じょうげんのほうなん 承元の法難 建永2年 (承元1・1207) に、 法然専修念仏者に加えられた弾圧のこと。 建永の法難ともいう。 4名が死罪、 法然、 親鸞ら8名が流罪となった。 法然の専修念仏は南都北嶺諸宗から念仏に偏執した教えと見なされており、 その教えが広まるとともに、 専修念仏者の中に他宗との軋轢を生む者が出ていた。 法然は元久元年 (1204) に 「七箇条起請文」 を作成して比叡山からの批判に対処するなどしたが、 翌元久2年 (1205) には興福寺後鳥羽院に 「興福寺奏状」 を提出し専修念仏停止を訴えた。 建永元年 (1206) 12月、 後鳥羽院の留守中に、 院に仕える女房たちが法然の門弟が主催する別時念仏結縁し外泊したことが発覚すると、 後鳥羽院の私憤と興福寺の思惑とが一致し専修念仏の弾圧が行われた。 建永2年 (1207) 2月に専修念仏は禁止され、 法然は土佐 (実際の配所は讃岐国)、 親鸞は越後国に流罪となった。 親鸞はこの法難を批判して ¬教行信証¼ に 「主上臣下、 法に背き義に違し、 忿りを成し怨みを結ぶ」 と記している。 また ¬歎異抄¼ 末尾に処罰された人々の記録が存する。