往生要集 上巻

天台首楞厳院の沙門源信撰ぶ

 

【1】 ^そもそも、 *極楽ごくらく*おうじょうするための教行は、 濁りはてたこの末の世の目とも足ともなるものである。 僧も俗も、 身分の高いものも低いものも、 誰かこれに従わぬものがあろうか。 ^しかし、 *けんぎょう*みっきょうのみのりはその説くところがさまざまであり、 (有相の行) (無相の行) に依る業因は、 その行が多い。 それらは智慧がさとく、 努力を怠らぬ人は、 むずかしいと思わないであろうが、 私のような愚かなものは、 どうして進んで修行することができようか。 ^こういうわけであるから、 *念仏ねんぶつの一門に依って、 少しばかり経論の肝要な文を集めた。 これをひもといて、 念仏の行法を修めると、 覚り易く行じ易いことであろう。

 ^この書は総じて十門から成り、 三巻に分けてある。 第一にはえん穢土えど、 第二にはごんじょう、 第三には極楽ごくらくしょう、 第四にはしょうしゅ念仏ねんぶつ、 第五には助念じょねん方法ほうほう、 第六にはべつ念仏ねんぶつ、 第七には念仏ねんぶつやく、 第八には念仏ねんぶつしょう、 第九にはおうじょう諸業しょごう、 第十には問答もんどうりょうけんである。 ^これを手元に置いて忘れないように備えよう。

【2】 ^大文第一に、 厭離穢土というのは、 ぜんたい迷いの*三界さんがいは安らかなことがなく、 最も厭い離れるべきである。 今、 その有様を明かすと、 総じて七種がある。 一つには*ごく、 二つには*餓鬼がき、 三つには*ちくしょう、 四つには*しゅ、 五つには*にん、 六つには*てん、 七つには総結である。

【3】 ^第一には地獄、 これがまた八種に分かれる。 一つには等活とうかつ、 二つにはこくじょう、 三つには衆合しゅごう、 四つにはきょうかん、 五つにはだいきょうかん、 六つにはしょうねつ、 七つにはだいしょうねつ、 八つにはけんである。

【4】 ^はじめに等活地獄というのは、 この世界 (えんだい) の下、 一千*じゅんの所にあって、 広さは一万由旬である。 ここにいる罪人は、 互いに絶えず相手を傷つけようとする心をいだいている。 もしふと相手に出会うと、 ちょうど猟師が鹿を見つけたようなもので、 それぞれ鉄の爪で、 互いにつかみ裂いて、 血も肉もすっかり無くなってしまい、 ただ骨だけが残っているという有様である。 あるいは地獄の鬼が手に手に鉄の杖や鉄の棒を取って、 頭から足まで、 くまなくみな打ち突くと、 罪人の身体からだは破れ砕けて、 まるで、 ばらばらに散り去る砂のようになってしまう。 あるいは、 非常に鋭い刀で、 ずたずたに肉を切りさくことは、 ちょうど料理人が魚肉を調理するようである。 ところが、 涼しい風が吹いてくると、 それにつれて、 もとのように生きかえり、 あっという間に起きあがって、 前のように苦を受ける。 あるいは、 こう述べてある。 空中に声がして 「この多くの者ども、 もとのように等しくきかえれ」 というとも説かれてあるし、 あるいは地獄の鬼が鉄のさすまたで地面を打って 「活きかえれ、 活きかえれ」 と唱えるとも説かれている。 このような苦しみは、 詳しく述べることができない。 以上は ¬*だい智度ちどろん¼ ¬*瑜伽ゆがろん¼ ¬*しょきょうようしゅう¼ に依って示した。

 ^人間世界の五十年を*天王てんのうてんの一昼夜として、 四天王天の寿命は五百年であるが、 その四天王天の寿命を、 この等活地獄の一昼夜として、 この地獄の罪人の寿命は五百年である。 殺生した者がこの地獄に堕ちる。 以上、 寿命の長さについては ¬*しゃろん¼ に依り、 地獄に堕ちる業因については ¬*しょうぼうねんぎょう¼ に依る。 以下の六つの地獄についても、 これと同様である。 ^¬*優婆うばそくかいきょう¼ には、 初天 (四天王天) の一年を初地獄 (等活地獄) の一昼夜としている。 以下もこれに準ずる。

 ^この地獄の四門の外に、 また十六の付属した別処の地獄がある。 ^一つには泥処でいしょ。 ここには非常に熱い泥のように溶けた糞便があって、 その味は最も苦い。 金剛のように堅いくちばしのある虫が、 その中にち満ちている。 罪人が中にいて、 この熱糞を食べると、 多くの虫が集まって、 この罪人を一斉に争って食べる。 皮を破り、 肉を噛み、 骨を砕いて髄を吸うのである。 むかし鹿や鳥を殺した者が、 この中に堕ちる。

 ^二つには刀輪とうりんしょ。 ここには鉄壁が周囲を取り巻いて、 その高さは十由旬である。 猛火が盛んに燃えて、 絶えずこの中に満ちている。 人間世界の火は、 これに比べると、 まるで雪のようなものである。 この猛火が、 ほんのわずかでも罪人の身体に触れると、 芥子けしのようにこまかく身体が砕けてしまう。 また熱鉄が豪雨のように降ってくる。 また刀林があって、 その刃は非常に鋭い。 またもろつるぎがあって、 雨のように降ってくる。 このように多くの苦しみがかわるがわる来て、 とても辛抱することができない。 むかし物を貪って生物を殺した者が、 この中に堕ちる。

 ^三つには瓮熱おうねつしょ。 ここでは、 罪人を捕えて、 鉄のかめの中に入れ、 豆のようにり尽くす。 昔、 生物を殺して煮て食べた者が、 この中に堕ちる。

 ^四つには多苦たくしょ。 この地獄には万億種の無量の苦しみがあって詳しく説くことができない。 むかし縄で人を縛り、 杖で人を打ち、 人を遠い旅路に追い立て、 嶮しいところから人を突き落とし、 煙をくすべて人を悩まし、 子供をおどしたりする、 このような種々に人を悩ました者が、 みなこの中に堕ちる。

 ^五つにはあんみょうしょ。 罪人は暗黒の所にいて、 絶えず闇火に焼かれる。 烈しい猛風が、 金剛山を吹いて、 ちょうど砂を散らすように磨り合わせ砕く。 罪人は鋭い刀で切りかれるように、 この熱風に吹かれる。 むかし羊の口と鼻とを塞ぎ、 二枚の瓦の中に亀を置いて押し殺した者が、 この中に堕ちる。

 ^六つには不喜ふきしょ。 ここには大火炎が昼夜に燃えている。 熱い炎を吐く嘴をもつ鳥や犬・狐がいて、 その声は非常に気味悪く、 はなはだ恐ろしい。 絶えずこれらの動物が来て罪人を噛みくらうので、 骨や肉が散乱している。 金剛の嘴をもった虫が骨の中を動きまわって、 その髄を食べる。 むかし貝を吹き、 鼓を打ち、 おそろしい声を出して、 鳥獣を殺した者が、 この中に堕ちる。

 ^七つにはごっしょ。 ここの罪人は、 嶮しい崖の下にいて、 絶えず鉄火に焼かれる。 むかし、 ほしいままに生物を殺した者が、 この中に堕ちるのである。 以上、 ¬正法念経¼ に依る。 十六の付属の別処の中、 残りの九つは経の中に説いていない。

【5】 ^二つに、 黒縄地獄は等活地獄の下にあって、 広さは前と同じである。 地獄の鬼が罪人を捕えて熱鉄の地に臥せさせ、 熱鉄の縄で縦横に身体に墨縄を引き、 熱鉄の斧で、 この墨縄のとおりに身体を切り割る。 あるいは鋸で引き切り、 あるいは刀で切り刻み、 幾百千の肉片として処々に散らしておく。 また、 熱鉄の縄を懸けて、 無数に交錯させ横たわらせてある。 罪人を追い立てて、 その中に入らせると、 悪風が激しく吹いて、 罪人の身に絡まりあい、 肉を焼き骨を焦して、 その苦しみは極まりがない。 以上は ¬瑜伽論¼ ¬大智度論¼ に依る。

 ^また左右に大きな鉄山がある。 山の上には、 それぞれ鉄のはたを建て、 その先に鉄縄を張り、 縄の下には熱い釜が沢山ある。 罪人を追い立てて、 この鉄山を背負わせ、 縄の上を綱渡りさせ、 はるか下にある鉄の釜に落して、 罪人を砕き煮ること極まりがない。 ¬*観仏かんぶつ三昧ざんまいきょう¼ に依る。

 ^等活地獄と十六の付属した別の地獄のあらゆる苦しみを十倍して重く受けるのである。 地獄の鬼が罪人を責めていう。

「心は第一のあだである この怨が最も悪質である

この怨がよく人を縛って *えんおうの所に送りとどける

汝だけが ひとり地獄の火に焼かれ 悪業のために食われる

妻子兄弟などの親族も救うことができない」

と。 なお広く説いている。 ^後の五つの地獄が、 それぞれその前のすべての地獄のあらゆる苦しみを十倍して重く受けることは、 これを例として知るべきである。 以上は ¬正法念経¼ の意である。

 ^人間世界の百年を*とうてんの一昼夜として、 忉利天の寿命は千年である。 その忉利天の寿命を黒縄地獄の一昼夜として、 この地獄の寿命は千年である。 生物を殺し、 盗みをした者が、 この地獄に堕ちる。

 ^この地獄にも付属の別処がある。 等喚とうかんじゅしょと名づける。 ここでは高さ無量由旬の嶮しい崖に罪人を挙げておき、 熱い炎に包まれた黒い縄で縛り、 繋ぎ終って、 その後、 罪人を推しやって、 鋭い鉄の刀が立っている熱地の上に突き落とす。 罪人は、 鉄炎の牙のある犬に噛み殺されて食べられ、 身体のすべては、 ばらばらに分離してしまう。 大声を上げて吼えるように叫んでも、 誰も救ってくれる者はない。 むかし法を説くとき、 まちがった見解の論によって、 すべてが真実でなく、 あらゆる事をかえりみないで、 崖から身を投げて自殺した者が、 この中に堕ちるのである。

 ^また別処がある。 鷲処じゅしょと名づける。 ここでは、 地獄の鬼が、 怒りに任せて激しく杖で罪人を打ち、 昼も夜も、 絶えず走りつづけ、 手には火炎に包まれた鉄刀を持ち、 弓を引き矢をつがえ、 罪人の後につきしたがって走り追い、 切ったり打ったり射たりする。 むかし物を貪るために、 人を殺したり人を縛ったりして食物を奪った者が、 この中に堕ちるのである。 ¬正法念経¼ から抜き書きした。

【6】 ^三つに衆合地獄は黒縄地獄の下にあって、 広さは同じである。 この地獄には、 鉄山が多くあって、 それぞれ二つずつ向かいあっている。 牛や馬の頭をした多くの地獄の鬼が、 手に手に責め道具を持って、 罪人を追いたてて山の間に入らせる。 この時、 両方の山が罪人に迫ってきて押し合わせると、 罪人の身体は砕け折れ、 血は流れて地面に満ちる。 あるいは鉄山があって空から落ちて罪人を打つと、 砕けてちょうど沙のような有様となる。 あるいは罪人を石の上に置き、 岩で罪人を押しつぶし、 あるいは鉄の臼に入れ、 鉄の杵でく。 極めて恐ろしい地獄の鬼や、 熱鉄の獅子・虎・狼などのいろいろな獣や烏・鷲などの鳥が、 先を争ってやって来て罪人を噛みくらう。 ¬瑜伽論¼ ¬大智度論¼ に依って述べる。

 ^また、 鉄炎の嘴のある鷲が、 罪人のはらわたを取り出して、 木の頂上に掛けて置いて、 これを食う。 この地獄には大きな河があり、 河の中には鉄のかぎ (つりばり) があって、 みなことごとく火と燃える。 地獄の鬼は罪人を捕え、 その河の中に投げて、 鉄の鉤の上にとす。 また、 その河の中に熱せられた赤銅の汁があって、 投げ込まれた罪人を漂わせる。 日の初めて出る時のように身体の浮いているものもあるし、 重い石のように沈んでいる者もある。 手を挙げ、 天に向かって叫び泣いている者もあるし、 共に身体を近づけあって泣き叫んでいる者もある。 長い間、 非常な苦しみを受けているのに、 頼りとする者もなければ、 救い手もない。

 ^また、 地獄の鬼が罪人を捕えて刀葉の林に置く。 かの木の頂上を見ると、 みめ麗しく、 きらびやかに装った女がいる。 罪人は、 この女のいる事に気がついて、 すぐさま木に上ると、 木の葉は刀のように罪人の身体の肉をき、 次にその筋を割く。 こうして身体のすべての場所を、 ずたずたに切り割いて、 やっと木の上に登ることができて、 かの女を求めると、 もはや地上にいて、 こびを湛え、 欲情に満ちた眼差しで、 罪人を見あげながら、 こういう言葉を投げかける。 「わたしはあなたを恋しさのあまり、 ここに来ましたのよ。 なぜ、 今あなたはわたしのそばに来て下さいませんの。 どうしてわたしを抱いて下さらないの」 と。 罪人は、 この女を認めるがはやいか、 欲情は火と燃えあがり、 女の所へと次第に、 ふたたび降りて行くと、 刀葉は上向きになって、 剃刀かみそりのように鋭い。 罪人は前のように、 身体のすべての部分を残す所もなく切り割かれて、 やっと地上に降り立つと、 かの女は、 またもや木の頂上にいる。 罪人は、 これを見ると、 また木に登って行く。 ^こうして無量百千億年の長い間、 自分の心に欺かれて、 この地獄の中で、 このようにぐるぐるめぐり、 このように焼かれるのである。 これはよこしまな欲情がその因である。 なお広く説いてある。 ^地獄の鬼が罪人を責めたてて、 次のようなうたを説く。

他人の作った悪事のために お前が苦しみを受けるのではない

自分の作った業のために自分が受ける報いなのだ 世の人々はすべてこのとおりである ¬正法念経¼ に依る。

 ^人間世界の二百年を*夜摩やまてんの一昼夜として、 夜摩天の寿命は二千年である。 その夜摩天の寿命を、 この衆合地獄の一昼夜として、 この地獄の寿命は二千年である。 生物を殺し、 盗みをし、 よこしまな淫欲を犯した者が、 この地獄に堕ちる。

 ^この大地獄には、 また十六の付属した別の地獄がある。 ^そこに悪見あくけんしょと名づける一地獄がある。 他人ひとの子供を奪って、 強迫し暴行して、 泣き叫ばせた者が、 ここに堕ちて苦しみを受ける。 その有様をいえば、 罪人は自分の子供が、 地獄の中にいるのを見る。 地獄の鬼は、 鉄の杖や鉄のきりで、 その子供の陰部を突き刺し、 あるいは鉄の鉤で、 その子供の陰部に釘うつ。 罪人は、 わが子の、 このような悲惨な有様を見た時、 子供可愛さの心より、 悲しみのあまり気絶して、 堪え忍ぶことができぬ。 この子供を愛する心より起こる苦しみは、 火に焼かれる苦しみと比べると、 火に焼かれる苦しみは、 この苦しみの十六分の一にも及ばぬのである。 罪人は、 このように心の苦しみに責められおわると、 また身体の苦しみを受ける。 その有様は、 頭を下にし、 熱した銅汁を盛って罪人の肛門に注ぎ、 その身の内に入れ、 内臓・大小腸などを焼く。 次第に焼いてしまうと、 下の方から流れ出る。 つぶさに身と心の苦しみを受けて、 無量百千年の長いあいだ止むことがない。

 ^また、 別の地獄がある。 多苦たく悩処のうしょと名づける。 男色を犯した者が、 この地獄に堕ちて苦しみを受けるのである。 その苦しみの有様をいうと、 前世に愛した男を見ると、 身体のすべての個所に、 みなことごとく熱炎がある。 この炎の男が来て罪人の身を抱くと、 身体のすべての部分がみなことごとく分解し散乱してしまう。 死んでしまって、 またきかえる。 非常な怖れを抱いて、 走り逃げていくと、 嶮しい岸から堕ち、 炎の嘴のある烏や炎の口をもつ狐がやってきて、 罪人を噛みくらうのである。

 ^また別の地獄がある。 にんしょと名づける。 他人の妻を犯した者が、 この地獄に堕ちて苦しみを受ける。 その苦しみの有様をいうと、 地獄の鬼が罪人を樹の頂上に吊す時、 頭を下にし、 足を上にする。 下には激しい炎を燃やして、 身体のすべての部分を焼く。 焼き尽くすと、 また生きかえる。 苦しさのあまり、 大声で叫ぼうとして口を開くと、 火が口から入って、 心臓・肺臓などの五臓六腑を焼く。 その他の別の地獄については経に説いてあるとおりである。 以上は ¬正法念経¼ から抜き書きした。

【7】 ^四つに叫喚地獄は衆合地獄の下にあり、 広さは前の地獄と同じである。 地獄の鬼の頭は、 金のように黄色で、 目の中から火が燃え出て、 赤色の衣を着ている。 手足は長く大きくて、 風のように早く走る。 口から恐ろしい声を出して、 罪人を射る。 罪人は怖れのあまり、 頭を叩いて、 哀れみを求め、 「どうぞお慈悲を掛けて、 すこしはお許し下さい」 という。 この言葉をいっても、 ますます地獄の鬼は怒りを増す。 ¬大智度論¼ に依る。

 ^あるいは鉄棒で頭を打ち、 熱鉄の地を走らせ、 あるいは熱い鍋に入れ、 繰り返してあぶり、 あるいは熱した釜に投げこんで煎じ煮る。 あるいは激しく炎が燃える鉄の部屋に追い立てて入らせ、 あるいはかなばさみで罪人の口を開いて、 満ち溢れるばかりに煮えた銅汁を注ぎ、 内臓を焼きただらして、 下から直ちに流れ出る。 ¬瑜伽論¼ ¬大智度論¼ に依る。

 ^罪人は*を唱え、 閻魔王に仕える鬼を怨み悲しんでいう。

あなたは何という慈悲の心がないことよ また何と寂静しずけさのないことか

わたくしは慈悲の心の持ち主であるのに わたくしにどうして慈悲を掛けぬのか

^すると、 閻魔王に仕える鬼は、 罪人に答えていう。

みずから愛欲のわなに欺かれて 善からぬわざを作り

いま悪業の報いを受けたのに どうして我を怒り恨むのか

^また、 いう。

汝はもと悪業を作り 愚かな欲に欺かれた

そのとき何故悔いなかったのか 今になって後悔してもどうしてまにあおうか ¬正法念経¼ に依る。

 ^人間の四百年を*そつてんの一昼夜として、 兜率天の寿命は四千年である。 その兜率天の寿命を、 この地獄の一昼夜として、 この地獄の罪人の寿命は四千年である。 殺生し、 盗み、 よこしまな淫欲を犯し酒を飲みなどした者が、 この地獄に堕ちる。

 ^また十六の付属した別の地獄がある。 ^その中にまつちゅうしょと名づける一地獄がある。 むかし酒を売る時に水を加え増した者が、 この中に堕ちて、 四百四病というあらゆる病気にかかる。 地・水・火・風の四大の不調から、 それぞれに百一の病が起こる。 合わせて四百四病になる。 その一つの病の力は、 一昼夜のうちに、 *てんの若干の人をみな殺すことができる。 また、 罪人の身から虫が出て、 その皮肉骨髄を破って飲みくらう。

 ^また別の地獄があって、 うん火霧かむしょと名づける。 むかし酒を人に飲まし、 酔わせてしまってから、 その人を調からかいもてあそんで恥かしめたものが、 この地獄に堕ちて苦を受ける。 その有様は次のようである。 この地獄の火が充満している厚さは、 ひじの長さの二百倍である。 地獄の鬼は、 罪人を捉えて、 この火の中を歩かせるので、 罪人の足の先から頭の先まで、 すべて溶けてなくなってしまう。 罪人を取り上げると、 また生きかえる。 このようにして無量百千年という長い間止めどもなく苦を与え続ける。 そのほかの地獄については経文のとおりである。 ^また、 地獄の鬼は罪人を責めたて、 次のような偈を説く。

仏のみもとで*愚痴ぐちを起こし 世間や仏法の事を破壊し

解脱さとりの智慧を焼くこと 火のようなもの それが酒というものである ¬正法念経¼ に依る。

【8】 ^五つに大叫喚地獄は叫喚地獄の下にあって、 広さは前の地獄と同じであり、 罪人の受ける苦しみの有様も同じである。 前に挙げた四つの地獄とそれらの十六の別な地獄におけるすべてのあらゆる苦しみを十倍して重く受ける。

 ^人間の八百年を*楽天らくてんの一昼夜として、 化楽天の寿命は八千年である。 その化楽天の寿命をこの地獄の一昼夜として、 この地獄の罪人の寿命は八千年である。 殺生し、 盗み、 よこしまな淫欲を犯し、 酒を飲み、 嘘をつく者がこの地獄に堕ちる。 ^地獄の鬼は罪人の前で、 責め立てて次のような偈を説く。

嘘偽りは一番おそろしい火で 大海をすら焼き尽くす

まして嘘つきの人を焼くのは 草木の薪を焼くようである

 ^また、 十六の付属した別の地獄がある。 ^その中にじゅ鋒苦ぶくしょと名づける一地獄がある。 罪人は、 熱鉄の鋭い針で、 口も下も共に刺され、 泣き叫ぶこともできない。

 ^また別の地獄がある。 じゅへんしょと名づける。 地獄の鬼は、 熱鉄のかなばさみで、 罪人の舌を抜き出す。 抜いてしまうと、 舌はまた生え、 生えるとまた抜く。 眼をくり抜くことも同様である。 また、 刀で罪人の身体を削る。 その刀は非常に薄刃で鋭いこと、 ちょうど剃刀のようである。 これらのような違った種類のいろいろの苦しみを受けることは、 すべて嘘をついた報いである。 その他のことは、 経に説いてあるとおりである。 ¬正法念経¼ から抜き出した。

【9】 ^六つに焦熱地獄は大叫喚地獄の下にあって、 広さは前の地獄と同じである。 地獄の鬼は罪人を捕えて、 熱鉄の地の上に臥せさせ、 仰むけたりうつぶせたりして、 頭から足に至るまで、 大きな熱鉄の棒で、 打ったり突いたりして、 肉団子のようにならせる。 あるいは、 非常に熱した大きな鉄の鍋の上に置き、 激しい炎で罪人をあぶり、 左右に罪人を転がし、 背中からも腹の方からも焼いて細らせる。 あるいは、 大きな鉄の串で、 下から罪人を貫き、 頭まで突き通し、 繰り返して罪人を炙り、 この人の身体の各部、 毛穴、 口の中に全部炎を起こさせる。 あるいは、 熱鉄の釜に入れ、 あるいは、 熱鉄のたかどのに置くと、 鉄火は激しく燃えて、 罪人の骨髄に徹る。 ¬瑜伽論¼ ¬大智度論¼ に依る。

 ^もし、 この地獄の豆ほどの火を、 この世界 (閻浮提) に置くならば、 瞬間にこの世を焼き尽くすであろう。 まして、 罪人の身の軟らかいことは、 今萌え出た草のようである。 それを長らく焼くのであるから、 どうして堪えることができようか。 この地獄の人は、 前の五つの地獄の火を見て、 まるで霜か雪のように冷たいと思う。 ¬正法念経¼ に依る。

 ^人間の千六百年を*他化たけざいてんの一昼夜として、 他化自在天の寿命は一万六千年である。 その他化自在天の寿命を一昼夜として、 この地獄の寿命も同様である。 殺生したり、 盗み、 よこしまな淫欲を犯し、 酒を飲み、 嘘をつき、 間違った考えをいだく者が、 この中に堕ちる。

 ^この地獄の四門の外に、 また十六の付属した別な地獄がある。 ^その中に、 ふん荼離だりしょと名づける一地獄がある。 その有様をいうと、 かの地獄の罪人の身体中、 芥子つぶほども火炎の無いところはない。 ほかの地獄の人は、 次のように話しかける。

 「君よ、 早くおいで、 早くおいで。 ここに*ふん荼離だりの池がある。 飲める水があるよ。 しっとりとした林の木影があるよ。」

 罪人が、 その言葉につれて走って、 その場に行くとき、 道のほとりに坹があって、 その中に燃え上がる炎が充満している。 罪人は、 この坹に落ち込むと、 身体のすべてが、 ことごとく焼け尽きてしまう。 焼けてしまうと、 また、 もとどおりになり、 もとどおりになると、 また焼かれる。 それでも分荼離迦池に行こうと欲望に駈られて、 前に進んで池に入る。 さて、 かの池に入ると、 分荼離迦の火炎が、 五百由旬の高さに燃え上がる。 罪人は、 かの炎に焼き炙られ、 死ぬるとまた活きかえる。 もし人が、 みずから餓死して天上界に生まれたいと願い、 また他人に教えて間違った考えを持たせた者は、 この地獄に堕ちる。

 ^また付属した別の地獄がある。 あんふうしょと名づける。 その有様をいうと、 この地獄の罪人は、 恐ろしい風に吹かれて、 空中に巻き上げられ、 頼る所もない。 車の輪のように早く回転するので、 罪人を見ることができぬ。 このように回転したあと、 別に剣のような風が起こり、 罪人の身体を砕いて砂のようにして、 十方に散らす。 散ってしまうと、 また身体がもとどおりになり、 もとどおりになるとまた散る。 いつもこのようで、 きりがない。 もし人が ªあらゆる物がらには常と無常とがある。 無常というのは身体であり、 常というのは*だいであるº というようなまちがった考えを起こすならば、 その人はこのような苦しみを受けるのである。 そのほかは、 経に説くとおりである。 ¬正法念経¼ に依る。

