八(473)、 浄土宗略抄

▲浄じょう土ど宗しゅう略抄りゃくしょう 第八だいはち

このたび生しょう死じをはなるゝみち、 浄じょう土どにむまるるにすぎたるはなし。 浄じょう土どにむまるゝおこなひ、 念仏ねんぶつにすぎたるはなし。 おほかたうき世よをいでゝ仏道ぶつどうにいるにおほくの門もんありといへども、 おほき[にわか]ちて二に門もんを出いだす。 すなはち聖しょう道どう門もんと浄じょう土ど[門もんと也なり。]

はじめに聖しょう道どう門もんといは、 この娑しゃ婆ば世せ[界かいにありな]がら[まどいを]たち、 さとりをひ[ら]く道みち也なり。 これにつきて大だい乗じょうの聖しょう道どうあり小乗しょうじょうの聖しょう道どうあり。 大だい乗じょう0474に又また二にあり、 すなはち仏ぶつ乗じょうと菩ぼ薩さつ乗じょうと也なり。 これらを総そうじて四し乗じょうとなづく。

たゞしこれらはみな、 このごろわれらが身みにたえたる事ことにあらず。 このゆへに道どう綽しゃく禅ぜん師じは、 「▲聖しょう道どうの一種いっしゅは、 今こん時じに証しょうしがたし」 (安楽集巻上) との給たまへり。 されば、 おのおのゝおこなふやうを申もうして詮せんなし。 たゞ聖しょう道どう門もんは、 聞もんとをくしてさとりがたく、 まどひやすくしてわが分ぶんにおもひよらぬみち也なりとおもひはなつべき也なり。

つぎに浄じょう土ど門もんといは、 この娑しゃ婆ば世せ界かいをいとひすてゝ、 いそぎて極楽ごくらくにむまるゝ也なり。 かのくにゝむまるゝ事ことは、 阿あ[弥み]陀だ仏ぶつ[の]ちかひにて、 人ひとの善悪ぜんあくをえらばず、 たゞほとけのちかひをた[の]みたのまざるによる也なり。 [こ]のゆへに道どう綽しゃくは、 「▲浄じょう土どの一門いちもんのみありて、 通つう入にゅうすべきみちなり」 (安楽集巻上) との給たまへり。

さればこのごろ生しょう死じをはなれんと思おもはん人ひとは、 証しょうしがたき聖しょう道どうをすてゝ、 ゆきやすき浄じょう土どをねがふべき也なり。

この聖しょう道どう・浄じょう土どをば、 難なん行ぎょう道どう・易い行ぎょう道どうとなづけたり。 たとへをとりてこれをいふに、 「▲難なん行ぎょう道どうはけわしきみちをかちにてゆくがごとし、 易い行ぎょう道どうは海かい路ろをふねにのりてゆくがごとし」 (十重論観五易行品意) といへり。 あしなえ、 目めしゐたらん人ひとは、 かゝるみちにはむかふべからず。 たゞふねにのりてのみ、 むかひのきしにはつく也なり。

しかるにこのごろのわれらは、 智恵ちえのまなこしゐて、 行ぎょう法ほうのあしおれたるとも0475[が]ら也なり。 [聖しょう]道どう難なん行ぎょうのけ[は]しきみちには、 総そうじてのぞみをたつべし。 たゞ弥陀みだの本願ほんがんのふねにのりて、 生しょう死じのうみをわたり、 極楽ごくらくのきしにつくべき也なり。 いまこのふねはすなはち弥陀みだの本願ほんがんにたとふる也なり。

その本願ほんがんといは、 弥陀みだのむかしはじめて道心どうしんをおこして、 国王こくおうのくらひをすてゝ出しゅっ家けして、 ほとけになりて衆しゅ生じょうをすくはんとおぼしめしゝ時とき、 浄じょう土どをまうけむために、 四し十じゅう八願はちがんをおこし給たまひしなかに、 第だい十じゅう八はちの願がんにいはく、 「▲もしわれほとけにならんに、 十方じっぽうの衆しゅ生じょう、 わがくにゝむまれんとねがひて、 わが名みょう号ごうをとなふる事こと、 しも十じっ声しょうにいたるまで、 わが願力がんりきに乗じょうじて、 もしむまれずは、 われ[ほと]けにならじ」 (大経巻上意) と[ち]かひ給たまひて、 その願がんを[おこなひあら]はして、 [い]ますでにほとけにな[り]て十劫じっこうをへ給たまへり。

されば善導ぜんどうの釈しゃくには、 「▲かのほとけ、 いま現げんに世よにましまして成じょう仏ぶつし給たまへり。 まさにしるべし、 本誓ほんぜい重じゅう願がんむなしからず、 衆しゅ生じょう称しょう念ねんせばかならず往おう生じょうする事ことを得う」 (礼讃) との給たまへり。 このことはりをおもふに、 弥陀みだの本願ほんがんを信しんじて念仏ねんぶつ申もうさん人ひとは、 往おう生じょううたがふべからず。

よくよくこのことはりを思おもひときて、 いかさまにも、 まづ阿あ弥陀みだ仏ぶつのちかひをたのみて、 ひとすじに念仏ねんぶつを申もうして、 ことさとりの人ひとの、 とかくいひさまたげむにつきて、 ほとけのちかひをうたがふ心こころゆめゆめ0476あるべからず。

