0397黒谷上人語灯録巻第十一 并序

厭欣沙門了慧集録

 

しづかにおもんみれば、 良医のくすりはやまひのしなによてあらはれ、 如来の御のりは機の熟するにまかせてさかりなり。 日本一州浄機純熟して、 朝野遠近みな浄土に帰し、 緇素貴賎ことごとく往生を期す。

その濫觴をたづぬれば、 天国排開広庭天皇 御世に、 百済国より釈迦・弥陀の霊像、 はじめてこのくににわたり給へり。 釈迦は撥遣の教主、 弥陀は来迎の本尊なれば、 二尊心をおなじくして、 往生のみちをひろめんがためなるべし。

しかれば、 小墾田天皇 の御時、 聖徳太子、 二仏の御心にしたがはせ給ひて七日弥陀の名号を称して、 祖王 の恩を報じ、 御文を善光寺の如来へたてまつり給ひしかば、 如来みづから御返事ありき。

太子の御消息にいはく、

「名号称揚七日已斯此為報広大恩
0398仰願本師弥陀尊助我済度常護念」

如来の御返事にいはく、

「一念称揚無恩留何況七日大功徳
我待衆生心無間汝能済度豈不護」

太子つゐに往生を異境にあらはして、 利益を本朝にしめし給ひき。

そのゝち大炊天皇の御時、 弥陀・観音化しきたりて、 極楽の曼荼羅をおりあらはして、 往生の本尊とさだめおき給ふ。

こゝに六字の功ほゞあらはれて、 二尊の本意やうやくひろまりしかば、 行基菩薩・慈覚大師等の聖人、 みな極楽をねがひてさり給ひき。

恵心僧都は、 楞厳の月のまえに往生の要文をあつめ、 永観律師は、 禅林の花のもとに念仏の十因を詠じて、 おのおの浄土の教行をひろめ給ひしかども、 往生の化道いまださかりならざりしに、 なかごろ黒谷の上人、 勢至菩薩の化身として、 はじめて弥陀の願意をあきらめ、 もはら称名の行をすゝめ給ひしかば、 勧化一天にあまねく、 利生万人におよぶ。 浄土宗といふ事は、 この時よりひろまりけるなり。

しかれば、 往生の解行をまなぶ人、 みな上人をもて祖師とす。 こゝにかのながれをくむ人おほきなかに、 おのおの義をとる事まちまちなり。 いはゆる余行は本願か0399本願にあらざるか、 往生するやせずや、 三心のありさま、 二修のすがた、 一念・多念のあらそひなり。 まことに金鍮しりがたく、 邪正いかでかわきまふべきなれば、 きくものおほく、 みなもとをわすれてながれにしたがひ、 あたらしきを貴てふるきをしらず。 ¬尚書¼ にいえる事あり、 「人貴旧器貴新」。

豫、 この文におどろきて、 いさゝか上人のふるきあとをたづねて、 やゝ近代のあたらしきみちをすてんとおもふ。 仍て、 あるひはかの書状をあつめ、 あるひは書籍にのするところの詞を拾ふ。

やまとことばはその文みやすく、 その心さとりやすし。 ねがはくは、 もろもろの往生をもとめん人、 これをもて灯として、 浄土のみちをてらせとなり。 もしおつるところの書あらば、 後賢かならずこれに続け。

時に文永十二年正月廿五日、 上人遷化の日、 報恩の心ざしをもて、 いふ事しか也。

 

和語第二之一 当巻有三篇
 三部経釈第一
 御誓言書第二
 往生大要抄第三

 

0400一、 三部経釈

三部経釈 第一  黒谷作

¬双巻経¼・¬観経¼・¬阿弥陀経¼、 これを浄土三部経といふ。

一、 三部経釈 双巻経

¬双巻経¼ には、 まづあみだほとけの四十八願をとく、 のちに願成就をあかせり。

その四十八願といふは、 法蔵比丘、 世自在王仏の御まえにして菩提心をおこして、 浄仏国土・成就衆生の願をたて給ふ。 およそその四十八願に、 あるいは无三悪趣ともたて、 あるいは不更悪趣ともとき、 あるいは悉皆金色ともいふは、 みな第十八の願のためなり。

「設我得仏、 十方衆生、 至心信楽、 欲生我国、 乃至十念、 若不生者、 不取正覚」(大経巻上) といへるは、 四十八願のなかに、 この願ことにすぐれたりとす。 そのゆえは、 かのくにゝもしむまるゝ衆生なくは、 悉皆金色・无有好醜等の願も、 なにゝよてか成就せん。 往生する衆生のあるにつきてこそ、 身のいろも金色に、 好醜ある事もなく、 五通をも具し、 宿命をもさとるべけれ。

これによて、 善導釈しての給はく、 「法蔵比丘四十八願をたて給ひて、 願々にみな、 若我得仏、 十方衆生、 称我名号、 願生我国、 下至十念、 若不生者、 不取正覚 。 四十八願に一一にみなこの心あり」(玄義分意) と釈し給へり。

およそ諸仏の願といふは、 上0401求菩提・下化衆生の心なり。 大乗経にいはく、 「菩薩願有二種、 一上求菩提、 二下化衆生心也。 其上求菩提本意、 為易済度衆生」。 しかれば、 たゞ本意は下化衆生の願にあり。

いま弥陀如来の国土を成就し給ふも、 衆生を引接せんがためなり。 総じていづれのほとけも、 成仏已後は内証外用の功徳、 済度衆生の誓願、 いづれもいづれもみなふかくして、 勝劣ある事なけれども、 菩薩の道を行じ給ひし時の善巧方便のちかひ、 みなこれまちまちなる事也。

弥陀如来は因位の時、 もはらわが名号を念ぜんものをむかえんとちかひ給ひて、 兆載永劫の修行を衆生に廻向し給ふ。 濁世のわれらが依怙、 末代の衆生の出離、 これにあらずは、 なにをか期せんや。

