しゆいしょうじゅ 思惟正受 ¬観経¼ に、 だい阿弥陀仏浄土往生するためのについて釈尊に教えを請うた際に出る語で、 「願はくは世尊、 われに思惟を教へたまへ、 われに正受を教へたまへ (願世尊教我思惟教我正受)」 と説かれている。 善導は 「序分義」 において、 じょうよう慧遠などの聖道諸師が思惟を散善 (三福)、 正受を定善 (十六観) としたのに対し、 思惟・正受をともに定善とみて、 「思惟」 とは精神統一して浄土のすがたを想い浮かべるという正受の前段階、 「正受」 とは思惟が完成して浄土のすがたが行者の心と一つになるという観が成就することであると示している。 親鸞は 「化身土巻」 において、 「教我思惟といふは、 すなはち方便なり教我正受といふは、 すなはち金剛の真心なり」 と述べ、 おんしょうの義では 「正受」 を他力信心、 「思惟」 をその他力信心に通入するまでの方便の行であるとみている。 →自開散善