(454)、 七箇条起請文

しちじょうしょうもん 第六だいろく

およそおうじょうじょうひと要法ようぼうはおほしといへど[も、] じょうしゅうだい三心さんしん法門ほうもんにあるなり。 もし三心さんしんせざるものは、 にちじゅう二時にじに、 かふべのをはらふがごとくにすれども、 つゐにおうじょうをえずといへり。 極楽ごくらくをねがはんひとは、 いかにもして三心さんしんのやうをこころえて、 念仏ねんぶつすべきなり三心さんしんといふは、 いちにはじょうしんには深心じんしんさんにはこう発願ほつがんしんなり。

まづじょうしんといふは、 だいしゃくしてのたまはく、 「といふはしんなりじょうといふはじつなり (散善義) といへり。 たゞ真実しんじつしんじょうしん善導ぜんどうはおほせられたるなり真実しんじつといふは、 もろもろの虚仮こけこころのなきをいふなり虚仮こけといふは、 貪瞋とんじんとう煩悩ぼんのうをおこして、 しょうねんをうしなふを虚仮こけしんしょうするなり

すべてもろもろの煩悩ぼんのうのおこることは、 みなも0455貪瞋とんじんははとして出生しゅっしょうするなり。 とんといふについて、 そくしょうよくとんあり、 不喜ふきそく大欲だいよくとんあり。

いまじょうしゅうせいするところは、 不喜ふきそく大欲だいよくとん煩悩ぼんのうなり。 まづぎょうじゃ、 かやうのどうこころえて念仏ねんぶつすべきなり。 これが真実しんじつ念仏ねんぶつにてあるなりそくしょうよくとんはくるしからず。 しん煩悩ぼんのうも、 敬上きょうじょう慈下じげこころをやぶらずして、 どうこころえほどくなり煩悩ぼんのうといふは、 おろかなるこころなり。 このこころをかしこくなすべきなり。 まづしょうをいとひじょうをねがひて、 おうじょうだいといとなみて、 もろもろのぎょうこととせざれば、 煩悩ぼんのうなきなり少々しょうしょうは、 おうじょうのさわりにはならず。

これほどこころえつれば、 貪瞋とんじんとう虚仮こけこころはうせて、 真実しんじつしんはやすくおこるなり。 これをじょうだいしんといふなりせんずるところ、 しょうほうをかろしめ、 念仏ねんぶついちぎょうをはげむがゆへに、 真実しんじつしんとはいふなり。

深心じんしんといふは、 ふかく念仏ねんぶつしんずるこころなり。 ふかく念仏ねんぶつしんずといふは、 ぎょうなく一向いっこう念仏ねんぶつになるなり。 もしぎょうをかぬれば、 深心じんしんかけたるぎょうじゃといふなりせんずるところ、 しゃの 「じょうさんきょう」 は、 ひとへに念仏ねんぶついちぎょうをとくとこころえ、 弥陀みだじゅう八願はちがんは、 称名しょうみょういちぎょう本願ほんがんとすとこころえて、 ふたごころなく念仏ねんぶつするを、 深心じんしんそくといふなり。

さん0456こう発願ほつがんしんといふは、 无始むしよりこのかたのしょのもろもろの善根ぜんごんを、 ひとへにおうじょう極楽ごくらくといのるなりまたつねに退たいすることなく念仏ねんぶつするを、 こう発願ほつがんしんといふなり。 これは専心せんしんおんなり。 このこころならば、 じょうしん深心じんしんそくしてのうゑに、 つねに念仏ねんぶつ数遍しゅへんをすべし。 もし念仏ねんぶつ退転たいてんせば、 こう発願ほつがんしんかけたるものなり

じょうしゅうひとは、 三心さんしんのやうをよくよくこころえて念仏ねんぶつすべきなり三心さんしんのなかに、 ひとつもかけなば、 おうじょうはかなふまじきなり三心さんしんそくしぬれば、 おうじょう无下むげにやすくなるなり。 すべてわれらがりんしょうのふるまひは、 たゞ貪瞋とんじん煩悩ぼんのうきずなによりてなり貪瞋とんじんおこらば、 なを悪趣あくしゅへゆくべきまどひのおこりたるぞとこころえて、 これをどゞむべきなり

しかれどもいまだ煩悩ぼんのうそくのわれらなれば、 かくはこころえたれども、 つねに煩悩ぼんのうはおこるなり。 おこれども煩悩ぼんのうをばこころのまらびととし、 念仏ねんぶつをばこころのあるじとしつれば、 あながちにおうじょうをばさえぬなり煩悩ぼんのうこころのあるじとして、 念仏ねんぶつこころのまらびととすることは、 雑毒ぞうどく虚仮こけぜんにて、 おうじょうにはきらはるゝなりせんずるところ、 前念ぜんねんねんのあひだには、 煩悩ぼんのうをまじふといふとも、 かまえて南無なも弥陀みだぶつろくのなかに、 とんとう煩悩ぼんのうをおこすまじきなり

