二〇1020、或人念仏之不審聖人奉問次第(十一箇條問答)

或人あるひと念仏ねむぶちしむしやうにんたてまつるといだい

八宗はちしゆしゆのほかにじやうしゆをたつることは、 自由じゆにまかせてたつること、 しゆひとまふしさふらふおばいかゞまふしさふらふべき。

こた しゆをたつることは仏説ぶちせちにはあらず、 みづからこゝろざすところのきやうけうにつきて、 ぞんじたるがくしきわめて、 しゆはんずるコトワルナリことなり諸宗しよしゆのならひみなかくのごとし。 いまじやうしゆをたつることは、 じやうしやうきやうにつきてわうじやう極楽ごくらくをさとりきわめたまへる先達せんだちの、 しゆをたてたまへるなり。 しゆのおこりをしらざるものゝ、 さやうのことおばまふすなり

法華ほふくゑ真言しんごんおばざふぎやうにいるべからずと、 あるひとまふしさふらふおばいかむ。

こた しむ先徳せんどく一代ゐちだいしやうげう要文えうもんをあつめて ¬わうじやう要集えうしふ¼ をつくりたまへるなか十門じふもんをたてゝ、 だいわうじやうしよぎやうもんに、 法華ほふくゑ真言しんごんとうしよだいじようをいれたまへり。 しよぎやうざふぎやうと、 ことばはことに、 こゝろはおなじ。 いまの難者なんじやしむ先徳せんどくにまさるべからざるなり 云云

ぶちきやうにつきて善根ぜんごんしゆせむひとに、 結縁けちえんじよじやうさふらふことはざふぎやうにてや1021さふらふべき。

こた わがこゝろ、 弥陀みだぶちほんぐわんじようじ、 決定くゑちぢやうわうじやうしんをとるうえには、 善根ぜんごん結縁けちえんじよじやうせむこと、 またくざふぎやうとなるべからず、 わがわうじやう助業じよごふとなるべきなり善根ぜんごんずい讃嘆さんだんせよとしやくしたまへるをもて、 こゝろうべきなり。

極楽ごくらくぼむ差別しやべちさふらふことは、 弥陀みだぶちのかまへたまへることにてさふらふやらむ。

こた 極楽ごくらくぼむ弥陀みだほんぐわんにあらず、 十八じふはちぐわんなかになし。 これはしやくそん巧言げうごんカマヘタなり。 ぜんマフミコトナリ にん悪人あくにん一処ゐちしよにむまるといはゞ、 悪業あくごふのものども慢心まんしんをおケウマンノコヽロこすべきがゆへに、 ほむ差別しやべちをあらせて、 善人ぜんにんじやうぼむにすゝみ、 悪人あくにんぼむにくだるなど、 ときたまふなり。 いそぎまかりてみるべし 云云

かいぎやうじや念仏ねむぶち数返しゆへんのすくなくさふらはむと、 かいぎやうにん念仏ねむぶち数返しゆへんのおほくさふらはむと、 わうじやうののちの浅深せんじむいづれかすゝみさふらふべき。

こた ゐておはしますたゝみをさゝえてのたまはく、 このたゝみのあるにとりてこそ、 やぶれたるかやぶれざるかといふことはあれ。 つやつやとなからむたゝみおば、 なにとかはろんずべき。

末法まちぽふなかにはかいもなく、 かいもなし、 かいもなし。 たゞみやう比丘びくばかりあり」 と、 伝教でんげうだいの ¬末法まちぽふとうみやう¼ にかきたまへるうへは、 なにとかい1022かいのさたはすべきぞ。 かゝるひらぼむのためにおこしたまへるほんぐわんなればとて、 いそぎいそぎみやうがうしようすべしと 云云

念仏ねむぶちぎやうじや日別にちべちしよにおいて、 こゑをたてゝまふすひとさふらふ、 こゝろにねんじてかずをとるひとさふらふ、 いづれおかよくさふらふべき。

こた それはくちにもみやうがうをとなへ、 こゝろにもみやうがうねむずることなれば、 いづれもわうじやうごふにはなるべし。 たゞしほとけほんぐわん称名しようみやうぐわんなるがゆへに、 こゑをあらわすべきなり。

かるがゆへに ¬きやう¼ (観経意) には 「こゑをたえず、 十念じふねむせよ」 ととき、 しやくには 「しようみやうがう下至げしじふしやう(礼讃)しやくしたまへり。 わがみみにきこゆるほどおば、 かうしやう念仏ねむぶちにとるなり。 さればとて、 げんソシリキをしらラフトナリ ず、 かうしやうなるべきにはあらず、 たいはこゑをいださむとおもふべきなり。

