あらためて、死 (6月1日)  ……「死」には一語法話で一度触れました

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身内の者が、亡くなりました。

正確に言えば、母の叔父に当たります。とは言っても母とそれほど歳が違わず、私にとっての叔父のような人でした。連絡を受け母といっしょに出向いたときはまだ頬がほの暖かく、言いようのない切なさがつのりました。

そのとき、つくづく、お念仏と出逢わさせていただいていてよかったなあと思いました。とりあえず、なんまんだぶつ。言いたいことはいっぱいあるような気がするのに、言葉にならなくて、やっぱりなんまんだぶつ。

私は住職ですから、一般の方と比べれば、死は常に身近です。不用意に取り乱したりなどということはありません。また、死をどのようにとらえればよいのかということについて語彙の持ち合わせも多く、とっさのことにうろたえるということもありません。

しかし、どれだけ葬儀を経験しようとも、死はやはり「慣れる」といったことを受け付ける類(たぐい)の出来事ではありません。ただ、途方に暮れるだけです。あえて言うならば、人間、どんなに偉ぶってみたところで、根っこの部分では何もわかっていないのだということを突きつけてくれるのが死だということでしょうか。

何も言葉にならないとき、言葉にできないとき、安心して口にできる言葉があることには救われます。南無阿弥陀仏。「言葉」としては、阿弥陀仏に南無(帰命)いたします、という意味ですが、そんなせせこましいものではありません。ああ、阿弥陀様がおそばにいてくださるんだなあ。凡夫がいらんことを言う必要もないわなあ。それが、称える側の心情です。

「叔父」は、近く(車で 30 分くらい)の同じ浄土真宗寺院(私の祖母の里)の前住(前代の住職)でした。晩年は車椅子での生活でしたが、最後までご家族と一緒で、息を引き取られたのも自宅です。今のご住職(母の従弟)と私が同い年で、結果的に(?)2人の子供さんとうちの下2人との歳もほぼいっしょです。叔父から言えばお孫さんである2人の坊ちゃんがいつもおじいちゃんのお世話をしており、それだけに、葬儀のときの2人はそれぞれに寂しそうでした。

ご縁あって、私がこの度の葬儀の導師を勤めました。一方で、葬儀を取り仕切る導師。一方で、身内。一方で、喪主であるご住職の同年代。一方で、2人の坊ちゃんと同じ歳の子の親。さらに連れ添いを亡くされた前坊守様、義理の父親の介護をなさっていた坊守様、ご門徒の方々……。いろんな方々のいろんな想いを、味わわさせていただきました。その意味で、ほんとうに有難いご葬儀でした。

私自身が、気持ちに整理をつけなければと思って今日は「無理に」書いています。それをネット上に公開する理由は、ひとえに「お念仏に出逢わさせていただいていることの有難さ」を表現しておきたいことにあります。どなたかの目に留まり、ささいなご縁にでもなればと思っています。

なんまんだぶつ。

文頭


賢い選択? (6月5日)

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世の中、カタログ時代です。

毎日、新聞にはいろんなチラシがはさまれています。食料品、日用品、服、電化製品、自動車、家……。あるいは、塾関係や、果ては病院まで。この調子だと、そのうち寺院のチラシも出てきそうです。

「圧倒的に安い! お葬儀は○○寺へ」

チラシだけではありません。昔は大工さんや左官さんにはなじみがあって、ちょっと家の手入れというときには「屋根が漏るんよ。見ちょいてーね」で済ませたものですが、今では複数の業者に入札をさせて、というのが常識になりつつあるようです。いずれ、学校の先生や自分がかかる医者も、このようにして自分で選ぶように(逆に言えば、先生や医者も「選ばれる」ように)なっていくでしょう。

資料や情報をきちんと集め、ちゃんと見比べて、もっとも適切なものを選ぶ。それが、冒頭に「カタログ時代」と言ったときに考えていた内容です。もう人任せ(他力本願!)にはしない。何でも「なあなあ」で高い買い物をするのは愚か者だ。周りの、特に若い人を見ているとそんな印象を受けます。

