0162◎黒谷上人漢語灯録巻第八

厭欣沙門 了恵 集録

 

◎漢かん語ご第一だいいちの八はち

◎漢語第一之八

 

一一、逆修説法

逆げき修しゅう説法せっぽう第だい十じゅう一いちの余よ ▽四し七日しちにちより六ろく七日しちにちに至いたる

・第四七日

△第だい四し七日しちにち。 ▽阿あ弥陀みだ仏ぶつ。 ▽¬観かん無む量りょう寿じゅ経きょう¼。

・第四七日 仏功徳

△仏ぶつに総別そうべつの二に功く徳どくまします。

仏ニ有マス↢総別ノ二功徳↡。

・第四七日 仏功徳 総徳

まづ総そうとは、 四智しち・三身さんしん等とうの功く徳どくなり。 一切いっさいの諸仏しょぶつは内ない証しょう等ひとしく具ぐして一仏いちぶつも異ことなることなきゆゑに、 諸しょ経きょうのなかに仏ぶつの功く徳どくを説とくに、 総そうじて内ない証しょうの功く徳どくをば説とかず、 ただ別べっして外げ用ゆうの功く徳どくを説とくなり。 しかりといへども善根ぜんごん成じょう就じゅのために、 三身さんしんの功く徳どく形かたちのごとく説ときたてまつるべし。

先ヅ総トハ者、四智・三身等ノ功徳ナリ也。一切ノ諸仏ハ内証等ク具シテ一仏モ無↠異コト故ニ、諸経之中ニ説ニ↢仏ノ功徳ヲ↡、総ジテ不ズ説↢内証ノ功徳ヲバ↡、唯別シテ説ク↢外用ノ功徳ヲ↡也。雖↠爾ト為ニ↢善根成就ノ↡、三身ノ功徳如ク↠形ノ可シ↠奉ル↠説キ。

・第四七日 仏功徳 総徳 法身

まづ法身ほっしんとは、 これ無む相そう甚深じんじんの理りなり。 一切いっさいの諸法しょほう畢ひっ竟きょう空くう寂じゃくなるをすなはち法身ほっしんと名なづく。

先ヅ法身トハ者、是 レ無相甚深ノ之理ナリ也。一切ノ諸法畢竟空寂ナルヲ即名ク↢法身ト↡。

・第四七日 仏功徳 総徳 報身

次つぎに報身ほうじんとは、 別物べつものにあらず、 かの無む相そうの妙みょう理りを解さとり知しる智恵ちえを報身ほうじんとは名なづくるなり。 所しょ知ちをば法身ほっしんと名なづけ、 能のう知ちをば報身ほうじんと名なづくるなり。 この法報ほうほうの功く徳どく法界ほっかいに周しゅう遍へんせり、 菩ぼ薩さつ・二に乗じょうの上うえ乃ない至し六趣ろくしゅ四し生しょうの上うえにも周しゅう遍へんせずといふことなし。

次ニ報身トハ者、非ズ↢別物ニ↡、解リ↢知ル彼ノ無相ノ之妙理ヲ↡智恵ヲ名ル↢報身トハ↡也。所知ヲバ名ケ↢法身ト↡、能知ヲバ名↢報身ト↡也0163。此ノ法報ノ之功徳周↢遍セリ法界ニ↡、無↠不云コト↣周↢遍菩薩・二乗ノ之上 ヘ乃至六趣四生之上ニモ↡矣。

・第四七日 仏功徳 総徳 応身

次つぎに応身おうじんとは、 衆しゅ生じょうを済さい度どせんがために、 無む際限さいげんのなかにおいて際限さいげんを示しめし、 無む功く用ゆうのなかにおいて功く用ゆうを現あらわしたまへるなり。 およそその仏ぶつの功く徳どくにおいては、 等覚とうがく無垢むくの菩ぼ薩さつすら、 すなはちその覚かく知ちの境きょう界がいにあらず、 いはんや薄はく地じの凡ぼん夫ぶをや。

次ニ応身トハ者、為↣済↢度センガ衆生ヲ↡、於テ↢無際限ノ中ニ↡示シ↢際限ヲ↡、於テ↢無功用ノ中ニ↡現シ↢功用ヲ↡給ヘル也。凡ソ於テハ↢其ノ仏ノ功徳ニ↡者、等覚無垢ノ菩薩スラ、則非ズ↢其ノ覚知ノ之境界ニ↡、況ヤ薄地ノ凡夫ヲヤ乎。

在ざい世せに応おう持じ菩ぼ薩さつと申もうしし菩ぼ薩さつ如来にょらい釈しゃく尊そんの現あらわしたまへる御おん身みの長たけ丈じょう六ろくなるを見みたてまつりて、 仏ぶつの御長おんたけはいくばくもましまさざりけりと思おもひて、 竹ちく杖じょうをもつてその御長おんたけを計はかりたてまつるに、 その竹たけよりなほ高たかくましましければ、 また竹たけを続つづけて計はからんと欲ほっするに、 それに随したがひてつひにその限かぎりを知しることを得えず、 その竹たけを捨すてて築つき立たてたるところにすなはち生おへつきて竹林ちくりんとなれり、 これを杖じょう林山りんせんと名なづく。 玄げん奘じょう三蔵さんぞう天竺てんじくに渡わたりたまひし時とき、 その杖じょう林山りんせんを見みたまへり。

在世ニ応持菩薩ト申シヽ菩薩奉テ↠見↢如来釈尊ノ之現給ヘル御身ノ長丈六ナルヲ↡、思テ↢仏ノ御長ハ不リケリト↟有マサ↠幾 クモ、以テ↢竹杖ヲ↡奉ルニ↠計リ↢其ノ御長ヲ↡、従↢其ノ竹↡尚高ク坐マシケレバ者、又続テ↠竹ヲ欲スルニ↠計ント、随テ↠其 レニ終ニ不↠得↠知コトヲ↢其ノ限リヲ↡、捨テヽ↢其ノ竹ヲ↡築ツキ立タル所ニ即生ヲヘ付ツキテ成レリ↢竹林ト↡、名ク↢之ヲ杖林山ト↡。玄奘三蔵渡タマヒシ↢天竺ニ↡時 キ、見↢其ノ杖林山ヲ↡給ヘリ。

また目連もくれん尊者そんじゃ神通じんずうを得えて、 仏ぶつの御み音こえの聞きこゆるところの際限さいげんを計はかりたてまつるに、 まづ小しょう千界せんかいを遶めぐれる鉄てっ囲ち山せんに到いたりて、 なほ仏前ぶつぜんのごとくにして異ことなることなし。 次つぎに中ちゅう千界せんかい乃ない至し大だい千界せんかいを遶めぐれる鉄てっ囲ち山せんに到いたりてこれを聞きくに、 なほ同おなじく仏前ぶつぜんのごとし。

又目連尊者得テ↢神通ヲ↡、奉ルニ↠計リ↢仏ノ御音ノ所ノ↠聞ユル之際限ヲ↡、先ヅ到テ↧遶レル↢小千界ヲ↡之鉄囲山ニ↥、猶如ニシテ↢仏前ノ↡無シ↠異コト。次ニ到テ↧遶レル↢中千界乃至大千界ヲ↡之鉄囲山ニ↥聞クニ↠之、猶同ク如シ↢仏前ノ↡。

かくのごとくして西方さいほう九く十じゅう九く恒ごう河が沙しゃの仏ぶつ世せ界かいを過すぎて、 光こう明みょう幡ばん世せ界かいに到いたる。 その国くにの人ひとはきはめて長たけ高大こうだいなり。 目連もくれん鉢はちの縁はたに取とりつけたるぞ、 箸はしをもつて箸はさみ上のぼりて虫むしなんどのやうに思おもへり。 その時ときにその国くにの教きょう主しゅの仏ぶつ 光こう明みょう王仏おうぶつ 告つげてのたまはく、 これはこれより東方とうぼう無む量りょう恒ごう河が沙しゃ世せ界かいを過すぎて世せ界かいあり、 名なづけて娑しゃ婆ば世せ界かいといふ。 その国くにに仏ぶつあり、 釈しゃ迦か牟尼むにと名なづけたてまつる。 その仏ぶつの御おん弟子でし証しょう果かの大だい阿羅あら漢かんなり、 賎いやしむべからずと。 これを聞ききてたちまちに帰き敬きょうせり。

如シテ↠此ノ而過テ↢西方九十九恒河沙ノ之仏世界ヲ↡、到ル↢光明幡世界ニ↡。其ノ国ノ人ハ極テ長 ケ高大ナリ也。目連取↢付タルゾ鉢ノ縁ハタニ、以テ↠箸ヲ箸ハサミ上テ虫ナンドノ之様ニ思ヘリ。爾ノ時ニ其国ノ教主ノ仏 光明王仏 告テ言ハク、此 レハ従リ↠此 レ東方過テ↢無量恒河沙世界ヲ↡有リ↢世界↡、名テ曰フ↢娑婆世界ト↡。其ノ国ニ有リ↠仏、奉ル↠名ケ↢釈迦牟尼↡。其ノ仏ノ御弟子証果ノ大阿羅漢ナリ也、不ト↠可↠賎ム。聞テ↠之忽ニ帰敬セリ。

その時ときかの国くにの教きょう主しゅ、 目連もくれんに教おしへてのたまはく、 小乗しょうじょうの神足じんそくは三千さんぜん大千だいせん世せ界かいをば過すぎず。 しかるをなんぢが本ほん師し釈しゃ迦か如来にょらいの神力じんりきによりてこの世せ界かいまで来きたれり。 自じ力りきをもつて還かえらん事こと叶かなふべからず、 すみやかになほ釈しゃ迦か如来にょらいを帰き命みょうしたてまつりて、 その神力じんりきを受うけて本国ほんごくに還かえるべしと。 目連もくれんこれを承うけてすなはち娑しゃ婆ば世せ界かいに向むかひて、 はるかに釈しゃ迦か牟尼むにを礼らいしたてまつる、 仏力ぶつりきによりて本国ほんごくに還かえることを得えたりといふ事ことの候そうろふ。

其ノ時彼ノ国ノ教主、教テ↢目連ニ↡曰ク、小乗ノ神足ハ不↠過0164ギ↢三千大千世界ヲバ↡。然ヲ汝ガ依テ↢本師釈迦如来ノ神力ニ↡来レリ↢此ノ世界マデ↡。以テ↢自力ヲ↡還ラン事不↠可↠叶フ、速ニ尚奉テ↣帰↢命シ釈迦如来ヲ↡、受テ↢其ノ神力ヲ↡可シト↠還ル↢本国ニ↡也。目連承テ↠之ヲ即向テ↢娑婆世界ニ↡、遙ニ奉ル↠礼シ↢釈迦牟尼ヲ↡、依テ↢仏力ニ↡得リト↠還コトヲ↢本国ニ↡云事ノ候。

功く徳どくの計はかりがたきことかくのごとし。 釈しゃ迦か一仏いちぶつに限かぎらず、 一切いっさい諸仏しょぶつもかくのごとし。

功徳ノ難コト↠計リ如シ↠是ノ。不↠限ラ↢釈迦一仏ニ↡、一切諸仏モ如シ↠此ノ。

・第四七日 仏功徳 別徳

次つぎに阿あ弥陀みだ如来にょらいの別徳べっとくとは、 かの仏ぶつに八万はちまん四し千せんの相そうあり、 そのなかに白びゃく毫ごうの一相いっそうをもつて最さい勝しょうとなす。 ゆゑに ¬観かん経ぎょう¼ に説ときてのたまはく、 「無む量りょう寿仏じゅぶつを観かんぜんものは、 一いちの相好そうごうより入いらん。 ただ眉み間けんの白びゃく毫ごうを観かんじてきはめて明了みょうりょうならしめよ。 眉み間けんの白びゃく毫ごうを見みたてまつれば、 八万はちまん四し千せんの相好そうごう、 自じ然ねんにまさに見みるべし」 と。 云々 善導ぜんどうの御おん意こころ (観念法門意) は 「頭ず上じょうの螺ら髪ほつより足そく下げの千輻せんぷく輪りんに至いたるまで、 一々いちいちの相好そうごうにおいて順逆じゅんぎゃくに観かんずること十じゅう六遍ろっぺんして後のち、 心こころを眉み間けんの白びゃく毫ごうに注とどめて、 雑乱ぞうらんすることなかれ」 と。 云々。 しかればすなはちしばらく白びゃく毫ごう一相いっそうの功く徳どくを讃嘆さんだんしたてまつるべし。

次ニ阿弥陀如来ノ別徳トハ者、彼仏ニ有↢八万四千ノ相↡、其ノ中ニ以テ↢白毫ノ一相ヲ↡為↢最勝ト↡。故ニ¬観経ニ¼説テ云ク、「▲観ン↢無量寿仏ヲ↡者 ノハ、従リ↢一ノ相好↡入ン。但観ジテ↢眉間白毫ヲ↡極テ令ヨ↢明了ナラ↡。見タテマツレバ↢眉間白毫↡者、八万四千ノ相好、自然ニ当ニ↠見。」云云 善導ノ御意ハ「▲従リ↢頭上ノ螺髪↡至マデ↢足下ノ千輻輪ニ↡、於テ↢一一ノ相好ニ↡順逆ニ観コト十六遍シテ後、注メテ↢心ヲ眉間白毫ニ↡、莫レト↢雑乱コト↡。」云云。然バ則且ク可シ↠奉ル↣讃↢嘆シ白毫一相ノ之功徳ヲ。

恵え心しんの御おん意こころによりて白びゃく毫ごうの功く徳どくを讃さんじたてまつらば、 それ五ごあり。 いはく白びゃく毫ごうの業因ごういん、 白びゃく毫ごうの相そう貌みょう、 白びゃく毫ごうの作さ用ゆう、 白びゃく毫ごうの体たい性しょう、 白びゃく毫ごうの利り益やくなり。

依テ↢恵心ノ御意ニ↡奉ラバ↠讃ジ↢白毫ノ功徳ヲ↡者、夫 レ有リ↠五。謂ク白毫ノ業因、白毫ノ相貌、白毫ノ作用、白毫ノ体性、白毫ノ利益也。

・第四七日 仏功徳 別徳 白毫業因

はじめに白びゃく毫ごうの業因ごういんとは、 ¬大集だいじっ経きょう¼ (巻六宝女品意) に 「他たの徳とくを隠かくさずしてその徳とくを称しょう揚ようする功く徳どくによりて白びゃく毫ごうの相そうを得う」 といへり。 云々 また ¬戒かい経きょう¼ (優婆塞戒経巻一三十二相品意) に「不ふ妄もう語ごの功く徳どく白びゃく毫ごうとなる」 といへり。 ただしこれ一往いちおう随ずい機きの説せつなり。 また ¬観仏かんぶつ三昧ざんまい経きょう¼ (巻二観相品意) にいはく、 「無む量りょう劫こうの間あいだ、 身心しんしん精しょう進じんにして昼ちゅう夜やに懈おこたることなく、 頭ず燃ねんを払はらふがごとく六ろく度ど万まん行ぎょう大だい慈じ大だい悲ひ等とうのもろもろの功く徳どくを勤修ごんしゅして、 この白びゃく毫ごうの相そうを得う」 と。 云々 しかればかの阿あ弥陀みだ仏ぶつ、 法蔵ほうぞう比丘びくの昔むかし、 兆ちょう載さい永劫ようごうの間あいだ六ろく度ど四し摂しょうの無む量りょう無む辺へんの妙行みょうぎょうを修しゅして、 具ぐ足そくしたまへるところのそこばくの功く徳どくを集あつめて眉み間けんの白びゃく毫ごうをば顕あらわしたまへるなり。 これは真実しんじつの義ぎにて候そうろふらん。

初ニ白毫ノ業因ト者、¬大集経ニ¼云ヘリ↪「由テ↧不シテ↠隠↢他ノ徳ヲ↡称↢揚スル其徳ヲ↡之功徳ニ↥得ト↩白毫ノ相ヲ↨。」云云 又¬戒経¼云ヘリ↣「不妄語ノ功徳成ト↢白毫ト↡。」但シ是 レ一往随機ノ説ナリ也。又¬観仏三昧経ニ¼云、「無量劫ノ間 ダ、身心精進ニシテ昼夜ニ無ク↠懈ルコト、如ク↠払ガ↢頭燃ヲ↡勤↢修シテ六度万行大慈大悲等ノ諸ノ功徳ヲ↡、得ト↢此0165ノ白毫ノ相ヲ↡。」云云 然バ彼阿弥陀仏、法蔵比丘ノ昔 シ、兆載永劫ノ間 ダ修シテ↢六度四摂ノ之無量無辺ノ之妙行ヲ↡、集テ↧所ノ↢具足タマヘル↡若干バクノ功徳ヲ↥顕シタマヘル↢眉間ノ白毫ヲバ↡也。此ハ真実ノ義ニテ候覧ラン。

・第四七日 仏功徳 別徳 白毫相貌

次つぎに白びゃく毫ごうの相そう貌みょうは、 ¬経きょう¼ (観経) にいはく、 「△眉み間けん白びゃく毫ごう、 右う旋せん婉転えんでん、 如にょ五ご須しゅ弥み山せん」 と。 云々 右う旋せん婉転えんでんとは、 すなはち白びゃく毫ごうの相そう貌みょうを顕あらわす。 譬たとへば白しろき絲いとを巻まき出いだしたらんがごとし。 如にょ五ご須しゅ弥み山せんとは、 すなはち勢いきおいの分ぶんを顕あらわす。 あるいはまた (観仏三昧経巻一観相品) 「旋転せんでんして頗梨はり珠しゅのごとし」 とも、 また 「軟やわらかなること都羅とら綿めんのごとく、 白しろきこと珂か雪せつのごとし」 (観弥勒上生経疏巻下意説無垢称経疏巻四本意) ともいへり。 これすなはち相そう貌みょうなり。 譬たとえを取とらずんばその相そう顕あらわしがたし、 ゆゑにかくのごとく譬たとえを挙あげて白びゃく毫ごうの有様ありさまを示しめすなり。 かの龍りゅう樹じゅ菩ぼ薩さつ (十二礼) の仏ぶつを讃嘆さんだんしたてまつるにも 「面善めんぜん円えん浄じょう如にょ満月まんがつ」 なんどのたまへば、 これ弥陀みだ如来にょらいの面めん貌みょう円満えんまんしたまへる事ことを満月まんがつに譬たとふるなり。

次ニ白毫ノ相貌ハ者、¬経¼云、「眉間白毫、右旋婉転、如五須弥山。」云云 右旋婉転トハ者、則顕↢白毫ノ相貌ヲ↡也。譬バ如シ↢白キ絲ヲ巻出タランガ↡。如五須弥山トハ者、則顕ス↢於勢之分ヲ↡也。或ハ又云ヘリ↣「旋転シテ如シトモ↢頗梨珠ノ」↡、又「軟ナルコト如↢都羅綿ノ↡、白コト如シ↢珂雪ノ↡」。是則相貌也。不ンバ↠取↠譬ヲ者其ノ相難シ↠顕シ、故ニ如ク↠此ノ挙テ↠譬ヲ示ス↢白毫ノ有様アリサマヲ↡也。彼ノ龍樹菩薩ノ奉ニモ↣讃↢嘆仏ヲ↡云ヘバ↢「△面善円浄如満月ナンド」↡、是 レ弥陀如来面貌円満シ給ヘル事ヲ譬ル↢満月ニ↡也。

またこの白びゃく毫ごう一相いっそうのなかに八万はちまん四し千せんの相好そうごうあり、 相そうと好こうとは大だい小しょうの差別しゃべつなり。 大だいにして吉よき形かたちを相そうといひ、 小しょうにして吉よき形かたちを好こうといふとなり。 一々いちいちの好こうに八万はちまん四し千せんの光こう明みょうあり。 これをもつて恵え心しん (要集巻中) その白びゃく毫ごうの一相いっそうより放はなたるるところの光こう明みょうを勘かんがへたまふに、 「△七しち百ひゃく五ご倶く胝てい六ろっ百ぴゃく万まんの光こう明みょうあり」 といへり。

又此ノ白毫一相ノ中ニ有↢八万四千ノ相好↡、相ト与トハ↠好大小ノ差別也。大ニシテ而吉形ヲ云↠相ト、小ニシテ而吉形ヲ云ト↠好ト也。一一ノ好ニ有リ↢八万四千ノ光明↡。是以恵心勘タマフニ↢其ノ白毫ノ一相ヨリ所ノ↠放光明ヲ↡、云ヘリ↠「有ト↢七百五倶胝六百万ノ光明↡。」

・第四七日 仏功徳 別徳 白毫作用

次つぎに白びゃく毫ごうの作さ用ゆうとは、 いはく白びゃく毫ごうより放はなたるるところの光こう明みょうのなかに衆しゅ事じを現げんずるなり。 恵え心しんの意こころ (白毫観意) に「その所現の境きょう界がい十じゅう法界ほっかいをば出いでず」 といへり。 いはく仏身ぶっしんをもつて得とく度どすべきには、 すなはちかの白びゃく毫ごうの光ひかりを現あらわして仏身ぶっしんとなる。 その仏身ぶっしんにつきて二にあり。 一いちは始し終じゅう応同おうどうの身しん、 二にには無而むに欻こつ有うの身しんなり。

次ニ白毫ノ作用トハ者、謂ク白毫ヨリ所ノ↠放光明ノ中ニ現ズル↢衆事ヲ↡也。恵心ノ意云ヘリ↢「其ノ所現ノ之境界不ト↟出↢十法界ヲバ↡。」謂ク応キニハ↧以テ↢仏身ヲ↡得度ス↥者、即現テ↢彼ノ白毫ノ光ヲ↡作ル↢仏身ト↡。付テ↢其仏身ニ↡有↠二。一ハ始終応同ノ身、二ニハ無而欻コツ有ノ身也。

・第四七日 仏功徳 別徳 白毫作用 始終応同

始し終じゅう応同おうどうとは、 釈しゃ迦か如来にょらいのごとく八相はっそうを現げんずるなり。

始終応同トハ者、如↢釈迦如来↡現ズル↢八相ヲ↡也。

・第四七日 仏功徳 別徳 白毫作用 無而欻有

無而むに欻こつ有うとは、 託胎たくたい・出しゅっ胎たいの相そうをも現げんぜず、 出しゅっ家け・成じょう道どうの相そうをも現げんぜず、 ただ忽然こつねんとして現げんずる仏身ぶっしんなり。

無0166而欻有トハ者、不↠現ゼ↢託胎・出胎ノ之相ヲモ↡、不↠現ゼ↢出家・成道之相ヲモ↡、只忽然トシテ而現ズル之仏身也。

あるいはまた菩ぼ薩さつの身しんを現げんず。 普ふ賢げん・文殊もんじゅ・観音かんのん・勢せい至し・地じ蔵ぞう等とうのごときのもの、 すなはち菩ぼ薩さつなり。 しかればかれらのもろもろの大だい菩ぼ薩さつも、 弥陀みだの白びゃく毫ごうの所現しょげんにてもやましますらん。

或ハ又現ズ↢菩薩ノ身ヲ↡。如キノ↢普賢・文殊・観音・勢至・地蔵等ノ↡者、即菩薩也。然バ者彼等ノ諸ノ大菩薩モ、弥陀ノ白毫ノ所現ニテモヤ坐マス覧ラン。

またあるいは辟びゃく支し仏ぶつの身しんをもつて済さい度どすべきものには、 かの白びゃく毫ごうの光ひかり現げんじて辟びゃく支し仏ぶつとなる。 辟びゃく支し仏ぶつとは、 前仏ぜんぶつの法ほうは滅めっし、 後ご仏ぶつはいまだ出いでたまはざる中ちゅう間げんに出いでて、 仏ぶつの教おしえにはあらず、 ただ飛花ひけ落葉らくようを見みて独ひとり悟さとりを開ひらくなり。 ゆゑに独覚どくかくといふ。 この独覚どくかくに二にあり。 一いちには麟りん喩ゆ独覚どくかく、 二にには部ぶ行ぎょう独覚どくかくなり。

又或ハ応↧以↢辟支仏身ヲ↡済度↥者 ノニハ、彼ノ白毫ノ光現ジテ作↢辟支仏ト↡。辟支仏ト者、前仏ノ法ハ滅シ、後仏ハ未ダル↠出タマハ之中間ニ而出デヽ、非↢仏教ニハ↡、唯見テ↢飛花落葉ヲ↡独開↠悟ヲ也。故ニ云フ↢独覚ト↡。此独覚ニ有↠二。一麟喩独覚、二ニハ部行独覚也。

あるいはまた声しょう聞もんの身しんを現げんず。 釈しゃ迦か仏ぶつの御おん弟子でし舎しゃ利り弗ほつ・目連もくれん・迦か葉しょう・阿あ難なん等とうのごときもの、 すなはち声しょう聞もんなり。 知しらず、 弥陀みだ如来にょらいの白びゃく毫ごうの光ひかり釈しゃ迦かの化儀けぎを助たすけんがためにかのもろもろの大だい声しょう聞もんを現げんじたまふらん。

或又現ズ↢声聞身ヲ↡。如キ↢釈迦仏ノ御弟子舎利弗・目連・迦葉・阿難等ノ↡者 ノ、即声聞也。不ズ↠知、弥陀如来ノ白毫ノ光為ニ↠助ンガ↢釈迦ノ化儀ヲ↡現ジ↢彼ノ諸大声聞↡給フ覧。

あるいは梵王ぼんのうの身しんを現げんじ、 あるいは帝たい釈しゃくの身しんを現げんじ、 あるいは国王こくおう・大臣だいじんの身しんとも現げんじ、 あるいは長ちょう者じゃ・居士こじの身しんをも現げんず。 およそ比丘びく・比丘びく尼に・優婆うば塞そく・優婆うば夷い・天てん・竜りゅう・夜や叉しゃ・乾闥けんだつ婆ば・緊きん那羅なら乃ない至し地じ獄ごく・鬼き・畜ちく生しょう・修しゅ羅ら、 かくのごときらの一切いっさいの身しん、 よろしきに随したがひて現げんぜざるなし。

或ハ現ジ↢梵王ノ身ヲ↡、或ハ現ジ↢帝釈ノ身ヲ↡、或現↢国王・大臣ノ身トモ↡、或ハ現ズ↢長者・居士ノ身ヲモ↡。凡ソ比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・天・竜・夜叉・乾闥婆・緊那羅乃至地獄・鬼・畜生・修羅、如↠是等一切ノ身、随テ↠宜ニ無シ↠不↠現。

これにつきて意こころ得うれば、 総そうじて六道ろくどう四し生しょう一切いっさいの凡ぼん聖しょうは、 しかしながら弥陀みだ如来にょらいの毫光ごうこうの所現しょげんかと疑うたがはるるものなり、 ただこの白びゃく毫ごうの一相いっそうのみにあらず、 総そうじて八万はちまん四し千せんの相そう、 一々いちいちにみなかくのごとく一切いっさいの身しんと現げんずるなり。 しかれば法界ほっかいのなかにはただ弥陀みだ一仏いちぶつの遍へんしたまへるなり。

就テ↠之得レバ↠意者、総ジテ六道四生一切ノ凡聖ハ、併ラ被ルヽ疑ハ↢弥陀如来之毫光ノ所現歟ト↡者ナリ也。非↢啻タヾ此ノ白毫ノ一相ノミニ↡、総ジテ八万四千ノ相、一一ニ皆如ク↠此ク現↢一切ノ身ト↡也。然バ法界ノ中ニハ但弥陀一仏之遍シ給ヘル也。

・第四七日 仏功徳 別徳 白毫体性

次つぎに白びゃく毫ごうの体たい性しょうとは、 ¬中ちゅう論ろん¼ (巻四観四諦品意) にいはく、 「因縁いんねん所しょ生しょう法ほう、 我が説即せつそく是ぜ空くう、 亦やく名みょう為い仮け名みょう、 亦やく是ぜ中ちゅう道どう義ぎ」 と。 以上

