1279◎蓮如上人遺徳記 巻上 蓮悟撰 実悟記

 

◎それ先せん師し法印ほふいん大だい和くわ尚しやう位ゐ兼寿けんじゆ蓮如れんによ上しやう人にんの遺ゐ徳とくをあげて、 およそ三みつの意こゝろをとり略りやくして大体たいていをしめすべし。 一には真宗しんしゆ再興さいこうの徳とく、 二には在ざい世せの不ふ思議しぎ、 三には滅めち後ごの利り益やくなり。

第一だいゐちに真宗しんしゆ再興さいこうの徳とくといふは、 ▲俗ぞく姓しやうは天あまつ児屋こや根ねの尊みこと、 二十一世せの苗裔べうえい大たい織冠しよくくわんの玄ぐゑん孫そん、 近こん衛えの大だい将しやう大臣だいじん 内麿うちまろ公こう 六代だいの後胤こういん、 弼ひつの宰さい相しやう有国ありくにの五代の孫まご、 皇くわう后ご宮ぐうの大進だいしん有範ありのりの息男そくなん、 真宗しんしゆの大祖そ親鸞しんらん聖しやう人にん十世せの孫まご、 相さう承じようをいへば第だい八代だいなり。 御母おむはゝは何国いづくの人ひとともしらず、 人ひと尋たづねて何国いづくの人ぞと申まうすといへども、 つゐに謂いゝ顕あらはし玉たまふ事ことなしと 云云。

-▲抑そもそも称光しようくわう院いんの 諱いみな◗は実仁さねひと 御ぎよ宇う、 *応永わうえい廿二 乙きのとの未ひつじ 落陽らくよう東ひがし山やま大谷おおたににして、 蓮如れんによ上人誕たん生じやうしましましけり。 日々にちにち歳々せいせいを送おくりたまへり。 しかれば幼童ようどうの貌かたちより其その心こゝろ岐き嶷ぎよくにして、 同どう稚ちに卓礫たくらくせり。 興法こうぼふのこゝろざし深厚じんかうにして、 終つゐに其その意こゝろ融通ゆうづうして、 一天てん四し海かいにおひて聖しやう人にんの一流りうを再興さいこうしたまへり。 されば聖しやう人にんの御時おむときも門もん下か其化そのくえを受うけ、 慇懃ねんごろに其の教おしへをまもる族やから、 僅わづかに五ご、 六輩ろくはいにだにもたらずと1280 云云。 今いまの時ときも真まことなる者ものは希有けうなりといへども、 万国ばんこくの群類ぐんるいことごとく弘ぐ願ぐわんの真信しんしんにかたぶき、 他た力りき易い往わうの宗門しゆもん此時このときに到いたりて昌さかんなり。 是 れ則 ち蓮如上人の淵源ゑんげんの懇こん志しの致いたす処ところなり。

-しかるに*寛正くわんしやう初暦しよれきの比ころより、 末代まつだいの劣れつ機きを鍳かんがみて、 経きやう論ろん章しやう疏しよ、 師資ししの銘めい釈しやくを披ひ閲えつして、 愚ぐ凡ぼん速そく生しやうの肝かん府ぷを撰取せんしゆして数す通つうの要文えうもんをつくり玉へり。 是 れ末代の明灯めいとうなり。 偏ひとへに濁じよく世せの目足もくそくなり。 しかれば祖師そし聖しやう人にんより以来このかた、 一念ねん帰き命みやうのことはりを勧すゝむといへども念ねん持ぢの義ぎを教おしへず。 爰こゝに先師上人この義ぎを詳つまびらかにして、 无智むちの凡類るいをして明あきらかに難信なんしん金剛こんがうの真信しんしんを獲ぎやく得とくせしむることを致いたす。 実まことに是れ先師上人の恩徳おんどくなり。 もしこの勧すゝめに非あらずは奈いかにしてか枯こ渇かつの類たぐひ生潤しやうじゆんの期ごあらんや。 ふかく貴き敬きやうすべし。

*応永おうえい廿七 先師六歳 季き陽やう下旬じゆん第だい八日に、 母ぼ堂どう六歳ろくさいの少童せうどうに対たいして語かたりたまひけるは、 ねがはくは児ちごの御ご一代ゐちだいに聖しやう人にんの御ご一流りうを再興さいこうしたまへとて、 懇ねんごろに心しん府ぷを宣のべたまふが、 そのまゝいづかたともなく出いでたまひき。 或ある人ひとその日ひ奇き雲うん四方よもにたなびき、 荘そう華げ虚空こくにありと 云云。 其その後のち再ふたゝび来きたり玉ふ事ことなし。 これを見聞けんもんする人、 殆ほとんどあやしまずといふ事ことなし。 これによりて先師廿八日をもて其その命日めいにちとし玉ひて、 御おむ志こゝろざしを運はこびたまひけり。 しかるに六歳さいの御ご像ぞうを暮ぼ齢れいに至いたりて画ぐわ図づせらる。 其の銘めいに云く、

本1281名 を名↢なづく布ほ袋↡ていと 名な乗 のりを号 す↢幸亭↡かうていと 為し↢て六歳 に↡離↠はなる母 に 当 にベシ↣明応めいおう八年 ねんに 終↢をはる八十五歳↡さいに

又或ある人の云く、 母ぼ堂どうたち出いでたまふ時とき、 六角ろくかく堂どうの精しやう舎じやに詣けいし玉ふと 云々。 然しかるときは久世くぜ観くわん音をんの化け現げんたるものか。 奇き特どく不ふ思議しぎの事ことなり。

先師*十五歳さいよりはじめて真宗しんしゆ興こう行ぎやうの志こゝろざし頻しきりにして、 一宗しゆの中絶ちうぜちせるを前代ぜんだい仰おふせ立たてられざる事ことを遺い恨こんに思 し召し、 如何いかゞしてかわれ一代におひて聖しやう人にんの一流りうを諸方しよほうに顕あらはさんと、 常つねに念願ぐわんしたまひ、 終つゐに再興さいこうし玉へり。 されば浄じやう土どの元ぐわん祖そ源げん空く上人も三さん五ごの御歳おむとしより无常の理ことはりを覚かく知ちして、 速すみやかに菩ぼ提だいの道みちに通入つうにふし在まします。 是即ち大だい勢せい至しの応おう化げなりといふ事こと炳焉へいえんなり。 嗚呼あゝ不ふ思議しぎなるかなや、 聖人 源空 いづれの歳としぞや、 かれも十五歳。 蓮如れんによいづれの歳としぞや、 これも十五歳。 彼此ひし一体たいと云ふ事ことを。 又鸞らん聖しやう人にんの化け身しんとも云ふべきをや。

▲*永享えいかう第三 辛かのとの亥ゐ の暦れき、 先師十七歳にして青しやう蓮院れんいんの門室もんしちに至いたりて鬢髪びんぱつを鬀てい除じよす。 則ち広橋ひろはしの中ちう納な言ごん兼郷かねさとの卿きやうを養やう父ふとして、 其の名なを中ちう納な言ごん兼寿けんじゆと号がうし奉たてまつる。 それより以来このかた学問がくもんにこゝろをつくし、 研精けんせいならびなく、 切せつ瑳さ世よにことなり。 涼りやう焔えんときを分わかたず、 或あるひは炎えん夏かの短たん夜やには蛍ほたるを聚あつめて車胤しやいんが古事こじを訪とぶらひ、 玄冬げんとうの寒かん夜やには雪ゆきを携たづさへて1282宣せん士しが旧きう儀ぎを試こゝろむ。

