0441黒谷上人語灯録巻第十二

厭欣沙門了慧集録

 

和語第二之二 当巻有五篇
 念仏往生要義抄第四
 三心義第五
 七箇条起請文第六
 念仏大意第七
 浄土宗略抄第八

 

四、 念仏往生要義抄

念仏往生要義抄 第四  黒谷作

それ念仏往生は、 十悪・五逆をえらばず、 迎摂するに十声・一声をもてす。 聖道諸宗の成仏は、 上根・上智をもととするゆへに、 声聞・菩薩を機とす。 しかるに世0442すでに末法になり、 人みな悪人なり。 はやく修しがたき教を学せんよりは、 行じやすき弥陀の名号をとなへて、 このたび生死の家をいづべき也。

たゞしいづれの経論も、 釈尊のときおき給へる経教なり。 しかれば、 ¬法花¼・¬涅槃¼ 等の大乗経を修行して、 ほとけになるになにのかたき事あらん。

それにとりて、 いますこし ¬法花経¼ は、 三世の諸仏もこの経によりてほとけになり、 十方の如来もこの経によりて正覚をなり給ふ。 しかるに ¬法花経¼ なんどをよみたてまつらんに、 なにの不足かあらん。 かように申す日は、 まことにさるべき事なれども、 われらが器量は、 この教におよばざるなり。 そのゆえは、 ¬法花¼ には菩薩・声聞を機とするゆへに、 われら凡夫はかなふべからずとおもふべき也。

しかるに阿弥陀ほとけの本願は、 末代のわれらがためにおこし給へる願なれば、 利益いまの時に決定往生すべき也。 わが身は女人らればとおもふ事なく、 わが身は煩悩悪業の身なればといふ事なかれ。

もとより阿弥陀仏は、 罪悪深重の衆生の、 三世の諸仏も、 十方の如来も、 すてさせ給ひたるわれらをむかえんとちかひ給ひける願にあひたてまつれり。 往生うたがひなしとふかくおもひいれて、 南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏と申せば、 善人も悪人も、 男子も女人も、 十人は十人ながら百人は百人ながら、 み0443な往生をとぐる也。

問ていはく、 称名念仏申す人は、 みな往生すべしや。 答ていはく、 他力の念仏は往生すべし、 自力の念仏はまたく往生すべからず。

問ていはく、 その他力の様いかむ。 答ていはく、 たゞひとすぢにわが身の善悪をかえりみず、 決定往生せんとおもひて申すを、 他力の念仏といふ。 たとへば麒麟の尾につきたる蝿の、 ひとはねに千里をかけり、 輪王の御ゆきにあひぬる卑夫の、 一日に四天下をめぐるがごとし。 これを他力と申す也。 又おほきなる石をふねにいれつれば、 時のほどにむかひのきしにとづくがごとし。 またくこれは石のちからにはあらず、 ふねのちからなり。 それがやうに、 われらがちからにてはなし、 阿弥陀ほとけの御ちから也。 これすなはち他力なり。

問ていはく、 自力といふはいかん。 答ていはく、 煩悩具足して、 わろき身をもて煩悩を断じ、 さとりをあらはして成仏すと心えて、 昼夜にはげめども、 无始より貪瞋具足の身なるがゆえに、 ながく煩悩を断ずる事かたきなり。 かく断じがたき无明煩悩を、 三毒具足の心にて断ぜんとする事、 たとへば須弥を針にてくだき、 大海を芥子のひさくにてくみつくさんがごとし。 たとひはりにて須弥をくだき、 芥0444子のひさくにて大海をくみつくすとも、 われらが悪業煩悩の心にては、 広劫多生をふとも、 ほとけにならん事かたし。 そのゆえは、 念々歩々におもひと思ふ事は、 三塗八難の業、 ねてもさめても案じと案ずる事は、 六趣四生のきづな也。 かゝる身にては、 いかでか修行学道をして成仏はすべきや。 これを自力とは申す也。

問ていはく、 聖人の申す念仏と、 在家のものゝ申す念仏と、 勝劣いかむ。 答ていはく、 聖人の念仏と、 世間者の念仏と、 功徳ひとしくして、 またくかわりめあるべからず。

疑ていはく、 この条なを不審也。 そのゆへは、 女人にもちかづかず、 不定の食もせずして申さん念仏は、 たとかるべし。 朝夕に女境にむつれ、 酒をのみ不浄食をして申さん念仏は、 さだめておとるべし。 功徳いかでかひとしかるべきや。

答ていはく、 功徳ひとしくして勝劣あるべからず。 そのゆへは、 阿弥陀仏の本願のゆえをしらざるものゝ、 かゝるおかしきうたがひをばする也。

しかるゆえは、 むかし阿弥陀仏、 二百一十億の諸仏の浄土の、 荘厳・宝楽等の誓願・利益にいたるまで、 世自在王仏の御まへにしてこれを見給ふに、 われらごときの妄想顛倒の凡夫のむまるべき事のなき也。

されば善導和尚釈していはく、 「一切仏土皆厳浄、 凡夫0445乱想恐難生」(法事讃巻下) といへり。 この文の心は、 一切の仏土はたえなれども、 乱想の凡夫はむらるゝ事なしと釈し給ふ也。 おのおの御身をはからひて、 御らんずべきなり。

そのゆへは、 口には経をよみ、 身には仏を礼拝すれども、 心には思はじ事のみおもはれて、 一時もとゞまる事なし。 しかれば、 われらが身をもて、 いかでか生死をはなるべき。 かゝりける時に、 広劫よりこのかた、 三塗八難をすみかとして、 洞燃猛火に身をこがしていづる期なかりける也。 かなしきかなや、 善心はとしどしにしたがひてうすくなり、 悪心は日々にしたがひていよいよまさる。 されば古人のいへる事あり、 「煩悩は身にそへる影、 さらむとすれどもさらず。 菩提は水にうかべる月、 とらむとすれどもとられず」 と。

このゆへに、 阿弥陀ほとけ五劫に思惟してたて給ひし深重の本願と申すは、 善悪をへだてず、 持戒・破戒をきらはず、 在家・出家をもえらばず、 有智・无智をも論ぜず、 平等の大悲をおこしてほとけになり給ひたれば、 たゞ他力の心に住して念仏申さば、 一念須臾のあひだに、 阿弥陀ほとけの来迎にあづかるべき也。

むまれてよりこのかた女人を目に見ず、 酒肉五辛ながく断じて、 五戒・十戒等かたくたもちて、 やん事なき聖人も、 自力の心に住して念仏申さんにおきては、 仏の来迎にあづからん事0446、 千人が一人、 万人が一、 二人などや候はんずらん。 それも善導和尚は、 「千中无一」(礼讃) とおほせられて候へば、 いかゞあるべく候らんとおぼへ候。

およそ阿弥陀仏の本願と申す事は、 やうもなくわが心をすませとにもあらず、 不浄の身をきよめよとにもあらず、 たゞねてもさめても、 ひとすじに御名をとなふる人をば、 臨終にはかならずきたりてむかへ給ふなるものをといふ心に住して申せば、 一期のおはりには、 仏の来迎にあづからん事うたがひあるべからず。 わが身は女人なれば、 又在家のものなればといふ事なく、 往生は一定とおぼしめすべき也。

問ていはく、 心のすむ時の念仏と、 妄心の中の念仏と、 その勝劣いかむ。 答ていはく、 その功徳ひとしくして、 あえて差別なし。

疑ていはく、 この条なを不審なり。 そのゆへは、 心のすむ時の念仏は、 余念もなく一向極楽世界の事のみおもはれ、 弥陀の本願のみ案ぜらるゝがゆへに、 まじふるものなければ清浄の念仏なり。 心の散乱する時は、 三業不調にして、 口には名号をとなへ、 手には念誦をまはすばかりにては、 これ不浄の念仏也。 いかでかひとしかるべき。

答ていはく、 このうたがひをなすは、 いまだ本願のゆへをしらざる也。 阿弥陀仏は悪業の衆生をすくはんために、 生死の大海に弘誓のふねをうかべ0447給へる也。 たとへばふねにおもき石、 かろきあさがらをひとつふねにいれて、 むかひのきしにとづくがごとし。 本願の殊勝なることは、 いかなる衆生も、 たゞ名号をとなふるほかは、 別の事なき也。

問ていはく、 一声の念仏と、 十声の念仏と、 功徳の勝劣いかむ。 答ていはく、 たゞおなじ事也。

疑ていはく、 この事又不審なり。 そのゆへは、 一声・十声すでにかずの多少あり、 いかでかひとしかるべきや。

答。 このうたがひは、 一声・十声と申す事は最後の時の事なり。 死する時、 一声申すものも往生す、 十声申すものも往生すといふ事なり。 往生だにもひとしくは、 功徳なんぞ劣ならん。

本願の文に、 「設我得仏、 十方衆生、 至心信楽、 欲生我国、 乃至十念、 若不生者、 不取正覚」(大経巻上)。 この文の心は、 法蔵比丘、 われほとけになりたらん時、 十方の衆生、 極楽にむまれんとおもひて、 南無阿弥陀仏と、 もしは十声、 もしは一声申さん衆生をむかへずは、 ほとけにならじとちかひ給ふ。 かるがゆへにかずの多少を論ぜず、 往生の得分はおなじき也。 本願の文顕然なり、 なんぞうたがはんや。

問ていはく、 最後の念仏と平生の念仏と、 いづれかすぐれたるや。 答ていはく、 た0448ゞおなじ事也。 そのゆへは、 平生の念仏、 臨終の念仏とて、 なんのかはりめかあらん。 平生の念仏の死ぬれば臨終の念仏となり、 臨終の念仏ののぶれば平生の念仏となる也。