これによて、 かのほとけも、 「我建超世願」(大経巻上) となのり給へり。 三世の諸仏も、 いまだかくのごとくの願をばおこし給はず。 十方の薩埵も、 いまだこれらの願はましまさず。

「志願若剋果、 大千応感動、 虚空諸天人、 当雨珍妙花」(大経巻上) とちかひ給ひしかば、 大地六種に震動し、 天より花ふりて、 なんぢまさに正覚をなり給ふべしとつげたりき。

法蔵比丘いまだ成仏し給はずとも、 この願うたがふべからず。 いかにいはんや、 成仏已後十劫になり給へり、 信ぜずはあるべからず。 「彼仏今現在成仏、 当知本誓重願不虚、 衆生称念必得往生」(礼讃) と釈し0402給へるはこれなり。

「諸有衆生、 聞其名号、 信心歓喜、 乃至一念、 至心廻向、 願生彼国、 即得往生、 住不退転、 唯除五逆、 誹謗正法。」(大経巻下) これは第十八の願成就の文なり。 願には 「乃至十念」(大経巻上) とゝくといへども、 まさしく願成就のなかには一念にありとあかせり。

つぎに三輩往生の文あり。 これは第十九の臨終現前の願成就の文なり。 発菩提心等の業をもて三輩をわかつといえども、 往生の業は通じてみな 「一向専念无量寿仏」(大経巻下) といえり。 これすなはちかのほとけの本願なるがゆえなり。

「其仏本願力、 聞名欲往生、 皆悉到彼国、 自致不退転」(大経巻下) といふ文あり。

漢朝に玄通律師といふ­も½のありき、 小戒をたもてるものなり。 遠行して野寺に宿したりけるに、 隣房に人ありてこの文を誦す。 玄通これをきゝて、 一両遍誦してのち、 おもひいだす事もなくてわすれにけり。 そのゝちこの玄通律師、 戒をやぶれり。 そのつみによて閻魔の庁にいたる時、 閻魔法王の給はく、 なんぢ仏法流布のところにむまれたりき。 所学の法あらば、 すみやかにとくべしとて、 高座にのぼせ給ひき。

その時玄通、 高座にのぼりておもひめぐらすに、 すべて心におぼゆる事なし。 野寺に宿してきゝし文あり、 これを誦せんとおもひいでゝ、 「其仏本願力」 といふ文を誦したりしかば、 閻魔法王、 たまのかぶり0403をかたぶけて、 これはこれ、 西方極楽の弥陀如来の功徳をとく文なりといひて、 礼拝し給ひき。 願力不思議なる事、 この文に見えたり。

「仏語弥勒、 其有得聞彼仏名号、 信心歓喜乃至一念、 当知此人為得大利、 即是具足无上功徳。」(大経巻下意) 弥勒菩薩、 この ¬経¼ を付属し給ふには、 乃至一念するをもて大利无上の功徳との給へり。 ¬経¼ の大意、 これらの文にあきらかなるものなり。

一、 三部経釈 観経

次に ¬観経¼ には、 定善・散善をときて、 念仏をもて阿難に付属し給ふ。 「汝好持是語」(観経) といえるはこれなり。

第九の真身観に、 「光明徧照、 十方世界、 念仏衆生、 摂取不捨」(観経) といふ文あり。 済度衆生の願は平等にして差別ある事なけれども、 无縁の衆生は利益をかうぶる事あたはず。 このゆえに、 弥陀善逝、 平等の慈悲にもよほされて、 十方世界にあまねく光明をてらして、 一切衆生にことごとく縁をむすばしめんがために、 光明无量の願をたて給へり。 第十二の願これなり。

名号をもて因として、 衆生を引接し給ふ事を、 一切衆生にあまねくきかしめんがために、 第十七の願に 「十方世界の无量の諸仏、 ことごとく咨嗟して、 わが名を称せずといはゞ、 正覚をとらじ」(大経巻上) といふ願をたて給ひて、 次に十八の願に 「乃至十念、 若不生者、 不取正覚」(大経巻上) とたて給へり。

これによて、 釈迦如来この0404土にしてとき給ふがごとく、 十方にもおのおの恒河沙のほとけましまして、 おなじくこれをしめし給へるなり。

しかれば、 光明の縁はあまねく十方世界をてらしてもらす事なく、 又十方无量の諸仏みな名号を称讃し給へば、 きこえずといふところなし。 「我至成仏道、 名声超十方、 究竟靡所聞、 誓不成正覚」(大経巻上) とちかひ給ひしは、 このゆえなり。

しかれば、 光明の縁と名号の因と和合せば、 摂取不捨の益をかうぶらん事うたがふべからず。 このゆえに、 ¬往生礼讃¼ の序にいはく、 「諸仏所証平等是一、 若以願行来収非无因縁。 然弥陀世尊、 本発深重誓願、 以光明・名号摂化十方」 といへり。

又この願ひさしく衆生を済度せんがために、 寿命无量の願をたて給へり。 第十三の願これなり。 総じては、 光明无量の願は、 横に一切衆生をひろく摂取せんがためなり。 寿命无量の願は、 竪に十方世界をひさしく利益せんがためなり。

かくのごとくの因縁和合すれば、 摂取の光明のなかに又化仏・菩薩ましまして、 この人を摂護して百重千重囲遶し給ふに、 信心いよいよ増長し、 衆苦ことごとく消滅す。

臨終の時、 ほとけみづから来迎し給ふに、 もろもろの邪業繋よくさふるものなし。 これは衆生のいのちおはる時にのぞみて、 百苦きたりせめて身心やすき事なく、 悪縁ほかにひき、 妄念うちにもよをして、 境界0405・自体・当生の三種の愛心きおひおこる。 第六天の魔王、 この時にあたりて威勢をおこして、 もてさまたげをなす。