それを間違いとは言いません。しかし、2点、見過ごされているように思えることのあるのが気になります。

1つは、自分が常に賢い選択ができるという幻想です。確かに、うまく選べたときはそれでかまいません。しかし、だれも知らないことを自分一人が知っているというのならいざしらず、情報があふれかえっている今日(こんにち)です。むしろ、人の知っていることを自分ひとり知らずにいるのではないかというおびえの方が、賢く選ぼう、賢く選ぼうとしている人には強いように感じます。

さらに、特に重要な局面で、一番必要なものは往々にして自分では選べないものです。人は「合理的」に選んでいるように錯覚していますが、実は徹底的に合理的になると、何も選択できなくなります。何かを選ぶとき、重要なはたらきをしているのは実際には「好き嫌い」の感情なのです。

(念のために、好き嫌いが「悪い」と言っているのではありません。好き嫌いがないと、何を選ぶにしてもとんでもなく時間がかかるようになってしまい、とても「生存」していけなくなります。)

何かを選び取ることは、他のものを選び捨てることです。賢い選択と言ったところで、ふつう選び捨てているものにまでは意識が及んでいませんから、表側のみを自分の趣味で眺めて、ああ、いい選択をした、とふんぞり返っているに過ぎません。

結局は自分の好みで選んでいる以上、ずっと選び捨て続けられてきたものが、積もりつもって、どこかでしっぺ返しをします。いえ、賢い選択が「できる」と思い込んでしまうこと自体、すでにしっぺ返しと言うべきでしょう。一度そう思ってしまった人は、必ずどこかで後悔するはめになります。「あのときああしておけばよかった……」

自分で賢く選ぼうとし続ける限り、「他」に出逢えません。個人の賢(さか)しらでは思いの及ばない、大きなつながりの中で生かされていることに、わざわざ背を向けることになります。それが後悔――愚痴(=愚かさ)と現れます。

ある人が「ああ、ばかなことをした」と後悔するとき、同じことを「ああ、有難いことだ」と味わう人もあります。傍目(はため)にはいたって愚かな人に見えるでしょうが、喜んだ者の方が「勝ち」です。それが、本当の意味での「他力本願」の味わいです。

長くなってしまいました。2点目はまたの機会にゆずりましょう。

合掌。

続信 文頭


雑草 (6月9日)

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寺の庭の草引きが、一段落しました。

ずっとついていられるわけではなく、時には雨も降りますし、草は伸びるのが仕事、手はつけたものの、今年中に「完了」までたどりつけるかどうか心許(こころもと)なかったのですが、「終るまで続けていたら終るだろう」と呑気に構えていたら、案外あっさり片付きました。

本来はスギゴケの庭、畑ではありませんので、そのような土が入っています。ところが、雑草が生い茂っていたところは、地面がぶかぶかになっていました。

モグラの仕事です。モグラが集まるということは、ミミズがたくさんいるということです。ミミズがたくさんいるということは、いい土になっているということです。

有機農法の考え方の一つに、土を耕すには雑草を繁らすのが一番よい、というようなことが書いてあったのを目にした覚えがあります。私は有機農法に直接興味を持っているわけではないのですが、荒らした寺の庭で、思いがけずその確認ができました。

実際、草の根は強くて、深く広くしっかり土の中に広がっていました。しかもそれがそのまま枯れて、地中に鋤き込まれた肥料になっています。

春先、草引きに手をつけたときには、手入れのできているところに落ちた種も、荒れ放題のところに落ちた種も、同じような芽を出していました。ところが一月の間の大きくなり方には、けたが違うというよりは、歴史が違うというしかないほどの差ができています。

新天地に芽生えた芽は、一月経ってやっと、かつがつ一人前といった趣です。ひょいと引いてしまえばそれまでで、いっしょうけんめい伸びていった根も、そんなに遠くまでは届いていません。

