きょう 教 教とは 「暁諭 (あきらかにさとす)」 の意で、 正しい道理を説いて人々をさとし、 みちびくことをいう。 智顗の ¬法華玄義¼ には 「教とは聖人、 下に被らしむる言なり」 とあり、 真実をさとった聖人が迷えるものをみちびく言葉を教というとしている。 すなわち、 釈尊の一代の説法、 およびそれに順ずる菩薩諸聖の説などを指して教とよぶが、 それらは八万四千の法門といわれるように膨大なものであり、 説かれる内容も多岐にわたっている。 そのため、 それらを分類整理し価値判断して、 仏教全体を統一的に把握していこうとする教相判釈 (教判) の営みが古くよりなされてきた。 親鸞は、 ¬観経¼ ¬小経¼ 顕説の教えを方便の教とするのに対して、 釈尊の出世本懐を表した経である ¬大経¼ を真実の教とした。 「教巻」 には 「それ真実の教を顕さば、 すなはち ¬大無量寿経¼ これなり」 とある。 なお、 ¬大経¼ は阿弥陀仏の第十七願文に応じて説かれたとされる。 第十七願文には 「たとひわれ仏を得たらんに、 十方世界の無量の諸仏、 ことごとく咨嗟して、 わが名を称せずは、 正覚を取らじ」 と説かれており、 十方の諸仏に阿弥陀仏の名号をほめたたえしめようと誓われている。 釈尊が ¬大経¼ を説いて本願の名号のいわれを顕示したのは、 この大十七願成就のすがたであり、 この真実の教にあらわされている本願の名号を正定業として示すのが 「行巻」 とされる。 →三経隠顕、 諸仏称名の願、 補註8。