かやうに心こころえて、 さきの聖しょう道どう門もんはわが分ぶんにあらずと思おもひすてゝ、 この浄じょう土ど門もんにいりて[ひ]とすぢにほとけのちかひをあふぎて、 名みょう号ごうをとなふるを、 浄じょう土ど門もんの行ぎょう者じゃとは申もうす也なり。 これを聖しょう道どう・浄じょう土どの二に門もんと申もうすなり。

つぎに浄じょう土ど門もんにいりておこなふべき行ぎょうにつきて申もうさば、 心しんと行ぎょうと相応そうおうすべき也なり。 すなはち安心あんじん・起き行ぎょうとなづく。

その安心あんじんといは、 心こころづかひのありさま也なり。 すなはち ¬観かん无む量りょう寿じゅ経きょう¼ に説ときていはく、 「▲もし衆しゅ生じょうありて、 かのくにゝむまれんと願がんずるものは、 三種さんしゅの心しんをおこしてすなはち往おう生じょうすべし。 ◆何なん等らをか三さんとする。 一いちには至し誠じょう心しん、 二にには深心じんしん、 三さんには廻え向こう発願ほつがん心しん也なり。 三心さんしんを具ぐするものは、 かならずかのくにゝむまる」 といへり。

善導ぜんどう和か尚しょう[この三心さんしん]を[釈しゃく]しての給たまはく、 「▲はじめの至し誠じょう心しん[といは、] ◆至しといは真しん也なり、 誠じょうとい[は]実じつ也なり。 ◆一切いっさい衆しゅ生じょうの身しん口意くい業ごうに修しゅせんところの解げ行ぎょう、 かならず真実しんじつ心しんのなかになすべき事ことをあかさんとおもふ。 ◆↓ほかには賢善けんぜん精しょう進じんの相そうを現げんじて、 うちには虚仮こけをいだく事ことを得えざれ」 (散善義)。

又また 「▲内ない外げ明みょう闇あんをきらはず、 かならず真実しんじつをもちゐるがゆへに至し誠じょう心しん」 (散善義) とゝかれたるは、 すなはち真実しんじつ心しんの心こころなり。 真実しんじつといふは、 身みにふるまひ、 口くちにいひ、 心こころに思おもはん事ことも、 うちむなしくしてほかをかざる心こころなきをいふなり。

詮せんじては、 まことに穢土えどをいと0477ひ浄じょう土どをねがひて、 外げ相そうと内心ないしんと相応そうおうすべき也なり。 ほかにはかしこき相そうを現げんじて、 うちには悪あくをつくり、 ほかには精しょう進じん[の]相そうを現げんじて、 うちには懈け怠だいなる事ことなか[れと]いふ心こころ[也なり。 か]る[がゆへ]に 「↑ほかには賢善けんぜん精しょう進じんの相そうを現げんじて、 う[ち]に虚仮こけをいだく事ことなかれ」 といへり。

念仏ねんぶつを申もうさんについて、 人ひと目めには六万ろくまん・七万しちまん申もうすと披ひ露ろうして、 ま事ことにはさ程ほども申もうさずや。 又また人ひとの見みるおりは、 たうとげにして念仏ねんぶつ申もうすよしを見みへ、 人ひとも見みぬところには、 念仏ねんぶつ申もうさずなんどするやうなる心こころばへ也なり。

さればとて、 わろからん事ことをもほかにあらはさんがよかるべき事ことにてはなし。 たゞ詮せんずるところは、 まめやかにほとけの御おん心こころにかなはん事ことをおもひて、 うちにま事ことをおこして、 外げ相そうをば譏き嫌げんにしたが[ふべ]き也なり。

譏き嫌げんにし[た]がふがよき事ことなれ[ばとて、 やが]て内心ないしんのま事こともやぶるゝまで[ふる]まはゞ、 又また至し誠じょう心しんかけたる心こころになりぬべし。 たゞうちの心こころのま事ことにて、 ほかをばとてもかくてもあるべき也なり。 かるがゆへに至し誠じょう心しんとなづく。

二にに深心じんしんといは、 すなはち善導ぜんどう釈しゃくしての給たまはく、 「▲深心じんしんとはふかく信しんずる心こころ也なり。 これに二ふたつあり。 ◆一ひとつには決けつ定じょうして、 わが身みはこれ煩悩ぼんのうを具ぐ足そくせる罪悪ざいあく生しょう死じの凡ぼん夫ぶ也なり。 善根ぜんごん薄はく少しょうにして、 広劫こうごうよりこのかたつねに三界さんがいに流る転てんして、 出しゅつ離りの縁えんなしと、 ふ0478かく信しんずべし。

◆二ふたつにはふかく、 かの阿あ弥陀みだ仏ぶつ、 四し十じゅう八願はちがんをもて衆しゅ生じょうを摂しょう受じゅし給たまふ。 すなはち名みょう号ごうをとなふる事こと、 下しも十じっ声しょうにいたるまで、 かのほとけの願力がんりきに乗じょうじて、 さだ[め]て往おう[生じょう]を得うと信しんじて、 乃ない至し一念いちねんもうた[がふ心こころなきがゆ]へに深じん[心しんと]なづく」 (散善義意)。

「▲又また深心じんしんといは、 決けつ定じょう[し]て心こころをた[て]ゝ、 仏ぶつの教おしえに順じゅんじて修しゅ行ぎょうして、 ながくうたがひをのぞきて、 一切いっさいの↓別べつ解げ・別べつ行ぎょう・異い学がく・異い見けん・異い執しゅうのために、 退失たいしつ傾きょう動どうせられざれ」 (散善義意) といへり。