一方、親の残した根の跡に生えた芽は、代々開拓され耕された道筋をたどって根を張り、一月も経つ頃には新しい株まで作って、自分はすでに親の風格です。春先に確かめているのでこの春の新芽とわかりますが、今だけを見たのではどうみても数代がかりの「一族」に見えます。

本当は、「雑草」などという名前の草はありません。みなそれぞれに名前があります。しかし、たとえば「バラ」とちゃんと名前で呼ばれるのと、雑草とひっくるめて扱われるのと、どちらがいのちの本当の姿に近いのか、わからなくなってきました。

バラとして生まれバラとして育てられ、花を咲かせて切り取られ、きれいな花瓶に活けてもらったとして、しぼみ枯れた後はごみ箱です。

雑草として目も向けられずに生を終えたものの跡にこそ、これだけの後継者が育っている。

凡夫とは、愚とは、そういうことなのかもしれません。阿弥陀様がいのちの顕現であるならば、後に続かぬ賢者よりも、確かに継承されていく愚者こそを正機と選ばれたのも、当然ではないか。自力は名を残し一人立ちせんとする試み、いのちのつながりからは離れていくものです。名を捨ていのちに任せ、親の跡をたどり子に信頼する姿こそが、他力すなわち大力に他ならないではないか。

きれいに手入れできたスギゴケですが、周りの雑草がなくなって、これで元気になるのか萎れていくのかよくわかりません。残ったスギゴケにせよ取り除けられた雑草にせよ、結局私の我に振り回されているだけのことです。ついでに補植をしてきれいな庭に仕上げるか、このまま眺めて庭のいのちの流れを見届けてみるか。ちょっと、迷っています。

合掌。

続信 文頭


無限 (6月13日)

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ここのところ、「無限」ということについてよく考えます。

純粋に言葉のみを問題にすれば、仏教ではあまり「無限」とは言いません。むしろ「無量」の方が身近です。阿弥陀如来の「あみだ」は a-mita の音写で、a- はギリシャ語と同じく否定を表す接頭辞、mita は「量られた」といった響きの語ですから、a-mita で「量られることのない、量ることのできない」の意味になり、意訳すれば「無量」です。(実際の経典中では āyus(寿命)あるいは ābhā(光明)のいずれかが続いていますので、無量寿如来、無量光如来と訳されています。つまり、阿弥陀仏と無量寿・無量光仏は同じ仏です。)

無限と無量、結局は同じ事柄を問題にしているともいえますし、いや、とらえ方が大きく異なるともいえます。今回は、仮に「異なる」ものと見て、どのようなことが連想できるか、思いつくことを列記してみます。

無限と無量を「異なる」と見たとき、最初に思われるのは西洋と東洋の伝統の違いです。(東洋・西洋で大雑把に過ぎるならば、ここではロシアを含むヨーロッパ圏と、インド-中国-日本を考えています。本当は、オリエントと呼ばれた地域のことを抜きにはできないと思いますが、勉強不足でカバーできません。) 無限の… になじむ表現として、私は第一に無限の愛を想起し、第二に無限の宇宙を思います。どちらも、伝統的な東洋の思想の中には直接対応するものが見当たりません。一方、無量を含んだ熟語といえば、(上の無量寿・無量光を別にすれば)感慨無量・感無量といったところでしょうか。

限と量の対比を、私は概念的と情念的、あるいは脳と身体、静と動といった対比のようにとらえています。「限る」というと、はっきりとした輪郭をつけ、必要ならば固定して、「数」のような飛び飛びのものを生み出しているように感じられるのに対し、「量る」のは水のような本来とらえどころのないもので、量ることの方がむしろ「仮」の出来事であるようなイメージがあります。

今、無限と無量との「優劣」は問題にしていないつもりです。意識しているのは、どうして東洋ではギリシャ-ルネサンス-近世的な意味での「自然科学」が発達しなかったのだろうかという素朴な疑問であり、もう一歩踏み込むならば、日本人である私に「無限」という感覚が追体験できるのだろうかというためらいです。ひっくり返せば、たとえばアメリカ人に、「無量」といった語の響きを伝えるにはどのようなことが工夫できるだろうか、といった「思い上がった」意識ともつながっているのですが。

