これをば一すぢにおぼしめしすてゝ、 いとゞもふかくねがふ御心をもまし、 念仏をもはげましおはしまして、 かしこにてまたんとおぼしめすべく候。

返々もなをなを往生をうたがふ御心候まじく候。 五逆・十悪のおもき罪つくりたる悪人、 なを十声・一声の念仏によりて、 往生をし候はんに、 まして罪つくらせおはします御事は、 何事か候べき。 たとひ候べきにても、 いく程の事かは候べき。 この経にとかれて候罪人には、 いひくらぶべくやは候。

それにまづ心をおこし、 出家をとげさせおはしまして、 めでたき御のりにも縁をむすび、 時にしたがひ日にしたがひて、 善根のみこそはつもらせおはします事にて候らめ。 そのうゑふかく決定往生の法文0559を信じて、 一向専修の念仏にいりて、 一すぢに弥陀の本願をたのみて、 ひさしくならせおはしまして候。 何事かは、 一事も往生をうたがひおぼしめし候べき。

「専修の人は百人は百人ながら、 十人は十人ながら往生す」(礼讃) と善導はの給ひて候へば、 ひとりそのかずにもれさせおはしますべきかはとこそおぼへ候へ。 善導をもかこち、 仏の本願をもせめまいらせさせ給ふべく候。 心よはくは、 ゆめゆめおぼしめすまいく候。 あなかしこ、 あなかしこ。

ことはりをや申しひらき候とおもひ候程に、 よにおほくなり候ひぬる。 さやうのおりふし、 骨なくやとおぼへ候へども、 もしさすがのびたる御事にても又候らん。 えしり候はでは、 いつをかまち候べき。 もしのどかにきかせおはしまして、 一念の御心をすゝむるたよりにやなり候と、 おもひ候ばかりにとゞめえ候はで、 これほどこまかになり候ぬ。

譏嫌をしり候はねば、 はからひがたくてわびしくこそ候へ。 もし无下によはくならせおはしましたる御事にて候はゞ、 これは事ながく候べく候。 要をとりてつたへまいらせさせおはしますべく候。

うけ給はり候まゝに、 なにとなくあはれにおぼへ候て、 おし返し又申候也。

 

0560十九、 禅勝房にしめす御詞

禅勝房にしめす御詞 第十九

阿弥陀仏は、 一念となふるに一度の往生にあてがひておこし給へる本願也。 かるがゆへに十念は十度むまるゝ功徳也。 一向専修の念仏者になる日よりして、 臨終の時にいたるまで申たる一期の念仏をとりあつめて、 一度の往生はかならずする事也。

又云、 念仏申す機は、 むまれつきのまゝにて申す也。 さきの世のしわざによりて、 今生の身をばうけたる事なれば、 この世にてはえなをしあらためぬ事也。 たとへば女人の男子にならばやとおおへども、 今生のうちには男子にならざるがごとし。 智者は智者にて申し、 愚者は愚者にて申し、 慈悲者は慈悲ありて申し、 邪見者は邪見ながら申す、 一切の人みなかくのごとし。 さればこそ阿弥陀ほとけは十方衆生とて、 ひろく願をばおこしてましませ。

又云、 一念・十念にて往生すといへばとて、 念仏を疎相に申せば、 信力が行をさまたぐる也。 「念念不捨」(散善義) といへばとて、 一念・十念を不定におもへば、 行が信をさまたぐる也。 かるがゆへに信をば一念にむまるととり、 行をば一形はげむ0561べし。

又云、 一念を不定におもふものは、 念念の念仏ごとに不信の念仏になる也。 そのゆへは、 阿弥陀仏は一念に一度の往生をあておき給へる願なれば、 念念ごとに往生の業となる也。

 