この釈しゃくの心こころは、 はじめにわが身みの程ほどを信しんじて、 のちにはほとけのちかひを信しんずる也なり。 のちの信心しんじんのために、 はじめの信しんをばあぐる也なり。 そのゆへは、 往おう生じょうをねがはんもろもろの人ひと、 弥陀みだの本願ほんがんの念仏ねんぶつを申もうしながら、 わが身み貪欲とんよく・瞋しん恚にの煩悩ぼんのうをもおこし、 十じゅう悪あく・破は戒かいの罪悪ざいあくをもつくるにおそれて、 みだりにわが身みをかろしめて、 かえりてほとけの本願ほんがんをうた[が]ふ。

善導ぜんどうは、 かねてこの[う]たがひをかゞみて、 二ふたつの信心しんじんのやうをあ[げ]て、 [わ]れらがごときの煩悩ぼんのうをもおこし、 罪つみをもつくる凡ぼん夫ぶ[な]りとも、 ふかく弥陀みだの本願ほんがんをあふぎて念仏ねんぶつすれば、 十じっ声しょう・一いっ声しょうにいたるまで、 決けつ定じょうして往おう生じょうするむねを釈しゃくし給たまへり。

ま事ことにはじめのわが身みを信しんずる様ようを釈しゃくし給たまはざりせば、 われらが心こころばへのありさまにては、 いかに念仏ねんぶつ申もうすとも、 かのほとけの本願ほんがんにかなひが0479たく、 いま一念いちねん・十じゅう念ねんに往おう生じょうするといふは、 煩悩ぼんのうをもおこさず、 つみをもつくらぬめでたき人ひとにてこそらるらめ。 われらごときのともがらにてはよもあらじなんど、 身みの程ほど思おもひしられて、 往おう生じょうもたのみが[た]きまであ[や]うくおぼ[へ]まし候そうろうに、 この[二ふた]つ[の]信心しんじんを釈しゃくし給たま[ひ]たる事こと、 いみじく身みにしみておもふべき也なり。

この釈しゃくを心こころえわけぬ人ひとは、 みなわが心こころのわろければ、 往おう生じょうはかなはじなんどこそは申もうしあひたれ。 そのうたがひをなすは、 やがて往おう生じょうせぬ心こころばへ也なり。 このむねを心こころえて、 ながくうたがふ心こころのあるまじき也なり。 心こころの善悪ぜんあくをもかへりみず、 つみの軽重きょうじゅうをも沙汰さたせず、 たゞ口くちに南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと申もうせば、 仏ぶつのちかひによりて、 かならず往おう生じょうするぞと決けつ定じょうの心こころをおこすべき也なり。

その決けつ定じょうの心こころによりて、 往おう生じょうの業ごうはさだまる也なり。 往おう生じょうは不ふ定じょうにおもへば不ふ定じょう也なり、 一いち定じょうとおもへば一いち定じょうする事こと也なり。 詮せんじては、 ふかく仏ぶつのちかひをたのみて、 いかなるところをもきらはず、 一いち[定じょう]むかへ給たまうぞと信しんじて、 うた[が]ふ心こころのなきを深心じんしんとは申もうし候そうろう也なり。

いかなるとがをもきらはねばとて、 法ほうにまかせてふるまふべきにはあらず。 されば善導ぜんどうも、 「▲不ふ善ぜんの三業さんごうをば、 真実しんじつ心しんのなかにすつべし。 善ぜんの三業さんごうをば、 真実しんじつ心しんのなかになすべし」 (散善義) とこそは釈しゃくし給たまひたれ。 又また 「▲善業ぜんごうにあらざるをば、 うやまてこれをとをざかれ、 又また0480随ずい喜きせざれ」 (散善義) なんど釈しゃくし給たまひたれば、 心こころのおよばん程ほどはつみをもおそれ、 善ぜんにもすゝむべき事こととこそは心こころえられたれ。

たゞ弥陀みだの本誓ほんぜいの善悪ぜんあくをもきらはず、 名みょう号ごうをとなふればかならずむかへ給たまうぞと信しんじ、 名みょう号ごうの功く徳どくのいかなるとがをも除滅じょめつして、 一念いちねん・十じゅう念ねんもかならず往おう生じょうをうる事ことの、 めで[た]き事ことをふかく信しんじて、 うた[がふ心こころ]一念いちねん[も]なかれ[といふ心こころ也なり。]

又また一いち[念ねんに]往おう生じょう[す]ればとて、 かならず[しも]一念いちねんにか[ぎる]べからず、 弥陀みだの本願ほんがんの心こころは、 名みょう号ごうをとなえん事こと、 もしは百ひゃく年ねんにても、 十じゅう・二に十じゅう年ねんにても、 もしは四し、 [五ご年ねんにて]も、 もしは一いち、 二に年ねんにても、 もし[は]七日しちにち・一日いちにち、 十じっ声しょうまでも、 信心しんじんをおこして南無なも阿あ弥陀みだ仏ぶつと申もうせば、 かならずむかへ給たまうなり。

総そうじてこれをいへば、 上かみは念仏ねんぶつ申もうさんと思おもひはじめたらんより、 いのちおはるまでも申もうす也なり。 中なかは七日しちにち・一日いちにちも申もうし、 下しもは十じっ声しょう・一いっ声しょうまでも弥陀みだの願力がんりきなれば、 かならず往おう生じょうすべしと信しんじて、 いくら程ほどこそ本願ほんがんなれとさだめず、 [一いち]念ねんまでも定さだめて往おう生じょうすと思おもひて、 退たい[転てんな]くいのちおはらんまで[申もう]すべき也なり。