かくのごときの種々のさはりをのぞかんがために、 かならず臨終の時にはみづから菩薩聖衆に囲繞せられて、 その人のまえに現ぜんとちかひ給へり。 第十九の願これ也。

これによて、 臨終の時いたれば、 ほとけ来迎し給ふ。 行者これを見たてまつりて、 心に歓喜をなして、 禅定にいるがごとくして、 たちまちに観音の蓮台に乗じて、 安養の宝池にいたる也。 これらの益あるがゆえに、 「念仏衆生摂取不捨」(観経) といふなり。

又この ¬経¼(観経) に 「具三心者必生彼国」 ととけり。 「三心」 といは、 一には至誠心、 二には深心、 三には廻向発願心なり。 三心はまちまちにわかれたりといへども、 要をとり詮をえらんでこれをいえば、 深心におさめたり。

善導和尚釈し給はく、 「至といは真なり、 誠といは実なり。 一切衆生の身口意業に修するところの解行、 かならず真実心のなかになすべき事をあかさんとす。 ほかに賢善精進の相を現じて、 うちに虚仮をいだく事をえざれ」(散善義) といえり。

その 「解行」 といは、 罪悪生死の凡夫、 弥陀の本願によて、 十声・一声決定してむまると、 真実にさとりて行ずる、 これなり。 ほかには本願を信ずる相を現じ、 うちには疑心をいだく、 これは0406不真実の心なり。

「深心はふかく信ずる心なり。 決定してふかく自身は現にこれ罪悪生死の凡夫なり、 広劫よりこのかたつねに流転して、 出離の縁なしと信じ、 決定してふかくこの阿弥陀如来は四十八願をもて衆生を摂取し給ふ事、 うたがひなくおもんぱかりなければ、 かの願力に乗じてさだめて往生する事をうと信ずべし」(散善義) といへり。

はじめに、 まづ 「罪悪生死の凡夫、 広劫よりこのかた出離の縁ある事なしと信ぜよ」 といへるは、 これすなはち断善闡提のごとくなるもの也。 かゝる衆生の一念・十念すれば、 无始よりこのかた、 いまだいでざる生死の輪廻をいでゝ、 かの極楽世界の不退の国土にむまるといふによりて、 信心はおこるべきなり。

およそほとけの別願の不思議は、 たゞ心のはかるところにあらず、 仏と仏とのみよくしり給へり。 阿弥陀仏の名号をとなふるによて、 五逆・十悪ことごとくむまるといふ別願の不思議のちからまします、 たれかこれをうたがふべき。

善導の ¬疏¼(散善義) にいはく、 「あるいは人ありて、 なんぢ衆生、 広劫よりこのかたおよび今生の身口意業に、 一切の凡聖の身のうゑにおいて、 つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等のつみをつくりて、 いまだのぞきつくす事あたはず。 しか0407も、 これらのつみは三界悪道に繋属す。 いかんぞ、 一生の修福念仏をもてすなはちかの无漏无生のくにゝいりて、 ながく不退のくらゐを証悟する事をえんやといはば、 いふべし。

諸仏の教行は、 かず塵沙にこへたり。 稟識の機縁、 随情ひとつにあらず。 たとへば世間の人のまなこに見つべく信じつべきがごときは、 明よく暗を破し、 空よく有をふくむ、 地よく載養し、 みづよく生潤し、 火よく成壊するがごとし。 かくのごときらの事、 ことごとく待対の法となづく。 すなはちみづから見るべし、 千差万別なり。 いかにいはんや、 仏法不思議のちから、 あに種々の益なからんや」 といへり。

極楽世界に水鳥・樹林の微妙の法をさやづるは不思議なれども、 これらはほとけの願力なればと信じて、 なんぞたゞ第十八の 「乃至十念」(大経巻上) といふ願をのみうたがふべきや。

総じて仏説を信ぜば、 これも仏説なり。 花厳の三无差別、 般若の尽浄虚融、 法花の実相真如、 涅槃の悉有仏性、 たれか信ぜざらんや。 これも仏説なり、 かれも仏説なり。 いづれをか信じ、 いづれをか信ぜざらんや。

それ三字の名号はすくなしといへども、 如来所有の内証外用の功徳、 万億恒沙の甚深の法門を、 このうちにおさめたり。 たれかこれをはかるべきや。

¬疏¼ の 「玄義分」(意) にこの名号を釈していはく、 「阿弥陀仏といは、 これ天竺0408の正音。 こゝには翻じて无量寿覚といふ。 无量寿といはこれ法、 覚といはこれ人。 人法ならべてあらはす。 かるがゆえに阿弥陀仏といふ。 人法といは所観の境也。 これについて依報あり、 正報あり」 といへり。

しかれば、 はじめ弥陀如来・観音・勢至・普賢・文殊・地蔵・龍樹より、 乃至かの土の菩薩・声聞等にいたるまでそなへ給へるところの事理の観行、 定恵の功力、 内証の智恵、 外用の功徳、 総じて万徳无漏の所証の法門、 みなことごとく三字のなかにおさまれり。 総じて極楽界にいづれの法門かもれたるところあらん。

しかるを、 この三字の名号をば、 諸宗おのおのわが宗に釈しいれたり。 真言には阿字本不生の義、 四十二字を出生せり。 一切の法は阿字をはなれたる事なきがゆえに、 功徳甚深の名号といえり。 天臺宗には空・仮・中の三諦、 正・了・縁の三義、 法・報・応の三身、 如来所有の功徳これをいでざるがゆえに、 功徳莫大なりといへり。 かくのごとく諸宗におのおのわが存ずるところの法について、 阿弥陀の三字を釈せり。