難じていはく、 最後の一念は百年の業にすぐれたりと見えたり。 いかむ。 答ていはく、 このうたがひは、 この文をしらざる難なり。 いきのとゞまる時の一念は、 悪業こはくして善業にすぐれたり、 善業こはくして悪業にすぐれたりといふ事也。 たゞしこの申す人は念仏者­に½て­は½なし、 もとより悪人の沙汰をいふ事也。 平生より念仏申して往生をねがふ人の事をば、 ともかくもさらに沙汰におよばぬ事也。

問ていはく、 摂取の益をかうぶる事は、 平生か臨終か、 いかむ。 答ていはく、 平生の時なり。 そのゆへは、 往生の心ま事にて、 わが身をうたがふ事なくて、 来迎をまつ人は、 これ三心具足の念仏申す人なり。 この三心具足しぬればかならず極楽にうまるといふ事は、 ¬観経¼ の説なり。 かゝる心ざしある人を、 阿弥陀仏は八万四千の光明をはなちててらし給ふ也。 平生の時てらしはじめて、 最後まですて給はぬなり。 かるがゆへに不捨の誓約と申す也。

0449ていはく、 智者の念仏と、 愚者の念仏­と、 いづ½れも差別なしや。 答ていはく、 ほとけの本願にとづかば、 すこしの差別もなし。 そのゆへは、 阿弥陀仏、 ほとけになり給はざりしむかし、 十方の衆生わが名をとなへば、 乃至十声までもむかへむと、 ちかひをたて給ひけるは、 智者をえらび、 愚者をすてんとにはあらず。

されば ¬五会法事讃¼(巻本) にいはく、 「不簡多聞持浄戒、 不簡破戒罪根深、 但使廻心多念仏、 能令瓦礫変成金」。 この文の心は、 智者も愚者も、 持戒も破戒も、 たゞ念仏申さば、 みな往生すといふ事也。 この心に住して、 わが身の善悪をかえりみず、 ほとけの本願をたのみて念仏申すべき也。

このたび輪廻のきづなをはなるゝ事、 念仏にすぎたる事はあるべか­らず½。 このかきおきたるものを見て、 そしり謗ぜんともがらは、 かならず九品のうてなに縁をむすび、 たがひに順逆の縁むなしからずして、 一仏浄土のともたらむ。

そもそも機をいへば、 五逆重罪をえらばず、 女人・闡提をもすてず、 行をいへば、 一念・十念をもてす。 これによて、 五障・三従をうらむべからず。 この願をたのみ、 この行をはげむべき也。 念仏のちからにあらずは、 善人なをむまれがたし、 いはんや悪人をや。 五念に五障を消し、 三念に三従を滅して、 一念に臨終の来迎をか0450うぶらんと、 行住坐臥に名号をとなふべし、 時処諸縁にこの願をたのむべし。

あなかしこ、 あなかしこ。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 

五、 三心義

三心義 第五

¬観无量寿経¼ には、 「若有衆生願生彼国、 発三種心即便往生。 何等為三。 一者至誠心、 二者深信、 三者回向発願心。 具三心者必生彼国」 といへり。

¬礼讃¼ には、 三心を釈しおはりて、 「具三心者必得往生也。 若少一心、 即不得生」 といへり。 しかれば、 三心を具すべきなり。

一に至誠心といふは、 真実の心なり。 身に礼拝を行じ、 くちに­名½号をとなへ、 心に相好をおもふ、 みな真実をもちゐよ。 すべてこれをいふに、 穢土をいとひ、 浄土をねがひて、 もろもろの行業を修せんもの、 みな真実をもてつとむべし。

これを勤修せんに、 ほかには賢善精進の相を現じ、 うちには愚悪懈怠の心をいだきて修するところの行業は、 日夜十二時にひまな­くこ½れを行­ず½とも、 往生をえず。 ほかには愚悪懈怠のかたちをあらわして、 うちには賢善精進のおもひに住して、 これを修行するもの、 一時一念なり­と½も、 そ0451の行むなしからず、 かならず往生をう。 これを至誠心となづく。

二に深信といふは、 ふかく信ずる心なり。 これについて二あり。

一にはわれはこれ罪悪不善の身、 无始よりこのかた六道に輪廻して、 往生の縁なしと信じ、

二には罪人なりといへども、 ほとけの願力をもて強縁として、 かならず往生をえん事、 うたがひなくうらもひなしと信ず。

これについて又二あり。 一つには人につきて信をたつ、 二には行につきて信をたつ。

人につきて信をたつといふは、 出離生死のみ­ちお½ほしといへども、 大きにわかちて二あり。 一には聖道門、 二には浄土門なり。

聖道門といふは、 この娑婆世界にて、 煩悩を断じ菩提を証するみちなり。

浄土門といふは、 この娑婆世界をいとひ、 かの極楽をねがひて善根を修する門なり。

二門ありとへども、 聖道門をさしおきて浄土門に帰す。

しかるにもし人ありて、 おほく経論をひきて、 罪悪の凡夫往生する事をえじといはん。 このことばをきゝて、 退心をなさず、 いよいよ信心をますべし。

ゆへいかんとなれば、 罪障の凡夫の浄土に往生すといふ事は、 これ釈尊の誠言なり、 凡夫の妄執にあらず。 われすでに仏の言を信じて、 ふかく浄土を欣求す。 たとひ諸仏・菩薩きたりて、 罪障の凡夫、 浄土にむまるべからずとの給ふとも、 これを信ずべからず。

ゆへいかんとなれば、 菩0452薩は仏の弟子なり。 もしま事にこれ菩薩ならば、 仏説をそむくべからず。 しかるにすでに仏説に­たが½ひて、 往生をえずとの給ふ。 ま事の菩薩にあらず。

又仏はこれ同体の大悲なり。 ま事に仏ならば、 釈迦の説にたがふべからず。

しかればすなはち ¬阿弥陀経¼(意) に、「 一日七日弥陀の名号を念じて、 かならずむまるゝ事をう」 ととけり。 これを六法恒沙の諸仏、 釈迦仏におなじく、 これを証誠し給へり。

しかるにいま釈迦の説をそむきて、 往生せずといふ。 かるがゆへにしりぬ、 ま事のほとけにあらず、 これ天魔の変化なり。 この義をもてのゆへに、 仏・菩薩の説なりとも信ずべからず、 いかにいはんや余説をや。

なんぢが執するところの大小ことなりといへども、 みな仏果を期する穢土の修行、 聖道門の心なり。 われらが修するところは、 正雑不同なれども、 ともに極楽をねがふ往生の行業は、 浄土門の心なり。 聖道門はこれ汝ぢが有縁の行、 浄土門といふはわれらが有縁の行、 これをもてかれを難ずべからず、 かれをもてこれを難ずべからず。

かくのごとく信ずるものをば、 就人立信となづく。

つぎに行につきて信をたつといふは、 往生極楽の行まちまちなりといへども、 二種をばいでず。 一には正行、 二には雑行也。 正行といふは、 阿弥陀仏におきてしたしき行なり。 雑行といふは、 阿弥陀仏におき0453てうとき行なり。

まづ正行といふは、 これにつきて五あり。 一にはいはく読誦、 いはゆる 「三部経」 をよむなり。 二には観察、 いはゆる極楽の依正を観ずる也。 三には礼拝、 いはゆる阿弥陀仏を礼拝する也。 四には称名、 いはゆる弥陀の名号を称する也。 五には讃嘆供養、 いはゆる阿弥陀仏を讃嘆し供養する也。

この五をもてあはせて二とす。

一には一心にもはら弥陀の名号を念じて、 行住坐臥に時節の久近をとはず念々にすてざる、 これを正定業となづく、 かのほとけの願に順ずるがゆへに。

二にはさきの五が中、 かの称名のほかの礼拝・読誦等をみな助業となづく。

つぎに雑行といふは、 さきの五種の正助二業をのぞきて已外のもろもろの読誦大乗・発菩提心・持戒・勧進等の一切の行なり。

この正雑二行につきて、 五種の得失あり。

一には親疎対、 いはゆる正行は阿弥陀仏にしたしく、 雑行はうとく、

二には近遠対、 いはゆる正行は阿弥陀仏にちかく、 雑行は阿弥陀仏にとをし。

三には有間无間対、 いはゆる正行はおもひをかくるに无間也、 雑行は思をかくるに間断あり。

四には廻向不廻向対、 いはゆる正行は廻向をもちゐざれどもおのづから往生の業となる、 雑行は廻向せざるは往生の業とならず。

五には純雑対、 いはゆる正行は純極楽の業也、 雑行はしからず、 十方の浄土乃至人天の業也。

かく0454のごとき信ずるを、 就行立信となづく。

三に廻向発願心といふは、 過去および今生の身口意業に修するところの一切の善根を、 真実の心をもて極楽に廻向して、 往生を欣求する也。 これを廻向発願心となづく。 この三心を具しぬれば、 かならず往生する也。

 

六、 七箇条の起請文

七箇条の起請文 第六

およそ往生浄土の人の要法はおほしといへど­も、½ 浄土宗の大事は三心の法門にある也。 もし三心を具せざるものは、 日夜十二時に、 かふべの火をはらふがごとくにすれども、 つゐに往生をえずといへり。 極楽をねがはん人は、 いかにもして三心のやうを心えて、 念仏すべき也。 三心といふは、 一には至誠心、 二には深心、 三には廻向発願心なり。