-しかるに其そのころはいまだ一流りうの義ぎしかしかとしる人ひとおほからざる間あひだ、 他た門もん・他家たけの覚おぼへも幽ゆう微びなり。 しかればつねに人におそれ世よを憚はゞかり玉へり。 聖しやう典てんを拝はいするにも窃ひそかに人看じんかんを忍しのび、 是を閲えつし玉ふにも或は隔壁かくへきの灯とぼしびのすきまより漏ろ光を得え、 或 ひは閑晴かんせいなる夜よは青せい霄しように澄すめる月げつ暉きをもて文もん籍じやくを披ひらきて師し釈しやくに心こゝろをつくし、 斯かくのごとくして ¬教けう行証ぎやうしようの文類るい¼ に ¬六要鈔¼ 四部の釈しやく義ぎを引合ひきあはせ是を渉猟せうれうし、 具つぶさに悃こん旨しして深旨を極きはめ、 書しよの肝かん府ぷを抽ぬきいで彼かの要文をば作つくり出いだせるなり。 常つねには斯かくのごとく怖懼し、 論釈をも夜よるならでは見み玉ふ事なし。 是この故に禅扃ぜんけいに謁えつする門輩も希有けうなれば、 教興けうこうの縁えんも企くはだてがたし。

-爰こゝに江州金森かねがもりといふ処ところに、 道西だうさい 改 て号 す↢善従 と↡ と云真弟しんていあり。 この人ひと先せん師しに常つねに眤近ぢゝきんせしめて仏法興行の旨むねよりより閑談かんだんし、 金森かねがもりの道場に高かう駕がを寄よせ、 御門葉えうをあつめて法ほふ語ごを聴ちやう聞もんさせけり。 総そうじて此の人ひと、 勧くわん化けを致いたして御門葉えうを建立こんりうせしむ。 それよりこのかた三十有余よの時じ分ぶんに至いたりて、 仏法ぶちぽふ弘ぐ通づうして深じん義ぎやうやく顕あらはれて、 上人の御本意すでに達たつせんとす。 たとへば莟がん華けの雨露うろの潤うるをひを受うくるがごとし、 日ひ閻えん浮ぶに臨のぞみて明あくる比ころの日ひの出いづるがごとし。

*宝徳ほうとく元 先師五歳 初はじめて北ほく地ぢに下向し玉ひて、 或は旧きう古この蘭若れんにやに夜よをあかし、 或は醶首けんしゆの甕よう浦ほに日ひを暮くらして、 専もはら貴き賎せんを度どし、 偏ひとへに緇素しそを導みちびいて居諸きよしよを送おくり、 其の後ち越えち1283後ごの国くにに下りましまして、 聖人の辰しん暮ぼを重かさねたまひし国こく分ぶに居住し、 倩つらつら往わう昔じやくの尊跡そんせきを歴覧れきらんし、 聖人此この処ところにして幾いくばくの群類ぐんるいをか化けし玉ふらんと思おぼし召めすに付つけても、 亦また当たう時じに至いたりて門もん徒とも繁はん昌じやうし道俗だうぞく帰き伏ぶくする事こと往むかしの化け導だうと符ふ合がふせる事ことと思召て、 歓くわん喜ぎのあまり、 また一つは聖人の在ざい世せを慕したひつゝ、 それより北山きたやま鳥屋とや野の院ゐん浄光寺に入玉ひ、 猶なを尊跡そんせきを見み玉ひて感涙かんるいをまじえたまへりと 云々。 暫しばらく下鄙かひの堺さかひこゝかしこに休息きうそくし玉ひて華落くわらくに還かへり玉ひけり。

*長ちやう禄ろく元ぐわん年ねん 丁ひのとのの丑うし 六月十八日、 厳げん父ぶ法印ほういん円兼えんけん 存如上人于時六十二歳 獲くわく麟りんに及およびたまひぬ。 然しかれども兼寿けんじゆ上人の興法こうぼふの志こゝろざしを感かんじて、 後代こうだいたのもしく思召けり。 終つゐに帰き寂じやくし玉ひぬ。 一扃けい愁涙しうるいに沈しづみ列衆れつしゆ袖そでを絞しぼる。 しかれば葬送さうそう中陰いんの間あひだ、 念仏報恩ほうおんの経営けいえいふたごゝろなく、 勤ごん行ぎやうの丹誠たんせいを抽  でゝ五旬じゆんの忌き辰しんを経へおはりぬ。

粤こゝに一ひとつの験乱けんらんおこれり。 其その大たい旨しは、 中ちう古こ以来このかたいちしるしかりし流りう儀ぎ、 聊いさゝか衰おとろふるに似にたり。 しかれば先師の出世によつて法ほふ雨う枯類るいを潤うるほし、 仏ぶち日四海かいにあふぐ。 故に世よを憚はゞかり是これを密かくすといへども、 いよいよ時機じき相続さうおうの教けうなるがゆへに、 その勧くわん化けのひろまる事こと往むかしに超過てうくわせり。

-これによつて叡山えいざんの学侶がくりよ、 謀む叛ほんの逆ぎやく意いを企くわだつ。 それ聖道の諸宗証しようしがたく、 末代の劣れつ機きなるがゆへに、 瑜伽ゆが三密みつの月つきの前まへには観くわん想さうをこらし、 三諦たい相即さうそくの牖まどのう1284ちにして妙めう理りを顕あらはさんこと、 今いまの世よの根こん機きにおひては最もかなひがたし。 是故このゆへに機きをそむき時ときにあらざる宗門しゆもんはいよいよ廃すたり、 教法けうぼふすでにかくれんとす。 しかれば浄土のさかんなるを偏執へんしゆして、 無む実じち風ふ聞ぶんの儀ぎをもて、 東ひがし山やま大谷おゝたにの禅房ぜんばうを破は劇ぎやくせり。

-しかるに聖人の影像えいぞうをば輦れん輿よにのせ奉り、 江州志賀しがの郡こほり大おゝ津つと云ふ処ところへうつし奉り、 疎そ屋おくを借かり居すえ奉り、 先師も同おなじくこの処ところへ忍しのびたまひつゝ、 虚むなしく草そう扉ひを閉とぢて光くわう陰いんを送おくり玉ふ。 其その以い来らいは大おゝ津つ南みなみの辺ほとりに少坊を近松御坊なりかまへて御影聖人をも居すえ奉り、 御門弟の懇こん志しをもて仮か栖せいをつくのひ禅室ぜんしちをしつらひて居住きよぢゆし玉へり。 かくのごとくして年序ねんじよを送おくり玉ふこと暫しばらくなり。