【10】^七つに大焦熱地獄は焦熱地獄の下にあって、 広さは前の地獄と同じであり、 苦しみの有様も同じである。 ¬大智度論¼ ¬瑜伽論¼ に依る。

 ^けれども、 前の六つの根本の地獄とこれに付属する別の地獄とにおけるあらゆるすべての苦しみを十倍して重く受ける。 詳しく説くことはできない。 罪人の寿命は一中劫の半分である。 殺生し、 盗み、 よこしまな淫欲を犯し、 酒を飲み、 嘘をつき、 間違った考えを起こしたもの、 ならびに浄戒を保っている尼をけがした者が、 この地獄に堕ちる。 ^この悪業の人は、 まず死んでから、 まだ地獄に至らぬ*ちゅうの間に、 大地獄の有様を見る。 そこには閻魔王に仕える鬼がいて、 恐ろしい顔をし、 手も足もきわめて熱く、 身体をよじてひじを怒らせる。 罪人は、 これを見て非常に恐れる。 その鬼の声はまるで雷がとどろくようで、 これを聞いて、 罪人はさらに恐れを増すのである。 その手には鋭い刀を持ち、 腹は非常に大きくて黒雲の色のようである。 炎と燃える眼の色は灯火のようで、 曲った牙はほこのように鋭い。 ひじも手もみな長く、 振り動かして勢いをつけると、 身体のすべての部分が、 みなことごとく荒々しい姿になる。 そして、 かようないろいろと恐ろしい形相をして、 罪人の咽喉のどをしっかりと捕える。 ^こうして罪人をつれて行き、 六十八百千億由旬を過ぎると、 かいしゅう城が海の外辺にある。 また三十六億由旬を行って、 次第に下に向かうこと十億由旬である。 あらゆる風の中で、 一番激しいのは*業風ごうふうである。 このような業風が悪業の人を連れ去って、 かの所に至る。 さて、 かの所に行き着いてみると、 閻魔王が、 いろいろと罪人を責めたてる。 責めたてられることが終ってしまうと、 悪業の縄で縛られ、 地獄へと出て行く。 遠く遥かに大焦熱地獄の、 みわたす限り大火炎が燃えているのを見る。 また、 地獄の罪人の泣き叫ぶ声を聞く。 罪人は、 これを見聞して、 悲しみ恐れて、 無量の苦しみを受ける。 かようにして、 限りもなく長い年月の間、 地獄の罪人が泣き叫ぶ声を聞くのである。 これを聞いて十倍にも恐れ、 心は驚きふるえる。 ^閻魔王の手下は、 罪人を責めたてていう。

汝 地獄の苦しみの声を聞いただけで このように恐れおののく

まして地獄の火に焼かれることは 乾いた柴を焼くようである

火で焼くといっても実の火が焼くのではなく 悪業が焼くのである

火の焼くのは消すこともできるが 業の焼くのは消すことができない

 ^このように十分に責め苦しめたのち、 地獄に連れて行くと、 大きな炎の集まりがある。 その炎は五百由旬の高さに燃え上がり、 その炎の広さは二百由旬である。 この炎が盛んに燃え上がるのは、 罪人が作った悪業の勢力に依るのである。 地獄の鬼が、 にわかに罪人をかの炎の集まりに投げ下ろすのは、 ちょうど大きな山の崖から押して嶮しい岸につきおとすようなものである。 以上は ¬正法念経¼ から抜き書きした。

 ^この大焦熱地獄の四門の外に十六の付属した別の地獄がある。 ^その中の一地獄は、 少しのすき間もなく、 大空までも、 みなすべて炎が燃えている。 針の穴ほども、 炎が燃えぬ所とてはない。 罪人は、 炎の中で声を出して叫び呼んでも、 無量億年の間、 常に焼かれ続ける。 清浄な信女を犯した者が、 この中に堕ちる。

 ^また別の地獄がある。 じゅ一切いっさいのうと名づける。 その有様は、 まず炎の刀ですべての身体の皮をきながら、 その肉を傷つけないでおく。 さて、 その皮を剥いでしまうと、 身体と列ねて熱地に敷いておき、 火でこれを焼き、 沸き上る熱鉄を罪人の身体に注ぐ。 このように無量億千年の間、 大きな苦しみを受けるのである。 比丘が、 酒を持戒の婦女に飲ませて誘惑し、 その心を迷わしてしまってから、 よこしまな行いをし、 あるいは金品を与えたりしたような者が、 この地獄に堕ちる。 その他は経の中に説いてあるとおりである。 ¬正法念経¼ から抜き書きした。

【11】^八つに阿鼻地獄は、 大焦熱地獄の下、 *欲界よくかいの最も底の所にある。 ^罪人が、 この地獄に落ちて行く時、 まず、 中有の際に、 泣き叫び、 次のような偈をいう。

あらゆるものはただ炎ばかり 大空あまねく 隙間もない

四方もまた四すみにも 地上にもあいた所がない

地上のあらゆる場所には 悪人がみなあまねく満ちている

わたしはいま落着くべき所もなく ただ独りで同伴つれもない

厭わしい暗黒の中にあって 大きな炎のかたまりの中に入る

わたしは虚空の中にあっても 日も月も星も見えぬ

^そのとき閻魔王の手下は、 怒りの心で罪人に答えていう。

増劫の時も減劫の時も 大火が汝の身を焼くのだ

愚かな人よ 悪事を作った後に 今になってどうして後悔の心を起こすのか

天や阿修羅や*健達けんだつや 龍や鬼のしわざではない

自分の作った業の網に縛られるのだ 汝を救うことのできる者はない

たとえば大海の中にして ただ一すくいの水を取るとすれば

汝の今の苦しみは一掬の水であり これから受ける苦しみは大海のようだ

 ^さて、 罪人を責めたててしまうと、 地獄に連れて行くのであるが、 この地獄から二万五千由旬離れた所で、 かの地獄で泣き叫ぶ罪人の声を聞いて、 苦しみは十倍し、 悶絶する。 頭は下にあり、 足は上にあって、 二千年を経る間、 すべて下に向かって落ちて行く。 ¬正法念経¼ から抜き書きした。

 ^かの阿鼻城は、 広さ八万由旬である。 七重の鉄城、 七重の鉄網があり、 下に十八のへだてがあり、 刀林がその周囲を取りかこんでいる。 四隅に四匹の銅の犬がおり、 身長みのたけは四十由旬である。 その眼はいなずまのごとく、 牙は剣のごとく、 歯は刀の山のごとく、 舌は鉄のとげのごとくである。 すべての毛孔からみな猛火を出し、 その烟は臭悪で、 世の中で喩えられるものもない。 十八人の獄卒がいて、 その頭は*せつのごとく、 口は*しゃのようである。 六十四の眼があって、 鉄丸をほとばしり散らせる。 鉤になった牙は上に出て、 高さ四由旬である。 牙の先から火が流れ出て、 阿鼻城に満ちみちている。 頭の上には八つの牛頭があり、 一々の牛頭には十八の角があって、 一々の角の先からみな猛火を出す。 また七重の城内には、 七本の鉄のはしらがあり、 幢のさきから炎が湧き出し、 ちょうど煮えたつ泉のようである。 その炎はほとばしり流れて、 また城内に満ちみちている。 四門のしきみの上には八十の釜があり、 煮えたった銅が湧き上り、 また城内に満ちみちている。 一々の隔の間には八万四千の鉄のうわばみや大蛇がいて、 毒を吐き、 火を吐いて、 その身は城内に満ちている。 その蛇のたけり吼えることは、 百千の雷のようで、 大鉄丸を雨ふらせて、 また城内に満ちている。 また五百億の虫がいて、 八万四千のくちばしがあり、 嘴の先から火が流れ出ることが、 雨のようにふりそそぐ。 この虫が下りてくる時、 地獄の火は、 ますます盛んになり、 あまねく八万四千由旬を照らす。 また苦しみの中の苦しみ八万億千は集まってこの中にある。 ¬観仏三昧経¼ から抜き書きした。

 ^¬瑜伽論¼ の第四にいう。

東方、 数百由旬の三熱の大鉄地の上から、 猛く盛んな火があって炎を挙げて来て、 地獄の人々を刺す。 皮を貫いて肉に入り、 筋を断って骨を破り、 また、 その髄に通り、 蝋燭ろうそくのように焼く。 このようにして、 体中がみな猛火となる。 東方からの炎のように、 南方・西方・北方からも、 また、 このように炎が迫って来る。 こういうわけで、 かの地獄の人々は、 猛火と混りあって、 ただ炎の塊が四方から来るのを見るだけである。 火炎は混りあって隙間もなく、 受ける苦痛も隙がない。 ただ、 苦しみに迫られて罪人が泣き叫ぶ声を聞いて、 はじめて火炎の中に人のいる事が分るだけである。 また鉄ので三熱の鉄の炭を盛りあげ、 これをあぶり揃え、 また、 熱鉄の地の上に置いて、 大熱鉄の山に登らせる。 上ってはまた下り、 下ってはまた上る。 罪人の口から、 その舌を抜き出し、 多くの鉄の釘でうちつけ、 舌を拡げて、 皺のないようにするのはちょうど牛の皮を張るような有様である。 また、 さらに熱鉄の地の上に仰むけに寝かせ、 熱鉄のかなばさみで口を挟んで開かせ、 三熱の鉄丸を、 その口の中に入れると、 すぐさまその口・咽喉のどを焼き、 内臓を通って下から出る。 また、 沸き上った銅を、 その口に流し込むと、 咽喉と口とを焼き、 内臓を通って下から流れ出る。 以上は ¬瑜伽論¼ に依る。 三熱というのは焼熱と極焼熱と遍極焼熱とである。

 ^前の七つの大地獄とならびにそれに付属した別の地獄のあらゆる苦しみを一分とすると、 阿鼻地獄の苦しみは、 これらにまさること一千倍である。 こういう次第であるから、 阿鼻地獄の罪人は、 大焦熱地獄の罪人を、 ちょうど他化自在天の楽しい所にいる人のように思う。 *てんの所、 欲界の六天も、 阿鼻地獄の臭気を嗅ぐと、 すぐに、 全部気を失ってしまうであろう。 なぜかというと、 阿鼻地獄の人はきわめて臭いからである。 それに、 この地獄の臭気が、 どうしてやって来ないかというと、 大きな山が二つあって、 その一つをしゅっせんと名づけ、 その二を没山もっせんと名づけるが、 この山が、 かの臭気をさえぎっているからである。 もし、 人が、 阿鼻地獄にある苦しみのすべてを聞くと、 みなことごとく堪えられないであろう。 もし、 これを聞くならば、 死ぬであろう。 このようであるから、 阿鼻大地獄については、 その千分の一も説かぬのである。 なぜかというと、 説き尽くすこともできぬし、 聞くこともできぬし、 喩えることもできないからである。 もし、 この地獄を説いたり聞いたりする人があるならば、 このような人は血を吐いて死ぬであろう。 ¬正法念経¼ から抜き書きした。

 ^この無間地獄の罪人の寿命は一中劫である。 ¬瑜伽論¼ に依る。 *ぎゃく罪を作り、 因果の道理を否定し、 *だいじょうをそしり、 *じゅうきんを犯し、 いたずらに信者の施し物を受けた者が、 この地獄に堕ちる。 ¬観仏三昧経¼ に依る。

 ^この無間地獄の四門の外にも、 また十六の付属した別な地獄がある。 ^その中の一処をてつかん食処じきしょと名づける。 その有様は罪人の身体の上に大きさ十由旬の火が燃えており、 いろいろの地獄の中でも、 この苦しみが一番まさっている。 また、 鉄の瓦を激しい夏の雨のように降らし、 罪人の身体は、 ちょうど乾肉のように破れ砕ける。 炎の牙のある狐 (野干) が、 常に来て罪人を噛みくらい、 どんな時でも、 苦しみを受けることが止まない。 むかし仏像を焼いたり、 僧房を焼いたり、 僧の寝具を焼いた者が、 この中に堕ちる。

 ^また別の地獄があって、 こくしょと名づける。 その有様は、 罪人は飢えと乾きに身を焼いてみずから自分の肉を食う。 食い終るとまた肉がもとどおりになり、 もとどおりになるとまた食う。 黒い肚をした蛇が、 かの罪人に絡みつき、 足の甲から始めて、 次第次第に噛みくらう。 あるいは罪人を猛火の中に入れて焼き、 あるいは鉄の釜に入れて煎り煮る。 限りない長い間、 このような苦しみを受ける。 むかし仏に供えた財物を取って、 これを食べ用いた者が、 この中に堕ちる。

 ^また別の地獄があって、 山聚せんじゅしょと名づける。 その有様は、 大きさ一由旬の鉄山が上から落ちて、 かの罪人を打つと、 砕けて一握りの砂のようになる。 砕けてしまうと、 またもとどおりになり、 もとどおりになると、 また砕かれる。 また、 十一の炎があり、 罪人の周囲を包んで、 その身を焼く。 また、 地獄の鬼は、 刀で身体の各部分を残りなく割き、 非常に熱い鉛の汁をその裂け目に入れる。 四百四病のすべてが、 いつも起こり、 永久に苦しみを受けて、 何年という期限がない。 むかし*縁覚えんがくの食事を奪って自分が食べ、 縁覚に与えなかった者が、 この中に堕ちる。

 ^また別の地獄があって、 えん婆度ばどしょと名づける。 像のように身体の大きい猛鳥がいて、 その名をえんという。 くちばしは鋭くて炎を吐いている。 この鳥が罪人を捕えて、 遥かに空中に上り、 あちこち飛び回り、 そののち罪人を放すと、 ちょうど石が地上に堕ちたように、 罪人の身体は粉々に砕ける。 砕けてしまうと、 またもとの身体になり、 もとのようになってしまうと、 この鳥がまた罪人を捕えるのである。 また鋭いやいばが道に満ちて、 罪人の足を切り割く。 あるいは、 炎の歯のある犬がやって来て、 罪人の身体を噛む。 かくて、 長い間、 大きな苦しみを受ける。 むかし人々が用いている川の流れを断って、 人を渇き死にさせた者が、 ここに堕ちる。 その他は経に説いてあるとおりである。 以上は ¬正法念経¼ に依る。

 ^¬瑜伽論¼ の第四には、 八大地獄の近辺にある別の地獄を総括して、 次のようにいってある。

 ^かのいろいろのすべての大地獄には、 みな、 四方に四岸・四門があって、 鉄の垣が周囲を取巻いている。 その四方の四門から出ると、 その一々の門の外には、 四つの外園がある。

 ^まず、 焼けた灰が膝まで積もっている。 地獄の罪人たちが出て、 家を求めて、 あちこち歩き、 ここに至る。 足をおろす時、 皮も肉も血も、 みな、 すぐさま溶けただれる。 足を上げると、 またもとのとおりになる。

 ^次に、 この焼けた灰の続きに屍糞の泥沼がある。 この地獄の罪人たちは、 家を求めるために焼けた灰から出てしまうと、 次第次第にあちこちと歩き、 この中に落ち込んで、 首も足も共に沈んでしまう。 また、 屍糞の泥沼の内には、 いろいろな虫が沢山いて、 じょう矩くたと名づける。 罪人の皮を貫き肉に食い込み、 筋を切って骨を破り、 髄を取って食べる。 ^次に屍糞の泥沼の続きに、 鋭い刀の刃を仰むけて道としている所がある。 かの地獄の罪人たちは、 家を求めるために、 屍糞の泥沼から出てしまうと、 あちこち歩き回ってここに至り、 足を下す時に、 皮も肉も筋も血も、 すべてみな、 粉々になって爛れる。 足を挙げる時、 またもとどおりになる。 ^次に、 刀の刃の道に続いて、 刃の葉の林がある。 かの地獄の罪人たちは、 家を求めて、 刃の道から出てしまうと、 かの林の木陰に行き、 ちょっとでも木の下に坐ると、 微風がすぐ吹き起こって、 刃の葉が落ち、 罪人の身体の節々のすべてを切り裂くので、 罪人は、 たちまちの間に地上に倒れる。 真黒な犬がいて、 背中や腹をつかみ裂いて、 罪人を噛みくらうのである。

 ^この刃の葉の林に続いて、 鉄のりゅう末梨まり (とげのある木) の林がある。 かの地獄の多くの罪人たちは、 家を求めて、 さっそく、 ここにやって来て、 とうとうこの林の木の上に登る。 登る際には、 あらゆる刺が、 すべて下に向き、 降りようとする時には、 あらゆる刺が、 また上に向く。 こういうわけで、 罪人の身体を貫き刺しその節々まで行きわたる。 その時、 鉄の嘴のある大きな烏がやって来て、 罪人の頭の上に止まったり、 肩に止まったりして、 目の球を探してついばみ、 これを噛みくらう。 ^鉄の設柆末梨の林に続いて、 広く大きな川がある。 煮えたぎる熱い灰の水が、 その中に満ちみちている。 かの地獄の罪人たちは、 家を探し求めて、 鉄の設柆末梨の林から出おわると、 やって来て、 この河の中に落ちる。 ちょうど豆を大きな釜に入れ、 烈しく強い火を燃やして、 この豆をいり煮るようである。 湯が沸き上がるにつれて、 罪人はぐるぐるとめぐり回る。 川の両岸に、 多くの地獄の鬼がいて、 その手に杖と縄と大きな網とを持ち、 ずらりと並んで立ち、 かの罪人をさえぎって、 出られないようにしてある。 あるいは縄を掛け、 あるいは網で掬う。

 ^また、 広大な熱鉄の地上に罪人を置いて仰むけ、 これに向かって、 「お前達は、 今、 どんな望みがあるか」 と問う。 罪人は 「私たちは、 今はどんなことも感ぜられませんが、 いろいろのうえの苦しみに悩まされています」 というように答える。 すると、 かの地獄の鬼は、 すぐに鉄のかなばさみで口を挟んで開かせ、 非常に熱く燃えている鉄丸をその口の中に入れる。 その他は前に述べたとおりである。 もし罪人が 「私は、 今、 渇きに苦しめられています」 と答えると、 その時、 地獄の鬼は、 すぐに煮えたぎるあかがねを、 その口に注ぎ込む。 こういう次第で、 罪人は、 長い間、 苦しみを受ける。 ^このようにして、 前世に作ったすべての悪業はよく地獄に堕ちるという報いをうける。 悪業が無くならないあいだは、 この地獄の中から出られない。 ところで、 刀刃の路も刃葉の林も、 鉄の設柆末梨の林も、 これを総括して一つとするから四つの外園があることになるのである。 以上は、 ¬瑜伽論¼ と ¬倶舎論¼ との意味に依る。 一々の地獄は、 四門の外に、 それぞれ四園があるから、 合わせて十六の別の地獄とするのである。 これは、 ¬正法念経¼ の八大地獄と十六の別の地獄とが、 名称も有様もそれぞれ違っているのと、 同一ではない。

 ^また、 頞部あぶなどの八寒地獄がある。 詳しくは、 経・論に説いてあるとおりである。 今、 これを述べるいとまがない。

【12】^第二に餓鬼道を明かすと、 その住む場所が二つある。 一つには地の下五百由旬の所にあって、 閻魔王の世界である。 二つには、 人間界と天上界との間にある。 餓鬼のすがたははなはだ多い。 今、 その一部分を説明しよう。 身のたけが一尺のものもあるし、 人間と同じ身の長のものもある。 千由旬の身の長のものもあるし、 *雪山せっせんのような巨大な餓鬼もいる。 ¬*大集だいじっきょう¼ に依る。

 ^あるいは、 鑊身かくしんと名づける餓鬼がいる。 その身は高く大きくて、 人間の二倍ある。 顔も目もなく、 手足はちょうどかなえの足のようである。 熱い火が、 中に満ちみちて、 その身を焼く。 むかし財宝欲しさのために、 ほふり殺した者が、 この報いを受ける。

 ^あるいは、 じきと名づける餓鬼がいる。 その身は広大で、 身の長は半由旬である。 いつも、 吐き出した汚物を求めているが、 手に入らぬので困っている。 むかし夫が自分は御馳走を食べながら妻子には与えなかったり、 また、 妻が自分は食べて、 夫と子には与えなかったりした者が、 この報いを受ける。

 ^あるいは、 じきと名づける餓鬼がある。 世間の人が病気のために、 水辺や林の中で祭を行なう時、 この香気を嗅いで、 それで自分の命を保つのである。 むかし妻子らの前で、 自分ひとり御馳走を食べた者が、 この報いを受ける。

 ^あるいは、 食法じきほうと名づける餓鬼がある。 嶮しい難所で、 走り回って食物を求める。 色は黒雲のようで、 涙の流れることは雨のようである。 僧侶のいる寺に行って、 人が祈願したり説法したりするような時に、 その力を受けて命を保つのである。 むかし名誉や利欲を得ようとして、 不浄説法をした者が、 この報いを受ける。

 ^あるいは、 食水じきすいと名づける餓鬼がいる。 飢えと渇きに身を焼き、 あわてて水を求めるが、 得ることができないで困っている。 髪は長く垂れて顔を覆い、 目も見えぬまま、 川の方に走って行き、 もし、 人が川を渡る際、 足の下から落ちる余り水があると、 すばやく手に受けて、 それで命をつなぐのである。 あるいは、 人が水をすくって、 亡くなった父母に施すことがあれば、 その際、 すこしの水を手に入れて、 生き長らえることができる。 もし、 自分で水を取ろうとすると、 水を守る多くの鬼が、 杖で殴り打つ。 むかし酒を売るのに水増ししたり、 みみずや蛾を沈めたりして、 善いことをしなかった者が、 この報いを受ける。

 ^あるいはもうと名づける餓鬼がある。 世にいる人が、 亡くなった父母のために法事を設ける時だけ、 その施物を食べることができる。 その他は、 すべて食事をする事ができぬ。 むかし他の人が苦労してわずかばかりの物を手に入れたのに、 それをだまし取って使ったような者が、 この報いを受ける。

 ^あるいは、 海中の小島に生まれる餓鬼がある。 林の木も川の水もなく、 その居る場所は、 非常に熱い。 そこの冬の日を人間世界の夏の日と比べると、 千倍も勝って熱い。 ただ、 朝の露を飲んで、 やっと命を保っている。 海中の小島に住んではいるが、 海は乾ききっていると感ずるのである。 むかし病の苦しみに疲れきっている旅人の商品をだまし取って、 わずかばかりしか代金を払わなかった者が、 この報いを受ける。

 ^あるいは、 このような餓鬼がいる。 いつも墓場に行き、 火に焼かれた死骸を食べるが、 それでも、 なお満足することができないのである。 むかし牢獄を取締る役をして人の飲食を取った者が、 この報いを受ける。

 ^あるいは、 木の中に生まれている餓鬼がいる。 ちょうど木賊とくさむしのように、 その身体を押し付けられて窮屈なため、 大きな苦しみを受ける。 むかし日陰となる涼しい木を切り倒し、 さては、 僧侶たちの庭園の林を切り倒した者が、 この報いを受ける。 ¬正法念経¼ に依る。

 ^あるいは、 また、 このような餓鬼がいる。 髪の毛が垂れ下がって、 身体全体にまつわっている。 その髪は刀のようで、 その身を刺し切り、 あるいは火に変わって、 身体をとりまいて焼く。

 ^あるいは、 このような餓鬼がいる。 昼夜に、 それぞれ五人の子を生む。 生むにつれて、 その子を食べるが、 それでも、 いつも飢えている。 ¬*ろっ波羅ぱらみつきょう¼ に依る。

 ^また、 餓鬼がいる。 食物という食物は、 すべて食べることができない。 ただ、 自分でわが頭を破り、 脳を取り出して食べるのである。 ^あるいは、 こんな餓鬼がある。 火を口から出し、 飛んでいる蛾が火の中に落ちるのを飲食とする。 ^あるいは、 こんな餓鬼がいる。 糞・涙・膿血や、 食器を洗った残り汁を食べる。 ¬大智度論¼ に依る。

 ^また、 外の障りのために食べることのできない餓鬼がいる。 その有様は、 いつも飢え渇きに迫られて、 身体はすっかり枯れかわいている。 たまたま、 浄らかな流れを遥かに眺め、 走ってその場所に行くと、 力の強い鬼がいて、 杖で打つ。 あるいは、 水が火と変わり、 あるいは、 すべてがあがってしまう。 ^あるいは、 内の障りのために食べることのできない餓鬼がいる。 その有様をいうと、 口は針の穴のようであり、 腹は大きな山のようである。 たとい、 飲食にめぐり逢っても、 食べる術がない。 ^あるいは、 内と外の障りはないけれども、 飲食できぬ餓鬼がいる。 その有様をいうと、 やっとわずかばかりの食物にありついて食べると、 それが烈しい炎に変わり、 その身体を焼いて出るのである。 ¬瑜伽論¼ に依る。

 ^この餓鬼道は、 人間の一月を一昼夜として年月ができており、 その寿命は五百歳である。 ¬正法念経¼ に 「ものを惜しみ貪り、 人を嫉む者が餓鬼道に落ちる」 と説かれている。

【13】^第三に畜生道を明かすと、 その住む場所が二つある。 本来は大海に住み、 その分かれは人間界や天上界にまじっている。 ^別々に論ずると、 三十四億の種類があるが、 総括して論ずると三種類の外はない。 一つには鳥類、 二つには獣類、 三つには虫類である。

 ^このような畜生の各種類は、 強いものと弱いものと、 それぞれ傷つけあう。 飲むときも食べるときも、 しばらくの間も安らかな時はない。 昼も夜も、 絶えず怖れをいだいている。 まして、 また水に住むいろいろの畜生たちは、 漁師のために殺され、 陸を歩むいろいろの畜生たちは、 狩人のために殺される。 ^象・馬・牛・驢馬ろばらく騾馬らばなどのような畜生は、 あるいは鉄の曲った鉤で、 その頭脳あたまを打たれたり、 鼻の中を突き通されたり、 くつわで首を繋がれたり、 身体には、 いつも重い荷物を背負って、 いろいろの杖で打たれたりする。 これらの畜生は、 ただ水を飲み、 草を食べたいとの思いだけで、 その外は何事も分からない。 ^また、 蚰蜒げじげじ鼠狼いたちなどは、 闇の中で生まれて、 闇の中で死ぬ。 虱・蚤などは、 人間の身体に依って生まれ、 また人間によって殺される。 ^また、 いろいろの龍たちは、 三熱の苦しみを受けて、 昼夜休むことがない。 あるいはまた、 蟒蛇うわばみは、 その身体は長大であるが、 愚かで足がなく、 くねりまわって腹ばいして行き、 いろいろの小さい虫に吸い食べられる。 ^あるいは、 また、 一本の毛の百分の一のようなもの、 あるいは、 窓の中に飛んでいる塵のようなもの、 あるいは一万由旬ぐらいの大きさのものもある。

 ^このようなさまざまの畜生は、 ほんのわずかな間か、 あるいは七時 (今の十四時間) を経たり、 あるいは一*こう、 さては百万千万億劫にわたって限りない苦しみを受ける。 あるいは、 いろいろと思いそめぬ事柄にあって、 しばしば殺されるのである。 これらのいろいろの苦しみは数え尽すことができない。 ^愚痴無慚で、 信の上の施物をいたずらに受け、 ほかの物で償わなかった者が、 この報いを受けるのである。 以上、 諸文は経・論のあちこちにある。