二十、 十二問答 一

●十二の問答 第二十

問曰、 八宗・九宗のほかに浄土宗をたつる事、 自由の条かなと、 余宗の人の申候をば、 いかんが申し候べき。

答。 宗の名をたつる事は仏の説にあらず、 みづから心ざすところの経教につきて、 おしふる義をさとりきわめて、 宗の名をば判ずる事也。 諸宗の習みなもてかくのごとし。 いま浄土宗の名をたつる事は、 浄土の正依経につきて、 往生極楽の義をさとりきわめておはします先達の、 宗の名をばたて給へる也。 宗のおこりをしらざるものゝ、 左様の事をば申候也。

二十、 十二問答 二

問曰、 法華・真言等をば雑行にはいるべからずと人人の申候をば、 いかゞこたへ候べき。

答。 恵心先徳、 一代聖教の要文をあつめて往生要集をつくり給へる中に十門をたつ。 その第九の往生諸業門に、 法華・真言等の諸大乗経をいれ給へり。 諸0562行と雑行と、 言異にして心おなじ。 いまの難者は、 恵心の先徳にまさるべからざるもの也。

二十、 十二問答 三

問曰、 余仏・余経につきて善根を修せん人に、 結縁助成し候はん事は雑行と申候べきか。

答。 わが心、 弥陀ほとけの本願に乗じ、 決定往生の信をとるうゑには、 他の善根に結縁助成せん事は、 またく雑行になるべからず、 わが往生の助業となるべき也。 他の善根を随喜讃嘆せよと釈し給へるをもて、 心うべき事也。

二十、 十二問答 四

問曰、 極楽に九品の差別の候事は、 阿弥陀ほとけのかまへさせ給へる事にて候やらん。

答。 極楽の九品は弥陀の本願にあらず、 四十八願の中にもなし。 これは釈尊の巧言也。 善人・悪人一所にむまるといはゞ、 悪業のものども慢心をおこすべきがゆへに、 九品の差別をあらせて、 善人は上品にすゝみ、 悪人は下品にくだると、 とき給へる也。 いそぎまいりてみるべし。

二十、 十二問答 五

問曰、 持戒の行者の念仏の数遍のすくなく候はんと、 破戒の行人の念仏の数遍のおほく候はんと、 往生のゝちの位の浅深いづれかすゝみ候べきや。

答。 居てまします畳をおさへての給はく、 この畳のあるにとりてこそ、 やぶれたるかやぶれざるかといふ事はあれ。 つやつやなからんたゝみをば、 なにとか論ずべき。

「末法の0563中には持戒もなく、 破戒もなし、 たゞ名字の比丘ばかり」 ありと、 伝教大師の ¬末法灯明記¼ にかき給へるうゑには、 なにと持戒・破戒の沙汰をばすべきぞ。 かゝるひら凡夫のためにおこし給へる本願なればとて、 いそぎいそぎ名号を称すべし。

二十、 十二問答 六

問曰、 念仏の行者等、 日別の所作において、 こゑをたてゝ申す人も候、 又心に念じてかずをとる人も候、 いづれかよく候べき。

答。 それは口にてとなふるも名号、 心にて念ずるも名号なれば、 いづれも往生の業とはなるべし。 たゞし仏の本願は称名の願なるがゆへに、 声をたてゝとなふべき也。

このゆへに ¬経¼(観経) には 「令声不絶具足十念」 とゝき、 釈には 「称我名号下至十声」(礼讃) との給へり。 耳にきこゆる程は、 高声念仏にとる也。 さればとて、 譏嫌をしらず、 高声なるべきにはあらず、 地体は声を出さんとおもふべき也。

二十、 十二問答 七

問曰、 日別の念仏の数遍、 相続にいる程はいかんがはからひ候べき。

答。 善導の御釈によるに、 一万已上は相続にて候べし。 たゞし一万遍をもいそぎ申して、 さてその日をくらさん事はあるべからず。 一万遍なりとも、 一日一夜の所作とすべき也。 総じては一食のあひだに三度ばかり思ひいださんは、 よき相続にてあるべし0564。 それは衆生の根性不同なれば、 一準なるべからず。 心ざしだにふかければ、 自然に相続はせらるゝ也。