いまこの宗の心は、 真言の阿字本不生の義も、 天臺の三諦一理の法も、 三論の八不中道のむねも、 法相の五重唯心の心も、 総じて森羅の万法ひろくこれを摂すとならふ。 極楽世界にもれたる法門なきがゆえに。 たゞしいま弥陀の願の心は、 かくのごとくさとるに0409はあらず。 たゞふかく信心をいたしてとなふるものをむかえんとなり。

耆婆・扁鵲が万病をいやすくすりは、 もろもろの草・よろづのくすりをもて合薬せりといえども、 病者これをさとりて、 その薬種何分、 その薬草何両和合せりとしらず。 しかれども、 これを服するに万病ことごとくいゆるがごとし。 たゞしうらむらくは、 このくすりを信ぜずして、 わがやまひはきはめておもし、 いかゞこのくすりにてはいゆる事あらんとうたがひて服せずんば、 耆婆が医術も、 扁鵲が秘方も、 むなしくしてその益あるべからざるがごとく、 弥陀の名号もかくのごとし。

それ煩悩悪業のやまひ、 きわめておもし、 いかゞこの名号をとなえてむらるゝ事あらんとうたがひてこれを信ぜずは、 弥陀の誓願・釈尊の所説、 むなしくてそのしるしあるべからず。 たゞあふいで信ずべし、 良薬をえて服せずして死する事なかれ。 崑崙のやまにゆきてたまをとらずしてかえり、 栴檀のはやしにいりて枝をよぢずしていでなば、 後悔いかゞせん、 みづからよく思量すべし。

そもそもわれら広劫よりこのかた、 仏の出世にもあひけん、 菩薩の化導にもあひけん。 過去の諸仏も、 現在の如来も、 みなこれ宿世の父母なり、 多生の朋友なり。 かれはいかにして菩提を証し給へるぞ、 われはなにゝよて生死にはとゞまるぞ、 は0410づべしはづべし、 かなしむべしかなしむべし。

本師釈迦如来の、 大罪のやまにいりて、 邪見のはやしにかくれて、 三業放逸に六情全からざらん衆生を、 わが国土にはとりおきて教化度脱せしめんとちかひ給ひたりしは、 そもそもいかにしてかゝる衆生をば度脱せしめんとちかひ給ふぞとたづぬれば、 阿弥陀如来因位の時、 无上念王と申して菩提心をおこし、 生死を過度せしめむとちかひ給ひしに、 釈迦如来は宝海梵志と申して、 无上念王、 くにのくらゐをすてゝ菩提心をおこし、 摂取不捨の願をおこし給ひし時に、 この宝海梵志も願をおこして、 「われかならず穢土にして正覚をなりて、 罪業の衆生を引導せん」(悲華経巻三本授記品意) とちかひ給ひて、 この願をおこし給ふ也。

広劫よりこのかた、 諸仏出世して、 縁にしたがひ、 機をはかりて、 おのおの衆生を化度し給ふ事、 かず塵沙にすぎたり。 あるいは大乗をとき小乗をとき、 あるいは実教をひろめ権教をひろむ。 有縁の機は、 みなことごとくその益をう。

こゝに釈尊、 八相成道を五濁悪世にとなえて、 放逸邪見の衆生の出離、 その期なきをあはれみて、 「これよりにしに極楽世界あり、 仏まします、 阿弥陀となづけたてまつる」(小経意)。 このほとけは 「乃至十念、 若不生者、 不取正覚」(大経巻上) とちかひ給ひて、 仏になり給へり。 すみやかに念ぜよ。 出離生死のみちお0411ほしといえども、 悪業煩悩の衆生の、 とく生死をはなるゝ事、 この門にすぎたるはなしとおしえて、 ゆめゆめうたがふ事なかれ。

「六方恒沙の諸仏も証誡し給ふなり」(小経意) と、 ねんごろにおしへ給ひて、 「われもしひさしく穢土にあらば、 邪見・放逸の衆生、 われをそしりわれをそむきて、 かへりて悪道におちなん」(法華経巻五寿量品意)

濁世にいでたる事は、 本意たゞこの事を衆生にきかしめんがためなりとて、 阿難尊者に、 「なんぢよくこの事を遐代に流通せよ」(散善義意) と、 ねんごろに約束しおきて、 跋提河のほとり、 沙羅林のもとにして、 八十の春の天、 二月十五の夜半に、 頭北面西にして滅度に入給ひき。 その時に、 日月ひかりをうしなひ、 草木いろを変じ、 龍神八部、 禽獣・鳥類にいたるまで、 天にあふぎてなき、 地にふしてさけぶ。

阿難・目連等のもろもろの大弟子等、 悲泣のなみだをおさへて、 あひ議していはく、 釈尊の恩になれたてまつりて八十の春秋をおくりき。 化縁こゝにつきて、 黄金のはだえ、 たちまちにへだゝり給ひぬ。 あるいはわれら世尊に問たてまつるに、 答へ給へる事もありき、 あるいは釈尊みづから告給ふ事もありき。 済度利生の方便、 いまはたれにむかひてか問たてまつるべき。

すべからく如来の御ことばをしるしおきて、 未来にもつたへ、 御かたみともせんといひて、 多羅葉を0412ひろいてことごとくこれをしるしおきしを、 三蔵たちこれを訳して唐土へわたし、 本朝へつたへ給ふ。 諸宗につかさどるところの一代聖教これ也。

しかるに阿弥陀如来、 善導和尚となのりて、 唐土にいでゝ、 「如来出現於五濁、 随機方便化群萌、 或説多聞而得度、 或説小解証三明、 或教福恵双除障、 或教禅念坐思量、 種種法門皆解脱、 无過念仏往西方、 上尽一形至十念、 三念五念仏来迎、 直為弥陀弘誓重、 教使凡夫念即生」(法事讃巻下) との給へり。 釈尊出世本懐、 たゞこの事にありといふべし。