一 われは弥陀みだぶつをこそたのみたれ、 念仏ねんぶつをこそしんじたれとて、 諸仏しょぶつさつがん0457をかろしめたてまつり、 ほっ般若はんにゃとうの、 めでたききょうどもをわろくおもひそしることは、 ゆめゆめあるべからず。 よろづのほとけたちをそしり、 もろもろの聖教しょうぎょうをうたがひそしりたらんずるつみは、 まづ弥陀みだおんこころにかなふまじければ、 念仏ねんぶつすともがんにもれんこといちじょうなり

一 つみをつくらじと、 をつゝしんでよからんとするは、 弥陀みだほとけのがんをかろしむるにてこそあれ。 また念仏ねんぶつをおほくもうさんとて、 日々にちにち六万ろくまんべんなんどをくりゐたるは、 りきをうたがふにてこそあれといふことのおほくきこゆる。 かやうのひがごと、 ゆめゆめもちふべからず。

まづいづれのところにか、 弥陀みだはつみつくれとすゝめたまひける。 ひとへにわがあくをもとゞめえず、 つみのみつくりゐたるまゝに、 かゝるゆくゑほとりもなき虚言きょごんをたくみいだして、 ものもしらぬ男女なんにょのともがらを、 すかしほらかして罪業ざいごうをすゝめ、 煩悩ぼんのうをおこさしむること返々かえすがえすてんのたぐひなりどうのしわざなりおうじょう極楽ごくらくのあだかたきなりとおもふべし。

また念仏ねんぶつのかずをおほくもうすものを、 りきをはげむといふこと、 これまたものもおぼへずあさましきひがことなり。 たゞ一念いちねんねんをとなふとも、 りきこころならんひとは、 りき念仏ねんぶつとすべし。 千遍せんべん万遍まんべんとなふとも、 ひゃくにち千日せんにち、 よる・ひるはげみつむとも、 ひ0458とへに願力がんりきをたのみ、 りきをあふぎたらんひと念仏ねんぶつは、 声々しょうしょう念々ねんねんしかしながらりき念仏ねんぶつにてあるべし。 されば三心さんしんをおこしたるひと念仏ねんぶつは、 日々にちにち夜々やや時々じじ克々こくこくにとなふれども、 しかしながら願力がんりきをあふぎ、 りきをたのみたるこころにてとなへゐたれば、 かけてもふれても、 りき念仏ねんぶつとはいふべからず。

一 三心さんしんもうことは、 しりたるひと念仏ねんぶつに、 三心さんしんそくしてあらんこと左右さうにおよばず、 つやつや三心さんしんをだにもしらぬ无智むちのともがらの念仏ねんぶつには、 よも三心さんしんそうらはじ。 三心さんしんかけばおうじょうそうろうなんやともうこと、 きわめたるしんにてそうらへども、 これは弥陀みだほとけの法蔵ほうぞう比丘びくのむかし、 こうのあひだ、 よる・ひるこころをくだきてあんじたてゝ、 じょうじゅささせたまひたる本願ほんがん三心さんしんなれば、 あだあだしくいふべきことにあらず。

いかに無智むちならんものもこれをし、 三心さんしんをしらぬものまでも、 かならずそらにせんずるようをつくらせたまひたる三心さんしんなれば、 弥陀みだをたのみたてまつりて、 すこしもうたがふこころなくしてこのみょうごうをとなふれば、 あみだほとけかならずわれをむかへて、 極楽ごくらくにゆかせたまふときゝて、 これをふかくしんじて、 すこしもうたがふこころなく、 むかへさせたまへとおもひて念仏ねんぶつすれば、 このこころがすなはち三心さんしんそくこころにてあれば、 たゞひらにしんじてだにも念仏ねんぶつすれば、 すゞろに三心さんしんはある0459なり。

さればこそ、 よにあさましき一文いちもんつうのともがらのなかに、 ひとすぢに念仏ねんぶつするものは、 りんじゅうしょうねんにして、 めでたきおうじょうどもをするは、 げんしょうあらたなることなれば、 つゆちりもうたがふべからず。 なかなかよくもしらぬ三心さんしん沙汰さたして、 あしざまにこころえたる人々ひとびとは、 りんじゅうのわろくのみありあひたるは、 それにてたれたれもこころべきなり。

一 ときどきべつ念仏ねんぶつしゅして、 こころをもをもはげましとゝのへすゝむべきなり日々にちにち六万ろくまんべんもうせば、 七万しちまんべんをとなふればとて、 たゞあるもいはれたることにてはあれども、 人のこころざまは、 いたくもなれみみもなれぬれば、 いそいそとすゝむこころもなく、 あけくれはこころいそがしきようにてのみ、 りゃくになりゆくなり。 そのこころをためなおさんりょうに、 時々ときどきべつ念仏ねんぶつはすべきなり。 しかれば、 善導ぜんどうしょうもねんごろにすゝめたまふ、 しんおうじょうようしゅうにもすゝめさせたまひたるなり