又またまめやかに往おう生じょうの心こころざしありて、 弥陀みだの本願ほんがんをたのみて念仏ねんぶつ申もうさん人ひと、 臨りん終じゅうのわろき事ことは何事なにごとにかあるべき。 そのゆへは、 仏ぶつの来迎らいこうし給たまふゆへは、 行ぎょう者じゃの臨りん終じゅう正しょう念ねんのため也なり。 それを心こころえぬ人ひとは、 みなわが臨りん終じゅう正しょう念ねんにて念仏ねんぶつ申もう0481したらんおりぞ、 ほとけはむかへ給たまふべきとのみ心こころえたるは、 仏ぶつの本願ほんがんを信しんぜず、 経きょうの文もんを心こころえぬ也なり。

¬称しょう讃さん浄じょう土ど経きょう¼ には、 「▲慈悲じひをもてくわへたすけて、 心こころをしてみだらしめ給たまはず」 ととかれたる也なり。 たゞの時ときよくよく申もうしおきたる念仏ねんぶつによりて、 [か]ならずほとけは来迎らいこうし給たまふ也なり。 仏ぶつの[き]たりて現げんじ給たまへ[る]を見み[て、] 称しょう念ねんに[は住じゅう]すと[申もう]すべき[也なり。 そ]れに[さき]の念仏ねんぶつをばむなしく思おも[ひ]な[し]て、 よしなき臨りん終じゅう正しょう念ねんをのみいのる人ひとのおほくある、 ゆゝしき僻胤ひがいんの事こと也なり。 されば、 仏ぶつの本願ほんがんを信しんぜん人ひとは、 かねて臨りん終じゅうをうたがふ心こころあるべからず。 当とう時じ申もうさん念仏ねんぶつをぞ、 いよいよ心こころをいたして申もうすべき。

いつかは仏ぶつの本願ほんがんにも、 臨りん終じゅうの時とき念仏ねんぶつ申もうしたらん人ひとをのみ、 むかへんとはたて給たまひたる。 臨りん終じゅうの念仏ねんぶつにて往おう生じょうすと申もうす事ことは、 もとは往おう生じょうをもねがはずして、 ひとへにつみをつくりたる悪人あくにんの、 すでに死しなんとする時とき、 はじめて善ぜん知ぢ識しきのすゝめにあひて、 念仏ねんぶつし[て]往おう生じょうすとこそ、 ¬観かん経ぎょう¼ にもとかれたれ。

[もと]より念仏ねんぶつを信しんぜん人ひとは、 臨りん終じゅうの沙汰さたをば[あ]ながちにすべき様ようもなき事こと也なり。 仏ぶつの来迎らいこう一いち定じょうならば、 臨りん終じゅうの称しょう念ねんは、 又また一いち定じょうとこそはおもふべきことはりなれ。 この心こころをよくよく心こころをとゞめて、 心こころべき事こと也なり。

又また 「↑別べつ解げ・別べつ行ぎょうの人ひとにやぶられざれ」 といは、 さとりことに、 おこなひことなら0482ん人ひとのいはん事ことにつきて、 念仏ねんぶつをもすて、 往おう生じょうをもうたがふ心こころなかれといふ事こと也なり。

さとりことなる人ひとと申もうすは、 天臺てんだい・法相ほっそう等とうの八はっ宗しゅうの学がく匠しょうなり。 行ぎょうことなる人ひとと申もうすは、 真言しんごん・止し観かんの一切いっさいの行ぎょう者じゃ也なり。 これらは聖しょう道どう門もんをならひおこなふ也なり。 浄じょう土ど門もんの解げ行ぎょうにはことなるがゆへに、 別べつ解げ・別べつ行ぎょうとなづくる也なり。

又また総そうじておなじく念仏ねんぶつを申もうす人ひとなれども、 弥陀みだの本願ほんがんをばたのま[ずし]て、 自じ力りきをは[げ]みて[念ねん]仏ぶつばかりにてはいかゞ往おう生じょうすべき。 [異いこと功く]徳どくをつくり、 こと仏ほとけに[も]つかへて、 ちからをあはせてこそ往おう生じょう程ほどの大だい事じをばとぐべけれ。 たゞ阿あ弥陀みだ仏ぶつばかりにては、 かなはじものをなんどうたがひをなし、 いひさまたげん人ひとのあらんにも、 げにもと思おもひて、 一念いちねんもうたがふ心こころなくて、 いかなることはりをきくとも、 往おう生じょう決けつ定じょうの心こころをうしなふ事ことなかれと申もうす也なり。

人ひとにいひやぶらるまじきことはりを、 善導ぜんどうこまかに釈しゃくし給たまへり。 心こころをとりて申もうさば、 たとひ仏ぶつましまして、 十方じっぽう世せ界かいにあまねくみちみちて、 光ひかりをかゞやかし舌したをのべて、 煩悩ぼんのう罪悪ざいあくの凡ぼん夫ぶ、 念仏ねんぶつして一いち定じょう往おう生じょうすといふ事こと、 ひが事ごと也なり。 信しんずべからずとの給たまふとも、 それによりて、 一念いちねんもうたがふべからず。

そ[のゆへは、 仏ぶつはみな同心どうしん]に衆しゅ生じょうを引導いんどうし給たまうに、 すなは[ち]まづ阿あ弥陀みだ仏ぶつ、 浄じょう土どをまうけて、 願がんをおこしての給たまはく、 「十方じっぽう衆しゅ生じょう、 わが国くににむま0483れんとねがひて、 わが名みょう号ごうをとなへんもの、 もしむまれずは正しょう覚がくをとらじ」 (大経巻上意) とちかひ給たまへるを、 釈しゃ迦か仏ぶつこの世せ界かいにいでゝ、 衆しゅ生じょうのためにかの仏ぶつの願がんをとき給たまへり。