まづ至誠心といふは、 大師釈しての給はく、 「至といふは真也、 誠といふは実也」(散善義) といへり。 たゞ真実心を至誠心と善導はおほせられたる也。 真実といふは、 もろもろの虚仮の心のなきをいふ也。 虚仮といふは、 貪瞋等の煩悩をおこして、 正念をうしなふを虚仮心と称する也。

すべてもろもろの煩悩のおこる事は、 みなも0455と貪瞋を母として出生するなり。 貪といふについて、 喜足小欲の貪あり、 不喜足大欲の貪あり。

いま浄土宗に制するところは、 不喜足大欲の貪煩悩也。 まづ行者、 かやうの道理を心えて念仏すべき也。 これが真実の念仏にてある也。 喜足小欲の貪はくるしからず。 瞋煩悩も、 敬上慈下の心をやぶらずして、 道理を心えほどく也。 痴煩悩といふは、 おろかなる心也。 この心をかしこくなすべき也。 まづ生死をいとひ浄土をねがひて、 往生を大事といとなみて、 もろもろの家業を事とせざれば、 痴煩悩なき也。 少々の痴は、 往生のさわりにはならず。

これほど心えつれば、 貪瞋等の虚仮の心はうせて、 真実心はやすくおこる也。 これを浄土の菩提心といふ也。 詮ずるところ、 生死の報をかろしめ、 念仏の一行をはげむがゆへに、 真実心とはいふなり。

二に深心といふは、 ふかく念仏を信ずる心なり。 ふかく念仏を信ずといふは、 余行なく一向に念仏になる也。 もし余行をかぬれば、 深心かけたる行者といふ也。 詮ずるところ、 釈迦の 「浄土三部経」 は、 ひとへに念仏の一行をとくと心え、 弥陀の四十八願は、 称名の一行を本願とすと心えて、 ふた心なく念仏するを、 深心具足といふなり。

0456に廻向発願心といふは、 无始よりこのかたの所作のもろもろの善根を、 ひとへに往生極楽といのる也。 又つねに退する事なく念仏するを、 廻向発願心といふなり。 これは専心の御義なり。 この心ならば、 至誠心・深心具足してのうゑに、 つねに念仏の数遍をすべし。 もし念仏退転せば、 廻向発願心かけたるもの也。

浄土宗の人は、 三心のやうをよくよく心えて念仏すべき也。 三心のなかに、 ひとつもかけなば、 往生はかなふまじき也。 三心具足しぬれば、 往生は无下にやすくなる也。 すべてわれらが輪廻生死のふるまひは、 たゞ貪瞋痴の煩悩の絆によりて也。 貪瞋痴おこらば、 なを悪趣へゆくべきまどひのおこりたるぞと心えて、 これをどゞむべき也。

しかれどもいまだ煩悩具足のわれらなれば、 かくは心えたれども、 つねに煩悩はおこる也。 おこれども煩悩をば心のまら人とし、 念仏をば心のあるじとしつれば、 あながちに往生をばさえぬ也。 煩悩を心のあるじとして、 念仏を心のまら人とする事は、 雑毒虚仮の善にて、 往生にはきらはるゝ也。 詮ずるところ、 前念・後念のあひだには、 煩悩をまじふといふとも、 かまえて南無阿弥陀仏の六字のなかに、 貪等の煩悩をおこすまじき也。

一 われは阿弥陀仏をこそたのみたれ、 念仏をこそ信じたれとて、 諸仏・菩薩の悲願0457をかろしめたてまつり、 法花・般若等の、 めでたき経どもをわろくおもひそしる事は、 ゆめゆめあるべからず。 よろづのほとけたちをそしり、 もろもろの聖教をうたがひそしりたらんずるつみは、 まづ阿弥陀の御心にかなふまじければ、 念仏すとも悲願にもれん事は一定也。

一 つみをつくらじと、 身をつゝしんでよからんとするは、 阿弥陀ほとけの願をかろしむるにてこそあれ。 又念仏をおほく申さんとて、 日々に六万遍なんどをくりゐたるは、 他力をうたがふにてこそあれといふ事のおほくきこゆる。 かやうのひが事、 ゆめゆめもちふべからず。

まづいづれのところにか、 阿弥陀はつみつくれとすゝめ給ひける。 ひとへにわが身に悪をもとゞめえず、 つみのみつくりゐたるまゝに、 かゝるゆくゑほとりもなき虚言をたくみいだして、 物もしらぬ男女のともがらを、 すかしほらかして罪業をすゝめ、 煩悩をおこさしむる事、 返々天魔のたぐひ也、 外道のしわざ也、 往生極楽のあだかたきなりとおもふべし。

又念仏のかずをおほく申すものを、 自力をはげむといふ事、 これ又ものもおぼへずあさましきひが事也。 たゞ一念・二念をとなふとも、 自力の心ならん人は、 自力の念仏とすべし。 千遍・万遍となふとも、 百日・千日、 よる・ひるはげみつむとも、 ひ0458とへに願力をたのみ、 他力をあふぎたらん人の念仏は、 声々念々しかしながら他力の念仏にてあるべし。 されば三心をおこしたる人の念仏は、 日々夜々、 時々克々にとなふれども、 しかしながら願力をあふぎ、 他力をたのみたる心にてとなへゐたれば、 かけてもふれても、 自力の念仏とはいふべからず。

一 三心と申す事は、 しりたる人の念仏に、 三心具足してあらん事は左右におよばず、 つやつや三心の名をだにもしらぬ无智のともがらの念仏には、 よも三心は具し候はじ。 三心かけば往生し候なんやと申す事、 きわめたる不審にて候へども、 これは阿弥陀ほとけの法蔵比丘のむかし、 五劫のあひだ、 よる・ひる心をくだきて案じたてゝ、 成就ささせ給ひたる本願の三心なれば、 あだあだしくいふべき事にあらず。

いかに無智ならん物もこれを具し、 三心の名をしらぬ物までも、 かならずそらに具せんずる様をつくらせ給ひたる三心なれば、 阿弥陀をたのみたてまつりて、 すこしもうたがふ心なくしてこの名号をとなふれば、 あみだほとけかならずわれをむかへて、 極楽にゆかせ給ふときゝて、 これをふかく信じて、 すこしもうたがふ心なく、 むかへさせ給へとおもひて念仏すれば、 この心がすなはち三心具足の心にてあれば、 たゞひらに信じてだにも念仏すれば、 すゞろに三心はある0459なり。

さればこそ、 よにあさましき一文不通のともがらのなかに、 ひとすぢに念仏するものは、 臨終正念にして、 めでたき往生どもをするは、 現に証拠あらたなる事なれば、 つゆちりもうたがふべからず。 なかなかよくもしらぬ三心沙汰して、 あしざまに心えたる人々は、 臨終のわろくのみありあひたるは、 それにてたれたれも心うべきなり。

一 ときどき別時の念仏を修して、 心をも身をもはげましとゝのへすゝむべき也。 日々に六万遍を申せば、 七万遍をとなふればとて、 たゞあるもいはれたる事にてはあれども、 人の心ざまは、 いたく目もなれ耳もなれぬれば、 いそいそとすゝむ心もなく、 あけくれは心いそがしき様にてのみ、 粗略になりゆく也。 その心をためなおさん料に、 時々別時の念仏はすべき也。 しかれば、 善導和尚もねんごろにすゝめ給ふ、 恵心の往生要集にもすゝめさせ給ひたる也。

道場をもひきつくろひ、 花香をもまいらせん事、 ことにちからのたへむにしたがひてかざりまいらせて、 わが身をもことにきよめて道場にいりて、 あるいは三時、 あるいは六時なんどに念仏すべし。 もし同行なんどあまたあらん時は、 かはるがはるいりて不断念仏にも修すべし。 かやうの事は、 おのおのことがらにしたがひてはからふべし。

0460て善導のおほせられたるは、 「月の一日より八日にいたるまで、 あるいは八日より十五日にいたるまで、 あるいは十五日より廿三日にいたるまで、 あるいは廿三日より晦日にいたるまで」(観念法門) とおほせられたり。 おのおのさしあはざらん時をはからひて、 七日の別時をつねに修すべし。 ゆめゆめすゞろ事どもいふ物にすかされて、 不善の心あるべからず。

一 いかにもいかにも最後の正念を成就して、 目には阿弥陀ほとけを見たてまつり、 口には弥陀の名号をとなへ、 心には聖衆の来迎をまちたてまつるべし。 としごろ日ごろ、 いみじく念仏の功をつみたりとも、 臨終に悪縁にもあひ、 あしき心もおこりぬるものならば、 順次の往生しはづして、 一生・二生なりとも、 三生・四生なりとも、 生死のながれにしたがひて、 くるしからん事はくちおしき事ぞかし。

されば、 善導和尚すゝめておほせられたる様は、 「願弟子等、 臨命終時 上品往生阿弥陀仏国」(礼讃) とあり、 いよいよ臨終の正念はいのりもし、 ねがふべき事也。 臨終の正念をいのるは、 弥陀の本願をたのまぬ物なんど申すは、 善導にはいかほどまさりたる学生ぞとおもふべき也。 あなあさまし、 おそろしおそろし。

一 念仏は、 つねにおこたらぬが一定往生する事にてある也。 されば善導すゝめて0461の給はく、 「一発心已後、 誓畢此生无有退転。 唯以浄土為期」(散善義)。 又云、 「一心専念弥陀名号、 行住坐臥不問時節久近念念不捨者、 是名正定之業、 順彼仏願故」(散善義) といへり。 かやうにすゝめましましたる事はあまたおほけれども、 ことごとくにかきのせず。 たのむべし、 あふぐべし。 さらにうたがふべからず。