次ニ白毫ノ体性ト者、¬中論ニ¼云、「因縁所生法、我説即是空、亦名為仮名、亦是中0167道義」。已上

白びゃく毫ごうはすなはち因縁いんねん所しょ生しょうの法ほうなるがゆゑに、 その性しょうすなはち空くうすなはち仮けすなはち中ちゅうなり。 すなはち空くうのゆゑに因いんにあらず果かにあらず、 畢ひっ竟きょう空くう寂じゃくにして体用たいゆうあることなし。 すなはち仮けなるがゆゑに因いん果が・体用たいゆう万徳まんどく無む辺へんなり。 三さん世ぜの法門ほうもん一切いっさいの諸法しょほう、 ことごとく具ぐ足そくして欠かくることなし。 しかれば一切いっさいの諸仏しょぶつ・菩ぼ薩さつも、 一切いっさいの声しょう聞もん・縁覚えんがくも、 一切いっさいの地じ獄ごく・鬼き・畜ちくも、 一切いっさいの修しゅ羅ら・人にん・天てんも、 およそ百ひゃく界かい千如せんにょ三千さんぜん世せ間けん、 みなこの弥陀みだ白びゃく毫ごうの一相いっそうに備そなはりたり。

白毫ハ即チ因縁所生ノ法ナルガ故ニ、其ノ性即チ空即仮即チ中也。即空ノ故ニ非↠因ニ非↠果ニ、畢竟空寂ニシテ而無シ↠有コト↢体用↡。即仮ガ故ニ因果・体用万徳無辺也。三世ノ法門一切ノ諸法、悉ク具足シテ無↠欠クルコト。爾バ者一切ノ諸仏・菩薩モ、一切ノ声聞・縁覚モ、一切ノ地獄・鬼・畜モ、一切ノ修羅・人・天モ、凡ソ百界千如三千世間、皆備タリ↢此ノ弥陀白毫ノ一相ニ↡。

すなはち中ちゅう道どうなるがゆゑに有うにもあらず無むにもあらず、 具ぐ足そくにあらず具ぐ足そくせざるにもあらず、 因いんを離はなれ果かを離はなれ、 また因いん果がを離はなるるにもあらず、 体たいもなく用ゆうもなく、 また体用たいゆうなきのもあらず。 たとへば如にょ意い珠しゅのごとし。 ただこの白びゃく毫ごうの一相いっそうのみ空くう仮け中ちゅうを備そなふるにあらず、 余よの一々いちいちの諸相しょそうもみなこの三諦さんたいを具ぐす。

即チ中道ナルガ故ニ非ズ↠有ニモ非ズ↠無ニモ、非↢具足ニ↡非↠不ニモ↢具足↡、離レ↠因インヲ離↠果ヲ、亦不ズ離ニモ↢因果ヲ↡、無ク↠体モ無ク↠用モ、亦非↠無ニモ↢体用↡。譬バ如↢如意珠ノ↡。非↣啻此ノ白毫ノ一相ノミ備↢空仮中ヲ↡、余ノ一一ノ諸相モ皆具↢此ノ三諦ヲ↡。

ただこの弥陀みだ一仏いちぶつの功く徳どくのみ三諦さんたい円融えんゆうの義ぎを備そなへたるにあらず、 余よの一切いっさいの諸仏しょぶつもことごとく具ぐ足そくして円融えんゆう無礙むげなり。 また一切いっさいのもろもろの菩ぼ薩さつもみなことごとく備そなへたり。 またただ菩ぼ薩さつのみにあらず、 声しょう聞もん・縁覚えんがくもまたかくのごとし。 乃ない至し六趣ろくしゅ四し生しょうの上うえにも、 一々いちいちにみな三諦さんたいの妙みょう理りを備そなへずといふことなし。

非↣啻此ノ弥陀一仏ノ功徳ノミ備タルニ↢三諦円融ノ義ヲ↡、余ノ一切ノ諸仏モ悉具足シテ円融無礙ナリ也。又一切ノ諸ノ菩薩モ皆悉備タリ。又非↢啻菩薩ノミニ↡、声聞・縁覚モ亦如↠是。乃至六趣四生ノ之上ニモ、一一ニ皆無シ↠不云コト↠備↢三諦ノ妙理ヲ↡。

およそこの三諦さんたいの理りにおいては、 凡ぼん聖しょうたがひに備そなへ、 迷めい悟ごともに具ぐせり。 しかれば阿鼻あびの依え正しょうはまつたく極ごく聖しょうの自じ心しんに処しょし、 毘盧びるの身しん土どは凡ぼん下げの一念いちねんを越こえず。 これは天台てんだい宗しゅうの意こころなり。

凡ソ於テハ↢此ノ三諦ノ理ニ↡者、凡聖互ニ備ヘ、迷悟倶ニ具セリ。然バ者阿鼻ノ依正ハ全ク処↢極聖ノ自心ニ↡、毘盧ノ身土ハ不↠越↢凡下ノ一念ヲ↡。是ハ天臺宗ノ意ナリ也。

・第四七日 仏功徳 別徳 白毫利益

次つぎに白びゃく毫ごうの利り益やくとは、 ¬観仏かんぶつ三昧ざんまい経きょう¼ (巻二観相品) にいはく、 「この相そうを観かんずるものは、 九く十じゅう六億ろくおく那な由他ゆた恒ごう河が沙しゃ微み塵じん数劫しゅこうの生しょう死じの罪つみを除じょ却きゃくす」 といへり。 これすなはちかの三諦さんたいの観かんを具ぐせざるも、 ただ白びゃく毫ごうの相そうばかりを観かんずるに、 かくのごときの多た劫こうの罪つみを滅めっするなり。 あるいは白しろき糸いとを巻まき並ならべてこれを見みるに、 なほ業罪ごうざいを滅めっすといへり 云々。 これ恵え心しんの御おん意こころなり、 また経きょうの説せつなり。

次ニ白毫ノ利益トハ者、¬観仏三昧経ニ¼云ク、「観ル↢此ノ相ヲ↡者 ノハ、除↢却スト云リ九十六億那由他恒河沙微塵数劫ノ生死之罪ヲ↡。」是則不ルモ↠具↢彼ノ三諦ノ観ヲ↡、但観ルニ↢白毫ノ之相許リヲ↡、滅スル↢如ノ↠此ノ多劫之罪ヲ↡也。或ハ巻↢並テ白絲ヲ↡見ニ↠之、猶滅ト云リ↢業罪ヲ↡ 云云。此0168レ恵心ノ御意也、又経ノ説ナリ也。

白びゃく毫ごうの功く徳どく、 略りゃくを存ぞんずるにかくのごとし。 仏ぶつ、 螺ら髪ほつ・玉ぎょく毫ごうの二に相そうをもつて人ひとに殊ことなる事ことを顕あらわしたまへるなり。

白毫ノ功徳、存ズルニ↠略如シ↠斯ノ。仏以テ↢螺髪・玉毫ノ二相ヲ↡而顕ハシ↢人ニ於殊ナル事ヲ↡給ヘル也。

ただし人ひとのなかにも現身げんしんに肉髻にくけいの相そうを得えたる因縁いんねんの候そうろふなり。 天台てんだい宗しゅうの祖師そし南岳なんがく大だい師し法ほっ華け三昧ざんまいを行ぎょうじたまひし時とき、 普ふ賢げん菩ぼ薩さつ来きたりてその頂いただきを摩なでたまひしかば、 頂上ちょうじょうにたちまちに肉髻にくけいを生しょうぜりといふ事こと候そうろふなり。

但シ人ノ中ニモ現身ニ得タル↢肉髻ノ之相ヲ↡因縁ノ候ナリ也。天臺宗ノ祖師南岳大師行タマヒシ↢法華三昧ヲ↡之時、普賢菩薩来テ摩タマヒシカバ↢其頂ヲ↡者、頂上ニ忽ニ生ゼリト↢肉髻ヲ↡云事候也。

沙門しゃもん遵じゅん式しきはじめて般若はんにゃ三昧ざんまいを行ぎょうじて、 四し十じゅう九く日にちの間あいだ常行じょうぎょうして坐臥ざがせず。 しかる間あいだ病やまいを受うけて血ちを吐はくことはなはだ多おおし。 しかりといへども死しをもつてその期ごとして、 つひに退転たいてんせず。 道どう場じょうの四よつの角かどにおのおの灰はいを入いれたる鉢はちを置おきてその血ちを吐はき入いれ、 行ぎょう道どうすること止やめず。 時ときに夢ゆめのごとく幻まぼろしのごとく白びゃく衣えの観音かんのんを見みたてまつり、 指ゆびを敍のべて口くちの内うちより数す十じゅうの虫むしを取とり出いだしたまふ。 指ゆびの前さきより甘かん露ろを出いだしてその口くちに灑そそぎたまふ。 遵じゅん式しきたちまちに愈いえて身心しんしん清浄しょうじょうにして、 頂いただきより肉髻にくけいを出いだすこと一寸いっすん余よ、 またその声こえ高たかく出いづること前さきのごとし 云々。

沙門遵式始行テ↢般若三昧ヲ↡、四十九日之間常行シテ不ズ↢坐臥↡。然間受テ↠病ヲ吐クコト↠血甚多シ。雖↠爾ト以↠死ヲ為シテ↢其期ト↡、終ニ不↢退転↡。道場ノ之四ノ角ニ各ノ置テ↢入タル↠灰ヲ鉢ヲ↡吐キ↢入其ノ血ヲ↡、行道スルコト不↠止。于時ニ如ク↠夢如ク↠幻奉↠見↢白衣ノ観音ヲ↡、敍ノベテ↠指ヲ従↢口ノ内 チ↡取↢出シ数十ノ虫ヲ↡給フ。于従リ↢指ノ前 キ出シテ↢甘露ヲ↡灑ギ↢其ノ口ニ↡給。遵式忽ニ愈テ身心清浄ニシテ、自リ↠頂出コト↢肉髻ヲ↡一寸余、又其ノ声高出コト如↠前也 云云。

かの遵じゅん式しきは、 これ逆げき修しゅうの間あいだ日々にちにちに行おこなはれ候そうろふ ¬懺願さんがん儀ぎ¼ の作者さくしゃなり。 人ひとにつきてもおのづからかやうの不ふ思議しぎの事こと候そうらへども、 これは別縁べつえんの事ことなり、 常つねの事ことにはあらず。 その螺ら髻きつ・玉ぎょく毫ごうの外ほかは、 人ひとも六根ろっこんを具ぐせり、 仏ぶつも六根ろっこんを具ぐしたまへり。 その相そうみなかくのごとし。 ただし勝しょう劣れつの差しゃ別べつ・好醜こうしゅの不ふ同どうばかりなり。 ただしその勝しょう劣れつ・好醜こうしゅ見み交まがふべくもなし、 懸隔けんかくにや候そうろふらん。

彼遵式ハ、此 レ逆修ノ間日日ニ被↠行ハ候¬懺願儀¼之作者ナリ也。付テモ↠人ニ自ヲ 加様ノ不思議ノ事候ヘドモ、此 レハ別縁ノ事ナリ也、非↢常ノ事ニハ↡。其ノ螺髻・玉毫ノ外ハ、人モ具セリ↢六根ヲ↡、仏モ具シ↢六根ヲ↡給ヘリ。其ノ相皆如↠此。但シ勝劣ノ差別・好醜ノ不同計ナリ也。但シ其ノ勝劣・好醜無シ↠可クモ↢見ミ交マガウ↡、懸隔ニヤ候覧。

およそ仏ぶつの力用りきゆうは不ふ思議しぎの事こととは申もうしながら、 釈しゃ迦か如来にょらい ¬法華ほけ経きょう¼ の本ほん迹じゃく二に門もんを説ときおはりて後のち、 丈じょう六ろくの御おん身みながら、 しかも三千さんぜん大千だいせん世せ界かいのなかに充じゅう満まんしたる一切いっさいの諸しょ菩ぼ薩さつの頂いただきを、 一々いちいちに摩なでたまふ事こと三み度たびしたまひけんこそ、 心こころも語ことばも及およばれ候そうらはね。 丈じょう六ろくの身みなほしかり、 いはんや弥陀みだ如来にょらいの六ろく十じゅう万億まんおく那な由他ゆた恒ごう河が沙しゃ由ゆ旬じゅんの御おん身みをや。 仏ぶつの功く徳どく、 大概たいがいかくのごとし。

凡ソ仏ノ力用ハ不思議ノ事トハ乍↠申シ、釈迦如来説キ↢¬法華経ノ¼本迹二門ヲ↡竟テ後、乍↢丈六ノ御身↡、而モ充↢満シタル三千大千世界ノ中ニ↡之一切ノ諸菩薩ノ頂ヲ、一一ニ摩給フ事三度シ給ケンコソ、被↠及↢心モ語モ↡候ハネ。丈六ノ身尚爾リ、況ヤ弥陀如来0169ノ六十万億那由他恒河沙由旬ノ御身ヲヤ耶。仏ノ功徳、大概如↠此。

・第四七日 観経

△次つぎに ¬観かん無む量りょう寿じゅ経きょう¼ とは、 この ¬経きょう¼ には定じょう散さん二に門もんを説ときて、 往おう生じょうの行ぎょう業ごうを明あかす。 いはゆる三福さんぷく九く品ぼんの散善さんぜん、 十じゅう三さんの定じょう善ぜんなり。

次ニ¬観無量寿経トハ¼者、此¬経ニハ¼説テ↢定散二門ヲ↡、明↢往生ノ行業ヲ↡。所謂ル三福九品ノ之散善、十三之定善也。

まづ三福さんぷくとは、 ¬経きょう¼ (観経) にいはく、 「一者いっしゃ孝きょう養よう父母ぶも」。 云々 「二に者しゃ受じゅ持じ三さん帰き」。 云々 「三者さんしゃ発ほつ菩ぼ提だい心しん」。 云々

▲先ヅ三福トハ者、¬経ニ¼云、「一者孝養父母。」云云 「二者受持三帰。」云云 「三者発菩提心。」云云

・第四七日 観経 孝養父母

△「孝きょう養よう父母ぶも」 とは、 世せ間けん・出しゅっ世せの二にの孝きょう養ようあるべし。

「孝養父母トハ」者、可シ↠有ル↢世間・出世二ノ孝養↡。

・第四七日 観経 孝養父母 世間孝養

世せ間けんの孝きょう養ようとは、 俗ぞく家けに言いふところの ¬孝こう経きょう¼ 等とうに説とけるこれなり。 「身体しんたい髪はっ膚ぷ父母ぶもに受うけたり、 あへて毀そこなひ傷やぶらざるを孝こうの始はじめとするなり」 と。 身体しんたい髪はっ膚ぷ父母ぶもに受うくとは、 いまこれをもつて意こころ得うるに二義にぎあり。

世間ノ孝養トハ者、俗家ニ所ノ↠言¬孝経¼等ニ説ル是ナリ也。「身体髪膚受タリ↢于父母ニ↡、不ルヲ↢敢テ毀ソコナヒ傷ヤブラ↡孝ノ始也。」身体髪膚受トハ↢父母ニ↡者、今以↠之意得ニ有↢二義↡。

一いちには人ひとの懐妊かいにんの後のち、 われいかなるものをか妊はらみたるらん、 人ひとにあらざるものにてもやあるらんと様々さまざまに不審いぶかしく覚おぼゆるべき事ことにて候そうろふ。 はじめて生うまれたるを見みれば、 身体しんたい髪はっ膚ぷ父母ぶもに違たがふことなし。 毀そこなひ傷やぶりたる事ことなくて正ただしき子こにてある時とき、 父母ぶもの心こころを悦よろこばしむるゆゑに、 これをもつて孝きょう養ようの始はじめとは申もうすにやと覚おぼへ候そうろふ。

一ニハ人ノ懐妊ノ後、我 レ妊ハラミタル↢何ナル物ヲカ↡覧ラン、有ラント↢不↠人ニアラ物ニテモヤ↡様々ニ不審ク可キ↠覚事ニテ候。初テ見レバ↠生タルヲ者、身体髪膚無シ↠違フコト↢父母ニ↡。無クテ↢毀傷タル事↡有ル↢正タヾシキ子ニテ↡之時 キ、令ムル↠悦↢父母ノ心ヲ↡故ニ、以テ↠之申ニヤト↢孝養ノ始トハ覚ヘ候。

二にには人ひとの身みはしかしながら父母ぶもの身体しんたいなり。 この身みを悪あしくして打うちも損そんじ、 あるいは人ひとと口論こうろんをなして切きり突つかれ、 あるいは不治ふじに振ふる舞まひて病やまいにつき、 かくのごときものはもつぱらに父母ぶもを傷やぶるなり。 しかればこの身みを全まっとうじて、 わが身みは父母ぶもの身分しんぶんなれば構かまへて毀そこなひ傷やぶらじと思おもふを、 孝きょう養ようの始はじめと申もうすかと覚おぼへ候そうろふ。

二ニハ人ノ身ハ併ラ父母ノ之身体也。此ノ身ヲ悪シテ而打モ損ジ、或ハ与ト↠人為シテ↢口論ヲ↡被↢切リ突ツカ、或ハ不治ニ振舞テ付キ↠病、如↠此ノ者 ノハ専ニ傷ル↢父母ヲ↡也。然バ者全ジテ↢此ノ身ヲ↡、我身ハ父母ノ身分ナレバ者思フヲ↣構ヘテ不ジト↢毀傷↡、申ス↢孝養ノ始ト↡歟ト覚ヘ候。

身みを立たてて道どうを行おこなふとは、 おのが家いえに随したがひておのおの学まなび、 学まなび習ならふべき道みちを行おこなひて、 名なを揚あげ徳とくを開ひらきて身みを朝ちょう廷ていに仕つかへ、 誉ほまれを四し海かいに施ほどこして、 これはその人ひとの子こぞといはれて父母ぶもの名なを顕あらわすを、 孝きょう養ようの終おわりとは申もうすなり。

立テ↠身ヲ行トハ↠道ヲ者、随↢己ガ家ニ↡各学ビ、行テ↧可キ↢学ビ習フ↡之道ヲ↥、揚アゲ↠名ヲ開テ↠徳ヲ仕ヘ↢身ヲ朝廷ニ↡、施シテ↢誉ヲ四海ニ↡、被レテ↠云ハ↢是ハ其ノ人ノ之子ゾト↡顕ハスヲ↢父母ノ名ヲ↡、申ス↢孝養ノ終トハ也。

¬孝こう経きょう¼ には五ご等とうの孝きょう養ようを挙あげたり。 すなはち天てん子し・諸しょ侯こう卿きょう・大だい士し・士し・庶人しょにんなり。 また水すい菽しょうの孝きょう養ようあり。 これは薪たきぎを採とり水みずを結むすび、 菜なを捻つみ菓かを拾ひろひて、 朝ちょう暮ぼに父母ぶもを養やしなへる孝きょう養ようなり。 また顔色げんしきの孝きょう養ようあり。 これ父母ぶもの顔かおを守まもりて、 その趣おもむきに随したがひて何事なにごとも心こころに違たがはざるなり。 孔こう子し (論語) のいはく、 「色いろ難かたし」 と。 これみな世せ間けんの孝きょう養ようなり。

¬孝経ニハ¼挙タリ↢五等ノ孝養ヲ↡。則チ天子・諸侯卿・大士・士・庶人也。又有リ↢水菽シヤウ孝養↡。是ハ採トリ薪ヲ結ビ↠水ヲ、捻ツミ菜ヲ拾ヒテ↠菓ヲ、朝暮0170ニ養ヘル↢父母ヲ↡孝養也。又有リ↢顔色ノ孝養↡。是 レ守テ↢父母ノ顔ヲ↡、随テ↢其ノ趣ニ↡何事モ不ル↠違ハ↠心ニ也。孔子曰、「色難ト。」是 レ皆世間ノ孝養也。

・第四七日 観経 孝養父母 出世孝養

次つぎに出しゅっ世せの孝きょう養ようとは、 「流る転てん三界さんがい中ちゅう、 恩愛おんない不ふ能断のうだん、 恩おんを棄すて無為むいに入いる、 真実しんじつ報恩ほうおん者しゃ」 と申もうして、 父ちちの道みちをも継つがず、 母ははの心こころにも随したがはず、 水すい菽しょうの志こころざしをも運はこばず、 顔色げんしきの趣おもむきをも守まもらずしてあるいは山林せんりんにも交まじわり、 あるいは蘭若らんにゃにも住じゅうして仏道ぶつどうを修しゅ行ぎょうするものは、 当とう時じの思おもわくは恩おんを知しらず徳とくを忘わすれたるに似にたれども、 しばらく有漏うろの恩徳おんどくを棄すてて、 つひに無為むいの報謝ほうしゃを求もとむるなり。 これを真実しんじつの孝きょう養ようとは申もうすなり。

次ニ出世ノ孝養トハ者、「流転三界中、恩愛不能断、棄↠恩入↢無為↡、真実報恩者ト」申テ、不↠継ツガ↢父ノ道ヲモ↡、不↠随↢母心ニモ、不↠運バ↢水菽ノ之志ヲモ↡、不ズシテ守ラ↢顔色ノ之趣ヲモ↡而或ハ交リ↢山林ニモ↡、或ハ住シテ↢蘭若ニモ↡修↢行スル仏道ヲ↡者 ノハ、当時ノ思ヲモハクハ者似レドモ↢不↠知↠恩ヲ忘タルニ↟徳ヲ、暫ク棄ステヽ↢有漏ノ恩徳ヲ↡、終ニ求ル↢無為ノ報謝ヲ↡也。是ヲ申ス↢真実ノ孝養トハ↡也。

ゆゑに ¬心しん地じ観かん経ぎょう¼ にいはく、 「もし人ひと父母ぶもの恩おんを報ほうぜんと欲おもはば、 父母ぶもに代かわりて誓願せいがんを発おこして、 阿あ蘭若らんにゃ菩ぼ提だいの場ばに入いりて昼ちゅう夜やにつねに妙みょう道どうを修しゅすべし」 と。 云々 また出しゅっ世せにも身みを立たて道どうを行おこなふ義ぎあるべし。 智ち行ぎょう内うちに積つもり、 名みょう徳とく外ほかに顕あらわれて、 三蔵さんぞうの法ほっ師し・禅ぜん師じ・律りっ師しなんどいはるるは、 すなはちその意こころなり。 あるいは羅ら什じゅう三蔵さんぞう・玄げん奘じょう三蔵さんぞうともいはれ、 南岳なんがく大だい師し・天台てんだい大だい師しともいはるる、 すなはちこれなり。

故ニ¬心地観経ニ¼云ハク、「若シ人欲ハヾ↠報ント↢父母ノ恩ヲ↡、代テ↢於父母ニ↡発シテ↢誓願ヲ↡、入テ↢阿蘭若菩提場ニ↡昼夜ニ常ニ修ベシ↢於妙道ヲ↡。」云云 又出世ニモ可↠有↢立↠身ヲ行フ↠道ヲ義↡。智行内ニ積リ、名徳外ニ顕テ、被ル↠云ハ↢三蔵法師・禅師・律師ナンド↡、即其ノ意ナリ也。或ハ被レ↠云ハ↢羅什三蔵・玄奘三蔵トモ↡、被↠云↢南岳大師・天臺大師トモ↡、即是也。

また出しゅっ世せの孝きょう養ようは、 かならず父母ぶもを棄すつべしといふ事ことも候そうらはず。 すなはち律りつのなかに生しょう縁えん奉事ぶじの法ほうあり。 いはく 「父ちちの貧まずしからんものをば寺てらの内うちに置おきこれを養やしなふも、 母ははの貧まづしからんものをば寺てらの外ほかに置おきてこれを養やしなふ」 といへり。 云々 かれもこれも人ひとの意い楽ぎょうに随したがひて時ときのよろしきによるべきなり。 ¬梵網ぼんもう経きょう¼ (巻下意) にも「父母ぶも・師し僧そうに孝順きょうじゅんするを戒かいと名なづく」 と説とけり。

又出世ノ孝養ハ、必可ト↠棄スツ↢父母ヲ↡云事モ不ズ↠候ハ也。即律ノ中ニ有リ↢生縁奉事ノ法↡。謂ク「父ノ貧カラン者ヲバ置キ↢寺ノ内ニ↡養モ↠之ヲ、母ノ貧シカラン者ヲバ置テ↢寺ノ外ニ↡養ト云ヘリ↠之ヲ。」云云 彼モ此モ随テ↢人ノ意楽ニ↡可↠依↢時ノ宜ニ↡也。¬梵網経ニモ¼説ケリ↧「孝↢順スルヲ父母・師僧↡名ト↞戒ト」矣。

如来にょらい在ざい世せの時とき外げ道どうあり、 名なづけて須跋しゅばっ陀だといふ、 ながく仏法ぶっぽうに帰きせず。 しかるに仏ぶつ阿あ難なん尊者そんじゃを遣つかはして、 須跋しゅばっ陀だを召めしに遣つかはす。 そのゆゑは阿あ難なん過去かこに五ご百ひゃく世せの間あいだ、 須跋しゅばっ陀だが子こと生うまれたることあり。 その因縁いんねんによりて阿あ難なんの教きょう化けに随したがふべきゆゑなり。 阿あ難なん仏ぶっ勅ちょくを承うけて須跋しゅばっ陀だを誘いざなひて、 具ぐして仏ぶつの所みもとに詣もうでて仏ぶつの所説しょせつを聞きかしむるに、 すなはち解さとりを開ひらきたりといふ因縁いんねんの候そうろふなり。

如来在世ノ時有↢外道↡、名テ曰フ↢須跋陀ト↡、永ク不↠帰↢仏法ニ↡。然ニ仏遣シテ↢阿難尊者ヲ↡、遣ハス↠召シニ↢須跋陀ヲ↡。其ノ故ハ阿難過去ニ五百世ノ間 ダ、有リ↠生タルコト↢須跋陀ガ子ト↡。依テ↢其因縁ニ↡可キ↠随フ↢阿難ノ教化ニ↡故0171也。阿難承テ↢仏勅ヲ↡誘テ↢須跋陀ヲ↡、具シテ詣テ↢仏ノ所 トニ令ルニ↠聞カ↢仏ノ所説ヲ↡、即開タリト↠解ヲ云因縁ノ候也。

これをもつて思おもふにも、 同おなじ善ぜん知ぢ識しきと申もうせども、 父母ぶもの間あいだは宿しゅく縁えん深ふかきによりて易やすかるべきにこそ、 教きょう化けにも随したがひ候そうろふめれ。 しかるに大だい法主ほっしゅ禅門ぜんもん、 ひとへに一人ひとりの孝こう子し大徳だいとくのために勧すすめられて、 深ふかく往おう生じょう浄じょう土ど門もんに入いりたまへる事ことも、 あはれに思おもひ合あはされ候そうろふなり。

以テ↠之ヲ思ニモ、同ジ善知識ト申セドモ、父母ノ之間ハ籍テ↢宿縁深ニ↡可キニコソ↠易カル、随ヒ↢教化ニモ↡候メレ。而ニ大法主禅門、偏ニ為ニ↢一人ノ孝子大徳ノ↡被レテ↠勧メ、深ク入リタマヘル↢往生浄土門ニ↡事モ、哀レニ被↢思ヒ合↡候也。

・第四七日 観経 奉事師長

△奉事ぶじ師し長ちょうとは、 これにまた世せ間けんの師しあり出しゅっ世せの師しあり。

奉事師長トハ者、此ニ又有↢世間ノ師↡有↢出世ノ師↡。

・第四七日 観経 奉事師長 世間師

世せ間けんの師しとは、 仁じん・義ぎ・礼れい・智ち・信等しんとうをも教おしへ、 乃ない至し道々みちみちに随したがひて記き伝でん・明経めいけい・医い道どう・陰陽いんよう道等どうとう、 これらを教おしふる師しなり。 これにおいて孝順きょうじゅん給きゅう仕じする事こと、 父母ぶものごとくするなり。 世よに三尊さんぞんあり。 いはく父ぶ・師し・君くんなり。 「人にん中ちゅうにある、 これに仕つかへんこと一いちのごとくすべし」 といへるこれなり。