「自信教人信、 難中転更難、 大悲伝普化、 真成報仏恩」(礼讃) といへば、 釈尊の恩を報ずるは、 これたれがためぞや、 ひとえにわれらがためにあらずや。 このたびむなしくてすぎなば、 出離いづれの時をか期せんとする。 すみやかに信心をおこして生死を過度すべし。

次に廻向発願心といは、 人ことに具しつべき事なり。 国土の快楽をきゝて、 たれかねがはざらんや。 そもそも、 かの国土に九品の差別あり、 われらいづれの品をか期すべき。 善導和尚の御心は、 「極楽弥陀は報仏・報土也。 未断惑の凡夫、 すべてむまるべからずといへども、 弥陀の別願不思議にて、 罪悪生死の凡夫、 一念・十念してむまる」(玄義分意) と釈し給へり。

しかるを上古よりこのかた、 「おほく下0413品といふとも足ぬべし」(和漢朗詠集) といひて、 上品をねがはず。 これは悪業のおもきをおそれて心を上品にかけざる也。 もしそれ悪業によらば、 総じて往生すべからず。 願力によてむまれば、 なんぞ上品にすゝまん事をかたしとせん。

総じては弥陀浄土をまうけ給事は、 願力の成就するゆえなり。 しかれば、 又念仏衆生のむまるべきくになり。 「乃至十念、 若不生者、 不取正覚」(大経巻上) とたて給ひて、 この願によて感得し給ふところなるがゆえなり。

いま又 ¬観経¼ の九品の業をいはば、 下品は五逆・十悪の罪人、 臨終の時、 はじめて善知識のすゝめによて、 あるいは十声、 あるいは一声称念して、 むまるゝ事をえたり。 われら罪業おもしといへども、 五逆をばつくらず。 行業おろそかなりといへども、 一声・十声にすぎたり。 臨終よりさきに弥陀の誓願を聞得て、 随分に信心をいたす。 しかれば、 下品までくだるべからず。

中品は小乗の持戒の行者、 孝養、 仁・義・礼・智・信等の行人なり。 この品には中々にむまれがたし。 小乗の行人にもあらず、 たもちたる戒もなければ、 われらが分にあらず。

上品は大乗の凡夫、 菩提心等の行なり。 菩提心は諸宗おのおの心えたりといふ。 浄土宗の心は、 浄土にむまれんとねがふを菩提心といふ。 念仏これ大乗の行なり、 无上功徳なり。 しかれば、 上品往生は手をひく0414べからず。

又本願に 「乃至十念」(大経巻上) とたて給ひて、 臨終現前の願に 「大衆と囲繞せられてその人のまえに現ぜん」(大経巻上) とたて給へり。 中品は声聞衆の来迎、 下品は化仏の三尊、 あるいは金蓮花等の来迎なり。 しかるを大衆と囲繞して現ぜんとたて給へる本願の意趣は、 上品の来迎をまうけ給へり。 なんぞあながちにあひすまはんや。

又善導和尚、 「三万已上は上品上生の業」(観念法門意) との給へり。 数遍によて上品にむまるべし。 又三心について九品あるべし。 信心によて上品にむまるべしとみえたり。 上品をねがふ事は、 わが身のためにはあらず。 かのくにゝむまれおはりて、 かえりてとく衆生を化せんがためなり。 これあにほとけの御心にかなはざらんや。

一、 三部経釈 阿弥陀経

次に ¬阿弥陀経¼ は、 まづ極楽の依正の功徳をとく。 これ衆生の願楽の心をすゝめんがためなり。

のちに往生の行をあかすに、 「少善根をもてはむまるゝ事をうべからず。 阿弥陀仏の名号を執持して、 一日七日すれば往生する事をう」(小経意) とあかせり。

衆生これを信ぜざらん事をおそれて、 六方におのおの恒河沙の諸仏ましまして、 大千の舌相をのべて証誠し給へり。 善導釈していはく、 「この証によてむまるゝ事をえずは、 六方如来のゝべ給へるした、 ひとたびくちよりいでをはりて0415、 ながくくちに返りいらずして、 自然に壊爛せん」(観念法門) との給へり。

しかれば、 これをうたがはんものは、 弥陀の本願をうたがふのみにあらず、 釈尊の所説をうたがふなり。 釈尊の所説をうたがふは、 六方恒沙の諸仏の所説をうたがふなり。 すなはちこれ大千にのべ給へる舌相を壊爛する也。

もし又これを信ぜば、 たゞ弥陀の本願を信ずるのみにあらず、 釈尊の所説を信ずるなり。 釈尊の所説を信ずるは、 六方恒沙の諸仏の所説を信ずる也。 一切の諸仏を信ずるは、 一切の法を信ずるになる。 一切の法を信ずるは、 一切の菩薩を信ずるになる。

この信ひろくして広大の信心なり。 善導和尚のいはく、 「為断凡夫疑見執、 皆舒舌相覆三千、 共証七日称名号、 又表釈迦言説真」(法事讃巻下)。 「六法如来舒舌証、 専称名号至西方、 到彼花開聞妙法、 十地願行自然彰」(礼讃)。 「心々念仏莫生疑、 六法如来証不虚、 三業専心无雑乱、 百宝蓮花応時現。」(法事讃巻下)

 

二、 御誓言の書

御誓言の書 第二

もろこし・わが朝にも、 もろもろの智者たちの沙汰し申さるゝ観念の念にもあらず。 又学問をして念の心をさとりて申す念仏にもあらず。 たゞ往生極楽のためには0416南無阿弥陀仏と申して、 うたがひなく往生するぞとおもひとりて申すほかには別の子細候はず。

たゞし三心・四修なんど申す事の候は、 みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもふうちにこもり候なり。

このほかにおくふかき事を存ぜば、 二尊の御あはれみにはづれ、 本願にもれ候べし。 念仏を信ぜん人は、 たとひ一代の御のりをよくよく学すとも、 一文不知の愚鈍の身になして、 尼入道の无智のともがらにおなじくして、 智者のふるまひをせずして、 たゞ一向に念仏すべし。