二十、 十二問答 八

問曰、 ¬礼讃¼ の深心の中には 「十声一声、 必得往生、 乃至一念、 无有疑心」 と釈し給へり、 又 ¬疏¼(散善義) の深心の中には 「念念不捨者、 是名正定之業」 と釈し給へり。 いづれかわが分にはおもひさだめ候べき。

答。 「十声一声」 の釈は念仏を信ずる様、 「念念不捨者」 の釈は念仏を行ずる様也。 かるがゆへに、 信をば一念にむまるとゝりて、 行をば一形にはげむべしとすゝめ給へる也。 又大意は、 「一発心已後、 誓畢此生无有退転。 唯以浄土為期」散善義の釈を本とすべき也。

二十、 十二問答 九

問曰、 本願の一念は、 尋常の機にも臨終の機にもともに通寺候べきか。

答。 一念の願は、 いのちつゞまりて二念におよばざる機のため也。 尋常の機に通ずべくは、 「上尽一形」 の釈あるべからず。 この釈をもて心うるに、 かならずしも一念を本願といふべからず。

「念念不捨者、 是名正定之業、 順比仏願故」(散善義) と釈し給へり。 この釈は、 数遍つもらんも本願とはきこへたるは、 たゞ本願にあふ機の遅速不同なれば、 「上尽一形下至一念」(散善義意) とおこし給へる本願也と心うべき也。 かるがゆへに念仏往生の願とこそ、 善導は釈し給へ。

0565二十、 十二問答 十

問曰、 自力・他力の事は、 いかんが心え候べき。

答。 源空は殿上へまいるべき器量にてはなけれども、 上よりめせば二度までまいりたりき。 これはわがまいるべきしなにてはなけれども、 上の御ちから也。 まして阿弥陀ほとけの御ちからにて、 称名の願にこたへて来迎せさせ給はん事は、 なんの不審かあるべき。

わが身つみおもくて无智なれば、 仏もいかにしてかすくひ給はんなんどおもはん物は、 つやつや仏の願をもしらざる物也。 かゝる罪人どもを、 やすやすとたすけすくはん料に、 おこし給へる本願の名号をとなへながら、 ちりばかりもうたがふ心かあるまじき也。 十方衆生のことばの中に、 有智・无智、 有罪・无罪、 善人・悪人、 持戒・破戒、 男子・女人、 三宝滅尽のゝちの百歳までの衆生、 みなこもる也。

かの三宝滅尽の時の念仏者と、 当時の御房達とくらぶれば、 当時の御房達は仏のごとし。 かの時の人のいのちはたゞ十歳也。 戒定慧の三学、 たゞ名をだにもきかず、 総じていふばかりなき物どもの来迎にあづかるべき道理をしりながら、 わが身のすてられまいらすべき様をば、 いかにしてか案じ出すべき。

たゞ極楽のねがはしくもなく、 念仏の申されざらん事のみこそ、 往生のさわりにてはあるべけれ。 かるがゆへに他力本願ともいひ、 超世の悲願ともいふ也。

0566二十、 十二問答 十一

問曰、 至誠等の三心を具し候べき様をば、 いかんがおもひさだめ候べき。

答。 三心を具する事は、 たゞ別の様なし。 阿弥陀ほとけの本願に、 わが名号を称念せば、 かならず来迎せんとおほせられたれば、 決定して引接せられまいらせんずるぞとふかく信じて、 心に念じ口に称するに物うからず、 すでに往生したる心ちして最後一念にいたるまでたゆまざるものは、 自然に三心は具足する也。

又在家の物どもはこれ程までおもはざれども、 たゞ念仏申す物は極楽にむまるなればとて、 つねに念仏をだにも申せば、 そらに三心は具足する也。 さればこそ、 いふにかひなきものどもの中にも、 神妙なる往生をばする事にてあれ。