一 げにげにしく念仏を行じて、 げにげにしき人になりぬれば、 よろづの人を見るに、 みなわが心にはおとりたり。 あさましくわろければ、 わが身のよきまゝには、 ゆゝしき念仏者にてある物かな、 たれたれにもすぐれたりと思ふ也。 この事をば、 よくよく心えてつゝしむべき事也。

世もひろし、 人もおほければ、 山の中、 林の中にこもりゐて、 人にもしられぬ念仏者の、 貴とくめでたき、 さすがにおほくあるを、 わがきかずしらぬにてこそあれ。 さればわれほどの念仏者、 よもあらじと思ふはひが事也。 大憍慢にてあれば、 それをたよりにて、 魔縁の付きて往生をさまたぐる也。

さればわが身のいみじくてつみをも滅し、 極楽へもまいらばこそあらめ、 ひとへに阿弥陀の願力にてこそ、 煩悩をも罪業をもほろぼしうしなひて、 かたじけなく弥陀ほとけの、 てづからみづからむかへとりて、 極楽へ返らせましますことなれ。

さればわがちからにて往生する事ならばこそ、 われかしこしと0462いふ慢心をばおこさめ。 憍慢の心だにもおこりぬれば、 たちどころに阿弥陀ほとけの願にはそむきぬるものなれば、 弥陀も諸仏も護念し給はずなるぬれば、 悪魔のためにもなやまさるゝ也。 返々も憍慢の心をおこすべからず。 あなかしこ、 あなかしこ。

 

七、 念仏大意

念仏大意 第七

末代悪世の衆生、 往生の心ざしをいたさんにおきては、 又他のつとめあるべからず、 たゞ善導の釈について一向専修の念仏門にいるべき也。 しかるを一向に信をいたして、 その門にいる人はきわめてありがたし。 そのゆへは、 あるいは他の行に心をそめ、 あるいは念仏の功徳をおもくせざるなるべし。 つらつらこれをおもふに、 ま事しく往生浄土の願ふかき心をもはらにする人、 ありがたきゆへか。 まづこの道理をよくよく心うべき也。

すべて天臺・法相の経論も教も、 そのつとめをいたさんに、 一つとしてあだなるべきにはあらず。 たゞし仏道修行は、 よくよく身をはかり、 時をはかるべきなり。 仏の滅後第四の五百年にだに、 智恵をみがきて煩悩を断ずる事かたく、 心をすまして禅定をえん事かたきがゆへに、 人おほく0463念仏門にいりけり。 すなはち道綽・善導等の浄土宗の聖人、 この時の人なり。 いはんや、 このごろは第五の五百年、 闘諍堅固の時也、 他の行法さらに成就せん事かたし。 しかのみならず、 念仏におきては、 末法のゝちなを利益あるべし。

いはんや、 いまの世は末法万年のはじめ也、 一念も弥陀を念ぜんに、 なんぞ往生をとげざらんや。 たとひわれこそ、 そのうつは物にあらずといふとも、 末法のすゑの衆生には、 さらにゝるべからず。

かつうは又釈尊在世の時すら、 即身成仏におきては、 龍女のほかは、 いとありがたし。 たとひ又即身成仏までにあらずといふとも、 この聖道門をおこなひあひ給ひけん菩薩・声聞たち、 そのほかの権者・ひじりたち、 そのゝちの比丘・比丘尼等いまにいたるまで経論の学者、 ¬法花経¼ の持者、 い­く½そばくぞや。 こゝにわれら、 なまじゐに聖道をまなぶといふとも、 かの人々にはさらにおよぶべからず。

かくのごときの末法の衆生を、 阿弥陀ほとけかねてさとり給ひて、 五劫のあひだ思惟して四十八願をおこし給へり。 そのなかの第十八の願にいはく、 「十方の衆生、 心をいたして信楽して、 わがくにゝむまれんとねがひて、 乃至十念せんに、 もしむまれずといはば、 正覚をとらじ」(大経巻上) とちかひ給ひて、 すでに正覚をなり給へり。

これを又釈尊とき給へる ¬経¼、 すなは0464ち ¬観无量寿¼ 等の 「三部経」 なり。 しかれば、 たゞ念仏門也。たとひ悪業の衆生等、 弥陀のちかひばかりに、 なを信をいたさずといふとも、 釈迦のこれを一々にとき給へる 「三部経」、 あにひとことばもむなしからんや。 そのうゑ又、 六方・十方の諸仏の証誠、 この ¬経¼ に見えたり。 他の行におきては、 か­く½のごときの証誠見えず。

しかれば、 時もすぎ、 身もこたふまじからん禅定・智恵を修せんよりは、 利益現在して、 しかもそこばくのほとけたち証誠し給へる弥陀の名号を称念すべき也。

そもそも後世者のなかに、 極楽はあさく弥陀はくだれり、 期するところ密厳・花蔵の世界なりと心をかくる人も侍るにや、 それはなはだおほけなし。 かの土は、 断无明の菩薩のほかはいる事なし。 又一向専修の念仏門にいるなかにも、 日別に三萬遍、 もしは五万遍・六万遍乃至十万遍といふとも、 これをつとめおはりなんのち、 年来受持読誦の功つもりた­る½諸経をもよみたてまつらん事、 つみ­に½なるべきかと不審をなして、 あざむくともがらもまじはれり。 それはつみになるべきにては、 いかでかは侍るべき。

末代の衆生、 その行成就しがたきによりて、 まづ弥陀の願力にのりて、 念仏往生をとげてのち、 浄土にて阿弥陀如来・観音・勢至0465にあひたてまつりて、 もろもろの聖教をも学し、 さとりをもひらくべきなり。 又末代の衆生、 念仏をもはらにすべき事、 その釈おほかる中に、 かつうは十方恒沙のほとけ証誠し給ふ。

又 ¬観経の疏¼ の第三 (定善義) に善導の給はく、 「自余衆行雖名是善、 若比念仏全非比挍也。 是故諸経中処々広讃念仏功能。 如¬无量寿経¼四十八願中、 唯明専念名号得生。 又如¬弥陀経¼中、 一日七日専念弥陀名号得生。 又十方恒沙諸仏証誠不虚也。 又此¬経¼定散文中、 唯標専念名号徳抄。 此例非一也。 広顕念仏三昧竟」 とあり。

又善導の ¬往生礼讃¼(意) のなかの専修雑修の文等にも、 「雑修のものは往生をうる事、 万がなかに一、 二なをかたし。 専修のものは、 百に百ながらむまる」 といへり。 これらはすなはち、 何事もその門にいりなんには、 一向にもはら他の心あるべからざるゆへなり。

たとへば今生にも主君につかへ、 人をあひたのむみち、 他人に心ざしをわくると、 一向にあひたのむと、 ほちしからざる事也。 たゞし家ゆたかにして、 のり物、 僮僕もかなひ、 面々に心ざしをいたすちからもたへたるともがらは、 かたがたに心ざしをわくといへども、 ­そ½の功むなしからず。 かくのごときの­ちか½らにたへざるものは、 所々をかぬるあひだ、 身はつかるといへども、 そのしるしをえがたし。 一向に人一人をたのめば、 ま0466づしき物も、 かならずそのあはれみをうる也。

すなはち末代悪世の无智の衆生は、 かのまづしき物のごときなり。 むかしの権者聖人は、 家ゆたかなる衆生のごとき也。 しかれば、 无智の身をもて智者の行をまなばんにおきては、 まづしき物の得人をまなばんがごとき也。

又なをたとへととらば、 たかき山の、 人もかよふべくもなからん巌石を、 ちからたらざらんもの、 いしのかど木の根にとりすがりてのぼらんとはげまんは、 雑行を修して往生をねがはんがごときなり。 かの山のみねより、 つよきつなをおろしたらんにすがりて­の½ぼらん­は、½ 弥陀の願力をふかく信じて、 一向に念仏をつとめば、 往生せんがごときなるべし。

又一向専修には、 ことに三心を具足すべき也。 三心といふは、 一には至誠心、 二には深心、 三には廻向発願心也。

至誠心といふは、 余仏を礼せず弥陀を礼し、 余行を修せず弥陀を念じて、 もはらにしてもはらならしむる也。

深心といふは、 弥陀の本願をふかく信じて、 わが身は无始よりこのかた罪悪生死の凡夫として、 生死をまぬかるべきみちなきを、 弥陀の本願不可思議なるによりて、 かの名号を一向に称念して、 うたがひをなす心なければ、 一念のあひだに八十億劫の生死のつみを滅して、 最後臨終の時、 かならず弥陀の来迎にあづかる也。

廻向発願心といふ0467は、 自他の行を真実の心の中に回向発願する也。

この三心、 一つもかけぬれば、 往­生½をとげがたし。 しかれば、 他の­行½をまじえんによりて罪になるべからずといへども、 なを念仏往生を不定に存じていさゝかのうたがひをのこして、 他事をくわふるにて侍るべき也。

たゞしこの三心のなかに、 至誠心をやうやうに心えて、 ことにまことをいたす事を、 かたく申しなすともがらも侍るにや。 しからば、 弥陀の本願の本意にもたがひて、 信心はかけぬるにてあるべき也。

いかに信力をいたすといふともがらも、 造悪の凡夫の身の信力にて、 願を成就せんほどの信力は、 いかでか侍るべき。 たゞ一向に往生を決定せんずればこそ、 本願の不思議にて侍るべけれ。

