*本願寺聖人親鸞伝絵 上
一 出家学道
【1】 それ聖人 (親鸞) の俗姓は藤原氏、 *天児屋根尊二十一世の苗裔、 大織冠 *鎌子内大臣 の玄孫、 近衛大将右大臣 贈左大臣 従一位*内麿公 後長岡大臣と号し、 あるいは閑院大臣と号す。 贈正一位太政大臣*房前公孫、 大納言式部卿真楯息なり 六代の後胤、 弼宰相有国卿*五代の孫、 *皇太后宮大進*有範の子なり。 しかあれば朝廷に仕へて*霜雪をも戴き、 *射山にわしりて栄華をもひらくべかりし人なれども、 興法の因うちにきざし、 *利生の縁ほかに催ししによりて、 *九歳の春のころ、 阿伯従三位範綱卿 時に従四位上前若狭守、 後白河上皇の近臣なり、 上人 (親鸞) の養父 前大僧正 慈円慈鎮和尚これなり、 *法性寺殿御息、 *月輪殿長兄 の貴坊へあひ具したてまつりて、 鬢髪を剃除したまひき。 範宴少納言公と号す。 それよりこのかた、 しばしば*南岳・天台の玄風を訪ひて、 ひろく*三観仏乗の理を達し、 とこしなへに*楞厳横川の余流を湛へて、 ふかく*四教円融の義にあきらかなり。
天児屋根尊 記紀神話に出る神。 中臣氏 (宮廷の祭祀をつかさどった氏族)・藤原氏の祖神。
鎌子 藤原鎌足 (614-669) のこと。
内麿公 藤原鎌足の五代の孫、 藤原内麿のこと。
房前公 (671-737) 藤原氏北家の祖。
五代の孫 有範は有国の六代の孫にあたる。 ここでは有範の父経伊を省いた系図によったと考えられる。
皇太后宮大進 皇太后宮職の第三等官。
霜雪をも戴き 頭髪が白くなるまで朝廷に仕えるという意。 また、 天皇の側近く仕えるという意。
射山にわしりて 射山は上皇の御所をいう。 上皇に仕えて。
利生 衆生を利益すること。
九歳 養和元年 (1181)。
法性寺殿 藤原忠道 (1097-1164) のこと。
月輪殿 九条兼実 (1149-1207) のこと。
南岳天台 中国天台宗の南岳大師慧思 (515-577)・天台大師智顗 (538-597) によって説き示された奥深い教え。
三観仏乗の理 天台宗の根本的な教え。 空・仮・中の三種の観法によって生きとし生けるものがさとりをひらくとする教え。
楞厳横川の余流 比叡山横川 (首楞厳院はその中堂の称) に伝えられている源信和尚の流れ。
四教円融の義 天台宗の根本的な教え。 蔵・通・別・円の四教を立てて釈尊一代の経説内容を判別し、 その究極である円教の内容を三諦円融の理で解説する。
二 吉水入室
【2】 第二段
*建仁第一の暦春のころ 上人 (親鸞) 二十九歳 隠遁の志にひかれて、 源空聖人の吉水の禅房にたづねまゐりたまひき。 これすなはち世くだり、 人つたなくして、 難行の小路迷ひやすきによりて、 易行の大道におもむかんとなり。 真宗紹隆の大祖聖人 (源空)、 ことに宗の淵源を尽し、 教の理致をきはめて、 これをのべたまふに、 たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、 あくまで*凡夫直入の真心を決定しましましけり。
建仁第一の暦 建仁元年 (1201)。 「建仁第三」とする異本がある。
凡夫直入 凡夫のままで真実報土に往生せしめられること。
三 六角夢想
【3】 第三段
建仁三年 *癸亥 四月五日の夜*寅時、 上人 (親鸞) 夢想の告げましましき。 *かの ¬記¼ にいはく、 *六角堂の*救世菩薩、 顔容端厳の聖僧の形を示現して、 *白衲の袈裟を着服せしめ、 広大の白蓮華に端坐して、 善信 (親鸞) に告命してのたまはく、 「▽*行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」 といへり。 救世菩薩、 善信にのたまはく、 「これはこれわが誓願なり。 善信この誓願の旨趣を宣説して、 一切群生にきかしむべし」 と云々。 そのとき善信夢のうちにありながら、 御堂の正面にして東方をみれば、 *峨々たる岳山あり。 その高山に数千万億の有情群集せりとみゆ。 そのとき告命のごとく、 この文のこころを、 かの山にあつまれる有情に対して説ききかしめをはるとおぼえて、 夢さめをはりぬと云々。 つらつらこの記録を披きてかの夢想を案ずるに、 ひとへに真宗繁昌の奇瑞、 念仏弘興の表示なり。 