世間師トハ者、教ヘ↢仁・義・礼・智・信等ヲモ↡、乃至随テ↢道々ミチミチ↡記伝・明経・医道・陰陽道等、教フル↢此等ヲ↡之師也。於テ↠之ニ孝順給仕スル事、如スル↢父母ノ↡也。世ニ有リ↢三尊↡。謂ク父・師・君也。云ル↧「在ル↢人中ニ↡、仕ヘンコト↠之ニ如スベシト↞一ノ↡」是也。

・第四七日 観経 奉事師長 出世師

出しゅっ世せの師しとは、 生しょう死じを出いでて菩ぼ提だいに趣おもむくべき道どうを教おしふる師しなり。 あるいは聖しょう道どうの得道とくどうを訓おしへ、 あるいは浄じょう土どの往おう生じょうを教おしふるなり。 おのおの宗しゅうに随したがひて天台てんだい・真言しんごん・三論さんろん・法相ほっそう等とうをも教おしへたらん師しなり。 かくのごとく出しゅつ離り生しょう死じ・成じょう仏ぶつ得脱とくだつの道どうを教おしへたる師し僧そうの恩おんは、 父母ぶもの恩おんにも勝すぐれたり。 ゆゑに道宣どうせん律りっ師し (浄心誡観巻下) 「父母ぶもは七しち生しょう、 師し僧そうは累劫るいこう、 愚ぐ者しゃ知しることなし」 といへり。

出世ノ師トハ者、教フル↩可キ↧出テ↢生死ヲ↡趣↦菩提ニ↥之道ヲ↨師也。或ハ訓ヘ↢聖道ノ之得道ヲ↡、或ハ教ル↢浄土ノ之往生ヲ↡也。各随テ↠宗教ヘタラン↢天臺・真言・三論・法相等ヲモ↡師也。如ク↠是教タル↢出離生死・成仏得脱ノ之道ヲ↡師僧之恩ハ、勝タリ↢父母ノ恩ニモ↡。故ニ道宣律師云ヘリ↢「父母ハ七生、師僧ハ累劫、愚者無ト↟知コト」矣。

沙しゃ弥み道衍どうえんといふものありき、 師し僧そうに奉事ぶじして往おう生じょうを遂とげたる人ひとなり。 仏ぶつの外ほかは大だい羅ら漢かんに至いたるまで、 具ぐ足そく戒かいを受うけたる僧そうをばこれを使つかはざるゆゑに、 道衍どうえんは一いっ生しょう涯がいの間あいだ具ぐ足戒そくかいを受うけずして、 始し終じゅう師しに仕つかへる、 その功く徳どくによりて往おう生じょうを得えたりと伝でん記きに見みえて候そうろふなり。 また舎しゃ利り弗ほつの弟子でしに均提きんだい沙しゃ弥みといふものあり、 また師しに事つかへんがために具ぐ足戒そくかいを受うけざる人ひとにて候そうらひき。

有リキ↢沙弥道衍ト云者 ノ↡、奉↢事シテ師僧ニ↡遂タル↢往生ヲ↡人ナリ也。仏ノ外ハ至マデ↢大羅漢ニ↡、受タル↢具足戒ヲ↡僧ヲバ不ル↠使ツカハ↠之ヲ故ニ、道衍ハ一生涯ノ間 ダ不シテ↠受↢具足戒ヲ↡、始終仕ヘル↠師ニ、依テ↢其ノ功徳ニ↡得タリト↢往生ヲ↡見テ↢伝記ニ↡候也。又舎利弗ノ弟子ニ有リ↢均提沙弥ト云者 ノ↡、亦為ニ↠事ツカヘンガ↠師ニ不ザル↠受↢具足戒ヲ↡人ニテ候キ矣。

・第四七日 観経 慈心不殺

△「慈じ心しん不ふ殺せつ」 とは、 四し無む量りょう心しんのなかのはじめの慈じ無む量りょうなり。 すなはちはじめの一戒いちかいを挙あげて後のちの三さんをば摂せっするなり。 慈じ無む量りょうとは楽らくを与あたへ、 悲ひ無む量りょうとは苦くを救すくふなり。 喜き無む量りょうとは抜ばっ苦く与よ楽らくを見みて喜よろこぶなり。 捨しゃ無む量りょうとは不喜ふき不苦ふくなり。

「慈心不殺トハ」者、四無量心ノ中ノ初ノ慈無量也。即挙テ↢初ノ一戒ヲ↡摂スル↢後ノ三ヲバ↡也0172。慈無量トハ者与ヘ↠楽ヲ、悲無量トハ者救↠苦也。喜無量トハ者見テ↢抜苦与楽↡而喜也。捨無量トハ者不喜不苦ナリ也。

・第四七日 観経 修十善業

△修しゅ十じゅう善業ぜんごうとは、 一いちには不ふ殺せっ生しょう、 二にには不ふ偸ちゅう盗とう、 三さんには不ふ邪婬じゃいん、 四しには不ふ妄もう語ご、 五ごには不ふ綺語きご、 六ろくには不ふ悪あっ口く、 七しちには不ふ両りょう舌ぜつ、 八はちには不ふ貪とん、 九くには不ふ瞋しん、 十じゅうには不ふ邪見じゃけんなり。

修十善業トハ者、一ニハ者不殺生、二ニハ者不偸盗、三ニハ者不邪婬、四ニハ者不妄語、五ニハ者不綺語、六ニハ者不悪口、七ニハ者不両舌、八ニハ者不貪、九者不瞋、十者不邪見也。

天台てんだいの意こころは、 四し教きょうの四し無む量りょうならびに十じゅう善業ぜんごうあるべし。 また真言しんごん宗しゅうを加くわへては、 五ご種しゅの四し無む量りょうならびに十じゅう善業ぜんごうあるべし。 事じ相そう同様どうようなれども、 観心かんじんの浅深せんじんによりてかくのごときの不ふ同どうあるなり。

天臺ノ意、可シ↠有ル↢四教ノ之四無量并ニ十善業↡。又加テハ↢真言宗ヲ↡者、可↠有↢五種ノ之四無量并ニ十善業↡。事相同様ナレドモ、依テ↢観心ノ浅深ニ↡有↢如ノ↠是ノ不同↡也。

・第四七日 観経 受持三帰

△受じゅ持じ三さん帰きとは、 仏法ぶっぽう僧そうに帰依きえするなり。 これに多あまたの三さん帰きあり。 いはゆる翻邪ほんじゃの三さん帰き、 八戒はっかいの三さん帰き、 乃ない至し声しょう聞もん戒かいの三さん帰き、 菩ぼ薩さつ戒かいの三さん帰き等とうなり。 大おおきに分わかちては二にを出いでず。 一いちには大だい乗じょうの三さん帰き、 二にには小乗しょうじょうの三さん帰きなり。

受持三帰トハ者、帰↢依スルナリ仏法僧ニ↡也。此 レニ有↢多アマタノ三帰↡。所謂ル翻邪ノ三帰、八戒ノ三帰、乃至声聞戒ノ三帰、菩薩戒三帰等也。大ニ分テハ不↠出↠二ヲ。一ニハ者大乗ノ三帰、二ニハ者小乗ノ三帰也。

・第四七日 観経 具足衆戒

△具ぐ足そく衆戒しゅかいとは、 天台てんだいの意こころは、 二にの具ぐ足そく戒かいあり。 いはく大だい乗じょうの具ぐ足そく戒かい、 小乗しょうじょうの具ぐ足そく戒かいなり。 大だい乗じょうは ¬梵網ぼんもう¼ によりて五ご十じゅう八戒はっかいを持たもつなり。 小乗しょうじょうは ¬四し分ぶん¼・¬五ご分ぶん¼・¬十じゅう誦じゅ¼・¬僧そう祗ぎ¼ 等とうの小乗しょうじょう律りつによりて、 比丘びくは二に百ひゃく五ご十戒じっかいを持たもち、 比丘びく尼には五ご百ひゃく戒かいを持たもつなり。

具足衆戒者、天臺ノ意ハ者、有リ↢二ノ具足戒↡。謂ク大乗ノ具足戒、小乗ノ具足戒也。大乗ハ依テ↢¬梵網ニ¼持↢五拾八戒ヲ↡也。小乗ハ依テ↢¬四分¼・¬五分¼・¬十誦¼・¬僧祗¼等ノ小乗律ニ↡、比丘ハ持↢二百五十戒ヲ↡、比丘尼ハ持ツ↢五百戒ヲ↡也。

・第四七日 観経 不犯威儀

△不ふ犯ぼん威儀いぎとは、 これまた大だい乗じょうの威儀いぎあり小乗しょうじょうの威儀いぎあり。 大だい乗じょうには八万はちまんの威儀いぎ、 小乗しょうじょうは三千さんぜんの威儀いぎなり。

不犯威儀トハ者、是 レ亦有↢大乗ノ威儀↡有↢小乗ノ威儀↡。大乗ニハ八万ノ威儀、小乗ハ三千ノ威儀也。

・第四七日 観経 発菩提心

△発ほつ菩ぼ提だい心しんとは、 諸しょ師しの意こころ不ふ同どうなり。 天台てんだいには四し教きょうの菩ぼ提だい心しんあり。 いはく蔵ぞう・通つう・別べつ・円えんこれなり。 つぶさには ¬止し観かん¼ に説とくがごとし。 ただし蔵通ぞうつう二に教きょうの菩ぼ提だい心しんは往おう生じょうすべからず。 真言しんごん宗しゅうに三種さんしゅの菩ぼ提だい心しんあり。 いはく行ぎょう願がん・勝しょう義ぎ・三さん摩地まじこれなり。 つぶさには ¬菩ぼ提だい心論しんろん¼ に説とくがごとし。 華け厳ごんにまた菩ぼ提だい心しんあり。 かの ¬菩ぼ提だい心しん義ぎょう¼ および ¬遊心ゆうしん安楽あんらく道どう¼ 等とうに説とくがごとし。 また善導ぜんどう所しょ釈しゃくの菩ぼ提だい心しんあり。 つぶさには ¬観かん経ぎょうの疏しょ¼ に宣のぶるがごとし。 およそ発ほつ菩ぼ提だい心しんの句くはその言ことば一いちなりといへども、 おのおの諸しょ宗しゅうに望のぞむればその義ぎ不ふ同どうなり。

発菩提心トハ者、諸師ノ意不同也。天臺ニハ有↢四教ノ菩提心↡。謂ク蔵・通・別・円是ナリ也。具ニハ如↢¬止観ニ¼説ガ↡。但シ蔵通二教ノ菩提心ハ不↠可↢往生↡。真言宗ニ有↢三種ノ菩提心↡。謂ク行願・勝0173義・三摩地是ナリ也。具ニハ如↢¬菩提心論ニ¼説ガ↡。華厳亦有↢菩提心↡。如↢彼ノ¬菩提心義¼及ビ¬遊心安楽道¼等ニ説ガ↡。又有↢善導所釈ノ菩提心↡。具ニ如↢▲¬観経ノ疏ニ¼宣ルガ↡。凡ソ発菩提心ノ句ハ其ノ言雖↠一ナリト、各望レバ↢諸宗ニ↡其ノ義不同也。

・第四七日 観経 深信因果

△深信じんしん因いん果がとは、 これにつきて二にあり。 一いちは世せ間けんの因いん果が、 二には出しゅっ世せの因いん果が。 世せ間けんの因いん果がとは、 すなはち六道ろくどうの因いん果がなり。 ¬正しょう法ぼう念ねん経ぎょう¼ に説とくがごとし。 出しゅっ世せの因いん果がとは、 すなはち四し聖しょうの因いん果がなり。 もろもろの大だい小乗しょうじょう経きょうに説とくがごとし。 もしこの因いん果がの二に法ほうをもつてあまねく諸しょ経きょうを摂せっせば、 諸しょ宗しゅうの義ぎ不ふ同どうなり。 しばらく天台てんだいによれば、 いはく ¬華け厳ごん経ぎょう¼ には仏ぶつ・菩ぼ薩さつ二に種しゅの因いん果がを説とき、 ¬阿あ含ごん経ぎょう¼ には声しょう聞もん・縁覚えんがくの二に乗じょうの因いん果がを説ときて、 もろもろの方等ほうどうの諸しょ経きょうには四し乗じょうの因いん果がを説とき、 般若はんにゃの諸しょ経きょうには通つう・別べつ・円えんの因いん果がを説とき、 ¬法華ほけ経きょう¼ にはただ仏ぶつの因いん果がを説とき、 ¬涅ね槃はん経ぎょう¼ にはまた四し乗じょうの因いん果がを説とくなり。 しかるにこの深信じんしん因いん果がの言ことばのなかにあまねく一代いちだいの聖教しょうぎょうを摂せっするなり。

深信因果トハ者、付テ↠之有↠二。一世間ノ因果、二ハ出世因果。世間因果トハ者、即六道ノ因果也。如↢¬正法念経ニ¼説ガ↡。出世ノ因果トハ者、即四聖ノ因果也。如↢諸ノ大小乗経ニ説ガ↡。若以テ↡此ノ因果ノ二法ヲ↡遍ク摂バ↢諸経↡者、諸宗ノ義不同也。且ク依バ↢天臺ニ↡者、謂ク¬華厳経ニハ¼説↢仏・菩薩二種ノ因果ヲ↡、¬阿含経ニハ¼説シテ↢声聞・縁覚ノ二乗ノ因果ヲ↡、諸ノ方等ノ諸経ニハ説↢四乗因果ヲ↡、般若ノ諸経ニハ説↢通・別・円ノ因果ヲ↡、¬法華経ニハ¼但説↢仏ノ因果ヲ↡、¬涅槃経ニハ¼又説↢四乗ノ因果ヲ↡也。然ニ此ノ深信因果ノ言ノ中ニ遍ク摂↢一代ノ聖教ヲ↡也。

深ふかくこの世せ間けん・出しゅっ世せの二に種しゅの因いん果がを信しんずるものは、 余よの行ぎょうなしといへども往おう生じょうすべきなり。 もしこの因いん果がにおいて疑ぎ謗ほうを起おこすものは、 ただ往おう生じょうせざるのみにあらず、 悪道あくどうに堕だすべし。 法相ほっそう宗しゅうの学がく生しょう新羅しらぎ国こくの順じゅん璟けい法ほっ師しは、 ¬華け厳ごん¼ (晋訳巻八梵行品) の 「初しょ発心ほっしん時じ便べん成じょう正しょう覚がく」 の文もんの意こころを誹ひ謗ほうして、 たちまちに大だい地じ破は烈れつして即身そくしんに地じ獄ごくに堕だしたり。 その穴あないまにあり、 人ひと (宋高僧伝巻四) これを 「順じゅん璟けいが奈洛なら迦か」 といふと。 云々。これすなはち仏ぶつの因いん果がを信しんぜずして誹ひ謗ほうせしがゆゑに、 地じ獄ごくに堕だしたる人ひとなり。 あはれむべしおそるべし 云々。

深ク信ズル↢此ノ世間・出世二種ノ因果ヲ↡者 ノハ、雖↠無↢余ノ行↡可キ↢往生↡也。若シ於↢此ノ因果ニ↡起ス↢疑謗ヲ↡者 ノハ、非↣啻タヾ不ノミ↢往生↡、可シ↠堕↢悪道ニ↡。法相宗ノ学生新羅国ノ順璟法師ハ、誹↢謗シテ¬華厳ノ¼「初発心時便成正覚ノ」之文ノ意ヲ↡、忽ニ大地破烈シテ即身ニ堕タリ↢地獄ニ↡。其ノ穴宇今ニ在リ、人是ヲ云ト↢「順璟ガ之奈洛迦ト」云云。是則不↠信ゼ↢仏ノ因果ヲ↡而誹謗セシガ故ニ、堕↢地獄↡人也。可シ↠哀可↠畏云云。

・第四七日 観経 読誦大乗

△読誦どくじゅ大だい乗じょうとは、 別べっして一いっ経きょう・二に経きょうに限かぎらず、 広ひろくもろもろの大だい乗じょうを摂せっす。 また経きょうのみに限かぎらず、 総そうじて大だい乗じょうの経きょう律論りつろんにおいてみな受じゅ持じ・読誦どくじゅするは、 往おう生じょうの業ごうなり。 ただ総すべて大だい乗じょうといふがゆゑなり。 また顕密けんみつともにこの大だい乗じょうの一いっ句くに摂せっするなり。 ¬貞元ていげん入にゅう蔵ぞうの録ろく¼ に大だい乗じょう目録もくろくのなかに同おなじく顕密けんみつの諸しょ大だい乗じょうを列つらねてそのなかに入いれたるたるがゆゑなり。

読誦大乗トハ者、別シテ不↠限↢一経・二経0174ニ↡、広ク摂ス↢諸ノ大乗ヲ↡。又不↠限↠経ノミニ、総ジテ於テ↢大乗ノ経律論ニ↡皆受持・読誦スルハ者、往生ノ業也。但総テ云ガ↢大乗↡故也。又顕密倶摂↢此ノ大乗ノ一句ニ↡也。¬貞元入蔵ノ録ニ¼大乗目録ノ中ニ同ク列ネテ↢顕密ノ諸大乗ヲ↡入タルガ↢其中ニ↡故也。

読誦どくじゅはつぶさにいはば受じゅ持じ・読誦どくじゅ・解げ説せつ・書写しょしゃ等とうといふべし。 いますなはち五ご種しゅの法ほっ師しのなかに略りゃくして転読てんどく・諷ふ誦じゅの二に種しゅの法ほっ師しを顕あらわすなり。 もし十種じっしゅの法ほっ師しに約やくせば、 しばらく披ひ読どく・諷ふ誦じゅの二に種しゅの法ほっ師しを顕あらわすなるべし。 すなはち往おう生じょうを願ねがはん人ひと、 かの顕密けんみつの諸しょ大だい乗じょう経きょうにおいて受じゅ持じ・読誦どくじゅ等とうの行ぎょうを修しゅすべきなり。

読誦ハ具サニ云ハヾ者可↠云↢受持・読誦・解説・書写等ト↡。今則五種法師ノ中ニ略シテ顕↢転読・諷誦ノ二種ノ法師ヲ↡也。若シ約バ↢十種ノ法師ニ↡者、且ク可シ↠顕スナル↢披読・諷誦ノ二種法師ヲ↡。則願ハン↢往生ヲ↡人、於↢彼ノ顕密ノ諸大乗経ニ↡可キ↠修ス↢受持・読誦等ノ行ヲ↡也。

・第四七日 観経 勧進行者

△勧進かんじん行ぎょう者じゃとは、 道どう綽しゃくの御おん意こころによらば、 聖しょう道どうの行ぎょう者じゃあり浄じょう土どの行ぎょう者じゃあり。 一いちに聖しょう道どうの行ぎょう者じゃとは、 八はっ宗しゅうの行ぎょう者じゃこれなり。 浄じょう土どの行ぎょう者じゃとは、 もつぱら往おう生じょうを求もとむる輩ともがらなり。 この二に門もんの行ぎょう者じゃにつきて勧進かんじんするは、 すなはち往おう生じょうの業ごうなり。 しかればまたこの勧進かんじん行ぎょう者じゃの一いっ句くにも、 一代いちだいの聖教しょうぎょう、 諸しょ宗しゅうの法門ほうもんまで、 ことごとく摂おさむべきなり。

勧進行トハ者、依バ↢道綽ノ御意ニ↡者、有↢聖道ノ行者↡有↢浄土ノ行者↡。一ニ聖道ノ行者トハ者、八宗ノ行者是也。浄土ノ行者トハ者、専ラ求↢往生↡之輩也。就テ↢此ノ二門ノ行者ニ↡勧進スルハ者、則往生ノ業也。然バ者亦此ノ勧進行者ノ一句ニモ、一代ノ聖教、諸宗ノ法門マデ、悉ク可↠摂ム也。

三福さんぷくの業ごう、 大概たいがいかくのごとし。 浄じょう土どを宗しゅうとせん人ひとも、 一切いっさい経きょうはなほ大切たいせつなるべき事ことなり。 しかるゆゑはこの ¬観かん経ぎょう¼ の三福さんぷく業ごうのなかに説とくところの諸しょ行ぎょうの行ぎょう相そうを、 余よの諸しょ経きょうに顕あらわさずはいかが知しらんや。 受じゅ持じ三さん帰き・具ぐ足そく衆戒しゅかいも、 もろもろの大だい小乗しょうじょうの律りつをもつてこそ持じ戒かいの作さ法ほうをも知しり候そうらはんずれ。 ただこの一いっ句くばかりにては叶かなふべからず候そうろふ。 発ほつ菩ぼ提だい心しんのやうも、 もろもろの菩ぼ提だい心しんの行ぎょう相そうを説ときたる諸しょ経きょうを開ひらきてこそ知しり候そうらはんずれ。 深信じんしん因いん果がもまたしかなり。 六道ろくどうの因いん果がも、 四し聖しょうの因いん果がも、 一代いちだいの聖教しょうぎょうを離はなれてはなにをもつてかこれを知しらん。 読誦どくじゅ大だい乗じょうもかくのごとく知しるべし、 勧進かんじん行ぎょう者じゃもまた同おなじ。

三福ノ業、大概如シ↠斯。宗トセン↢浄土ヲ↡人モ、一切経ハ猶可↢大切ナル↡事也。然ル故ハ此ノ¬観経ノ¼三福業ノ中ニ所↠説ク諸行ノ行相ヲ、余ノ諸経ニ不ズハ↠顕サ者何イカヾ知ラン矣。受持三帰・具足衆戒モ、以テコソ↢諸ノ大小乗ノ律↡知リ↢持戒ノ作法ヲモ↡候ハンズレ。但此ノ一句許ニテハ不↠可↠叶候。発菩提心ノ様モ、開テコソ↧説タル↢諸ノ菩提心ノ行相ヲ↡之諸経ヲ↥知候ハンズレ。深信因果モ亦爾也。六道ノ因果モ、四聖ノ因果モ、離テハ↢一代ノ聖教ヲ↡何ヲ以カ知ラン↠之ヲ。読誦大乗モ如ク↠此ノ可シ↠知ル、勧進行者モ亦同0175ジ。

しかれば浄じょう土ど宗しゅうのなかに大だい小乗しょうじょうの諸しょ経きょう、 みなことごとく在あるべきなり。 いかにいはんや解げ説せつの師しは、 もつとも諸しょ宗しゅうを兼学けんがくすべきなり。

然バ者浄土宗ノ中ニ大小乗ノ諸経、皆悉可↠在也。何ニ況ヤ解説ノ師ハ、最可↣兼↢学ス諸宗ヲ↡也。

次つぎに十じゅう三さん定じょう善ぜん、 次つぎに九く品ぼん散善さんぜん、 今日こんにちはしばらく存ぞん略りゃくすべく候そうろふ。 時じ剋こくも推おし遷めぐり、 座ざ席せきも久ひさしくなり候そうらへば、 また後のちに申もうすべく候そうろふ。 仰あおぎ願ねがはくは 云々。

次ニ十三定善、次ニ九品散善、今日ハ且ク可↢存略↡候。時剋モ推遷リ、座席モ久成リ候ヘバ者、又後可↠申候。仰ギ願クハ 云云。

・第五七日

△第だい五ご七日しちにち。 ▽阿あ弥陀みだ仏ぶつ。 ▽¬双巻そうかん経ぎょう¼。 ▽五祖ごその影えい。

・第五七日 阿弥陀仏功徳

△かさねて称しょう揚よう讃嘆さんだんせられたまへり。 阿あ弥陀みだ如来にょらいの形ぎょう像ぞう書写しょしゃ供く養ようせられたまへり。 ¬双巻そうかん無む量りょう寿じゅ経きょう¼ 図絵ずえ供く養ようせられたまへり。 浄じょう土ど五祖ごその影えい。 まづ阿あ弥陀みだ仏ぶつの功く徳どくを讃嘆さんだんしってまつるは、 すなはち依え正しょう二に報ほうの功く徳どくまします。

重被レ↢称揚讃嘆↡給ヘリ。阿弥陀如来ノ形像被レ↢書写供養↡給ヘリ。¬双巻無量寿経¼被レ↢図絵供養↡給ヘリ。浄土五祖ノ影。先ヅ奉ハ↣讃↢嘆シ阿弥陀仏ノ功徳ヲ↡者、即有マス↢依正二報ノ功徳↡。

・第五七日 阿弥陀仏功徳 依報

まづ依え報ほうとは、 かの仏ぶつの国こく中ちゅうに所しょ有うする宝ほう地じ・宝樹ほうじゅ・宝ほう池ち・宝殿ほうでん等とうの地下じげ・地じ上じょうの一切いっさいの荘しょう厳ごんなり。

先ヅ依報ト者、彼ノ仏ノ国中ニ所有スル宝地・宝樹・宝池・宝殿等ノ地下・地上ノ一切ノ荘厳ナリ也。

・第五七日 阿弥陀仏功徳 依報 宝地

その宝ほう地じとは、 ¬大だい経きょう¼ (巻上意) のなかには 「↓七宝しっぽう為い地じ」 と。 云々 ¬観かん経ぎょう¼ のなかには 「↓瑠璃るり為地いじ」 と。 云々 ¬阿あ弥陀みだ経きょう¼ のなかには 「↓黄金おうごん為地いじ」 と。 云々 三さん経ぎょうすでに相そう違いせり、 いづれをもつて実じつ義ぎとすべきや。 いま当とう座ざの御おん導どう師し、 わたくしに意こころ得え候そうろふに四義しぎあり。

其ノ宝地トハ者、¬大経ノ¼中ニハ「▲七宝為地。」云云 ¬観経ノ¼中ニハ「▲瑠璃為地。」云云 ¬阿弥陀経ノ¼中ニハ「▲黄金為地。」云云 三経既ニ相違セリ、以テ↠何レヲ可キヤ為↢実義ト↡。今 マ当座ノ御導師、私ニ得↠意候ニ有リ↢四義↡。

まづ実じつをもつてこれを論ろんぜば、 不可ふか説せつ無む量りょうの宝たからをもつて極楽ごくらく世せ界かいの地じとなす。

先ヅ以テ↠実ヲ論ゼバ↠之者、以テ↢不可説無量ノ宝ヲ↡而為↢極楽世界ノ地ト↡。

次つぎに ¬双巻そうかん経ぎょう¼ (巻上意) に 「↑七宝しっぽう為地いじ」 と説とくことは、 この娑しゃ婆ば世せ界かいの習ならいは、 金銀こんごん等とうの七宝しっぽうをもつて殊しゅ勝しょうの宝たからとなせり。 ゆゑに仏ぶつ、 世せ界かいの衆しゅ生じょうのために楽ぎょう欲よくの心こころを起おこさしめ、 欣ごん求ぐの心こころを進すすめしめんと欲ほっして、 この土どの勝すぐれたる宝たからを挙あげてかの国くにの地じ相そうとする事ことを説ときたまへるなり。

次ニ¬双巻経ニ¼説コトハ↢「七宝為地」↡者、此娑婆世界ノ之習ハ、以テ↢金銀等ノ七宝ヲ↡為セリ↢殊勝ノ宝ト↡。故ニ仏欲シテ↧為ニ↢世界ノ衆生ノ↡令メ↠起↢楽欲ノ心↡、令ムト↞進メ↢欣求ノ心ヲ↡、挙テ↢此ノ土ノ勝タル宝ヲ↡為ル↢彼ノ国ノ地相ト↡事ヲ説給ヘル也。

次つぎに ¬観かん経ぎょう¼ のなかに 「↑瑠璃るり為地いじ」 とは、 この経きょうはもとよりこの界かいの衆しゅ生じょうのために観想かんそうを勧すすめんと欲ほっして説ときたまへるがゆゑに、 瑠璃るりはその相そう水みずに似にたるによりて、 この娑しゃ婆ば世せ界かいの水みずを観かんの前ぜん方便ほうべんとせんがために、 瑠璃るり地じと説ときたまへるなり。