さやうに信力もふかく、 よからん人のためには、 かくあながちに不思議の本願をおこし給ふべきにあらず、 この道理をば存じながら、 ま事しく専修念仏の一行にいたる人はいみじくありがたき也。

しかるを道綽禅師は決定往生の先達なり、 智恵ふかくして講説を修し給ひき。 曇鸞法師の三世已下の弟子也。 かの曇師は智恵高遠なりといへども、 四論の講説をすてゝ、 ひとへに往生の業を修して、 一向にもはら弥陀を念じて、 相続无間にして、 現に往生し給へり。

かくのごとき道綽は、 講説をやめて念仏を修し、 善導は雑修をきらひて専修をつとめ給0468ひき。 又道綽禅師のすゝめによりて、 州の三県の人、 七歳已後一向に念仏を修すといへり。

しかれば、 わが朝の末法の衆生、 なんぞあながちに雑修をこのまんや。 たゞすみやかに弥陀如来の願、 釈迦如来の説、 道綽・善導の釈をまなぶに、 雑修を修して極楽の果を不定に存ぜんよりは、 専修の業を行じて往生ののぞみを決定すべきなり。

かの道綽・善導等の釈は、 念仏門の人々の事なれば、 左右におよぶべからず。

法相宗におきては、 専修念仏門をば信向せざるかと存ずるところに、 慈恩大師の ¬西方要決¼ にいはく、 「末法万年余経悉滅。 弥陀一教利物偏増」 と釈し給へり。 又おなじき ¬書¼(西方要決意) にいはく、 「三空九断之文、 十地・五修之訓、 生期分促死路非運、 不如暫息多聞之広学、 専念仏之軍修」 といへり。

しかのみならず、 又 ¬大聖竹林寺の記¼ にいはく、 「五台山竹林寺の大講堂の中にして、 普賢・文殊東西に対座して、 もろもろの衆生のために妙法をとき給ふ時、 法照禅師ひざまづきて、 文殊に問たてまつりき。 未来悪世の凡夫、 いづれの法をおこなひてか、 ながく三界をいでゝ浄土にむまるゝ事をうべきと。 文殊こたへての給はく、 往生浄土のはかり事、 弥陀の名号にすぎたるはなく、 頓証菩提のみち、 たゞ称念の一門にあり。 これによて、 釈迦一代の聖教におほくほむるところみな弥陀にあり0469。 いかにいはんや、 未来悪世の凡夫をやとこたへ給へり」。

かくのごときの要文等、 智者たちのおしへを見ても、 なを信心なくして、 ありがたき人界をうけて、 ゆきやすき浄土にいらざらん事、 後悔なに事かこれにしかんや。

かつうは又、 かくのごときの専修念仏のともがらを、 当世にもはら難をくわえて、 あざけりをなすともがらおほくきこゆ。 これ又むかしの権者たち、 かねてまづさとりしり給へる事也。

文殊の給はく、 「於未来世悪衆生、 称念西方弥陀号、 依仏本願出生死、 以直心故生極楽。」 善導の ¬法事讃¼ にいはく、 「世尊説法時将了、 慇懃付嘱弥陀名、 五濁増時多疑謗、 道俗相嫌不用聞、 見有修行起瞋毒、 方便破壊競生怨、 如此生盲闡提輩、 毀滅頓教永沈淪、 超過大地微塵劫、 未可得離三塗身、 大衆同心皆懺悔、 諸有破法罪因縁。」

又 ¬平等覚経¼ にいはく、 「もし善男子・善女人ありて、 かくのごときらの浄土の法門をとくをきゝて、 悲喜をなして身の毛いよだつ事をしてぬきいだすがごとくするは、 しかるべし、 この人過去にすでに仏道をなしてきたれる也。 もし又これをきくといふとも、 すべて信楽せざらんにおきては、 しるべし、 この人はじめて三悪道のなかよりきたれる也」。

しかれば、 かくのごときの謗難のともがらは、 左右なき罪人のよしをしりて、 論談にあたふべ0470からざる事也。

又十善かたくたもたずして、 利・都率をねがはん、 きはめてかなひがたし。 極楽は五逆のもの念仏によりてむまる。 いはんや、 十悪においてはさわりとなるべからず。 又慈尊の出世を期せんにも、 五十六億七千万歳、 いとまちどを也、 いまだしらず。 他方の浄土そのところどころにはかくのごときの本願なし、 極楽はもはら弥陀の願力はなはだふかし、 なんぞほかをもとむべき。

このたび仏法に縁をむすびて、 三生・四生に得脱せんとのぞみをかくるともがらあり、 この願きわめて不定也。 大通結縁の人、 信楽慚愧のころものうらに、 一乗无価の玉をかけて、 隔生即亡して、 三千塵点があひだ六趣に輪廻せしにあらずや。 たとひ又、 三・四生に縁をむすびて、 必定得脱すべきにても、 それをまちつけん輪廻のあひだのくるしみ、 いとたへがたかるべし、 いとまちどをなるべし。

又かの聖道門においては、 三乗・五乗の得道也。 この行は多百千劫也。 こゝにわれら、 このたびはじめて人界の生をうけたるにてもあらず、 世々生々をへて、 如来の教化にも、 菩薩の弘経にも、 いくそばくかあひたてまつりたりけん。 たゞ不信にして教化にもれきたれるなるべし。

三世諸仏・十方菩薩、 思へばみなこれむかしのとも也。 釈迦も五百塵点のさき、 弥陀も十劫成道のさきは、 かたじけなく父母・師0471弟ともたがひになり給ひけん。 ほとけは前仏の教をうけ、 善知識のおしへを信じて、 はやく発心修行し給ひて、 成仏してひさしくなり給にける。 われらは信心おろかなるゆへに、 いまに生死にとまれるなるべし。

過去の輪転をおもへば、 未来も又かくのごとし。 たとひ二乗の心をおこすといふとも、 菩提心をばおこしがたし。 如来は勝方便としておこなひ給へり。 濁世の衆生、 自力をはげまさんには、 百千万億劫難行苦行をいたすといふとも、 その勤およぶところにあらず。

又かの聖道門は、 よく清浄にして、 そのうつは物にたれらん人のつとむべき行也。 懈怠不信にしては、 中々行ぜざらんよりも、 罪業の因となるかたもありぬべし。 念仏門においては、 行住坐臥ねてもさめても持念するに、 そのたよりとがなくして、 そのうつは物をきらはず、 ことごとく往生の因となる事うたがひなし。

「彼仏因中立弘誓聞名念我総来迎
不簡貧窮将富貴不簡下智与高才
不簡多聞持浄戒不簡破戒罪根深
但使廻心多念仏能令瓦礫変成金」(五会法事讃巻本)

といへり。

又いみじき経論・聖教の智者といへども、 最後臨終の時、 その文を暗誦0472するにあたはず。 念仏においては、 いのちをきわむるにいたるまで、 称念するにそのわづらひなし。

又ほとけの誓願のためしをひかんにも、 薬師の十二の誓願には不取正覚の願なく、 千手の願は不取正覚とちかひ給へるも、 いまだ正覚なり給はず。 弥陀は不取正覚の願をおこして、 正覚なりて、 すでに十劫をへ給へり。 かくのごときのちかひに信をいたさゞらん人は、 又他の法門をも信仰するにおよばず。

しかれば、 返々も一向専修の念仏に信をいたして、 他の心なく、 日夜朝暮、 行住坐臥に、 おこたる事なく称念すべき也。 専修念仏をいたすともがら、 当世にも往生をとぐるきこへ、 そのかずおほし。 雑修の人においては、 そのきこへきわめてありがたし。

そもそもこれを見ても、 なをよこさまのひがゐんにいりて、 物難ぜんとおもはんともがらは、 さだめていよいよいきどをりをなして、 しからば、 むかしよりほとけのときをき給へる経論・聖教、 みなもて无益のいたづら物にて、 うせなんとするにこそなんど、 あざけり申さんず­ら½ん。

それは天臺・法相の本寺・本山に修学をいとなみて、 名をも存じ、 おほやけにもつかへて、 官位をものぞまんとおもはんにおいては、 左右におよぶべからず。 又上根利智の人は、 そのかぎりにあらず。 この心をえてよく了見する人は、 あやまりて聖道門をことにおも0473くするゆへと存ずべき也。

しかるを、 なを念仏にあひかねてつとめをいただん事は、 聖道門をすでに念仏の助行にもちゐるべきか。 その条こそ、 返々羞悪同門をうしなふにては侍りけれ。

たゞこの念仏門は、 返々も又他の心なく後世を思はんともがらの、 よしなき僻胤におもむきて、 時をも身をもはからず、 難行­をも½修して、 このたび­たま½たまありがたき人界­に½むまれて、 さば­か½りあひがたかるべき弥陀のちかひをすてゝ、 又三塗の旧界に返りて、 生死に輪転して、 多百千劫をへんかなしさを思ひしらん人の身のためを申也。

さらば、 諸宗のいきどほりにはおよぶべからざる事也。

 

八、 浄土宗略抄

浄土宗略抄 第八

このたび生死をはなるゝみち、 浄土にむまるるにすぎたるはなし。 浄土にむまるゝおこなひ、 念仏にすぎたるはなし。 おほかたうき世をいでゝ仏道にいるにおほくの門ありといへども、 おほき­にわか½ちて二門を出す。 すなはち聖道門と浄土­門と也。½

はじめに聖道門といは、 この娑婆世­界にありな½がら­まどいを½たち、 さとりをひ­ら½く道也。 これにつきて大乗の聖道あり小乗の聖道あり。 大乗0474に又二あり、 すなはち仏乗と菩薩乗と也。 これらを総じて四乗となづく。