二十、 十二問答 十二

問曰、 臨終の一念は百年の業にすぐれたりと申すは、 平生の念仏の中に、 臨終の一念ほどの念仏をば申しいたし候まじく候やらん。

答。 三心具足の念仏は、 をなじ事也。 そのゆへは、 ¬観経¼ にいはく、 「具三心者必生彼国」 といへり。 「必」 文字のあるゆへに、 臨終の一念とおなじ事也。

この問答の問をば、 ¬進行集¼ には禅勝房の問といへり。 ある文には隆寛律師の問といへり。 たづぬべし。

 

0567二十一、 十二箇条問答 一

十二箇条の問答 第二十一

問ていはく、 念仏すれば往生すべしといふ事、 耳なれたるやうにありながら、 いかなるゆへともしらず。 かやうの五障の身までも、 すてられぬ事ならば、 こまかにおしへさせ給へ。

答ていはく、 およそ生死をいづるおこなひ一つにあらずといへども、 まづ極楽に往生せんとねがへ、 弥陀を念ぜよよいふ事、 釈迦一代の教にあまねくすゝめ給へり。

そのゆへは、 弥陀の本願をおこして、 わが名号を念ぜん物、 わが浄土にむまれずは正覚とらじとちかひて、 すでに正覚をなり給ふゆへに、 この名号をとなふるものはかならず往生する也。

臨終の時、 もろもろの聖衆とゝもにきたりて、 かならず迎接し給ふゆへに、 悪業としてさふるものなく、 魔縁としてさまたぐる事なし。 男女・貴賎をえらばず、 善人・悪人をもわかたず、 心をいたして弥陀を念ずるに、 むまれずといふ事なし。

たとへばおもき石をふねにのせつれば、 しづむ事なく万里のうみをわたるがごとし。 罪業のおもき事は石のごとくなれども、 本願のふねにのりぬれば、 生死のうみにしづむ事なく、 かならず往生する也。

ゆめゆめわが身の罪業によりて、 本願の不思議をうたがはせ給ふべか0568らず。 これを他力の往生とは申す也。 自力にて生死をいでんとするには、 煩悩悪業を断じつくして、 浄土にもまいり菩提にもいたると習ふ。 これはかちよりけわしきみちをゆくがごとし。

二十一、 十二箇条問答 二

問ていはく、 罪業おもけれども、 智慧の灯をもちて、 煩悩のやみをはらふ事にて候なれば、 かやうの愚痴の身には、 つみをつくる事はかさなれども、 つぐのふ事はなし。 なにをもてこのつみをけすべしともおぼへず候は又いかん。

答ていはく、 たゞ仏の御詞を信じてうたがひなければ、 仏の御ちからにて往生する也。 さきのたとへのごとく、 ふねにのりぬれば、 目しゐたる物も目あきたる物も、 ともにゆくがごとし。

智慧のまなこある物も、 仏を念ぜざれば願力にかなはず、 愚痴のやみふかきものも、 念仏すれば願力に乗ずる也。 念仏する物をば、 弥陀、 光明をはなちてつねにてらしてすて給はねば、 悪縁にあはずして、 かならず臨終に正念をえて往生するなり。 さらにわが身の智慧のありなしによりて、 往生の定不定をばさだむべからず。 たゞ信心のふかかるべき也。

二十一、 十二箇条問答 三

問ていはく、 世をそむきたる人は、 ひとすぢに念仏すれば往生もえやすき事也。 かやうの身には、 あしたにもゆふべにもいとなむ事は名聞、 昨日も今日もおもふ事0569は利養也。 かやうの身にて申さん念仏は、 いかゞ仏の御心にもかなひ候べきや。

答ていはく、 浄摩尼珠といふたまを、 にごれる見ずに投ぐれば、 たまの用力にて、 その水きよくなるがごとし。 衆生の心はつねに名利にそみて、 にごれる事かのみづのごとくなれども、 念仏の摩尼珠を投ぐれば、 心のみづおのづからきよくなりて、 往生をうる事は念仏のちから也。