六方ろっぽう恒沙ごうじゃの諸仏しょぶつは、 舌相ぜっそうを三千さんぜん世せ界かいにおほふて、 虚言きょごんせぬ相そうを現げんじて、 釈しゃ迦か仏ぶつの弥陀みだの本願ほんがんをほめて、 一切いっさい衆しゅ生じょうをすゝめて、 かのほとけの名みょう号ごうをとなふれば、 さだめて往おう生じょうすとの給たま[へる]は、 決けつ定じょうにしてうたがひなき事こと也なり。 一切いっさい[衆しゅ生じょうみ]なこの事ことを信しんず[べしと]証誠しょうじょうし[給たまへり。]

かく[のごとく]一切いっさい諸仏しょぶつ、 一仏いちぶつものこらず、 同心どうしんに一切いっさい凡ぼん夫ぶ念仏ねんぶつして、 決けつ定じょうして往おう生じょうすべきむねをすゝめ給たまへるうゑには、 いづれの仏ぶつの又また往おう生じょうせずとはの給たまふべきぞといふことはりをもて、 仏ぶつきたりての給たまふともおどろくべからずとは申もうす也なり。

仏ぶつなをしかり、 いはんや声しょう聞もん・縁覚えんがくをや、 いかにいはんや、 凡ぼん夫ぶをやと心こころえつれば、 一度ひとたびこの念仏ねんぶつ往おう生じょうを信しんじてんのちは、 いかなる人ひと、 とかくいひさまたぐとも、 うたがふ心こころあるべからずと申もうす事こと也なり。 これを深心じんしんとは申もうすなり。

三さんに廻え向こう発願ほつがん心しんといは、 善導ぜんどうこれを釈しゃくしての給たまはく、 「▲過去かこおよ[び]今こん生じょうの身しん口意くい業ごうに修しゅ[す]るところの世せ出しゅっ世せの善根ぜんごん、 および他たの身しん口意くい業ごうに修しゅするところの世せ出しゅっ世せの善根ぜんごんを随ずい喜きして、 この自他じた所修しょしゅの善根ぜんごんをもて、 ことごとく真実しんじつ深心じんしんのなかに廻え0484向こうして、 かのくににむまれんとねがふ也なり。 かるがゆへに廻え向こう発願ほつがん心しんとなづくる也なり。 ◆又また廻え向こう発願ほつがんしてむまるといは、 かならず決けつ定じょうして、 真実しんじつ心しんのなかに廻え向こうして、 むまるゝ事ことをうる思おもひをなづくる也なり。 ◆この心こころふかくして、 なをし金剛こんごうのごとくして、 一切いっさいの異い見けん・異い学がく・別べつ解げ・別べつ行ぎょうの人ひとのために動乱どうらん破壊はえせられざれ」 (散善義) といへり。

この釈しゃくの心こころは、 まづわが身みにつきて、 前ぜん世せにもつくりとつくりたらん功く徳どくを、 みなことごとく極楽ごくらくに廻え向こうして、 往おう生じょうをねがふ也なり。 わが身みの功く徳どく[の]みならず、 一切いっさい凡ぼん聖しょうの功く徳どくなり。 凡ぼんといは、 凡ぼん夫ぶのつくりたらん功く徳どくをも、 聖しょうといは、 仏ぶつ・菩ぼ薩さつのつくり給たまはん功く徳どくをも、 随ずい喜きすればわが功く徳どくとなるをも、 みな極楽ごくらくに廻え向こうして、 往おう生じょうをねがふ也なり。

詮せんずるところ、 往おう生じょうをねがふよりほかに、 異事ことごとをばねがふまじき也なり。 わが身みにも人ひとの身みにも、 この界かいの果か報ほうをいのり、 又またおなじく後世ごせの事ことなれども、 極楽ごくらくならぬ浄じょう土どにむまれんともねがひ、 もしは人にん中ちゅう・天てん上じょうにむまれんともねがひ、 かくのごとくかれこれに廻え向こうする事ことなかれと也なり。

もしこのことはりを思おもひさだめざらんさきに、 この土どの事ことをもいのり、 あらぬかたへ廻え向こうしたらん功く徳どくをもみなとり返かえして、 いまは一ひとすぢに極楽ごくらくに廻え向こうして往おう生じょうせんとねがふべき也なり。

一切いっさいの功く徳どくをみな極楽ごくらくに廻え向こうせよといへばとて、 又また念仏ねんぶつのほかにわざと0485功く徳どくをつくりあつめて廻え向こうせよといふにはあらず。 たゞすぎぬるかたの功く徳どくをも、 今いまは一向いっこうに極楽ごくらくに廻え向こうし、 このゝちなりとも、 おのづからたよりにしたがひて僧そうをも供く養ようし、 人ひとに物ものをもほどこそあたへたらんをも、 つくらんにしたがひて、 みな往おう生じょうのために廻え向こうすべしといふ心こころ也なり。

この心こころ金剛こんごうのごとくして、 あらぬさとりの人ひとにおしへられて、 かれこれに廻え向こうする事ことなかれといふ也なり。 金剛こんごうはいかにもやぶれぬものなれば、 たとへにとりて、 この心こころを廻え向こう発願ほつがんしてむまると申もうす也なり。