たゞしこれらはみな、 このごろわれらが身にたえたる事にあらず。 このゆへに道綽禅師は、 「聖道の一種は、 今時に証しがたし」(安楽集巻上) との給へり。 されば、 おのおのゝおこなふやうを申して詮なし。 たゞ聖道門は、 聞とをくしてさとりがたく、 まどひやすくしてわが分におもひよらぬみち也とおもひはなつべき也。

つぎに浄土門といは、 この娑婆世界をいとひすてゝ、 いそぎて極楽にむまるゝ也。 かのくにゝむまるゝ事は、 阿­弥½陀仏­の½ちかひにて、 人の善悪をえらばず、 たゞほとけのちかひをた­の½みたのまざるによる也。 ­こ½のゆへに道綽は、 「浄土の一門のみありて、 通入すべきみちなり」(安楽集巻上) との給へり。

さればこのごろ生死をはなれんと思はん人は、 証しがたき聖道をすてゝ、 ゆきやすき浄土をねがふべき也。

この聖道・浄土をば、 難行道・易行道となづけたり。 たとへをとりてこれをいふに、 「難行道はけわしきみちをかちにてゆくがごとし、 易行道は海路をふねにのりてゆくがごとし」(十重論観五易行品意) といへり。 あしなえ、 目しゐたらん人は、 かゝるみちにはむかふべからず。 たゞふねにのりてのみ、 むかひのきしにはつく也。

しかるにこのごろのわれらは、 智恵のまなこしゐて、 行法のあしおれたるとも0475­が½ら也。 ­聖½道難行のけ­は½しきみちには、 総じてのぞみをたつべし。 たゞ弥陀の本願のふねにのりて、 生死のうみをわたり、 極楽のきしにつくべき也。 いまこのふねはすなはち弥陀の本願にたとふる也。

その本願といは、 弥陀のむかしはじめて道心をおこして、 国王のくらひをすてゝ出家して、 ほとけになりて衆生をすくはんとおぼしめしゝ時、 浄土をまうけむために、 四十八願をおこし給ひしなかに、 第十八の願にいはく、 「もしわれほとけにならんに、 十方の衆生、 わがくにゝむまれんとねがひて、 わが名号をとなふる事、 しも十声にいたるまで、 わが願力に乗じて、 もしむまれずは、 われ­ほと½けにならじ」(大経巻上意) と­ち½かひ給ひて、 その願を­おこなひあら½はして、 ­い½ますでにほとけにな­り½て十劫をへ給へり。

されば善導の釈には、 「かのほとけ、 いま現に世にましまして成仏し給へり。 まさにしるべし、 本誓重願むなしからず、 衆生称念せばかならず往生する事を得」(礼讃) との給へり。 このことはりをおもふに、 弥陀の本願を信じて念仏申さん人は、 往生うたがふべからず。

よくよくこのことはりを思ひときて、 いかさまにも、 まづ阿弥陀仏のちかひをたのみて、 ひとすじに念仏を申して、 ことさとりの人の、 とかくいひさまたげむにつきて、 ほとけのちかひをうたがふ心ゆめゆめ0476あるべからず。

かやうに心えて、 さきの聖道門はわが分にあらずと思ひすてゝ、 この浄土門にいりて­ひ½とすぢにほとけのちかひをあふぎて、 名号をとなふるを、 浄土門の行者とは申す也。 これを聖道・浄土の二門と申すなり。

つぎに浄土門にいりておこなふべき行につきて申さば、 心と行と相応すべき也。 すなはち安心・起行となづく。

その安心といは、 心づかひのありさま也。 すなはち ¬観无量寿経¼ に説ていはく、 「もし衆生ありて、 かのくにゝむまれんと願ずるものは、 三種の心をおこしてすなはち往生すべし。 何等をか三とする。 一には至誠心、 二には深心、 三には廻向発願心也。 三心を具するものは、 かならずかのくにゝむまる」 といへり。

善導和尚­この三心½を­釈½しての給はく、 「はじめの至誠心­といは、½ 至といは真也、 誠とい­は½実也。 一切衆生の身口意業に修せんところの解行、 かならず真実心のなかになすべき事をあかさんとおもふ。 ほかには賢善精進の相を現じて、 うちには虚仮をいだく事を得ざれ」(散善義)

又 「内外明闇をきらはず、 かならず真実をもちゐるがゆへに至誠心」(散善義) とゝかれたるは、 すなはち真実心の心なり。 真実といふは、 身にふるまひ、 口にいひ、 心に思はん事も、 うちむなしくしてほかをかざる心なきをいふなり。

詮じては、 まことに穢土をいと0477ひ浄土をねがひて、 外相と内心と相応すべき也。 ほかにはかしこき相を現じて、 うちには悪をつくり、 ほかには精進­の½相を現じて、 うちには懈怠なる事なか­れと½いふ心­也。 か½る­がゆへ½に 「ほかには賢善精進の相を現じて、 う­ち½に虚仮をいだく事なかれ」 といへり。

念仏を申さんについて、 人目には六万・七万申すと披露して、 ま事にはさ程も申さずや。 又人の見るおりは、 たうとげにして念仏申すよしを見へ、 人も見ぬところには、 念仏申さずなんどするやうなる心ばへ也。

さればとて、 わろからん事をもほかにあらはさんがよかるべき事にてはなし。 たゞ詮ずるところは、 まめやかにほとけの御心にかなはん事をおもひて、 うちにま事をおこして、 外相をば譏嫌にしたが­ふべ½き也。

譏嫌にし­た½がふがよき事なれ­ばとて、 やが½て内心のま事もやぶるゝまで­ふる½まはゞ、 又至誠心かけたる心になりぬべし。 たゞうちの心のま事にて、 ほかをばとてもかくてもあるべき也。 かるがゆへに至誠心となづく。

二に深心といは、 すなはち善導釈しての給はく、 「深心とはふかく信ずる心也。 これに二つあり。 一には決定して、 わが身はこれ煩悩を具足せる罪悪生死の凡夫也。 善根薄少にして、 広劫よりこのかたつねに三界に流転して、 出離の縁なしと、 ふ0478かく信ずべし。

二にはふかく、 かの阿弥陀仏、 四十八願をもて衆生を摂受し給ふ。 すなはち名号をとなふる事、 下十声にいたるまで、 かのほとけの願力に乗じて、 さだ­め½て往­生½を得と信じて、 乃至一念もうた­がふ心なきがゆ½へに深­心と½なづく」(散善義意)

「又深心といは、 決定­し½て心をた­て½ゝ、 仏の教に順じて修行して、 ながくうたがひをのぞきて、 一切の別解・別行・異学・異見・異執のために、 退失傾動せられざれ」(散善義意) といへり。

この釈の心は、 はじめにわが身の程を信じて、 のちにはほとけのちかひを信ずる也。 のちの信心のために、 はじめの信をばあぐる也。 そのゆへは、 往生をねがはんもろもろの人、 弥陀の本願の念仏を申しながら、 わが身貪欲・瞋恚の煩悩をもおこし、 十悪・破戒の罪悪をもつくるにおそれて、 みだりにわが身をかろしめて、 かえりてほとけの本願をうた­が½ふ。

善導は、 かねてこの­う½たがひをかゞみて、 二つの信心のやうをあ­げ½て、 ­わ½れらがごときの煩悩をもおこし、 罪をもつくる凡夫­な½りとも、 ふかく弥陀の本願をあふぎて念仏すれば、 十声・一声にいたるまで、 決定して往生するむねを釈し給へり。

ま事にはじめのわが身を信ずる様を釈し給はざりせば、 われらが心ばへのありさまにては、 いかに念仏申すとも、 かのほとけの本願にかなひが0479たく、 いま一念・十念に往生するといふは、 煩悩をもおこさず、 つみをもつくらぬめでたき人にてこそらるらめ。 われらごときのともがらにてはよもあらじなんど、 身の程思ひしられて、 往生もたのみが­た½きまであ­や½うくおぼ­へ½まし候に、 この­二½つ­の½信心を釈し給­ひ½たる事、 いみじく身にしみておもふべき也。

この釈を心えわけぬ人は、 みなわが心のわろければ、 往生はかなはじなんどこそは申あひたれ。 そのうたがひをなすは、 やがて往生せぬ心ばへ也。 このむねを心えて、 ながくうたがふ心のあるまじき也。 心の善悪をもかへりみず、 つみの軽重をも沙汰せず、 たゞ口ちに南無阿弥陀仏と申せば、 仏のちかひによりて、 かならず往生するぞと決定の心をおこすべき也。

その決定の心によりて、 往生の業はさだまる也。 往生は不定におもへば不定也、 一定とおもへば一定する事也。 詮じては、 ふかく仏のちかひをたのみて、 いかなるところをもきらはず、 一­定½むかへ給ぞと信じて、 うた­が½ふ心のなきを深心とは申候也。

いかなるとがをもきらはねばとて、 法にまかせてふるまふべきにはあらず。 されば善導も、 「不善の三業をば、 真実心の中にすつべし。 善の三業をば、 真実心の中になすべし」(散善義) とこそは釈し給ひたれ。 又 「善業にあらざるをば、 うやまてこれをとをざかれ、 又0480随喜せざれ」(散善義) なんど釈し給ひたれば、 心のおよばん程はつみをもおそれ、 善にもすゝむべき事とこそは心えられたれ。