石庭で有名な京都の竜安寺の中庭に、銅銭の穴に見立てた口の字を中心として時計回りの上・右・下・左に各部首を配置し、「吾唯足知(われ、ただ足るを知る)」と読めるように作られた蹲(つくばい)があります。これを英語に翻訳するのはむつかしい。かなり大胆な意訳をしない限り、英語として読んだならばほとんど無内容でくだらない表現にしかなりません。日本人がこれを「有難い」と思える背景には、きっと、無量への信頼ともつながる何かがあります。

他方、「契約の民」たる欧米人に匹敵する厳しさと信頼をもって、言葉に接している日本人を私は知りません。(フランス系哲学者の森有正の文章を読んだとき、「これは日本語ではない、フランス語だ!」 と感じたことがあるのが一番近いでしょうか。)

そろそろ、収集がつかなくなってきました。結局何が言いたいのかというと、私は、「個人」が発見された時代であると同時に「合理性」の時代でもあった近世はすでに終わり、人類は歴史上未体験の新しい時代に踏み込んでいると考えているのです。できる範囲・間に合う範囲で、近世の歴史的・思想史的な位置づけを試みたい。少なくとも、私自身が納得したい。その中で、知った気でいる仏教に秘められた素晴しさ(あるいは、恐ろしさ)をより深く味わい、可能ならばなにがしかの表現がしてみたい。

今回は、そんな思いのかたつむり並みに「恐る恐る」の最初の表現です。そもそもまとまりがありませんし、あえて締めくくりをせず、最後は知りきれトンボのままにさせていただきましょう。

続信 文頭


相対 (6月17日)

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忘れてしまう前に、「賢い選択?」の続きを書いておきましょう。

私が〈賢く選ぼう〉と立ち回っている人を見て危なっかしく思う点の2つ目は、「選ぶ」という出来事の本質に関わります。

私たちが何かを選ぶとき、心的な態度に二通りあります。いろんなものを引き比べ、その上で主体的に判断して特定の何かを選び取る場合と、比べるということを離れて、そのままに受け入れる場合とです。

前者を相対と言います。「主体的」「判断」など、今風の考え方になじんでいる人には受けのいい言葉が並んでいるのですが、「賢く」選ぼうとする限り比較を離れることはできず、相対の枠に留まります。

相対とは、真理の不在に他なりません。

ある面、相対的という表現は、柔軟さの代名詞のように響きます。実際、肩肘張って「絶対」と気張ってみたところで窮屈なだけで、相対の世界にやわらかくたゆたう方がお洒落です。語感的に、絶対と相対とでは相対という言葉の方に好感を持つ人があるとすれば、おそらくそのような感覚なのではないでしょうか。

確かに、一度相対にさらされて風化してしまった絶対は、すでに絶対などではなく、単に硬化した相対の別名に過ぎなくなっていますから、取り上げるほどのこともありません。私もここでそんな絶対を振りかざすつもりはない。

問題は、相対は完結できないことにあります。

若いときはそれで構いません。どのような選択も「よりよい」何かへの過程と意識されます。しかし、残念なことに――若さはひっくり返せば幼さ、未熟さでもあります。「よりよい」選択をいくら重ねても、成熟にはつながらないのです。

実は、私たちはどんなにあがいてみたところで、自分で自分自身を規定することはできません。履(は)いているぞうりの鼻緒をつかんでよいしょと持ち上げようとしても、自分を持ち上げることができないのと同様です。

自分が自分と知れるのは、他と出逢うことができたときです。

私が「賢い選択」にひっかかるのは、賢く選べるという幻想が、他との出会いを閉ざすものに見えるからです。決定的な他に触れてこそ、私は大きくひらかれ、そこではじめてこの私と完成されて、熟しはじめます。

