ひぎょうひぜん 非行非善 ¬弥陀経義集¼ に引用される ¬宝号経¼ (現存の大蔵経には存しない) に出る語。 親鸞は、 他力念仏法門が自らおこなう、 自らおこなうではなく、 阿弥陀仏本願のはたらきによって成立していることをあらわす語として用いた。 「信巻」 には 「おほよそ大信海を案ずれば、 貴賎緇素を簡ばず、 男女老若をいはず、 造罪の多少を問はず、 修行の久近を論ぜず、 行にあらず善にあらず (凡案大信海者不簡貴賎緇素不謂男女老少不問造罪多少不論修行久近非行非善)」、 ¬御消息¼ 第42通には 「¬宝号経¼ にのたまはく、 「弥陀の本願は行にあらず、 善にあらず、 ただ仏の名号をたもつなり」。 名号はこれ善なり、 行なり」 とある。