次ニ¬観経ノ¼中ニ「瑠璃為地」者、此ノ経ハ自↠本欲シテ↧為ニ↢此界ノ衆生ノ↡勧ント↦観想ヲ↥説給ヘルガ故ニ、由テ↢瑠璃ハ其0176ノ相似タルニ↠水ニ、為ニ↧以テ↢此ノ娑婆世界ノ水ヲ↡為センガ↦観ノ前方便ト↥、説タマヘル↢瑠璃地ト↡也。

次つぎに ¬阿あ弥陀みだ経きょう¼ に 「↑黄金おうごん為地いじ」 と説ときたまふは、 かの七宝しっぽうのなかにはまた金こがねをもつて第一だいいちの宝たからとなす。 これなほ詮せんを取とりて最さい上じょうの宝たからを挙あげてかの国くにの地じを顕あらわす、 欣ごん求ぐの心こころを勧すすめんがためなり。

次ニ¬阿弥陀経ニ¼説タマフハ↢「黄金為地ト」者、彼ノ七宝ノ中ニハ亦以↠金ヲ為↢第一ノ宝ト↡。是 レ猶 ヲ取テ↠詮ヲ挙テ↢最上ノ宝ヲ↡顕ス↢彼ノ国ノ地ヲ↡、為 メ↠勧ガ↢欣求ノ心ヲ↡也。

・第五七日 阿弥陀仏功徳 依報 宝樹

次つぎに宝樹ほうじゅ荘しょう厳ごんとは、 珍めでたき地じなりといへども、 また樹きなくんばなにをもつてか荘しょう厳ごんとなすべき。 この娑しゃ婆ば世せ界かいに厳いみじき勝しょう地ちなんど申もうすも、 樹木じゅもくなんどのめでたきをこそ申もうし候そうろふ。 ゆゑにかの国くにもこの土どに准じゅんじて宝樹ほうじゅの荘しょう厳ごんをば説ときたまふなり。 その宝樹ほうじゅの高たかさ八千はっせん由ゆ旬じゅんなり。 娑しゃ婆ば世せ界かいにいづくにかさほどに高たかき樹き候そうらはん、 円えん城じょう樹じゅこそ五ご百ひゃく由ゆ旬じゅんと申もうして候そうらへ。

次ニ宝樹荘厳トハ者、雖ドモ↢珍メデタキ地ナリト↡、亦無ンバ↠樹者以カ↠何ヲ可↠為↢荘厳ト↡。此娑婆世界ニ厳イミジキ勝地ナンド申モ、樹木ナンドノ之目出ヲコソ申候。故ニ彼ノ国モ准テ↢此ノ土ニ↡説タマフ↢宝樹ノ荘厳ヲバ↡也。其ノ宝樹ノ高サ八千由旬ナリ也。娑婆世界ニ何クニカ左程ニ高キ樹候ハン、円城樹コソ五百由旬申テ候ヘ。

この宝樹ほうじゅにつきて、 純じゅん樹じゅあり雑樹ぞうじゅあり。 純じゅん樹じゅとは、 もつぱら金こがねにても銀しろがねにてもただ一宝いっぽうをもつて根ねより茎くき・枝えだ・葉はに至いたるまで、 同おなじく金こがねにても銀しろがねにてもあるをば純じゅん樹じゅと申もうし候そうろふなり。 余よの宝たからもまたしかなり。 雑樹ぞうじゅとは、 あるいは根ねは金こがねにて枝えだは銀しろがねなり。 華け葉ようまでもみな別宝べっぽうをもつて交まじへたるをば雑樹ぞうじゅと申もうし候そうろふなり。

就テ↢此ノ宝樹↡、有リ↢純樹↡有↢雑樹↡。純樹トハ者、専ラ金ニテモ矣銀ニテモ矣以テ↢唯一宝ヲ↡自リ↠根至マデ↢茎・枝・葉ニ↡、同ク金ニテモ矣銀ニテモ矣在ルヲバ申↢純樹ト↡候也。余ノ宝モ亦爾ナリ。雑樹トハ者、或ハ根ハ金ニテ枝ハ銀也。華葉マデモ皆以テ↢別宝ヲ↡而交タルヲバ者申↢雑樹ト↡候也。

・第五七日 阿弥陀仏功徳 依報 宝池

次つぎに宝ほう池ちとは、 たとひ樹きあるとも池いけなくんば、 なほ荘しょう厳ごんなきがゆゑに、 宝ほう池ちの荘しょう厳ごんをば説ときたまへるなり。 内ない外げ左右さうにもろもろの浴よく池ちありと申もうして、 阿あ弥陀みだ仏ぶつの浴よく池ち、 八万はちまん四し千せん由ゆ旬じゅんなり 云々。

次ニ宝池ト者、設有トモ↠樹無ンバ↠池者、尚荘厳無ガ故ニ、説タマヘル↢宝池ノ荘厳ヲバ↡也。内外左右ニ有ト↢諸ノ浴池↡申テ、阿弥陀仏ノ浴池、八万四千由旬也 云云。

・第五七日 阿弥陀仏功徳 依報 宝殿

次つぎに宝殿ほうでんとは、 たとひ宝樹ほうじゅ・宝ほう池ちのめでたき荘しょう厳ごんあるとも宝殿ほうでんなくは、 阿あ弥陀みだももろもろの聖しょう衆じゅもいかんが居こ住じゅうしたまふべし。 ゆゑに宮く殿でんを説とくなり。 楼閣ろうかくとは、 宮く殿でんの荘しょう厳ごんなり。 宮く殿でんの四よつの角すみにかならずありと覚おぼえ候そうろふ也。

次ニ宝殿者、設ヒ有トモ↢宝樹・宝池ノ目出キ荘厳↡無ハ↢宝殿↡者、阿弥陀モ諸ノ聖衆モ可↣居↢住シタマフ何ンガ↡。故ニ説ク↢宮殿ヲ↡也。楼閣トハ者、宮殿ノ之荘厳也。宮殿ノ四ノ角ニ必在ト覚候也。

これらの依え報ほうみな阿あ弥陀みだ仏ぶつの功く徳どくなり。 しかのみならず自じ然ねんの衣え服ぶくあり自じ然ねんの飲食おんじきあり。 これは行ぎょう者じゃの自じ力りきの業因ごういんによりて得うるにあらず、 しかしながら阿あ弥陀みだ如来にょらいの願力がんりきなり。 しかれば阿あ弥陀みだ仏ぶつの功く徳どくはかならずしも相好そうごう・光こう明みょうをのみいふべきにあらず。 かくのごときの依え報ほうも、 みなかの仏ぶつの願力がんりき所しょ成じょうの功く徳どくなり。 しかれば当とう時じかつ国こく土どの荘しょう厳ごんばかりを説ときて、 いまだ仏ぶつの相好そうごう・光こう明みょうの有様ありさまを讃さんじたてまつらずといへども、 しかもかの仏ぶつの功く徳どく顕あらわるるなり。

此 レ等ノ依報皆阿弥陀仏ノ功徳ナリ也。加↠之有↢自然ノ衣服↡有↢自然ノ飲食↡。是ハ非ズ↧依テ↢行者ノ自力業因ニ↡得ルニ↥、併ラ阿弥陀如来ノ願力也。爾バ者阿弥陀仏ノ功徳ハ非0177ズ↢必シモ可ニ↟云フ↢相好・光明ヲノミ↡。如ノ↠是ノ依報モ、皆彼ノ仏ノ願力所成ノ功徳也。然バ者当時且カツ説テ↢国土ノ荘厳計ヲ↡、雖ドモ↠未 ズ ダト奉↠讃↢仏ノ相好・光明ノ有様ヲ↡、而モ彼ノ仏ノ功徳顕ルヽ也。

・第五七日 阿弥陀仏功徳 正報

次つぎに正しょう報ぼうの功く徳どくとは、 かの阿あ弥陀みだ仏ぶつは、 その身しん量りょうをいへば、 「△六ろく十じゅう万億まんおく」 (観経) 等とう 云々。 「△眉み間けんの白びゃく毫ごう」 等とう 云々。 「△御おん身みの色いろ」 云々。 「△頂遶ちょうにょう円光えんこう」 云々。 かくのごとくして八万はちまん四し千せんの相そうを具ぐしたまひ、 相そうごとにまた 「△八万はちまん四し千せんの好こうあり、 一々いちいちの好こうにまた八万はちまん四し千せんの光こう明みょうあり。 一々いちいちの光こう明みょう、 あまねく十方じっぽう世せ界かいを照てらし、 念仏ねんぶつの衆しゅ生じょうを摂取せっしゅして捨すてたまはず」 と 云々。 これすなはち阿あ弥陀みだ仏ぶつの正しょう報ぼうの功く徳どくなり。

次ニ正報ノ功徳トハ者、彼ノ阿弥陀仏ハ、云ヘバ↢其ノ身量ヲ↡、「六十万億」等 云云。「眉間白毫」等 云云。「御身色」 云云。「頂遶円光」 云云。如↠此而シテ八万四千ノ相ヲ具シ給、毎↠相又「有リ↢八万四千ノ好↡、一一ノ好ニ亦有↢八万四千光明↡。一一ノ光明、遍ク照↢十方世界ヲ↡、念仏ノ衆生ヲ摂取シテ不↠捨」 云云。是則阿弥陀仏ノ正報ノ功徳也。

また観音かんのん・勢せい至しおよびかの土どにあらゆる菩ぼ薩さつ・人にん・天てん、 しかしながらかの仏ぶつの正しょう報ぼうの功く徳どくなり。 すべてかの国くにの人天にんでんは目めも鼻はなもわが物ものにあらず、 みな仏ぶつの願力がんりき所しょ成じょうの功く徳どくなり。 頭ず目もく・髄脳ずいのう、 五ご体たい身分しんぶん、 一ひとつとして阿あ弥陀みだ仏ぶつの願がんにあらずといふことなし。 たとへばこの娑しゃ婆ば世せ界かいの人ひとの子この身体しんたい髪はっ膚ぷ、 しかしながら父母ぶもの身みを分わかつがごとし。 すなはちこの ¬経きょう¼ に説とかれたる四し十じゅう八願はちがんにて候そうろふべきなり。 五ご通つうの類たぐい、 悉皆しっかい金色こんじき等とうの願がんこれなり。

又観音・勢至及ビ彼ノ土ニ所有菩薩・人・天、併ラ彼ノ仏ノ正報ノ功徳也。都テ彼ノ国ノ人天ハ目モ鼻モ非ズ↢我物ニ↡、皆仏ノ願力所成ノ之功徳也。頭目・髄脳、五体身分、無シ↣一トシテ非云コト↢阿弥陀仏ノ願ニ↡。譬バ如シ↣此ノ娑婆世界ノ人ノ子ノ身体髪膚、併ラ分ツガ↢父母ノ身ヲ↡。即此ノ¬経ニ¼被タル↠説四十八願ニテ可↠候也。五通ノ類、悉皆金色等ノ願是也。

しかればただ阿あ弥陀みだ仏ぶつかの国くにの一切いっさいの菩ぼ薩さつ・人にん・天てんのために、 目めに入いりては天眼てんげん通つうとなり、 耳みみに入いりては天てん耳に通つうを得えしめ、 心こころに入いりて他た心しん智ち・宿命しゅくみょう智ちを得えしめ、 足あしとなりては神足じんそく通つうを得えしめ、 膚はだえとなりては金色こんじきの身しんとなしたまへるなり。 具ぐ足そく諸相しょそうの願がんまたかくのごとし。 かの国くにに生うまるる人ひとは、 六根ろっこん・六識ろくしき、 しかしながら阿あ弥陀みだ仏ぶつの入いりたまふなり。 ただ菩ぼ薩さつのみにあらず、 声しょう聞もんもまたかくのごとし。

然バ者唯阿弥陀仏為ニ↢彼国ノ一切ノ菩薩・人・天ノ↡、入テハ↠目ニ成リ↢天眼通ト↡、入テハ↠耳ニ令↠得↢天耳通ヲ↡、入テ↠心ニ令↠得↢他心智・宿命智ヲ↡、成テハ↠足ト令↠得↢神足通↡、成テハ↠膚ト成シ↢金色ノ身ト↡給ル也。具足諸相ノ願亦如シ↠是ノ。生ルヽ↢彼ノ国ニ↡人ハ、六根・六識、併ラ阿弥陀仏ノ之入リ給也。非ズ啻菩薩ノミニ↡、声聞モ亦如↠是ノ。

観音かんのん・勢せい至しは、 もとはこの娑しゃ婆ば世せ界かいの菩ぼ薩さつなり。 しかるにかの成じょう仏ぶつの後のちかの国くにに往おう生じょうし、 一いっ生しょう補ふ処しょの願がんに酬むくいて補ふ処しょの菩ぼ薩さつとはなりたまへるなり。 しかればこの観音かんのんは仏恩ぶっとんを報ほうぜんがために本ほん師しの阿あ弥陀みだを戴いただきたまへるなり。 「観音かんのん頂ちょう戴だい冠かん中住ちゅうじゅう、 種々しゅじゅ妙みょう相宝そうほう荘しょう厳ごん」 (十二礼) と。 云々 この観音かんのん・勢せい至しの二に菩ぼ薩さつまでも、 みな阿あ弥陀みだ仏ぶつの願力がんりきなり。

観音・勢至ハ、本ハ此ノ娑婆世界ノ菩薩也0178。然ニ彼ノ成仏ノ後往↢生シ彼ノ国ニ↡、酬テ↢一生補処ノ願ニ↡成タマヘル↢補処ノ菩薩トハ也。然バ者此ノ観音ハ為ニ↠報ガ↢仏恩ヲ↡戴タマヘル↢本師ノ阿弥陀ヲ↡也。「▲観音頂戴冠中住、種々妙相宝荘厳。」云云 此ノ観音・勢至ノ二菩薩マデモ、皆阿弥陀仏ノ願力也。

しかのみならずまた一切いっさいの万物まんもつを見聞けんもんすれば、 みな念仏ねんぶつの心しんを生しょうずと申もうすなり。 宝樹ほうじゅ・宝ほう地じ・水すい鳥ちょう・宝閣ほうかくまで、 阿あ弥陀みだ仏ぶつの顕あらわしたまふがゆゑとこそ覚おぼえ候そうらへ。 すなはち ¬阿あ弥陀みだ経きょう¼ にいはく、 「欲よく令りょう法音ほうおん宣せん流る変へん化げ所しょ作さ」 と。 云々 天台てんだい宗しゅうの釈しゃく (斟定草木成仏私記) にいはく、 「一仏いちぶつ成じょう道どう、 観見かんけん法界ほっかい、 草木そうもく国こく土ど悉皆しっかい成じょう仏ぶつ、 身しん長じょう丈じょう六ろく、 光こう明みょう遍へん照じょう、 其ご仏ぶつ皆かい名みょう妙みょう覚がく如来にょらい」 と。 以上

加之又見↢聞スレバ一切ノ万物ヲ↡者、皆生ト↢念仏ノ心ヲ↡申也。宝樹・宝地・水鳥・宝閣マデ、阿弥陀仏之顕シ給ガ故トコソ覚ヘ候ヘ。則¬阿弥陀経ニ¼云、「▲欲令法音宣流変化所作。」云云 天臺宗ノ釈ニ云、「一仏成道、観見法界、草木国土悉皆成仏、身長丈六、光明遍照、其仏皆名妙覚如来。」已上

¬双巻そうかん経ぎょう¼ に宝樹ほうじゅ・宝ほう池ちの有様ありさまをもろもろの菩ぼ薩さつ・声しょう聞もんの功く徳どくをも説とくといへども、 ¬経きょう¼ の題だいにはただ 「無む量りょう寿じゅ経きょう」 といへることは、 その経きょうのなかに説とかるるところのもろもろの功く徳どく荘しょう厳ごんは、 しかしながらかの仏ぶつの願力がんりき所しょ成じょうなるがゆゑなり。

¬双巻経ニ¼雖モ↠説ト↢宝樹・宝池ノ有様ヲ諸ノ菩薩・声聞ノ功徳ヲモ↡、¬経ノ¼題ニハ唯云ヘルコトハ↢「無量寿経ト」↡者、其ノ経ノ中ニ所ノ↠被↠説諸ノ功徳荘厳ハ、併ラ彼仏ノ願力所成ナルガ故ナリ也。

娑しゃ婆ば世せ界かいのなかにも、 五ご台山たいざんの文殊もんじゅは ¬華け厳ごん経ぎょう¼ のならびに経きょうの品々ほんぼん五ご台山たいざんに入いる、 人ひとそのなかのあらゆる草木そうもく等とうの一切いっさい万物まんもつを、 みなこれ文殊もんじゅなりと想そうして観法かんぽう成じょう就じゅとなすと見みえたり。

娑婆世界ノ中ニモ、五台山ノ文殊ハ¬華厳経ノ¼并ニ経ノ品品入↢五台山ニ↡、人其中諸有草木等ノ一切万物ヲ、想シテ↢皆是 レ文殊也ト↡而為スト↢観法成就↡見タリ矣。

また一ひとつの因縁いんねん候そうろふ。 昔むかし僧そうありて無む遮しゃ大だい会えを行ぎょうじき。 その時とき一人ひとりの女人にょにん、 子こを懐いだき犬いぬを具ぐしたる来きたれり。 しかるにこの女人にょにん、 僧そうに従したがひて先さきにわが分ぶんを受うけて、 また子この分ぶんを受うく。 あまつさへ犬いぬの分ぶんを乞こひけるを、 願主がんしゅの僧そういまだ僧達そうたちにだにも引ひかざる先さきにあまりにいふものかなと思おもひて遅おそく与あたへければ、 この女人にょにん立腹りっぷくして、 無む遮しゃの大だい会えと聞ききてこそ参まいりて候そうらへ、 物ものによりて人ひとを嫌きらはれ候そうろふものかなとて空そらへ登のぼるを見みれば、 女人にょにんは文殊もんじゅにてましまし、 子こは善財ぜんざい童どう子じ、 犬いぬは師子ししにてぞありける。 自余じよの後のちに五ご台山たいざんの辺ほとりにて施せ行ぎょう引ひく人ひとは、 何なににても嫌きらはじと申もうす事ことの候そうろふぞ。

又一ノ因縁候。昔 シ有テ↠僧行キ↢無遮大会ヲ↡。爾時一人ノ女人、懐キ↠子具タル↠犬来レリ。而此ノ女人、従テ↠僧先 キニ受テ↢我ガ分ヲ↡、又受ク↢子ノ分ヲ↡。剰アマサヘ乞ケルヲ↢犬ノ分ヲ↡、願主ノ僧思テ↧未ダル↠引↢僧達ニダニモ↡之先 キニ余リニ云フ者哉ト↥而遅ク与ケレバ者、此ノ女人立腹テ、聞テコソ↢無遮ノ大会ト↡参テ候ヘ、依↠物ニ被レ↠嫌↠人ヲ候者哉トテ登ルヲ↠空ヘ見レバ、女人ハ文殊ニテ坐シ、子ハ善財童子、犬0179ハ師子ニテゾ有ケル。自余ノ後 チニ五台山ノ辺ニテ施行引ク人ハ、不ジト↠嫌ハ↠何ニテモ申事ノ候ゾ。

かの極楽ごくらく世せ界かいもまたかくのごとし。 総そうじてこの国くにのなかにあらゆる依え正しょう二に報ほうは、 しかしながら法蔵ほうぞう菩ぼ薩さつの願力がんりきに答こたへて成じょう就じゅしたまへるなり。 これはこれ阿あ弥陀みだ仏ぶつの功く徳どくと、 ほぼ意こころ得うべきをや。

彼ノ極楽世界モ亦復如↠是。総ジテ此ノ国ノ中ニ所有依正二報ハ、併ラ答テ↢法蔵菩薩ノ願力ニ↡成就シ給ヘル也。此ハ是 レ阿弥陀仏ノ功徳ト、粗可ヲヤ↠得↠意哉。

・第五七日 浄土五祖

△次つぎに五祖ごそとは、 かくのごとく往おう生じょう浄じょう土どの祖師そしの五いつつの影像えいぞうを図絵ずえしたまふに、 多あまたの意こころあり。 まづ恩徳おんどくを報ほうぜんがため、 次つぎに賢けんを見みれば斉等ひとしからん事ことを思おもふゆゑなり。 天台てんだい宗しゅうを学がくせん人ひとは南岳なんがく・天台てんだいを見みて等ひとしからんと思おもひ、 真言しんごんを習ならはん人ひとは不ふ空くう・善ぜん無畏むいを見みて均ひとしからんと思おもひ、 華け厳ごん宗しゅうの人ひとは香象こうぞう・恵え苑おんのごとくならんと想おもひ、 法相ほっそう宗しゅうの人ひとは玄げん奘じょう・慈じ恩おんのごとくならんと思おもひ、 三論さんろんの学者がくしゃは浄じょう影よう大だい師しをうらやみ、 持じ律りつの行ぎょう者じゃは道宣どうせん律りっ師しをば遠とおからずと思おもふべきなり。

○次ニ五祖トハ者、如ク↠此ノ図↢絵シタマフニ往生浄土ノ祖師ノ五影像ヲ↡、有↢多アマタノ意↡。先ヅ為↠報ンガ↢恩徳ヲ↡、次ニ見バ↠賢ヲ思フ↢斉等カラン事ヲ↡故也。学セン↢天臺宗ヲ↡人ハ見テ↢南岳・天臺ヲ↡思ヒ↠等カラント、習ハン↢真言ヲ↡人ハ見テ↢不空・善無畏ヲ↡思ヒ↠均ラント、華厳宗ノ人ハ想ヒ↠如ナラント↢香象・恵苑ヲ↡、法相宗ノ人ハ玄奘・慈恩ノ如クナラント思ヒ、三論ノ学者ハ浦 ラ↢病ミ浄影大師ヲ↡、持律ノ行者ハ道宣律師ヲバ不ズト↠遠カラ可↠思也。

しかればいま浄じょう土どを欣ねがはん人ひとはこの宗しゅうの祖師そしを学まなぶべきなり。 しかるに浄じょう土ど宗しゅうの師資しし相そう承じょうに二ふたつの説せつあり。 ¬安楽あんらく集しゅう¼ のごときは、 菩ぼ提だい流支るし・恵え寵ちょう法ほっ師し・道どう場じょう法ほっ師し・曇鸞どんらん法ほっ師し・斉さい朝ちょう法ほっ師し・法ほう上じょう法ほっ師し等とうの六ろく祖そを出いだせり。 いまこの五祖ごそとは、 まづ曇鸞どんらん法ほっ師し・道どう綽しゃく禅ぜん師じ・善導ぜんどう禅ぜん師じ・懐え感かん禅ぜん師じ・少しょう康こう法ほっ師し等とうなり。

◇爾バ者今欣ン↢浄土ヲ↡人ハ可↠学マナブ↢此ノ宗ノ祖師ヲ↡也。然ニ浄土宗ノ師資相承ニ有↢二ノ説↡。如ハ↢¬安楽集ノ¼者、出セリ↢菩提流支・恵寵法師・道場法師・曇鸞法師・斉朝法師・法上法師等ノ六祖ヲ↡。今此ノ五祖トハ者、先ヅ曇鸞法師・道綽禅師・善導禅師・懐感禅師・少康法師等也。

・第五七日 浄土五祖 ▲曇鸞

その曇鸞どんらん法ほっ師しは、 梁りょうと魏ぎと両りょう国こく無む双そうの学がく匠しょうなり。 はじめは寿いのち長ながくして仏道ぶつどうを行ぎょうぜんがために、 陶とう隠居いんきょに値あひて仙せん経ぎょうを習ならひて、 その仙法せんぽうによりて修しゅ行ぎょうせんと欲ほっして、 後のち菩ぼ提だい流支るし三蔵さんぞうに値あひたてまつりて、 仏法ぶっぽうのなかに長ちょう寿じゅ不死ふしの法ほうのこの土どの仙せん経ぎょうに勝すぐれたるや候そうろふと問とひたてまつりたまひしかば、 三蔵さんぞう唾つばを吐はき答こたへたまふやうは、 同おなじ言ことばをもつていひ並ならぶべきにあらず。 この土どにいづれの処ところにか長ちょう生せいの方ほうあらん。 寿いのち長ながくしてしばらく死しせずやうなれども、 つひに還かえりて三さん有ぬに輪りん廻ねす。 ただこの経きょうによりて修しゅ行ぎょうすべし。 すなはち長ちょう生せい不死ふしの所ところに到いたるべしといひおはりて、 ¬観かん経ぎょう¼ を授さずけたまふ。

◇其ノ曇鸞法師ハ、梁ト魏ト両国無双ノ学匠也。初ハ為ニ↣寿長シテ行ゼンガ↢仏道ヲ↡、値テ↢陶隠居ニ↡習テ↢仙経ヲ↡、欲シテ↧依テ↢其仙法ニ↡修行セント↥、後奉テ↠値↢菩提流支三蔵ニ↡、奉タマヒシカバ↠問↧仏法ノ中ニ長寿不死ノ法ノ勝タルヤ↢此ノ土ノ仙経ニ↡哉候ト↥者、三蔵吐キ↠唾ヲ答給様ハ、非↧以テ↢同言ヲ↡可キニ↦云ヒ並0180ブ↥。此ノ土何ノ処ニカ有ン↢長生之方↡。寿長クシテ而暫不ズ↠死様ナレドモ、終ニ還テ輪↢廻ス三有ニ↡。唯依↢此ノ経ニ↡可↢修行↡。即可ト↠到↢長生不死ノ所ニ↡云已テ、授タマフ↢¬観経ヲ¼↡。

その時ときたちまちに改がい悔けの心こころを起おこして、 仙せん経ぎょうを焼やきて、 自じ行ぎょう化他けた、 一向いっこうに往おう生じょう浄じょう土どの法ほうをもつぱらにして、 すなはち ¬往おう生じょう論ろんの注ちゅう¼ ならびに ¬略りゃく論ろん安楽あんらく土義どぎ¼ 等とうの文もんを造つくれり。 并へい州しゅう玄げん中ちゅう寺じに三さん百びゃく人にんの門もん徒とあり。 臨りん終じゅうの終おわりに、 その門もん徒と三さん百びゃく余よ人にんを集あつめて、 みづから香こう炉ろを取とりて西にしに向むかひて、 弟子でしとともに声こえを均ひとしくして高こう声しょうに念仏ねんぶつして命終みょうじゅうしぬ。 その時とき道俗どうぞく多おおく空くう中ちゅうの音楽おんがくを聞きくと 云々。

◇爾時忽ニ起シテ↢改悔心ヲ↡、焼テ↢仙経ヲ↡、自行化他、一向ニ専ニシテ↢往生浄土ノ法ヲ↡、即造↢¬往生論ノ注¼并ニ¬略論安楽土義¼等ノ文↡矣。并州玄中寺ニ有↢三百人ノ門徒↡。臨終之終リニ、集メテ↢其ノ門徒三百余人ヲ↡、自ミ 取テ↢香炉ヲ↡向テ↠西ニ、与↢弟子↡倶ニ均クシテ↠声高声ニ念仏シテ而命終シヌ。其ノ時道俗多ク聞クト↢空中ノ音楽↡ 云云。

・第五七日 浄土五祖 ▲道綽

道どう綽しゃく禅ぜん師じは、 もと涅ね槃はんの学がく匠しょうなり。 并へい州しゅう玄げん中ちゅう寺じにおいて曇鸞どんらんの碑ひの文もんを見みて、 発心ほっしん (迦才浄土論巻下意) していはく、 「それ曇鸞どんらん法ほっ師しの智ち徳とく高遠こうおんなる、 なほ講説こうぜつを捨すてて浄じょう土どの業ごうを修しゅして、 すでに往おう生じょうせり。 いはんやわが所しょ解げ・所しょ知ち、 多おおしとするに足たらんや」 といひおはりて、 すなはち涅ね槃はんの講説こうぜつを捨すてて、 一向いっこうにもつぱら念仏ねんぶつを修しゅして相続そうぞくして間ひまなし。 またつねに ¬観かん経ぎょう¼ を誦よみ、 人ひとを勧すすめたり。 并へい州しゅうの晋陽しんよう・大原たいげん・汶水ぶんすいの三県さんけんの道俗どうぞく、 七歳しちさい以い上じょうはことごとく念仏ねんぶつを解さとり往おう生じょうを遂とげたり。 また人を勧すすめて、 㖒てい唾だ便べん利り西方さいほうに向むかはず、 行住ぎょうじゅう座臥ざが西方さいほうを背そむかず。