わが心をしづめ、 このさわりをのぞきてのち、 念仏せよとにはあらず。 たゞつねに念仏して、 そのつみをば滅すべし。 さればむかしより、 在家の人おほく往生したるためし、 いくばくかおほき。 心のしづかならざらんにつけても、 よくよく仏力をたのみ、 もはら念仏すべし。

二十一、 十二箇条問答 四

問ていはく、 念仏は数遍を申せとすゝむる人もあり、 又さしもなくともなんど申す人もあり。 いづれにかしたがひ候べき。

答ていはく、 さとりもあり、 ならふ­む½ねもありて申さん事は、 その心のうちしりがたければ、 さだめにくし。

在家の人の、 つねに悪縁にのみしたしまれ、 身には数遍を申さずして、 いたづらに日をくらし、 むなしく夜をあかさん事、 荒量の事にや候はんずらん。 凡夫は縁にしたがひて退しやすき物なれば、 いかにもいかにもはげむべき事也。 されば、 処処におほく 「念念に相続してわすれざれ」 といへり。

0570二十一、 十二箇条問答 五

問ていはく、 念念にわすれざる程の事こそ、 わが身にかなひがたくおぼへ候へ。 又手には念珠をとれども、 心にはそゞろ事をのみ思ふ。 この念仏は、 往生の業にはかなひがたくや候はんずらん。 これをきらはれば、 この身の往生は不定なるかたもありぬべし。

答ていはく、 念念にすてざれとおしふる事は、 人のほどにしたがひてすゝむる事なれば、 わが身にとりて心のおよび、 身のはげまん程は、 心にはからはせ給べし。

又念仏の時悪業の思はるゝ事は、 一切の凡夫のくせ也。 さりながらも往生の心ざしありて念仏せば、 ゆめゆめさわりとはなるべからず。 たとへば親子の約束をなす人、 いさゝかそむく心あれども、 さきの約束改変する程の心なければ、 おなじ親子なるがごとし。 念仏して往生せんと心ざして念仏を行ずるに、 凡夫なるがゆへに貪瞋の煩悩おこるといへども、 念仏往生の約束をひるがへさゞれば、 かならず往生する也。

二十一、 十二箇条問答 六

問ていはく、 これ程にやすく往生せば、 念仏するほどの人はみな往生すべきに、 ねがふ物もおほく、 念ずる物もおほき中に、 往生する物のまれなるは、 なにのゆへとか思ひ候べき。

答ていはく、 人の心はほかにあらはるゝ事なければ、 その邪正さだめがたしといへども、 ¬経¼(観経意) には 「三心を具して往生す」 とみへて候めり0571。 この心を具せざるがゆへに、 念仏すれども往生をえざる也。 三心と申すは、 一には至誠心、 二には深心、 三には廻向発願心也。

はじめに至誠心といふは真実心也と釈するは、 内外とゝのほれる心也。 何事をするにも、 ま事しき心なくては成ずる事なし。 人なみなみの心をもちて、 穢土のいとはしからぬをいとふよしをし、 浄土のねがはしからぬをねがふ気色をして、 内外とゝのほらぬをきらひて、 ま事の心ざしをもて、 穢土をもいとひ浄土をもねがへとおしふる也。

次に深心といふは、 仏の本願を信ずる心也。 われは悪業煩悩の身なれども、 ほとけの願力にて、 かならず往生するなりといふ道理をきゝて、 ふかく信じて、 つゆちりばかりもうたがはぬ心也。 人おほくさまたげんとして、 これをにくみ、 これをさへぎれども、 これによりて心のはたらかざるを、 ふかき信とは申也。