*文明ぶんめい第だい三 辛かのとの卯う の暦れき初夏そか上旬のころ、 大おゝ津つの小坊を忍しのび出いでて北邦ほくはうに趣おもむき玉ふ。 しかれば国郡の男女崇そう重ちやうの心をはこび、 捨邪帰正の類たぐひ敬きやう信しんもとも専もはらにしてかしこに群集す。 それつらつら往年わうねんの事を案あんずるに、 抑そもそも空聖人の御時おんとき聖しやう道だうの諸宗しよしゆみな真宗しんしゆに帰きしければ、 弘ぐ興こうを猜そねみて南北なんぼくの学がく徒と無む実じちの奏そう事じを以もて、 忽焉こつえんとして浄土の元祖黒谷くろだに聖人を南海なんかいの遠境えんけいに配はいし、 祖師聖人も同く北陸ほくりくの遥郷ようけいに配はいせらる。 されば御詞ことばにの玉はく、 「▲大師聖人 源空 もし流る刑けいに処しよせられ玉はずは、 われまた配所はいしよに趣おもむかんや。 若もし我れ配所はいしよにおもむかずんば、 何なにによつてか辺へん鄙ぴの群類ぐんるいを化せん。 こ1285れなほ師し教けうの恩おん致ちなり」 (御伝鈔巻上) といへり。 これに依よりて門葉も熾さかりなる事ことおほくは北邦にあり。 実まことに文明第三の御下向は偏ひとへに真宗繁昌の先蹤しようなり。

あるとき所々しよしよ巡じゆん見けんの砌みぎり、 越前の国くに坂北さかきたの郡こほり吉崎よしざきと云処ところに居きよをしめばやと思召て、 既すでに*同き初秋しよしう下旬第七日より始はじめて一閣かくを建立こんりふし玉へり。 しかれば貴き賎せん緇素しそを論ろんぜず、 門葉に列つらなり禅室ぜんしちに近ちかづく類たぐひ、 あげてかぞふべからず。 是よりして一流の宗儀昌さかんにして、 自他宗をゑらばず帰き伏ぶくする事こと風かぜに靡なびく草くさの如し。

*文明第七の暦、 所々歴覧れきらんのおりふし、 旧きう寺じの事ことなれば再覲さいきん大切なりとて、 加州賀か北ほくのかたほとり二俣ふたまたの松しやう扉ひに立寄たちより、 しばらく足あしを憩いこひ、 安あん慰ゐのために石いしを立たて樹きを植うへ玉ふ。 その庭にはの形かたち今いまにのこれり、 遺跡ゆいせき尤も慕したふべきものをや。

*同 き年南呂なんりよ下旬、 頽齢たいれい六十一にして吉崎よしざきの禅室ぜんしつをたち玉ひ、 順じゆん風ぷに帆ほをあげひそかに若わか狭さの小を浜ばまに船ふねをよせ、 丹たん波ばの嶮けん岨そを通とほりつゝ摂せつ津つの国くにへ出いでたまひ、 それより河内かはちの国くに茨まつ田だ郡 り中振なかふりの郷がう出で口ぐち光善寺 の里さとと云いふ処ところに至いたり玉ひ、 幽栖ゆうせいを卜しめ玉ふ事ことすでに三年なりき。

*文明九年玄律げんりつの比ころ、 金 の森の善従ぜんじゆ、 出で口ぐちの閑窗かんそうに謁えつして申まふしけるは、 城じやう州しう宇治うぢの郡こほりの東ひんがしに貴き坊ばうを建たてらるべきよろしき在所ざいしよありと時々ときどき申 ふされければ、 先師の仰おふせには、 わ1286れ一処しよ不ふ住ぢゆにして生しやう涯がいを果はたすべしと思おもふなりと 云々。

-しかりといへども善従ぜんじゆなを啓けい述じゆちありつる旨むねは、 昔むかしは京きやう都と東ひがし山にさへ在ましししき、 宇治うぢの郡こほり辺へんは道俗だうぞく参入さんにふの便たより最もともあるかの由よしを再さい諮しに及およぶ間あひだ、 先師そのこゝろを得え玉ひて、 急 ぎこの処ところを歴覧れきらんあるべしとて、 *同 く十年先師六十四歳初陽しよやう下旬第九日、 河内かはちの国茨まつ田だの郡 り出で口ぐちの里さとをいでゝ上洛らくし在ましまして、 山城 の国くに宇治うぢの郡こほり小野をのといふ庄しやう、 山科やましなの内 ち野の村むrの西にし中なか路ぢに輦れん輿よをたてられ、 少時しばらく見み廻めぐり玉ひて、 しからば此こゝに居住きよぢゆし時宜じぎをも試こゝろむむべしとて、 先まづ少屋せうおくを建たて玉ひ、 *その年としは江州近松ちかまつの弊坊へいばうにて越年えつねんし、 *翌年よくねん六十五歳にして沽こ三月洗せんの比 ろ、 連続れんぞくして作さく事じを企くはだてたまふ。 爰こゝに先師憐あはれ存ぞん生しやうの間あひだに御ご影堂えいだう建立こんりふせばやと思召けり。 則 ち門葉えうも忽焉たちまちにその企くはだてをなしけり。

*文明第十二 庚子 六十六歳夾かう鐘しよう上旬の比ころより営作えいさくをはじめられ、 同おなじき仲秋の比ころは既すでに造畢ざうひつの式しきなり。 先師の御心に歓くわん娯ごの思 ひ深ふ して、 実まことに数す年ねんの願ぐわん望もうこゝに達たつすと、 満足まんぞくこの時ときと歓くわん喜ぎの色いろ外ほかに現あらはれたまへり。 其 の後*暢ちやう十月月げつ十八日 の夜よに没いりて、 大おゝ津つに御座ましましける根本こんぽんの御ご影像えいぞうをうつり奉たてまつり玉へり。 しかふして後のちに報恩ほうをん講かうもはじまり、 无二むにの勤ごん行ぎやう退転たいてんなし。 謝徳しやとくをこらする門葉えふも実まことに事こと新あたらしく、 渇仰かつがう瞻せん行ぎやうの念おもひ止事やむことなし。 不ふ信しんの愚ぐ鈍どんも真信しんしんを獲ぎやく得とくし、 僻びやく見けんの邪輩じやはいも心こゝろを翻ひるがへして忽焉たちまちに正見に趣おもむきけり。 抑そもそも1287一乱以後いご、 世せ上じやうなにとなるべきと各々おのおの思し量りやうするところに、 この霊れい地ちに伽が藍らんを建立こんりふして御ご影えい聖しやう人にんをまのあたり拝はいし奉る事こと、 一宗の大慶たいけい、 御門弟の群類ぐんるい喜き悦えつの眉まゆをひらきけり。

*文明十四年 先師六十八歳 春はるの比ころ思召けるは、 当たう寺じは是これ忝 くも亀山かめやま・伏ふし見み両りやう御ご代だいより勅願ちよくぐわん処じよの宣せんを蒙かうむりて、 私わたくしならざる寺てらなれば、 本堂ほんだうなくしては詮せんなし。 然しかる間あひだ、 頻しきりに建立こんりふのこゝろざし在ましまして、 既すでに同 く仲旬より相続さうぞくして土ど木ぼくの企くわだてをなし、 忽たちまちに林りん鐘しよう下旬の天てんに覃およびて建立こんりふ成じやう就じゆせり。

