らいこう 来迎 「らいごう」 とも読む。 浄土往生したいと願う人の臨終に、 阿弥陀仏菩薩しょうじゅを率いてその人を迎えに来ること。 迎接いんじょうなどともいう。 ¬大経¼ 第十九願に誓われ、 さらに三輩段にも説かれる。 ¬観経¼ では、 ぼんの往生にそれぞれの来迎の相を説き、 また ¬小経¼ にも説かれている。 親鸞は ¬御消息¼ に 「来迎は諸行往生にあり、 自力の行者なるがゆゑに。 臨終といふことは、 諸行往生のひとにいふべし、 いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。 また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、 すすめらるるときにいふことなり。 真実信心の行人は、 摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。 このゆゑに臨終まつことなし、 来迎たのむことなし。 信心の定まるとき往生また定まるなり。 来迎の儀則をまたず」 と述べ、 信心を得たときに往生することが定まるのであるから臨終来迎を期することはないと説き、 臨終来迎を期するのは諸行往生自力の行者であるとして、 臨終の来迎をたのみにすることを否定している。 これをうけた蓮如は、 ¬御文章¼ に 「不来迎の談、 平生業成の義」 と述べている。 なお親鸞は、 ¬唯信鈔文意¼ に 「自来迎といふは、 自はみづからといふなり。 弥陀無数の化仏・無数の化観音・化大勢至等の無量無数の聖衆みづからつねに、 ときをきらはず、 ところをへだてず、 真実信心をえたるひとにそひたまひてまもりたまふゆゑに、 みづからと申すなり」 等とも述べ、 来迎の意味を転じ、 他力念仏の人が信心ぎゃくとくより浄土往生の時まで、 常に仏・菩薩の来迎にあずかり護念されるという阿弥陀仏の摂取やくのこととしても説いている。 →至心発願の願