三心さんしんのありさま、 あらあらかくのごとし。 「▲この三心さんしんを具ぐしてかな[ら]ず往おう生じょうす。 もし一心いっしんもかけぬれば、 むまるゝ事ことをえず」 (礼讃) と、 善導ぜんどうは釈しゃくし給たまひたれば、 もともこの心こころを具ぐ足そくすべき也なり。

しかるにかやうに申もうしたつる時ときは、 別々べつべつ[に]して事々ことごとしきやうなれども、 心こころえとげばやすく具ぐ[し]ぬべき心こころ也なり。 詮せんじては、 まことの心こころありて、 ふかく仏ぶつのちかひをたのみて、 往おう生じょうをねがはんずる心こころ也なり。 深ふかく浅あさき事ことこそかはりめありとも、 たれも往おう生じょうをもとむる程ほどの人ひとは、 さ程ほどの心こころなき事ことやはあるべき。

かやうの事ことは疎うとく思おもへば大だい事じにおぼえ、 とりよりて沙汰さたすればさすがにやすき事こと也なり。 かやうにこまかに沙汰さたし、 しらぬ人ひとも具ぐしぬべく、 又またよくよくしりたる人ひともかくる事ことありぬべし。 さればこそ、 いやしくおろかなるものゝなかにも往おう生じょうす0486る事こともあり、 いみじくたとげなるひじりのなかにも臨りん終じゅうわろく往おう生じょうせぬもあれ。

されども、 これを具ぐ足そくすべき様ようをもとくとく心こころえわけて、 わが心こころに具ぐしたりともしり、 又またかけたりとも思おもはんをば、 かまへてかまへて具ぐ足そくせんとはげむべきことなり。 これを安心あんじんとなづくる也なり。 これぞ往おう生じょうする心こころのありさまなる。 これをよくよく心こころえわくべきなり。

次つぎに起き行ぎょうといは、 善導ぜんどうの御おん心こころによらば、 往おう生じょうの行ぎょうおほしといへども、 おほきにわかちて二にとす。 一いちには正行しょうぎょう、 二にには雑ぞう行ぎょう也なり。

正行しょうぎょうといはこれに又またあまたの行ぎょうあり。 読誦どくじゅ正行しょうぎょう・観察かんざつ正行しょうぎょう・礼拝らいはい正行しょうぎょう・称名しょうみょう正行しょうぎょう・讃歎供く養よう正行しょうぎょう、 これらを五ご種しゅの正行しょうぎょうとなづく。 讃嘆さんだんと供く養ようとを二に行ぎょうとわかつ時ときには、 六種ろくしゅの正行しょうぎょうとも申もうす也なり。

この正行しょうぎょうにつきて、 ふさねて二にとす。 「▲一いちには一心いっしんにもはら弥陀みだの名みょう号ごうをとなへて、 行住ぎょうじゅう坐臥ざがによ[る・]ひるわするゝ事ことなく念々ねんねんにすてざるを、 正定しょうじょうの業ごうとなづく、 かのほとけの願がんに順じゅんずるがゆへに」 (散善義意) といひて、 念仏ねんぶつをもてまさしくさだめたる往おう生じょうの業ごうにたてゝ、 「▲もし礼誦らいじゅ等とうによるをばなづけて助業じょごうとす」 (散善義) といひて、 念仏ねんぶつのほかに阿あ弥陀みだ仏ぶつを礼らいし、 もしは 「三さん部ぶ経きょう」 をよみ、 もしは極楽ごくらくのありさまを観かんずるも、 讃嘆さんだん供く養ようしたてまつる事ことも、 みな称名しょうみょう念仏ねんぶつをたすけんがためなり。 まさ0487しくさだめたる往おう生じょうの業ごうは、 たゞ念仏ねんぶつばかりといふ也なり。

この正しょうと助じょとをのぞきて、 ほかの諸しょ行ぎょうをば、 布施ふせをせんも、 戒かいをたもたんも、 精しょう進じんならんも、 禅ぜん定じょうならんも、 かくのごとくの六ろく度ど万まん行ぎょう、 ¬法花ほけ経きょう¼ をよみ、 真言しんごんをおこなひ、 もろもろのおこなひをば、 ことごとくみな雑ぞう行ぎょうとなづく。

たゞ極楽ごくらくに往おう生じょうせんとおもはゞ、 一向いっこうに称名しょうみょうの正定しょうじょう業ごうを修しゅすべき也なり。 これすなはち弥陀みだ本願ほんがんの行ぎょうなるがゆへに、 われらが自じ力りきにて生しょう死じをはなれぬべくは、 かならずしも本願ほんがんの行ぎょうにかぎるべからずといへども、 他た力りきによらずは往おう生じょうをとげがたきがゆへに、 弥陀みだの本願ほんがんのちからをかりて、 一向いっこうに名みょう号ごうをとなへよと、 善導ぜんどうはすゝめ給たまへる也なり。

自じ力りきといは、 わがちからをはげみて往おう生じょう[を]もとむる也なり。 他た力りきといは、 たゞ仏ぶつのちからをたのみたてまつる也なり。 このゆへに正行しょうぎょうを行ぎょうずるものをば、 専修せんじゅの行ぎょう者じゃといひ、 雑ぞう行ぎょうを行ぎょうずるをば、 雑修ざっしゅの行ぎょう者じゃと申もうす也なり。