しかあれば聖人 (親鸞)、 後の時仰せられてのたまはく、 「仏教むかし西天 (印度) よりおこりて、 経論いま東土 (日本) に伝はる。 これひとへに上宮太子 (聖徳太子) の広徳、 山よりもたかく海よりもふかし。 わが朝欽明天皇の*御宇に、 これをわたされしによりて、 すなはち浄土の正依経論等このときに来至す。 儲君 (聖徳太子) もし厚恩を施したまはずは、 凡愚いかでか弘誓にあふことを得ん。 救世菩薩はすなはち儲君の本地なれば、 *垂迹興法の願をあらはさんがために本地の尊容をしめすところなり。 そもそもまた大師聖人 源空 もし流刑に処せられたまはずは、 われまた配所におもむかんや。 もしわれ配所におもむかずんば、 なにによりてか辺鄙の群類を化せん。 これなほ師教の恩致なり。 大師聖人すなはち勢至の化身、 太子また観音の垂迹なり。 このゆゑにわれ二菩薩の引導に順じて、 如来の本願をひろむるにあり。 真宗これによりて興じ、 念仏これによりてさかんなり。 これ*しかしながら、 聖者の教誨によりて、 さらに*愚昧の今案をかまへず、 かの二大士の重願、 ただ*一仏名を専念するにたれり。 今の行者、 錯りて*脇士に事ふることなかれ、 ただちに本仏 (阿弥陀仏) を仰ぐべし」 と云々。 かるがゆゑに上人親鸞、 傍らに皇太子 (聖徳太子) を崇めたまふ。 けだしこれ仏法弘通のおほいなる恩を謝せんがためなり。
癸亥 「辛酉」 とする異本がある。 辛酉は建仁元年にあたる。
寅時 午前四時頃。
かの記 ¬親鸞夢記¼ を指すか。 同書は現存しないが、 高田派専修寺に 「親鸞夢記云…」 (真仏上人書写) と示す文書が伝わる。
六角堂 現在の京都市中京区六角通東洞院西入ルにある頂法寺。 聖徳太子の創建と伝えられ、 当時は観世音菩薩の霊験所として知られていた。
白衲 白色の僧衣。
行者宿報… 「行者、 宿報にてたとひ女犯すとも、 われ玉女の身となりて犯せられん。 一生のあひだ、 よく荘厳して、 臨終に引導して極楽に生ぜしめん」
峨々 けわしくそびえ立っているさま。
御宇 御治世。 在位期間。
垂迹興法の願 人間の姿を現して仏法を興隆させようとする願い。
愚昧の今案 愚かで道理に暗い自分の考え。
一仏名 南無阿弥陀仏の名号を指す。
脇士 阿弥陀仏の脇座に侍る観世音菩薩と大勢至菩薩。
四 蓮位夢想
【4】 第四段
*建長八年 丙辰 二月九日の夜*寅時、 釈*蓮位夢想の告げにいはく、 聖徳太子、 親鸞上人を礼したてまつりてのたまはく、 「▲敬礼大慈阿弥陀仏 為妙教流通来生者 五濁悪時悪世界中 決定即得無上覚也」 。 しかれば、 祖師上人 (親鸞) は、 弥陀如来の化身にてましますといふことあきらかなり。
建長八年 1256年。
五 選択付属
【5】 第五段
黒谷の先徳 源空 在世のむかし、 矜哀のあまり、 ある時は恩許を蒙りて*製作を見写し、 ある時は真筆を下して名字を書きたまはす。 すなはち ¬顕浄土方便化身土文類¼ の六にのたまはく、 親鸞上人撰述 「▲しかるに愚禿釈鸞、 *建仁辛酉の暦、 雑行を棄てて本願に帰し、 *元久乙丑の歳、 恩恕を蒙りて ¬選択¼ (選択集) を書く。 おなじき年*初夏中旬第四日、 ¬選択本願念仏集¼ の内題の字、 ならびに ª南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本º と、 ª釈綽空 (親鸞)º と、 空 (源空) の真筆をもつてこれを書かしめたまひ、 おなじき日、 空の真影申し預かり、 図画したてまつる。 おなじき二年閏七月下旬第九日、 真影の銘は真筆をもつて、 ª南無阿弥陀仏º と ª▲若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生º の真文とを書かしめたまひ、 また夢の告げによりて、 *綽空の字を改めて、 おなじき日、 御筆をもつて名の字を書かしめたまひをはりぬ。 本師聖人 (源空)、 今年*七旬三の御歳なり。 ▲¬選択本願念仏集¼ は、 *禅定博陸 月輪殿兼実、 法名円照 の教命によりて選集せしめたまふところなり。 真宗の簡要、 念仏の奥義、 これに摂在せり。 見るもの諭りやすし。 まことにこれ希有最勝の華文、 無上甚深の宝典なり。 年を渉り日を渉り、 その教誨を蒙るの人、 千万なりといへども、 親といひ疎といひ、 この見写を獲るの徒、 *はなはだもつてかたし。 しかるにすでに製作を書写し、 真影を図画す。 これ専念正業の徳なり、 これ決定往生の徴なり。 よつて悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す」 と云々。