◇道綽禅師ハ、本 ト涅槃ノ之学匠也。於テ↢并州玄中寺ニ↡見テ↢曇鸞ノ碑ノ文ヲ↡、発心シテ曰ク、「其 レ曇鸞法師ノ智徳高遠ナル、尚 ヲ捨テヽ↢講説ヲ↡修シテ↢浄土ノ業ヲ↡、既ニ往生セリ。況ヤ我ガ所解・所知、足ラン↠為ニ↠多ト乎ト」云已テ、即捨テヽ↢涅槃ノ講説ヲ↡、一向ニ専ラ修シテ↢念仏ヲ↡相続シテ無シ↠間。又常ニ誦ミ↢¬観経ヲ¼↡、勧タリ↠人ヲ。并州ノ晋陽・大原・汶水之三県ノ道俗、七歳已上ハ悉ク解リ↢念仏ヲ↡遂タリ↢往生ヲ↡。又勧テ↠人ヲ、㖒唾便利不↠向ハ↢西方ニ↡、行住座臥不↠背↢西方ヲ↡。

また ¬安楽あんらく集しゅう¼ 二に巻かんこれを造つくれり。 およそ往おう生じょう浄じょう土どの教きょうの弘ぐ通ずうする事こと、 道どう綽しゃくの御おん力ちからなり。 往おう生じょう伝でんを見みるに、 多おおく道どう綽しゃくの勧すすめを受うけて往おう生じょうを遂とげたり。 善導ぜんどうもこれ道どう綽しゃくの弟子でしなり。 しかれば終しゅう南山なんざんの道宣どうせんの伝でん (続高僧伝巻二〇意) にいはく、 「西方さいほう道どう教きょうの弘ひろまることは、 これより起おこる」 と。 云々 また曇鸞どんらん法ほっ師し七宝しっぽうの船ふねに乗じょうじて空くう中ちゅうに来きたれるを見みる。 また化け仏ぶつ・菩ぼ薩さつ空そらに住じゅうすること七日しちにち、 その時とき天てん花げ雨あめふりて、 来らい集しゅうせる人々ひとびとの袖そでにこれを受うく。 かくのごとく不可ふか思議しぎの霊瑞れいずいこれ多おおし。 終おわりの時ときに白びゃく雲うん西方さいほうより来きたりて、 三道さんどうの白びゃっ光こうとなり房ぼうのなかを照てらし、 五ご色しきの光ひかり空くう中ちゅうに現げんず。 また墓はかの上うえに紫し雲うん三みたび現げんずることあり。

◇又¬安楽集¼二巻造↠之ヲ。凡往生浄土教之弘通スル事、道綽ノ御力也。見ルニ↢往生伝ヲ↡、多ク受テ↢道綽ノ勧ヲ↡遂タリ↢往生ヲ↡。善導モ是 レ道綽ノ弟子也。然バ者終南山ノ道宣ノ伝云、「西方道教弘、起ルト↠自リ↠此」。云云 又見ル↧曇鸞法師乗ジテ↢七宝ノ船0181ニ↡来レルヲ↦空中ニ↥。又化仏・菩薩住スルコト↠空七日、爾時天花雨テ、来集ル人人ノ袖ニ受ク↠之ヲ。如ク↠此不可思議ノ霊瑞多シ↠之。終時ニ白雲自↢西方↡来テ、成リ↢三道ノ白光↡照シ↢房ノ中ヲ↡、五色ノ光現↢空中ニ↡。又有リ↢墓ノ上ニ紫雲三タビ現コト↡。

・第五七日 浄土五祖 ▲善導

善導ぜんどう和か尚しょう、 いまだ ¬観かん経ぎょう¼ を得えざる前さきに、 三昧さんまいを得えたまひけるかと覚おぼえ候そうろふ。 そのゆゑは道どう綽しゃく禅ぜん師じに値あひて ¬観かん経ぎょう¼ を得えて後のち、 この経きょうの所説しょせつわれ前さきに見みるに同おなじといへり。 善導ぜんどう和か尚しょう念仏ねんぶつしたまふには、 口くちより仏ほとけ出いでたまふ。 曇どん省せい讃さんじていはく、 「善導ぜんどう念仏ねんぶつすれば仏ほとけ口くちより出いでたまふ」 と。 云々 同おなじ念仏ねんぶつを申もうすとも、 善導ぜんどうのごとく称しょうせば口くちより出いでたまふばかりに申もうすべきなり。 「善導ぜんどうのごとく妙たえなること純熟じゅんじゅくにあらんと欲ほっす」 と申もうして候そうろふなり。 たれなりとも念仏ねんぶつをだにもまことに申もうして、 その功こう熟じゅくしては、 口くちより仏ほとけは出いでたまふべきなり。

◇善導和尚、未ダ得↢¬観経ヲ¼之前 キニ、得↢三昧↡給ケル歟ト覚候。其故ハ値テ↢道綽禅師ニ↡得↢¬観経ヲ¼↡後 チ、云ヘリ↣此ノ経ノ所説同ジト↢我 レ前ニ見ニ↡。善導和尚念仏シ給ニハ、口ヨリ仏出給フ。曇省セイ讃ジテ云、「善導念仏スレバ仏従リ↠口出タマフ。」云云 同ジ申ストモ↢念仏ヲ↡、称セバ↠如↢善導ノ↡従リ↠口出タマフ許バカリニ可↠申也。「欲↧如↢善導ノ↡妙在ント↦純熟↥」申テ候ナリ。誰ナリトモ念仏ヲダニモ実ニ申テ、其ノ功熟シテハ者、従リ↠口仏ハ可↢出給↡也。

道どう綽しゃく禅ぜん師じは師しなりといへども、 いまだ三昧さんまい発得ほっとくせず。 善導ぜんどうは弟子でしなりといへども、 三昧さんまいを得えたまひたりしかば、 道どう綽しゃくはわが往おう生じょうは一いち定じょうか仏ぶつに問とひたまふべしとのたまひければ、 善導ぜんどう禅ぜん師じ命めいを承うけてすなはち定じょうに入いりて阿あ弥陀みだ仏ぶつに問とひたてまつるに、 仏ぶつののたまはく、 道どう綽しゃくは三みつの罪つみあり、 すみやかに懺さん悔げすべし。 その罪つみを懺さん悔げせば、 さだめて往おう生じょうすべし。 一ひとつには仏像ぶつぞう・教きょう巻かんを庇ひさしに並ならべて、 わが身みは房ぼう中ちゅうに居こす。 二ふたつには出しゅっ家けの人ひとを使つかふ。 三みつには造ぞう作さくの間あいだ虫むしの命いのちを殺ころす。 十方じっぽう仏ぶつの前まえにおいて、 第一だいいちの罪つみを懺さん悔げすべし。 諸僧しょそうの前まえにおいて、 第だい二にの罪つみを懺さん悔げすべし。 一切いっさい衆しゅ生じょうの前まえにおいて、 第三だいさんの罪つみを懺さん悔げすべしと 云々。 善導ぜんどうすなはち定じょうより出いでて、 この旨むねを道どう綽しゃくに告つげたまふ、 道どう綽しゃくしずかに昔むかしの過とがを思おもふに、 これみな空むなしからずといひて、 至し心しんに懺さん悔げす 云々。 ゆゑに師しに増まさりたまへるなり。

◇道綽禅師ハ雖ドモ↠師也ト、未ダ↢三昧発得↡。善導ハ雖↢弟子也ト↡、得↢三昧ヲ↡給タリシカバ者、道綽ハ言タマヒケレバ↢我往生ハ一定歟奉シト↟問↠仏ニ者、善導禅師承テ↠命ヲ即入テ↠定ニ奉ニ↠問↢阿弥陀仏ニ↡、仏ノ言ハク、道綽ハ者有リ↢三ノ罪、速ニ可↢懺悔↡。懺悔セバ↢其ノ罪ヲ↡、定テ可シ↢往生ス↡。一ニハ仏像・教巻ヲ並テ↠庇ヒサシニ、我身ハ居↢房中ニ↡。二ニハ使フ↢出家ノ人ヲ↡。三ニハ造作ノ間殺ス↢虫命ヲ↡。於テ↢十方仏ノ前ニ↡、可↣懺↢悔ス第一ノ罪ヲ↡。於テ↢諸僧ノ前ニ↡、可↣懺↢悔第二ノ罪ヲ↡。於テ↢一切衆生前↡、可↣懺↢悔ス第三ノ罪ヲ↡ 云云。善導即出デヽ定ヨリ、告タマフ↢此ノ旨ヲ於道綽ニ↡、道綽云テ↧静ニ思フニ↢昔ノ過ヲ↡、是皆不ト↞空、至心ニ懺悔ス 云云。故ニ増リ↠師ニ給ヘル也。

善導ぜんどうはことに火か急きゅうの小声しょうしょう念仏ねんぶつを勧すすめて、 数かずを定さだめたまへるなり。 一万いちまん・二に万まん・三万さんまん・五ご万まん乃ない至し十じゅう万まんなり。

◇善導ハ殊ニ勧テ↢火急ノ小声念仏0182ヲ↡、定メ↠数ヲ給ヘル也。一万・二万・三万・五万乃至十万也。

・第五七日 浄土五祖 ▲懐感

懐え感かん禅ぜん師じは、 法相ほっそう宗しゅうの学がく匠しょうなり。 広ひろく経きょう典てんを解さとり、 念仏ねんぶつをば信しんぜず、 善導ぜんどうに問とひていはく、 念仏ねんぶつせば仏ぶつを見みたてまつらんやと。 善導ぜんどう和か尚しょう答こたへていはく、 仏ぶつの誠じょう言ごんなり、 なんぞ疑うたがはんやと。 懐え感かんこの事ことにつきてたちまちに解さとりを開ひらき、 信しんを起おこして道どう場じょうに入いりて、 高こう声しょう念仏ねんぶつして仏ぶつを見みたてまつらんと願がんずるに、 三さん七日しちにちまでその霊瑞れいずいを見みず。 その時とき感かん禅ぜん師じ、 みづからの罪ざい障しょう深ふかくして仏ぶつを見みたてまつらざることを知しらずして、 断食だんじきして死しなんと欲ほっす。 善導ぜんどう総そうじて許ゆるさず。 後のちに ¬群ぐん疑ぎ論ろん¼ 七巻しちかんを造つくれり 云々。 感かん禅ぜん師じはことに高こう声しょう念仏ねんぶつを勧すすめたまへり。

◇懐感禅師者、法相宗ノ学匠也。広ク解 トリ↢経典ヲ↡、不↠信↢念仏ヲバ↡、問↢善導ニ↡曰ク、念仏セバ奉ランヤ↠見↠仏ヲ乎。善導和尚答テ言ハク、仏ノ誠言ナリ、何ゾ疑ハン耶。懐感就テ↢此ノ事ニ↡忽ニ開キ↠解ヲ、起シテ↠信ヲ入テ↢道場ニ↡、高声念仏シテ願ルニ↠奉ト↠見↠仏ヲ、三七日マデ不↠見↢其ノ霊瑞ヲ↡。爾ノ時感禅師、不シテ↠知↢自罪障深シテ不コトヲ↟奉↠見↠仏ヲ、断食シテ欲ス↠死ナント。善導総ジテ不↠許サ。後ニ造↢¬群疑論¼七巻ヲ↡ 云云。感禅師ハ殊ニ勧メ↢高声念仏ヲ↡給ヘリ。

・第五七日 浄土五祖 ▲少康

少しょう康こうは、 もと持じ経きょう者しゃなり。 年とし十じゅう五ご歳さいにして ¬法ほっ華け¼・¬楞りょう厳ごん¼ 等とうの経きょう五ご部ぶを読よみ覚おぼえたり。 これによりて ¬高僧こうそう伝でん¼ には読誦どくじゅの篇へんに入いりたり。 しかれどもただ持じ経きょう者しゃのみにあらず、 瑜伽ゆが唯識ゆいしきの学がく匠しょうなり。

◇少康ハ、本持経者ナリ也。年十五歳ニシテ読↢覚タリ¬法華¼・¬楞厳¼等ノ経五部ヲ↡。依テ↠之¬高僧伝ニハ¼入タリ↢読誦ノ篇ニ↡。然ドモ而非ズ↢啻持経者ノミニ↡、瑜伽唯識ノ学匠也。

後のちに白はく馬ば寺じに詣もうでて堂内どうないを見みれば、 光ひかりを放はなつ物ものあり。 これを探さぐり取とりて見みれば、 善導ぜんどうの西方さいほうの化け道どうの文もんなり。 少しょう康こうこれを見みて心こころたちまちに歓かん喜ぎして願がんを発おこしていはく、 われもし浄じょう土どに縁えんあらば、 この文もんふたたび光ひかりを放はなつべしと。 かくのごとく誓ちかひおはりて見みれば、 かさねて光ひかりを放はなつ。 その光ひかりのなかに化け仏ぶつ・菩ぼ薩さつあり。 歓かん喜ぎ休やみがたくして、 つひにまた長ちょう安あんの善導ぜんどう和か尚しょうの影堂えいどうに詣もうでて善導ぜんどうの真像しんぞうを見みれば、 化けして仏身ぶっしんとなりて少しょう康こうに告つげてのたまはく、 なんぢわが教きょうによりて衆しゅ生じょうを利り益やくし同おなじく浄じょう土どに生しょうずべしと。 これを聞ききて少しょう康こう所しょ証しょうあるがごとし。

◇後ニ詣↢白馬寺ニ↡見レバ↢堂内ヲ↡、有↢放ツ↠光ヲ物↡。探リ↢取テ之ヲ↡見レバ者、善導ノ西方ノ化道ノ文也。少康見テ↠之心忽ニ歓喜シテ発シテ↠願ヲ云ク、我 レ若シ浄土ニ有ラバ↠縁者、此ノ文再ビ放ベシト↠光ヲ。如ク↠此誓ヒ已テ見レバ者、重テ放ツ↠光ヲ。其ノ光ノ中ニ有↢化仏・菩薩↡。歓喜難シテ↠休、終ニ又詣デヽ↢長安ノ善導和尚ノ影堂ニ↡見レバ↢善導ノ真像ヲ↡者、化シテ作テ↢仏身ト↡告テ↢少康ニ↡言ハク、汝依テ↢我ガ教ニ↡可シト↧利↢益シ衆生ヲ↡同ク生ズ↦浄土ニ↥。聞テ↠之ヲ少康如↠有↢所証↡。

後のち人ひとを勧すすめんと欲ほっするに、 人ひとその教きょう化けに随したがはず。 しかるあひだ銭ぜにを設もうけて、 まづ少しょう童どうらを勧すすめて、 念仏ねんぶつ一遍いっぺんに銭ぜに一文いちもんを与あたふ。 この後のちは十遍じっぺん十じゅう文もん、 かくのごとくする間あいだに、 少しょう康こうのゆゑに行ぎょう少しょう童どうらについておのおの念仏ねんぶつす。 また少しょう童どうのみにあらず、 老ろう少しょう男女なんにょを簡えらばず、 みなことごとく念仏ねんぶつす。

◇後欲スルニ↠勧ント↠人ヲ、人不↠随ハ↢其ノ教化ニ↡。然ル間設ケテ↠銭ヲ、先ヅ勧テ↢少童等ヲ↡、念仏一遍ニ与フ↢銭一文ヲ↡。此ノ後ハ十遍十文、如スル↠此間ニ、少康ノ故行付0183テ↢少童等ニ↡各念仏ス。又非ズ↢少童ノミニ↡、不↠簡↢老少男女ヲ↡、皆悉念仏ス。

かくのごとくして後のち、 浄じょう土ど堂どうを造つくり、 昼ちゅう夜やに行ぎょう道どうして念仏ねんぶつす。 所しょ化けに随したがひて道どう場じょうに来らい集じゅうする輩ともがら、 三千さんぜん余よ人にんなり。 また少しょう康こう高こう声しょうに念仏ねんぶつす、 見みれば仏ほとけ口くちより出いづること善導ぜんどうのごとし。 このゆゑに時ときの人ひと後ご善導ぜんどうと名なづけたり。 浄じょう土ど堂どうとは、 唐とうの習ならいに阿あ弥陀みだ仏ぶつを居すへたてまつる堂どうをば浄じょう土ど堂どうと名なづけたるなり。

◇如シテ↠是ノ後、造リ↢浄土堂ヲ↡、昼夜ニ行道シテ念仏ス。随テ↢所化ニ↡来↢集スル道場ニ↡輩 ラ、三千余人也。又少康高声ニ念仏ス、見レバ仏口ヨリ出コト如↢善導ノ↡。是ノ故ニ時ノ人名タリ↢後善導ト↡。浄土堂トハ者、唐ノ習ヒニ奉ル↠居スヘ↢阿弥陀仏ヲ↡之堂ヲバ名タル↢浄土堂ト↡也。

五祖ごその功く徳どく、 要ようを取とるにかくのごとし。

◇五祖ノ功徳、取ルニ↠要ヲ如↠斯。

・第五七日 念仏往生

△次つぎに ¬無む量りょう寿じゅ経きょう¼ とは、 如来にょらい教きょうを設もうけたまふ事こと、 みな衆しゅ生じょう済さい度どのためなり。 ゆゑに衆しゅ生じょうの根こん機きまちまちなるがゆゑに、 仏ぶつの経教きょうきょうもまた無む量りょうなり。 しかるに今こん経ぎょうは往おう生じょう浄じょう土どのために衆しゅ生じょう往おう生じょうの法ほうを説ときたまふなり。 阿あ弥陀みだ仏ぶつの修因しゅいん感かん果かの次し第だい、 極楽ごくらく浄じょう土どの二に報ほう荘しょう厳ごんの有様ありさま、 委くわしく説ときたまへるも、 衆しゅ生じょうを勧すすめて欣ごん求ぐの心しんを発おこしめんがためなり。 しかるにこの ¬経きょう¼ の所詮しょせんは、 われら衆しゅ生じょうの往おう生じょうすべき旨むねを説ときたまへるなり。

◇次¬無量寿経トハ¼者、如来設タマフ↠教ヲ事、皆為↢衆生済度ノ↡也。故ニ衆生ノ根機区マチマチナルガ故ニ、仏ノ経教モ亦無量ナリ。而ニ今経ハ為ニ↢往生浄土ノ↡説タマフ↢衆生往生ノ法ヲ↡也。阿弥陀仏ノ修因感果ノ次第、極楽浄土ノ二報荘厳ノ之有様、委ク説キ給ヘルモ、為↠令ガ↧勧テ↢衆生ヲ↡発サ↦欣求ノ心ヲ↥也。然ニ此¬経ノ¼所詮ハ、説ヘル↧我等衆生ノ可キ↢往生↡之旨ヲ↥也。

ただしこの ¬経きょう¼ を釈しゃくするに諸しょ師しの意こころ不ふ同どうなり。 いましばらく善導ぜんどう和か尚しょうの御おん意こころをもつて心こころ得え候そうろふに、 この ¬経きょう¼ はひとへに専修せんじゅ念仏ねんぶつの旨むねを説ときて衆しゅ生じょう往おう生じょうの業ごうとしたまふなり。

◇但釈スルニ↢此ノ¬経ヲ¼↡諸師ノ意不同ナリ也。今且ク以テ↢善導和尚ノ御意ヲ↡心得候ニ、此ノ¬経ハ¼偏ニ説テ↢専修念仏ノ旨ヲ↡為タマフ↢衆生往生ノ業ト↡也。

なにをもつてかこれを知しるとならば、 まづかの仏ぶつの因いん位にの本願ほんがんを説とくなか (大経巻上) にいはく、 「設せつ我が得仏とくぶつ、 十方じっぽう衆しゅ生じょう、 至し心しん信しん楽ぎょう、 欲よく生しょう我が国こく、 乃ない至し十じゅう念ねん、 若にゃく不ふ生しょう者じゃ、 不ふ取しゅ正しょう覚がく」 と。 云々

◇何ヲ以テカ知ルトナラバ↠之者、先ヅ説ク↢彼仏ノ因位ノ本願ヲ↡中ニ云ク、「▲設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚。」云云

かの仏ぶつの因いん位に、 法蔵ほうぞう比丘びくの昔むかし、 世自せじ在王ざいおう仏ぶつの所みもとにおいて、 二に百ひゃく一いち十じゅう億おくの諸仏しょぶつの妙みょう土どのなかより選えらびて、 四し十じゅう八はちの誓願せいがんを発おこして浄じょう土どを設もうけて、 成じょう仏ぶつして衆しゅ生じょうをしてわが国くにに生しょうぜしむべき行ぎょう業ごうを選えらびて願ねがひたまひしに、 まつたく余よ行ぎょうを立たてずして、 ただ念仏ねんぶつの一いち行ぎょうを立たてたまへるなり。

◇彼仏ノ因位、法蔵比丘ノ之昔、於テ↢世自在王仏ノ所 トニ↡、従リ↢二百一十億ノ諸仏ノ妙土ノ中↡選テ、発テ↢四十八ノ誓願ヲ↡設テ↢浄土ヲ↡、成仏シテ可↠令ム↣衆生ヲシテ生ゼ↢我0184国ニ↡行業ヲ選テ願ヒ給シニ、全ク不シテ↠立テ↢余行ヲ↡、但立タマヘル↢念仏ノ一行ヲ↡也。

ゆゑに ¬大だい阿あ弥陀みだ経きょう¼ に、 すでにかの仏ぶつの願がんは選せん択じゃくして立たてたまへるがゆゑなり。 ¬大だい阿あ弥陀みだ経きょう¼ とこの ¬経きょう¼ とは同本どうほん異い訳やくの経きょうなり。

◇故ニ¬大阿弥陀経ニ¼、既彼仏ノ願ハ選択シテ立給ガ故也。¬大阿弥陀経ト¼与トハ此ノ¬経¼同本異訳ノ経也。

しかるに往おう生じょうの行ぎょうをば、 われらが黠さかしくいまはじめて計はからふべき事ことには候そうらはず、 みな定さだめ置おかれたる事ことなり。 法蔵ほうぞう比丘びく、 もしあしく選えらびて立たてたまはば、 世自せじ在王ざいおう仏ぶつ、 なほさてましますべきか。 かの願がんどもを説とかしめて後のちに、 なんぞ決けつ定じょうして無む上じょう正しょう覚がくを成じょうずべしと授じゅ記きしたまはんや。 法蔵ほうぞう菩ぼ薩さつのかの願がんを立たてたまひて、 兆ちょう載さい永劫ようごうの間あいだ難なん行ぎょう苦く行ぎょう・積しゃっ功く累徳るいとくして、 すでに成じょう仏ぶつしたまひたれば、 昔むかしの誓願せいがん一々いちいちに疑うたがふべからず。

◇然ニ往生ノ行ヲバ、我等ガ黠サカシク今始テ可↠計フ事ニハ不↠候、皆被タル↢定置↡事者也。法蔵比丘、若シ悪ク選テ立給バ者、世自在王仏、猶左サテ可キ↠有マス歟。令メ↠説カ↢彼ノ願共ドモヲ↡之後ニ、何ゾ授↢記タマハン決定シテ可シト↟成ズ↢無上正覚ヲ↡乎。法蔵菩薩ノ立タマヒテ↢彼ノ願ヲ↡、兆載永劫ノ間難行苦行・積功累徳シテ、既ニ成仏シ給タレバ者、昔ノ誓願一一ニ不↠可↠疑フ。

しかるに善導ぜんどう和か尚しょう (礼讃) この本願ほんがんの文もんを引ひきていはく、 「若にゃく我が成じょう仏ぶつ、 十方じっぽう衆しゅ生じょう、 称しょう我が名みょう号ごう下至げし十じっ声しょう、 若にゃく不ふ生しょう者じゃ不ふ取しゅ正しょう覚がく。 彼ひ仏ぶつ今こん現在げんざい世せ成じょう仏ぶつ。 当とう知ち、 本誓ほんぜい重じゅう願がん不虚ふこ、 衆しゅ生じょう称しょう念ねん必得ひっとく往おう生じょう」 と。 云々

◇而ニ善導和尚引テ↢此ノ本願ノ文ヲ↡曰↡、「▲若我成仏、十方衆生、称我名号下至十声、若不生者不取正覚。彼仏今現在世成仏。当知、本誓重願不虚、衆生称念必得往生。」云云

まことにわれら衆しゅ生じょう、 自じ力りきばかりにして往おう生じょうを求もとめんにとりてこそ、 この行ぎょう業ごうは仏ぶつの御おん心こころに叶かなひやすらん、 また叶かなはずやあらんと不ふ審しんにも覚おぼへ、 往おう生じょうも不ふ定じょうには候そうろふべけれ。

◇実ニ我等衆生、取テコソ↣自力許ニシテ而求メンニ↢往生ヲ↡、此行業ハ為スラン↠叶ヒヤ↢仏御心ニ↡、又有ラント↠不ヤ↠叶ハ不審ニモ覚ヘ、往生モ不定ニハ可ケレ↠候。

念仏ねんぶつを申もうして往おう生じょうを願ねがはん人ひとは、 自じ力りきにて往おう生じょうすべきにはあらず、 ただ他た力りきの往おう生じょうなり。 もとより仏ぶつの定さだめ置おかれたまふ名みょう号ごうを唱となへば、 乃ない至し十じっ声しょう・一いっ声しょうまでも生しょうぜしめたまへば、 十じっ声しょう一いっ声しょう念仏ねんぶつして一いち定じょう往おう生じょうすべければこそ、 その願がん成じょう就じゅして成じょう仏ぶつしたまふといふ道どう理りに候そうらへ。 しかればただ一向いっこうに仏ぶつの願力がんりきを仰あおぎて往おう生じょうをば決けつ定じょうすべきなり。 わが自じ力りきの強ごう弱にゃくをもつて定じょうとも不ふ定じょうとも思おもふべからず。

◇申テ↢念仏↡願ハン↢往生ヲ↡人ハ、非↣自力ニテ可ニハ↢往生ス↡也、只他力ノ往生也。本自唱ヘバ↢仏ノ定置タマフ之名号ヲ↡、乃至十声・一声マデモ令メ↠生給ヘバ者、十声一声念仏シテ一定可ケレバコソ↢往生ス↡、其ノ願成就シテ成仏シ給フト云フ道理ニ候ヘ。然バ者唯一向ニ仰テ↢仏ノ願力ヲ↡可↣決↢定ス往生ヲバ↡也。以テ↢我ガ自力ノ強弱ヲ↡不↠可↠思↢定トモ不定トモ↡。

かの願がん成じょう就じゅの文もんはこの ¬経きょう¼ (大経) の下げ巻かんにあり、 その文もんにいはく、 「諸しょ有う衆しゅ生じょう、 聞もん其ご名みょう号ごう、 信心しんじん歓かん喜ぎ、 乃ない至し一念いちねん、 至し心しん回え向こう、 願がん生しょう彼ひ国こく、 則得そくとく往おう生じょう、 住じゅう不ふ退転たいてん」 と。 云々 およそ四し十じゅう八はち願がん浄じょう土どを荘しょう厳ごんせり。 花け・池ち・宝閣ほうかくも願力がんりきにあらずといふことなし、 そのなかに独ひとり念仏ねんぶつ往おう生じょうの願がんをのみ疑うたがふべからず。 極楽ごくらく浄じょう土どもし浄じょう土どならば、 念仏ねんぶつ往おう生じょうもまた決けつ定じょう往おう生じょうなり。