次に廻向発願心といふは、 わが修するところの行を廻向して、 極楽にむまれんとねがふ心也。

わが行のちから、 わが心のいみじくて往生すべしとはおもはず、 ほとけの願力のいみじくおはしますによりて、 むまるべくもなき物もむまるべしと信じて、 いのちおはらば仏かならずきたりてむかへ給へと思う心を、 金剛の一切の物にやぶられざるがごとく、 この心をふかく信じて、 臨終までもとおりぬれば、 十人は十人ながら0572むまれ、 百人は百人んがらむらるゝ也。

さればこの心なき物は、 仏を念ずれども順次の往生をばとげず、 遠縁とはなるべし。 この心のおこりたる事は、 わが身にしるべし、 人はしるべからず。

二十一、 十二箇条問答 七

問ていはく、 往生をねがはぬにはあらず、 ねがふといふとも、 その心勇猛ならず。 又念仏をいやしと思ふにはあらず、 行じながらおろそかにしてかしくらし候へば、 かゝる身なれば、 いかにもこの三心具したりと申すべくもなし。 さればこのたびの往生をばおもひたへ候べきにや。

答ていはく、 浄土をねがへどもはげしからず、 念仏すれども心のゆるなる事をなげくは、 往生の心ざしのなきにはあらず。 心ざしのなき物は、 ゆるなるをもなげかず、 はげしからぬをもかなしまず、 いそぐみちにはあしのおそきをなげく、 いそがざるみちにはこれをなげかざるがごとし。

又このめばおのづから発心すと申す事もあれば、 漸漸に増進してかならず往生すべし。 日ごろ十悪・五逆をつくれる物も、 臨終にはじめて善知識にあひて往生する事あり。 いはんや、 往生をねがひ念仏を申して、 わが心のはげしからぬ事をなげかん人をば、 仏もあはれみ、 菩薩もまぼりて、 障りをのぞき、 知識にあひて、 往生をうべき也。

0573二十一、 十二箇条問答 八

問ていはく、 つねに念仏の行者いかやうにかおもひ候べきや。

答ていはく、 ある時には世間の无常なる事をおもひて、 この世のいくほどなき事をしれ。

ある時には仏の本願をおもひて、 かならずむかへ給へと申せ。

ある時には人身のうけがたきにことはりを思ひて、 このたびむなしくやまん事をかなしめ。 六道をめぐるに、 人身をうる事は、 梵天より糸をくだして、 大海のそこなる針のあなをとをさんがごとしといへり。

ある時はあひがたき仏法にあへり。 このたび出離の業をうゑずは、 いつをか期すべきとおもふべき也。 ひとたび悪道におちぬれば、 阿僧祇劫をふれども、 三宝の御名をきかず、 いかにいはんや、 ふかく信ずる事をえんや。

ある時にはわが身の宿善をよろこぶべし。 かしこきもいやしきも、 人おほしといへども、 仏法を信じ浄土をねがふものはまれ也。 信ずるまでこそかたからめ、 そしりにくみて悪道の因をのみきざす。 しかるにこれを信じこれを貴びて、 仏をたのみ往生を心ざす、 これひとへに宿善のしからしむる也。 たゞ今生のはげみにあらず、 往生の期のいたれる也と、 たのもしくよろこぶべし。

かやうの事を、 おりにしたがひ事によりて、 おもふべきなり。

二十一、 十二箇条問答 九

問ていはく、 かやうの愚痴の身には聖教をも見ず、 悪縁のみおほし。 いかなる方法0574をもてか、 わが心をまぼり、 信心をももよをすべきや。

答ていはく、 そのやう一にあらず。 あるいは人の苦にあふを見て、 三塗の苦をおもひやれ。 あるいは人のしぬるを見て、 无常のことわりをさとれ。 あるいはつねに念仏して、 その心をはげませ。 あついはつねによきともにあひて、 心をはぢししめられよ。 人の心は、 おほく悪縁によりてき心のおこる也。 されば悪縁をばきり、 善縁にはちかづけといへり。 これらの方法ひとしなならず、 時にしたがひてはからふべし。

