きほういったい 機法一体 「機」 とは衆生の信心、 「法」 とは阿弥陀仏が衆生を救う力・はたらきのことで、 両者は一つであって異なるものではないということ。 蓮如は ¬御文章¼ 3帖目第7通において 「南無の二字は、 衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。 つぎに阿弥陀仏といふ四つの字のいはれは、 阿弥陀仏の衆生をたすけたまへる法なり。 このゆゑに、 機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり」 と、 衆生の信心 (機) と阿弥陀仏が衆生を救う力・はたらき (法) とは別のものではないことを述べ、 あるいは3帖目第2通では 「その他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、 ただ南無阿弥陀仏なり」、 1帖目第15通では 「南無阿弥陀仏の体は、 われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり」 とも述べて、 南無阿弥陀仏の六字全体は、 そのまま信心 (機) のすがたをあらわしたものであり、 またそのまま阿弥陀仏の救いの力・はたらき (法) であると見ている。 なお、 ¬安心決定鈔△¼ に説かれる機法一体は、 西山義の生仏不二の原理に立つものであり、 多義がある。 浄土真宗における機法一体の意義を明らかにするために、 安心論題に 「機法一体」 が設けられている。 →六字釈。