製作 著作。 ¬選択集¼ を指す。
建仁辛酉の暦 建仁元年 (1201)、 親鸞聖人二十九歳。 吉水入室の年。
元久乙丑の歳 元久二年 (1205)、 親鸞聖人三十三歳。
初夏中旬第四日 四月十四日 (初夏は陰暦四月の別称)。
綽空 親鸞聖人が吉水の法然上人の門下であった頃の名。 ¬拾遺古徳伝¼ 巻六や ¬六要鈔¼ によると、 この時、 名を善信と改めたという。
七旬三 旬は十年の意。
はなはだもつてかたし 甚だ少ない。
六 信行両座
【6】 第六段
おほよそ源空聖人在生のいにしへ、 他力往生の旨をひろめたまひしに、 世あまねくこれに挙り、 人ことごとくこれに帰しき。 *紫禁・青宮の政を重くする砌にも、 まづ*黄金樹林の萼にこころをかけ、 *三槐・九棘の道をただしくする家にも、 ただちに四十八願の月をもてあそぶ。 しかのみならず*戎狄の輩、 *黎民の類、 これを仰ぎ、 これを貴びずといふことなし。 貴賤、 *轅をめぐらし、 門前、 *市をなす。 常随*昵近の緇徒その数あり、 すべて三百八十余人と云々。 しかりといへども、 親りその*化をうけ、 ねんごろにその誨をまもる族、 はなはだまれなり。 わづかに五六輩にだにもたらず。 善信聖人 (親鸞)、 あるとき申したまはく、 「予、 難行道を閣きて易行道にうつり、 聖道門を遁れて浄土門に入りしよりこのかた、 *芳命をかうぶるにあらずよりは、 あに出離解脱の良因を蓄へんや。 よろこびのなかのよろこび、 なにごとかこれにしかん。 しかるに同室の好を結びて、 ともに一師の誨を仰ぐ輩、 これおほしといへども、 真実に報土得生の信心を成じたらんこと、 自他おなじくしりがたし。 かるがゆゑに、 かつは*当来の親友たるほどをもしり、 かつは*浮生の思出ともしはんべらんがために、 御弟子参集の砌にして、 *出言つかうまつりて、 面々の意趣をも試みんとおもふ所望あり」 と云々。 大師聖人 (源空) のたまはく、 「この条もつともしかるべし、 すなはち明日人々来臨のとき仰せられ出すべし」 と。 しかるに翌日集会のところに、 上人 親鸞 のたまはく、 「今日は*信不退・*行不退の御座を両方にわかたるべきなり。 いづれの座につきたまふべしとも、 おのおの示したまへ」 と。 そのとき三百余人の門侶みなその意を得ざる気あり。 ときに法印大和尚位*聖覚、 ならびに釈*信空上人法蓮、 「信不退の御座に着くべし」 と云々。 つぎに沙弥*法力 熊谷直実入道 遅参して申していはく、 「善信御房の御執筆なにごとぞや」 と。 善信上人のたまはく、 「信不退・行不退の座をわけらるるなり」 と。 法力房申していはく、 「しからば法力もるべからず、 信不退の座にまゐるべし」 と云々。 よつてこれを書き載せたまふ。 ここに数百人の門徒群居すといへども、 さらに一言をのぶる人なし。 これおそらくは自力の迷心に拘はりて、 金剛の真信に昏きがいたすところか。 人みな無音のあひだ、 執筆上人 親鸞 自名を載せたまふ。 ややしばらくありて大師聖人仰せられてのたまはく、 「源空も信不退の座につらなりはんべるべし」 と。 そのとき*門葉、 あるいは屈敬の気をあらはし、 あるいは*鬱悔の色をふくめり。
紫禁青宮の政 紫禁は天皇の御所、 青宮は皇太子の御所のこと。 ここでは朝廷の行う政治の意。
黄金樹林の萼 浄土の七宝樹林の華。
三槐九棘の道 三槐は三公 (大臣)、 九棘は九卿 (公家) のこと。 ここでは朝廷の大臣と高官の行う政道の意。
戎狄 辺国の人々。
黎民 人民。 庶民。
轅をめぐらし 訪れるという意。
市をなす 人がたくさん集まるという意。
昵近の緇徒 親しくしている僧侶。
化 教化。
芳命をかうぶる 仰せをいただく。
当来 来世。 来生。
浮生 はかないこの世。
出言つかうまつりて 質問を申しあげて。
信不退 阿弥陀仏の本願を信ずる一念に浄土往生が決定するという立場。
行不退 念仏の行をはげみ、 その功徳によって浄土往生が決定するという立場。