窓の外には柿の若葉が光っている季節ですが、秋の日に照らされて、甘く熟していく渋柿を思います。柿がお日様を「選んだ」わけでは決してないのですけれど。

合掌。

文頭


時間 (6月21日)

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今日まで3日ほど、組(そ)内他寺院のご法座に出かけ、お聴聞をしていました。(そのため、ファイルの更新時刻が「通常」とかなり違っています。)

下世話な話ですが、他の寺院でのお聴聞というのは安気(あんき)です。準備も片付けもなし、お参りくださったご門徒の方々への挨拶も、ご講師の先生の接待も気にしなくてよし。要するに「住職」としての責任を離れ、一凡夫としてひたすらお話に耳を傾けることができます。

表向き、ご講師の先生から、知識なり話術なり、何かを盗んでやろうという下心が、そもそも時間を割いてお聴聞に出かけている動機です。(私もこれから「布教――他寺院の法座に「講師」として赴き、ご法話をさせていただいて、ご法礼をいただくという社会的な活動」で生活していこうと考えています。)にもかかわらず、実際にお聴聞の場に居合わせた「体験」は、そんな世故(せこ)いものとはかけはなれた味わいになります。

何より、ご法話の「具体的」な内容を、自分でも信じられないくらい、覚えていません。せめて話の組み立てでも、と思ったときもあります。しかし結論から言えば、私の場合それも無理でした。お話を聞きながらメモでも取れば思い出せるのかもしれませんが、お聴聞とはそんなものとは違う、という(根拠のない)感覚の方が勝ちます。

後に残るのは、漠然とした「印象」のようなものだけです。それは一方で全体的であり、同時にご講師の先生のちょっとした仕草や語り口だったりと、ものすごく断片的でもあります。

以前、『歎異抄』の勉強会に参加していた折、資料として法然上人の「口伝」の文献を参照したことがあります。お弟子の誰かが、何とか後世に伝えようと書き留めたために文献として残り、実際そのおかげで私も目にすることができているのですが、「こんなものを私が目にしていいのだろうか」という素朴で強烈なとまどいを覚えたのも事実です。口伝である以上、法然上人その方が、この者にならばこのような内容を伝えても聞き誤りはすまいと思われたお弟子にのみ、お伝えであったはずのものです。残念ながら、そして当然ながら、私は法然上人とそのようなお出会いをしていない。法然上人のお心が汲み取れるかはたまた読み誤るかは、ひとえに私自身にかかっている。

とらえようによっては、残酷なことです。

私は、少なくとも人間が口にする「平等」などという言葉は信じないことにしています。たとえば人権宣言などにおいて、一つの「理想」として掲げられているものは支持します。本気で、必要だと考えます。しかし、平等が「実現されて」いるかのように錯覚してしまうあるいはさせてしまうとしたら、その迷いあるいは罪は、専制君主下のそれよりも大きいと、真剣に思う。

ご法話をお聴聞しているときに私が味わわさせていただいているのは、くり返されることのない、徹底的に私個人の、出会いです。それが恵みなのか呪いなのかは知りませんし、知る必要もありません。

私は私個人のご縁によってお聴聞をさせていただいていた。同じ時刻、他の方々は人々(にんにん)のご縁に随って各自の個別の体験をなさっていた。どこが平等だというのか。それを対等に受け止めて下さるのはただ仏のみでしょう。

念のために断っておくならば、私はお聴聞をさせていただくことが価値ある「高等」なことで、たとえばその時間ぐうたらと昼寝をなさっていた方が無価値で「下等」な時間を過ごされたなどとは考えていません。それを比べたところで凡夫の判断、何の支えにもならない。

ただ、ご法話の中休み(通常、前席 30~45 分、後席 30~45 分で、間に 10~15 分の休憩が入ります)、ふと本堂の外に目をやったとき、本堂の中に外とは異質な時間が流れていることはリアルに感じました。しかもそれは、何らかの意味・程度において、いっしょにご聴聞させていただいた方々との間で「共有」されている時間でもありました。