どうじょうをもひきつくろひ、 こうをもまいらせんこと、 ことにちからのたへむにしたがひてかざりまいらせて、 わがをもことにきよめてどうじょうにいりて、 あるいはさん、 あるいはろくなんどに念仏ねんぶつすべし。 もしどうぎょうなんどあまたあらんときは、 かはるがはるいりてだん念仏ねんぶつにもしゅすべし。 かやうのことは、 おのおのことがらにしたがひてはからふべし。

0460善導ぜんどうのおほせられたるは、 「つき一日ついたちより八日ようかにいたるまで、 あるいは八日ようかよりじゅうにちにいたるまで、 あるいはじゅうにちより廿にじゅう三日さんにちにいたるまで、 あるいは廿にじゅう三日さんにちより晦日みそかにいたるまで」 (観念法門) とおほせられたり。 おのおのさしあはざらんときをはからひて、 七日しちにちべつをつねにしゅすべし。 ゆめゆめすゞろごとどもいふものにすかされて、 ぜんこころあるべからず。

一 いかにもいかにもさいしょうねんじょうじゅして、 には弥陀みだほとけをたてまつり、 くちには弥陀みだみょうごうをとなへ、 こころにはしょうじゅ来迎らいこうをまちたてまつるべし。 としごろごろ、 いみじく念仏ねんぶつこうをつみたりとも、 りんじゅう悪縁あくえんにもあひ、 あしきこころもおこりぬるものならば、 じゅんおうじょうしはづして、 いっしょうしょうなりとも、 さんしょうしょうなりとも、 しょうのながれにしたがひて、 くるしからんことはくちおしきことぞかし。

されば、 善導ぜんどうしょうすゝめておほせられたるようは、 「がん弟子でしとうりん命終みょうじゅう じょうぼんおうじょう弥陀みだ仏国ぶっこく (礼讃) とあり、 いよいよりんじゅうしょうねんはいのりもし、 ねがふべきことなりりんじゅうしょうねんをいのるは、 弥陀みだ本願ほんがんをたのまぬものなんどもうすは、 善導ぜんどうにはいかほどまさりたるがくしょうぞとおもふべきなり。 あなあさまし、 おそろしおそろし。

一 念仏ねんぶつは、 つねにおこたらぬがいちじょうおうじょうすることにてあるなり。 されば善導ぜんどうすゝめて0461たまはく、 「いち発心ほっしん已後いごせいひつしょう无有むう退転たいてんゆいじょう為期いご (散善義)またいはく、 「一心いっしん専念せんねん弥陀みだみょうごう行住ぎょうじゅう坐臥ざがもんせつごん念念ねんねんしゃしゃみょう正定しょうじょうごうじゅん仏願ぶつがん (散善義) といへり。 かやうにすゝめましましたることはあまたおほけれども、 ことごとくにかきのせず。 たのむべし、 あふぐべし。 さらにうたがふべからず。

一 げにげにしく念仏ねんぶつぎょうじて、 げにげにしきひとになりぬれば、 よろづのひとるに、 みなわがこころにはおとりたり。 あさましくわろければ、 わがのよきまゝには、 ゆゝしき念仏ねんぶつしゃにてあるものかな、 たれたれにもすぐれたりとおもなり。 このことをば、 よくよくこころえてつゝしむべきことなり

もひろし、 ひともおほければ、 やまのなか、 はやしのなかにこもりゐて、 ひとにもしられぬ念仏ねんぶつしゃの、 たっとくめでたき、 さすがにおほくあるを、 わがきかずしらぬにてこそあれ。 さればわれほどの念仏ねんぶつしゃ、 よもあらじとおもふはひがごとなりだいきょうまんにてあれば、 それをたよりにて、 えんきておうじょうをさまたぐるなり

さればわがのいみじくてつみをもめっし、 極楽ごくらくへもまいらばこそあらめ、 ひとへに弥陀みだ願力がんりきにてこそ、 煩悩ぼんのうをも罪業ざいごうをもほろぼしうしなひて、 かたじけなく弥陀みだほとけの、 てづからみづからむかへとりて、 極楽ごくらくかえらせましますことなれ。

さればわがちからにておうじょうすることならばこそ、 われかしこしと0462いふ慢心まんしんをばおこさめ。 きょうまんこころだにもおこりぬれば、 たちどころに弥陀みだほとけのがんにはそむきぬるものなれば、 弥陀みだ諸仏しょぶつねんたまはずなるぬれば、 あくのためにもなやまさるゝなり返々かえすがえすきょうまんこころをおこすべからず。 あなかしこ、 あなかしこ。