信空 法蓮房称弁 (1146-1228) のこと。 藤原行隆の子と伝える。 はじめ比叡山の叡空に師事し、 その死後、 法然上人のもとで専修念仏に帰依した。 その門流を白川門徒という。
法力 法力房蓮生 (1141-1208) のこと。 俗名は熊谷次郎直実。 源頼朝に仕える武士であったが、 出家して法然上人の門に入った。
門葉 門弟。 門下の人々。
鬱悔 気分がふさいで、 はればれとしないこと。
七 信心諍論
【7】 第七段
上人 親鸞 のたまはく、 いにしへわが大師聖人 源空 の御前に、 *正信房・*勢観房・*念仏房以下のひとびとおほかりしとき、 *はかりなき諍論をしはんべることありき。 そのゆゑは、 「聖人の御信心と善信 (親鸞) が信心と、 いささかもかはるところあるべからず、 ただひとつなり」 と申したりしに、 このひとびととがめていはく、 「善信房の、 聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるることいはれなし。 いかでかひとしかるべき」 と。 善信申していはく、 「などかひとしと申さざるべきや。 そのゆゑは深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、 まことに*おほけなくもあらめ、 往生の信心にいたりては、 ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、 まつたくわたくしなし。 しかれば聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、 善信が信心も他力なり。 かるがゆゑにひとしくしてかはるところなしと申すなり」 と申しはんべりしところに、 大師聖人まさしく仰せられてのたまはく、 「信心のかはると申すは、 自力の信にとりてのことなり。 すなはち智慧各別なるゆゑに信また各別なり。 他力の信心は、 善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心なれば、 源空が信心も善信房の信心も、 *さらにかはるべからず、 ただひとつなり。 わがかしこくて信ずるにあらず。 信心のかはりあうておはしまさんひとびとは、 わがまゐらん浄土へは*よもまゐりたまはじ。 よくよくこころえらるべきことなり」 と云々。 ここに面々舌をまき、 口を閉ぢてやみにけり。
正信房 底本には 「聖信房」 とある。 正信房湛空 (1176-1253) のこと。 はじめ比叡山の実全に師事したが、 後に法然上人に帰し、 京都嵯峨の二尊院に住して念仏を広めた。 その門流を嵯峨門徒という。
念仏房 生没年未詳。 念阿弥陀仏のこと。 比叡山の僧であったが、 法然上人に帰依し、 晩年京都嵯峨の往生院 (現在の祇王寺) に住したという。
はかりなき諍論 思いもよらない論争。
おほけなくもあらめ 身のほどをわきまえないということもあるだろうが。
さらにかはるべからず 少しも異なったところのあるはずがない。
よも まさか。
八 入西鑑察
【8】 第八段
御弟子*入西房、 上人 親鸞 の真影を写したてまつらんとおもふこころざしありて、 *日ごろをふるところに、 上人そのこころざしあることを*かがみて仰せられてのたまはく、 「*定禅法橋 七条辺に居住 に写さしむべし」 と。 入西房、 鑑察の旨を随喜して、 すなはちかの法橋を召請す。 定禅*左右なくまゐりぬ。 すなはち尊顔に向かひたてまつりて申していはく、 「去夜、 奇特の霊夢をなん感ずるところなり。 その夢のうちに拝したてまつるところの聖僧の面像、 いま向かひたてまつる容貌に、 すこしもたがふところなし」 といひて、 たちまちに随喜感歎の色ふかくして、 みづからその夢を語る。 貴僧二人来入す。 一人の僧のたまはく、 「この*化僧の真影を写さしめんとおもふこころざしあり。 ねがはくは*禅下筆をくだすべし」 と。 定禅問ひていはく、 「かの化僧たれびとぞや」 。 件の僧のいはく、 「*善光寺の本願の御房これなり」 と。 ここに定禅掌を合せ跪きて、 夢のうちにおもふやう、 さては生身の弥陀如来にこそと、 身の毛よだちて恭敬尊重をいたす。 また、 「*御ぐしばかりを写されんに足りぬべし」 と云々。 かくのごとく問答往復して夢さめをはりぬ。 