【14】^第四に阿修羅道を明かすと、 二つがある。 本来の勝れたものは、 須弥山の北、 大海の底に住み、 その分かれの劣ったものは、 *てんの間の山や岩の中に住んでいる。 雲間で雷が鳴るような時には、 天の鼓だと思って恐れ慌てて、 心ははなはだしくおののき悩むのである。 また、 常にいろいろの天人から侵され傷つけられる。 あるいは身体を害し、 あるいはその命を失う。 また、 毎日三度、 苦しみの責め道具が、 自然にやって来てそこなう。 そのさまざまな憂いや苦しみは説き尽くすことができない。

【15】^第五に人道を明かすと、 略して三つのすがたがある。 詳しく観察して行こう。 一つには、 不浄の相、 二つには苦の相、 三つには無常の相である。

【16】^一つに不浄というのは、 だいたい、 人間の身体の中には、 三百六十の骨があって、 節と節と互いに支えている。 その有様をいうと、 足指の骨は足の骨を支え、 足の骨はくるぶしの骨を支え、 踝の骨ははぎの骨を支え、 の骨は膝の骨を支え、 膝の骨はももの骨を支え、 の骨はしりの骨を支え、 臗の骨は腰の骨を支え、 腰の骨は背の骨を支え、 背の骨はあばらの骨を支え、 また背の骨はうなじの骨を支え、 項の骨はおとがいの骨を支え、 頷の骨は歯を支え、 上に頭蓋骨がある。 また項の骨は肩の骨を支え、 肩の骨はひじの骨を支え、 臂の骨は腕の骨を支え、 腕の骨はてのひらの骨を支え、 掌の骨は指の骨を支えている。 このように次々に連続して、 次第に鎖のように成り立っている。 ¬*はんぎょう¼ に依る。

 ^これらは、 三百六十の骨が集まって成り立ったもので、 ちょうど、 朽ち破れた家のようなものである。 多くの節で支え保ち、 四つの細い脈で、 身体中をぐるぐると回って、 残るところなく分布している。 五百に分かれている肉はちょうど泥のようで、 六つの脈が互いにつながり、 五百の筋がからみついている。 七百の細い脈は、 それで連絡をして、 十六の太い脈は、 ぐるぐる回って互いに連なっている。 二個の肉の縄がある。 長さ三尋半で、 その内部で巻きつき絡んでいる。 十六の腸胃は生熟しょうじゅくぞう (消化器官) をめぐっている。 二十五の気脈は、 ちょうど窓穴のようで、 百七の節はちょうど破れ砕けた器のようである。 八万の毛孔は、 乱れた草が覆うようで、 五根と七つの穴は、 不浄で満ちみちている。 七重の皮で包み、 六味で養うことは、 ちょうど、 祭の火が、 すべてを呑み受けて、 飽き足ることがないようなものである。 このような身体は、 すべてが臭く穢れて、 元来、 くずれ爛れている。 このような身体を、 誰が愛したり誇ったりするだろうか。 ¬*ほうしゃくきょう¼ 第九十六に依る。

 ^あるいはいう。 九百の肉片がその上を覆い、 九百の筋が、 その間を連らねる。 三万六千の脈があり、 三升の血が、 その中にあって流れ注ぐ。 九十九万の毛孔があって、 さまざまの汗が、 いつも出る。 九十九重の皮が、 さらに、 その上を包んでいる。 以上は身体の中の骨や肉などについてのことである。

 ^また、 腹の中には五臓があって、 葉のように幾重にも覆い、 重なりあって下に向かうのは、 ちょうど、 蓮の花のようなかたちである。 孔は空洞で、 内外が互いに通じあい、 それぞれ九十重ある。 肺臓は上にあって、 その色は白く、 肝臓はその色が青い。 心臓は中央にあって、 その色は赤く、 脾臓はその色が黄色い。 腎臓は下にあって、 その色は黒い。 また、 六腑がある。 その中でも、 大腸は伝送する腑であり、 また肺の腑でもある。 長さは三尋半で、 その色は白い。 胆を清浄の腑とする。 また肝の腑でもある。 その色は青い。 小腸を受盛の腑とする。 また心の腑でもある。 長さは十六尋で、 その色は赤い。 胃を五穀の腑とする。 また脾の腑でもある。 三升の糞がその中にあって、 その色は黄色である。 膀胱を津液の腑とする。 また腎の腑でもある。 一斗の尿がその中にあって、 その色は黒い。 さんしょうちゅうとくの腑とする。 このような臓腑が縦横に分布している。 大腸と小腸とは、 赤く白く色を交えあって、 十八回もぐるぐるめぐり、 ちょうど毒蛇がとぐろを巻いているようである。 以上は腹の中の腑臓である。

 ^また、 頭の先から足の裏まで、 骨の髄から皮膚まで、 八万匹の虫がいる。 四つの頭、 四つの口、 九十九の尾があって、 その形は一様ではない。 その一々の虫に、 また九万の細い虫がいて、 極めて細い毛の先よりも、 まだ小さい。 ¬*ぜんぎょう¼ ¬*だい禅門ぜんもん¼ などに依る。

 ^¬宝積経¼ に説かれている。 「初めて母胎から出る時、 七日を過ぎると、 八万匹の虫が、 身体から生じて、 自由自在にその身体を食う。 二匹の虫がいてはつと名づける。 髪の根に住み、 いつもその髪を食う。 にょうげんという二匹の虫がいる。 眼に住み、 いつもその眼を食う。 四匹の虫は脳に住んで、 その脳を食う。 一匹を稲葉とうようと名づける、 耳に住んで、 耳を食う。 一匹をぞうと名づける、 鼻に住んで鼻を食う。 二匹の虫がいて、 その一をようちゃくと名づけ、 その二をへんちゃくと名づける、 唇に住んで唇を食う。 一匹をしんと名づける、 舌に住んで舌を食う。 また五百匹の虫がいる。 身体の左側に住んで左側の肉体を食う。 右側も同様である。 四匹の虫はしょうぞうを食い、 二匹はじゅくぞうを食う。 四匹は小便道に居て尿を飲んで住み、 四匹は大便道に住んで糞を食うて住む。 その他いろいろな虫がいるが、 一匹をこくと名づける。 脚に住んで脚を食う。 このような八万匹の虫は、 この身体を依り所として、 昼も夜も食い、 ひどく身体を悩ませる。 また、 心に心配があって、 いろいろの病気が起こる。 名医も、 これを治療することはできぬ。」 第五十五、 七巻に出ている文を抜き書きした。

 ^¬*そうぎゃきょう¼ に説かれている。 「人が死にかけている時、 多くの虫たちは恐れて、 互いにくらいあうので、 いろいろな苦痛を受ける。 男女親族は、 これを見てひどく悲しみ悩む。 さて、 多くの虫が殺しあい、 最後にただ二匹の虫がいて、 七日の間、 争い続ける。 七日を過ぎてしまうと、 一匹の虫は命が尽きるが、 一匹の虫はまだ生きている。 以上は虫蛆の不浄である。

 ^また、 たとい、 どのような上等のいろいろな食事をしても、 一晩過ぎる間には、 みな不浄なものになる。 ちょうど、 糞便が大小便ともに臭いようなものである。 この身体も、 またそのようである。 幼い時から年老いるまで、 不浄というより外はない。 たとい、 海水をことごとく注いで洗っても、 浄らかにすることはできない。 外に、 どのような美しい姿を装ってみても、 身体の内には、 いろいろな不浄を包んでいる。 ちょうど、 きれいに画いてある瓶に糞便を詰め込んであるようなものである。 ¬大智度論¼ ¬*摩訶まかかん¼ などの意に依る。

 ^それゆえ、 ¬禅経¼ の偈に、

この身は臭く不浄とわかっても 愚かな者はとりわけ惜しむ

外のきれいな顔に迷い 内の不浄には気もつかぬ

と説かれている。 これまでは、 身体の不浄を挙げた。

 ^まして、 命が尽きた後は、 この身体は墓に捨てられる。 一日二日、 さては七日を経ると、 死体は腫れふくれて、 色は青黒く変わって行く。 臭く爛れて、 皮は破れ、 膿血が流れ出てくる。 熊鷹・鷲・とびふくろう・狐・犬などのいろいろの鳥や獣が、 死体を噛み裂いてくらう。 鳥や獣が食べてしまい、 不浄なものが、 潰れ爛れると、 限りもない多くの種類の蛆虫が湧いて、 臭い所に雑多に出てくる。 その気持ちの悪いことは、 死んだ犬よりも、 なおひどいものである。 このようにして白骨になってしまうと、 節々がばらばらになり、 手も足もどくも、 それぞれ違った場所に散らばってしまう。 風に吹かれ日にさらされ、 雨に注がれ霜に閉じられて、 長い年月が過ぎると、 その色や姿が、 すっかり変わってしまう。 とうとう腐り朽ち、 粉々になって、 塵や土と一緒になってしまうのである。 以上は、 究極の不浄である。 ¬*だい般若はんにゃきょう¼ ¬摩訶止観¼ などに見えている。

 ^これで知るべきである。 この身体は、 初めから終りまで不浄である。 自分が愛して居る男も女も、 すべてがこのようである。 智慧のあるものなら、 誰が、 この肉体に執着を起こそうぞ。 ^それゆえ ¬摩訶止観¼ にいってある。

この不浄の姿を見ない間は、 愛着がはなはだ激しいけれども、 もし、 この不浄の姿を見てしまうと、 愛欲の心はすっかり消え失せ、 とても辛抱することができない。 ちょうど、 糞便を見ない間は、 食事をすることができても、 急にその臭気を嗅ぐと、 すぐさま吐くようなものである。

^またいってある。 (摩訶止観)

もし、 この不浄の相を悟ると、 もう、 高い眉、 青い眼、 白い歯、 赤い唇の美人でも、 ちょうど一かたまりの糞便の上を、 白粉おしろいで包んだようなものとなり、 腐り爛れた死骸に、 かりに彩色のある絹物を着せたようなものとなる。 目で見るにも堪えぬものであるのに、 まして、 身体を近づけることがあろうか。 鹿ろくじょうぼんを雇って殺してもらった比丘があった。 まして、 くちづけしたり抱きあって、 淫欲の楽をどうしてしようか。 このように思うのは、 淫欲という病気によく効く薬である。

【17】^二つに苦というのは、 この身体が初めて生れた時から、 いつも苦しみを受けている。 ¬宝積経¼ に説かれているとおりである。

男であれ女であれ、 たまたま生を受けて、 大地に落ちる時、 手でだきあげられ、 きぬでうけとられ、 あるいは夏や冬に、 熱風や寒風が身に触れると、 ひどい苦しみを受ける。 ちょうど、 牛を生はぎにして、 土塀や壁に触れさせるようなものである。 これは意味を取った。

^さて成長してからも、 苦しみが多い。 ¬宝積経¼ に説いている。

この身に受ける二種類の苦しみがある。 すなわち、 眼・耳・鼻・舌・咽喉・歯・胸・腹・手・足などに、 いろいろの病気が生ずる。 このような四百四病が、 その身をめるのを内の苦と名づける。 また外の苦がある。 すなわち牢獄に入れられて叩き打ち鞭うたれるものもあれば、 耳や鼻を削られたり、 手足を切られるものもある。 いろいろの悪鬼神は、 これにつけこんで来る。 また蚊・虻・蜂などの毒虫に刺されたり、 噛みつかれたりする。 寒さや熱さ、 飢えや渇き、 風や雨、 これらのさまざまの苦しみがやって来て、 その身を逼めるのである。 この五陰の身体は、 *ぎょうじゅうのいずれの場合もすべて苦しみでないものはない。 もし、 いつまでも歩いて、 すこしも休息しないと、 これを外の苦と他付ける。 とどまるのも、 坐るのも、 るのも、 また同様にみな苦しみである。 抜き書きした。

^その他のいろいろな苦しみの有様は、 目の前に見られることであるから、 説明するまでもないであろう。

【18】^三つに無常というのは、 ¬涅槃経¼ に説かれている。

人の命がとどまらないのは、 山から落ちてくる水よりも激しい。 今日は生きていても、 明日を保証することは難しい。 それなのに、 どうして心をほしいままにして悪い事をしておられようか。

^¬*しゅつようきょう¼ に説かれている。

この日がもはや過ぎると 寿命は さらに減ってゆく

わずかな水に住む魚のようで ここに何の楽しみがあろうか

^¬*摩訶まか摩耶まやきょう¼ の偈に説かれている。

喩えてみると*せん陀羅だらが 牛を追いたてて 屠殺所へ行くのに

牛の歩みは一歩一歩が死地に近づくように 人の命も またこのとおりである

^たとい長生きの業をもっていても、 最後には無常を免れることはない。 たとい富貴のむくいを得ても、 きっと衰え病む時がある。 ¬涅槃経¼ の偈に説かれているとおりである。

すべてもろもろの世の中では 生きているものは みな死んでいく

たとい長い命をうけていても きっと尽きはてる時がある

思えば 盛んな者は必ず衰え 会う者は また別れ離れる

年の若さも久しくはとどまらず 盛りの色も病に侵される

命は 死のために呑まれ 常にあるものとてはさらにない

^また ¬*罪業ざいごう応報おうほうきょう¼ の偈に説かれている。

水の流れはいつも満ちてはいず 燃えさかる炎も久しくはない

さし昇る日は すぐに沈んで行き 月は満つれば また欠けて行く

位高く 世の栄えを受ける者も 無常の訪れは さらに早く至る

これを思うて勤め励み 無上の仏を礼しまつるがよい

^この無常は、 ただ、 一般の愚かな人たちだけに、 このような恐れがあるのではない。 仙人となって神通力を得たものも、 またこのとおりである。 ¬*ほっ譬喩ひゆきょう¼ の偈にいうとおりである。

空にいても 海の中にいても いわやの間にかくれていても

この浮世は どこにいても 死からまぬかれるところはない 空に昇り、 海に入り、 巌に隠れた三人の因縁は、 経に広く説くとおりである。

^これで知るべきである。 いろいろの他の苦しみは、 免れることがあっても、 無常というこの一事は、 到底、 逃げ場がないのである。 ぜひとも、 仏の説きたもうとおりに修行して、 永遠の楽しみという果報を願い求めるべきである。 ^¬摩訶止観¼ にいうとおりである。

無常という殺鬼は、 強いものも賢いものも、 区別することはない。 この身はもろくて堅固でなく頼りにし難い。 それなのに、 どうして安閑として、 百年も生きながらえるように思って、 あちこちと走り回って、 財産を積み貯え集め収めるのだろうか。 集め収めることが、 まだ充分でないうちに、 急に永遠とわの旅路に行くことになれば、 所有していた財産は、 空しく他人の所有となり、 冥土の旅路をひとり行く。 誰がその是非よしあしを訪ねようか。 もし無常が、 急流・烈風・電光よりも激しいことを覚るならば、 山や海、 空や町にいても、 無常を逃れ避ける場所とてはない事がわかる。 このように観じおわれば、 心は非常に怖れを起こす。 眠っていても寝床に落着かず、 食事をしても口に甘さを感じない。 ちょうど頭に火が燃えているのを払いのけるように、 迷いの世から出る肝要な方法を求めよ。

^またいう。 (摩訶止観)

譬えてみると、 狐が、 耳や尾、 牙を取られるまでは、 眠ったふりをしてのがれようと思っていても、 突然、 頭を切ってしまうと云うのを聞くと、 非常に驚き恐れるようなものである。 生・老・病に出会っても、 まだ、 急ぎの用事と思わない人も、 死という一事は、 ゆるがせにしていられぬから、 どうして怖れないでおられようか。 怖れる心が起こる時、 煮え湯や炎を踏むようなものである。 世間のいろいろな楽しみも、 貪る余裕がないのである。

 ^人間世界は、 このようなものである。 本当に厭い離れるべきである。

【19】^第六に、 天上界を明かすと、 三つがある。 一つには*欲界よくかい、 二つには*色界しきかい、 三つには*色界しきかいである。 その有様は、 非常に広いものであるから、 詳しく述べることは難しい。 今はしばらく一処を挙げて、 その他の類例としよう。

 ^かの忉利天の場合、 らくは極まりないが、 命の尽きる時になると、 五種の衰えの相が現われる。 一つには、 頭の上の花の髪飾りが急にしぼむ。 二つには、 天の羽衣も塵や垢に汚される。 三つには、 腋の下から汗が出るようになる。 四つには、 両方の目がくらんでしばしばまたたく。 五つには、 本からいる住居すまいを楽しく思わぬようになる。 この五つの相が現われる時には、 天女も、 眷属も、 みなすべて遠ざかり離れて、 この天人を、 まるで雑草のように棄ててしまう。 ^そこで、 林の間に倒れ伏し、 悲しみ歎いて云う。

「この多くの天女たちを、 自分はいつも可愛がってやったのに、 どうして、 こうも急に自分を雑草のように棄てるのか。 自分は、 今や依りどころもなく、 たのむところもない。 誰が自分を救ってくれようか、 *たいしゃくてん善見ぜんけん宮城の参内は、 今、 もうできなくなろうとしている。 帝釈の宝座は拝謁しようにも、 もう手だてがない。 しゅしょう殿でんの中は、 もう永遠とわにこれを仰ぎみることができなくなり、 帝釈天の宝象には、 いつの日か、 共に乗ることがあろう。 衆車しゅしゃおんの中も、 ふたたび見ることができず、 じゅうおんのうちでよろいかぶとをつけることも、 もう決してない。 雑林ぞうりんえんの中で、 宴会する日もなく、 かんえんの中で、 遊び戯れる時もない。 こうじゅの下にある白玉の軟らかな石には、 もう坐る時がなく、 まん枳尼きに (緩慢な流れ) の殊勝池の水に沐浴することもできない。 四種の甘露も、 もう食べることができず、 五つの妙なる音色の音楽は、 突然、 聞こえぬようになってしまった。 悲しいことよ、 自分だけが、 この苦しみに逢うとは。 なにとぞ、 お慈悲を垂れて、 私の寿命いのちを救い、 あとわずかの日でも延ばしていただけたら、 どんなに楽しいことでしょうか。 あの馬頭めずせんおくしょうかいに落さないようにしてください。」

 こういう言葉を述べても、 決して救うものはないのである。 ¬六波羅蜜経¼ に依る。

 ^これで知られるであろう。 この苦しみは地獄の苦しみよりもはなはだしいのである。 それゆえ ¬正法念経¼ の偈に説かれている。

天上界から落ちようとする時 心に大きな苦しみが

地獄の多くの苦しみは 十六分の一にもおよばない

 ^また、 非常に威徳のある天人が、 この天上界に生まれてくると、 もとの天人の眷属たちは、 みなもとの主を棄てて新しい天人に従う。 また威徳のある天人があって、 その心に従わぬ時は宮殿から追い出されて、 住むことができないようにされる。 ¬瑜伽論¼ に依る。

 ^他の五つの欲界の天にも、 すべてこの苦しみがある。 上の二界、 すなわち色界と無色界の中には、 このような事はないけれども、 結局、 下界に落ちてしまう苦しみがある。 さては*そう非非ひひ想処そうしょでさえも、 無間地獄に落ちることは避けられぬのである。 これで知られるであろう、 天上界も楽しむべき所ではないのである。 以上は天上界である。

【20】^第七に、 総じてこの三界*六道ろくどうの厭うべき有様を結んで述べると、 すなわちこの身体は苦しみばかりをおさめた箱であって、 すべて、 執着し楽しむようなものではない。 生・老・病・死という四つの山は押し合って迫り、 避け逃げる場所はない。 それなのに、 多くの人々はものを貪り愛する心で、 われとわが身を包み、 深く五欲に執着して、 常ではないものを常だと思い、 楽ではないものを楽だと思う。 ちょうど、 ようを洗って、 ちょっと楽になったのを本当に楽だと思い、 まつげを掌に置いて、 それが目の中に入った時の苦しみを思わぬようなものである。 どうして厭わずにおられようか。 まして、 剣の山、 炎の湯は次第に近づいて来ようとする。 智慧のある人は、 誰が、 この肉体を宝として愛でようか。 ^それ故に ¬正法念経¼ の偈に説かれている。

智慧ある人は たえず憂いをいだいて さながら牢屋に囚われているようである

愚かな人は たえず楽しみにふけって あたかも*光音こうおんてんの楽しみのように思っている

^¬宝積経¼ の偈に説かれている。

いろいろの悪い行いで財宝を集め 妻子を養って楽しみと思うが

命の終る時になると苦しみは身にせまり 妻子もこれを救うことはできぬ

かの*三悪さんまくどうの恐ろしい中では 妻も子も知り合いのものも見えぬ

車も馬も財宝もすべて他人のものとなり この苦しみを共に分かちあうものは誰もない

父母も兄弟も妻も子も 友もしもべも財宝も

死んでしまえばひとりとして来たり親しむものはない ただ悪業だけが常につきまとう  (中略)

閻魔王はいつも かの罪人に告げる 「わずかの罪でも われは汝につけ加えはしない

汝自身が罪を作って 今みずから来たのだ 業報は自分で招いたので 誰も代る者はない

父母も妻子も救うことのできる者はない ひたすら出離さとりたねを勤め修むべきである」 と

この故にぜひとも悪道に縛られる行いを棄てて よく娑婆を厭うて安楽の世界を願うべきである

^また ¬大集経¼ の偈に説かれている。

妻子も珍宝もまた王の位も 命の終る時には 随う者はさらにない

ただ持戒と布施と不放逸とは 今の世も後の世も伴侶ともとなる

 ^このように、 めぐりまわって、 悪を造っては苦しみを受け、 空しく生死を繰返し、 車輪の回るように極まりがない。 経の偈に説くとおりである。

ただ一人が一劫のあいだに 受ける多くの身の骨が

たえず積もって腐らないなら *毘布びふせんのようになろう

 ^一劫でさえもそのとおりである。 まして、 無量劫においては、 なおさらである。 私たちは、 これまでにまだ、 仏道を修行しなかったから、 空しく限りない長い劫を経たのである。 今、 もし仏道を勤め修めないならば、 未来もまた同じことになるだろう。 このように限りなく続く生死の中で、 人間の身を得ることは非常に難しい。 たとい、 人間に生まれることができても、 不具者でない完全な身体を保つこともまた難しい。 たとい、 完全な身体を具えても、 仏のみ教えに遇うことはまた難しい。 たとい仏のみ教えに遇うことができても、 信心を起こすことはまた難しい。 ^それ故、 ¬涅槃経¼ に説かれている。

人間界に生まれる者は爪の上の土ほどだが、 三悪道に落ちる者は十方世界の土のように多い。

^¬*法華ほけきょう¼ の偈に説かれている。

はかりない無数の劫を経ても このみのりを聞くことはまたむずかしい

よくみ法を聞く者は この人もまたまたむずかしいことである

 ^ところが、 今、 たまたまこれらのたよりを具えている。 これで知られよう、 迷いの苦しい海を離れて、 浄土に往生することになるのは、 ただ今生で決まることなのである。 それなのに私たちは、 頭には霜や雪と見まごう白髪を戴きながら、 心は浮世の塵に染まり、 この一生は終ろうとするのに、 いろいろな望みは尽きない。 とうとう日の照るこの世を離れ、 ひとり黄泉よみの底に入る時は、 数百由旬も燃えさかる猛火の中に落ちて、 天に呼び地を叩いて歎いても、 何の役にもたたぬのである。 多くの仏道修行の人たちよ、 何とぞ早くこの世を厭い離れる心を起こし、 速やかに娑婆を出る道にしたがうがよい。 宝の山に入りながら、 手を空しくして帰ってはならない。

 ^問う。 どういうあり方で、 この世を厭う心を起こすべきであろうか。

 ^答える。 もし、 広く観じようとおもえば、 前に説いたように、 地獄から天道までの六道の因果、 不浄・苦などがある。 ^あるいはまた、 *りゅうじゅさつが、 ぜん陀迦だかおうを勧められた偈にいわれている。

この身は不浄なものが九つの穴から流れ 川や海のように果もなく続いている

薄い皮が覆い隠し うわべは浄らかそうでも *瓔珞ようらくをつけて われと飾っているようなもの

多くの智慧ある人ははっきりと見定め その偽りの姿を知って棄てる

譬えばひぜんの人が烈しい炎に近づけば 初めしばらくは気持ちがよくても後に苦しみが増すようなものである

貪欲むさぼりの思いも またまた同じことで 初めには楽しんで執着するが 後にはうれいが多い

この身のまことのすがたは みな不浄と見る これすなわち空・無我を観ずるものである

もしこの観を修めることができる者は 利益の中でも最もすぐれている

容貌がよく家柄も高く博識であっても 戒と智の無いものは さながら鳥獣のようである

顔醜く 家柄低く 学問は浅くても よく戒と智を修める者を勝れた人と名づける

利衰などの八法は免れうる者はない もし除き断つことがあればまことにたぐいがない

すべての出家や修道者 父母・妻子 また親族などの

気持ちを迎えて その言葉を受け入れ 広く不善・非法の行いをしてはならぬ

もしこれらのために多くのあやまちを犯せば 未来の大苦はただわが身に受けるばかり

多くの悪事を犯してもすぐには報いず 刀で傷つけ割かれるようなことではないが

命の終る時に罪のすがたが始めてみな現われ 後 地獄に堕ちていろいろの苦しみを受ける

信と戒と施と聞と慧と慚と愧と このような七つのものを聖なるたからと名づける

真実で比べものはないと仏が説きたもう この世のいろいろの珍しい宝に超えすぐれている

足ることを知るならば貧しくても富むと言える 財産はあっても欲望が多ければこれを貧しいと名づける

もし財産が豊かであればいろいろの苦を増す 龍は首が多ければ苦しみを増すようなものである

美味は毒薬のようだと観じ 智慧の水を注いで浄らかにさせるべきである

この身を保つためには食べねばならぬが むやみに美食を求めて*きょうまんの心を増してはならぬ

いろいろの欲望に対しては厭う心を起こし 勤めて無常涅槃の道を求むべきである

この身を整えて安らかにさせ その後に斎戒を修めるがよい

一夜を分けて五つの時とする そのうちの二時の中に眠り休むべきである

初夜・昼夜・後夜の三時には生死を観じ 勤めてさとりを求め 空しく過ごしてはならぬ

譬えばわずかの塩を恒河に入れても 水に塩辛い味をつけることができぬように

わずかの悪は多くの善に遇うと 消え去ってしまうこと またこのようである

たとい梵天の欲を離れた楽しみを受けても また炎の燃えさかる無間地獄の苦しみに堕ちる

天の宮に住み光明を具えていても 後には地獄の暗闇の中に入る

いわゆる黒縄や等活地獄の 焼き割き剥ぎ刺す苦 さては無間地獄

これら八地獄がたえず盛んに燃えるのは すべて衆生の悪行の報いである

地獄絵を見たり人の話を聞いたり さては 経文を見て自分で思い浮かべ

こうして地獄の苦を知っただけでも忍びがたい まして自ら地獄を経めぐるときはなおさらである

もしまた人あって一日の内に 三百のほこでその身を刺しても

阿鼻地獄での一瞬の苦しみに比べると 百千万分の一にも及ばない

畜生道に落ちても 苦しみは限りない 繋ぎ縛られるものもあれば鞭うたれるものもある

さては明珠や羽・角・牙 骨や毛皮や肉を取るために殺されるものもある

餓鬼道の中の苦しみもまた同じことである 欲しいものは思うように手に入らず

飢渇に迫られ 寒熱に苦しみ 身心疲れ 物に乏しいなど 苦しみは限りがない

糞尿などの穢物その他の不浄でさえ 百千万劫にも手に入れることができぬ

たといまた尋ね求めてわずかばかりを得ても さらにまた奪い取られて失ってしまう

涼しい秋の月にも暑さを患え 暖かい春の日にもはなはだ寒さに苦しむ

園や林に行けば食べようとする果実はみななくなり 清いながれに至ると飲もうとする水はにわかに干上る

罪業のえにしのために命は長く 一万五千の年を経る

多くの苦しみを受けて欠けることのないのは すべて餓鬼の果報むくいである

煩悩の急流は衆生を漂わし 深い恐れの燃え上る苦しみとなる

このような多くの煩悩を滅しようと思うなら ぜひとも真実の解脱の道を修めよ

この世の多くの仮のすがたを離れるならば 清浄不動の処を得るであろう 以上。 百十行の偈がある。 今は抜き書きした。

 ^もし簡略に示すなら、 *みょうさつの作ったらい和羅わらという伎楽にうたわれているとおりである

迷いのすべてのものは、 幻のごとく仮のものである 三界の牢獄に縛られ 楽しむべきものは一つもない

王位は高く際立って精力は自在であっても 無常の風が訪れると 保ち得る者は誰もない

あたかも空中の雲のごとくたちまちに散り果てる この身の虚しいことはさながら芭蕉のようである

あだとなり賊となり 親しみ近づくことはできぬ 毒蛇を入れた箱のようで誰が愛で楽しもうか

それ故諸仏は常にこの身を責めたもう

 ^この中に、 詳しく無常・空・無我のことわりを述べてあるから、 聞く者は、 仏道を悟るのである。 ^また、 堅牢けんろう比丘の石窟の壁に書かれている偈にいわれている。