-然しかれば則 ち先師若じやく齢れいよりこのかた怱劇そうげき已後いご、 都鄙とひ御おんこゝろを尽つくし玉ひし事ことも、 一度法流を再興さいこうし一処をもむすび、 諸国しよこく門葉もんえふの類たぐひこゝろやすく参詣さんけいを致いたし念仏をも修しゆせしめ玉はんと、 是をのみ思召けるに、 御心のごとく事こと成就せしめ、 聖人の一流日本六十余州に残処のこるところなく、 門葉刹せつ那なに充満みちみてり。 仏法弘ぐ通づうの本懐ぐわいこゝに成じやう就じゆし、 衆生利り益やくの宿念しふねむ忽たちまちにあらはれけり。 然則先師上人は黒谷くろだに聖人の化け現げんとも謂いひ、 又祖師聖人の後ご身しんとも称しようす。 実まことにしんぬ、 自身の動困どうこんをかへりみず貢ぐ高かう儜ねい弱にやくの下げ類るいをこしらへ、 无漏むろの灯ろう燭しよくをかゝげて濁ぢよく世せ迷闇めいあんの愚ぐ惷しようを導引だういんし玉ふことを。

 1288

蓮如上人遺徳記 巻上

 

1289蓮如上人遺徳記 巻中

 

第二に在世の不思議といふは、 本ほん師し開山かいさんよりこのかた代々祖師そしおほしといへども、 其その一流りうの熾さかりなること先せん規きあと少すくなく当世たうせいまた比たぐひなし。 風ほのかに聞きく、 高祖聖人必かならず蓮如上人と再誕さいたんして出世したまふべしといへる未み来らい記き、 東とう関くわんよりのぼりしを先せん師しかたく秘ひし語かたりたまはぬに依よりて人これをしらずと 云々。

-然 れば則ちその後ご身しんといふ事こと疑うたがひなく、 もとももて明あきらかなるものをや。 それ上人の御ご持じ言ごんに云いはく、 ▲なにたる事ことを聞きくといへども心こゝろに叶事なし、 もし一人なりとも信心しんじん決けち定ぢやうせしめん事ことをきこしめしたく思おぼし召めすと仰おふせ事ごとありき。 されば是これを慶よろこび玉ふ事こと限かぎりなし。 或ある人語かたりけるは、 一人にても心をひるがへし法ほふにかたぶきたるといふ事ことあれば、 聖人慶よろこび玉ふ事こと限かぎりなく、 その御おむ形かたちをうつされける。 その真影しんえいのごとく唇口くちびる嘯うそぶきたまふに似にたりと 云々。

-かの御像ぞう即 ち仏法流る通づうし、 門もん徒とおほく其その化けに随したがふこと盛さかりなりし時ときの御ご影えいなり。 又仏恩の高大かうだいなること迷ki7めい盧ろ八万の巓いただきにこえ、 師し徳とくの深厚じんかうなること蒼海さうかい三千の底そこより過すぎたり。 故に仏ぶつ祖その恩徳おんどくの深ふかき事ことをおもふに、 或は食しよく味みに向むかへばかれを食じきする毎ごとに憶おくし、 或1290は一衣を受うくるにも是これを著ちやくする毎ごとに念ねんず。 然  れば則 ち昼ちう夜や不ふ断だん是これを忘わすれずと言のたまへり。 又常つねにの玉はく、 聖人の御ご恩徳をんどくをば夜よるは夢ゆめに見み、 昼ひるは聊いさゝかも忘わすれずと仰事ありけり。 それ夜よるは通霄よもすがら寝いぬる程ほどの呼こ吸きふ、 しかしながら念ねん仏の声こえなりと 云々。

-しかれば権ごん化けの再誕さいたんたる英えい聖しやう猶なを爾しかなり。 況いわんやわれら迷倒めいたうの凡ぼん愚ぐに於をひてをや。 いよいよその恩徳おんどくを重おもんじ報謝ほうしやの志こゝろざしを専もはらにすべきものをや。

▲先師あるとき御夢をんゆめに、 法ほふ然ね 聖人先師に対たいして墨染すみぞめの衣ころもを著ちやくし含がん喜きの色いろほのかにあらはれ、 墨染すみぞめの衣ころもの像ぞうを先師にみせ玉ひ快くわい然ぜん微み笑しやうし玉ふと覚おぼえて夢ゆめ醒さめ畢。をはりぬ しかればこの事こと不思議に思召し、 翌朝よくてう釈 しやくの順じゆん誓せいを召めして云く、 知ち恩院おんいんに参まいり聖人の御をん衣ころもの色いろかはりけるか見みて来きたるべしと仰おふせ事ごとありける間あひだ、 即 ち順誓かの寺てらへ詣まいりて拝見はいけんせしめて帰かへり参まいりて申 す様やう、 中ちう古この住じゆ持ぢ意い巧げうをもて黄き袈裟げさ・黄き衣ごろもに御形 ちを彩色さいしきしたてまつる。 然しかれども昔むかしの如ごとくならでは祖意そい憚はゞかりあるとて、 このたびはじめて御衣の色いろをなをさるゝの由 し、 僧侶そうりよ語かたりけると 云々。

-しづかにこの夢む想さうを思おもふに、 有あるが中なかにも源げん空く聖人、 兼寿けんじゆ上人に告がう命みやうし玉ふ事こと、 これ恐おそらくは鸞らん聖人口く決けつ相さう承じようの実じつ義ぎ他たに異ことなる事ことを示しめし、 且かつは末世凡夫の行状じやうをあらはし玉ふ証しようなり。 こゝをもて名なを碩才せきさい・道人だうにんの聞きゝに衒てらはん事ことをいたみ、 外ほかにたゞ至愚しぐの相を現げんじ身みを田でん夫ぶ野や叟そうの類るいに等ひとしくせんと1291欲ほつす。 最もとも希き代たいの霊れい夢むと謂いひつべし。 敬けいすべし、 信しんずべし。

或時 き先師和わ州しう御ご一見け ありしきざみ、 その国くにの住人じゆにん 観音示現と云云 瑞ずい夢を感かんずる事ことありて、 先師を屈くつ請しやうし奉る。 先師深ふかく辞じし玉ふといへども、 懇こん志しもだし難がたくして窃ひそかに寄より玉ふ。 重畳ぢうらうの飲食をんじきを盛もり、 種々の珍ちん味みを調とゝのへけり。 爰こゝにかの俗ぞく夢ゆめの旨趣しいしゆを述じゆつす。 先師堅かたく出しゆつ語ごを制せいし玉ふと 云々。

-しかればこれを伝つたえ聞きくもの殆ほとんど信しん敬きやうせずといふ事ことなし。 されば聖人の御時に、 ▲箱はこ根ねの社廟しやべうにして昔むかしの示じ現げんと憶おもひ含あわされて尊重そんぢうの心こゝろやすめがたし。

先師上人*七旬有余にして寺務じむを光兼僧都に譲ゆづりて、 隣壁りんぺきに一棟とうを飾かまへて隠居いんきよし玉ふ。 有時日ひ黄くわう昏こんに覃およびて、 奥おくの席せきに紅こう灯しよくなくて在ましましけり。 ▲北国ほくこくに志こゝろざし切せちなる門弟もんていありき。 この人ひと上洛して先師に申ければ則 ち対面たいめんし玉ふ。 感かん機きし在ましますと覚おぼへて光ひかり御身のほとりに暉かがやき、 忽に尊容そんようを拝はいし奉けり。 加↠ 之しかのみならず、 ▲暗あん夜やに聖しやう教げうを御ご前ぜんに置おきけることあり。 つらつらこれを案あんずるに、 光明は智恵の形かたちをもて勢せい至しとす。 しかれば黒谷くろだに聖人は大勢至菩薩の化現にて在ましましけり。 この聖人こそ暗あん夜やに灯ともしびなくして、 遍身へんしんより光明を放はなちて経きやう典てんを拝はいせりといへり。 今此この兼寿上人も光明の相さう在まします事こと、 実じつにもて不可思議の事ことなり。 いよいよ仏ぶつ陀だの応おう化げにて在ましますと云事こと顕然けんねんなり。