二十一、 十二箇条問答 十

問ていはく、 念仏のほかの余善をば、 往生の業にあらずとて、 修すべからずといふ事あり。 これはしかるべしや。

答ていはく、 たとへば人のみちをゆくに、 主人一人につきて、 おほくの眷属のゆくがごとし。 往生の業の中に、 念仏は主人也、 余の善は眷属也。 しかりといひて、 余善をきらふまではあるべからず。

二十一、 十二箇条問答 十一

問ていはく、 本願は悪人をきらはねばとて、 このみて悪業をつくる事はしかるべしや。

答ていはく、 ほとけは悪人をすて給はねども、 このみて悪をつくる事、 これ仏の弟子にはあらず。 一切の仏法に悪を制せずといふ事なし。 悪を制するに、 かならずしもこれをとゞめざるものは、 念仏してそのつみを滅せよとすゝめたる也。

わが身のたへねばとて、 仏にとがをかけたてまつらん事は、 おほきなるあやま0575り也。 わが身の悪をとゞむるにあたはずは、 ほとけ慈悲をすて給はずして、 このつみを滅してむかへ給へと申すべし。 つみをばたゞつくるべしといふ事は、 すべて仏法にいはざるところ也。

たとへば人のおやの、 一切の子をかなしむに、 そのなかによき子もあり、 あしき子もあり。 ともに慈悲をなすとはいへども、 悪を行ずる子をば、 目をいからし、 杖をさゝげて、 いましむるがごとし。 仏の慈悲のあまねき事をきゝては、 つみをつくれとおぼしめすといふさとりをなさば、 仏の慈悲にももれぬべし。

悪人までをもすて給はぬ本願としらんにつけても、 いよいよほとけの知見をば、 はづべし、 かなしむべし。 父母の慈悲あればとて、 父母のまへにて悪を行ぜんに、 その父母よろこぶべしや。 なげきながらすてず、 あはれみながらにくむ也。 ほとけも又もてかくのごとし。

二十一、 十二箇条問答 十二

問ていはく、 凡夫は心に悪をおもはずといふ事なし。 この悪をほかにあらはさゞるは、 仏をはぢずして人目をはゞかるといふ事あり。 これは心のままにふるまふべしや。

答ていはく、 人の帰依をえんとおもひてほかをかざらんは、 とがあるかたもやあらん。 悪をばしのばんがために、 たとひ心におもふとも、 ほかまではあらはさじとおもひておさへん事は、 すなはちほとけに恥る心也。 とにもかくにも悪を0576しのびて、 念仏の功をつむべき也。

習ひさきよりあらざれば、 臨終正念もかたし。 つねに臨終のおもひをなして、 臥すごとに十念をとなふべし。 されば、 ねてもさめてもわするゝ事なかれといへり。 おほかたは世間も出世も、 道理はたがはぬ事にて候也。

心ある人は父母もあはれみ、 主君もはぐゝむにしたがひて、 悪事をばしりぞき、 善事をばこのまんとおもへり。 悪をもすて給はぬ本願ときかんにも、 まして善人をば、 いかばかりかよろこび給はんと思ふべき也。 一念・十念をもむかへ給ふときかば、 いはんや百念・千念をやとおもひて、 心のおよび、 身のはげまれん程ははげむべし。

さればとてわが身の器量のかなはざらんをばしらず、 仏の引接をばうたがふべからず。 たとひ七、 八十のよはひを期すとも、 おほへばゆめのごとし。 いはんや、 老少不定なれば、 いつをかぎりと思ふべからず。 さらにのちを期する心あるべからず。 たゞ一とすぢに念仏すべしといふ事、 そのいはれ一にあらず。

これを見んおりおりごとにおもひでゝ、 南無阿弥陀仏とつねにとなへよ。

 

黒谷上人語灯録巻第十四

 

底本は龍谷大学蔵元亨元年刊本。