生死の迷いを断ち得ぬのは 貪欲むさぼりふけるがためである

あだを養うて墓に入り 空しく多くの苦しみを受ける

この身の臭いことは死骸のようであり 九つの穴から不浄を流す

厠の虫が糞を喜ぶように 愚かな者はこの身を貪る

思い乱れるいろいろの考えが 五欲の源となる

智慧のある人は執らわれることなく 五欲はすぐに断ち切える

よこしまな思いから頓着むさぼりが起こり 頓着から煩悩が起こる

正しい思いで貪欲がなければ 他の煩悩もまた尽きる

 ^昔、 弥楼みるけん仏の滅後、 正法が滅んだ時、 陀摩だま尸利しり菩薩が、 この偈を求め得て仏法をひろめ、 無量の衆生を利益したという。 ^さらにまた、 ¬*仁王にんのうきょう¼ に、 無常・苦・空・無我の四非常を述べた偈があるから見るがよい。 ^もし、 極めて簡略なことを願うなら ¬*金剛こんごうきょう¼ に説かれているとおりである。

すべてうつりゆくものは 夢や幻 泡や影のようであり

また露やいなづまのようであると このように観ずべきである

^あるいはまた、 ¬涅槃経¼ の偈に説かれている。

あらゆるものは無常であり これが消滅の法である

消滅の相がなくなれば これが寂滅さとりの楽である

 ^おんの無常堂の四隅に、 *玻璃はりの鐘があって、 その鐘のうちにもまたこの偈を説く。 病気の僧が、 その鐘の音を聞くと、 苦しみがすぐ除かれ、 さわやかな楽しみを感じ、 三昧に入るごとく浄土に生まれたという。 また雪山で道を求めた大士は、 身を捨てて、 この偈を得られたということである。 ^仏道を行ずる人たちよ、 よく思いをめぐらされよ。 決してうっかりしてはならぬ。 仏の説きたもうように観察して、 むさぼりいかりおろかなどの迷いのわざを離れるありさまは、 獅子が人間を追いかけるようにするがよい。 愚かな犬が土塊つちくれを追うように、 外道の真似をして無益な苦行をするようなことがあってはならぬ。

 ^問う。 不浄・苦・無常の三つは、 その訳がよくわかる。 ところで、 現に、 ものは存在しているのに、 どうして 「空」 と説くのか。

 ^答える。 経に 「夢・幻・化のようだ」 と説かれてあるではないか。 それ故、 夢の世界に例を求めて、 空の意義を考えて見よう。 ^¬*西域さいいき¼ にいうとおりである。

^婆羅はら痆斯なし国の鹿ろく林の東、 二三里ばかり行くと干上った池がある。 むかし、 一人の世捨人がいた。 この池のほとりにいおりを結んで身を隠し、 いろいろと技術を習って奥深い道理を究め、 瓦や石塊いしくれを宝物に変えたり、 人や獣などのすがたを変化させることができた。 けれども、 まだ風雲に乗って天上の仙界に赴くことができなかった。 そこでいろいろと書物を調べ、 古くからの事を考え、 さらに仙術を求めた。 その手段というのは 「一人の勇士に命じて、 長い刀を手にもって壇の隅に立たせ、 息を殺し、 無言のまま、 夕方から夜明けまで続けさせる。 仙人になりたい者は、 中央の壇に坐り、 手に長い刀を執り、 口に不思議な呪文を唱え、 見ることも聞くこともしないままで、 夜明けまで修行すると、 仙人になって天に登る」 というのである。 とうとう、 この仙術のやり方に依って、 一人の勇士を探し出し、 さいさい手厚い贈物を与え、 内々に恩徳を施した。 そして世捨人がいうよう、 「どうか、 一晩中、 声を出さないでいてくれ」 と。 その勇士は 「死ぬことさえ厭いません。 無言の行くらい何でありましょう」 といった。

^そこで修行の道場を設け、 仙法を受け、 やり方どおりに行事を取り行った。 そして、 日暮を待ち、 日が暮れると、 それぞれ自分の任務についた。 世捨人は不思議な呪文を唱え、 勇士は鋭い刀を手にした。 ところが、 もう夜明けになろうとする時、 にわかに声を出して叫んだ。 その時、 世捨人は問うていうよう、 「君によく注意して、 声を立てないようにといったのに、 どうして驚いて叫んだのか。」 勇士がいうよう、 「仰せを受けてから、 夜中になると、 ぼんやりとしてしまい、 夢のように、 いろいろと不思議なことが起こりました。 むかし、 仕えた主人が、 わざわざ来て慰めてくださるのを見ましたが、 あなたの手厚い御恩を受けている事を感じて、 辛抱して返事をしませんでした。 すると、 その主人は激怒し、 とうとう私は殺されて中陰の身を受けました。 自分の死骸を眺めて、 歎き惜しみはしましたが、 それでもなお世々を経ても、 無言を続け、 それであなたの手厚い御恩に報いたいと願いました。 ついに私は南印度の大*婆羅ばらもんの家に生まれかわったのです。 母胎に宿り、 誕生後、 いろいろと苦しみを受けてきましたが、 あなたの恩徳を受けている事を思って、 一度も声を出しませんでした。 さて、 家業をうけつぎ、 結婚し、 親をうしない子供のできた後にも、 たえず前生の御恩を思い、 辛抱して無言を続けたので、 親戚中の人が、 みな不思議がっていました。 六十五才を過ぎた時、 私の妻が ¬あなた、 お話をしてください。 もし、 そうでなければ、 あなたの子供を殺しますよ¼ といいました。 私はその時に思いました。 ªもう今では、 前生と違っている。 自分のありさまを考えると、 年老い衰えて、 ただ、 このおさな児だけしかない。 それゆえ、 妻が子供を殺すのを止めさせようº と。 それで、 とうとう、 こういう声を出したのでございます。」 世捨人がいった。 「自分の過ちであった。 これは悪*が邪魔をしたのだ。」 かの勇士は、 世捨人の恩を感じ、 仙術が失敗したことを悲しみ、 憤りのあまり死んでしまった。 以上。 抜き書きした。

 ^夢の世界は、 このようなものである。 あらゆるものも、 やはり同様である。 妄想の夢がまだ覚めないので、 空なるものを実の有であると考えている。 ^それゆえ ¬*唯識ゆいしきろん¼ にいわれている。

まだ真のさとりを得ない時は、 常に夢の中にいるようである。 それゆえ仏は生死まよいの長夜と説きたもうのである。

 ^問う。 もし、 無常・苦・空などの観をするならば、 *小乗しょうじょうの人が、 自分ひとりの道を修め、 ひとり解脱することと同じことではないか。

 ^答える。 この観は、 小乗だけに限らないので、 大乗にも通じて存在するのである。 ^¬法華経¼ に説かれているとおりである。

大慈悲をへやとし 柔和・忍辱を衣として

あらゆるものの空を座とし ここに坐って法をとこう

 ^すべてのものが空であることを観ずることでさえ、 大慈悲心を邪魔するものではない。 まして、 苦・無常などの観は、 菩薩の願を促すのである。 それゆえ、 ¬大般若経¼ などの経には、 不浄観などをも、 菩薩の法としている。 もし知ろうと思う者は、 さらに経文を読むがよい。

 ^問う。 このように観ずると、 どんな利益があるのか。

 ^答える。 もし、 たえずこのように心を調ととのしずめると、 五欲が次第に薄れて、 命の終る時には、 正しい思いを保って乱れず、 悪い世界に落ちないのである。 ^¬*だいしょうごんろん¼ の、 正しい思いを起こす事を勧める偈にいうとおりである。

年若く憂いもない時は 怠って道に努めず

世の中の努めにあくせくし 施と戒と禅とを修めなかった者は

死のために呑まれようとする時 はじめて後悔して善を修めようと望む

智慧ある者は観察し 五欲の思いを断ち除くがよい

努めて道に励むものは 命の終る時 悔いる思いはない

心が道にひたすらであれば 乱れ誤る思いはない

智慧ある者は努めて心を保てば 臨終には心乱れず

心を励むこと専らでないならば 臨終には必ず心が散り乱れる

^また ¬宝積経¼ の第五十七巻の偈に説かれている。

この身を観ずることをせよ 筋と脈とは互いにまつわりめぐ

湿うるおう皮は包み覆う 九つの所に出口があって

糞尿その他不浄のものが あまねく常に流れ出る

さながら 倉とざるの中に 多くの米や麦を盛るがようである

この身も ちょうどそのように いろいろのきたないものが その中に充ちている

骨の機関あやつりを動かせば 危なくもろくて確かでない

愚かな者は たえず愛し好むけれども 智慧ある者は執着することがない

はなつばき・汗はたえず流れ 膿血はいつも満ちみちている

黄色い脂は乳と混ざり 脳は髑髏の中に満ちる

胸にはねばい痰が流れ 内にはさまざまの内臓がある

脂肪あぶらと皮膚と 五臓やその他の胃腸など

このように臭く爛れた 多くの不浄と共に住む

この罪多い身は深く恐れるがよい これこそあだかたきの家なのだ

それをも知らずにふけり貪る人は 愚かにもこの身をたえず護るが

このように臭く穢れた身は さながら朽ちはてた城のようである

昼も夜も煩悩にめられ 移り流れてしばらくもとどまることはない

この身は城 骨は壁 地や肉を泥とする

むさぼりいかりおろかを絵具として その場所ごとに色どり飾る

骨身の城を憎むがよい 血と肉は互いに連らなり

いつも悪い知識とものために 内外の苦でられるようである

難陀よ 汝はよく心得るがよい わたしが説き聞かせたように

昼夜にたえず思いをかけ 欲望の世界を思ってはならぬ

もし 遠ざけ離れようと思う者は 常にこのような観を修め

解脱さとりの世界を求めるならば 速やかに生死まよいの海を超える

^その他の利益は ¬大智度論¼・¬摩訶止観¼ などを見るがよい。

【21】^大文第二に欣求浄土というのは、 極楽の国土と衆生とは、 その功徳が無量で、 百劫・千劫という長い間かかっても、 説き尽すことはできない。 数でも喩えでも、 また知りわけられることではない。 けれども、 ¬*ぐんろん¼ には極楽浄土の三十種の徳益を明かし、 ¬*安国あんこくしょう¼ には二十四種の楽を挙げている。 そこで、 極楽をめたたえることは、 ただ人の考え方によるということが知られる。

 ^今、 私は十種の楽を挙げて、 極楽浄土をめようと思うが、 それはちょうど、 一筋の毛で大海の水を滴らせるようなものである。 第一には聖衆来迎の楽、 第二には蓮華初開の楽、 第三には身相神通の楽、 第四には五妙境界の楽、 第五には快楽無退の楽、 第六には引接結縁の楽、 第七には聖衆倶会の楽、 第八には見仏聞法の楽、 第九には随心供仏の楽、 第十には増進仏道の楽である。

【22】^第一のしょうじゅ来迎らいこうの楽とは、 およそ悪い行いをした人の命が尽きる時には、 身体の中の風の要素と火の要素が、 まず無くなるから、 その人は動乱し発熱して苦しみが多い。 善い行いをした人の命が尽きる時には、 身体の中の地の要素と水の要素とが、 まず無くなるから、 その人の臨終はおだやかで、 苦しみがない。

 ^まして、 念仏の功徳を積み、 極楽に心を寄せることに長い年月を重ねた者は、 臨終の時になると、 大きな喜びが自然と湧いて来る。 その訳は、 *弥陀みだ如来にょらいが、 その*本願ほんがんのとおりに、 多くの菩薩や百千の比丘たちと共に、 大きな光明を放ち、 はっきりと目の前に現われたもう。 その時、 大悲の*観音かんのんさつは、 多くの福業を積んで成就せられた御手を差し伸ばし、 宝の蓮台を捧げて、 念仏行者の前に来られ、 *せいさつは、 無量の聖衆とともに、 同時に讃めたたえ、 手を差しのべて*いんじょうせられるのである。 この時、 念仏行者は、 まのあたり自らこれを見て、 心の中で歓喜し、 身も心も、 禅定に入るように安楽だからである。 知るがよい、 草の庵で目を閉じる時が、 すなわちはちすうてなに坐る時である。 そこで阿弥陀仏の後に従って、 菩薩たちの仲間に加わり、 一念の間に西方の極楽世界に生まれることができる。 ¬*かんぎょう¼ ¬*びょうどうがくきょう¼ ならびに伝記などの意味に依る。

 ^かの忉利天上の億千年もの楽しみや*だい梵王ぼんのうの深い禅定の楽しみ、 これらの多くの楽しみは、 まだ本当の楽しみとするには足らぬ。 それらは、 車の輪のように転じ変わることが際限もなく、 ついには*さんを免れないのである。 ところが、 今、 観音菩薩のたなごころに乗り、 宝蓮のうてなに託すると、 永く苦しみの海を越えて、 初めて浄土に往生するのである。 その時の歓喜よろこびの心は、 言葉で言い尽くすことはできない。

 ^*りゅうじゅさつの偈 (*ぎょうぼん) にいわれている。

もし人が命終って かの国に生まれることを得たならば

すなわち量りない徳をそなえる それゆえわたしは帰命したてまつる

【23】^第二のれん初開しょかいの楽とは、 行者がかの極楽に生れてから蓮華が初めて開く時、 その受ける歓楽たのしみは、 前の楽しみに百千倍する。 ちょうど、 盲人めしいが始めて眼が開いたようであり、 また、 身分の低い者が、 急に王宮に入ったようなものである。 みずから、 その身を見ると、 はやすでに*紫磨しまこんじきの体となり、 自然の宝衣を身に着け、 たまきかんざしや宝の冠などが、 限りもなくその身を飾り立てている。

 ^仏の光明を見て、 清浄の眼を得、 前世の因縁に依って、 多くの説法の声を聞く。 眼に触れ、 耳に聞こえるもののすべてが、 勝れて妙でないものはない。 虚空のはてまで満ちる荘厳は、 雲路を見やる眼もとまどい、 勝れたみ法を説きたもう声は、 国中に満ちわたる。 楼殿たかどのや林や池は、 互いに照り輝き、 かも・雁・鴛鴦おしどりなどは遠く近く群がり飛ぶ。 ^あるいは人々が、 十方世界からにわかあめのように、 生まれて来るのを見たり、 あるいは聖衆が、 数限りない仏のみ国から恒河の砂のように来るのを見たりする。 楼台たかどのに登って、 十方を眺める者もあるし、 宮殿に乗って虚空にとどまっている者もある。 空中に留って、 経を読み、 法を説く者もあるし、 空中に留って、 坐禅して*じょうに入る者もある。 地上でも林の間でも、 また同様である。 処々に、 また河を渡り、 流れで洗い、 音楽を奏で、 花を散らし、 楼殿にゆきして、 仏を礼拝し、 讃めたたえる者もある。 このような数限りもない天人聖衆は、 思いのままに遊び戯れる。 まして化仏・化菩薩が、 香の雲、 花の雲のように、 極楽浄土に充ちみちていて、 詳しく一々述べることはできぬ。

 ^また、 次第に眼を転じて、 遥かに見たてまつると、 弥陀如来は、 黄金の山のように宝の蓮華の上に坐り、 宝池の中央にまします。 観音と勢至の二菩薩は、 御姿尊く、 これまた宝の蓮華に坐って、 仏の左右に侍りたまい、 無量の聖衆は敬って、 み仏を囲みめぐっている。 また、 宝地の上には宝樹がならび、 宝樹の下には、 それぞれ一仏と二菩薩とがましまして、 光明で飾られ、 その光が瑠璃の地に行きわたっていることは、 夜の闇の中に、 大きな炬火たいまつを燃しているようなものである。 時に、 観音と勢至の二菩薩は、 行者の前に来られ、 大慈悲の声をいだして、 いろいろに慰め説かれる。 行者は、 蓮台から降り、 身体を大地に投げ出し、 ぬかずいてきょうらいしたてまつる。 すぐさま菩薩の後について、 ようやく仏のみもとに至り、 七宝の階段にひざまずき、 あらゆる功徳を具えられた尊いお姿を見たてまつる。 そこで*真如しんにょ実相じっそうの道を聞き、 *げんの願いを起こし、 歓喜よろこびの涙を流して有難い思いが骨身にみ通るのである。

 ^このように、 仏の世界に入って、 はじめて、 今までになかった喜びを得る。 昔、 行者は、 かつてこの世にいるときわずかに経文を読んではいたが、 今まさしくこの事を見て、 その喜びの心は、 どれほどであろうか。 多くは ¬観経¼ などの意味によった。

 ^龍樹菩薩の偈 (易行品) にいわれている。

もし善根を積んで生まれようとする 疑心の行者であれば華は開けず

信ずる心の清浄な者は 花が開けて仏を見たてまつる

【24】^第三に身相しんそう神通じんずうの楽とは、 極楽の人々は、 その身体は真金色で、 内も外も、 ともに清浄である。 いつも光明があって、 互いに照らしあっている。 三十二のすぐれたすがたがそなわり、 その姿はことのほか端正で、 この世で比べるものがない。 声聞たちの身の光は、 一尋である。 菩薩の光明は、 百由旬を照らす、 あるいは十万由旬ともいう。 *第六だいろくてんの主を極楽の人々に比べると、 ちょうど乞食が帝王の側にいるようなものである。

 ^また、 極楽の人々は、 みな、 五つの*神通じんずうりきを具え、 その不思議なはたらきは測り難く、 思いのままに自由自在である。 もし、 十方世界のありさまを見ようと思えば、 足を運ばずにすぐさま見え、 十方世界の声を聞こうと思えば、 その座を立たずに、 すぐさま聞こえる。 限りない前世の事も、 今日聞くようにわかり、 六道の衆生の心は明らかな鏡に映るすがたのようである。 数限りもない仏の国を、 間近なところのように往来する。 およそ空間的には百千万億*那由なゆの国を、 時間的には百千万億那由他の劫を、 一念のうちに、 自由自在に往来し見聞するのである。

 ^今、 この*しゃ世界の人々は、 三十二相の中で、 誰が一相でも得ているか。 五神通の中で、 誰が一つの通力でも得ている者があろうか。 灯火ともしびか太陽の光でもなければ照らすこともなく、 足で歩いて行かなければ、 どこにも至ることはできぬ。 紙一重でも、 その外は見えず、 一念でも、 その後はわからぬ。 鳥篭のような迷いの世界をまだ出ないから、 事々に妨げがあるのだが、 極楽の人々には、 一人としてこれらの功徳を具えていないものはない。 百大劫の間に相好を得る行業を植えたのでもなく、 四禅定の中に、 神通を得る因を修めたのでもなくて、 ただこれは極楽で生まれながらに得たねんの果報なのである。 なんと楽しいことではないか。 多くは ¬*りょう寿じゅきょう¼ や ¬平等覚経¼ などに依る。

 ^龍樹菩薩の偈 (易行品) にいわれている。

人々の身相は同じくて あたかも金山の頂のようである

いろいろのすぐれた所を集めている それゆえぬかずき礼したてまつる

かの国に生まれたならば *天眼てんげんつう*てんつうをそなえて

十方にあまねくさえぎられる所がない 聖中の尊である如来にぬかずきたてまつる

その国のすべての人々は *神足じんそくつうおよび*しんつう

また*宿命しゅくみょうつうをそなえている それゆえ帰命し礼したてまつる

【25】^第四に妙境みょうきょうがいの楽とは、 阿弥陀仏は四十八願で浄土を荘厳せられたから、 あらゆるすべてのものは、 美しく妙なる極みである。 見るものはすべて浄らかな色、 聞くものはすべてが解脱さとりの声でないものはない。 香・味・触の境界もやはりこのようである。

 ^さて、 かの世界は、 瑠璃を大地とし、 金の縄でその道を区切り、 平らかで高低もなく、 広やかで、 はてもない。 その輝きは、 いとすぐれ、 麗しく浄らかである。 いろいろのすぐれたきぬをその地上に敷きつめ、 人々はすべてこれを踏んで行く。 以上は大地の有様である。

 ^多くの宝からできている国土の一々の地域の上には、 五百億の七宝からできている宮殿楼閣があり、 その高さは心のまま、 広さも思いのままである。 多くの宝の床には、 すぐれたきぬをその上に敷き、 七宝の欄楯てすり、 百億の花のはたぼこがあり、 玉の瓔珞を垂らし、 宝のはたかさを懸けてある。 宮殿の内、 たかどのの上には、 多くの天人がいて、 いつも音楽を奏で、 如来のお徳を歌いたたえている。 以上は宮殿である。

 ^講堂・精舎・宮殿・楼閣の内外左右には、 多くの水浴する池がある。 黄金の池の底には白銀の砂があり、 白銀の池の底には黄金の砂がある。 水精の池の底には瑠璃の砂があり、 瑠璃の池の底には水精の砂がある。 珊瑚・はく*しゃ・白玉・紫金などの池や砂も、 このようである。 八功徳水がその中に充ちみち、 宝の砂が映り通って、 どれほど深くても照らさないところはない。 八功徳というのは、 一つには浄らかに澄んでいる。 二つには清く冷ややかである。 三つには甘くおいしい。 四つには軽く柔らかい。 五つにはしっとりと潤いがある。 六つには穏かで安らかである。 七つには飲むと飢えや渇きなどの量りない思いを除く。 八つには飲みおわるとかならず身体を養い、 いろいろのすぐれた善根を増す。

 ^四方の階段の道は、 多くの宝を合わせてできており、 さまざまの宝の花は、 池の中をあまねく覆っている。 青い蓮には青い光があり、 黄色い蓮には黄色い光がある。 赤い蓮や白い蓮も、 それぞれその光があって、 微風そよかぜが吹いて来ると、 花の光が揺れ動く。 一々の花の中には、 それぞれ菩薩がられ、 一々の光の中には多くの化仏がまします。 微瀾さざなみは回り流れてやがて注ぎあう。 ゆるやかに流れ、 おもむろに去り、 遅くもなく早くもない。 その流れの声は、 いとすぐれ、 仏のみ法でないものはない。 あるいは苦・空・無我やいろいろの波羅蜜を説き述べたり、 あるいは*じゅうりき*四無しむしょ*じゅうはち不具ふぐほうを説く声を流し出す。 さては大慈悲の声、 さては*しょう法忍ぼうにんの声である。 その聞くところにしたがって喜びは無量である。 清浄な寂滅、 真実の義にかない、 菩薩や声聞の修める道にしたがっている。 またかも・雁・鴛鴦おしどり・鷺・がちょう・鶴・じゃくおう*りょうびんなど多くの宝の色ある鳥は、 昼夜に六たび優しい声を出して、 仏・法・僧を念ずることを讃め嘆え、 *こん*りき*しちだいぶんの法を説き述べる。 三途・苦難の名さえもなく、 ただ自然の快楽の声だけがある。

 ^極楽の菩薩や声聞たちが、 宝の池に入って、 水浴する時は、 その深さは思いのままで、 その心に違わず、 心の垢を洗い去って、 清らかに澄みきっている。 この水浴が終ってしまうと、 おのおの去り、 あるいは空中にあり、 あるいは木の下にあって、 経を説き経を読む者もあれば、 経を受け経を聞く者もある。 坐禅する者もあれば、 経行する者もある。 その中で、 まだ*しゅおんを得ない者は、 すぐに須陀洹を得、 さては、 まだ*阿羅あらかんを得ない者は阿羅漢を得、 まだ*ゆいおっを得ない者は阿惟越致を得る。 このようにみなすべてさとりを得て歓喜しないものはない。 また清い河があり、 その底には金の砂を敷き、 深さ冷たさは、 人の好みによくかなっている。 人々は遊覧して、 ともに河の水際に集まる。 以上は水についてのありさまである。

 ^池のほとり、 河の岸には*栴檀せんだんの木があって、 列と列とあい対し、 葉と葉と互いにつらなる。 紫金の葉、 白銀の枝、 珊瑚の花、 硨磲の実というように、 一宝から七宝までの、 あるいは純一、 あるいは混合した枝・葉・花・このみで飾りたて、 映りあっている。 そよ風が、 時あって来たり、 多くの宝樹を吹くと、 玉の網はかすかに動いて、 美しい花がゆるやかに落ちる。 風のまにまに香りを散らし、 水に混って匂いを流す。 まして、 いとも妙なる音を出し、 いろいろの音色が調和すること、 たとえば百千種の音楽を、 同時に共に奏するようなものである。 聞く者は、 自然に仏・法・僧を念ずる。 かの第六天の万種の音楽も、 この木から出る一つの音声には及ばぬのである。 葉の間には花を生じ、 花の上には果実があって、 みな光明を放ち、 変じて宝蓋となり、 すべての仏のはたらきはこの蓋の中に映り現われる。 さては、 十方の清らかな仏土を見ようと思うと、 宝樹の間にすべてことごとく照らされて現われる。 木の上には七重の宝網があり、 宝網の間には五百億の勝れた花の宮殿がある。 宮殿の中には、 多くの天童子がいて、 瓔珞は光り輝き、 自由自在に遊び楽しんでいる。 このような七宝の多くの木々は、 その世界中にゆきわたる。 名高い花や軟らかい草も至る所にあって、 やわらかく、 香りは清らかで、 これに触れる者は楽しみを起こす。 以上は樹林についてである。