「▲正行しょうぎょうを修しゅするは、 心こころつねにかの国くにに親近しんごんして憶念おくねんひまなし。 雑ぞう行ぎょうを行ぎょうずるものは、 心こころつねに間断けんだんす、 廻え向こうしてむまるゝ事ことをうべしといへども、 疎そ雑ぞうの行ぎょうとなづく」 (散善義意) といひて、 極楽ごくらくにうとき行ぎょうといへり。

又また 「▲専修せんじゅのものは十じゅう人にんは十じゅう人にんながらむまれ、 百ひゃく人にんは百ひゃく人にんながらむまる。 なにをもてのゆへに。 ほかに雑縁ぞうえんなくして称しょう念ねんをうるがゆへに、 弥陀みだの本願ほんがんと相応そうおうするがゆへに、 釈しゃ0488迦かの教おしえに順じゅんずるがゆへ也なり。 ◆雑修ざっしゅのものは、 百ひゃく人にんには一いち、 二に人にんむまれ、 千人せんにんには四し、 五ご人にんむまる。 ◆なにをもてのゆへに。 弥陀みだの本願ほんがんと相応そうおうせざるがゆへに、 釈しゃ迦かの教おしえに順じゅんぜざるがゆへに、 憶想おくそう間断けんだんするがゆへに、 名みょう利りと相応そうおうするがゆへに、 みづからもさへ人ひとの往おう生じょうをもさふるがゆへに」 (礼讃意) と釈しゃくし給たまひたれば、

善導ぜんどうを信しんじて浄じょう土ど宗しゅうにいらん人ひとは、 一向いっこうに正行しょうぎょうを修しゅして、 日々にちにちの所しょ作さに、 一万いちまん・二に万まん乃ない至し五ご万まん・六万ろくまん・十じゅう万まんをも、 器き量りょうのたへむにしたがひて、 いくらなりともはげみて申もうすべきなりとこそ心こころえられたれ。

それにこれをきゝながら、 念仏ねんぶつのほかに余よ行ぎょうをくわふる人ひとのおほくあるは、 心こころえられぬ事こと也なり。 そのゆへは、 善導ぜんどうのすゝめ給たまはぬ事ことをばすこしなりともくわふべき道どう理り、 ゆめゆめなき也なり。 すゝめ給たまへる正行しょうぎょうをだにもなをものうき身みにて、 いまだすゝめ給たまはぬ雑ぞう行ぎょうをくわふべき事ことは、 まことしからぬかたもありぬべし。

又またつみつくりたる人ひとだにも往おう生じょうすれば、 まして功く徳どくなれば ¬法花ほけ経きょう¼ なんどをよまんは、 なにかはくるしかるべきなんど申もうす人ひともあり。 それらはむげにきたなき事こと也なり。 往おう生じょうをたすけばこそいみじからめ、 さまたげにならぬばかりを、 いみじき事こととてくわへおこなはん事ことは、 なにかは詮せんあるべき。

悪あくをば、 されば仏ぶつの御おん心こころにこのみてつくれとやすゝめ給たまへる、 かまえてとゞめよとこそ0489いましめ給たまへども、 凡ぼん夫ぶのならひ、 当とう時じのまどひにひかれて悪あくをつくる事ことはちからおよばぬ事ことなれば、 慈悲じひをおこしてすて給たまはぬにこそあれ。 まことに悪あくをつくる人ひとのやうに、 余よ行ぎょうどものくわへたがらんは、 ちからおよばず。

たゞし経きょうなんどをよまん事ことを、 悪あくつくるにいひならべて、 それもくるしからねば、 ましてこれもなんどゝいはんは不ふ便びんの事こと也なり。 ふかき御みのりもあしく心こころうるものにあひぬれば、 返かえりて物ものならずあさましくかなしき事こと也なり。 たゞあらぬさとりの人ひとの、 ともかくも申もうさん事ことをばきゝいれずして、 すゝみぬべからん人ひとをばこしらへすゝむべし。

さとりたがひてあらぬさまならん人ひとなんどに、 論ろんじあふ事ことなんどは、 ゆめゆめあるまじき事こと也なり。 たゞわが身み一人ひとり、 まづよくよく往おう生じょうをねがひて、 念仏ねんぶつをはげみて、 位くらいたかく往おう生じょうして、 いそぎ返かえりきたりて、 人々ひとびとを引導いんどうせんとおもふべき也なり。

又また善導ぜんどうの ¬往おう生じょう礼讃らいさん¼ に、 「▲問といていはく、 阿あ弥陀みだ仏ぶつを称しょう念ねん礼観らいかんするに、 現げん世ぜにいかなる功く徳どく利り益やくかある。 ◆こたへてい[は]く、 阿あ弥陀みだ仏ぶつをとなふる事こと一いっ声しょうすれば、 すなはち八はち十じゅう億劫おくこうの重じゅう罪ざいを除滅じょめつす。

◆又また ¬十じゅう往おう生じょう経きょう¼ にいはく、 もし衆しゅ生じょうありて、 阿あ弥陀みだ仏ぶつを念ねんじて往おう生じょうをねがふものは、 かのほとけすなはち二に十じゅう五ごの菩ぼ薩さつをつかはして、 行ぎょう者じゃを護ご念ねんし給たまふ。 もしは行ぎょう、 もしは坐ざ、 もしは住じゅう、 もしは臥が、 もしはよる、 も0490しはひる、 一切いっさいの時とき、 一切いっさいのところに、 悪あく鬼き・悪神あくじんをしてそのたよりをえしめ給たまはずと。