たゞ弥陀の本誓の善悪をもきらはず、 名号をとなふればかならずむかへ給ぞと信じ、 名号の功徳のいかなるとがをも除滅して、 一念・十念もかならず往生をうる事の、 めで­た½き事をふかく信じて、 うた­がふ心½一念­も½なかれ­といふ心也。½

又一­念に½往生­す½ればとて、 かならず­しも½一念にか­ぎる½べからず、 弥陀の本願の心は、 名号をとなえん事、 もしは百年にても、 十・二十年にても、 もしは四、 ­五年にて½も、 もしは一、 二年にても、 もし­は½七日・一日、 十声までも、 信心をおこして南無阿弥陀仏と申せば、 かならずむかへ給なり。

総じてこれをいへば、 上は念仏申さんと思ひはじめたらんより、 いのちおはるまでも申也。 中は七日・一日も申し、 下は十声・一声までも弥陀の願力なれば、 かならず往生すべしと信じて、 いくら程こそ本願なれとさだめず、 ­一½念までも定めて往生すと思ひて、 退­転な½くいのちおはらんまで­申½すべき也。

又まめやかに往生の心ざしありて、 弥陀の本願をたのみて念仏申さん人、 臨終のわろき事は何事にかあるべき。 そのゆへは、 仏の来迎し給ふゆへは、 行者の臨終正念のため也。 それを心えぬ人は、 みなわが臨終正念にて念仏申0481したらんおりぞ、 ほとけはむかへ給ふべきとのみ心えたるは、 仏の本願を信ぜず、 経の文を心えぬ也。

¬称讃浄土経¼ には、 「慈悲をもてくわへたすけて、 心をしてみだらしめ給はず」 ととかれたる也。 たゞの時よくよく申しおきたる念仏によりて、 ­か½ならずほとけは来迎し給ふ也。 仏の­き½たりて現じ給へ­る½を見­て、½ 称念に­は住½すと­申½すべき­也。 そ½れに­さき½の念仏をばむなしく思­ひ½な­し½て、 よしなき臨終正念をのみいのる人のおほくある、 ゆゝしき僻胤の事也。 されば、 仏の本願を信ぜん人は、 かねて臨終をうたがふ心あるべからず。 当時申さん念仏をぞ、 いよいよ心をいたして申すべき。

いつかは仏の本願にも、 臨終の時念仏申たらん人をのみ、 むかへんとはたて給ひたる。 臨終の念仏にて往生すと申事は、 もとは往生をもねがはずして、 ひとへにつみをつくりたる悪人の、 すでに死なんとする時、 はじめて善知識のすゝめにあひて、 念仏し­て½往生すとこそ、 ¬観経¼ にもとかれたれ。

­もと½より念仏を信ぜん人は、 臨終の沙汰をば­あ½ながちにすべき様もなき事也。 仏の来迎一定ならば、 臨終の称念は、 又一定とこそはおもふべきことはりなれ。 この心をよくよく心をとゞめて、 心うべき事也。

又別解・別行の人にやぶられざれといは、 さとりことに、 おこなひことなら0482ん人のいはん事につきて、 念仏をもすて、 往生をもうたがふ心なかれといふ事也。

さとりことなる人と申すは、 天臺・法相等の八宗の学匠なり。 行ことなる人と申すは、 真言・止観の一切の行者也。 これらは聖道門をならひおこなふ也。 浄土門の解行にはことなるがゆへに、 別解・別行となづくる也。

又総じておなじく念仏を申す人なれども、 弥陀の本願をばたのま­ずし½て、 自力をは­げ½みて­念½仏ばかりにてはいかゞ往生すべき。 ­異功½徳をつくり、 こと仏に­も½つかへて、 ちからをあはせてこそ往生程の大事をばとぐべけれ。 たゞ阿弥陀仏ばかりにては、 かなはじものをなんどうたがひをなし、 いひさまたげん人のあらんにも、 げにもと思ひて、 一念もうたがふ心なくて、 いかなることはりをきくとも、 往生決定の心をうしなふ事なかれと申す也。

人にいひやぶらるまじきことはりを、 善導こまかに釈し給へり。 心をとりて申さば、 たとひ仏ましまして、 十方世界にあまねくみちみちて、 光をかゞやかし舌をのべて、 煩悩罪悪の凡夫、 念仏して一定往生すといふ事、 ひが事也。 信ずべからずとの給ふとも、 それによりて、 一念もうたがふべからず。

そ­のゆへは、 仏はみな同心½に衆生を引導し給に、 すなは­ち½まづ阿弥陀仏、 浄土をまうけて、 願をおこしての給はく、 「十方衆生、 わが国にむま0483れんとねがひて、 わが名号をとなへんもの、 もしむまれずは正覚をとらじ」(大経巻上意) とちかひ給へるを、 釈迦仏この世界にいでゝ、 衆生のためにかの仏の願をとき給へり。

六方恒沙の諸仏は、 舌相を三千世界におほふて、 虚言せぬ相を現じて、 釈迦仏の弥陀の本願をほめて、 一切衆生をすゝめて、 かのほとけの名号をとなふれば、 さだめて往生すとの給­へる½は、 決定にしてうたがひなき事也。 一切­衆生み½なこの事を信ず­べしと½証誠し­給へり。½

かく­のごとく½一切諸仏、 一仏ものこらず、 同心に一切凡夫念仏して、 決定して往生すべきむねをすゝめ給へるうゑには、 いづれの仏の又往生せずとはの給ふべきぞといふことはりをもて、 仏きたりての給ふともおどろくべからずとは申す也。

仏なをしかり、 いはんや声聞・縁覚をや、 いかにいはんや、 凡夫をやと心えつれば、 一度この念仏往生を信じてんのちは、 いかなる人、 とかくいひさまたぐとも、 うたがふ心あるべからずと申す事也。 これを深心とは申すなり。

三に廻向発願心といは、 善導これを釈しての給はく、 「過去およ­び½今生の身口意業に修­す½るところの世出世の善根、 および他の身口意業に修するところの世出世の善根を随喜して、 この自他所修の善根をもて、 ことごとく真実深心のなかに廻0484向して、 かのくににむまれんとねがふ也。 かるがゆへに廻向発願心となづくる也。 又廻向発願してむまるといは、 かならず決定して、 真実心の中に廻向して、 むまるゝ事をうる思ひをなづくる也。 この心ふかくして、 なをし金剛のごとくして、 一切の異見・異学・別解・別行の人のために動乱破壊せられざれ」(散善義) といへり。

この釈の心は、 まづわが身につきて、 前世にもつくりとつくりたらん功徳を、 みなことごとく極楽に廻向して、 往生をねがふ也。 わが身の功徳­の½みならず、 一切凡聖の功徳なり。 凡といは、 凡夫のつくりたらん功徳をも、 聖といは、 仏・菩薩のつくり給はん功徳をも、 随喜すればわが功徳となるをも、 みな極楽に廻向して、 往生をねがふ也。

詮ずるところ、 往生をねがふよりほかに、 異事をばねがふまじき也。 わが身にも人の身にも、 この界の果報をいのり、 又おなじく後世の事なれども、 極楽ならぬ浄土にむまれんともねがひ、 もしは人中・天上にむまれんともねがひ、 かくのごとくかれこれに廻向する事なかれと也。

もしこのことはりを思ひさだめざらんさきに、 この土の事をもいのり、 あらぬかたへ廻向したらん功徳をもみなとり返して、 いまは一すぢに極楽に廻向して往生せんとねがふべき也。

一切の功徳をみな極楽に廻向せよといへばとて、 又念仏のほかにわざと0485功徳をつくりあつめて廻向せよといふにはあらず。 たゞすぎぬるかたの功徳をも、 今は一向に極楽に廻向し、 このゝちなりとも、 おのづからたよりにしたがひて僧をも供養し、 人に物をもほどこそあたへたらんをも、 つくらんにしたがひて、 みな往生のために廻向すべしといふ心也。

この心金剛のごとくして、 あらぬさとりの人におしへられて、 かれこれに廻向する事なかれといふ也。 金剛はいかにもやぶれぬものなれば、 たとへにとりて、 この心を廻向発願してむまると申也。

三心のありさま、 あらあらかくのごとし。 「この三心を具してかな­ら½ず往生す。 もし一心もかけぬれば、 むまるゝ事をえず」(礼讃) と、 善導は釈し給ひたれば、 もともこの心を具足すべき也。

しかるにかやうに申たつる時は、 別々­に½して事々しきやうなれども、 心えとげばやすく具­し½ぬべき心也。 詮じては、 まことの心ありて、 ふかく仏のちかひをたのみて、 往生をねがはんずる心也。 深く浅き事こそかはりめありとも、 たれも往生をもとむる程の人は、 さ程の心なき事やはあるべき。

かやうの事は疎く思へば大事におぼえ、 とりよりて沙汰すればさすがにやすき事也。 かやうにこまかに沙汰し、 しらぬ人も具しぬべく、 又よくよくしりたる人もかくる事ありぬべし。 さればこそ、 いやしくおろかなるものゝ中にも往生す0486る事もあり、 いみじくたとげなるひじりの中にも臨終わろく往生せぬもあれ。

されども、 これを具足すべき様をもとくとく心えわけて、 わが心に具したりともしり、 又かけたりとも思はんをば、 かまへてかまへて具足せんとはげむべきことなり。 これを安心となづくる也。 これぞ往生する心のありさまなる。 これをよくよく心えわくべきなり。

次に起行といは、 善導の御心によらば、 往生の行おほしといへども、 おほきにわかちて二とす。 一には正行、 二には雑行也。

正行といはこれに又あまたの行あり。 読誦正行・観察正行・礼拝正行・称名正行・讃歎供養正行、 これらを五種の正行となづく。 讃嘆と供養とを二行とわかつ時には、 六種の正行とも申也。