 ^多くの宝の網は虚空に一面に覆い、 さまざまの宝の鈴を懸けて、 妙なるみ法の声を宣べる。 天花は美しい色を具えて、 しきりに乱れ落ち、 宝衣や身を飾る品々は、 回りながら下りて来る。 ちょうど鳥が飛んで空から下りるような具合で、 これを諸仏に供養するのである。 また限りない楽器があって、 遥かに大空に懸かり、 奏でもしないのに自然と鳴り、 みな勝れたみ法を説く。 以上は虚空についてである。

 ^またこころにかなう勝れた香・こう抹香まっこうなど、 無量の香が芳しく、 世界中に満ちわたる。 もし、 この香をぐものは、 煩悩の心が自然と起こらない。 すべて地上から空中に至るまで、 宮殿も花樹も、 すべてのものはみな限りないいろいろの宝と百千種の香りとでできている。 その香りは、 あまねく十方の世界にかおり、 その香りをぐ菩薩はみな仏道を行ずる。 また、 かの国の菩薩・阿羅漢、 多くの衆生たちが、 もし食事したい時には、 七宝の机が自然に現われ、 七宝の鉢には、 おいしい品が満ちている。 世間の味とは比較にならず、 また天上界の食物の味でもない。 その香ばしいことはたぐいなく、 甘い酢いの味は思いのままである。 色を見、 香をぐと、 身も心も清らかになり、 食べ終るとすぐに身体の力が増すのである。 こうして食事が済むと、 机も鉢も消えてなくなり、 時がくると、 ふたたび現われる。 ^また極楽の人々は衣服を得ようと思えば、 思いのままにすぐ得られる。 仏の讃めたもうような法にかなう勝れた服が、 自然に身に着けられて、 裁ち縫い、 染め繕い、 洗う必要がない。 ^また、 光明は国中に輝きわたり、 日や月や灯火は不用である。 冷たさ暖かさが調和して、 春秋冬夏という四季の別はない。 自然の徳風は、 温かさ冷たさがほどよく、 人々の身体に触れると、 みな快楽を得ることは、 ちょうど比丘が、 *滅尽めつじん三昧ざんまいを得るようである。 ^毎日、 朝早く、 美しい花を吹き散らして、 浄土にあまねく充ちみち、 良い香りは強く匂い、 いと妙に柔らかいことは*兜羅とら綿めんのようである。 その上を足で踏むと、 くぼむこと四寸であるが、 足を挙げると、 また、 元のようになる。 朝を過ぎてしまうと、 その花は地中に没する。 古い花がなくなると、 また新しい花が雨のように降る。 真昼・夕暮・宵・真夜中・明け方も、 やはりこのようである。

 ^これら、 五つのすぐれた境界は、 見たり聞いたりする者の身心を楽しませるけれども、 凡夫の貪りの心を増長させることなく、 かえって限りない勝れた功徳を増すのである。 およそ、 あらゆる八方上下の、 数限りない諸仏の国の中で、 極楽世界にある功徳を最も第一のものとする。 それは、 二百一十億の諸仏の浄土にある清らかなすぐれた荘厳が、 みなこの極楽世界の中に収められているからである。 もし、 このような極楽国土のありさまを観ずる者は、 無量億劫にわたる極めて重い悪業を除き、 命終った後には、 必ずかの極楽に生まれる。 ¬無量寿経¼ ¬*かんりょう寿じゅきょう¼ ¬*弥陀みだきょう¼ ¬*しょうさんじょうきょう¼ ¬宝積経¼ ¬平等覚経¼ ¬*ゆいきょう¼ などの意味に依ってこれを記した。

 ^*しんさつの偈 (*じょうろん) にいわれている。

かの世界のありさまを観ずるに この三界の因果に超えすぐれている

なにものにもさえぎられないことは虚空のごとく 広大であってきわほとりがない

さまざまの宝の華が 池や流れに咲き乱れて

そよ風は花びらをゆるがせ 光が乱れ交わってきらきらと輝いている

宮殿楼閣において十方の世界を眺め さえぎられることがない

いろいろな宝の樹にそれぞれ異なった光があり また宝の欄干がひろくめぐらされてある

多くの宝からできている網が あまねく虚空を覆っている

さまざまな鈴が声をたてて 妙なる法を説いている

衆生の求めるところの すべての願いはよく満足せしめられる

こういうわけであるからわたくしは 阿弥陀如来の浄土に生まれることを願う

【26】^第五にらく退たいの楽とは、 今、 この娑婆世界は、 楽しむべき事はさらにない。 *転輪てんりんじょうおうの位もその*七宝しっぽうは長く保たぬ。 天上界の楽しみも、 五衰が早く訪れる。 さては、 有頂天でも、 *りんは尽きる時がない。 まして、 その他の世界の人では、 なおさらのことである。 現実の事と自分の願いとは食い違い、 楽しみは苦しみと共にある。 富める者が長生きするとは限らず、 長生きする者が富むとは限らない。 昨日は金持ちで、 今日は貧乏となるものもあれば、 朝生まれたかと思うと、 夕方には死ぬものもある。 それゆえ、 経に説かれている。

出る息は入る息を待たず、 入る息は出る息を待たない。 ただ目の前に楽しみが去って悲しみが訪れるだけではなく、 命が尽きる時になると、 作った罪にしたがって苦しみに沈んで行く。

 ^ところで、 かの西方極楽世界は、 楽を受けることが極まりない。 人と天人とが、 互いに親しみ会う事ができる。 慈悲は心に染みわたり、 互いに一子ひとりごのように思いあう。 共に瑠璃の地上を歩き、 同じく栴檀の林の間で遊ぶ。 宮殿から宮殿に赴き、 林の池から林の池に至る。 もし、 静かにありたいと思う時は、 風も浪も、 自然に耳元から隔り、 もし、 見ようと思う時は、 山も川も谷も目の前に現われる。 香・味・触・法も思いのままに、 また、 そのようである。 ^あるいは雲のかけはしを渡って音楽を奏し、 大空に上って神通を示し、 あるいは他方の菩薩に伴って送り迎えし、 あるいは浄土の聖衆と共に遊覧する。 ^さては、 宝池のほとりに行って、 新しく往生した人を慰問していう。 「あなたは知っているでしょう。 ここが極楽世界と名づける所で、 この世界の主が阿弥陀仏なのですよ。 さあ、 お礼に参りましょう。」 ^また同じく宝池の中にいて、 それぞれはちすうてなの上に坐り、 互いに前の世の事を話しあっていう。 「わたしは、 もと、 どこそこの国にいて、 *だいしんおこして道を求めた時、 これこれのお経を受持し、 こういう戒行を守り、 こういう善法を行い、 こういう布施の行を修めました。」 このように、 それぞれ好んで修めた功徳を話し、 浄土に往生した始終を詳しく述べる。 ^また、 共に、 十方諸仏が人々を救いたもう方法を話したり、 迷いの世にいる衆生の苦しみを除く因縁を共に相談する。 その相談が終ると、 縁にしたがって去り、 話し終ると、 望みのまにまに共にゆく。 ^あるいはまた、 七宝の山 七宝の山、 七宝の塔、 七宝の僧坊のことは ¬十往生経¼ に出ている。 に登り、 八功徳水の池に水浴し、 静かに考え、 経を読み、 解釈する。

 ^このように遊び楽しむことが、 うち続いて絶え間がない。 場所は不退であるから三途や*八難はちなんしょに沈むという畏れを永く免れ、 命も限りがないから、 結局、 生・老・病・死の苦しみはない。 自分の思いと現実とがよくかなって、 愛する者と別れるという苦しみもなく、 慈悲のまなこですべてのものを平等に見るので、 うらみにくむ者と会うという苦しみもない。 善業の報いであるから、 欲しいものが得られぬという苦しみもなく、 金剛不壊のような身であるから、 この身心があるに依って起こるという苦しみもない。 ひとたび七宝に飾られた台に身を託してしまうと、 長く三界の迷いの苦しみと離れる。 もし特別の願があるならば、 他方の世界に生まれることがあるけれども、 これはさとりの上での自由な生と滅であって、 業の報いとしての生と滅ではない。 浄土には、 不苦・不楽の名前すらない。 それに、 どうしていろいろの苦しみがあろうか。

 ^龍樹菩薩の偈 (易行品) にいわれている。

もし人 かの国に生れたならば とこしえに三悪趣や

阿修羅に堕ちない わたしはいま帰命し礼したてまつる

【27】^第六にいんじょう結縁けちえんの楽とは、 人は、 この世界にいると、 その求めるものは、 自分の思いのままにならぬものである。 木は静かになろうと思っても、 風は吹きやまぬ。 子は親を養いたいと思っても、 親は待たずに先立ってゆく。 肝をくだくほどつとめても、 やっと親に水を飲ませ豆を食べさせることしかできない。 君臣・師弟・妻子・友達、 すべての恩人、 すべての知り合いに対しても、 みなまたこのような有様である。 いたずらに愚痴・愛欲の心をわずらわして、 ますます迷いの世界を経めぐる業因を増す。 まして、 悪業の果が移り変わり、 生を受ける場所が互いに離れてしまうと、 *六道・*しょうの迷いの世界のどこにいるかもわからない。 野に住む獣や山にいる鳥を、 誰か前世の親であると知り分けることができようか。 ^¬*しんかんぎょう¼ の偈に説かれているとおりである。

世の人 子のために多くの罪を作り 三途に落ちて長く苦しみを受けるが

子らは聖でないので神通もなく 迷いの有様を見ないので報いる事もできない

人々が迷い迷うて六道に生まれることは あたかも車の輪のようで始めも終りもない

父母となったり子供となったりして 生々世々に互いに恩愛がある

 ^もし、 極楽に生まれるならば、 智慧はすぐれ、 神通に達し、 生々世々の恩人や知り合いを心のままに導き救うことができる。 すぐれた眼のはたらきで、 その生まれた場所を見、 すぐれた耳の力で、 その声を聞き、 過去を知る智慧で、 その受けた恵みを思い出し、 他の者の心を知る智慧で、 その心を知り、 不思議な姿をあらわす力で、 その人に随いうて、 形を変え、 手だてを尽くして教え導くのである。

^¬平等覚経¼ に説かれているとおりである。

極楽浄土の人々は、 みな、 自分で、 その前の世、 どこから往生してきたかを知り、 また、 十方世界や過去・現在・未来の事を知り、 かの天・人たちや虫のたぐいにいたるまで、 その心に思い口に述べようとすることを知る。 そして、 これらが、 いつの年いつの時に、 この浄土に生まれ、 菩薩の道を修めて悟りを得ることができるかということも、 みな、 前もって知るのである。

^また、 ¬*ごんぎょう¼ の普賢の願に説かれている。

願わくはわたしが命終ろうとする時 あらゆる障りをことごとく除き

まのあたり阿弥陀仏を見たてまつり 安楽浄土に生まれたい

わたしがかの国に生まれたならば ただちにこの大願を成し遂げて

すべてまどかにあますことなく あらゆるものを救いたい

 ^無縁の者でさえもこのようである。 まして因縁を結んだものでは、 なおさらのことである。 龍樹菩薩の偈 (天親菩薩の ¬浄土論¼) にいわれている。

浄土の聖衆の応化身は 一念同時に

あまねく十方の世界に往って諸仏を供養し またあらゆる衆生を利益する

【28】^第七にしょうじゅ倶会くえの楽とは、 経 (阿弥陀経) に説かれているとおりである。

阿弥陀仏の極楽のありさまを聞く人々は、 ぜひとも発心してかの国に生まれようと願うがよい。 そのわけは、 浄土に生まれると、 このような多くのすぐれた聖衆と、 ともに同じ蓮のうてなで一処に会うことができるからである。

^浄土の菩薩・聖衆たちの徳行は、 思いはかることができない。 *げんさつが言われる。

もし人あって、 まだ善根を植えないものや、 少しの善根を植えたぐらいの声聞・菩薩は、 とても、 わたしの名を聞くことができぬ。 まして、 わたしの身を見ることができようか。 もし、 わたしの名を聞くことのできる人があるあら、 無上仏果に至るまで退くことはない。 さては、 夢の中でわたしを見たり聞いたりする者も、 また同様である。 これは ¬華厳経¼ の意である。

^また、 云われる。

わたしは常に多くの人々に随い 未来永遠の果てまで

たえず広大な普賢の行を修め 無上の悟りを満たそう

普賢の身相は大空のごとく *真如しんにょに依って住み 国土には住まぬ

人々の心の願いに応じて あまねき身を示し すべてのものに等しくなる

あらゆる国土の諸仏のみもとに 種々の三昧で神通をあらわし

一々の神通はみなすべて 十方の国にあまねく至らぬところはない

すべての国の仏のみもとにおけるように かの国の微塵の中にもすべてまた同じ 同経 (華厳経) の偈である。

^文殊菩薩を 三世の諸仏が母とする

十方の如来の初発心は すべてこれは文殊の教化の力である

あらゆる世界の衆生が み名を聞いたり姿や光明を見たり

機類に応じて現われるのを見れば みな仏道を成ずること 思い計ることができぬ ¬心地観経¼ の偈である。

 ^もし、 ただ文殊菩薩のみ名を聞く者は、 十二億劫も生死の世界にさ迷うべき罪を除く。 もし、 礼拝し供養する者は、 いつも仏の国に生まれ、 もしみ名を称えること一日から七日に至ると、 文殊菩薩は必ず来たりたもう。 もし、 昔からの障りのある者は、 夢の中に文殊菩薩を見たてまつることができて、 その願いは達せられる。 もし、 文殊菩薩のお姿を見たてまつる者は、 百千劫のあいだ、 悪道に堕ちない。 もし、 慈心いつくしみを行ずる者は、 すなわち文殊菩薩を見たてまつる事ができる。 もし文殊菩薩のみ名を受持し読誦する者は、 たとい重い障りがあっても、 阿鼻地獄の極悪の猛火に堕ちないで、 いつも他方の清らかな仏国に生まれる。 ¬*文殊もんじゅはつはんぎょう¼ の意である。 文殊菩薩のお姿は、 経に広く説かれているとおりである。 ^また、 百千億那由他の仏が衆生を利益したもうことも、 文殊菩薩が一劫の間でしたもう利益には及ばぬ。 それゆえ、 もし文殊菩薩のみ名を称える者は、 その福は、 かの百千億の諸仏の名号を受持するよりも多い。 ¬宝積経¼ の意である。

 ^弥勒菩薩の功徳は量りないものである。 もし、 ただみ名を聞く者は、 暗闇の世界には堕ちない。 一念称名する者は、 千二百劫のあいだ生死の世界にさまようべき罪を除き、 帰依する者は、 無上道に至るまで退かない。 ¬*ろく上生じょうしょうきょう¼ の意である。 弥勒菩薩を称讃し、 礼拝する者は百千万億*そう劫のあいだ、 迷わねばならぬ罪を除く。 ¬*空蔵くうぞうきょう¼ ¬*ぶつみょうきょう¼ の意である。

^量りなき千万劫に 修めたもう願と智と行とは

広大で量ることができず めたたえても尽くすことができない ¬華厳経¼ の偈である。 以上の三菩薩がいつも極楽の世界にましますことは ¬四十華厳経¼ に出ている。

 ^*ぞうさつは、 毎日朝早く、 恒河の沙に等しい禅定に入り、 あらゆる国に行きわたり、 苦しむ衆生を救いたもう。 その慈悲の願いは、 他の菩薩がたに超えていられる。 ¬*ぞうじゅうりんぎょう¼ の意である。 ^かの経の偈にいう。

ただ一日 地蔵菩薩の すぐれた功徳をたたえるのは

億劫のあいだ 他の智者を称える徳に勝る

たとい百劫のあいだ その功徳をめ説いても

なお尽くすことはできない それゆえみな供養すべきである

 ^観音菩薩が仰せられる。

苦しみを持つ衆生が三たびわが名を称えるのに、 赴いて救わねば正覚さとりを取るまい。 ¬*みょうかいきょう¼ にいってある。 ^もし、 百千億那由他の諸仏の名号を称念するとしよう。 また、 しばらくの間わが名号を心から称念するとしよう。 この二つの功徳は、 全く平等である。 わが名号を称念する人々は、 すべてみな、 *退転たいてんの地位を得る。 ¬*じゅう一面いちめんぎょう¼ にいってある。

^衆生がもしわが名を聞くならば 苦しみを離れて解脱を得よう

また地獄に遊び 大慈悲の心より衆生に代って苦しみを受けよう ¬*しょう観音かんのんぎょう¼ の偈である。

^弘き誓いの深いことは海のようで 一劫を経ても はかりしられぬ

数千億の仏に仕え いと清らかな願いをおこ

神通力を具足して 広く智慧のてだてを修め

十方の多くの国々に その身を現わさぬ所とてはない

念々にうたがいを生じてはならぬ 浄き聖の観音菩薩は

苦しみや死のわざわいのために よく依怙たよりとなる

あらゆる功徳を具え 慈悲の眼で衆生を見たもう

福徳の海は量りない それゆえ頂礼すべきである ¬法華経¼ に説かれてある。

 ^勢至菩薩が仰せられる。

わたしはいろいろの悪道に堕ちたものでまだ救われない衆生を救うことをよく任務とする。 ¬宝積経¼ にいってある。

 ^智慧の光で、 一切をあまねく照らし、 三途を離れさせるについて、 この上もない力を得ている。 それで、 この菩薩を大勢至と名づける。 この菩薩を観ずる者は、 数限りもない永劫のあいだ迷わねばならぬ罪を除き、 *たいしょうを受けないで、 いつも諸仏の清らかな国に往来する。 ¬観経¼ の意味による。

^限りもない無数劫にわたり 広く願力を修めて弥陀を助け

常に大衆に対してみ法をべる これを聞く者は浄き眼を得る

神通力で十方の国にあまねく至り すべての衆生の前に現われる

もし衆生がよく至心に念ずるならば みなことごとく導いて安楽に至らせる 龍樹菩薩の ¬讃¼ である。

^また、 いわれている。

観音菩薩と勢至菩薩とは勝れたほまれがあり 功徳と智慧は共に量りがない

慈悲を具足して世間を救い あまねくすべての衆生の間に至る

このような勝れた人に遇う事ははなはだ難い 一心に敬いぬかずいて礼したてまつれ

 ^このような次の世で仏になる大菩薩 (*いっしょうしょ) は、 その数が恒河の沙のようである。 その姿は端正で、 功徳を具え、 いつも極楽国にって、 阿弥陀仏を取り囲んでいられる。

 ^また声聞たちの数も量り難い。 不思議な智慧は深くゆきわたり、 その威力は自在である。 よくたなごころの中に、 すべての世界をたもつことができる。 たとい*目連もくれんのように神通のある者が、 百千万億無量無数あって、 限りのない劫のあいだことごとく共に極楽の最初の説法の会座につらなる声聞をかぞえても、 知られる数は、 一滴の水のようであり、 知られぬところは大海の水のようなものである。 その中で、 入滅し去る者の数は限りなく、 新たに阿羅漢のさとりを得る者も数限りがないけれども、 全く増減はない。 ちょうど大海は、 恒河の水を減らしても恒河の水を加えても、 増減がないようなものである。 菩薩たちの数は、 また以上の数に倍している。 ^¬大智度論¼ にいうとおりである。

阿弥陀仏の国には、 菩薩僧は多くて、 声聞僧は少ない。

 ^このような聖衆は、 極楽に充ちみちている。 互いに、 遠くから仰ぎ見たり、 はるかに声を聞いたりして、 共に仏道を求め、 同類の者ばかりである。 まして、 また十方の恒河の沙ほどの仏土にある量りなき微塵の数ほどの菩薩聖衆は、 それぞれ神通を現わして安楽国に至り、 阿弥陀仏の尊いみ顔を仰いで、 敬い供養したてまつるのである。 天の妙花をもたらしたり、 妙宝の香を焚いたり、 あたい知られぬ衣を献じたり、 天の音楽を奏して、 優雅なを出したりして、 仏を歌いたたえてみ法を聴聞し、 仏道をべ広める。 このようにして昼夜に往来の絶え間がない。 東方へ去ると西方から来たり、 西方へ去ると北方から来たり、 北方へ去ると南方から来る。 四維上下も互いにまたこのようである。 互いに道をゆずりあうことは、 ちょうど盛んな市のようである。 これらの菩薩は、 一たびその名を聞くことさえ、 わずかな因縁ではできぬ方々である。 まして、 百千万劫の長い間にも、 誰がお目にかかれようか。 けれども、 かの国土の人々は常に一所に集まり、 互いに言葉をかわし、 問い尋ね敬って近づき習うのである。 なんと楽しいことではないか。 以上は、 ¬無量寿経¼ ¬観経¼ ¬平等覚経¼ などの意味によるのである。

 ^龍樹菩薩の偈 (易行品) にいわれている。

かの浄土の菩薩たちは あらゆる相好をそなえて

みずからの身をかざる わたしはいま帰命して礼したてまつる

三界の迷いを出て 目は蓮華のはなびらのよう

そのような声聞衆が無量である それゆえぬかずき礼したてまつる

^また、 いわれている。 (*じゅうらい)

十方から集まる菩薩たちは 神通をもって安楽国に至り

尊顔を仰ぎみて常に恭敬する それゆえわたしは阿弥陀仏を頂礼したてまつる

【29】^第八に見仏けんぶつ聞法もんぼうの楽とは、 今、 この娑婆世界は、 仏を見たてまつって仏法を聞くことがはなはだ難しい。 ^師子しし菩薩がいわれる。

われら無数百千劫の長い間に *りょうしん*さんだつもんを修行して

いま大聖釈迦仏を見たてまつるのは さながら盲の亀が浮木にうようなものである。

 ^また、 儒童じゅどう (雪山童子) は、 その身を捨てて始めて偈の後半を得、 じょうたい菩薩は、 肝府きもを割いて遠く般若 (智慧) を求められた。 菩薩でさえもそのとおり、 まして凡夫では、 なおさらのことである。

 ^釈迦如来が*しゃこくましますこと二十五年であったが、 かしこの九億の人々の内、 三億の人は仏を見、 三億の人がやっと仏の名を聞き、 その他の三億の人は見もせず聞きもしなかった。 仏の在世でさえもそうであった。 まして仏の入滅後ではなおさらである。 ^それゆえ ¬法華経¼ に説かれている。

これら多くの罪ある人々は 悪業を犯した因縁により

無数劫を経てもなお 三宝の名さえも聞かない

 ^ところが、 かの浄土の人々は、 常に阿弥陀仏を見たてまつり、 たえず深妙のみ法を聞く。 そのさまをいえば、 いと清らかな地上には*だいじゅがあり、 枝葉は四方よもに拡がって、 多くの宝からできている。 樹の上には宝の網を覆い、 こえだの間には、 珠の瓔珞を垂れている。 風が吹いて枝葉を動かすと、 その声は妙法をべて、 あまねく諸仏の国に流布する。 それを聞く者は、 深い法忍を得て不退転に住し、 耳が清く明らかである。 樹の色を見、 樹の香りをぎ、 樹の味をめ、 樹の光に触れ、 樹の相を知ることもすべて同様で、 仏果を成就するまで、 *六根ろっこんは清く明らかである。

 ^樹の下には座があって限りなく飾られている。 座の上には仏がましまして、 その相好は無辺である。 肉髻が高く現われ、 澄みきった空の青色のように濃く、 *びゃくごうは右にめぐって、 秋の月のような光が満ちている。 青蓮華のような眼、 赤い実のような唇、 迦陵頻伽のような声、 獅子のような胸、 仙鹿王のようなはぎ*せん輻輪ぷくりん相のあるあしうら、 このような八万四千の相好は紫磨黄金のおん身に具わり、 数限りもない光明は億千の日月を集めたようである。 ある時は、 七宝の講堂にましまし、 妙法を説きのべたもうに、 きよらかな声はたえに人々の心を悦ばせたもう。 菩薩・声聞・天・人の大衆は、 一心に合掌して、 仏のみ顔を仰ぎ見る。 その時、 自然と微風そよかぜが七宝の樹を吹き、 限りない妙花は、 風のまにまに四方に吹き散って行く。 あらゆる天人たちは、 すべて、 さまざまの音楽を奏する。 この時に当たって、 その楽しみはいいようもないのである。 あるいはまた、 広大のおん身を現じ、 あるいはまた一丈六尺や八尺の身と現われたもう。 あるいは宝樹の下、 あるいは宝池のほとりまします。 人々が過去世に仏道を求めたとき心に好み願ったことにしたがって、 望みどおりに人々のためにみ法を説き、 早くさとりを得させる。 このように種々の機類に応じて、 種々のみ法を説かれるのである。 また、 観音・勢至の二菩薩は、 常に仏の左右のほとりにましまし、 仏の御座近く侍って論議せられる。 仏は常にこの二菩薩と対座して、 八方上下の世界、 過去・現在・未来のことを議せられる。

 ^ある時は、 東方、 恒河の沙ほど多い仏国の数限りない多くの菩薩たちが、 みなすべて無量寿仏のみもとに至り、 仏をはじめ多くの菩薩や声聞たちに及ぶまで敬い供養したてまつる。 南西北方、 四維上下の菩薩たちもまたこのようにせられる。 清らかに飾られたかの国土の微妙不思議なさまを見て、 菩薩は量りない心をおこし、 みずからの国もまたこのようでありたいと願う。 その時、 無量寿仏はお姿を改めてほほ笑みたまい、 口より無数の光を出して、 あまねく十方の国々を照らし、 その光がかえって来て三たびおん身をめぐり、 かの仏のいただきに収まる。 あらゆる天人たちは、 みな踊りあがって喜ぶ。 そこで観音菩薩は衣服をただし、 ぬかずいて仏におたずねする。 「どういうわけで、 ほほえまれるのでございますか。 どうか思召おぼしめしのほどをお説き下さい。」 その時、 仏のみ声はおごそかに八音を出して妙に響きわたらせ、 菩薩に成仏の*べつを授け、 告げて仰せられるには、 「そなたよ、 よく聞け、 十方から来た菩薩らよ。 わたしはすべてそなたらの願いを知っている。 清らかな国を成就したいと志してきっと仏になることができよう。 あらゆるものは、 ちょうど夢・幻やこだまのようであると知りながら、 多くの勝れた願を満足して、 きっとこのような国を成就するであろう。 すべてのものいなずまや影のようであると知りながら、 菩薩の道をおし究め、 多くの功徳の本を具え、 きっと仏になることができよう。 あらゆるものの本性はことごとく*くう*無我むがであると見抜きながら、 ひとえに清らかな仏土を求め、 きっとこのような国土を成就するであろう」 と。