これは御自筆の書なり、 勢観聖人にさづけられき。

 

三、 往生大要抄

往生大要抄 第三

いまわが浄土宗には、 二門をたてゝ釈迦一代の説教をおさむるなり。 いはゆる聖道門・浄土門なり。

はじめ花厳・阿含より、 おはり法華・涅槃にいたるまで、 大小乗の一切の諸経にとくところの、 この娑婆世界にありながら断迷開悟のみちを、 聖道門とは申すなり。 これにつきて大乗の聖道あり、 小乗の聖道あり。 大乗にも二あり、 すなはち仏乗と菩薩と也。 小乗に二あり、 すなはち声聞と縁覚との二乗なり。 これをすべて四乗となづく。

仏乗とは、 即身成仏の教なり。 真言・達磨・天0417臺・花厳等の四乗にあかすところなり。

すなはち真言宗には、 「父母所生身、 速証大覚位」(発菩提心論) と申して、 この身ながら、 大日如来のくらゐにのぼるとならふ也。

仏心宗には、 「前仏後仏以心伝心」(達磨大師血脈論) とならひて、 たちまちに人の心をさしてほとけと申なり。 かるがゆえに即身是仏の法となづけて、 成仏とは申さぬなり。 この法は、 釈尊入滅の時、 ¬涅槃経¼ をときおはりてのち、 たゞ一偈をもちて迦葉尊者に付嘱し給へる法なり。

天臺宗には、 煩悩即菩提生死即涅槃と観じて、 観心にてほとけになるとならふ也。 八才の龍女が、 南方无垢世界にしてたちまちに正覚をなりし、 その証なり。

華厳宗には、 「初発心時便成正覚」(晋訳華厳経巻八梵行品) とて、 又即身成仏とならふなり。 これらの宗には、 みな即身頓証のむねをのべて、 仏乗となづくるなり。

つぎに菩薩乗といは、 歴劫修行成仏の教なり。 三論・法相の二宗にならふところなり。

すなはち三論宗には、 八不中道の无相の観に住して、 しかも心には四弘誓願をおこし、 身には六波羅蜜を行じて、 三僧祗に菩薩の行を修してのち、 ほとけになると申す也。

法相宗には、 五重唯識の観に住して、 しかも四弘をおこし、 六度を行じて三僧祗をへて、 ほとけになると申すなり。 これらを菩薩乗となづく。

つぎに縁覚乗といは、 飛花落葉を見て、 ひとり諸法の无常をさ0418とり、 あるいは十二因縁を観じて、 ときは四生、 おそきは百劫にさとりをひらくなり。

つぎに声聞乗といは、 はじめ不浄・数息を観ずるより、 おはり四諦の観にいたるまで、 ときは三生、 おそきは六十劫に四向三果のくらゐをへて、 大羅漢の極位にいたる也。 この二乗の道は、 成実・倶舎の両宗にならふところ也。

又声聞につきて、 戒行をそなふべし。 比丘は二百五十戒を受持し、 比丘尼は五百戒を受持するなり。 五篇・七聚の戒となづくる也。 又沙弥・沙弥尼の戒、 式沙摩尼の六法、 優婆塞・優婆夷の五戒、 みなこれ律宗のなかにあかすところ也。

およそ大小乗をえらばず、 この四乗の聖道は、 われらが身にたへ、 時にかなひたる事にてはなき也。 もし声聞のみちにおもむくは、 二百五十戒たもちがたし、 苦・集・滅・道の観成じがたし。 もし縁覚の観をもとむとも、 飛花落葉のさとり、 十二因縁の観、 ともに心もおよばぬ事なり。 三聚・十重の戒行発得しがたし、 四弘・六度の願行成就しがたし。

身子は六十劫まで修行して、 乞眼の悪縁にあひて、 たちまちに菩薩の広大の心をひるがへしき。 いはんや末法のこのごろをや、 下根のわれらをや。

たとひ即身頓証の理を観ずとも、 真言の入我々入・阿字本不生の観、 天臺の三観・六即・中道真相の観、 華厳宗の法界唯心の観、 仏心宗の即身是仏の観0419、 理はふかく解は­あさ½し。

かるがゆえに末代の行者、 その証をうるに、 きはめてかたし。 このゆへに、 道綽禅師は 「聖道の一種は、 今時は証しがたし」(安楽集巻上) との給へり。 すなはち ¬大集の月蔵経¼ をひきて、 おのおの行ずべきありやうをあかせり。 こまかにのぶるにおよばず。

つぎに浄土門は、 まづこの娑婆世界をいとひすてゝ、 いそぎてかの極楽浄土にむまれて、 かのくにゝして仏道を行ずる也。 しかれば、 かつがつ浄土にいたるまでの願行をたてゝ、 往生をとぐべきなり。 しかるにかのくにゝむまるゝ事は、 すべて行者の善悪をゑらばず、 たゞほとけのちかひを信じ信ぜざるによる。 五逆・十悪をつくれるものも、 たゞ一念・十念に往生するは、 すなはちこのことはり也。

このゆへに道綽は、 「たゞ浄土の一門の­み½ありて、 通入すべきみちなり」(安楽集巻上) と釈し給へり。 「通じているべし」 といふにつきて、 わたくしに心うるに、 二つの心あるべし。 一にはひろく通じ、 二にはとをく通ず。

ひろく通ずといは、 五逆の罪人をあげてなを往生の機におさむ、 いはんや余の軽罪をや、 いかにいはんや善人をやと心えつれば、 往生のうつはものにきらはるゝものなし。 かるがゆえにひろく通ずといふ也。

とをく通ずといは、 「末法万年のゝち法滅百歳までこの教と0420ゞまりて、 その時にきゝて一念する、 みな往生す」(大経巻下意) といへり。 いはんや末法のなかをや、 いかにいはんや正法・像法をやと心えつれば、 往生の時もるゝ世なし。 かるがゆへにとをく通ずといふなり。