*明めい1292応おう第五の天、 季き秋しうの比ころ、 先師年齢ねんれい八十二歳にして、 摂せつ州しう東ひがし成なりの郡こほし生玉いくたまの庄しやう内ない、 大坂おゝざかと云勝しよう地ちを求もとめて坊舎ばうしやを建立こんりふし、 是こゝを隠居いんきよ所じよとし給たまへり。 則 ち先師上人を信しん証しよう院いんと号がうす。 凡およそ易い行ぎやう易い修しゆの法門を談だんじ他た力りき摂せふ生しやうの旨し趣しゆをすゝめ玉ふに、 世よ遍あまねく尊そん敬きやうし人ひと悉ことごとく仰信がうしんする事こと、 日ひを送おくりて重かさなり夜よを続ついで繁しげし。 然しかれば先師を拝はいし奉る道俗、 亦趣おもむき玉ふ処ところの衆類しゆるい、 各おのおの帰き伏ぶくする事ことそのかずをしらず。 或時釈 の龍玄りうげんに対たいして言のたまはく、 我われ今いまは諸方へ臨りん回くわいすべしと思おもふ、 そのゆへはわれに近ちかづく処ところの輩ともがらは必かならず真信しんしんに帰きすと 云々。 それ京きやう洛らく・辺へん鄙ぴ、 幽栖ゆうせいをしめし玉ふごとに万民群むらがる事こと、 百川の巨こ海かいに帰きし鱗介りんかいの亀き竜れうに附つくがごとし。

*明応七年朱明しゆめいの比ころ 先師八十四歳 初はじめて不ふ例れいの気き聊いさゝか出しゆつ来らいせり。 ▲玄陰げんゐんに及およびて仰おふせられけるは、 吾われ今の分にては明あかさアケナば必かならず弥生やよいには閉眼へいがんすべしと、 時々よりより仰られけり。 しかるに玄天げんてん早はやく明あけて*明応八年 己 つちのとの未ひつじ の春はるも来きたり、 夾かう鐘しよう中旬 の比ころに光兼けん僧そう都づより御迎を下くだし玉ひける。 即 ち二月廿日に入洛し玉ふ。

-しかるにかの御ご病びやう中ちう演説えんぜちし玉ふ事こと、 恰あたかも金言きんげんならずと云事いふことなし。 或は往わう時じを語かたりて云のたまはく、 昔むかしは小屋の貧窓ひんそうを卜しめ窮屈きうくつすといへども、 誠まことに聖人の一流再興さいこうの志こゝろざし徹てつせしに依よりて、 今いま真宗しんしゆひろまり末弟まつてい安穏あんおんに住じゆする事こと、 偏ひとへに我わが矜哀こうあいの念力ねんりきに依よりてなりと御ご自じ証しようありけりと。

-又まか光くわう兼けん僧そう都づを初はじめて兄弟の1293衆しゆに対たいして言のたまはく、 幼年ようねんより仏法興隆こうりうのこゝろざしあるが故ゆへに、 身みの苦くるしみを顧かへりみず心こゝろの悲かなしみを痛いたまず、 都鄙とひの間あひdに苦く労ろうせしが故ゆへに、 今いま聖人の御ご用ゆうに依よりて心安こゝろやすく満足まんぞくの体ていたり。 われ在ざい世せの間あひだは愚ぐ老ろう冥みやう加がにかなふが故ゆへに、 兄きやう弟だいの衆しゆ以下いげ瀝用れきやうをもて一扃けいに楽たのしむ。 吾われ世よを去さりて後のちは動静意こゝろのごとくならん。 そのときを今いまより思おもふにあやうし。 これを思し慮りよして深ふかく冥みやう加がを知しりて聖人を重おもんじ奉り、 仏法を嗜たしなみ仏物を疎おろそかに思おもふ事ことなかれと、 常つねに仰おゝせ事ごとありと 云々。

同年季き三月春しゆんの天 先師八十五歳 連日れんじちの長病ちやうびやうにおかされ垂老すいろう不ふ食しよくし玉ひ、 身体昔むかしのごとくならず。 しかりといへども心性勇ゆう猛みやうにして二根こん眼耳明あきらかなりしこと日ひ来ごろに超こえたり。 しかれば青陽せいようの春はるの日影かげ閑しづかにして世上暖和だんくわなりしかば、 四し壁へきの華はなをつくづくと御ご覧らんありて、

▼さきつゞく 花はなみるたびに 猶なほもまた いとねがはしき 西にしのかのきし
▼老おひらくの いつまでかくや 病やみなまし むかえたまへや 弥陀みだの浄じやう土どへ
▼今日けふまでは やそぢいつゝに あまる身みの ひさしくいきじと しれやみな人ひと

と口くち号ずさみ玉ひけり。

しかれば同 き*三月七日、 今いま一度ど御ご影前えいぜんへ詣けいせんとて、 老邁ろうまい疲ひ悩のうの身みたりながら、 病牀の衣い装しやうを脱捨ぬぎすてて新裁しんさいの衣い服ふくを著ちやくし玉ひて、 腰よう輿よに乗じようじつゝ先づ1294本堂へ詣けいし、 それより御影前へ詣けいし玉へり。 即ち先師聖人の尊像そんぞうに向むかひ給ひて、 今生にての拝顔はいがんは是これまでなり、 必ず彼国かのくににして真形を拝はいし奉たてまつるべしと、 懇ねんごろに言のたまひける間あひだ、 きく人みな袖そでを絞しぼらぬはなかりけり。 しかうして堂前ぜんの花はなを看見かんけんし玉ふに、 かんばせ朝てう露ろにふかく、 又また遐か峯ほうに見みゆる粧よそほひ白雲はくうんの靉靆たなびくがごとし。 暫しばらくこれを歴覧れきらんあつて、 面白おもしろの景けい気きやと仰おゝせられ、 堂閣だうかくの正しやう面めんより腰よう輿よに乗じようじつゝ帰かへり玉ふ。

-今は本ほん懐ぐわい満足まんぞくなりとて病牀にふし玉ひて、 辞世じせの詠えい歌かとて、

▼我われ死しせば いかなる人も みなともに 雑行すてゝ 弥陀をたのめよ
▼やそぢいつゝ 定業きはまる 我わが身みかな 明応八年 往生こそすれ

この二首しゆを書かき付 け玉ひて、 又滅めつ後ごの事ことまでを表へうして往昔そのかみよみ玉へる御詠、

▼後のちの世よの しるしのために かきおきし 法のりのことのは かたみともなれ
▼われなくは 誰たれもこゝろを ひとつにて 南无阿弥陀仏と たのめみな人
▼なきあとに われをわすれぬ ひともあらば 唯たゞ弥陀たのむ こゝろおこせよ
▼形かた見みには 六字の御名みなを とゞめをく なからん世よには たれも用もちゐよ
▼極楽へ われゆくなりと きくならば いそぎて弥陀を たのめみな人