◆又また ¬観かん経ぎょう¼ にいふごときは、 阿あ弥陀みだ仏ぶつを称しょう念ねんして、 かのくにゝ往おう生じょうせんとおもへば、 かの仏ぶつすなはち无む数しゅの化け仏ぶつ、 无む数しゅの化け観音かんのん・勢せい至し菩ぼ薩さつをつかはして、 行ぎょう者じゃを護ご念ねんし給たまふ。 さきの二に十じゅう五ごの菩ぼ薩さつの、 百重ひゃくじゅう千せん重じゅうに行ぎょう者じゃを囲い繞にょうして、 行住ぎょうじゅう坐臥ざがをとはず、 一切いっさいの時じ処しょに、 もしはひるもしはよる、 つねに行ぎょう者じゃをはなれ給たまはず」 と。

又またいはく、 「▲弥陀みだを念ねんじて往おう生じょうせんとおもふものは、 つねに六方ろっぽう恒沙ごうじゃ等とうの諸仏しょぶつのために護ご念ねんせらる。 かるがゆへに護ご念ねん経ぎょうとなづく。 ◆いますでにこの増じょう上じょう縁えんの誓願せいがんのたのむべきあり。 もろもろの仏ぶっ子し等とう、 いかでか心こころをはげまざらんや」 (礼讃) といへり。

かの文もんの心こころは、 弥陀みだの本願ほんがんをふかく信しんじて、 念仏ねんぶつして往おう生じょうをねがふ人ひとをば、 弥陀みだ仏ぶつよりはじめたてまつりて、 十方じっぽうの諸仏しょぶつ・菩ぼ薩さつ、 観音かんのん・勢せい至し・无む数しゅの菩ぼ薩さつ、 この人ひとを囲い繞にょうして、 行住ぎょうじゅう坐臥ざが、 よる・ひるをもきらはず、 かげのごとくにそいて、 もろもろの横悩おうなんをなす悪あく鬼き・悪神あくじんのたよりをはらひのぞき給たまひて、 現げん世ぜにはよこさまなるわづらひなく安穏あんのんにして、 命終みょうじゅうの時ときは極楽ごくらく世せ界かいへむかへ給たまふ也なり。

されば、 念仏ねんぶつを信しんじて往おう生じょうをねがふ人ひと、 ことさらに悪あく魔まをはらはんために、 よろづのほとけ・かみにいのりをもし、 つゝしみをもする事ことは、 なじかはあるべき。 い0491はんや、 仏ぶつに帰きし、 法ほうに帰きし、 僧そうに帰きする人ひとには、 一切いっさいの神王じんのう、 恒沙ごうじゃの鬼き神じんを眷属けんぞくとして、 つねにこの人ひとをまぼり給たまふといへり。 しかれば、 かくのごときの諸仏しょぶつ・諸神しょじん、 囲い繞にょうしてまぼり給たまはんうゑは、 又またいづれの仏ぶつ・神じんありてなやまし、 さまたぐる事ことあらん。

又また宿しゅく業ごうかぎりありて、 うくべからんやまひは、 いかなるもろもろのほとけ・かみにいのるとも、 それによるまじき事こと也なり。 いのるによりてやまひもやみ、 いのちものぶる事ことあらば、 たれかは一人いちにんとしてやみしぬる人ひとあらん。 いはんや、 又また仏ぶつの御おんちからは、 念仏ねんぶつを信しんずるものをば、 転てん重じゅう軽きょう受じゅといひて、 宿しゅく業ごうかぎりありて、 おもくうくべきやまひを、 かろくうけさせ給たまふ。 いはんや、 非ひ業ごうをはらひ給たまはん事ことましまさゞらんや。

されば念仏ねんぶつを信しんずる人ひとは、 たとひいかなるやまひをうくれども、 みなこれ宿しゅく業ごう也なり。 これよりもおもくこそうくべきに、 ほとけの御おんちからにて、 これほどもうくるなりとこそは申もうす事ことなれ。 われらが悪業あくごう深じん重じゅうなるを滅めっして極楽ごくらくに往おう生じょうする程ほどの大だい事じをすらとげさせ給たまふ。 ましてこのよにいか程ほどならぬいのちをのべ、 やまひをたすくるちからましまさゞらんやと申もうす事こと也なり。

されば後ご生しょうをいのり、 本願ほんがんをたのむ心こころもうすき人ひとは、 かくのごとく囲い繞にょうにも護ご念ねんにもあづかる事ことなしとこそ、 善導ぜんどうはの給たまひたれ。 おなじく念仏ねんぶつすとも、 ふかく信しんを0492おこして、 穢土えどをいとひ極楽ごくらくをねがふべき事こと也なり。 かまへて心こころをとゞめて、 このことはりをおもひほどきて、 一向いっこうに信心しんじんをいたして、 つとめさせ給たまふべき也なり。

これらはかやうにこまかに申もうしのべたるは、 わたくしのことばおほくして、 あやまりやあらんと、 あなづりおぼしめす事ことゆめゆめあるべからず。 ひとへに善導ぜんどうの御おんことばをまなび、 ふるき文もん釈しゃくの心こころをぬきいだして申もうす事こと也なり。 うたがひをなす心こころなくて、 かまへて心こころをとゞめて御ごらんじときて、 心こころえさせ給たまふべき也なり。 あなかしこ、 あなかしこ。 この定じょうに心こころえて、 念仏ねんぶつ申もうさんにすぎたる往おう生じょうの義ぎはあるまじき事ことにて候そうろうなり。

本ほんにいはく、 この書しょはかまくらの二位にいの禅ぜん尼にの請しょうによて、 しるし進しんぜらるゝ書しょ也なり 云云。