しかれば、 このごろ生死をはなれんとおもはんものは、 難証の聖道をすてて、 易往の浄土をねがふべき也。 又この聖道・浄土をば、 難行道・易行道となづけたり。

たとへをとりてこれをいふには、 「難行道とはさかしきみちをかちよりゆかんがごとし、 易行道とは海路をふねよりゆくがごとし」(十重論巻五易行品意) といへり。 しかるに目しゐ、 あしなえたらんものは、 陸地にはむかふべからず。 たゞふねにのりてのみむかひのきしにはつくべき也。

しかるにこのごろ、 われらは智恵のまなこしゐて、 行法のあしおれたるともがら也。 聖道難行のさかしきみちには、 すべてのぞみをたつべし。 たゞ弥陀の願のふねにのりてのみ、 生死のうみをわたりて極楽のきしにはつくべきなり。 いまこのふねといは、 すなはち弥陀の本願にたとふる也。 この本願といは、 四十八願也。

そのなかに、 第十八の願をもて、 衆生の往生の行のさだめたる本願とせり。 二門の大旨、 略してかくのごとし。 聖道の一門をさしおきて浄土の一門にいらんとおもはん人は、 道綽・善導の釈をもて所依の 「三部経」 を習ふべきなり。 さきには聖道0421・浄土の二門を分別して、 浄土門にいるべきむねを申ひらきつ。 いまは浄土の一門につきて、 修行すべきやうを申すべし。

浄土に往生せんとおもはば、 心と行との相応すべきなり。 かるがゆへに善導の釈にいはく、 「たゞしその行のみあるは、 行すなはちひとりにして、 又いたるところなし。 たゞその願のみあるは、 願すなはちむなしくして、 又いたるところなし。 かならず願と行とをあひともにたすけて、 ためにみな克するところ也。 およそ往生のみにかぎらず、 聖道門の得道をもとめんにも、 心と行とを具すべし」(玄義分意) といへり。 発心修行となづくる、 これなり。

いまこの浄土宗に、 善導のごとくは安心・起行となづけたり。 まづその安心といは、 ¬観无量寿経¼ にといていはく、 「もし衆生ありて、 かのくにゝむまれんとねがはんものは、 三種の心をおこしてすなはち往生すべし。 なにをか三とする。 一には至誠心、 二には深心、 三には廻向発願心なり。 三心を具するものは、 かならずかのくにゝむまる」 といへり。 善導和尚の ¬観経の疏¼、 ならびに ¬往生礼讃¼ の序にこの三心を釈し給へり。

「一に至誠心」 といは、 まづ ¬往生礼讃¼ の文をいださば、 「一には至誠心。 いはゆる身業にかのほとけを礼拝せんにも、 口業にかのほとけを讃嘆称揚せんにも、 意業0422にかのほとけを専念観察せんにも、 およそ三業をおこすには、 かならず真実をもちゐよ。 かるがゆへに至誠心となづく」 といへり。

つぎに ¬観経の疏¼(散善義意) の文をいださば、 「一には至誠心といは、 至とは真なり、 誠といは実なり。 一切衆生の身口意業の所修の解行、 かならず真実心のなかになすべき事をあかさんとおもふ。 ほかには賢善精進の相を現じて、 うちには虚仮をいだく事なかれ。 善の三業をおこす事は、 かならず真実心のなかになすべし。 内外明闇をゑらばず、 みな真実をもちゐよ」 といへり。

この二つの釈をひいて、 わたくしに了簡するに、 至誠心といは真実の心なり。 その真実といは、 内外相応の心なり。 身にふるまひ、 口にいひ、 意におもはん事、 みな人めをかざる事なく、 ま事をあらはす也。 しかるを、 人つねにこの至誠心を熾盛心と心えて、 勇猛強盛の心をおこすを至誠心と申すは、 この釈の心にはたがふ也。 文字もかはり、 心もかはりたるものを。

さればとて、 その猛利の心はすべて至誠心をそむくと申にはあらず。 それは至誠心のうゑの熾盛心にてこそあれ。 真実の至誠心を地にして、 熾盛なるはすぐれ、 熾盛ならぬはおとるにてある也。 これにつきて、 九品の差別までもこゝろうべき也。

されば善導の ¬観経の疏¼(散善義) 0423、 九品の文を釈するしたに、 一一の品ごとに 「辨定三心以為正因」 とさだめて、 「この三心は九品に通ずべし」(散善義意) と釈し給へり。 恵心もこれをひきて、 「禅師の釈のごときは、 理九品に通ずべし」(要集巻中) とこそはしるされたれ。 この三心の中、 かの至誠心なれば、 至誠心すなはち九品に通ずべき也。

又至誠心は、 深心と廻向発願心とを体とす。 この二をはなれては、 なにゝよりてか至誠心をあらはすべき。 ひろくほかをたづぬべきにあらず、 深心も廻向発願心もまことなるを至誠心とはなづくる也。 三心すでに九品に通ずべしと心えてのうゑには、 その差別のあるやうをこゝろうるに、 三心の浅深強弱によるべき也。

かるがゆへに上品上生には、 ¬経¼(観経) に 「精進勇猛なるがゆへに」 とゝき、 釈には 「日数すくなしといへども、 作業はげしきがゆへに」(玄義分) といへり。 又上品中生をば、 「行業やゝよはくして」 と釈し、 上品下生をば、 「行業こわからず」 なんど釈せられたれば、 三心につきて、 こわきもよわきもあるべしとこそこゝろえられたれ。

よわき三心具足したらん人は、 くらゐこそさがらんずれ、 なを往生はうたがふべからざる也。 それは強盛の心をおこさずは至誠心かけて、 ながく往生すべからずと心えて、 みだりに身をもくだし、 あまさへ人をもかろしむる人々の不便におぼゆる也。 さらなり強盛の心の0424おこらんは、 めでたき事なり。