今此歌このうたの意こゝろ、 遠とほく遺訓ゆいくんを留とゞめて、 末代の亀き鏡けいにそなへんことを述じゆつし、 殊ことには此界の1295化縁つきて必かならず安養の本土にかへるべき預よ言ごんを残のこして、 猶なを滅後の遺弟を勧すゝむ。 是 れ恐くは西方権ごん化の来現といふべきをや。

-爰こゝを以て思に、 ¬弥陀経義集¼ (意) に 「豫よは是これ西葉の尊なり、 暫 く此 の土に来て殊ことに一門を選えらべり、 各おのおの謬あやまて宣言せんげんを疎をろそかにする事ことなかれ、 若 し堅かたく仰あふひで信しんぜば定て往生を得えん」 といへる先賢せんけんの哲言てつごんを思 ひ合せられて胸むねにそみ、 信しん敬きやうの心こゝろ肝きもに銘めいず。 総そうじてさき所々に於て吟詠ぎんえいし玉ふ歌うた付 けこれをゝしといへども、 頗すこぶる書しよするにあたはず。 唯たゞ安養の素そ懐くわいをおもひ、 報謝ほうしやの念仏ねんぶちたゆる事ことなし。 詞ことばに余よ言ごんをまじえず、 常つねに法ほふ譽よを宣のべて利り益やくを施ほどこし玉ふ。 或は終焉しゆえんの時ときの事ことまでも、 又滅後の作法等、 懇ねんごろに兼かねて存日ぞんじつの間あひだに仰おふせ置おかれけり。

*同 き九日、 釈 の龍玄りうげんに対たいして何なにぞ物ものを読よめと仰おゝせられける間あひだ、 「御お文ふみ」 をよみ申すべきやとありしかば、 軈やがて領れう掌しやうと仰おゝせらるゝ間あひだ、 「御文」 を読よみ奉る。 つくづくと聞きこし召し、 嗚呼あゝ不思議なる哉かなや、 わが造つくりたる 「文ふみ」 なりといへども殊しゆ勝しように覚おぼゆる間あひだ、 なを読よむべしと仰おゝせける。 五、 六返読誦どくじゆせさせられ、 是実に述じゆつして不ざ↠る作 さくせなりといへども義ぎに符ふ合がふせり、 最 も聖教となづくべしといへども其その憚はゞかりありとて 「文ふみ」 と号がうせり。 是即卑ひ謙けんの御詞ことば、 恐おそらくは先師の撰せん述じゆちとおもふ猶なを疎おろそかなり、 唯たゞ是これ如来の金言きむげんなりと仰ぎやう崇そうすべしとなり。

同 く十日昼ひるの比、 起き居きよし玉ひて墨ぼく地ちを召寄めしよせられ、 御病中の容貌ようばうを図づ画ぐわせらる。 真影しんえいに1296書付かきつけ玉ふ其御詞に云く、

獲ぎやく一念ねん信しん 今詣こんけい安養あんやう 穢え身しん永絶やうぜつ 法ほふ性しやう速そく証しよう

同 き中旬に及およんで御ご不ふ例れい増ぞう気きし玉へば、 みな悲ひ歎たんして参集さんじふす。 しかるに各おのおのに仰おゝせ置おかるゝ旨むねは、 われら去きよ世せせば大坂おゝざかより持もたせらるゝ処ところの曲きよく録ろくに乗のせて、 「正信偈」 同 く念仏して御影前へうつし申すべし。 年来としごろ同行のしるし仏法ぶつぽふのよしみなればみたくもあるべし、 また見みられたくも思おもふなり。 強あながちに名みやう聞もんにはあらず。 われを見みて門葉もんえふ悲ひ歎たんするたぐひこれあらば、 如 き↠是の事ことを縁えんとしても人々信しんをとるべき間 だ、 暫くかやうに思おもひよるなりと仰おゝせられて、 又龍玄りうげんに対たいして言のたまはく、 「▲乞食こつじきの沙門は鵝が珠しゆを死期しごに顕あらはし、 賊縛ぞくばくの比丘は王遊わうゆうに草さう繋けを免まぬかる」 と云戒文までひき玉ひ、 御入滅の以後不思議を現じ玉ふべきと云事いふことを示しめし玉へり。

-又云く、 「▲功成こうなり名な遂 とげて身み退 しりぞくは天の道みちなり」 (老子) と云事ことも、 わが身みの上うへにてあるべしと仰らる。 誠まことに仏法を再興さいこうし、 世よをしりぞき、 衰老すゐらう病びやう悩のうの身みながら心安こゝろやすく安養あんやうの素そ懐くわいを遂とげ玉ふべき事ことよと思おぼし召めし、 斯かくの如ごとく越陶えつたうの故時こじまで仰おゝせ出いだされける。 実まことに是れ末世相応さうおうの知ち識しき、 凡愚引入の明めい師しなり。

同 き下旬に至いたりて御病気とりしきる間あひだ、 親族しんぞく一類るい悲ひ泣きふ雨う涙るいし玉ふ事こと斜なゝめならず。 されど1297も先師法語常つねに断 たゆる事ことなし、 要言ようごんを宣のべて所集しよしゆの類るいにきかしめ玉ふ。 およそ御病中の宣説せんぜち金言きんげん、 毛挙もうきよに遑いとまあらず。

-しかれば▲*廿五日の暁あかつき大地鳴動めいどうしけり。 聞人きくひと不ふ思議しぎの思 ひあり。 是 れ即 ち権ごん化け入滅にふめつの瑞想ずいさうなり。 それをきく人ひと或は傷しよう嗟しやし、 或は奇き特どくの思おもひあり。

-時ときうつり夜よ明けぬれば、 日光東嶺とうれいよりほのめいて、 清虚せいきよ雲くも晴はれて金色に変へんず。 然しかふして漸やうやく未び明めいに覃をよぶと見みえしかば、 一族ぞく或は親厚しんかうの所衆しよしゆ、 五体たい投とう地ぢし涕泣ていきふ嗚咽あういんせしむる事こと限かぎりなし。

-然して午むまの正中に、 頭づ北ほく面西めんさいに伏ふし玉ひ、 睡ねむえるがごとくにて終つゐに念仏の息いき絶たへ畢 る。 時に春しゆん秋じう八十五歳、 身体しんたい柔軟にうなんにして相そう貌みやう常つねの如ごとし。 悲かなしき哉かなや、 日月西雲さいうんに還隠げんいんし、 法灯ほふとう忽たちまちに消失せうしつすと、 国郡こくぐんの徒と衆しゆ悲ひ傷しやうをいだき、 穢え域いきの門輩ぱい哀働あいだうにしづむ。 実まことに撫ぶ育いく考かう妣ひをうしなへるにすぎたり。

 

蓮如上人遺徳記 巻中

 

1298蓮如上人遺徳記 巻下

 