しかるにいまこの貴坊にまゐりてみたてまつる尊容、 夢のうちの聖僧にすこしもたがはずとて、 随喜のあまり涙を流す。 しかれば、 「夢にまかすべし」 とて、 いまも御ぐしばかりを写したてまつりけり。 夢想は*仁治三年九月二十日の夜なり。 つらつらこの奇瑞をおもふに、 聖人 (親鸞)、 弥陀如来の来現といふこと*炳焉なり。 しかればすなはち、 弘通したまふ教行、 おそらくは弥陀の直説といひつべし。 あきらかに無漏の慧灯をかかげて、 とほく*濁世の迷闇を晴らし、 あまねく甘露の法雨をそそぎて、 はるかに枯渇の凡惑を潤さんがためなりと。 仰ぐべし、 信ずべし。
入西房 伝未詳。 一説では常陸大門 (現在の茨城県常陸太田市) の道円のことであるという。
日ごろをふるところに 日頃を過していたところ。
かがみて 鑑みて。 察して。
定禅法橋 伝未詳。 専阿弥陀仏 (袴殿。 鏡御影の作者) と同一人物であるともいわれるが不明。
左右なく ただちに。
化僧 教化僧。 あるいは権化の僧の意を含むか。
禅下 定禅法橋のこと。
善光寺の本願の御房 ¬善光寺縁起¼ によると、 同寺は、 百済から渡来した阿弥陀三尊像 (一光三尊像) を、 推古天皇十年 (602)、 本田善光が信濃の自宅に安置し、 皇極天皇元年 (642)、 さらにこれを同国水内群芋井郷 (現在の長野市) に移し堂宇を造営したのが起源であるという。 善光寺の本願の御房とは、 同寺の勧進聖で、 阿弥陀仏の化身とみなされていた。
御ぐし 御首、 御頭などと書く。 頭部。
仁治三年 1242年。 親鸞聖人七十歳。
炳焉なり 明らかなさま。
本願寺聖人親鸞伝絵 下
一 師資遷謫
【9】 第一段
浄土宗興行によりて、 聖道門廃退す。 これ空師 (源空) の所為なりとて、 たちまちに罪科せらるべきよし、 *南北の碩才憤りまうしけり。 ¬顕化身土文類¼ の六にいはく、 「▲ひそかにおもんみれば、 聖道の諸教は行証ひさしく廃れ、 浄土の真宗は証道いま盛んなり。 しかるに諸寺の釈門、 教に昏くして真仮の門戸を知らず、 *洛都の儒林、 行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。 ここをもつて、 *興福寺の学徒、 太上天皇 諱尊成、 *後鳥羽院と号す 今上 諱為仁、 *土御門院と号す 聖暦、 *承元丁卯の歳、 *仲春上旬の候に奏達す。 主上臣下、 法に背き義に違し、 忿りをなし怨を結ぶ。 これによりて、 真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、 罪科を考へず、 *みだりがはしく死罪に坐す。 あるいは僧の儀を改め姓名を賜ひて遠流に処す。 予はその一つなり。 しかればすでに僧にあらず俗にあらず。 このゆゑに禿の字をもつて姓とす。 空師 (源空) ならびに弟子等、 諸方の辺州に坐して五年の*居諸を経たり」 と云々。 空聖人罪名藤井元彦、 配所*土佐国 幡多 鸞聖人 (親鸞) 罪名藤井善信、 配所*越後国 国府 このほか門徒、 死罪流罪みなこれを略す。 皇帝 諱守成、 *佐渡院と号す 聖代、 *建暦辛未の歳、 *子月中旬第七日、 *岡崎中納言範光卿をもつて勅免。 このとき聖人右のごとく禿の字を書きて*奏聞したまふに、 陛下*叡感をくだし、 侍臣おほきに褒美す。 勅免ありといへども、 *かしこに化を施さんがために、 なほしばらく在国したまひけり。
南北の碩才 奈良の興福寺や比叡山延暦寺のすぐれた学者。
洛都の儒林 洛都は京都。 儒林は儒学者。
興福寺… 元久二年 (1205) 十月、 興福寺の宗徒が
専修念仏の
停止を求めて九箇条からなる弾劾状 (「興福寺
奏状」 と呼ばれる) を朝廷に提出し、 建永二年 (承元元年・1207) 二月、
法然上人とその門弟が処罰された。 →
興福寺
後鳥羽院 後鳥羽天皇 (1180-1239。 在位1183-1198)。 承久三年 (1221)、 北条氏追討の院宣を下して挙兵したが失敗し、 隠岐に配流された (承久の乱)。
土御門院 土御門天皇 (1195-1231。 在位1198-1210)。
承元丁卯の歳 1207年。
仲春 陰暦二月の別称。
みだりがはしく 無法にも。
居諸 月日。 歳月。