 ^まして、 また水・鳥や樹林もみな、 妙法を説き、 すべて聞きたいと思うことは自然に聞くことができるのである。 このような仏法の楽しみは極楽以外のどこにあるだろうか。 以上の多くは ¬無量寿経¼ ¬平等覚経¼ などの意味に依った。

 ^龍樹菩薩の讃 (十二礼) にいわれている。

金沙を底とし宝のまじわる池に生じた蓮華は きよき善根によって成る妙なる台座である

その座上に須弥山のように坐したもう それ故わたしは阿弥陀仏を頂礼したてまつる

「あらゆるものの常なく我の体がないことは また水に映れる月や電・影や露のようである」と

衆のために諸法の空なることを説きたもう それ故わたしは阿弥陀仏を頂礼したてまつる

願わくはもろもろの人々と共に 安楽国に往生しよう

【30】^第九に随心ずいしんぶつの楽とは、 かの極楽の人々は、 昼夜に六たび、 常にさまざまのてんを持って無量寿仏を供養したてまつる。 またこころに他方の諸仏を供養したいと思うならば、 すぐ仏前に進み出てひざまずき、 手を組み合わせて敬礼し、 仏に申しあげると、 これをお許しになる。 そこでみな大いに歓喜して、 千億万の人々はそれぞれ空をひるがえり飛び、 それぞれの仲間はあい連れ、 共に飛び去り、 八方上下の数限りもない諸仏のみもとに至る。 みな仏前に進み出て礼拝し、 供養し敬いたてまつる。 このような有様で、 毎日朝早く、 それぞれの花篭に多くの妙花を盛り、 他方の十万億の仏を供養したてまつる。 また、 いろいろの衣服や音楽など、 すべての供養の品々は、 思いのままに現われ、 それで供養し敬うのである。 そして食事の時までに、 もとの浄土に戻って来て食事し、 めぐり歩いて、 いろいろの法楽を受ける。 ^あるいはいう、 毎日、 朝・昼・夜の三たびに諸仏を供養したてまつる。

 ^行者は、 今、 釈尊の遺された教えに従って、 十方仏土のいろいろの功徳を聞くことができ、 見るにつれ聞くにつれて、 遥かに憧れを生ずる。 おのおの心に思うて 「われら、 いつの日にか十方の浄土を見、 諸仏菩薩にいたてまつることができようか」 と言い、 み教えの文を開きみるたびに、 いつも歎かずにはおられぬのである。 けれども、 もしたまたま極楽浄土に生まれることができたならば、 あるいは自分の力により、 あるいは仏の力をけて、 朝行って夕方に戻り、 たちまちの間に行って、 たちまちの間にもどる。 あまねく十方一切の仏土に至って、 まのあたり諸仏に仕え、 多くの菩薩にい、 いつも正しいみ法を聞き、 大菩提さとりの記別を授けられる。 さては、 ひろく一切の国土に入り、 多くの仏のはたらきをなし、 普賢の行を修める。 なんと楽しいことではないか。 ¬阿弥陀経¼ ¬平等覚経¼ ¬無量寿経¼ などの意味に依った。

 ^龍樹菩薩の偈 (易行品) にいわれている。

かの浄土の大菩薩たちは 日々に三回ずつ

十方の仏を供養する それゆえぬかずき礼したてまつる

【31】^第十に増進ぞうしん仏道ぶつどうの楽とは、 今この娑婆世界は、 仏道を修行して仏果を得る事がはなはだ難しい。 なぜかというと、 苦しみを受ける者は常に悩み、 楽しみを受ける者は常に執着している。 苦しみといい、 楽しみといい、 共に解脱さとりを遠く離れたものである。 この迷いの世界で、 善果に昇ったり悪果に沈んだりしても、 結局は輪廻のほかはないのである。 時たま発心して修行する者があっても、 仏道をなしとげる事は難しい。 内には煩悩が催し、 外からは悪縁に牽かれて、 二乗の心をおこしたり、 三悪道に戻ったりする。 たとえば水中の月は波にしたがって動き易く、 兵士がいざ戦いとなると退却するようなものである。 魚の子は成長し難く、 *あん没羅もらは熟することが稀である。 かの舎利弗たちが六十劫で退転したようなことが、 それである。

 ^ただ釈迦如来だけは、 無量劫にわたって難行苦行し、 功を積み徳をかさね、 菩薩の道を求めて、 一度も止めたもうた事がなかった。 *三千さんぜん大千だいせんかいを見わたすと、 芥子粒ほどの土地も、 この菩薩 (釈迦) が命を捨てたまわない所はない。 それはすべて衆生のためである。 こうした修行の後に、 はじめて仏果を成就せられたのである。 釈迦仏以外の人々は、 自分の智慧の程度では不可能である。 ちょうど象の子は力が弱いから刀や矢で殺されるようなものである。 ^それゆえ龍樹菩薩は次のように仰せられる。 (¬大智度論¼ の意)

たとえば、 四十里の氷に、 もし一人の人があって、 一升の熱湯を注げば、 その時は少し氷が減ったようであるけれども、 一夜を経て明け方になると、 他の所よりも高くなっているようなものである。 凡夫が、 この土で発心して苦しみを救おうと思うのも、 またこのとおりである。 貪欲・瞋恚の境界は、 心にかなったりかなわなかったりすることが多いから、 みずから煩悩を起こして、 かえって悪道に堕ちるのである。

 ^ところが、 かの極楽国土の人々は、 多くのよい因縁があるから、 最後まで退くことなく、 仏のさとりに進んで行くのである。 一つには、 仏の慈悲の願力が、 いつも摂めたもちたもうからである。 二つには、 仏の光明が常に照らして、 菩提心を増すからである。 三つには、 水・鳥・樹林・風鈴などの声は、 常に念仏・念法・念僧の心を起こさせるからである。 四つには、 菩薩たちだけが在して善友となり、 外には悪縁がなく、 内には重い煩悩を制伏するからである。 五つには、 命が限りなく、 仏と共に等しく、 仏道を修行する際に、 生死の隔てがないからである。 ^¬華厳経¼ の偈に説かれている。

もし人あって一たび仏を見たてまつれば 必ず多くの業の障りが浄め除かれる

 ^一たび見たてまつることでさえ、 そうである。 まして常に仏を見たてまつるのであるから、 なおさらである。 この因縁によって、 かの極楽の人々は、 すべての物について、 自分だとか自分のものだとかの心はなく、 行くもかえるも進むもとどまるも、 すべて心に執着することがない。 すべての人々に対して広大な慈悲心をおこし、 自然に仏道が進んで無生法忍を悟り、 ついに必ず一生補処の位に至り、 そうして速やかに無上菩提を証するのである。 人々のために*八相はっそうじょうどうのすがたを現わし、 縁に応じ、 清らかな国土にって妙なるみ法を説き、 もろもろの衆生を救う。 もろもろの衆生に、 その国を願い求めさせることは、 自分が今日、 極楽を願うようにさせるのである。 また、 十方に行って人々を導くことは、 ちょうど阿弥陀仏の広大な慈悲から起こされた本願のようである。

 ^このような利益は、 なんと楽しいことではないか。 この世の一生で仏道を勤修することは、 ほんのしばらくの間である。 どうして万事を棄てて浄土を求めないのか。 願わくは行者たちよ、 ゆめゆめ怠ってはならぬ。 多くは ¬無量寿経¼ ならびに天台の ¬*じゅうろん¼ などの意味に依った。

 ^龍樹菩薩の偈 (十二礼) にいわれている。

かの阿弥陀仏ののはかりなき自利利他成就の浄土は もろもろの迷いの境界や悪い知識ともはない

往生して不退に入り仏のさとりに至る それ故わたしは阿弥陀仏を頂礼したてまつる

わたしはいま阿弥陀仏の功徳を説きたてまつる 多くの善根の無辺にましますことは海水のようである

みずから得たこの清浄の善根を 衆生にも知らせて共にかの国に往生しよう

願わくは もろもろの人々と共に 安楽国に往生しよう

【32】^大文第三に極楽の証拠を明かすのに、 二つとする。 一つには十方浄土に対し、 二つには兜率天に対する。

【33】^初めに、 十方浄土に対するというのは、 次に述べるようである。

 ^問う。 十方に浄土があるのに、 どうして、 ただ極楽だけに生まれようと願うのか。

 ^答える。 天台大師がいわれる。 (¬十疑論¼ の取意)

多くの経・論は、 処々にただ人々を勧めて、 ひたすら阿弥陀仏を念じ、 西方の極楽世界を求めさせてある。 ¬無量寿経¼・¬観経¼・¬浄土論¼ などの数十余部の経・論の文は、 ねんごろに教え示して、 西方浄土に往生することを勧められている。 こういうわけであるから、 ひたすら西方を念ずるのである。

 ^天台大師は、 一切の経・論を御覧になったことが、 およそ十五遍であったといわれる。 だからその述べられることは信ぜねばならないのである。

 ^*ざい師の三巻の ¬*じょうろん¼ には、 十二の経と七つの論を引いている。 一つには ¬*りょう寿じゅきょう¼、 二つには ¬*かんりょう寿じゅきょう¼、 三つには ¬小*弥陀みだきょう¼、 四つには ¬*弥陀みだおんじょうおう陀羅だらきょう¼、 五つには ¬*しょうよう諸仏しょぶつどくきょう¼、 六つには ¬*発覚ほっかくじょうしんぎょう¼、 七つには ¬*大集だいじっきょう¼、 八つには ¬*じゅうおうじょうきょう¼、 九つには ¬*やくきょう¼、 十には ¬*般舟はんじゅ三昧ざんまいきょう¼、 十一には ¬*だい弥陀みだきょう¼、 十二には ¬*びょうどうがくきょう¼ である。 以上 ¬無量寿経¼ ¬平等覚経¼ ¬大阿弥陀経¼ は同一の経の異訳である。 ^論では、 一つには*天親てんじんの ¬*じょうろん¼、 二つには ¬*だいじょうしんろん¼、 三つには ¬*十住じゅうじゅう毘婆びばしゃろん¼、 四つには一切経の中の ¬弥陀みだ¼、 五つには ¬*ほうしょうろん¼、 六つには龍樹の ¬*じゅうらい¼、 七つには ¬*しょうだいじょうろん¼ の弥陀偈である。 以上、 *きょう師の釈もこれと同じである。

 ^さらにわたくしに加えていう。 ¬*法華ほけきょう¼ の薬王やくおうぼん、 ¬*ごんぎょう¼ にゅう法界ほっかいぼんげんがん、 ¬*目連もくれん所問しょもんぎょう¼・¬*三千さんぜんぶつみょうきょう¼・¬*無字むじほうきょうぎょう¼・¬*千手せんじゅ陀羅だらきょう¼・¬*じゅう一面いちめんぎょう¼・¬*くうけんじゃく神変じんべん真言しんごんきょう¼・¬*にょりん陀羅だらきょう¼・¬*ずい陀羅だらきょう¼・¬*そんしょう陀羅だらきょう¼・¬*無垢むくじょうこうだい陀羅だらきょう¼・¬*こうみょう真言しんごんぎょう¼・¬*弥陀みだ大呪だいじゅ¼ などの多くの顕教や密教の教えの中に、 専ら極楽を勧めることは、 一々数えきれぬほどである。 それゆえ、 ひとえに西方浄土を願い求めるのである。

 ^問う。 仏は 「仏たちの浄土には、 実には差別がない」 と仰せられる。 それなのに、 なぜ如来はひとえに西方浄土のみをめたもうのであるか。

 ^答える。 ¬*十方じっぽう随願ずいがんおうじょうぎょう¼ に、 仏がこの疑問を解いて仰せられる。

娑婆世界では、 人間は貪りの心が多くて信に向かう者は少なく、 邪法を習う者は多くて正法を信じない。 専一になる事ができないから、 心が乱れて、 志がない。 浄土は、 実には差別がないけれども、 人々に心を一すじに定めさせようとされるのである。 それゆえ、 かの浄土を讃嘆するのである。 往生を願う人々は、 すべてその願いのままに果を得ないものはない。

^また、 ¬心地観経¼ に説かれている。

仏弟子たちよ、 至心に一仏および一菩薩を見たてまつろうと求めるがよい。 このようなことを、 迷いの世を離れる肝要な方法と名づける。

 ^こういうわけであるから、 もっぱら一つの仏国のみを求めるのである。

 ^問う。 その心を一すじにさせるためというのなら、 どうして、 多くの浄土の中で、 ただ極楽だけを勧めるのであるか。

 ^答える。 たとい他の浄土を勧めても、 やはりこの疑難は免れないであろう。 仏意は、 測り難い。 ただ仰いで信ずべきである。 たとえてみると一人の愚かな人が炎の穴に落ちこんで自分の力では出ることができない場合、 友人が一つの方法でこれを救うと、 愚かな人は、 それに力を得て、 努力して早く出なければならぬようなものである。 何の余裕があって、 かれこれと他の方法を議論することがあろうか。 行者もこれと同じで、 他の思いを起こしてはならぬ。 ^¬目連所問経¼ に説かれているとおりである。

たとえば、 よろずの長い川の流れに漂う草木が、 前のものは後のものを顧みず、 後のものは前のものを顧みず、 すべて大海に流れ込むようなものである。 世間のありさまもまたそのとおりで、 威勢があり、 地位高く、 財産があり、 また歓楽の自由自在なものでも生老病死を免れることはできない。 どのようなものでも、 仏のみ法を信じなかったならば、 後の世に人間と生まれても、 さらに一層困苦の身となり、 千仏の出られる国土に生まれることができぬ。 それゆえ、 わたしは、 ª無量寿仏の国は往きやすくさとりやすいのに、 人々はこれを行じないから往生することができず、 反対に*じゅうしゅどうにつかえているº と説くのである。 私はこういう人を ª眼のない人º ª耳のない人º と名づける。

^¬阿弥陀経¼ に説かれている。

わたしは、 このような利益のあることを知っているから、 このことを説くのである。 もし人々で、 この説を信ずるものがあるならば、 願いをおこして、 かの浄土に往生するであろう。

 ^このように、 仏のいましめはねんごろであるから、 ただ仰いで信ずべきである。 まして私どもと阿弥陀仏とは関係がないのではない。 どうして、 むりに西方浄土の往生を拒むことがあろうか。 ^天台大師の ¬十疑論¼ にいうとおりである。

阿弥陀仏には、 別して大慈悲の四十八願があって人々を導きたもう。 また、 かの仏の光明は、 あまねく十方世界の念仏の人々を照らし、 摂め取って捨てたまわぬ。 十方にそれぞれまします恒河の沙の数ほど多い仏がたは、 舌をさしのべて三千大千世界を覆い、 あらゆる人々が、 阿弥陀仏を念じ、 仏の大悲の*本願ほんがんりきに乗ずればまちがいなく極楽世界に生まれることができるということを証明したもうのである。 また ¬無量寿経¼ に仰せられる。 「末法の後、 仏法がなくなろうとする時、 特に、 この経をいついつまでも世に留めて、 人々を導き、 かの極楽国土に生れさせよう」 と説かれてある。 それゆえ阿弥陀仏と、 この世界の極悪の衆生とは、 とりわけ因縁があることが知られる。

^*おん大師がいう。 (*西方さいほう要決ようけつ)

末法一万年には、 ほかの経法はみななくなってしまい、 阿弥陀仏の教えのみ、 人々を利益することが増す。 釈迦如来が、 特にいつまでも留めおかれるのである。 時を経て末法一万年の後には、 すべての経は、 みないずれもなくなってしまうが、 釈尊の御恩は重くて、 このみ教えをいつまでも留めてくだされるのである。

^また*かんぜんがいう。 (群疑論)

¬般舟三昧経¼ に説いてある。 「ばつ陀和だわ菩薩が、 釈迦牟尼仏にお願いして、 ¬未来の人々は、 どのようにして十方の諸仏を見たてまつることができましょうか¼ とおたずねした。 そこで仏は、 跋陀和菩薩に教えて阿弥陀仏を念じさせたもうたところ、 すぐさま十方一切の諸仏を見たてまつったのである。」 阿弥陀仏は、 とりわけ娑婆の人々と縁があるので、 まずこの仏を専心に称念すると、 三昧が成就しやすいのである。

 ^また観音と勢至の二菩薩は、 もとこの娑婆世界で菩薩の行を修め、 そしてかの極楽国に生まれたもうたのである。 過去からの因縁がつながっているのである。 どうして私たちと阿弥陀仏の浄土と感応するところがないといえようか。

【34】^二つに、 兜率に対するというのは、 次のようである。

 ^問う。 *げんじょう*三蔵さんぞうがいう。

西方 (印度) の出家も在家も、 *ろくさつのおられる兜率天に生まれる行業を修めている。 兜率天はこの世界と同じように欲界で、 その行業も成就し易いからである。 大乗・小乗の諸師たちは、 みな兜率往生の法を認めているのである。 阿弥陀仏の浄土に往生することは、 恐らく汚れた凡夫の身では、 行が成就し難いであろう。 旧訳の経・論によれば、 七地以上の菩薩が、 それぞれの程度に応じて報身仏の浄土を見るとある。 新訳の論の意味によると、 第三地の菩薩が始めて報身仏の浄土を見ることができるとある。 どうして、 低い凡夫が、 すなわち浄土に往生することができようか。

印度でさえも、 すでにこのとおりである。 それに今どうして極楽を勧めるのか。

 ^答える。 中国と辺州と、 その場所は違っていても、 顕教・密教の法門は、 その道理は同一である。 わたしがいま引いた証拠は、 すでに多い。 どうして仏教の明白な文に背いて、 印度の噂に従ってよいだろうか。 ^まして、 おん精舎の無常院には、 病人を西方に向け、 阿弥陀仏の浄土に往生する想いを起こさせたというではないか。 その詳細は、 後の臨終行儀のところに述べるとおりである。 これで、 仏の思召しはひたすら極楽を勧めたもう、 ということが明らかに知られる。 印度地方の風俗も、 どうしてこれに背くであろうか。 ^また懐感禅師の ¬群疑論¼ には、 極楽と兜率とについて、 次のような十二の勝劣を立てている。

^一つには、 化導の主が仏と菩薩と異なるから。 ^二つには、 浄土と穢土との別。 ^三つには、 女人の有る無し。 ^四つには、 寿命の長い短い。 ^五つには、 内院・外院の有る無し。 兜率天の内院は退かぬが外院は退くことがある。 西方浄土には内外がなく、 すべて退くことはない。 ^六つには、 五衰の有る無し。 ^七つには、 相好の有る無し。 ^八つには、 五神通の有る無し。 ^九つには、 不善の心の起こる起こらない。 ^十には、 滅罪の多い少ない。 すなわち弥勒菩薩の名を称えると千二百劫の罪を除くが、 阿弥陀仏の名を称えると八十億劫の罪を滅ぼす。 ^十一には、 苦を受けることの有る無し。 ^十二には、 生を受けることの相違。 それというのは、 兜率天では、 男女の膝下や懐の中に生まれるが、 西方浄土では、 蓮華の内、 宮殿の中に生まれるのである。 ^兜率・西方の二所の勝劣の義は、 このようであるけれども、 ともに仏が勧め讃めたもうのであるから、 互いに非難しあってはならぬ。 以上。 およそ兜率・西方の二つの世界の勝劣差別を立てたのである。

 ^慈恩大師は十の相違を立てている。 前の八つは、 懐感禅師が立てた説を出ていないから、 繰返して引用しない。 ^その第九にいう。

西方浄土は、 仏が行者の所に来たり迎えたもうが、 兜率天は、 そうではない。

ところで、 懐感禅師はいう。

来迎したもうことは、 兜率天も西方極楽も同一である。

^慈恩大師の第十にいう。

西方浄土については、 経・論ともに、 ねんごろに勧めるものが極めて多いけれども、 兜率天については多くもなく、 またねんごろでもない。

 ^懐感禅師は、 また、 往生の難易について、 十五の同の義と、 八つの異の義を立てている。 その八つの異の義とは次のとおりである。

^一つには、 本願の異。 すなわち、 阿弥陀仏には引接の願があるけれども、 弥勒菩薩にはそのような願はない。 願のないのは、 自分の力で泳いで水を渡るようであり、 願のあるのは、 舟に乗って水に遊ぶようである。 ^二つには、 光明の異。 すなわち、 阿弥陀仏の光明は念仏の人々を照らし、 摂め取って捨てたまわないけれども、 弥勒菩薩はそうではない。 光が照らすのは真昼の遊びのようであり、 光のないのは闇夜の往来に似ている。 ^三つには、 守護の異。 すなわち、 阿弥陀仏の場合では数限りもない化仏や化観音菩薩・化勢至菩薩が、 いつも行者の所に来てくださるのである。 また ¬称讃浄土経¼ に、 「十方の十恒河の沙ほどの数ある諸仏がたが、 お守りくださる」 と説かれている。 また ¬十往生経¼ に、 「仏は*じゅうさつを遣わされて、 いつも行者を守護したもう」 と説かれている。 兜率天は、 そうではない。 守護せられているのは、 大勢の人が一緒に旅をすると、 強盗が迫ってきても恐れないようなものであり、 守護せられないのは、 ただ一人で嶮しい小路を旅していると、 きっと乱暴者に犯されるのに似ている。 ^四つには、 舌をさしのべたもうことについての異。 すなわち、 十方の仏がたは舌をさしのべて阿弥陀仏の浄土を証明せられているけれども、 兜率についてはそうではない。 ^五つには、 聖たちについての異。 すなわち、 じゅ菩薩とか山海さんかい菩薩とかの聖たちが広大な請願を発して、 「もし一衆生でも西方浄土に生まれることが済まぬうちには、 自分がそれよりさきに往くならば、 仏のさとりは取るまい」 と述べられたことである。 ^六つには、 滅罪の多少。 これは前にあげたとおりである。 ^七つには、 重い罪悪についての異。 すなわち、 五逆罪を犯したものも西方浄土に往生することができるけれども、 兜率についてはそうではない。 ^八つには、 経に説かれたことの異。 すなわち ¬無量寿経¼ に、 「ただちに五悪趣をたちきって、 悪趣は自然に閉ざされ、 仏道に進むことは窮まりがない。 浄土へは往生しやすいのに、 往生する人はない」 と仰せられている。 兜率については、 そうではない。 ^十五の同の義からいっても、 浄土は往生し難いと説くべきでない。 まして、 異の義には八つもある。 それなのに、 浄土に往生し難いと言っていいだろうか。 なにとぞ仏道を学ぶ人たちよ。 道理と経文とを尋ねて、 どちらが難しいか易しいかをよく見分け、 その不審をすっかり取り除くべきである。 以上は抜き書きした。 ただし、 十五の同の義は、 かの論を見るがよい。

 ^問う。 玄奘三蔵の伝えた事については、 なんとか解釈せねばならぬではないか。

 ^答える。 印度地方の行法には暗いから、 決め難いけれども、 今、 試みに解釈を施してみよう。 印度地方の行者は、 小乗を学ぶ者が多い。 伝えるところに依ると、 十五の国は大乗を学び、 十五の国は大乗と小乗とをあわせて学び、 四十一の国は小乗を学ぶということである。 兜率天に上生することは、 大乗も小乗も共にこれを認めるが、 他方の浄土に往生することは、 大乗では認めても、 小乗では認めない。 印度地方では、 大乗も小乗も共に認めるので、 みな兜率に生まれることを述べたものであろうか。 *りゅうから東の地方は、 大乗仏教が盛んに興っているから、 印度地方の混雑した修行と同じようにみなすべきではない。 まして、 仏教諸宗の興隆は、 なにも同一時代というわけではない。 とりわけ、 念仏の教えは、 末代、 一般仏教がなくなった後の、 罪にけがれた人々を多く利益するものである。 考えてみると、 玄奘三蔵の時代には、 印度ではまだ念仏の教えは盛んでなかったのであろうか。 もし、 そうでなければ、 玄奘三蔵の高弟である慈恩大師が、 どうして特別に ¬西方要決¼ を著作し、 十の勝劣を挙げて自分も西方を願い、 人にも往生を勧めるであろうか。

 ^問う。 ¬心地観経¼ に説かれている。

わたしは、 現在の弟子を弥勒に託する。 *りゅうの説法の間に、 解脱さとりを得るであろう。

この経から見ると、 釈迦如来は兜率天を勧めたもうのではないか。

 ^答える。 この経文があっても、 相違することはない。 誰とても ¬弥勒上生経¼・¬心地観経¼ などの二・三の経文を否定はしない。 けれども、 極楽を勧める文が、 顕教や密教に何千とあることには及ばない。 ^また、 ¬大悲経¼ の第三巻に説かれている。

将来の末世に法がなくなろうとするとき、 比丘・比丘尼があって、 わが仏法に入って出家した者が、 手に子供のひじをひき、 一緒に遊んで酒屋から酒屋へと行き、 仏法の中に入りながら、 よくない行いをするであろう。 (中略) ただ身分は*沙門しゃもんとなりながら沙門の行を汚し、 しかもみずから沙門と称し、 かたちは沙門のよそおいをして身に袈裟を着けるであろう。 そういうものはこの*賢劫げんごう中において、 弥勒をはじめとして最後の盧至るし如来に至るまでの間に、 それらの沙門たちは、 これらの仏のみもとで次第に*無余むよはんに入り、 一人も残るものはないであろう。 なぜかというと、 このようなすべての沙門の中で、 わずか一たびでも仏名を称え、 一たび信を生じたものは、 そのなした功徳が、 結局むなしくならないからである。

^¬心地観経¼ の意味も、 この ¬大悲経¼ と同じことである。 それ故、 かの ¬心地観経¼ には、 龍華とはいっても、 兜率とはいわないのである。

 ^今、 これを考えてみると、 釈尊がおかくれになってから弥勒菩薩のお出ましになるまで、 五十七億六十百千年も隔たっている。 新訳の ¬*しゃろん¼ の意味による。 その間、 輪廻まよいを続ける苦しみはどれほどであろうか。 どうして臨終のゆうべに、 すぐさま蓮台に乗って往生することを願わないで、 悠々とした生死の世界に留まって、 龍華会を待つことがあろうか。 まして、 もしたまたま極楽に往生することができた者は、 昼夜、 思いのままに兜率の宮殿に往来し、 かくて、 龍華会の際には、 新たに聴衆の頭となるので、 ちょうど富貴の身になって故郷に帰るようなものである。 誰かこのことを願わないものがあろうか。 もし、 特別の因縁があるならば、 西方以外を願うのもかろう。 だいたい各自ののぞみに任すべきである。 まちがった執着をおこしてはならぬ。 ^それゆえ懐感法師がいう。