第三に滅めつ後ごの利り益やくと云いふは、 凡ぼん愚ぐ易い往わうの経文けうもんをのこして失道のものゝ指し南なんとし、 没もつ後ご利り益やくの言げん光くわうを暉かゞやかして闇あん冥みやうのものゝ恵え日にちとし玉ふ。 然に遺言ゆいげんに任まかせて、 即 ち二十六日のあさ、 曲きよく録ろくにのせ奉り御影前へうつし、 聖人の在まします須しゆ弥座みざの右みぎに置おき奉りける。 門葉群集くんじふして悉ことごとく感涙かんるいにむせぶ。 各 おの愁悃しうこんの袖そでを絞しぼりぬ。 抑そもそもかの面めん貌みようを見み奉るに、 御ご影えい聖人の尊顔げんに毛端もうたんほども相さう違いせず。 しかれば万人拝はいし奉る輩ともがら、 祖師聖人の再誕さいたんといよいよ敬信けうしんをいだけり。

爰こゝに▲ある人ひと霊れい夢むを感かんずる事ことあり。 去さんぬる夾かう鐘しよう上旬第八日いさゝか睡眠すいめんしけるに、 或ある人の云く、 今此 の本願寺上人は黒谷くろだに聖人の化け身しんとして在まします間あひだ、 必ず廿五日には入滅にふめつし玉ふべしといへるとあらたに見みけり。 此人このひと不ふ思議しぎの憶おもひをなし、 いそぎ上洛して人々ひとびとに語かたりあへり。 しかるに日限にちげんたがはず入滅し玉ふ事こと奇き特どくなりと、 滅めつ後ごの今こん時じに至いたて思合 せける。 夫それ三春いづれの時ときぞ、 かれは初そ春しゆん下旬五日、 これは暮ぼ春しゆん下旬五日。 かれは浄土の元ぐわん祖そ、 これは末法の明めい師しなり。 古こ今こむいづれとせんや。 化け導だう1299不ふ思議しぎなるものをや。

*同 き廿六日 辰 たつの刻 に 葬喪さうそうの場ばに送おくり玉ふ。 しかれば日光万山にかゞやき、 曜よう色しよく衆木しゆぼくにうつり、 紫し雲うん四方に垂すい布ふし、 殊ことに西の空そらにあたり金色の光雲かさなれり。 又また諸仏しよぶち・菩ぼ薩さちの音楽をんがくをきゝ、 奇き麗れい妙花めうくわふりくだる事こと、 まのあたり諸人これを拝はいせり。 諸方しよはうの有う情じやう、 日域じちいきの門流もんりう来集らいじふして、 江こう河が・山谷さんこくをいはず群攀ぐんぽんして不思議の霊瑞れいずいを見奉り、 屈敬くっけいし哽絶かうぜつす。 自他宗これを見聞けんもんして仰ぎやう崇そうの思おもひをなせり。

-▲しかればほどなく葬さう場じやうの煙けむりとなり青帝せいていの天そらに立登たちのぼりけるに、 白はく鷺ろ充満じうまんしてとびめぐり、 又白龍はくりう現げんじて暫しばらく煙けむりをさらず。 是これ併しかしながら結縁けちえんのゆへか、 又臨葬りんさうを歎たんずる故ゆへか、 希き代たいの事ことなり。 又かの葬煙さうえん肉親にくしんの香かかつてこれなし、 馨きやう香かう紛馥ふんぷくなる事こと、 人間の沈ぢん・檀だんに異ことなり。 旁かたがた以もて霊瑞れいずい不ふ思議しぎの事ことなり。 それ尊老植置うへをき玉へる万樹ばんじゆ花葉くわえふことごとく萎い蘂ずいせり、 ことに草木さうもく非ひ情じやうの類たぐひまでも彼入滅を悲ひ歎たんせるものをや。 昔むかし釈迦大師入滅のとき、 慕風ぼふア ラ シおこり天曇くもり、 樹木じゆもく双林さうりん色いろを変へんじ提だい河か流ながれ竭つきけり。 最もとも彼かれに同おなじかるべし。 実に奇きとすべし。 権化の方便はうべん、 末代の衆生にしらせんとなり。 仰ぐべし、 信ずべし。

▲粤こゝに泉せん湧ゆ寺じの長老かたられけるは、 本願寺の上人は開山聖人の後ご身しんなりとあらたに夢む想さうを被かうぶりけるよし、 慥たしかに聞きゝしより奇き特どくに思おもひけるほどに、 今こん度どかの闍維じやゆいにおよぶ1300間あひだ、 この寺てらのうしろの嶺みねにのぼり、 遙はるかにかの葬喪さうそうを拝はいするに、 煙けむりの内うちに忽たちまちに白龍はくりう二ふた頭かしら現げんじ、 紫し雲うんたち花はなふりければ、 唯事たゞごとならずおぼへて紅涙こうるい連々れんれんとしてとゞまらず。 実まことにかくの如ごときの妙めう事じは耳みゝにきゝて眼まなこには見ず、 老齢らうれい七十年の間あひだに、 このたび始はじめて不ふ思議しぎの奇き特どくを拝はいしたりとて、 物もの語がたりありきと 云々。

同 き廿七日遺い骨こつをひろいて、 即 ち廿八日より仲呂ちうりよ十七日まで、 忌き辰しんの日ひ数かずをつゞめて念仏勤行を励はげまし、 耆ぎ闍しやの真文しんもんを読誦どくじゆし、 本式に任まかせて五旬の中陰いんを致いたし玉ふべしといへども、 仏事供養やうを要えうとせず、 たゞ帰き命みやうの信しん心を本ほん意いと思召、 存日ぞんにちの時ときたゞ三七日ばかりその営いとなみをなすべしと仰おゝせ置おかれし旨むねに任まかせてかくの如ごとく、 凡 そ報恩ほうをんの誠まことを致いたし懇こん志しを抽ぬきんづる類るい、 いよいよ称しよう計げすべからず。 稟教ほんげうの族やからは謝徳しやとくを専もはらにして遺訓ゆいくんをまもり、 歩あゆみを運はこぶ緇し徒大はなはだをゝし。

-▲しかるに終焉しゆゑんの砌みぎりより四月二日まで、 紫し雲うん空く中ちうにおゝひき。 ▲同き日よりまた七日たちて、 本堂・御影堂の上に宝ほう花け充満じうまんしてふりくだり、 仏庭ぶつていに近ちかづく道俗、 法莚ほふえんにのぞむ老少らうせう、 これを拝はいし、 随ずい喜きの涙なみだを流ながし、 渇仰かつがうの色いろ深ふかかりけり。 ▲接州せつしう東ひがし成なりの郡こほり大坂おゝざかの坊閣ばうかくの辺ほとりにも、 同く七日紫し雲うんたち二尺ばかりなる華はなふりくだる事こと、 自他じた宗しゆこれを拝はいし瞻仰せんがうを致いたす。 不ふ思議しぎなりと称しようせる事こと、 人口に残のこれり。

そ1301れ金闕きんけつにのぞむ月卿げつけい、 芝し砌せいに走はしる雲客うんかく、 その外ほか大樹たいじゆ勇ゆう武、 総そうじて麁そ民みん野や叟そうの類たぐひまでも、 讃さん譽よせずといふ事ことなし。

明応九年、 彼かの一周しゆ忌きをむかへて勤ごん行ぎやうの忠心ちうしんを致いたし、 偏ひとへに報謝ほうしやの丹誠たんせいをこらす。 その諷ふ諫かんの熾さかんなる事ことすこぶる在世の昔むかしに超こえたり。 かの遺い恩をんを重おもんずる門葉在々所々に遍へん布ぷして、 末流国郡に繁はん昌じやうせり。