◇彼ノ願成就ノ文ハ在リ↢此ノ¬経ノ¼下巻ニ↡、其ノ文ニ云ク、「▲諸有衆生、聞其名号、信0185心歓喜、乃至一念、至心廻向、願生彼国、則得往生、住不退転。」云云 凡ソ四十八願荘↢厳セリ浄土ヲ↡。花・池・宝閣モ無↠非云コト↢願力ニ↡、其ノ中ニ独リ不↠可↠疑フ↢念仏往生ノ願ヲノミ↡。極楽浄土若シ浄土ナラバ者、念仏往生モ亦決定往生也。

次つぎに往おう生じょうの業因ごういんは念仏ねんぶつの一いち行ぎょうを定さだむといへども、 行ぎょう者じゃの根こん性じょうに随したがひて上じょう・中ちゅう・下げあり。 ゆゑに三輩さんぱいの往おう生じょうを遂とげたり。 すなはち上じょう輩はいの文もん (大経巻下) にいはく、 「その上じょう輩はちとは、◗家いえを捨すて欲よくを棄すててしかも沙門しゃもんとなり、 菩ぼ提だい心しんを発おこして、 一向いっこうにもつぱら無む量りょう寿仏じゅぶつを念ねんず」 と。 云々中ちゅう輩はいの文もん (大経巻下) にいはく、 「行ぎょうじて沙門しゃもんとなることあたはずといへども、 おほいに功く徳どくを修しゅして、◗まさに無む上じょう菩ぼ提だいの心しんを発おこして、 一向いっこうにもつぱら無む量りょう寿仏じゅぶつを念ねんずべし」 と。 下げ輩はいの文もん (大経巻下) にいはく、 「功く徳どくをなし修しゅすことあたはず、 まさに無む上じょう菩ぼ提だいの心しんを発おこして、 一向いっこうに意こころをもつぱらにして、 乃ない至し十じゅう念ねん無む量りょう寿仏じゅぶつを念ねんずべし」 と。 云々

◇次ニ往生ノ業因ハ雖↠定ト↢念仏ノ一行ヲ↡、▲随↢行者ノ根性ニ↡有リ↢上・中・下↡。故ニ遂タリ↢三輩ノ往生ヲ↡。即上輩ノ文ニ云ク、「▲其ノ上輩者、捨テ↠家棄テ↠欲ヲ而モ作ナリ↢沙門ト↡、発シテ↢菩提心ヲ↡、一向ニ専ラ念↢無量寿仏ヲ↡。」云云 中輩ノ文ニ云ク、「▲雖ドモ↠不ト↠能ハ↣行ジテ作ルコト↢沙門ト↡、大ニ修シテ↢功徳ヲ↡、◆当ニ↧発シテ↢無上菩提ノ之心ヲ↡、一向ニ専ラ念ズ↦無量寿仏ヲ↥。」下輩ノ文ニ云ク、「▲不↠能↣作ナシ↢修コト功徳ヲ↡、◆当ニ発シテ↢無上菩提之心ヲ↡、一向ニ専ニシテ↠意ヲ、乃至十念念↢無量寿仏↡。」云云

当とう座ざの導どう師し、 わたくしに一ひとつの釈しゃくを作つくり候そうろふ。 △この三輩さんぱいの文もんのなかに、 菩ぼ提だい心等しんとうの余よ行ぎょうを挙あげたりといへども、 上かみの仏ぶつの本願ほんがんの意こころに望のぞむるに、 衆しゅ生じょうをして一向いっこうにもつぱら無む量りょう寿仏じゅぶつを念ねんずるにあり。 ゆゑに一向いっこうといふ。

◇当座ノ導師、私ニ作リ↢一釈ヲ↡候。此ノ三輩ノ文ノ中ニ、雖↠挙タリト↢菩提心等ノ余行ヲ↡、望ニ↢上ノ仏ノ本願ノ意ニ↡、在リ↣衆生ヲシテ一向ニ専ラ念ズルニ↢無量寿仏ヲ↡。故ニ云↢一向ト↡。

すなはちまた ¬観念かんねん法門ぼうもん¼ に善導ぜんどう釈しゃくしていはく、 「またこの ¬経きょう¼ の下げ巻かんのはじめにいはく、 仏説ぶっせつ、 一切いっさい衆しゅ生じょう根こん性じょう不ふ同どう有う上じょう・中ちゅう・下げ。 随ずい其ご根こん性じょう、 仏ぶつ皆勧かいかん専せん無む量りょう寿仏じゅぶつの名みなを念ねんぜしむ。 其ご人にん命みょう欲よく終じゅう時じ、 仏ぶつ与よ聖しょう衆じゅ自じ来迎らいこう摂しょう、 尽得じんとく往生おうじょう」 と。 以上 この釈しゃくの心こころは三輩さんぱいともに念仏ねんぶつ往おう生じょうなり。 まことに一向いっこうの言ことばは余よを捨すつる詞ことばなり。

◇即又▲¬観念法門ニ¼善導釈シテ曰ク、「▲又此ノ¬経ノ¼下巻ノ初ニ云ク、仏説、一切衆生根性不同有上・中・下。随其根性、仏皆勧専念↢無量寿仏ノ名ヲ↡。其人命欲終時、仏与聖衆自来迎摂、尽得往生。」已上 此ノ釈ノ心ハ三輩倶ニ念仏往生ナリ也。誠ニ一向ノ言ハ捨ル↠余ヲ之詞也。

たとへば五ご天竺てんじくの三さんの寺てらのごとし。 一いちには一向いっこう大だい乗じょう寺じ、 二にには一向いっこう小乗しょうじょう寺じ、 三さんには大だい小しょう兼けん行ぎょう寺じ。 この一向いっこう大だい乗じょう寺じのなかに小乗しょうじょうを学がくすることなし。 一向いっこう小乗しょうじょう寺じには大だい乗じょうを学がくすることなし。 大だい小しょう兼けん行ぎょう寺じのなかには大だい小乗しょうじょうともに兼学けんがくするなり。 大だい小しょうの両りょう寺じにはともに一向いっこうの言ことばを安おく、 二にを兼かねたる寺てらには一向いっこうの言ことばを安おかず。

◇▲例バ如↢五天竺ノ三ノ寺ノ。一ニハ一向大乗寺、二ニハ一向小乗寺、三ニハ大小兼行0186寺。此ノ一向大乗寺ノ中無シ↠学コト↢小乗ヲ↡。一向小乗寺ニハ無↠学スルコト↢大乗ヲ↡。大小兼行寺ノ中ニハ大小乗倶ニ兼学スル也。大小ノ両寺ニハ倶ニ安ク↢一向ノ言ヲ↡、兼タル↠二ヲ寺ニハ不↠安カ↢一向ノ言ヲ↡。

これをもつて意こころ得え候そうろふに、 今こん ¬経ぎょう¼ (大経巻下) のなかの 「一向いっこう」 のことばもまたしかなり。 もし念仏ねんぶつの外ほかに余よ行ぎょうを兼かぬれば、 すなはち一向いっこうにあらず。 かの寺てらに准なぞらへば、 兼けん行ぎょうといふべし。 すでに一向いっこうといふ、 諸しょ行ぎょうを捨すつといふことを知しるべし。

◇以テ↠之意得ヘ候ニ、▲今¬経ノ¼中ノ「一向ノ」言モ亦爾ナリ。若シ念仏ノ外ニ兼バ↢余行ヲ↡者、即非↢一向ニ↡。准ヘバ↢彼ノ寺ニ↡者、可シ↠云フ↢兼行ト↡。既ニ云フ↢一向ト↡、可↠知↠捨ト云コトヲ↢諸行ヲ↡。

ただしこの三輩さんぱいの文もんのなかに余よ行ぎょうを説とくにつきて、 三みつの意こころあり。 一ひとつには諸しょ行ぎょうを捨すてて念仏ねんぶつに帰きせしめんがためにならべて余よ行ぎょうを説とき、 念仏ねんぶつにおいて一向いっこうの言ことばを置おく。 二ふたつには念仏ねんぶつを助じょせんがために諸善しょぜんを説とく。 三みつには念仏ねんぶつと諸しょ行ぎょうとにともに三品さんぼんの差別しゃべつあることを並ならべ示しめさんがために諸しょ行ぎょうを説とく。

◇但此ノ三輩ノ文ノ中ニ就テ↠説ニ↢余行ヲ↡、有リ↢三ノ意。▲一ニハ者為ニ↠令↧捨テ↢諸行ヲ↡帰↦念仏ニ↥並テ説↢余行ヲ↡、於テ↢念仏ニ↡置↢一向ノ言ヲ↡。▲二ニハ者為↠助ンガ↢念仏ヲ↡説↢諸善ヲ↡。▲三ニハ者為ニ↫念仏ト与ニ↢諸行↡並ベ↪示サンガ倶ニ有コトヲ↩三品ノ差別↨説ク↢諸行ヲ↡。

この三さん義ぎのなかには、 ただはじめの義ぎを正しょうとなす、 後のちの二ふたつは傍ぼうの義ぎなり。

◇此ノ▲三義ノ中ニハ、但初ノ義ヲ為↠正ト、後ノ二ハ傍ノ義也。

次つぎにこの ¬経きょう¼ (大経巻下) の流る通ずう分ぶんのなかに説ときていはく、 「仏告ぶつごう弥み勒ろく、 其有ごう得聞とくもん彼ひ仏ぶつ名みょう号ごう、 歓かん喜ぎ踊ゆ躍やく乃ない至し一念いちねん。 当とう知ち、 此し人にん為い得とく大だい利り。 即そく是ぜ具ぐ足そく無む上じょう功く徳どく」 と。 以上

◇次ニ▲此ノ¬経ノ¼流通分ノ中ニ説テ云ク、「仏告弥勒、△其有得聞彼仏名号、歓喜踊躍乃至一念。当知、此人為得大利。即是具足無上功徳。」已上

上かみの三輩さんぱいの文もんのなかに念仏ねんぶつの外ほかにもろもろの功く徳どくを説とくといへども、 余よ善ぜんを讃ほめず。 ただ念仏ねんぶつの一善いちぜんを挙あげ、 無む上じょう功く徳どくと讃嘆さんだんして未み来らいに流る通ずうせり。 しかれば仏ぶつの功く徳どくの余よの功く徳どくに勝すぐれたることあきらかなり。

◇▲上ノ三輩ノ文ノ中ニ雖↠説ト↢念仏ノ外ニ諸ノ功徳ヲ↡、不↠讃↢余善ヲ↡。但挙↢念仏ノ一善ヲ↡、讃↢嘆シテ無上功徳↡流↢通未来ニ↡。然仏ノ功徳ノ勝タルコト↢于余ノ功徳ニ↡明ナリ也。

大だい利りとは、 小しょう利りに対たいする言ことばなり。 無む上じょうとは、 この功く徳どくの上うえたる功く徳どくはなき義ぎなり。 すでに一念いちねんを指さして大だい利りといふ、 また無む上じょうといふ、 いはんや二に念ねん・三念さんねん乃ない至し十じゅう念ねんをや。 いかにいはんや百ひゃく念ねん・千念せんねん乃ない至し万念まんねんをや。 これすなはち小しょうを挙あげて多たに況くらぶるなり。

◇▲大利トハ者、対スル↢小利↡之言ナリ也。▲無上トハ者、無キ↢此ノ功徳ノ上ウヘタル之功徳ハ↡之義也。▲既ニ指シテ↢一念ヲ↡云↢大利ト↡、亦云フ↢無上ト↡、況ヤ二念・三念乃至十念ヲヤ乎。何ニ況ヤ百念・千念乃至万念ヲヤ乎。是 レ則挙テ↠小ヲ況クラブル↠多ニ也。

この文もんをもつて余よ行ぎょうと念仏ねんぶつと相対そうたいして意こころ得うるに、 念仏ねんぶつはすなはち大だい利りなり、 余よ行ぎょうはすなはち小しょう利りなり。 念仏ねんぶつはまた無む上じょうなり、 余よ行ぎょうはまた有う上じょうなり。 総そうじて往おう生じょうを願ねがふ人ひと、 なんぞ無む上じょう大だい利りの念仏ねんぶつを捨すてて有う上じょう小しょう利りの余よ行ぎょうを執しゅうせんや。

◇以テ↢此ノ文ヲ↡余行ト与↢念仏↡相対シテ意得ルニ、念仏ハ即大利也、余行ハ即小0187利也。念仏ハ亦無上也、余行ハ亦有上也。▲総ジテ願↢往生ヲ↡人、何ゾ捨テヽ↢無上大利ノ念仏ヲ↡而執セン↢有上小利ノ余行ヲ乎。

次つぎにこの ¬経きょう¼ (大経) の下げ巻かんの奥おくにいはく、 「当来とうらい之世しせ経きょう道どう滅尽めつじん、 我以がい慈悲じひ哀愍あいみん、 特どく留る此し経きょう止し住じゅう百ひゃく歳さい。 其有ごう衆しゅ生じょう値此ちし経きょう者しゃ、 随ずい意い所願しょがん皆かい可か得とく度ど」 と。 云々

◇次ニ▲此ノ¬経ノ¼下巻ノ奥ニ云ク、「当来之世経道滅尽、我以慈悲哀愍、特留此経止住百歳。其有衆生値此経者、随意所願皆可得度。」云云

善導ぜんどう (礼讃) この文もんを釈しゃくしていはく、 「万年まんねん三宝さんぼう滅めつ、 此し ¬経きょう¼ 住じゅう百ひゃく年ねん、 爾時にじ聞もん一念いちねん、 皆当かいとう得とく生しょう彼ひ」 と。 云々

◇▲善導釈シテ↢斯文ヲ↡云ク、「△万年三宝滅、此¬経¼住百年、爾時聞一念、皆当得生彼。」云云

釈しゃく尊そんの遺法ゆいほうに三さん時じの差別しゃべつあり、 正しょう法ぼう・像法ぞうぼう・末法まっぽうなり。 その正しょう法ぼう一千いっせん年ねんの間あいだは、 教行きょうぎょう証しょうの三みつともに具ぐ足そくせり。 教きょうのごとく行ぎょうじて随したがひて証しょうを得う。 像法ぞうぼう一千いっせん年ねんの間あいだは、 教行きょうぎょうありて証しょうなし。 教きょうに随したがひて行ぎょうずといへども、 悉しつ地じを得うることなし。 末法まっぽう万年まんねんの間あいだは、 教きょうのみありて行証ぎょうしょうなし。 わずかに教きょうばかり残のこりたりといへども、 教きょうのごとく行ぎょうずるものなし、 行ぎょうずといへどもまた得とく証しょうのものなし。

◇釈尊ノ遺法ニ有リ↢三時ノ差別↡、正法・像法・末法也。其ノ正法一千年ノ間ハ、教行証ノ三ツ倶ニ具足セリ。如ク↠教ノ而行ジテ随テ得↠証ヲ。像法一千年ノ間ハ、有テ↢教行↡無シ↠証。随テ↠教ニ雖モ↠行ト、無シ↠得コト↢悉地ヲ↡。末法万年ノ間ハ、有テ↠教ノミ無シ↢行証↡。僅ニ雖↢教許バカリ残タリト↡、無シ↢如ク↠教ノ而行ル者 ノ↡、雖↠行ズト亦無↢得証ノ者 ノ↡。

それ末法まっぽう万年まんねんの満みてん後のちは、 如来にょらいの遺ゆい教きょうみな失しっし、 住じゅう持じの三宝さんぼうことごとく滅めっすべし。 およそ仏像ぶつぞう・経きょう巻かんもなく、 頭かしらを剃そり衣ころもを染そめたる僧そうもなく、 仏法ぶっぽうといふ事ことは名みょう字じだにも聞きくべからず。 しかるにその時ときまでただこの ¬双巻そうかん無む量りょう寿じゅ経きょう¼ 一いち部ぶ二に巻かんばかり残のこり留とどまりて、 百ひゃく年ねんまで世よに住じゅうして衆しゅ生じょうを済さい度どしたまふ事こと、 ことにあはれに覚おぼへ候そうろふ。

◇夫 レ末法万年ノ満テン後ハ、如来ノ遺教皆失シ、住持ノ三宝悉ク滅スベシ。凡ソ無ク↢仏像・経巻モ↡、無ク↢剃リ↠頭染タル↠衣僧モ↡、仏法ト云事ハ不↠可↠聞ク↢名字ダニモ↡。然ニ爾時マデ但此ノ¬双巻無量寿経¼一部二巻許バカリ残リ留テ、百年マデ住シテ↠世ニ済↢度シタマフ衆生ヲ↡事、殊ニ哀ニ覚ヘ候。

¬華け厳ごん経ぎょう¼ も ¬涅ね槃はん経ぎょう¼ も、 およそ大だい小しょう権実ごんじつの一切いっさいの諸しょ経きょう、 乃ない至し ¬大日だいにち¼・¬金剛こんごう¼ 等とうの真言しんごん秘ひ密みつの諸しょ経きょうもみなことごとく滅めっしたらん時とき、 ただこの ¬教きょう¼ ばかり留とどまりたまふ事ことは何事なにごとにかと覚おぼへ候そうろふ。 釈しゃく尊そん慈悲じひをもつて留とどめたまふ事こと、 定さだめて深ふかき意こころ候そうろふらん。 仏ぶっ智ちまことに測はかりがたし。 ただ阿あ弥陀みだ仏ぶつの機き縁えんこの界かいの衆しゅ生じょうに深ふかくましますゆゑに、 釈しゃ迦か大だい師しもかの仏ぶつの本願ほんがんを留とどめたまふなるべし。

◇¬華厳経モ¼¬涅槃経モ¼、凡ソ大小権実ノ一切ノ諸経、乃至¬大日¼・¬金剛¼等ノ真言秘密之諸経モ皆悉ク滅タラン時、但此ノ¬教¼許 リ留リ給事ハ何事ニ歟カト覚候。釈尊以テ↢慈悲ヲ↡留給事、定テ深意候覧。仏智実ニ難↠測矣。応ベシ↧但0188阿弥陀仏ノ機縁深ク↢于此ノ界ノ衆生ニ↡坐マス故ニ、釈迦大師モ留タマフナル↦於彼ノ仏ノ本願ヲ↥矣。

この文もんにつきて案あんじ候そうろふに、 四よつの意こころあり。

◇▲就テ↢此ノ文ニ↡而案ジ候ニ、有↢四ノ意↡。

一いちには聖しょう道どうの得脱とくだつは機き縁えん浅あさく、 浄じょう土どの往おう生じょうの機き縁えんは深ふかし。 ゆゑに三さん乗じょう・一いち乗じょう得とく度どを説とける諸しょ経きょうは先さきだちて滅めっし、 ただ一念いちねん・十じゅう念ねんの往おう生じょうを説とくこの ¬教きょう¼ ばかり留とどまるべし。

◇▲一聖道ノ得脱ハ機縁浅ク、浄土ノ往生ノ機縁ハ深シ。故ニ説ケル↢三乗・一乗得度ヲ↡之諸経ハ先ダテ滅シ、但説ク↢一念・十念ノ往生ヲ↡此ノ¬教¼許可↠留ル。

二にには往おう生じょうにつきても十方じっぽう浄じょう土どは機き縁えん浅あさく、 西方さいほう浄じょう土どは機き縁えん深ふかし。 ゆゑに十方じっぽう浄じょう土どを勧すすめたる諸しょ経きょうはみな滅めっして、 西方さいほう往おう生じょうを勧すすめたるこの ¬経きょう¼ 独ひとり留とどまるべし。

◇▲二ニハ就テモ↢往生ニ↡十方浄土ハ機縁浅ク、西方浄土ハ機縁深シ。故ニ勧タル↢十方浄土ヲ↡之諸経ハ皆滅シテ、勧タル↢西方往生ヲ↡之此ノ¬経¼独リ可↠留。

三さんには都と率そつの上生じょうしょうは機き縁えん浅あさく、 極楽ごくらくの往おう生じょうは機き縁えん深ふかし。 ゆゑに ¬上生じょうしょう¼・¬心しん地じ¼ の都と率そつを勧すすめる諸しょ経きょうはみな滅めっして、 極楽ごくらくを勧すすめたるこの ¬経きょう¼ 独ひとり留とどまるべし。

◇▲三ニハ都率ノ之上生ハ機縁浅ク、極楽ノ之往生ハ機縁深シ。故ニ¬上生¼・¬心地ノ¼勧↢都率↡之諸経ハ皆滅シテ、勧↢極楽ヲ↡之此ノ¬経¼独リ可シ↠留。

四しには諸しょ行ぎょうの往おう生じょうは機き縁えん浅あさく、 念仏ねんぶつ往おう生じょうは機き縁えん深ふかし。 ゆゑに諸しょ行ぎょうを説とく諸しょ経きょうはみな滅めっし、 念仏ねんぶつを説とくこの ¬経きょう¼ 独ひとり留とどまるべし。

◇▲四ニハ諸行ノ往生ハ機縁浅ク、念仏往生ハ機縁深シ。故ニ説↢諸行ヲ↡之諸経ハ皆滅シ、説↢念仏ヲ↡之此ノ¬経¼独リ可↠留。

この四義しぎのなかには、 真実しんじつには第だい四し、 十じゅう八はちの願がんの念仏ねんぶつ往おう生じょうのみ留とどまるべしといふ義ぎ、 正しょう義ぎにて候そうろふなり。 「特どく留る此し経きょう止し住じゅう百ひゃく歳さい」 (大経巻下) と説とかれたるは、 ただこの二に軸じくの経きょう巻かん、 独ひとり残のこるべくして聞ききて候そうろふ。 しかれども実じつには経きょうは失しっすといへども、 ただ念仏ねんぶつの一門いちもんばかり留とどまりて、 百ひゃく年ねんあるべきにやと覚おぼへ候そうろふ。

◇此ノ四義ノ中ニハ、真実ニハ第四、十八ノ願ノ念仏往生ノミ可ト云↠留之義、正義ニテ候也。被タル↠説↢「特留此経止住百歳ト」↡者、唯此ノ二軸ノ経巻、独リ可シテ↠残聞テ候。然ドモ而実ニハ経ハ雖ドモ↠失ト、但念仏ノ一門許 リ留テ、百年可↠有乎ヤト覚候。

かの秦しんの始し皇こう、 書しょを焼やき儒じゅを埋うずむる時とき、 ¬毛もう詩し¼ ばかり残のこりたりと申もうす事ことの候そうろふ。 それも文もんは焼やかるるとも、 詩しは留とどまりて口くちにありと申もうして、 詩しを人々ひとびとの暗そらに覚おぼへたりけるゆゑに、 ¬毛もう詩し¼ ばかりは残のこりたりと申もうす事ことの候そうろふ。 これをもつて意こころ得え候そうろふに、 この ¬経きょう¼ 留とどまりて百ひゃく年ねんあるべしと申もうすも、 経きょう巻かんはみな隠没おんもつすとも、 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつといふ事ことは、 人ひとの口くちに留とどまりて百ひゃく年ねんまでも聞きき伝つたふる事ことと覚おぼえ候そうろふ。

◇▲彼ノ秦ノ始皇、焼↠書ヲ埋↠儒ヲ之時、¬毛詩¼許 リ残タリト申事ノ候。其 レモ文ハ被トモ↠焼、詩ハ留テ在ト↠口ニ申テ、詩ヲ人人ノ暗ニ覚ヘタリケル故ニ、¬毛詩¼許 リハ残タリト申事ノ候。以テ↠之意得候ニ、此ノ¬経¼留テ百年可ト↠在申モ、経巻ハ皆隠没ストモ、南無阿弥陀仏ト云事ハ、留テ↢于人ノ口ニ↡百0189年マデモ聞伝事ト覚候。

経きょうはまた所説しょせつの法ほうを申もうす事ことなれば、 この ¬経きょう¼ は独ひとり念仏ねんぶつの一法いっぽうを説とく。 しかれば 「爾時にじ聞もん一念いちねん皆当かいとう往おう生じょう彼ひ」 (礼讃) と善導ぜんどうも釈しゃくしたまへるなり。 これ秘ひ蔵ぞうの義ぎなり、 たやすく申もうすべからず。

◇経者亦所説ノ法ヲ申ス事ナレバ者、此ノ¬経ハ¼独リ説↢念仏ノ一法ヲ↡。然バ者「爾時聞一念皆当往生彼ト」善導モ釈シ給ル也。此 レ秘蔵ノ義也、輒ク不↠可↠申ス。

総そうじてこの ¬双巻そうかん無む量りょう寿じゅ経きょう¼ に念仏ねんぶつ往おう生じょうを説とく文もん七処しちしょあり。 一いちには本願ほんがんの文もん、 二にには願がん成じょう就じゅの文もん、 三さんには上じょう輩はいのなかの一向いっこう専念せんねんの文もん、 四しには中ちゅう輩はいのなかの一向いっこう専念せんねんの文もん、 五ごには下げ輩はいのなかの一向いっこう専せん意いの文もん、 六ろくには無む上じょう功く徳どくの文もん、 七しちには特どく留る此し経きょうの文もんなり。

◇総ジテ此ノ¬双巻無量寿経ニ¼説↢念仏往生ヲ↡文有↢七処↡。一ニハ者△本願ノ文、二ニハ者△願成就ノ文、三ニハ者△上輩ノ中ノ一向専念ノ文、四ニハ者△中輩ノ中ノ一向専念ノ文、五ニハ者△下輩ノ中ノ一向専意ノ文、六ニハ者△無上功徳ノ文、七ニハ者△特留此経ノ文ナリ也。

またこの七処しちしょの文もんを合がっして三さんとなす。 一いちには本願ほんがん、 これに二にを摂せっす。 いはくはじめの発願ほつがんと願がん成じょう就じゅとなり。 二にには三輩さんぱい、 これに三さんを摂せっす。 いはく上じょう輩はい・中ちゅう輩はい・下げ輩はいなり。 またこの下げ輩はいにつきて二に類るいあり。 三さんには流る通ずう、 これに二にを摂せっす。 いはく無む上じょう功く徳どくと特どく留る此し経きょうとなり。

◇又此ノ七処ノ文ヲ合シテ為↠三ト。一ニハ者本願、此ニ摂ス↠二。謂ク初ノ発願ト願成就トナリ也。二者三輩、此ニ摂ス↠三ヲ。謂ク上輩・中輩・下輩ナリ也。又就テ↢此ノ下輩ニ↡有リ↢二類↡。三ニハ者流通、此ニ摂ス↠二。謂ク無上功徳ト特留此経トナリ也。

本願ほんがんは弥陀みだにあり、 三輩さんぱい以下いげは釈しゃ迦かの自じ説せつなり。 それも弥陀みだの本願ほんがんに随したがひて説ときたまへるなり。 三輩さんぱいの文もんのなかにおのおの一向いっこう専念せんねんと勧すすめたまへるも、 流る通ずうの文もんのなかに無む上じょう功く徳どくと讃ほめたまへるも、 特どく留る此し経きょうと留とどめたまへるも、 源みなもとは弥陀みだの本願ほんがんに随ずい順じゅんしたまへるゆゑなり。

◇本願ハ在リ↢弥陀ニ↡、三輩已下ハ釈迦ノ自説ナリ也。其モ随テ↢弥陀ノ本願ニ↡而説給ル也。三輩ノ文ノ中ニ各勧メ↢一向専念ト↡給ヘルモ、流通文ノ中ニ讃メ↢無上功徳ト↡給ヘルモ、特留此経ト留給ヘルモ、源 トハ随↢順シ弥陀ノ本願ニ↡給ヘル故也。

しかれば念仏ねんぶつ往おう生じょうといふ事ことは、 本願ほんがんを根本こんぽんとするなり。 所詮しょせんはこの ¬経きょう¼ は始はじめより終おわりに至いたるまで、 弥陀みだの本願ほんがんを説とくと意こころ得うべきなり。 ¬双巻そうかん経ぎょう¼ の大たい意い、 略りゃくしてかくのごとし。

◇然バ者云フ↢念仏往生ト↡事ハ、本願ヲ為↢根本ト↡也。所詮ハ此ノ¬経ハ¼自リ↠始至デ↠終ニ、可キ↤意↣得説ト↢弥陀ノ本願ヲ↡也。¬双巻経ノ¼大意、略シテ如シ↠斯ノ矣。