土佐国 現在の高知県。 法然上人は実際には讃岐 (現在の香川県) に留まった。
越後国国府 現在の新潟県上越市付近。 「国府」 は 「こくふ」 とも 「こふ (こう)」 ともいう。
佐渡院 順徳天皇 (1197-1242。 在位1210-1221)。
建暦辛未の歳 1211年。 親鸞聖人三十九歳。
子月 陰暦十一月の別称。
岡崎中納言範光卿 式部少輔従三位範兼の子息。 ただし、 承元元年 (1207) に出家しており、 当時の赦免官は藤原光親であった。
奏聞 天皇に奏上すること。
叡感 (天皇が) 感心してほめること。
かしこ 越後 (の人々)。
二 稲田興法
【10】第二段
聖人 (親鸞) 越後国より*常陸国に越えて、 *笠間郡稲田郷といふところに隠居したまふ。 *幽棲を占むといへども道俗あとをたづね、 *蓬戸を閉づといへども貴賤ちまたにあふる。 仏法弘通の本懐ここに成就し、 衆生利益の宿念たちまちに満足す。 この時聖人仰せられてのたまはく、 「*△救世菩薩の告命を受けしいにしへの夢、 すでにいま符合せり」 と。
常陸国 現在の茨城県。
笠間郡稲田郷 現在の茨城県笠間市稲田町。
幽棲を占む ひっそりとかくれ住む。
蓬戸を閉づ 幽棲の庵の戸を閉ざす。 人との交際を断つ。
救世菩薩の告命 「行者宿報…」 の偈を指す。
三 弁円済度
【11】第三段
聖人 (親鸞) 常陸国にして専修念仏の義をひろめたまふに、 おほよそ疑謗の輩は少なく、 信順の族はおほし。 しかるに一人の僧 *山臥と云々 ありて、 ややもすれば仏法に*怨をなしつつ、 *結句害心をさしはさみて、 聖人を*よりよりうかがひたてまつる。 聖人*板敷山といふ深山をつねに往反したまひけるに、 かの山にして度々あひまつといへども、 さらに*その節をとげず。 つらつらことの*参差を案ずるに、 すこぶる奇特のおもひあり。 よつて聖人に謁せんとおもふこころつきて、 *禅室にゆきて尋ねまうすに、 上人左右なく出であひたまひけり。 すなはち尊顔にむかひたてまつるに、 害心たちまちに消滅して、 あまつさへ後悔の涙禁じがたし。 ややしばらくありて、 ありのままに日ごろの*宿鬱を述すといへども、 聖人またおどろける色なし。 たちどころに弓箭をきり、 刀杖をすて、 頭巾をとり、 *柿の衣をあらためて、 仏教に帰しつつ、 つひに素懐をとげき。 不思議なりしことなり。 すなはち*明法房これなり。 上人 (親鸞) これをつけたまひき。
山臥 山伏 (修験道の行者)。 当時は 「山臥」 と書くことが多かった。
怨 怨み。 敵意。
結句 あげくのはて。 ついには。 とうとう。
よりより おりおり。 その時々。
板敷山 茨城県の筑波山地にある山。 当時、 筑波山地は修験道の行場となっていた。
その節をとげず その目的を果たせない。
参差を案ずるに 行き違いを考えると。
禅室 ここでは親鸞聖人の住いのこと。
宿鬱 つもりつもった思い。
柿の衣 柿渋で染めた無紋の衣。 山伏などが着た。
四 箱根霊告
【12】第四段
聖人 (親鸞) 東関の堺を出でて、 *華城の路におもむきましましけり。 ある日*晩陰におよんで箱根の嶮阻にかかりつつ、 はるかに行客の蹤を送りて、 やうやく人屋の*枢にちかづくに、 夜もすでに*暁更におよんで、 月もはや孤嶺にかたぶきぬ。 ときに聖人歩み寄りつつ*案内したまふに、 まことに*齢傾きたる翁のうるはしく装束したるが、 いと*こととなく出であひたてまつりていふやう、 「*社廟ちかき所のならひ、 *巫どもの終夜あそびしはんべるに、 翁もまじはりつるが、 いまなんいささか仮寝はんべるとおもふほどに、 夢にもあらず、 うつつにもあらで、 *権現仰せられていはく、 ªただいまわれ尊敬をいたすべき客人、 この路を過ぎたまふべきことあり、 かならず慇懃の忠節を抽んで、 ことに丁寧の饗応をまうくべしº と云々。 示現いまだ覚めをはらざるに、 貴僧*忽爾として影向したまへり。 なんぞただ人にましまさん。 神勅これ炳焉なり。 感応もつとも恭敬すべし」 といひて、 尊重*屈請したてまつりて、 さまざまに飯食を粧ひ、 いろいろに珍味を調へけり。
華城 花の都。 京都のこと。
晩陰 夕方。
枢 扉。 戸。
暁更 明け方。
案内 取り次ぎを頼むこと。
齢傾きたる 年老いた。
こととなく すみやかに。
社廟 (箱根権現の) 社。