この正行につきて、 ふさねて二とす。 「一には一心にもはら弥陀の名号をとなへて、 行住坐臥によ­る・½ひるわするゝ事なく念々にすてざるを、 正定の業となづく、 かのほとけの願に順ずるがゆへに」(散善義意) といひて、 念仏をもてまさしくさだめたる往生の業にたてゝ、 「もし礼誦等によるをばなづけて助業とす」(散善義) といひて、 念仏のほかに阿弥陀仏を礼し、 もしは 「三部経」 をよみ、 もしは極楽のありさまを観ずるも、 讃嘆供養したてまつる事も、 みな称名念仏をたすけんがためなり。 まさ0487しくさだめたる往生の業は、 たゞ念仏ばかりといふ也。

この正と助とをのぞきて、 ほかの諸行をば、 布施をせんも、 戒をたもたんも、 精進ならんも、 禅定ならんも、 かくのごとくの六度万行、 ¬法花経¼ をよみ、 真言をおこなひ、 もろもろのおこなひをば、 ことごとくみな雑行となづく。

たゞ極楽に往生せんとおもはゞ、 一向に称名の正定業を修すべき也。 これすなはち弥陀本願の行なるがゆへに、 われらが自力にて生死をはなれぬべくは、 かならずしも本願の行にかぎるべからずといへども、 他力によらずは往生をとげがたきがゆへに、 弥陀の本願のちからをかりて、 一向に名号をとなへよと、 善導はすゝめ給へる也。

自力といは、 わがちからをはげみて往生­を½もとむる也。 他力といは、 たゞ仏のちからをたのみたてまつる也。 このゆへに正行を行ずるものをば、 専修の行者といひ、 雑行を行ずるをば、 雑修の行者と申也。

「正行を修するは、 心つねにかの国に親近して憶念ひまなし。 雑行を行ずるものは、 心つねに間断す、 廻向してむまるゝ事をうべしといへども、 疎雑の行となづく」(散善義意) といひて、 極楽にうとき行といへり。

又 「専修のものは十人は十人ながらむまれ、 百人は百人ながらむまる。 なにをもてのゆへに。 ほかに雑縁なくして称念をうるがゆへに、 弥陀の本願と相応するがゆへに、 釈0488迦の教に順ずるがゆへ也。 雑修のものは、 百人には一、 二人むまれ、 千人には四、 五人むまる。 なにをもてのゆへに。 弥陀の本願と相応せざるがゆへに、 釈迦の教に順ぜざるがゆへに、 憶想間断するがゆへに、 名利と相応するがゆへに、 みづからもさへ人の往生をもさふるがゆへに」(礼讃意) と釈し給ひたれば、

善導を信じて浄土宗にいらん人は、 一向に正行を修して、 日々の所作に、 一万・二万乃至五万・六万・十万をも、 器量のたへむにしたがひて、 いくらなりともはげみて申すべきなりとこそ心えられたれ。

それにこれをきゝながら、 念仏のほかに余行をくわふる人のおほくあるは、 心えられぬ事也。 そのゆへは、 善導のすゝめ給はぬ事をばすこしなりともくわふべき道理、 ゆめゆめなき也。 すゝめ給へる正行をだにもなをものうき身にて、 いまだすゝめ給はぬ雑行をくわふべき事は、 まことしからぬかたもありぬべし。

又つみつくりたる人だにも往生すれば、 まして功徳なれば ¬法花経¼ なんどをよまんは、 なにかはくるしかるべきなんど申す人もあり。 それらはむげにきたなき事也。 往生をたすけばこそいみじからめ、 さまたげにならぬばかりを、 いみじき事とてくわへおこなはん事は、 なにかは詮あるべき。

悪をば、 されば仏の御心にこのみてつくれとやすゝめ給へる、 かまえてとゞめよとこそ0489いましめ給へども、 凡夫のならひ、 当時のまどひにひかれて悪をつくる事はちからおよばぬ事なれば、 慈悲をおこしてすて給はぬにこそあれ。 まことに悪をつくる人のやうに、 余行どものくわへたがらんは、 ちからおよばず。

たゞし経なんどをよまん事を、 悪つくるにいひならべて、 それもくるしからねば、 ましてこれもなんどゝいはんは不便の事也。 ふかき御のりもあしく心うるものにあひぬれば、 返りて物ならずあさましくかなしき事也。 たゞあらぬさとりの人の、 ともかくも申さん事をばきゝいれずして、 すゝみぬべからん人をばこしらへすゝむべし。

さとりたがひてあらぬさまならん人なんどに、 論じあふ事なんどは、 ゆめゆめあるまじき事也。 たゞわが身一人、 まづよくよく往生をねがひて、 念仏をはげみて、 位たかく往生して、 いそぎ返りきたりて、 人々を引導せんとおもふべき也。

又善導の ¬往生礼讃¼ に、 「問ていはく、 阿弥陀仏を称念礼観するに、 現世にいかなる功徳利益かある。 こたへてい­は½く、 阿弥陀仏をとなふる事一声すれば、 すなはち八十億劫の重罪を除滅す。

又 ¬十往生経¼ にいはく、 もし衆生ありて、 阿弥陀仏を念じて往生をねがふものは、 かのほとけすなはち二十五の菩薩をつかはして、 行者を護念し給ふ。 もしは行、 もしは坐、 もしは住、 もしは臥、 もしはよる、 も0490しはひる、 一切の時、 一切のところに、 悪鬼・悪神をしてそのたよりをえしめ給はずと。

又 ¬観経¼ にいふごときは、 阿弥陀仏を称念して、 かのくにゝ往生せんとおもへば、 かの仏すなはち无数の化仏、 无数の化観音・勢至菩薩をつかはして、 行者を護念し給ふ。 さきの二十五の菩薩の、 百重千重に行者を囲繞して、 行住坐臥をとはず、 一切の時処に、 もしはひるもしはよる、 つねに行者をはなれ給はず」 と。

又いはく、 「弥陀を念じて往生せんとおもふものは、 つねに六方恒沙等の諸仏のために護念せらる。 かるがゆへに護念経となづく。 いますでにこの増上縁の誓願のたのむべきあり。 もろもろの仏子等、 いかでか心をはげまざらんや」(礼讃) といへり。

かの文の心は、 弥陀の本願をふかく信じて、 念仏して往生をねがふ人をば、 弥陀仏よりはじめたてまつりて、 十方の諸仏・菩薩、 観音・勢至・无数の菩薩、 この人を囲繞して、 行住坐臥、 よる・ひるをもきらはず、 かげのごとくにそいて、 もろもろの横悩をなす悪鬼・悪神のたよりをはらひのぞき給ひて、 現世にはよこさまなるわづらひなく安穏にして、 命終の時は極楽世界へむかへ給ふ也。

されば、 念仏を信じて往生をねがふ人、 ことさらに悪魔をはらはんために、 よろづのほとけ・かみにいのりをもし、 つゝしみをもする事は、 なじかはあるべき。 い0491はんや、 仏に帰し、 法に帰し、 僧に帰する人には、 一切の神王、 恒沙の鬼神を眷属として、 つねにこの人をまぼり給ふといへり。 しかれば、 かくのごときの諸仏・諸神、 囲繞してまぼり給はんうゑは、 又いづれの仏・神ありてなやまし、 さまたぐる事あらん。

又宿業かぎりありて、 うくべからんやまひは、 いかなるもろもろのほとけ・かみにいのるとも、 それによるまじき事也。 いのるによりてやまひもやみ、 いのちものぶる事あらば、 たれかは一人としてやみしぬる人あらん。 いはんや、 又仏の御ちからは、 念仏を信ずるものをば、 転重軽受といひて、 宿業かぎりありて、 おもくうくべきやまひを、 かろくうけさせ給ふ。 いはんや、 非業をはらひ給はん事ましまさゞらんや。

されば念仏を信ずる人は、 たとひいかなるやまひをうくれども、 みなこれ宿業也。 これよりもおもくこそうくべきに、 ほとけの御ちからにて、 これほどもうくるなりとこそは申す事なれ。 われらが悪業深重なるを滅して極楽に往生する程の大事をすらとげさせ給ふ。 ましてこのよにいか程ならぬいのちをのべ、 やまひをたすくるちからましまさゞらんやと申す事也。

されば後生をいのり、 本願をたのむ心もうすき人は、 かくのごとく囲繞にも護念にもあづかる事なしとこそ、 善導はの給ひたれ。 おなじく念仏すとも、 ふかく信を0492おこして、 穢土をいとひ極楽をねがふべき事也。 かまへて心をとゞめて、 このことはりをおもひほどきて、 一向に信心をいたして、 つとめさせ給ふべき也。

これらはかやうにこまかに申のべたるは、 わたくしのことばおほくして、 あやまりやあらんと、 あなづりおぼしめす事ゆめゆめあるべからず。 ひとへに善導の御ことばをまなび、 ふるき文釈の心をぬきいだして申す事也。 うたがひをなす心なくて、 かまへて心をとゞめて御らんじときて、 心えさせ給ふべき也。 あなかしこ、 あなかしこ。 この定に心えて、 念仏申さんにすぎたる往生の義はあるまじき事にて候なり。

本にいはく、 この書はかまくらの二位の禅尼の請によて、 しるし進ぜらるゝ書也 云云

 

黒谷上人語灯録巻第十二

 

底本は龍谷大学蔵元亨元年刊本。