そのような時間のあり方に実際に触れていたということだけを取り上げるならば、ただ日常に埋もれた時間をお過ごしであった方々と比べて、私は恵まれていたと言えるのかもしれません。(もっとも、日常に埋もれた時間などというものがあるのかと考えた時点で振り出しに戻りますが。)

お聴聞は、いいものです。ご存じなければ、是非一度味わってみてください。

合掌。

文頭


肩凝り (6月25日)

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スギゴケの間の草引きを続けています。

この春取りかかった所は一段落しましたが、本堂・庫裏(くり)の裏手にも一通りスギゴケが植わっているので、草引きが終る心配はありません。

ずっとかがみっぱなしですから、肩が凝ります。人間の頭というのは案外重いものだなあと、思い知らされます。

最初の頃は、肩は凝れば痛むけれど、心が凝っているのは気付きにくいなあといったようなことを考えていました。そのうち、いや、個性とか性格とかいうものも、要は心の凝った姿ではないか、と思うようになりました。そのことを推し進めるならば、今こうやって生きているということ自体、真如の側から見れば大きな 〈いのち〉 が私の形に凝ったものなのだと味わわれます。

してみると、肩が凝るというのも、あながち悪いばかりのことではないのかもしれません。私自身がへっぴり腰の逃げ腰で受け止めているために喜べないのであって、からだにしてみれば新しい状況に対応しようとしているだけのことです。続けていれば、それなりにからだもできてきます。

昔の人は、腰が曲がるまで野良仕事に精を出したではないか。親鸞聖人の足には、わらじが食い込んでいたではありませんか。

知らない間に、私は肩は凝っていないのが自然なのだと勘違いしていたようです。肩も心も、精一杯凝ればいいのです。それが、地に足をつけて生きることであり、凡夫を引き受けて立ち上がることなのでしょう。

風呂に入っては首を回し肩を回し、夜寝るときには体をひねってストレッチしと、少しでも楽になろうとしながらも、気持ちのどこかで、スギゴケの手入れで腰が曲がるのも悪くないなと思い始めています。

合掌。

続信 文頭


みみず (6月29日)

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雨上がりなど湿度の高いときには、みみずが土の中から出ています。

鳥の目につく地面でながながと昼寝をしているわけではありませんが、草のかげで、体半分土から出して、のんきそうにしています。体はきれいに水に濡れ、つやつやと光って、何だかプールサイドで日光浴をしている人を連想してしまいます。

どっちが頭でどっちが尻尾やら見分けがつかず、手足はおろか目も耳もなく、かたまりというには長すぎ、何とも不思議な愛嬌のある生き物です。

草引きをしていて昼寝の最中を邪魔すると、びっくりして文字通り跳ね起きます。下が濡れた草などでしたら見かけによらず動きは早く、飛ぶようにというのは大袈裟にしても、泳ぐようにどこかへ消えていきます。もっとも、「隠れる」などという気はないらしく、たまたま頭の向いていた方へ進むだけです。

中に、昼寝をしていて起きるのを忘れたのか、そのまま干物になってしまっているものがけっこうたくさんいます。妙に、即身成仏という言葉を思います。

スギゴケの間をちまちまと手入れしているときには、一度にたくさん出てくるわけではなくて、さっき一つ、またひとつと、思い出したような頃に出逢います。何とも区別のしにくいかっこうなので、そのうち同じみみずに何度も出くわしているような気になってきます。大きいの、小さいの、大きさは随分違うのですが、それもそのうち、同じみみずがふくれたり縮んだりしているように感じられ始めます。

こいつら何を考えているのかな。目がなかったら、耳がなかったら、少しはみみずの気持ちがわかるのかな。そんなことを思ったりもするのですが、何だかみみずに相手にされていないみたいで、自分のせせこましさの方がちょっと悲しくなってきます。

案外、菩薩様の姿はみみずのようなものなのかもしれません。

合掌。

文頭