日別にちべち念仏ねむぶち数返しゆへんは、 相続さうぞくにいるほどはいかゞはからひさふらふべき。

こた 善導ぜんだうしやくによらば、 一万ゐちまんじやう相続さうぞくにてアヒツグトナリ あるべし。 たゞしゐち万返まんべんをいそぎまふして、 さてそのをすごさむことはあるべからず。 ゐち万返まんべんなりとも、 一日ゐちにちゐちしよとすべし。 そうじては一食ゐちじきのあひだにさんばかりとなえむは、 よき相続さうぞくにてあるべし。 それはしゆじやうこんじやうどうなれば、 ゐちじゆんナラヒト るべからず。 こゝろざしだにもふかければ、 1023ねん相続さうぞくはせらるゝことなり。

¬礼讃らいさん¼ の深心じむしむなかには

じふしやうゐちしやうかならずわうじやうない一念ゐちねむうたがこゝろあることなかれ」

じふしやうゐちしやう必得ひちとくわうじやう↡、 ない一念ゐちねむしむ↡」

しやくし、 また ¬しよ¼ (散善義)なか深心じむしむには

念念ねむねむすてざるは、 これを正定しやうぢやうごふなづく」

念念ねむねむしやしやみやう正定しやうぢやうごふ↡」

しやくしたまへり。 いづれかわがぶんにはおもひさだめさふらふべき。

こた じふしやうゐちしやうしやくは、 念仏ねむぶちしんずるやうなり。 かるがゆへに、 しんおば一念ゐちねむむまるととり、 ぎやうおばゐちぎやうをはげむべしとすゝめたまへるしやくなり。 またたいは、オホゴヽロナリ ゐち発心ほちしむ已後いごしやくほんとすべし。

ほんぐわん一念ゐちねむは、 じむじやうツネノトキ臨終りむじゆずべくさふらふ

こた 一念ゐちねむぐわんは、 ねむにおよばざらむのためなり。 じむじやうずべくは、 じやうじんゐちぎやうしやくあるべからず。 このしやくをもてこゝろうべし。 かならず一念ゐちねむほとけほんぐわんといふべからず。

念念ねむねむしやしやみやう正定しやうぢやうごふじゆんぶちぐわん (散善義) しやくは、 数返しゆへんつもらむおもほんぐわんとはきこえたるは、 たゞほんぐわんにあふオソキそくトキどうなれば、 じやうじんゐちぎやう下至げし一念ゐちねむとおこしたまへるほんぐわんなりとこゝろうべきなり。 かるがゆへに念仏ねむぶちわうじやうぐわんとこそ、 善導ぜんだうしやくしたまへと。

りきりきことは、 いかゞこゝろうべくさふらふらむ。

こたうらく ぐゑん殿でんじやうへまいるべききりやうにてはなけれども、 かみよりめせば二度にどまいりたりき。 これわがま1024いるべきしきにてはなけれども、 かみおむちからなり。 まして弥陀みだぶち仏力ぶちりきにて、 称名しようみやうぐわんにこたえて来迎らいかうせさせたまはむことおば、 なむのしむかあるべき。

しんつみのおもく无智むちなれば、 ほとけもいかにしてすくひましまさむとおもはむものは、 つやつやほとけぐわんをもしらざるものなり。 かゝる罪人ざいにんどもを、 やすやすとたすけすくはむれうに、 おこしたまへるほんぐわんみやうがうをとなえながら、 ちりばかりもしむあるまじきなり。 十方じふぱうしゆじやうぐわんのうちに、 有智うち無智むちざいざい善人ぜんにん悪人あくにんかいかいなむ女人によにん三宝さんぽう滅尽めちじんののちひやくさいまでのしゆじやう、 みなこもれるなり。

かの三宝さんぽう滅尽めちじんとき念仏ねむぶちしやたうのわ御坊おむばうたちとくらぶれば、 わ御房おむばうたちはほとけのごとし。 かのとき人寿にんじゆ十歳じふさいときなり。 かいぢやう三学さんがく、 なをだにもきかず、 いふばかりなきものどもの来迎らいかうにあづかるべきだうをしりながら、 わがみのすてられまいらすべきやうおば、 いかにしてかあむじいだすべき。

たゞし極楽ごくらくのねがはしくもなく、 念仏ねむぶちのまうされざらむことこそ、 わうじやうのさわりにてはあるべけれ。 かるがゆへにりきほんぐわんともいひ、 てうぐわんともいふなり 云云

十一 じやうとう三心さんしむさふらふべきやうおば、 いかゞおもひさだめさふらふべき。

こた 三心さんしむすることは、 たゞべちのやうなし。 弥陀みだぶちほんぐわんに、 わがみやうがうしようねむせよ1025、 かならず来迎らいかうせむとおほせられたれば、 決定くゑちぢやうして引接いんぜふせられまいらせむずるとふかくしんじて、 心念しむねむしようにものうからず、 すでにわうじやうしたるこゝちしてたゆまざるものは、 ねん三心さんしむそくするなり。

またざいのものどもはかほどにおもはざれども、 念仏ねむぶちまふすものは極楽ごくらくにうまるなればとて、 念仏ねむぶちをだにもまふせば、 三心さんしむそくするなり。 さればこそ、 いふにかひなきやからどものなかにも、 神妙しんべうなるわうじやうはすることにてあれと 云云