-然るに此 の一回の忌き辰しんに至いたりて、 又華はなふり下 る事こと、 一所にかぎらず京きやう夷いに覃およべり。 其後そののち亦また年ねん忌きをむかうるごとに、 如↠是の瑞ずい事じを見事みることしげかりき。 後弟蹤しよう跡せきを慕 したひ報恩ほうをんのまことを致いたし、 遠えん回くわい千里りの雲涛うんたうしのいで懇念こんねむをはこび、 峻しゆん道だう万程ばんていの青せい嶂しやうを歩あゆみて廟堂べうだうに詣けいす。 花夷の皀白かうはく、 遠近おんごんの貴き賎せん、 その旧好きうかうをたづね遺誡ゆいかいを重じて、 年々松しやう林りんの厳げん扉ぴに詣けいする事こと清々せいせい焉えんたり。

-しかればわれら无始よりこのかた生死の苦く海かいに沈しづみて三毒の愛あい波はしのぎがたく、 无明の長夜にまどひて三途づの黒闇こくあん出いでがたし。 是これに仍よて大聖悲憐れんしてひろく一代を選えらんで、 西土の真教しんけうを明あかして遠とほく末代に蒙かぶらしめ、 法滅百歳を救く済さいし玉ふ。 実に釈尊出世の本懐、 諸仏ぶつ誠じやう諦たいの金説なり。 是即ち愚ぐ凡ぼん易い往わうの捷径せふけい、 跛は蹇けん能のう度どの風ふ船せんなり。

-このゆへに五祖東漢とうかんにいでゝ偏ひとへにこの法ほふをしめし、 本朝にまた源信・源空その教をつたへて、 あまねく浄土の教門をひらいて安養の往生をすゝむ。 爰こゝに祖1302師聖人出世し玉ひて真宗を弘興こうし、 教行の要えう義ぎをのべて濁世の群萌もうを利りしぬ。 されば先師和わ国こくに生を受うけ、 一流の中絶ぜつせるを再興さいこうし、 心 ろ指ざすところの衆類しゆるいを化度けどし、 我朝てうにのこる処ところなく、 聖人の御代ごよに聞きゝ得えざる遠邦えんぱう外ぐわい辺へんに至いたるまで教法けうぼふをひろめ玉ひ、 なを滅後に於て利益をあらはさんとて、 明応第八弥生やよいの空そらに雲くも弊がくれし玉ひ、 まのあたり霊れい異いをみせしめ玉ひけり。

-滅後の世よに至いたりてその遺徳ゆいとくおほき中に、 先師翰墨かんぼくをなげうち玉ふ六字の尊号そんがうの中に奇き特どく不ふ思議しぎあり。 権筆ごんひつとして喩たとへをとるにものなし。 今いま略りやくしてその不思議を云に、 たとへば門葉のうちに道だう場じやうを焼しよう失しつしけるに、 或は名号燌集ふんしふしておほく仏像となり玉へるあり、 或は名号焼しよう爛rんせしがその字形ばかり明あきらかに残のこり、 或は名号破は燃ねんせしが漸々にいゑかへるもあり。 滅後の勝相もとも感ずべし。

-名号の焦燃せうねんして仏像ぶつぞうとなる事ことは在世にも有ありしことなり。 ▲順じゆん誓せい先師に申 し上 げけるは、 爰こゝに不ふ思議しぎあり。 御ご筆ひつの名号焼しよう焦せうして六体たいの仏像ぶつぞうとなり玉へると 云々。 其 の時とき仰おゝせられけるは、 仏ほとけの仏ほとけとなり玉ふは不思議とするにたらず、 凡夫の身みながら一念の信をもて頓とんに証しよう悟ごをとる事ことこそ不思議の第一なれと仰られけり。

-入滅已後十箇年を過すぎて門葉の中に彼かの尊翰そんかんを安あん置ちし奉たてまつるに、 常つねに灯とう明みやうをかゝげざるに、 名号のほとりかゞやき玉ふ事あり。 驚おどろきて是これを拝はいするに、 光くわう曜えうあざやかにして1303阿弥陀仏の四字の上うへに忽たちまちに方便法身の尊形いでき玉へり。 如↠是 の拝はいする間あひだに、 南無なむの二字にじのとおりに本師親鸞聖人の尊形鮮覈せんけうとして現じ玉ふ。 其後また先師蓮如上人の容貌ようばう出しゆつ来らいし玉ふ。 居諸きよしよをへ星霜せいさうをかさねて弥いよ々その形かたちあきらかにして、 仏像あまたいでき玉へり。 上古にも季世きせにも、 かくの如ごとくの奇き特あるべからず。 実に是れ滅後の利益を且は末代にしらせんとの善巧不ふ思議しぎの徴しるしなり。

伏 ふして 以、 おもんみれば釈迦選せん択じやくの教けう風ふ、 惑染わくぜん覆ふ障しやうの霞か雲うんをはらうといへども、 正像春夏の天、 朦朧もうろうとして光りあきらかならず。 然るに末法の秋あきの空そら寂静じやくじやうにして、 浄土円満えんまんの月朗ほがらかなり。 こゝにしんぬ、 西方の教けう潤じゆん高峯かうほうより出いでて遐か渓けいの垢く濁ぢよくをすゝぎ、 弥陀の法水遼りやう季きの減劫げんこふに流ながれて、 あまねく六趣四生の乾けん地ぢをうるをす。 上来三義ぎの不同ありといへども僅わづかにその奇き蹤しようをしるす。 委い曲きよくするにいとまあらず。 併しかしながらこれを略りやくする処ところなり。

 

蓮如上人遺徳記 巻下

1304右所 の↠録冊篇殆 ど有 り↠憚。 但思頗有僻之恐、 憖 に染↢黄子之挙墨↡、 烈↢鳥鼠 の之疎詞 を↡、 有↠恥有憚。 繇 て↠是 に楚忽短慮弥惑、 豈非↠受↢呵笑 を↡乎、 寧非↠招↢毀哢↡乎。 雖↠然憶↢ ふに彼 の徳海 を↡深 め、 而難↠覆↢其 の譽↡、 難↠謝↢其 の恩 を↡。 因↠茲挙↢九牛 が一毛 を↡、 拾↢ひろふ所 の↠聞之聊  なる肯↡むねを。 俯  して乞、 文体卑劣言辞誹謬、 尤譲↢他眼 に↡而加↢取捨通局↡而已。
*大永第四暦南呂初三日同第五之天終早書篇畢

此 の遺徳記、 本泉寺兼縁蓮悟 の所↠集、 其後実悟記↠之。 釈 の兼与 七十歳 先年豫馳筆 の之次、 早卒 に記↠之。 其 の後者擬↢ して反古 に↡令↢棄置↡之処 に、 尚斯 の書有↢座右 に↡。 然間為↠消↢閑窓 の之徒然永日 の之懶睡 を↡、 聊加↢添削 を書↢改之↡。 愚昧 の之短慮、 不↠及↢再覧 に↡、 慚↢汗 す之 を↡。
天文 癸巳 年蕤賓下旬日
  延宝七 己未 年正月吉日

 

底本は龍谷大学蔵延宝七年刊本。