・第六七日

△第六だいろく七日しちにち。 ▽阿あ弥陀みだ仏ぶつ。 ▽¬観かん無む量りょう寿じゅ経きょう¼。

・第六七日 名号功徳

△仏ぶつの功く徳どくは前々ぜんぜんの七日しちにちごとにことごとく讃嘆さんだんしたてまつる事ことにて候そうらへども、 かならずしも前さきに申もうしたる事ことをば申もうさじ。 思おもふべし、 別べつの徳とくを珍めづらしく讃さんじたてまつる事ことにても候そうらはず、 同おなじ事ことを讃嘆さんだんするに功く徳どく増まさる事ことにて候そうらへば、 なほ名みょう号ごうの功く徳どくを釈しゃくしたてまつるべし。 相好そうごうの功く徳どくは、 仏ぶつの六根ろっこんも凡ぼん夫ぶの六根ろっこんも、 眼げん・耳に・鼻び・舌ぜつ・身しん・意いは同おなじ物ものなり。 ただし仏ぶつの六根ろっこんは勝すぐれ、 凡ぼん夫ぶの六根ろっこんは劣おとれるばかりなり。

仏0190ノ功徳ハ前々ノ毎↢七日↡悉ク奉↢讃嘆↡事ニテ候ヘドモ、必シモ不ジ↠申サ↢前ニ申タル事ヲバ↡。可↠思、別之徳ヲ珍シク奉ル↠讃事ニテモ不↠候、讃↢嘆スルニ同事ヲ↡功徳増ル事ニテ候ヘバ、猶可↠奉ル↠釈シ↢名号ノ功徳ヲ↡。相好ノ功徳ハ、仏ノ六根モ凡夫ノ六根モ、眼・耳・鼻・舌・身・意ハ同物也。但シ仏ノ六根ハ勝レ、凡夫ノ六根ハ劣レル許 リ也。

名みょう号ごうの功く徳どくは、 一切いっさいの諸しょ仏ぶつにみな二に種しゅの名みょう号ごうまします。 いはく通号つうごうと別号べつごうとなり。 別号べつごうとは、 薬やく師し瑠璃るり光こう・阿あしゅく・釈しゃ迦か牟尼むになんど申もうすはこれ別号べつごうなり。 念仏ねんぶつもこれに准じゅんじて知しるべし。

名号ノ功徳ハ、一切ノ諸仏ニ皆有マス↢二種ノ名号↡。謂ク通号ト別号トナリ也。別号トハ者、薬師瑠璃光・阿・釈迦牟尼ナンド申ハ是 レ別号也。念仏モ准ジテ↠之可シ↠知ル。

阿あ弥陀みだ仏ぶつにも通号つうごう・別号べつごうまします。 阿あ弥陀みだとは別号べつごうなり、 ここには無む量りょう寿じゅ・無む量りょう光こうといふ。 この別号べつごうの功く徳どくは前々ぜんぜんに釈しゃくしたてまつり候そうろふ。 通号つうごうとは、 仏ぶつといふこれなり。 一切いっさいの諸仏しょぶつみなこの名なを具ぐしたまへり、 一仏いちぶつも替かわることなし。 仏ぶつとはつぶさには仏ぶつ陀だといふ、 ここには翻ほんじて覚者かくしゃといふ。 これにつきて三みつの意こころあり。 自じ覚かく・覚かく他た・覚かく行ぎょう円満えんまんなり。 自じ覚かくとは凡ぼん夫ぶに異ことなり、 覚かく他たとは二に乗じょうに異ことなり、 覚かく行ぎょう円満えんまんとは菩ぼ薩さつに異ことなるなり。 これにつきて意こころ得うれば、 阿あ弥陀みだ仏ぶつの極楽ごくらく世せ界かいのなかに取とりて、 その国くににあらゆる人天にんでんに異ことなるがゆゑに自じ覚かくといひ、 かの土どの声しょう聞もん等とうに異ことなるがゆゑに覚かく他たといひ、 かの土どの菩ぼ薩さつに異ことなるがゆゑに覚かく行ぎょう円満えんまんといふなり。

阿弥陀仏ニモ有マス↢通号・別号↡。阿弥陀トハ者別号也、此ニハ云↢無量寿・無量光ト↡。此ノ別号ノ功徳ハ前々ニ奉リ↠釈シ候。通号トハ者、云フ↠仏ト是也。一切ノ諸仏皆具タマヘリ↢此ノ名ヲ↡、一仏モ無シ↠替ルコト。仏トハ者具ニハ云↢仏陀ト↡、此ニハ翻ジテ云↢覚者ト↡。付テ↠之ニ有↢三ノ意↡。自覚・覚他・覚行円満也。自覚トハ者異リ↢凡夫ニ↡、覚他トハ者異リ↢二乗ニ↡、覚行円満トハ者異ナリ↢菩薩ニ↡。付テ↠之ニ得バ↠意、阿弥陀仏ノ極楽世界ノ中ニ取テ矣、異ガ↢其ノ国ニ所有ル人天ニ↡故ニ云↢自覚ト↡、異ガ↢彼土ノ声聞等ニ↡云↢覚他ト↡、異ガ↢彼土ノ菩薩ニ↡故云リ↢覚行円満ト↡。

劫こうのはじめには名ななく、 聖しょう人にんあひ議ぎして名なをつけたり。 はじめには百ひゃく千万せんまんの名なあり 云々。 釈しゃ迦かの時ときには十じゅう号ごうあり、 すなはち如来にょらい・応おう供ぐ等とうなり。 如来にょらいとは、 如実にょじつの法ほうに乗じょうじて来きたりたまへるゆゑなり、 乃ない至し天人てんにん師しとは、 人天にんでんのみに限かぎらず六道ろくどう四し生しょうに通つうず。 いま人天にんでんを挙あげて余よを摂せっす。 世せ尊そんとは、 十方じっぽう世せ界かいに相対そうたいしていふにあらず、 一いち世せ界かいに約やくして名なづくるなり。

劫初ニハ無↠名、聖人相議シテ付タリ↠名ヲ。初ニハ有↢百千万ノ名↡ 云云。釈迦ノ時ニハ有↢十号↡、即如来・応供等也。如来トハ者、乗ジテ↢如実ノ法ニ↡来リ給ル故ナリ也、乃至天人師トハ者、不↠限ラ↢人天ノミニ↡通ズ↢六道四生ニ↡。今挙テ↢人天ヲ↡摂ス↠余ヲ也。世尊トハ者、非ズ↧相↢対シテ十方世界ニ↡而言ニ↥、約シテ↢一世界ニ↡而名0191クルナリ也。

一いち百ひゃく倶く胝てい界かいに二に尊そん並ならび出いでず 云々。 一いち世せ界かいのなかに同おなじやうに二に仏ぶつの出いでたまふ事ことなし。 また一いち四し天てん下げのなかに輪王りんのう二人ふたり出いづる事ことなし。 ただし一いっ世せ不二ふに仏ぶつ並出びょうしゅつの事ことは、 大だい事じの論ろん義ぎにて候そうろふなり。 しかれどももとの義ぎは、 大だい小乗しょうじょうともに二に仏ぶつ並出びょうしゅつといふ事ことをば許ゆるさず。 しかれば浄じょう瑠璃るり浄じょう土どには薬やく師し仏ぶつの外ほかはまた仏ぶつなく、 極楽ごくらく世せ界かいには阿あ弥陀みだ仏ぶつの外ほかは仏ぶつましまさず、 乃ない至し十方じっぽうの仏ぶつ土どみなかくのごとし。

一百倶胝界ニ二尊不↢並ビ出デ↡ 云云。一世界ノ中ニ無シ↢同ジ様ニ二仏ノ出給事↡。又一四天下ノ中ニ無シ↢輪王二人出事↡。但シ一世不二仏並出ノ事ハ、大事之論義ニテ候也。然ドモ而本ノ義ハ者、大小乗倶ニ不↠許サ↢二仏並出ト云事ヲバ↡。然バ者浄瑠璃浄土ニハ薬師仏ノ外ハ又無ク↠仏、極楽世界ニハ阿弥陀仏ノ外ハ不↠有マサ↠仏、乃至十方ノ仏土皆如シ↠是。

¬往おう生じょう要よう集しゅう¼ の対たい治じ懈け怠だいのなかに二に十種じっしゅの仏ぶつの功く徳どくを挙あげたる第だい二にに、 名みょう号ごうの功く徳どくを讃さんずるに ¬維ゆい摩ま経きょう¼ を引ひきていはく、 「諸仏しょぶつの色身しきしん威い相そう、 種しゅ姓しょう、 戒かい・定じょう・智恵ちえ・解げ脱だつ・知ち見けん・力りき・無む所しょ畏い・不共ふぐの法ほう、 大だい慈じ大だい悲ひ、 威儀いぎ所しょ行ぎょう、 およびその寿じゅ命みょう、 説法せっぽう教きょう化け、 成じょう就じゅ衆しゅ生じょう、 浄じょう仏ぶつ国こく土ど、 もろもろの仏法ぶっぽうを具ぐす、 ことごとくみな同等どうとうなり。 このゆゑに名なづけて三さん藐みゃく三仏さんぶつとし、 名なづけて多陀ただ阿あ伽度かどとし、 名なづけて仏ぶっ陀だとす。 阿あ難なん、 もし広ひろくこの三さん句くの義ぎを説とかば、 なんぢ劫寿こうじゅをもつても受うくること尽つくあたはず。 まさに三千さんぜん大千だいせん世せ界かいのなかに満みてる衆しゅ生じょうをして、 みな阿あ難なんのごとく多た門もん第一だいいちにして念ねん総そう持じを得えしめて、 この諸人しょにんら劫こうの寿いのちをもつてまた受うくることあたはず」 と。 以上

¬往生要集ノ¼対治懈怠ノ中ニ挙タル↢二十種ノ仏ノ功徳ヲ↡第二ニ、讃ルニ↢名号ノ功徳ヲ↡引テ↢¬維摩経ヲ¼↡云ク、「▲諸仏ノ色身威相、種姓、戒・定・智恵・解脱・知見・力・無所畏・不共之法、大慈大悲、威儀所行、及ビ其ノ寿命、説法教化、成就衆生、浄仏国土、具↢諸仏法↡、悉皆同等ナリ。是ノ故ニ名テ為↢三藐三仏↡、名テ為↢多陀阿伽度ト↡、名テ為↢仏陀ト↡。◆阿難、若シ広ク説カバ↢此ノ三句ノ義ヲ↡、汝以テモ↢劫寿↡不↠能↠尽ク↠受コト。正ニ使メテ↧三千大千世界ノ中ニ満テル衆生ヲシテ、皆如ク↢阿難ノ↡多門第一ニシテ得↦念総持↥、此ノ諸人等以テ↢劫之寿↡亦不↠能↠受コト。」已上

¬要訣ようけつ¼ (西方要決) にいはく、 「¬成じょう実論じつろん¼ に仏ぶつの名みょう号ごうを釈しゃくして」 云々。 また ¬西方さいほう要決ようけつ¼ にいはく、 「諸仏しょぶつ願がん行ぎょう成じょう此し果か名みょう、 但能たんのう念号ねんごう具ぐ包ほう衆徳しゅとく、 故こ成じょう大善だいぜん」 と。 以上 これ通号つうごうの功く徳どく大善だいぜんとなるなり。

¬要訣¼云、「¬成実論ニ¼釈シテ↢仏ノ名号↡。」云云 又¬西方要決ニ¼云、「諸仏願行成此果名、但能念号具包衆徳、故成大善。」已上 是 レ通号ノ功徳成↢大善↡也。

しかるに永観ようかん律りっ師しの ¬十じゅう因いん¼ に阿あ弥陀みだの三さん字じを釈しゃくする処ところに、 この文もんを引ひきて別号べつごうの功く徳どくの大善だいぜんなるやうを釈成しゃくじょうせられたるは僻事ひがごとなり。 南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと申もうす功く徳どく殊しゅ勝しょうなることは、 通号つうごうの仏ぶつといふ一いち字じのゆゑなり。 阿あ弥陀みだといふ名みょう号ごうのめでたく貴たっときも、 かの仏ぶつの名みょう号ごうなるがゆゑなり。 しかるに阿あ弥陀みだの三さん字じを名なにつきたまへるゆゑに、 功く徳どく殊しゅ勝しょうなる仏ぶつにてましますやうに申もうす人ひとも候そうろふ。 それは僻事ひがごとにて候そうろふなり。

然ニ永観律師ノ¬十因ニ¼釈スル↢阿弥陀ノ三字ヲ↡之処ニ、引テ↢此ノ文ヲ↡釈↢成セラレタルハ別号ノ功徳ノ大善ナル様ヲ↡者僻事也。申↢南無阿弥0192陀仏ト↡功徳殊勝ナルコトハ者、通号ノ之仏ト云フ一字ノ之故ナリ也。云フ↢阿弥陀ト↡之名号ノ目出ク貴キモ、彼ノ仏ノ之名号ナルガ故也。然ニ阿弥陀ノ三字ヲ付キ↠名ニ給ヘル故ニ、功徳殊勝ナル仏ニテ坐マス様ニ申ス人モ候。其レハ僻事ニテ候也。

・第六七日 観経

△次つぎに ¬観かん無む量りょう寿じゅ経きょう¼ とは、 大たい意いを意こころ得えんと欲おもはば、 かならず教きょう相そうを知しるべきなり。 教きょう相そうを沙汰さたせざれば、 法門ほうもんの浅深せんじん差別しゃべつあきらかならざるがゆゑなり。

○次ニ¬観無量寿経トハ¼者、欲バ↠得ト↠意↢大意ヲ↡者、必ズ可キナリ↠知ル↢教相ヲ↡也。不レバ↣沙↢汰教相ヲ↡者、法門ノ浅深差別不ガ↠明ナラ故ナリ也。

しかるに諸しょ宗しゅうにみな立りっ教きょう開かい示じあり。 法相ほっそう宗しゅうには三さん時じ教きょうを立たてて一代いちだいの諸しょ教きょうを摂せっし、 三論さんろん宗しゅうには二に蔵ぞう教きょうを立たてて大だい小しょうの諸しょ教きょうを摂せっし、 華け厳ごん宗しゅうには五ご教きょうを立たて、 天台てんだい宗しゅうには四し教きょうを立たつ。

◇然ニ▲諸宗ニ皆有↢立教開示↡。▲法相宗ニハ立テヽ↢三時教ヲ↡摂シ↢一代ノ諸教ヲ↡、▲三論宗ニハ立テヽ↢二蔵教ヲ↡摂シ↢大小ノ諸教ヲ↡、▲華厳宗ニハ立テ↢五教ヲ↡、▲天臺宗ニハ立ツ↢四教↡。

いまわが浄じょう土ど宗しゅうには道どう綽しゃく禅ぜん師じの ¬安楽あんらく集しゅう¼ に聖しょう道どう・浄じょう土どの二に教きょうを立たつ。 一代いちだいの聖教しょうぎょう五ご千せん余よ軸じく、 この二に門もんをば出いでず。

◇今我▲浄土宗ニハ道綽禅師ノ¬安楽集ニ¼立ツ↢聖道・浄土ノ二教ヲ↡。一代聖教五千余軸、不↠出↢此ノ二門ヲバ↡。

はじめに聖しょう道どう門もんとは、 三さん乗じょう・一いち乗じょうの得道とくどうなり。 すなはちこの娑しゃ婆ば世せ界かいにおいて断惑だんわく開かい悟ごする道どうなり。 総そうじて分わかたば二にあり。 いはく大だい乗じょう・小乗しょうじょうの聖しょう道どうなり。 別べっして論ろんずれば四し乗じょうの聖しょう道どうあり。 いはく声しょう聞もん乗じょう・縁覚えんがく乗じょう・菩ぼ薩さつ乗じょう・仏ぶつ乗じょうなり。

◇初ニ聖道門トハ者、三乗・一乗ノ得道ナリ也。即於テ↢此ノ娑婆世界ニ↡断惑開悟スル之道也。総ジテ分バ有↠二。謂ク大乗・小乗ノ聖道也。別シテ論ズレバ者有↢四乗ノ聖道↡。謂ク声聞乗・縁覚乗・菩薩乗・仏乗也。

浄じょう土どとは、 まづこの娑しゃ婆ば穢え悪あくの境さかいを出いでてかの安楽あんらく不ふ退たいの国くにに生うまれ、 自じ然ねんに増進ぞうしんして仏道ぶつどうを証しょう得とくせんと求もとむる道どうなり。

◇浄土トハ者、先出テ↢此ノ娑婆穢悪ノ境ヲ↡生↢彼ノ安楽不退ノ国ニ↡、自然ニ増進シテ証↢得セント仏道ヲ↡而求ムル道ナリ也。

この二に門もんを立たつることは、 道どう綽しゃく一いっ師しのみにあらず。 曇鸞どんらん法ほっ師し (論註巻上意) も龍りゅう樹じゅ菩ぼ薩さつの ¬十住じゅうじゅう毘婆びば娑しゃ論ろん¼ を引ひきて難なん行ぎょう・易い行ぎょうの二に道どうを立たてたまへり。 「難なん行ぎょう道どうは陸ろく地じより歩ぶ行ぎょうするがごとく、 易い行ぎょう道どうは船ふねに乗じょうずるがごとし」 とたとへたまへり。

◇▲立コトハ↢此ノ二門ヲ↡者、非↢道綽一師ノミニ↡。▲曇鸞法師モ引テ↢龍樹菩薩ノ¬十住毘婆娑論ヲ¼立タマヘリ↢難行・易行ノ二道ヲ↡。「難行道ハ如ク↢陸地ヨリ歩行スルガ↡、易行道ハ如シト↠乗↠船ニ」譬ヘ給ヘリ。

この二に道どうを立たつることは、 曇鸞どんらん一いっ師しに限かぎらず。 天台てんだいの ¬十じゅう疑ぎ論ろん¼ にも同おなじく引いん釈しゃくしたまへり。 また迦か才ざいの ¬浄じょう土ど論ろん¼ にも同おなじく引ひけり。 その難なん行ぎょう道どうとはすなはち聖しょう道どう門もんなり、 易い行ぎょう道どうとはすなはち浄じょう土ど門もんなり。

◇立コトハ↢此ノ二道ヲ↡、不↠限↢曇鸞一師ニ↡。▲天臺ノ¬十疑論ニモ¼同ク引釈シ給ヘリ。又迦才ノ¬浄土0193論ニモ¼同ク引ケリ。其難行道トハ者即聖道門也、易行道トハ者即浄土門ナリ也。

しかのみならずまた慈じ恩おん大だい師し (西方要決) のいはく、 「まのあたり聖しょう化けに逢あひ、 道どう三さん乗じょうを悟さとり、 福ふく薄うすく因いん疎おろそかなるをば、 勧すすめて浄じょう土どに帰きせしむ」 と。 云々 このなかに三さん乗じょうとはすなはち聖しょう道どう門もんなり、 浄じょう土どとはすなはち浄じょう土ど門もんなり。

◇加之又慈恩大師云、「▲親マノアタリ逢↢聖化ニ↡、道悟リ↢三乗↡、福薄ク因疎ナルヲバ、勧テ帰シムト↢浄土ニ↡。」云云 ▲此ノ中ニ三乗トハ者即聖道門ナリ也、浄土トハ即浄土門也。

難なん行ぎょう・易い行ぎょう、 三さん乗じょう・浄じょう土ど、 聖しょう道どう・浄じょう土ど、 その言ことば異ことなりといへども、 その意こころみな同おなじ。 およそ一代いちだいの諸しょ教きょうこの二に門もんを出いでず。

◇難行・易行、▲三乗・浄土、聖道・浄土、其ノ言雖↠異ト、其ノ意皆同ジ。凡ソ一代ノ諸教不↠出↢此ノ二門ヲ↡。

すなはちただ浄じょう土ど宗しゅうの経きょう論ろんのみこの二に門もんに摂せっするにあらず、 乃ない至し諸しょ宗しゅうの章しょう疏しょみなこの二に門もんを出いでざるなり。

◇乃非↣啻浄土宗ノ経論ノミ摂↢此二門ニ↡、乃至諸宗ノ章疏皆不↠出↢此ノ二門ヲ↡也。

天台てんだい宗しゅうにはまさしくは仏ぶつ乗じょうの聖しょう道どうを明あかし、 かたはらには往おう生じょう浄じょう土どを明あかす。 「即そく住じゅう安楽あんらく」 (法華経巻六薬王品) の文もんこれなり。

◇天臺宗ニハ正クハ明シ↢仏乗ノ聖道↡、傍ニハ明↢往生浄土ヲ↡。「即住安楽ノ」文是ナリ也。

華け厳ごん宗しゅうにはまた天台てんだい宗しゅうのごとく聖しょう道どうを修しゅするは浄じょう土どに生しょうずべきことを得うることかたしといふ。 「願がん我が臨欲りんよく終じゅう時じ」。 云々

◇華厳宗ニハ又如ク↢天臺宗ノ↡云フ↧修ルハ↢聖道ヲ↡難↞得↠可↠生↢浄土↡。「願我臨欲終時。」云云

達だつ磨ま宗しゅうには経きょうによりて教きょうを立たてず、 (達磨大師血脈論) 「前仏ぜんぶつ後ご仏ぶつ、 以い心しん伝心でんしん、 不ふ立りゅう文もん字じ」 と申もうして、 経きょう論ろんによらざる宗しゅうなり。 釈しゃ迦か入にゅう滅めつの刻きざみ、 わずかに一いち偈げをもつてひそかにこれを迦か葉しょうに授さずけたまへる法ほうなり。 その偈げにいはく、 「法ほうの本法ほんほうは無む法ほうなり、 無む法ほうの法ほうはまた法ほうなり。 いま無む法ほうを付ふす時とき、 法法ほうぼうなんぞかつて法ほうならん」 と。 云々 あるいはかくのごときの偈げを授さずけ、 あるいは揚よう眉み動目どうもくと申もうして、 眉まゆを挙あげて目めを揺ゆらし意こころ得うといふ法ほうなり。 さらに受じゅ習しゅうとする事ことなし、 即身そくしん即仏そくぶつと解さとりて、 総そうじて往おう生じょう浄じょう土どをば沙汰さたせず。

達磨宗ニハ不↢依テ↠経ニ立↟教ヲ、申テ↢「前仏後仏、以心伝心、不立文字ト」↡、不ル↠依ラ↢経論ニ↡宗也。釈迦入滅ノ之刻 ミ、僅ニ以テ↢一偈ヲ↡密ニ授↢之ヲ迦葉ニ↡給ヘル法也。其ノ偈ニ曰ク、「法ノ本法ハ無法ナリ、無法ノ法ハ亦法ナリ。今付ス↢無法ヲ↡時 キ、法法何ゾ曾テ法ナラン。」云云 或授ケ↢如ノ↠此偈ヲ↡、或申テ↢揚眉動目ト↡、挙テ↠眉ヲ揺↠目意得ト云法也。更ニ無シ↢受習トスル事↡、解テ↢即身即仏ト↡、総ジテ不↣沙↢汰セ往生浄土ヲバ↡。

真言しんごん宗しゅう (発菩提心論) には 「父母ぶも所しょ生しょう身しん速そく証しょう大覚だいかく位い」 と申もうして、 大日だいにち如来にょらいに約やくして即身そくしん成じょう仏ぶつの旨むねを説とき、 胎蔵たいぞうには三さん部ぶを立たて、 金剛こんごうには五部ごぶを立たつ。 この両りょう部ぶの大法だいほうには浄じょう土どを説とかず、 ただ即身そくしんに大日だいにち如来にょらいの位くらいを得うるなり。 これ普通おぼろげの人ひとの修しゅし得うべきやうもなき事ことなり。 しかれば ¬菩ぼ提だい心論しんろん¼ (発菩提心論意) には 「上じょう根こん上じょう智ちの人ひとのためにこの法ほうを説とく」 といへり。 このごろの人ひとは下げ根こんにだにも及およばず、 修しゅせんと欲ほっすとも叶かなふまじき事ことなり。

真言宗ニハ申テ↢「父母所生身速証大覚位ト」↡、約シテ↢大日如来ニ↡説キ↢即身成仏ノ旨ヲ↡、胎蔵ニハ立↢三部ヲ↡、金剛ニハ立↢五部ヲ↡。此両部ノ大法ニハ不↠説↢浄土ヲ↡、唯即身ニ得↢大日如来ノ位ヲ↡也。此 レ無キ↧普通ヲボロゲノ人ノ可キ↢修0194シ得↡様モ↥事也。然バ者¬菩提心論ニハ¼云ヘリ↧「為ニ↢上根上智ノ人ノ↡説ト↦此法ヲ↥。」近来コノゴロノ人ハ不↠及↢下根ニダニモ↡、欲トモ↠修ント不マジキ↠叶フ事也。

「△韻いん高たかくしては和わするもの少すくなし」 (止観巻八上) と申もうして、 歌うたをも歌うたふに伽陀かだをも誦じゅするに、 はじめにあまり高たかく出いだしつれば、 後のちにはわが声こえも及およばず、 人ひともつかざるなり。 教きょうの韻いん高たかければ、 行ぎょう者じゃの和わすること及およぶべからず。 たとへば強つよき弓ゆみの、 究く竟きょうの弓ゆみといふとも少すこしも引ひき揺はたらかさぬものに値あひぬれば、 弱よわき弓ゆみを安やすく引ひきて射いたるものには劣おとりたるなり。 この秘ひ蔵ぞう甚深じんじんの法ほうもまたかくのごとし、 修しゅし得えんもののためには、 まことにこれ父母ぶも所しょ生しょうの肉身にくしんを改あらためずして遮しゃ那な同体どうたいの覚かく位いに至いたらん事こと、 好よくめでたかるべき事ことなれども、 機き根こん及およばざるもののためには、 言ことばのみありて実まことあるべからず。 しかれば身しん器きを計はからひて法ほうをも持たもつべきなり。

申テ↢「韻高シテハ和スルモノ少シト」↡、歌ニ↠歌ヲモ誦スルニ↢伽陀ヲモ↡、初ニ余リ高ク出シツレバ者、後ニハ不↠及バ↢我ガ声モ↡、人モ不ル↠付カ也。教ノ韻高レバ、行者ノ和不↠可↠及。譬ヘバ如↢強ツヨキ弓ノ、雖フトモ↢究竟ノ弓ト↡値ヌレバ↧少モ不ヌ↢引揺ハタラカサ↡之者 ノニ↥、劣ヲトリタル↢弱弓ヲ安ク引テ射タル之者 ノニハ↡也。此ノ之秘蔵甚深ノ法モ亦如↠是、為ニハ↢修シ得ヘン者 ノヽ↡、実ニ此 レ不シテ↠改↢父母所生ノ肉身ヲ↡至ラン↢遮那同体ノ覚位ニ↡事、可↢好ク目出カル↡事ナレドモ、為↢機根不ル↠及者 ノヽ↡、有テ↠言ノミ不↠可↠有ル↠実 ト。然バ者計ヒテ↢身器ヲ↡可↠持↠法ヲモ也。

この華け厳ごん・天台てんだい・達だつ磨ま・真言しんごんの四し宗しゅうは、 あるいは即身そくしん成じょう仏ぶつ、 あるいは即心そくしん是ぜ仏ぶつにして、 みな仏ぶつ乗じょうの聖しょう道どうなり。 そのなかにおのづから往おう生じょうを説とくといへども、 まさしき意こころにはあらず、 かたはらの義ぎなり。 三論さんろん・法相ほっそうは、 また歴りゃっ劫こう成じょう仏ぶつの旨むねを明あかす、 これは菩ぼ薩さつ乗じょうの聖しょう道どうなり。

此ノ華厳・天臺・達磨・真言ノ四宗ハ、或ハ即身成仏、或ハ即心是仏ニシテ、皆仏乗ノ聖道ナリ也。其ノ中ニ雖↣自ヲ 説ト↢往生ヲ↡、非↢正シキ意ニハ↡、傍ノ義也。三論・法相ハ、又明↢歴劫成仏ノ旨ヲ↡、是ハ菩薩乗ノ聖道也。