巫 神に仕える人。
権現 箱根権現のこと。 箱根神社 (神奈川県足柄下郡箱根町) の祭神。 当時、 流布していた本地垂迹説 (日本の神を仏・菩薩の仮の現れとする説) によって、 権現 (仮の現れという意の称号) と呼ばれた。
忽爾 突然。
屈請 (尊い人を) 請い招くこと。
五 熊野霊告
【13】第五段
聖人 (親鸞) 故郷に帰りて往事をおもふに、 年々歳々夢のごとし、 幻のごとし。 *長安・洛陽の棲も*跡をとどむるに懶しとて、 *扶風馮翊ところどころに移住したまひき。 五条西洞院*わたり、 これ一つの勝地なりとて、 しばらく居を占めたまふ。 このごろ、 いにしへ*口決を伝へ、 面受をとげし門徒等、 おのおの好を慕ひ、 路を尋ねて参集したまひけり。 そのころ*常陸国那荷西郡大部郷に、 *平太郎なにがしといふ庶民あり。 聖人の訓を信じて、 もつぱらふたごころなかりき。 しかるにある時、 件の平太郎、 *所務に駈られて*熊野に詣すべしとて、 ことのよしを尋ねまうさんがために、 聖人へまゐりたるに、 仰せられてのたまはく、 「それ聖教万差なり、 いづれも機に相応すれば巨益あり。 ただし末法の今の時、 聖道門の修行においては成ずべからず。 すなはち ª▲我末法時中億々衆生 起行修道 未有一人得者º (安楽集・上) といひ、 ª▲*唯有浄土一門可通入路º (同・上) と云々。 これみな経釈の明文、 如来の金言なり。 しかるにいま唯有浄土の真説について、 かたじけなくかの*三国の祖師、 おのおのこの一宗を興行す。 このゆゑに、 愚禿すすむるところ、 さらに私なし。 しかるに一向専念の義は往生の*肝腑、 自宗の*骨目なり。 すなはち三経に*隠顕ありといへども、 文といひ義といひ、 ともにもつてあきらかなるをや。 ¬大経¼ の三輩にも一向とすすめて、 流通にはこれを弥勒に付属し、 ¬観経¼ の九品にもしばらく三心と説きて、 これまた阿難に付属す、 ¬小経¼ の一心つひに諸仏これを証誠す。 これによりて論主 (天親) 一心と判じ、 和尚 (善導) 一向と釈す。 しかればすなはち、 いづれの文によるとも、 一向専念の義を立すべからざるぞや。 *証誠殿の本地すなはちいまの教主 (阿弥陀仏) なり。 かるがゆゑに、 *とてもかくても衆生に結縁の志ふかきによりて、 *和光の垂迹を留めたまふ。 垂迹を留むる本意、 ただ結縁の群類をして願海に引入せんとなり。 しかあれば本地の誓願を信じて一向に念仏をこととせん輩、 公務にもしたがひ、 領主にも駈仕して、 その霊地をふみ、 その社廟に詣せんこと、 さらに自心の発起するところにあらず。 しかれば、 垂迹において*内懐虚仮の身たりながら、 あながちに*賢善精進の威儀を標すべからず。 ただ本地の誓約にまかすべし、 *あなかしこ、 あなかしこ。 神威をかろしむるにあらず、 ゆめゆめ*冥眦をめぐらしたまふべからず」 と云々。 これによりて平太郎熊野に参詣す。 *道の作法*とりわき整ふる儀なし。 ただ常没の凡情にしたがひて、 さらに*不浄をも刷ふことなし。 行住坐臥に本願を仰ぎ、 *造次顛沛に師教をまもるに、 はたして*無為に参着の夜、 件の男夢に告げていはく、 証誠殿の扉を排きて、 衣冠ただしき俗人仰せられていはく、 「なんぢ、 なんぞわれを*忽緒して汚穢不浄にして参詣するや」 と。 その時かの俗人に対座して、 聖人忽爾としてまみえたまふ。 その詞にのたまはく、 「かれは善信 (親鸞) が訓によりて念仏するものなり」 と云々。 ここに俗人*笏をただしくして、 ことに敬屈の礼を著しつつ、 かさねて述ぶるところなしとみるほどに、 夢さめをはりぬ。 おほよそ奇異のおもひをなすこと、 いふべからず。 下向の後、 貴坊にまゐりて、 くはしくこの旨を申すに、 聖人 「そのことなり」 とのたまふ。 これまた不思議のことなりかし。
長安洛陽 いずれも中国の都。 ここでは転じて京都を指す。
跡をとどむるに懶し 跡を残すのは気が進まない。
扶風馮翊 中国の地名から転じて右京と左京をいう。
わたり あたり。
口決 (親鸞聖人から) 直接授けられた教え。
常陸国那荷西郡大部郷 現在の茨城県水戸市飯富町。
平太郎 ¬御消息¼ にでる中太郎と同一人物ともいわれる。 水戸市飯富町には真仏寺があり、 平太郎真仏を開基とする。