兜率を求める者は西方の行者を非難してはならぬ。 西方浄土に往生しようと願う者は、 兜率天に生まれる修行を悪くいってはならぬ。 それぞれ自分の性分に随い、 気持に任せて修学すべきである。 お互いに非難しあってはいけない。 そんなことでは、 ただ、 勝れた世界に生まれないだけではなく、 かえって、 また三途を経めぐることとなるであろう。

【35】^大文第四に正修念仏とは、 これにまた五つある。 世親菩薩の ¬浄土論¼ にいわれているとおりである。

五念門の行を修めて、 それが成就すれば、 ついに安楽浄土に往生して、 かの阿弥陀如来を見たてまつることができる。 一つには礼拝門、 二つには讃嘆門、 三つには作願門、 四つには観察門、 五つには回向門である。

^この中で、 作願門と回向門との二つは、 いろいろの修行の場合にこれを通じて用いることができる。

【36】^はじめに*礼拝らいはいもんとは、 すなわち*三業さんごう (しん口意くい) がよくそろったところの身体でする行業である。 一心に帰命して全身を地に投げ、 はるかに西方の阿弥陀仏を礼拝したてまつって、 その多少を論ぜず、 ただ誠心で行なうのである。 ^あるいは、 ¬観仏三昧経¼ の文を念ずべきである。

わたしが、 今、 一仏を礼したてまつるのは、 すなわちすべての仏を礼したてまつることである。 もし、 一仏を思いたてまつれば、 すなわちすべての仏を見たてまつることとなるのである。 一々の仏のおん前に、 一人の行者があって、 仏の御足に触れて礼拝をするのは、 そのままみなわが身なのである。 わたくしにいう。 「すべての仏」 というのは阿弥陀仏の分身であり、 あるいは十方にましますすべての諸仏である。

^あるいは、 次のように念ずるがよい。

礼拝する者も 礼拝せられる者も その本性は空であり 自身も他身もその体に二つはない

願わくは人々と共に仏道を体得し 無上菩提の心をおこして真如に至りたい

^あるいは、 ¬心地観経¼ の六種の功徳に依るべきである。

仏は、 一つには無上の大功徳を生ずる田地である。 二つには、 無上の大恩徳を恵んでくださるかたである。 三つには、 生きとし生けるものの中で最も尊いかたである。 四つには、 *どんのようにきわめていがたいかたである。 五つには、 三千大千世界にただひとり出られるかたである。 六つには、 世間と出世間の功徳をまどかにそなえたかたで、 あらゆる事柄の依りどころである。 仏はこれらの六種の功徳によって、 常によく一切衆生を利益されるのである。

^この経文は、 きわめて簡略である。 いま言葉を添えたして、 礼拝の作法にしよう。

 ^一つには、 仏を念ずべきである。

一声念仏すれば みなすでにさとりを開くべき身となる

故に無上の功徳を生ずる田地たる阿弥陀仏を わたしは信じ礼拝したてまつる

 ^二つには、 仏を念ずべきである。

仏は慈悲の眼をもって衆生を見られることが 平等であってひとり子に対するようである

故に広大な慈悲の母である阿弥陀仏を わたしは信じ礼拝したてまつる

 ^三つには、 仏を念ずべきである。

十方のすぐれた菩薩たちも 阿弥陀仏を恭敬される

故にこの上なく尊い阿弥陀仏を わたしは信じ礼拝したてまつる

 ^四つには、 仏を念ずべきである。

一たびでも仏のみ名を聞き得ることは 優曇華の花咲くのに遇うよりも稀である

故にきわめて遇いがたい阿弥陀仏を わたしは信じ礼拝したてまつる

 ^五つには、 仏を念ずべきである。

仏は大千世界に 二仏とならんで出たもうことはない

故にたぐいのないこの大法王を わたしは信じ礼拝したてまつる

 ^六つには、 仏を念ずべきである。

仏法僧の三宝は 三世に通じてその体が一つである

故に よろずの徳をまどかにそなえた阿弥陀仏を わたしは信じ礼拝したてまつる

 ^もし、 広く礼拝を行ずることを願うならば、 龍樹菩薩の ¬十二礼¼ に依るべきである。 また*善導ぜんどう和尚の ¬*おうじょう礼讃らいさん¼ がある。 それらを一々ここに出すことはできない。

 ^たとい他の行がなくても、 ただ礼拝だけに依っても、 また往生することができる。 ¬*かんくうぞうさつぶつみょうきょう¼ に説かれてあるとおりである。

阿弥陀仏を、 心からきょうらいすれば、 三悪道を離れ、 後には、 阿弥陀仏の浄土に生まれることができる。

【37】^第二に*讃嘆さんだんもんというのは、 三業がそろったところの口でなす行業である。 ¬十住毘婆娑論¼ の第三 (易行品) にいわれているとおりである。

阿弥陀仏の本願は、 このとおりである。 「もし人あって、 わたしを念じて名を称え帰依すれば、 そのとき必定 (*正定しょうじょうじゅ) に入って、 ついに無上仏果を得る」 と。 こういうわけであるから常に憶念すべきである。

^偈をもって、 阿弥陀仏をほめたたえよう。

はかりない智慧の光明に かがやくおん身は黄金の山のよう

わたしはいま身口意をもって 合掌し ぬかずき礼拝したてまつる

十方の世界に現にまします仏たちは いろいろないわれを説いて

かの仏の功徳をほめていられる わたしは今帰命し礼したてまつる

仏のみ足には千輻輪の相があり 柔らかで蓮華の色がある

見る者は みな歓喜する ぬかずいて仏足を礼したてまつる

眉間の白毫の光は あたかも浄らかな月のようで

お顔の輝きを増す ぬかずいて仏足を礼したてまつる

かの仏の御説法は すべての罪根を除かれる

仏のよきお言葉は利益する所が多い わたしは今ぬかずき礼したてまつる

すべての賢聖たち および多くの人天たちは

みなともに帰命される それゆえわたしもまた礼したてまつる

かの*八道はちどうふねをもって よくこえがたい迷いの世界を済度する

みずから仏となりあらゆる人を救われる わたしは自在力の仏を礼したてまつる

多くの仏たちが量り知られぬながい年時とき かの仏の功徳をほめたたえても

なお ほめ尽くすことはできぬ 清浄な徳を具えた仏を帰命したてまつる

わたしも今このように かの仏のはかりない徳をほめたてまつる

この福徳の因縁をもって 願わくはみ仏よ 常にわたしを護念せられることを

この福徳の因縁をもって 獲たところの尊い功徳を

願わくは すべての衆生のたぐいにも みなまたことごとく得させたい

 ^かの論 (易行品) には三十二のうたがある。 今は略してその要文をぬき出したのである。 詳しくは別の抜き書きに示してある。

 ^あるいは、 また、 ¬浄土論¼ の偈、 真言密教の ¬仏讃¼ や、 阿弥陀仏についての ¬別讃¼ がある。 これらの文を、 一返でも何返でも、 また一行でも多くの行でも、 ただ心をこめて讃嘆すべきで、 その多少は論ぜずともよい。 たとい他の行はなくて、 ただ讃嘆だけに依っても、 またその願いのままに、 必ず、 往生することができるであろう。 ^¬法華経¼ の偈に説かれているとおりである。

あるいは喜びの心から 仏の徳を歌いめると

たとい小さな一声でも みな すでに仏道を成ずる

 ^わずか一声でもこのとおりである。 まして、 常に讃めたたえるならば、 なおさらのことであり、 仏果でさえも成ずるという。 まして、 往生を得ることはなおさらである。 真言の讃仏は、 その利益がはなはだ深いが、 秘密の法であるから、 あらわに説き明かすことはできない。

【38】^第三に*がんもんとは、 以下の三門 (作願・観察・回向) は、 三業がそろったこころの行業である。 ^*どうしゃくぜんの ¬*安楽あんらくしゅう¼ にいわれている。

¬大経¼ に説かれている。 「すべて、 弥陀の浄土に往生を願うものは、 必ず菩提心を起こすことを根源とする。」 菩提とはどういうことかというと、 これは無上仏果の名である。 もし菩提心をおこして成仏しようと思うならば、 この心は広大であって十方*法界ほうかいにゆきわたり、 この心は未来とこしえに通じて滅びず、 この心はあまねくつぶさに声聞・縁覚のような二乗に堕する障りを離れる。 もしよく一たびこの心を起こすならば、 無始よりこのかたの三界の迷いを離れる。 ¬浄土論¼ (*ろんちゅう) にいわれている。 「発菩提心というのは、 まさしく自分の成仏を願う心である。 自分の成仏を願う心は、 そのままが、 衆生を済度する心である。 衆生を済度する心は、 そのままが衆生を摂めて、 仏のまします浄土に往生させる心である。 今すでに浄土に往生しようと願うのであるから、 まず菩提心をおこさねばならぬ。」

 ^菩提心が浄土の菩提に至る肝要であることを知るべきである。 それゆえ、 しばらく三門を設けて、 その意義を明らかにしよう。 行者よ、 煩雑を厭うてはならぬ。 一つには菩提心の行相を明かし、 二つには利益を明かし、 三つには総じて料簡する。

【39】^初めに菩提心の行相とは、 総じていうと、 仏に成ることを願う心である。 また、 かみは菩提を求め、 しもは衆生を*やくする心とも名づける。 ^これを分けていうと*四弘しぐ誓願ぜいがんである。 これに二種ある。 一には、 (形あるもの) を対象とする四弘誓願である。 これは衆生を対象とするいつくしみであり、 あるいはまた、 ものを対象とする慈である。 二つには (真如の理) を対象とする四弘誓願であり、 これは空無を対象とする慈悲である。

 ^事を対象とする四弘誓願というのは、

^一つには、 はてしなき衆生を誓って済度しようと願う心である。 まさに次のように念ずべきである。 ª一切の衆生には、 ことごとく*ぶっしょうがある。 わたしはみな無余涅槃さとりに入らせようº と。 この心は有情を利益しめぐむ戒であり、 また衆生に恩を施す徳であり、 また縁因仏性であり、 *応身おうじん菩提さとりの因である。

^二つには、 はてしなき煩悩を誓って断ち切ろうと願う心である。 これは律儀おきてを摂める戒であり、 また煩悩を断ずる徳であり、 また正因仏性であり、 *法身ほっしん菩提さとりの因である。

^三つには尽きることなき法門を誓って知ろうと願う心である。 これは善法を摂める戒であり、 また法門を知る智徳であり、 また了因仏性であり、 *報身ほうじんの菩提の因である。

^四つには無上の菩提を誓ってさとりたいと願う心である。 これは仏果菩提を願い求めるのである。 すなわち、 前の三つの行願がそろうことに依って、 法・報・応の三身が円満にそなわった菩提を得んとする心であり、 また広くすべての衆生を救おうと願う心である。

 ^二つに、 理を対象とする願というのは、 あらゆる諸法ものは、 本来寂静であって、 有でもなく無でもない、 常でもなく断でもない、 生ぜず滅せず、 けがれもせず浄くもない。 一つの色、 一つの香も中道でないものはない。 生死はそのまま涅槃であり、 煩悩はそのまま菩提である。 一々の塵労 (煩悩) の門をひるがえせば、 そのまま八万四千の諸波羅蜜 (さとりの道) である。 無明が変じて智明となるのは、 氷を融かして水にするようなものである。 決して程遠いものではなく、 余処よそから来るものでもない。 ただ一念の心に、 あまねくみなそなわっていることは、 如意宝珠のようである。 宝があるのでもなく、 宝がないのでもない。 もし無いというならば、 それは妄語である。 もし有るというならば、 それは邪見である。 心で知ることができず、 言葉で述べることもできない。 人々は、 この不思議・不縛の法の中で、 妄想を起こして自身を縛り、 無脱の法の中で解脱を求める。 この故にあまねく*法界ほうかいのすべての衆生に、 大いなる慈悲を起こし、 四弘誓願を興すのである。 これを ª理に順う発心º と名づける。 これは最上の菩提心である。 ¬摩訶止観¼ の第一巻を見るがよい。

 ^また ¬*やくきょう¼ に説かれている。

一切の法は法でないと知り、 一切の衆生は衆生でないと知る。 これを ª菩薩が無上菩提の心をおこすº と名づける。

^また ¬*しょうごん提心だいしんぎょう¼ に説かれている。

菩提心とは、 有るものでもなく、 造るのでもなく、 文字を離れている。 菩提というのはしんであり、 しんというのは衆生である。 もし、 このようにさとることができるならば、 これを ª菩薩が菩提心を修するº と名づける。 菩提は、 過去・未来・現在ではない。 このように心と衆生もまた過去・未来・現在ではないのである。 よくこのように解るのを名づけて ª菩薩º とする。 しかも、 この中で実に得るところはない。 得るところがないから、 得るのである。 もし、 すべてのものにおいて得るところがないならば、 これを ª菩提を得るº と名づける。 修行をし始めた衆生のために 「菩提がある」 と説くのである。 (中略) しかも、 この中においても、 また心が有ることもなく、 心を造る者もない。 また菩提もあることなく、 菩提を造る者もない。 また衆生があることもなく、 衆生を造る者もない。 なお、 いろいろと述べられている。

 ^この二つ (縁事・縁理) の四弘誓願に、 それぞれ二つの義がある。 ^一つにいう。 初めの二願は衆生の苦 (迷いの果)じゅう (迷いの因) との二諦の苦を抜き、 後の二願は衆生に道 (さとりの因) と滅 (さとりの果) との二諦の楽を与える。 ^二つにいう。 初めの一願は他の者につき、 後の三願は自分につく。 すなわち、 衆生の二諦の苦を抜いて、 衆生に二諦の楽を与えることは、 総じて、 初めの願の中にある。 この願を究め尽くして円満しようと望むから、 さらに自身について後の三願をおこすのである。 ^¬大般若経¼ に説かれているとおりである。

有情ひとびとを利益するために大菩提を求めるから菩薩と名づける。 しかも菩提に執着しないから摩訶薩 (大菩薩) と名づける。

^また、 前の三願は因であって、 これは別である。 第四の願は果であって、 これは総である。

^四弘誓願を称え終った後は、 「自他法界同じく利益し、 共に極楽に生まれて仏道を成じよう」 というべきである。 ^心の中には 「自分と衆生と共に極楽に生まれて、 前の四弘誓願を円満し窮め尽くそう」 と念ずべきである。 ^もし別願があるならば、 四弘誓願の前に、 これを唱えよ。 もし心が不浄ならば、 正しい道の因ではない。 もし心に限りがあるならば、 大菩提ではない。 もし至誠まことがなければ、 その力は強くない。 それ故、 かならず清らかで深く広い誠の心を起こすべきである。 他の者にまさろうとしたり、 名誉利欲などのことのためにしてはならぬ。 そして、 仏眼の照らし見られるところのあらゆる世界のあらゆる衆生、 あらゆる煩悩、 あらゆる法門、 あらゆる仏徳においてこの四種の願行を発すべきである。

 ^問う。 どの法の中において、 無上のさとりを求めるのか。

 ^答える。 これには利根のものと鈍根のものとの二種の差別がある。 ^¬大智度論¼ にいわれているとおりである。

黄石の中には金の性があり、 白石の中には銀の性があるようなものである。 このように、 すべての世間の法の中には、 みな涅槃の性がある。 諸仏や賢聖がたは、 智慧・方便・持戒・禅定をもって導き、 この涅槃の法性を得させてくださる。 利根の者は、 すぐさま 「この諸法はみな法性である」 と知る。 たとえば、 神通ある人が、 瓦や石をみな黄金に変えることのできるようなものである。 鈍根の者は、 いろいろ分別してこれを求め、 そこで法性を得る。 たとえば、 きん師が石をって、 そうして後に黄金を得るようなものである。

^また、 いわれている。

苦行*頭陀ずだし、 初夜・中夜・後夜に、 心をはげまして座禅観察し、 苦しんで仏道さとりを得るのは声聞の教えである。 諸法のすがたは、 縛もなく解もないのだと観じて、 心が清浄になるのは菩薩の教えである。 文殊菩薩の過去の因縁のようである。

^すなわち ¬*諸法しょほうぎょうきょう¼ のこん菩薩の偈を引いていわれてある。 (¬大智度論¼ 第六巻)

淫欲はそのままさとりの道であり 瞋恚も愚痴もまたそのとおりである

このような三事の中に 無量の諸仏の道がある

もし人あって 淫欲や瞋恚・愚痴と道とを区別すれば

この人は仏道を去ること遠く たとえば天と地とのようである

このように、 七十あまりの偈がある。 ^また、 同じ論にいわれている。 (大智度論)

一切法が不可得なのを仏道と名づける。 すなわち諸法の実相である。 この不可得もまた不可得である。 抜き書きした。

^また迦葉菩薩が仏に申しあげていう。 (¬涅槃経¼ 第三巻)

一切の諸法の中に ことごとく安楽さとりの性がある

どうか世尊よ わがために分別してお説きください

^また ¬大般若経¼ に説かれている。

すべての生あるものは、 みな*如来にょらいぞうである。 普賢菩薩の自体が遍満しているから。

^¬*ほっきょう¼ に説かれている。

諸仏はむさぼりいかりとに依って 道場に処したもう

塵労 (煩悩) は諸仏の種であり 本来動くことはない

五蓋と五欲とを 諸仏の種性とする

常にこれをもって荘厳かざりとし 本来動くことはない

諸法はもとより 是もなく また非もない

是・非の性は寂滅であって 本来動くことはない 以上の六文は、 利根の人の菩提心についてのことである。

 ^問う。 煩悩と菩提とが、 もしものがらが一つならば、 ただこころのままに煩悩を起こしてもよいのか。

 ^答える。 このような見解を起こすものを ª空の意味を誤解する者º と名づける。 全く仏弟子ではない。 今、 反問していおう。 そなたがもし、 煩悩そのまま菩提であるからといって、 このんで煩悩悪業を起こすならば、 また生死そのまま涅槃であるから、 このんで生死まよいのはげしい苦しみを受けるであろう。 どういうわけで、 ほんの短い間の苦しみでも、 なお堪え難いと厭い、 永劫の苦しみをうける因においては、 ほしいままに作ることをこのむのか。 こういうわけであるから、 次のように知るがよい。 煩悩と菩提とは、 体は同一であるけれども、 時とはたらきが異なっているから、 汚れたものと浄らかなものとの不同がある。 水と氷とのようであり、 また種子と果実とのようである。 そのものがらは同一であるけれども、 時にしたがって、 そのはたらきが異なるのである。 こういうわけで、 道を修める者は、 本来もっている仏性を顕わすけれども、 仏道を修めない者は、 ついにこの道理を顕わすことはないのである。 ^¬涅槃経¼ の第三十二巻に説かれているとおりである。

善男子よ、 もし人あって、 「この種子の中には、 果実があるのか、 果実がないのか」 と問うならば、 「あるともいえるし、 ないともいえる」 とはっきり答えるがよい。 なぜかというと、 種子を離れて、 そのほかに果実を生ずることはできないから、 それゆえ 「ある」 という。 しかし種子がまだ芽を出さないから、 それゆえ 「ない」 という。 こういうわけであるから、 「あるともいえるし、 ないともいえる」 というのである。 どういうわけかというと、 時節は異なるけれども、 その体は一つだからである。 衆生の仏性も、 またこのとおりである。 もし、 衆生の中に、 別に仏性があるというならば、 この義はそうではない。 なぜかというと、 衆生すなわち仏性であり、 仏性はすなわち衆生である。 ただ時節が異なるをもって、 浄と不浄との別があるからである。 善男子よ、 もし、 「この種子はよく果実を生ずるかどうか。 この果実はよく種子を生ずるかどうか」 と問うものがあるなら、 あきらかに答えて 「生ずるのでもあり、 生じないのでもある」 というべきである。

 ^問う。 凡夫は、 勤修することに堪えられぬのに、 どうしてむなしく四弘誓願をおこすのか。

 ^答える。 たとい勤修することに堪えられなくても、 やはり慈悲の願をおこすべきである。 その利益の無量なことは、 前後に明かすとおりである。 *だいだっは六万蔵の経をんだが、 それでも地獄をまぬかれなかった。 どうは一念の悲願をおこして、 たちまち兜率天に生まれることができた。 これで、 のぼりしずみの別は、 心にあって、 行にあるのでないことが知られる。 まして誰か一生の間に、 一度も 「南無仏」 と称えず、 一じきをも人々に施さないものがあろうか。 よろしく、 これらのわずかの善根をも、 みな四弘誓願の行に摂り入れるべきである。 そこで、 行と願とが相応して、 虚妄の願とはならないのである。 ^¬*優婆うばそくかいきょう¼ の第一巻に説かれているとおりである。

もし人が一心に生死の過咎あやまち、 涅槃の安楽たのしさを観察することができないならば、 このような人は、 たとい布施・持戒・多聞であっても、 ついに解脱分さとりの法を得ることはできないであろう。 もし、 よく生死の過咎を厭い、 深く涅槃の功徳と安楽とを見るならば、 このような人は、 たとい施しすることが少なく、 戒をたもつことが少なく、 聞くことが少なくても、 よく解脱分さとりの法を得るであろう。 以上。 無量の世に無量の財をもって無量の人に施し、 無量の仏のみもとで禁戒を受持し、 無量の世に無量の仏のみもとで*じゅう二部にぶきょうを受持し読誦するのを、 名づけて 「多施・多戒・多聞」 とする。 一にぎりの小麦粉を一人の乞食に施し、 一日一夜八戒を受持し、 四句の偈を一偈読むのを、 「少施・少戒・少聞」 と名づける。 経に広く説いてあるとおりである。

 ^こういうわけで、 行者が事々につけて心を用いるならば、 たとい一善でも空しく過ぎるものはないのである。 ^¬大般若経¼ に説かれているとおりである。

もし菩薩たちが、 深い智慧から方便善巧を行ずるならば、 一心一行も空しく過ぎて、 *一切いっさいに回向しないものはない。

 ^問う。 どのように心を用いるのか。

 ^答える。 ¬宝積経¼ の第九十三巻に説かれているとおりである。

食物を求めるものには食物を施せ。 それは一切智の力をそなえるためである。 飲物を求めるものには飲物を施せ。 それは渇愛の力を断ちきるためである。 衣服を求めるものには衣服を施せ。 それはこの上もない慚愧の衣服を得るためである。 坐る処を施すのは菩提樹の下に坐るためであり、 灯明を施すのは仏眼の智明を得るためであり、 紙墨などを施すのは大きな智慧を得るためであり、 薬を施すのは衆生の煩悩の病を除くためである。 このようにして、 もし自分に財がないならば、 心の施しをするがよい。 無量無辺のすべての衆生を導きたいと思うならば、 力があっても力がなくても、 上に述べたように布施せよ。 これが、 自分の善い行である。 以上。 経の文ははなはだ広いが今はこれを略して抜き書きした。 経文を見るがよい。

 ^このように事々につれて、 常に心の願いをおこせ。 「願わくは、 この衆生に速やかに無上道を成じさせよう。 願わくは、 わたしは、 このようにして次第に第一の願行を成就し、 布施の行を円満して速やかに菩提をさとり、 広く衆生を済度しよう」 と。 一つの愛語を発し、 一つの利行を施し、 一つの善事に同心するのも、 これに準じて知るべきである。 ^もし、 しばらくでも一念の悪を制伏する時には、 次のような思いをすべきである。 「願わくは、 わたしは、 このようにして次第に第二の願行を成就し、 多くの惑業を断ちきって速やかに菩提をさとり、 広く衆生を済度したい。」 ^もし、 一文・一義でも読誦し修習する時には、 次のような思いをすべきである。 「願わくは、 わたしは、 このようにして次第に第三の願行を成就し、 多くの仏法を学んで速やかに菩提をさとり、 広く衆生を済度したい。」 ^すべての事にふれて、 常に次のように心を用いよ。 「わたしは、 現在の身から次第に学を修め、 そうして極楽に生まれて自在に仏道を学び、 速やかに菩提をさとり、 ついに衆生を利益しよう。」 ^もし、 常にこの念をいだき、 力に応じて修行すれば、 水の滴りはわずかでも次第に大きな器に満ちるように、 この心は、 よく大小のよろずの善をたもって漏れさせず、 かならず菩提に至るのである。 ^¬華厳経¼ の入法界品に説かれているとおりである。

たとえば、 金剛が、 よく大地をたもって落ちさせないようなものである。 菩提心もまたこのように、 よく菩薩のすべての願行をよく持って、 三界に落とさせないのである。

 ^問う。 凡夫は常に心を用いるということに堪えないから、 その時の善根は無駄になるであろうか。

 ^答える。 もし至誠まことしんこころに念じて、 口に 「わたくしは今日から、 たとい一善でも、 自身の*有漏うろの果報のためにはせず、 ことごとく極楽のため菩提のためにしよう」 というならば、 この心をおこした後には、 あらゆる諸善は知っても知らなくても自然に無上菩提に趣き向かうのである。 ちょうど、 一度溝を掘れば、 すべての水が自然に流れ込んで順次に大きな河に至り、 ついに大海に集まるようなものである。 行者もまたそのとおりで、 一度発心した後には、 すべての善根の水が、 自然に四弘誓願の溝に流れこんで、 次第して極楽に生まれ、 ついに菩提さとりの一切智の海に集まるのである。 ましてその時その時に、 前におこした願を憶念するのであるから、 なおさらである。 詳しくは、 しもの回向門に述べるとおりである。

 ^問う。 凡夫は力がないから、 財を施し捨てようとしてもなかなか捨てることがむずかしく、 あるいはまた貧乏である。 どういう方便てだてによって、 自分の心を理に順わせたらよかろうか。

 ^答える。 ¬宝積経¼ に説かれている。

このように布施するとして、 もし力がなくてこれを学ぶことができず、 財を施し捨てることができなければ、 この菩薩は次のように思惟すべきである。 「わたしは今、 努力に努力をかさねて、 次第に、 慳貪むさぼり恡惜おしみの垢を断ち除こう。 わたしは、 努力に努力をかさねて次第に財を捨てて施し与えることを学び、 常に自分の布施の心を増長し広大ならしめよう」 と。