三論さんろん宗しゅうの祖師そし嘉か祥じょうは、 ¬観かん経ぎょう¼・¬双巻そうかん経ぎょう¼ ともに ¬疏しょ¼ を造つくりたれども、 浄じょう土どをもつてわが本ほん意いとせざるゆゑに委くわしく釈しゃくせず。

三論宗ノ祖師嘉祥ハ、¬観経¼・¬双巻経¼倶ニ造タレドモ↠¬疏ヲ¼、不ル↧用テ↢浄土ヲ↡為↦我ガ本意ト↥故ニ不↢委ク釈セ↡。

この朝ちょうには元興がんこう寺じの智ち光こう・頼光らいこう、 本ほん宗しゅうを捨すてて浄じょう土ど門もんに入いり、 智ち光こうは ¬往おう生じょう論ろんの疏しょ¼ を造つくれり。 近ちかくは永観ようかん念仏ねんぶつの一門いちもんに入いりて、 ¬往おう生じょう十じゅう因いん¼ を造つくる。 これらもなほ本ほん宗しゅうの意こころにては往おう生じょうを沙汰さたせず、 みな本ほん宗しゅうを捨すてて浄じょう土どには入いるなり。

此ノ朝ニハ元興寺ノ智光・頼光、捨テヽ↢本宗ヲ↡入リ↢浄土門ニ↡、智光ハ造レリ¬往生論ノ疏ヲ¼。近ハ永観入↢念仏ノ一門ニ↡、造ル↢¬往生十因ヲ¼。此等モ猶本宗ノ意ニテハ不↣沙↢汰往生ヲ↡、皆捨テヽ↢本宗ヲ↡入↢浄土ニハ↡也。

法相ほっそう宗しゅうの祖師そし慈じ恩おん大だい師しは、 ¬西方さいほう要決ようけつ¼ を造つくりひとへに往おう生じょう浄じょう土どを勧すすむといへども、 自じ宗しゅうの意こころにあらず。 ただ化け導どうのために往おう生じょうの旨むねを剰そへ釈しゃくしたまへるなり。 しかれば自じ身しんは兜と率そつに上生じょうしょうしたまへり。

法相宗ノ祖師慈恩大師ハ、造↢¬西方要決ヲ¼雖モ↣偏ニ勧ト↢往生浄土ヲ↡、非↢自宗ノ意ニ↡。但為↢化導ノ↡剰ソヘ↢釈シ往生ノ旨ヲ↡給ヘル也。然バ者自身ハ上↢生シ兜率ニ↡給ヘリ。

倶く舎しゃ・成じょう実じつ・律りっ宗しゅう、 これらはこれ小乗しょうじょう宗しゅうなり。 声しょう聞もん・縁覚えんがく二に乗じょうの得道とくどうを明あかして総そうじて浄じょう土どをば説とかず。 しかれば声しょう聞もん乗じょうの聖しょう道どう・縁覚えんがく乗じょうの聖しょう道どうなり。

倶舎・成実・律宗0195、此等ハ是 レ小乗宗也。明シテ↢声聞・縁覚二乗ノ得道ヲ↡而総ジテ不↠説↢浄土ヲバ↡。然バ者声聞乗ノ聖道・縁覚乗ノ聖道也。

しかるにいまこの ¬経きょう¼ は往おう生じょう浄じょう土どの教きょうなり。 即身そくしん頓とん悟ごの旨むねをも明あかさず、 歴りゃっ劫こう迂廻うえの行ぎょうをも説とかず。 娑しゃ婆ばの外ほかに極楽ごくらくあり、 わが身みの外ほかに阿あ弥陀みだましますと説ときてこの界かいを厭いとひてかの国kにに生うまれ、 無む生しょう忍にんを得えんと願ねがふ旨むねを明あかすなり。 善導ぜんどう釈しゃく (玄義分) していはく、 「定じょう散さん等とう回え向こう、 速そく証しょう無む生しょう身しん」 と。 云々

○而ニ今此ノ¬経ハ¼往生浄土ノ教也。不↠明↢即身頓悟ノ之旨ヲモ↡、不↠説↢歴劫迂廻ノ之行ヲモ↡。説テ↧娑婆ノ之外ニ有リ↢極楽↡、我身ノ之外ニ有スト↦阿弥陀↥而明ス↩可キ↠願↧厭テ↢此ノ界ヲ↡生↢彼ノ国ニ↡、得ント↦無生忍ヲ↥之旨ヲ↨也。善導釈シテ曰ク、「▲定散等廻向、速証無生身。」云云

およそこの ¬経きょう¼ にはあまねく往おう生じょうの行ぎょう業ごうを説とく。 すなはちはじめには定じょう散さん二に善ぜんを説ときて総そうじて一切いっさいの諸しょ機きに与あたへ、 次つぎに念仏ねんぶつの一いち行ぎょうを簡えらびて別べっして未み来らいの群ぐん生じょうに流る通ずうせり。 ゆゑに ¬経きょう¼ にいはく、 「仏告ぶつごう阿あ難なん、 汝にょ、 好こう持じ是語ぜご」 等とうと 云々。 善導ぜんどうこれを釈しゃくして (散善義) いはく、 「仏告ぶつごう阿あ難なん汝好にょこう持じ是語ぜごより以下いげは、 まさしく弥陀みだの名みょう号ごうを付ふ属ぞくして、 遐か代だいに流る通ずうすることを明あかす」 等とうと 云々。 しかればこの ¬経きょう¼ の意こころによりて、 いま聖しょう道どうを捨すて念仏ねんぶつに入いるなり。

◇凡ソ此ノ¬経ニハ¼遍ク説↢往生ノ行業ヲ↡。則初ニハ説テ↢定散二善ヲ↡総ジテ与ヘ↢一切ノ諸機ニ↡、次ニ簡テ↢念仏ノ一行ヲ↡別シテ流↢通セリ未来ノ群生ニ↡。故ニ¬経ニ¼云、「仏告阿難、汝、好持是語」等 云云。善導釈シテ↠之言ハク、「従仏告阿難汝好持是語已下ハ、正ク明↧付↢属弥陀ノ名号ヲ↡、流↦通於遐代ニ↥」等 云云。然バ者依テ↢此ノ¬経ノ¼意ニ↡、今捨↢聖道ヲ↡入ル↢念仏ニ↡也。

その往おう生じょう浄じょう土どにつきて、 またその行ぎょうこれ多おおし。 これによりて善導ぜんどう和か尚しょう専雑せんぞう二に修しゅを立たてて、 諸しょ行ぎょうの勝しょう劣れつ得失とくしつを判はんじたまへり。 すなはちこの経きょうの ¬疏しょ¼ (散善義) にいはく、 「就じゅ行ぎょう立信りっしんとは、 しかるに行ぎょうに二に種しゅあり。 一いちには正行しょうぎょう、 二にには雑ぞう行ぎょうなり」 と。 云々 もつぱらかの正行しょうぎょうを修しゅするを専修せんじゅの行ぎょう者じゃといひ、 正行しょうぎょうを修しゅせずして雑ぞう行ぎょうを修しゅするを雑修ざっしゅのものと申もうすなり。

◇就テ↢其ノ往生浄土↡、亦其ノ行是 レ多シ。依テ↠之ニ善導和尚立テヽ↢専雑二修ヲ↡、判ジ↢諸行ノ勝劣得失ヲ↡給ヘリ。則此ノ経¬疏ニ¼云、「▲就行立信トハ者、然ニ行ニ有↢二種↡。一ニハ正行、二ニハ雑行。」 云云 専修ルヲ↢彼正行ヲ↡云↢専修ノ行者ト↡、不シテ↠修↢正行ヲ↡而修ルヲ↢雑行ヲ↡申ス↢雑修ノ者ト↡也。

その専雑せんぞう二に修しゅの得失とくしつにつきて、 いまわたくしに料りょう簡けんするに五義ごぎあり。 一いちには親しん疎そ対たい、 二にには遠近ごんおん対たい、 三さんには有う間けん無む間けん対たい、 四しには回え向こう不ふ回え向こう対たい、 五ごには純じゅん雑ぞう対たいなり。

◇▲付テ↢其ノ専雑二修ノ得失ニ↡、今私ニ料簡スルニ有↢五義↡。一親疎対、二ニハ遠近対、三ハ有間無間対、四ニハ廻向不廻向対、五ニハ純雑対也。

はじめに親しん疎そ対たいとは、 正行しょうぎょうを修しゅするは阿あ弥陀みだ仏ぶつに親したしく、 雑ぞう行ぎょうを修しゅするはかの仏ぶつに疎うとし。 すなはち ¬疏しょ¼ (定善義) にいはく、 「衆しゅ生じょう行ぎょうを起おこして口くちにつねに仏ぶつを称しょうすれば、 仏ぶつすなはちこれを聞ききたまふ。 身みにつねに仏ぶつを礼らい敬きょうすれば、 仏ぶつすなはちこれを見みたまふ。 心こころにつねに仏ぶつを念ねんずれば、 仏ぶつすなはちこれを知しりたまふ。 衆しゅ生じょう仏ぶつを憶念おくねんすれば、 仏ぶつまた衆しゅ生じょうを憶念おくねんしたまふ。 彼此ひしの三業さんごうあひ捨しゃ離りせず。 ゆゑに親縁しんえんと名なづく」 と。 云々

◇▲初ニ親疎対トハ者、修スルハ↢正行ヲ↡親0196ク↢于阿弥陀仏ニ↡、修スルハ↢雑行ヲ↡疎シ↢於彼ノ仏ニ↡。則¬疏ニ¼云、「衆生起シテ↠行口常ニ称スレバ↠仏ヲ、仏即聞タマフ↠之ヲ。身常ニ礼↢敬スレバ仏ヲ↡、仏即見タマフ↠之。心ニ常ニ念ズレバ↠仏ヲ、仏即知タマフ↠之。衆生憶↢念スレバ仏ヲ↡者、仏亦憶↢念シタマフ衆生ヲ↡。彼此ノ三業不↢相ヒ捨離↡。故ニ名↢親縁ト↡也。」云云

その雑ぞう行ぎょうのものは、 口くちに仏ぶつを称しょうせざれば仏ぶつすなはち聞ききたまはず、 身みに仏ぶつを礼らいせざれば仏ぶつすなはち見みたまはず、 心こころに仏ぶつを念ねんぜざれば仏ぶつ知しろしめさず、 仏ぶつを憶念おくねんせざれば仏ぶつまた憶念おくねんしたまはず。 彼此ひしの三業さんごうつねに捨しゃ離りす。 ゆゑに疎そと名なづく。

◇▲其ノ雑行ノ者 ノハ、口ニ不レバ↠称セ↠仏ヲ者仏即不↢聞給↡、身ニ不レバ↠礼↠仏者仏即不↢見給↡、心ニ不レバ↠念↠仏仏不↢知シ召サ↡、不↣憶↢念仏ヲ↡者仏又不↢憶念シタマハ↡。彼此ノ之三業常ニ捨離ス。故ニ名↠疎ト也。

次つぎに近遠ごんおん対たいとは、 正行しょうぎょうはかの仏ぶつに近ちかづき、 雑ぞう行ぎょうはかの仏ぶつに遠とおざかるなり。 ¬疏しょ¼ (定善義) にまたいはく、 「衆しゅ生じょう仏ぶつを見みんと欲ほっすれば、 仏ぶつすなはち念ねんに応おうじて現げんに目前もくぜんにまします。 ゆゑに近縁ごんおんと名なづく」 と。 云々 雑ぞう行ぎょうのものは、 仏ぶつを見みんと欣ねがひたてまつらざれば仏ぶつすなはち念ねんに応おうじたまはず、 目前もくぜんにも現げんじたまはず。 ゆゑに遠おんと名なづくるなり。 ただしつねの義ぎには親近しんごんと申もうしつれば一ひとつ事ことのやうに聞きこふれども、 善導ぜんどう和か尚しょうは親しんと近ごんとかくのごとく別べつなるものに釈しゃくしたまへり。 これによりていままた親近しんごんを分わかちて二にとするなり。

◇▲次ニ近遠対トハ者、正行ハ近ヅキ↢彼仏ニ↡、雑行ハ遠カル↢彼ノ仏ニ↡也。¬疏ニ¼又云、「衆生欲スレバ↠見ト↠仏ヲ、仏即応ジテ↠念ニ現ニ在マス↢目前ニ↡。故ニ名ク↢近縁ト↡。」云云 雑行ノ之者 ノハ、不↣欣↢奉ラ見ント↟仏ヲ仏即不ズ↢応ジ↠念ニ給↡、不↧現ジ↢目前ニモ↡給ハ↥。故ニ名↠遠ト也。但常ノ義ニハ申ツレバ↢親近ト↡者聞レドモ↢一事ノ様ニ↡、善導和尚ハ親ト与↠近如ク↠此別ナル物ニ釈シ給ヘリ。依テ↠之ニ今又分テ↢親近ヲ↡為↠二也。

次つぎに有う間けん無む間けん対たいとは、 無む間けんとは、 正行しょうぎょうを修しゅすにはかの仏ぶつにおいて憶念おくそう無む間けんなるなり。 ゆゑに文もん (散善義) に 「憶念おくねん不ふ断だん名みょう為い無む間けん」 といふこれなり。 有う間けんとは、 雑ぞう行ぎょうのものは、 阿あ弥陀みだ仏ぶつに心こころを懸かくる事こと間ひま多おおきがゆゑに、 文もん (散善義) に 「心しん常じょう間断けんだん」 といふこれなり。

◇▲次ニ有間無間対トハ者、無間トハ者、修ニハ↢正行ヲ↡於テ↢彼ノ仏ニ↡憶念無間ナルナリ。故ニ文云↢「憶念不断名為無間ト」↡是也。有間トハ者、雑行ノ之者、阿弥陀仏ニ懸↠心事間多キガ故ニ、文ニ云↢「心常間断ト」↡是也。

次つぎに回え向こう不ふ回え向こう対たいとは、 正行しょうぎょうのものは回え向こうを用もちゐざれども、 自じ然ねんに往おう生じょうの業ごうとなる。 すなはち ¬疏しょ¼ の第一だいいち (玄義分) にいはく、 「いま ¬観かん経ぎょう¼ のなかの十じっ声しょうの称しょう仏ぶつは、 すなはち十じゅう願がん・十じゅう行ぎょう具ぐ足そくすることあり。 いかんが具ぐ足そくする。 南無なもといふはすなはちこれ帰き命みょう、 またこれ発願ほつがん回え向こうの義ぎなり。 阿あ弥陀みだ仏ぶつといふはすなはちこれその行ぎょうなり。 この義ぎをもつてのゆゑにかならず往おう生じょうを得う」 と。 云々

◇▲次ニ廻向不廻向対トハ者、正行ノ者ハ不レドモ↠用↢廻向ヲ↡、自然ニ成ル↢往生ノ業ト↡。即¬疏ノ¼第一ニ云、「今¬観経ノ¼中ノ十声ノ称仏ハ、即有↢十願・十行具足↡。云何具足スル。言↢南無ト↡者即是 レ帰命、亦是発願廻向ノ之義ナリ。言0197ハ↢阿弥陀仏↡者即是 レ其ノ行ナリ。以テノ↢斯義ヲ↡故ニ必得↢往生ヲ↡。」云云

回え向こうとは、 かならず回え向こうを用もちゐる時とき往おう生じょうの業ごうとなる。 もし回え向こうせざれば往おう生じょうの業ごうとならず。 ゆゑに文もん (散善義) に 「雖すい可か回え向こう得とく生しょう」 といふこれなり。

◇▲廻向者、必用↢廻向ヲ↡時成↢往生ノ業ト↡。若不レバ↢廻向↡者不↠成↢往生ノ業ト↡。故ニ文ニ云↢「雖可廻向得生ト」↡是也。

次つぎに純じゅん雑ぞう対たいとは、 正行しょうぎょうは純じゅん極楽ごくらくの行ぎょうなり。 余よの人天にんでんおよび三さん乗じょう等とうの業ごうには通つうぜず、 十方じっぽう浄じょう土どの業因ごういんともならず。 ゆゑに純じゅんと名なづく。 雑ぞう行ぎょうは純じゅん極楽ごくらくの行ぎょうにあらず。 人天にんでんの業因ごういんにも通つうじ、 三さん乗じょうの得とく果かにも通つうじ、 また十方じっぽう浄じょう土どの往おう生じょうの業因ごういんともなる。 ゆゑに雑ぞうといふなり。

◇▲次ニ純雑対トハ者、正行ハ純極楽ノ行也。不↠通↢余ノ人天及ビ三乗等ノ業ニハ↡、不↠成↢十方浄土ノ業因トモ↡。故ニ名ク↠純ト。雑行ハ非ズ↢純極楽ノ行ニ↡。通ジ↢人天ノ業因ニモ↡、通ジ↢三乗ノ得果ニモ↡、亦成↢十方浄土往生業因トモ↡。故ニ云↠雑ト也。

しかればこの五ごの相対そうたいをもつて二に行ぎょうを判はんずるに、 西方さいほうの往おう生じょうを願ねがはん人ひとは、 雑ぞう行ぎょうを捨すてて正行しょうぎょうを修しゅすべきなり。

◇然バ以テ↢此ノ五ノ相対ヲ↡判ニ↢二行ヲ↡、願ハン人ハ↢西方ノ往生ヲ↡、捨テヽ↢雑行ヲ↡可↠修↢正行ヲ↡也。

また善導ぜんどう和か尚しょうの ¬往おう生じょう礼讃らいさん¼ (意) の序じょに、 この専雑せんぞうの得失とくしつを判はんじたまへり。 「専修せんじゅのものは十じゅうはすなはち十じっ生しょうし、 百ひゃくはすなはち百生ひゃくしょうす。 雑修ざっしゅのものは百ひゃくが一いち二に、 千せんが五ご三さんと 云々。

◇▲又善導和尚ノ¬往生礼讃ノ¼序ニ、判ジ↢此ノ専雑ノ得失ヲ↡給ヘリ。「専修ノ者ハ十即十生シ、百ハ即百生ス。雑修ノ者 ノハ百ガ之一二、千ガ之五三ト 云云。

なにをもつてのゆゑにといふに、 専修せんじゅのものは雑縁ぞうえんなくして、 正しょう念ねんを得うるがゆゑに、 また弥陀みだの本願ほんがんと相応そうおうするがゆゑに、 また釈しゃ迦かの仏ぶつ語ごに随ずい順じゅんするがゆゑなり 云々。

◇▲何ヲ以テ故ト云ニ、専修ノ者ハ無クシテ↢雑縁↡、得ルガ↢正念ヲ↡故、又相↢応ガ弥陀ノ本願ト↡故ニ、又随↢順スルガ釈迦ノ仏語ニ↡故 云云。

雑修ざっしゅのものは雑縁ぞうえん乱動らんどうして、 正しょう念ねんを失しっするがゆゑに、 また仏ぶつの本願ほんがんと相応そうおうせざるがゆゑに、 また仏ぶつ語ごに随したがはず、 係け念ねん相続そうぞくせざるがゆゑに、 回え願がん慇おん重じゅう真実しんじつならざるがゆゑに、 乃ない至し名みょう利りと相応そうおうするがゆゑに、 みづからの往おう生じょうを障さふるのみにあらず、 他たの往おう生じょうの正行しょうぎょうを障さふるがゆゑに」 と。 云々

◇▲雑修ノ者 ノハ雑縁乱動シテ、失ガ↢正念ヲ↡故ニ、又与↢仏ノ本願↡不↢相応↡故ニ、又不↠随↢仏語ニ↡、係念不↢相続↡故ニ、廻願不↢慇重真実ナラ↡故ニ、乃至与↢名利ト↡相応スルガ故ニ、非ズ↠障ノミニ↢自ノ往生ヲ↡、障ガ↢他ノ往生ノ正行ヲ↡故ト。」云云

しかのみならずすなはちこの文もんの次つぎ (礼讃意) にいはく、 「▲余よこのごろ諸方しょほうの道俗どうぞくを見聞けんもんするに、 解げ行ぎょう不ふ同どうにして専雑せんぞう異ことなることあり。 しかるに専修せんじゅのものは十即じっそく十じっ生しょうし、 雑修ざっしゅのものは千せん中ちゅう一いちもなし」 と。 云々

◇加↠之即此ノ文ノ次ニ云、「餘比日 ロ見↢聞スルニ諸方ノ道俗ヲ↡、解行不同ニシテ専雑有リ↠異コト。然ニ専修ノ者 ノハ十即十生シ、雑修ノ者ハ千中無シト↠一モ。」云云

前さきの義ぎをもつて判はんじ候そうろふには、 千せんがなかに五ご三さんと許ゆるしたまへるといへども、 いままさしく見みるには一いちもなしと宣の べたまへるなり。 その時ときの行ぎょう者じゃだにも、 雑ぞう行ぎょうして往おう生じょうするものはなかりけるにこそ候そうらひぬれ。 まして時ときも機きも下くだりたる当世とうせいの行ぎょう者じゃは、 雑ぞう行ぎょう往おう生じょうといふ事ことは思おもいを絶たつべき事ことなり。

◇以テ↢前ノ義ヲ↡而判ジ候ニハ、雖モ↧許シ↢千ガ中ニ五三ト↡給ヘリト↥、今正ク見ミルニハ無シト↠一モ宣ノ 給ヘル也。其ノ時ノ行者ダニモ、無リケルニコソ↢雑行シテ往生スル者 ノハ↡候ヌレ。増弥マシテ時モ機モ下0198リタル当世ノ行者ハ、雑行往生ト云フ事ハ思ヲ可キ↠絶ツ事也。

たとひまた往おう生じょうすべくまでも、 百ひゃくがなかに一いち二に、 千せんがなかに五ご三さんの内うちにてこそ候そうらはんずれ。 きはめて不ふ定じょうの事ことなり。 百ひゃく人にんに九く十じゅう九く人にんは往おう生じょうして、 いま一人いちにんは生うまれじと聞きくだにも、 もしその一人いちにんに当あたる身みにやあるらんと不審いぶかしくも覚おぼえぬべし。 いかにいはんや百ひゃくが一いち二にの内うちに一いち定じょう入いるべしといはん事ことは難むつかしくぞ候そうらはんずれ。

◇設ヒ又可マデモ↢往生ス↡、百ガ中ニ一二、千ガ中ニ五三之内ニテコソ候ハンズレ。極テ不定ノ事也。聞ダニモ↢百人ニ九十九人ハ往生シテ、今 マ一人ハ不ジト↟生ル、若シ有ルラント↧当タル↢其ノ一人↡之身ニヤ↥而不審シクモ可ベシ↠覚ヘヌ。何ニ況ヤ云ハン↢百ガ之一二ノ之内ニ一定可ト↟入ル事コトハ難クゾ候ハンズレ。

▲しかれば百ひゃく即そく百生ひゃくしょうの専修せんじゅを捨すてて千せん中ちゅう無む一いちの雑ぞう行ぎょうを執しゅうすべからず。 ただ一向いっこうに念仏ねんぶつを修しゅして、 雑ぞう行ぎょうを捨すつべきなり。 これすなはちこの ¬経きょう¼ の大たい意いなり。 「望仏もうぶつ本願ほんがん、 意い在ざい衆しゅ生じょう一向いっこう専せん称しょう弥陀みだ仏ぶつ名みょう」(散善義) と。 云々 かへすがへすも本願ほんがんを仰あおぎて念仏ねんぶつすべきなり。 仰あおぎ願ねがはくは 云々

◇然者不↠可↧捨テヽ↢百即百生之専修ヲ↡而執ス↦千中無一ノ之雑行ヲ↥。唯一向ニ修シテ↢念仏ヲ↡、可キ↠捨ツ↢雑行ヲ↡也。是 レ則此ノ¬経ノ¼大意也。「望仏本願、意在衆生一向専称弥陀仏名。」云云 返々モ仰テ↢本願ヲ↡可キナリ↢念仏ス↡也。仰ギ願クハ 云云

 

右みぎの六ろっ箇か条じょうは、 これ外記げきの禅門ぜんもん 安楽あんらく房ぼう遵じゅん西せいの父ちちなり 五ご十じゅう日にちの逆げき修しゅうを修しゅせし時とき、 上しょう人にんをもつてまづ六ろく度どの導どう師しとなし、 かの説法せっぽうの聞書ききがきなり。 結願けつがんの唱しょう導どうは真観しんかん房ぼうなり、 ゆゑにしばらくこれを略りゃくす。 ただ多た本ほんを集あつむるに、 あるいは真しん字じありあるいは仮字けじあり、 いまだいづれか正しょうといふことを知しらず。 いましばらく真しん字じの本ほんにつきてこれを集あつむ、 すべからく正しょう本ほんを尋たずぬべし。

右六箇条ハ、是外記禅門 安楽房遵西ノ父也 修セシ↢五十日ノ逆修ヲ↡之時 キ、以テ↢上人ヲ↡為ス↢先六度ノ導師ト↡、彼ノ説法ノ聞書ナリ也。結願ノ唱導ハ真観房ナリ也、故ニ且ク略ス↠之ヲ。但集ルニ↢多本ヲ↡、或ハ有リ↢真字↡或ハ有↢仮字↡、未ダ↠知↢何レカ正ト云コトヲ↡。今且ク就テ↢真字本ニ↡集ム↠之、須ク↠尋↢正本ヲ↡焉。

黒谷上人語灯録巻第八

本ほんにいはく嘉か元げん四し年ねん八月はちがつ五日いつか蓮れん華げ堂どうの正しょう本ほんをもつて写うつしおはりぬ 覚かく唱しょう

写本しゃほんにいはく永徳えいとく三さん 癸みずのとの亥い 五ご 九日ここのか三光さんこう院いんの北きたの坊ぼうにおいて書写しょしゃせしめおはりぬ 吉水よしみずの末まつ流りゅう導見どうけん

時ときや嘉か慶けい 戊つちのえの辰たつ 八月はちがつ廿にじゅう七日しちにち忌いん部べの道どう場じょう観音かんのん寺じにおいて書写しょしゃしおはりぬ 快尊かいそん

0199本云嘉元四年八月五日以蓮華堂正本写了 覚唱

写本云永徳三 癸亥 五 九日於三光院北坊令書写畢 吉水末流導見

時也嘉慶 戊辰 八月廿七日於忌部道場観音寺書写畢 快尊

右みぎこの録ろくは、 古こ本ほんを来迎らいこう寺じより恩おん備びせしめたてまつりてこれを書写しょしゃす。

願ねがはくは遠とおく末代まつだいに伝つたはり広ひろく諸人しょにんに及および自他じた同おなじく極楽ごくらく世せ界かいに生しょうぜんと、 かならずこれを披ひ見けんせられんことを。 貴き賎せん十じゅう念ねんの回え向こうを仰あおぎたてまつらんものなり。

右此録者、古本従来迎寺令恩備奉書写之矣。

願遠伝末代広及諸人自他同生極楽世界、必披見之。貴賎奉仰十念之廻向者也。

時ときに明応めいおう元年がんねん十じゅう二に月がつ一日ついたち

南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつ  円空えんくう和か尚しょう

時ときに明応めいおう五ご年ねん卯う月づき廿にじゅう六日ろくにち書写しょしゃしおはりぬ 筆者ひっしゃ 云々

于時明応元年十二月一日

南無阿弥陀仏  円空和尚

于時明応五年卯月廿六日書写畢 筆者 云云

元禄げんろく十じゅう一年いちねん寅とら九く月がつ五日いつかこの巻かんを校きょう合ごうしおはりぬ 所しょ持じ 恵え空くう

元禄十一年寅九月五日校合此巻竟 所持 恵空

 

延書は底本の訓点に従って有国が行った。 なお、 訓(ルビ)の表記は現代仮名遣いにしている。
底本は大谷大学蔵江戸時代末期恵空本転写本。