所務に駈られて… 領主の従者としての役務によって参詣するという意。 以下にも 「公務にもしたがひ、 領主にも駆使して」 とある。
熊野 本宮・新宮・那智の熊野三山。 本宮の証誠殿はとくに尊崇された。
三国 インド・中国・日本。
肝腑・骨目 要となるもの。
証誠殿 熊野本宮の主殿の称。 ここではその祭神を指す。
とてもかくても どのようにしてでも。 どうあろうと。 どうあっても。
内懐虚仮の身 内に虚仮 (うそいつわり) を懐く身。
賢善精進の威儀 賢者や善人らしくつとめ励む姿。
冥眦 神が怒ってにらむこと。
道の作法 熊野詣の道中には独特の厳しい作法が定められていた。
とりわき 特別に。
不浄をも刷ふ 潔斎 (心身をきよめること) する。
造次顛沛に ちょっとした間にも。 いつも。
無為に 何事もなく。
忽緒して 軽んじて。
笏をただしくして 威儀を正して。 笏は礼服や朝服を着用の際、 右手に持つ細長い板。
六 洛陽遷化
【14】第六段
聖人 (親鸞) *弘長二歳 壬戌 仲冬下旬の候より、 いささか*不例の気まします。 それよりこのかた、 口に世事をまじへず、 ただ仏恩のふかきことをのぶ。 声に余言をあらはさず、 もつぱら称名たゆることなし。 しかうしておなじき第八日 *午時 *頭北面西右脇に臥したまひて、 つひに念仏の息たえをはりぬ。 ときに頽齢*九旬にみちたまふ。 *禅房は長安馮翊の辺 押小路の南、 万里小路より東 なれば、 はるかに河東の路を歴て、 洛陽東山の西の麓、 鳥部野の南の辺、 延仁寺に葬したてまつる。 遺骨を拾ひて、 おなじき山の麓、 鳥部野の北の辺、 大谷にこれををさめをはりぬ。 しかるに終焉にあふ門弟、 勧化をうけし老若、 おのおの在世のいにしへをおもひ、 滅後のいまを悲しみて、 恋慕涕泣せずといふことなし。
弘長二歳壬戌仲冬 弘長二歳壬戌は1262年、 仲冬は陰暦十一月の別称。
不例 病気。
午時 正午頃。 示寂の時刻を未時 (午後二時頃) とする史料もある。
頭北面西右脇 頭を北にし、 顔を西に向けて、 右脇を下にし横たわること。 釈尊が入滅した時の姿。
九旬 旬は十年の意。
禅房 親鸞聖人の弟、 尋有僧都の里房であった善法坊。
七 廟堂創立
【15】第七段
*文永九年冬のころ、 東山西の麓、 鳥部野の北、 大谷の墳墓をあらためて、 おなじき麓よりなほ西、 吉水の北の辺に遺骨を掘り渡して仏閣を立て、 影像を安ず。 このときに当りて、 聖人 (親鸞) 相伝の宗義いよいよ興じ、 遺訓ますます盛りなること、 すこぶる在世のむかしに超えたり。 すべて門葉国郡に充満し、 末流処々に遍布して、 幾千万といふことをしらず。 その*稟教をおもくしてかの報謝を抽んづる輩、 *緇素・老少、 面々に歩みを運んで年々廟堂に詣す。 おほよそ聖人在生のあひだ、 奇特これおほしといへども、 *羅縷に遑あらず。 しかしながらこれを略するところなり。
文永九年 1272年。
稟教 教えを受け継ぐこと。
羅縷 詳しく記述すること。
奥書にいはく
右縁起図画の志、 ひとへに知恩報徳のためにして戯論狂言のためにせず。 あまつさへまた*紫毫を染めて*翰林を拾ふ。 その体もつとも拙し、 その詞これいやし。 *冥に付け*顕に付け、 痛みあり恥あり。 しかりといへども、 ただ後見賢者の取捨を憑みて、 当時愚案の*謬を顧みることなきならんのみ。
紫毫 筆。
翰林 文章。
冥・顕 冥は目にみえないもの。 顕は目にみえるもの。
謬 誤り。
時に*永仁第三の暦、 *応鐘中旬第二天、 *晡時に至りて草書の篇を終へをはりぬ。
永仁第三の暦 1295年。
応鐘中旬第二天 応鐘は陰暦十月の別称。 中旬第二天は十二日。
晡時 午後四時頃。
画工 法眼*浄賀 号康楽寺
浄賀 康楽寺流の絵師。 他にも宋舜、 円寂など康楽寺を名のる絵師は本願寺と深いかかわりを持っていた。
*暦応二歳己卯四月二十四日、 ある本をもつてにはかにこれを書写したてまつる。 先年愚筆の後、 一本所持のところ、 世上に闘乱のあひだ炎上の刻、 焼失し行方知れず。 しかるにいま*慮らず荒本を得て記し、 これを留むるものなり。
暦応二歳 1339年。
慮らず 思いがけず。
*康永二載癸未十一月二日筆を染めをはりぬ。
康永二載 1343年。
*桑門 釈宗昭
桑門 僧侶のこと。
画工 大法師宗舜 康楽寺弟子