 ^また ¬*いんきょう¼ の偈に説かれている。

もし貧しい人があって 布施すべき財がなければ

他人が布施をするのを見たときに ともに喜ぶ心を起こせ

ともに喜ぶことのよいむくいは 布施するのと同様で変わりがない

^¬十住毘婆娑論¼ の偈にいわれている。

わたしはいま新たに道を学ぶもので 善根はまだ成就せず

心もまだ自在を得ぬが 願わくは後にきっと布施しよう

^行者は、 まさに、 このように心を用いるべきである。

 ^問う。 この中で、 理を対象として菩提心をおこしても、 また因果を信じて、 勤めて道を修行すべきであろうか。

 ^答える。 道理としては、 かならずそうあるべきである。 ^¬*ゆいぎょう¼ に説かれているとおりである。

諸仏の国とその衆生との 空であることを観じても

しかも常に浄土を建立することにつとめ また多くの人たちを教え導く

^¬*ちゅうろん¼ の偈にいわれている。

空であるといってもまた断えず 有であるといってもまた常ではない

業とその果報むくいが失わないのを これを仏の説かれたものという

^また ¬大智度論¼ にいわれている。

もし、 諸法がみな空ならば、 衆生もなく、 誰か済度すべきものがあろうか。 こういう時は、 慈悲の心が弱い。 あるいは、 時に人々のあわれむべきことを心にかけると、 諸法の空を観ずることが弱い。 もし方便力を得るならば、 この二つの事において平等であって偏ることはないであろう。 大悲心は、 諸法の実相を妨げず、 諸法の実相を得ても、 大悲心を妨げない。 このような方便を生ずるその時、 菩薩の法位くらいに入って、 不退の地位に住することができる。 抜き書きした。

 ^問う。 もし偏った見解を起こしたならば、 その過ちはどのようであるか。

 ^答える。 ¬*じょうきょう¼ の上巻に偏った空観を明かしていわれている。

もし人あって、 実我の見解にらわれることが須弥山のように大きくあろうとも、 わたしは驚き怖れず、 また非難もしない。 しかし、 ぞうじょうまん (おごりたかぶる) の人が空見に執着することが、 一本の髪の毛を十六すじに分けたほどわずかであっても、 わたしは許さない。

 ^また ¬中論¼ の第二巻の偈に説かれている。

大聖世尊が空のみ法を説かれるのは いろいろの見解を離れさせるためである

もしまた空があると考えるならば それは諸仏の教えられないところである

^¬*仏蔵ぶつぞうきょう¼ の念僧品に、 有所得の執着を破して説かれている。

有所得の者は、 我・人・寿者・命者などがあると説き、 無所有 (空)ものがらを憶念し分別して、 あるいは断とか常とか説き、 あるいは有作 (造作がある) と説き、 あるいは無作 (造作がない) と説くのである。 わたしの清浄の法は、 この因縁によって次第に滅し尽きるであろう。 わたしが、 長いあいだ生死まよいにあって、 多くの苦悩くるしみを受けて、 成就した菩提さとりの法を、 この悪人たちが、 その時に破壊するであろう。 抜き書きした。

^また、 同経の浄戒品 (浄法品) に説かれている。

我があるという見解、 人があるという見解、 衆生があるという見解をもつ者は、 多くは邪見に堕ちるが、 すべてのものは断滅 (空) であるという見解をもつ者は、 多くは早く仏道を得ることができる。 何故かといえば、 これは捨て易いからである。 そういうわけであるから、 この人は、 むしろ自分で鋭い刀をもって舌を割いたとしても、 人々の中で不浄説法をしてはならないと知るべきである。 有所得の執着を不浄と名づける。

^¬大智度論¼ に、 空・有の二つの執らわれた見解の過ちを並べ明かしていわれてある。

たとえば、 人が狭い道を歩いて行くのに、 一方は深い水であり、 一方は烈しい火であって、 どちらに落ちても死ぬようなものである。 有に執着するのも無に執着するのも、 この二つの事はともにまちがっている。

^こういうわけであるから、 行者は、 諸法が本来空寂であることをいつも観じ、 また、 いつも四弘誓願の行を修行せよ。 空間と土地とに依って家を造るので、 土地だけや空間だけでは、 結局家を造ることができないようなものである。 これは、 諸法の三諦 (空仮中) が相即するのによるのである。 ^それゆえ、 ¬中論¼ の偈にいわれている。

因縁によって生ずるものは そのままが空であると わたしは説く

また名づけて仮名とし またこれがそのまま中道の義である

^さらに、 ¬摩訶止観¼ をしらべよ。

 ^問う。 有に執らわれる見解は、 その罪過がすでに重いとすれば、 事を対象とする菩提心には、 どうして勝れた利益があろうか。

 ^答える。 有の見解に堅く執らわれる時に、 過ちが生ずるのである。 いうところの事を対象とするとは、 かならずしも有を堅く執ずるのではない。 もしそうでなければ、 有を見てさとりを得る者はないことになるであろう。 空を見ることも、 また同様である。 たとえば、 火を用いるのに、 手が触れると害をするが、 触れなければ益があるようなものである。 空と有についても、 またそのとおりである。

【40】^第二に菩提心の利益を明かすとは、 もし人が教えのとおり菩提心を起こしたならば、 たとい、 その他の行を欠いても、 願いのままにまちがいなく極楽に往生するであろう。 ¬観無量寿経¼ に説かれてある*じょうぼんしょうの類のようなのがこれである。 このような利益は無量であるが、 今は略して、 その一端を示そう。

^¬摩訶止観¼ にいわれてある。

¬*ほうりょうきょう¼ に説かれている。 「¬比丘であって比丘の法を修めないならば、 この広い大千世界に唾を吐くことを許される所もない。 まして人の供養を受けることができようか¼ と仏が仰せられた。 そこで六十人の比丘たちが、 悲しみ泣いて仏に申しあげるには、 ¬わたくしたちはこのまますぐに死んでも、 人の供養を受けることはできますまい。¼

仏が仰せられる。 ¬そなたたちは慚愧の心を起こした。 まことによいことである。¼

一人の比丘が仏に申しあげる。 ¬どのような比丘が、 供養を受けられましょうか。¼

仏が仰せられる。 ¬もし、 比丘のなかまに入って、 僧の行業を修め、 僧の利益を得たものは、 この人はよく供養を受けることができる。 四果四向が僧のなかまであり、 *さんじゅう七品しちほんが僧の行業であり、 *四果しかが僧の利益である。¼

比丘が重ねて仏に申しあげる。 ¬もし大乗の心 (菩提心) を発す者は、 またどうでありましょうか。¼

仏が仰せられる。 ¬もし大乗の心を発して、 一切智を求めるものは、 四果四向の数に入らず、 行業を修めず、 利益を得ないでも、 よく供養を受けることができる。¼

比丘が驚いておたずねするには、 ¬どうして、 この人が供養を受けることができるのですか。¼

仏が仰せられる。 ¬この人は、 きぬを受けて、 それを大地に敷きつめ、 握り飯を受けることが須弥山のように多くても、 またよく、 ついに施主の恩に報いるであろう¼ と。」

小乗の極果は、 大乗の初心に及ばないことを、 これで知るべきである。 以上は、 信の上からの布施を受けることのできる利益なのである。

^また、 いわれてある。 (摩訶止観)

¬*如来にょらい密蔵みつぞうきょう¼ に説かれてある。 「もし人あって、 縁覚となった父を殺し、 三宝の物を盗み、 阿羅漢となった母を汚し、 事実でないことをもって仏を謗り、 二枚舌を使って賢聖がたの仲をうとくさせ、 *あっして聖人を罵り、 仏法を求める者を乱し、 五逆罪の最初の業に相応する瞋恚と、 持戒の人の物を奪う貪欲と、 辺見の愚痴とがあるとする。 これを十悪の者と名づける。 もしよく、 如来が、 因縁の法は我も人も衆生も寿命もなく、 生もなければ滅もなく、 染もなければ着もなく、 本性清浄であると説きたもうことを知り、 また、 一切のものにおいて本性清浄であると知って、 これをよく理解し信じて受け入れる者については、 わたしはこの人が地獄およびいろいろの悪道の果に趣くとは説かない。 なぜかといえば、 法にはつみかさねはなく、 法には集悩なやみもない。 一切の法は生じもせずとどまりもしない。 因と縁とが和合して生起することができるけれども、 生じおわると、 また滅するのである。 もし、 心が生じおわって滅するならば、 一切の煩悩もまた生じおわって滅するであろう。 このように理解するならば、 犯す所はない。 この人がもし犯すことがありとどまることがあるというならば、 そういう理由は存在しないであろう。 たとえば、 百年の長い間の闇室でも、 もし灯火をともした時には、 闇が ªわたしはこの室の主である。 ここにとどまる事が久しいのだから、 立ち去ることはしないº ということはできぬ。 灯火が、 もしいたならば闇はすぐになくなってしまうようなものである。」

そのいわれもまたこのようである。 この経は、 詳しく前の四つの菩提心を示すのである。 以上は、 かの経の下巻にある。 「前の四つ」 というのは四教の菩提心を指す。

^¬華厳経¼ の入法界品に説かれている。

たとえば善見薬王 (最もすぐれた薬) がすべての病を滅するように、 菩提心もすべての衆生のもろもろの煩悩の病を滅する。 たとえば、 牛・馬・羊の乳を合わせて一つの器に入れて置き、 獅子の乳をかの器の中に入れると、 ほかの乳はみな消えてしまって、 獅子の乳がただちに何のさまたげもなく通るように、 如来獅子の菩提心の乳を、 無量劫に積んだ多くの業や煩悩の乳の中に置けば、 それらはみなことごとく消えさって、 決して声聞や縁覚の法の中にとどまらないのである。

^¬大般若経¼ に説かれている。

もし、 もろもろの菩薩たちが、 五欲と相応した道理に外れた作意こころを多く起こしても、 一念、 無上の菩提と相応した心を起こすならば、 すなわちよくそれらを滅ぼすことができる。 以上の三文は、 滅罪の利益である。

^入法界品に説かれている。 (華厳経)

たとえば、 人が不可壊の薬を得れば、 どのような怨敵かたきもその人を害する手がかりを得ないようなものである。 菩薩たちもまたそのとおりで、 菩提心という不可壊の法薬を得るならば、 内にある煩悩も、 もろもろの悪魔や怨敵も、 これをくだくことはできないのである。 またたとえば、 人が住水宝珠を得て、 その身にかざっていれば、 深い水の中に入っても溺れないようなものである。 菩提心という住水宝珠を得るならば、 迷いの海に入っても沈むことはない。 また、 たとえば、 金剛は長い年月、 水中に置いてもただれず、 また変質したりしないようなものである。 菩提心もまたそのとおりで、 はかりしられぬ長いあいだ、 迷いの中、 煩悩悪業の中にあっても、 なくなりもせず、 そこなわれもしないのである。

^また、 同じ経の法幢ほうどう菩薩の偈に説かれている。

もし智慧ある人が 一念 道心を起こすならば

必ず無上尊と成る 慎んで疑いを起こしてはならない 以上は、 菩提心が最後まで壊れないで、 必ず菩提に至るという利益である。

^また、 入法界品に説かれている。

たとえば、 閻浮檀金は、 如意宝を除いて、 すべての宝にまさっているように、 菩提心という閻浮檀金もまたこのようである。 一切智を除いては他のあらゆる功徳にまさっているのである。 たとえば、 迦陵頻伽は、 孵化しない時にもすぐれた勢力があって、 ほかの鳥が及ばないように、 菩薩大士もまたこのようである。 生死まよいという卵の中にありながら起こした菩提心の功徳の力は、 声聞や縁覚の及ぶことのできぬものである。 たとえば、 忉利天にある*波利はりしっじゅの花で、 一日のあいだ衣を薫じつけると、 瞻蔔せんぷく婆師ばしで千年のあいだ薫じつけてもその香りが及ばないように、 菩提心の花もまたこのようである。 一日のあいだ薫じた功徳の香りは、 十方の仏のみもとにとおり、 あらゆる声聞や縁覚たちが、 無漏智でいろいろの功徳を百千劫という長いあいだ薫じても、 及ぶことができないのである。 たとえば、 金剛はこわれて完全なものでなくても、 他のすべての衆宝が、 それでもなお及ぶことができないようなものである。 菩提心もまたこのようである。 少しく怠っても、 声聞や縁覚のもろもろの功徳の宝が及ぶことのできないものである。 以上、 経の中には二百余りの喩えがある。 見るがよい。

^賢首品の偈に説かれている。 (華厳経)

菩薩がこの生死まよいにあって 初めて発心した時

ひたすら菩提を求めること 堅固かたくしてゆるぐことはない

かの一念の功徳は 深く広くして崖際はてしもない

如来が分別して説かれるのに 劫をきわめても尽くしえぬところである ここに 「発心」 というのは、 凡夫と聖者とに通ずる。 詳しくは ¬*けつ¼ に示されている。

^また、 同じ経の偈に説かれている。

すべての衆生の心は ことごとく分別して知ることができ

すべての国を微塵にした その数でもなおかぞえられよう

十方の虚空界でさえ 一毛にかけて量られようが

菩薩のおこす初発心は ついに測ることができない

^また ¬*出生しゅっしょう提心だいしんぎょう¼ の偈に説かれている。

もしこの仏国のもろもろの衆生が 信心を発し戒律おきてを守り

かの最上の功徳を集めたとしても さとりを求める心の十六分の一にも及ばない

もし 恒河の沙ほども多い諸仏のみ国に 功徳を求めるためにみなことごとく寺を作り

また須弥山のように多くの塔を作るとしても さとりを求める心の十六分の一にも及ばない (中略)

このような人たちが勝れた法を得たとしても もし菩提を求めて衆生を利益するならば

衆生の中で最も勝れた者であり 比類たぐいもなく ましてその上のものがあろうか

それ故このもろもろの法を聞き得たならば 智慧ある人は常に法をねがう心を発し

無辺の大福徳を得て 速やかに無上の道を証るべきである

^¬宝積経¼ の偈に説かれている。

菩提心の功徳が もしすがたかたちがあるならば

果てしなき大空にあまねくて よく受け入れるものはなかろう

 ^菩提心には、 このような勝れた利益がある。 それゆえに、 迦葉菩薩の礼仏の偈 (涅槃経) に説かれている。

発心と畢竟さとりとの二つは別ではないが これらの二心の内では発心の方が難しい

自分がまださとりを得ないのに先に人を済度しようとする それ故わたくしは初発心を礼しまつる

 ^また弥伽みか大士は、 善財ぜんざいどうがすでに菩提心を発したのを聞いて、 すぐさま獅子の高座から下り、 大光明を放って三千大千世界を照らし、 全身を地に投げて善財童子を礼讃したということである。 以上は総じて勝れた利益を顕わした。

 ^問う。 事を対象とする請願も、 勝れた利益があるのか。

 ^答える。 理を対象とするのには及ばないけれども、 これもまた勝れた利益がある。 ^どうして知られるかといえば、

 ¬観無量寿経¼ の上品下生の行業に 「ただ無上道心を起こす」 といって、 「第一義をさとる」 とはいわぬ。 それ故、 これはただ事を対象とする菩提心であることがわかる。 もしそうでなければ、 かの*じょうぼん中生ちゅうしょうの行業と区別がないことになるであろう。 その一である。

 ^¬浄土論¼ には、 菩提心を明かして、 ただ 「一切衆生の苦しみを除くからである。 一切の衆生に大菩提を得させるからである。 また衆生を勧めて阿弥陀如来の浄土に往生させるからである」 といわれてある。 もし、 事を対象とする菩提心に往生の力がないならば、 論主 (天親菩薩) は、 どうして理を対象とする菩提心をお示しにならないのか。 その二である。

^¬大智度論¼ の大五巻の偈にいわれている。

もし初発心の時 仏になろうと誓い願うならば

はや もろもろの世間に超えており 世人の供養を受くべき者である

 この ¬大智度論¼ にもまた、 ただ 「仏になろうと願う」 といってある。 事の菩提心もまた、 結局、 信の上からの布施を受けることができるということを明かしている。 その三である。

^¬摩訶止観¼ に ¬如来秘密蔵経¼ を引き終っていわれてある。

最初の菩提心でさえも、 すでによく極めて重い十悪の罪を除くことができる。 まして、 第二・第三・第四の菩提心においては、 なおさらのことである。

 ここに 「最初の菩提心」 というのは、 小乗教で三界内の事 (形あるもの) を対象とする菩提心である。 まして、 すべての衆生にはことごとく仏性があると深く信じて、 あまねく自分も他人も共に仏道を成じようと願うものに、 どうして罪を滅しないはずがあろうか。 その四である。

^¬唯識論¼ にいわれてある。

菩提さとり有情ひととが実に有るということを信じなければ、 強い慈悲の願を起こす由がない。

大士の悲願でさえも、 なお、 有を信じた上で起こされるのである。 それで、 事を対象とする願も、 勝れた利益があるということを知るべきである。 その五である。

 ^その他は、 しもに述べる回向門に説くとおりである。

 ^問う。 衆生に本来仏性があることを信ずることは、 理を対象とするものではないか。

 ^答える。 これは、 大乗の至極の道理を信ずるのである。 かならずしも*第一だいいちくうと相応した智慧というわけではない。

 ^問う。 ¬十疑論¼ に ¬*ぞうじゅうろん¼ を引いていわれている。

「安楽浄土に往生したいと願って、 すなわち往生を得る者がある」 とか、 また 「無垢むく仏のみ名を聞いた人で、 すなわち菩提さとりを得る者がある」 とかいう。 これらは別時すなわち後の時に、 その果を得る為の因となるのであって、 今は全く行はないのである。

 ^慈恩大師も、 同じようにいわれる。 (西方要決)

願と行とが前後するから別時と説くのである。 仏を念じてもただちに往生しないというのではない。

 ^願だけあって行のないのが別時という意味であることが明らかに分かった。 どうして上品下生の人が、 ただ菩提心という願だけによって、 すぐ往生することができるのか。

 ^答える。 大菩提心は、 その功能はたらきが甚深である。 無量の罪を滅し、 無量の福を生ずる。 ゆえに浄土を求めるならば、 その求めるにしたがってすぐ得られるのである。 今いうところの別時の意味は、 ただ自分だけのために極楽を楽い求めることであって、 これは四弘誓願の広大な菩提心ではない。

 ^問う。 大菩提心に、 もしこの力があるならば、 すべての菩薩は、 最初の発心から決定して悪道に落ちる者はないはずであろう。

 ^答える。 菩薩がまだ*退たいくらいに至らぬ間は、 けがれきよらかとの二心がまじわって起こるものである。 前の念には多くの罪を滅するけれども、 後の念には、 さらに多くの罪を作る。 また、 菩提心には、 浅い・深い、 強い・弱いがあり、 悪業には、 久しい・近い、 常・不定がある。 それゆえ、 退転する位にあっては、 昇ったり沈んだりしてその位が定まらない。 菩提心に罪を滅する力がないのではない。 以上、 しばらく、 わたしの愚かな考えを述べたのであるから、 見る者は、 適宜に取捨せられたい。

【41】^第三に、 料簡すなわち問答論議するとは、

 ^問う。 ¬入法界品¼ にいわれてある。

譬えば、 金剛はただ金剛の性から生じて、 ほかの宝から生じないように、 菩提心の宝も、 またこのようである。 広大な慈悲の心で、 衆生を救護するという性から生ずるので、 その他の善根から生ずるのではない。

^¬大荘厳論¼ の偈にいわれてある。

つねに身は地獄に居ても 大菩提をえぬが

もし自分を利しようとする心を起こすならば これは大菩提のさわりである。

^また ¬*じょうろん¼ の偈にいわれてある。

慈悲の心から一人に施すならば その功徳の大きいことは大地のようである

もし自分の利欲のために一切の人に施すとも 報いを得ることが芥子のようである

一人の厄難の人を救うのは 他のすべての施しに勝る

すべての星には光があるといっても 一つの月の明りには及ばないであろう

^これで明らかである。 自利の行は、 菩提心の依るところではないから、 その報いを得ることも、 また少ない。 それにどうして自分だけが速やかに極楽に生まれることを願うのか。

 ^答える。 極楽を願う者は、 かならず四弘誓願を起こし、 その願にしたがって勤め修めよと前にいったではないか。 これがどうして大悲心の行でなかろうか。 また、 極楽を願い求めるのは、 自分だけを利しようとする心からではない。 そういうわけは、 今、 この娑婆世界には、 いろいろの困難が多い。 甘露がまだうるおわないのに、 おおくの苦しみが寄せてくる。 初発心の行者は、 どうして仏道を修行する余裕があろうか。 それゆえ、 いま菩薩の願行を円満して、 自由自在にすべての衆生を利益したいと思うから、 まず、 極楽の往生を願うのであって、 決して自分だけの利益のためではない。

^¬十住毘婆娑論¼ にいわれているとおりである。

自分がまだ悟りを得ないで、 人を救うことはできない。 自分が泥沼に沈んでいて、 どうして、 よく他の人を救い上げることができようか。 また、 水に漂わされているものが、 溺れるものを救うことはできない。 こういうわけで 「自分が、 まず悟ってから、 人を救うべきである」 と説くのである。

^また ¬法句経¼ の偈に説かれているとおりである。

もしよく自分で身を安らかにし 善い境界にいることができたならば

その上で他の人を安らかにして ともにその利を同じくするがよい

^それゆえ、 ¬十疑論¼ にいわれている。

浄土の往生を求めるわけは、 すべての衆生の苦しみを救おうと思うからである。 そこで自分で思うには 「わたしはいま、 力がない。 もし悪世・煩悩の境界の中にいたならば、 境界の力が強いから、 みずから縛られて三途に沈み、 ややもすると何劫という長い間を経るであろう。 このように迷いをつづけることは、 はじめなき過去世からこのかた、 まだ一度も休んだことがない。 いずれの時に衆生の苦を救うことができようか。」 こういうわけで浄土に往生して諸仏に近づき、 無生法忍をさとって、 そこではじめて、 よく悪世の中において衆生の苦しみを救おうと願うのである。

 ^その他の経・論の文は、 詳しくは ¬十疑論¼ に示されているとおりである。 そこで、 仏を念じて善を修するのを業因とし、 極楽に往生するのをほうとし、 大菩提をさとるのをほうとし、 衆生を利益するのを本懐とすることを知るべきである。 たとえば、 世間で木を植えれば花が開き、 花によってを結び、 果を得て食べるようなものである。

 ^問う。 念仏の行は、 四弘誓願の中では、 どの行に収めるのか。

 ^答える。 念仏三昧を修めるのは、 第三 (法門無量誓願学) の願行である。 修するにつれて煩悩を伏滅することのあるのは、 第二 (煩悩無尽誓願断) の願行であり、 遠くや近くの衆生によき縁を結ぶのは、 第一 (衆生無辺誓願度) の願行である。 効を積み、 徳をかさねるのは、 第四 (仏道無上誓願成) の願を成就するのである。 その他のいろいろな善については、 これを例として知るべきである。 特に説明を要しない。

 ^問う。 一心に念仏すれば、 道理としてまた往生するであろう。 どうして、 経・論に、 かならず菩提の願を勧めるのか。

 ^答える。 ¬大荘厳論¼ にいわれている。 (¬大智度論¼・意)

仏国を荘厳することは重大であるから、 ただ行の功徳だけでは成就することができない。 かならず願の力を待たねばならない。 ちょうど、 牛は車を挽く力があるけれども、 かならず御者の力を待ってよく目的地に至るようなものである。 仏国土を浄めるのも、 願によって引かれて成るのである。 願の力によるから、 福慧が増すのである。

^¬十住毘婆娑論¼ にいわれている。

すべての諸法は、 願を根本とする。 願を離れては成就しない。 こういうわけであるから、 願を起こすのである。

^また、 いわれている。

もし人が仏になろうと願って 心に阿弥陀仏を念ずれば

その時に応じて身を現わしたもう それゆえ わたしは帰命したてまつる

 ^大菩提心には、 すでにこのような力がある。 それゆえ行者は、 必ずこの願を起こすべきである。

 ^問う。 もし、 願を起こさなかったならば、 結局、 往生しないのか。

 ^答える。 諸師によって不同がある。 ある人はいう。 「九品往生の人は、 みな菩提心を起こすのである。 その中品の人は、 もとは小乗であるけれども、 後には大乗の心を起こして、 かの浄土に生まれることができる。 かの本の習いによって、 しばらくのあいだ小乗の果を証るのである。 その下品の人は、 大乗の心を失っているけれども、 その勢力がまだ残っているので往生することができるのである。」 慈恩大師の説はこれと同じ。

^ある人はいう。 「中品と下品とは、 ただ福分によって生まれ、 上品は、 福分と道分とを具備して生まれる。」

 道分とは、 菩提心の行のことである。

 ^問う。 菩提心について、 諸師の異なった見解があるように、 浄土を欣う心にも、 不同があるのか。

 ^答える。 大菩提心には、 異説があるけれども、 浄土を欣う願は、 九品ともにみな当然具備すべきである。

 ^問う。 もし、 浄土の業は願によって報を得るというならば、 人が悪事を犯しても、 地獄に堕ちることを願わぬような場合、 その人は、 地獄の果報を得ることにならぬのではないか。

 ^答える。 罪の報にはかぎりがあるけれども、 浄土の報は、 量がない。 二つの果報がすでに別々であるから、 二つの因は、 どうして同例にいえようか。 ^¬大智度論¼ の第八巻にいわれているとおりである。

罪悪や福徳 (善根) には、 一定の報があるけれども、 ただ願を起こす者は少しの福業を修めても、 願力があるから大きな果報を得るのである。 すべての衆生は、 みな楽を得たいと願うけれども、 苦を願う者はない。 この理由で地獄を願わないのである。 こういうわけであるから、 福徳には、 かぎりない報があるけれども、 罪の報には量があるのである。 抜き書きした。

 ^問う。 どういう法によって、 世々に大菩提の願を育て、 忘失しないようにするのか。

 ^答える。 ¬十住毘婆娑論¼ の第三巻 (巻四) の偈にいわれてある。

身命いのちまでも失い 転輪聖王の位をもすてる

このような場合にもなお 妄語うそをつき諂曲へつらいを行ってはならぬ

よくさまざまの世間の すべての衆生の類に

多くの菩薩たちを 敬う心を起こさせよ

もし人あってよく このような善法を行ずるならば

世々に無上菩提の願を 増長することができよう 文の中には、 また二十二種の菩提心を失う法がある。 見るべきである。

 

往生要集 上巻

 

大梵王宮 色界しきかい初禅天しょぜんてんの主である大梵だいぼんのうの住する世界。
流沙 中国西部からインドに至る間の砂漠。 現在のタクラマカン砂漠。
龍華会 今兜率天の内院にいる弥勒菩薩が、 五十六億七千万年の後この世に下生して龍花樹の下でさとりを開き、 三回開かれる法座。