¬善導の十徳¼ の中に、 はじめの至誠念仏の徳をいだすにも、 「一心に念仏して、 ちからのつくるにあらざればやまず、 乃至寒冷にも又あせをながす、 この相状をもて至誠をあらはす」 なんどあるなれば、 たれだれもさこそははげむべけれ。

たゞしこの定なるをのみ至誠心と心えて、 これにたがはんをば至誠心かけたりといはんには、 善導のごとく至誠心至極して、 勇猛ならん人ばかりぞ往生はとぐべき。 われらがごときの尩弱の心にては、 いかゞ往生すべきと臆せられぬべき也。

かれは別して善導一人の徳をほむるにてこそあれ、 これは通じて一切衆生の往生を決するにてあれば、 たくらぶべくもなき事也。 所詮はたゞわれらがごときの凡夫、 をのをの分につけて、 強弱真実の心をおこすを、 至誠心となづけたるとこそ、 善導の釈の心は見えたれ。

文につけてこまかに心うれば、 「ほかには賢善精進の相を現じ、 うちには虚仮をいだく事なかれ」 といふは、 うちにはをろかにして、 ほかにはかしこき相を現じ、 うちには悪をのみつくりて、 ほかには善人の相を現じ、 うちには懈怠にして、 ほかには精進の相を現ずるを、 虚仮とは申す也。 外相の善悪をばかへりみず、 世間の謗誉をばわきまえず、 内心に穢土をもいとひ、 浄土をもねがひ、 悪をもとゞめ、 善0425をも修して、 まめやかに仏の意にかなはん事をおもふを、 真実とは申也。

真実は虚仮に対することば也。 真と仮と対し、 虚と実と対するゆへなり。

この真実虚仮につきてくはしく分別するに、 四句の差別あるべし。 一には、 ほかをかざりて、 うちにはむなしき人。 二には、 ほかをもかざらずうちもむなしき人。 三には、 ほかはむなしく見えて、 うちはま事ある人。 四には、 ほかにもまことをあらはし、 うちにもまことある人。

かくのごときの四人のなかには、 さきの二人をば、 ともに虚仮の行者といふべし。 のちの二人をば、 ともに真実の行者といふべし。 しかれば、 たゞ外相の賢愚・善悪をばゑらばず、 内心の邪正・迷悟によるべき也。

およそこの真実の心は、 人ことに具しがたく、 事にふれてかけやすき心ばへなり。 おろかにはかなしといましめられたるやうもあることはり也。

无始よりこのかた、 今身にいたるまで、 おもひならはしてさしもひさしく心をはなれぬ名利の煩悩なれば、 たたんとするにやすらかにはなれがたきなりけりと、 おもひゆるさるゝかたもあれども、 又ゆるしはんべるべき事ならねば、 わが心をかへりみて、 いましめなをすべき事也。

しかるにわが心の程もおもひしられ、 人のうゑをも見るに、 この人めかざる心ばへは、 いかにもいかにもおもひはなれぬこそ、 返々心うくかな0426しくおぼゆれ。

この世ばかりをふかく執する人は、 たゞまなこのまえのほめられ、 むなしき名をもあげんとおもはんをば、 いふにたらぬ事にておきつ。 うき世をそむきて、 まことのみちにおもむきたる人々のなかにも、 返りてはかなくよしなき事かなとおぼゆる事もある也。

むかしこの世を執する心のふかゝりしなごりにて、 ほどほどにつけたる名利をふりすてたるばかりを、 ありがたくいみじき事におもひて、 やがてそれをこの世さまにも心のいろのうるせきに、 とりなしてさとりあさき世間の人の心のそこをばしらず、 うゑにあらはるゝすがた事がらばかりを、 たとがりいみじがるをのみ本意におもひて、 ふかき山ぢをたづね、 かすかなるすみかをしむるまでも、 ひとすぢに心のしづまらんためとしもおもはで、 おのづからたづねきたらん人、 もしはつたへきかん人の、 おもはん事をのみさきだて­ゝ、½ まがきのうち庭のこだち、 菴室のしつらひ、 道場の荘厳なんど、 たとくめでたく、 心ぼそく物あはれならん事がらをのみ、 ひきかえんと執するほどに、 罪の事も、 ほとけのおぼしめさん事をばかえりみず、 人のそしりにならぬ様をのみおもひいとなむ事よりほかにはおもひまじふる事もなくて、 ま事しく往生をねがふべきかたをば思もいれぬ事なんどのあるが、 やがて至誠心かけて往生せぬ心ば0427へにてある也。

又世をそむきたる人こそ、 中々ひじり名聞もありてさやうにもあれ、 世にありながら往生をねがはん人は、 この心はなにゆへにかあるべきと申す人のあるは、 なをこまやかに心えざる也。 世のほまれをおもひ、 人めをかざる心はなに事にもわた­る½事なれば、 ゆめまぼろしの栄花重職をおもふのみにはかぎらぬ事にてある也。

中々在家の男女の身にて後世をおもひたるをば、 心ある事のいみじくありがたきとこそは人も申す事なれば、 それにつけてほかをかざりて、 人にいみじがられんとおもふ人のあらんもかたかるべくもなし。 まして世をすてたる人なんどにむかひては、 さなからん心をも、 あはれをしり、 ほかにあひしらはんために、 後世のおそろしさ、 この世のいとはしさなんどは申すべきぞかし。

又か様に申せば、 ひとへにこの世の人めはいかにもありなんとて、 人のそしりをもかへりみず、 ほかをかざらねばとて、 心のまゝにふるまふがよきと申すにてはなき也。 菩薩の譏嫌戒とて、 人のそしりになりぬべき事をばなせそとこそ、 いましめられたれ。 これははうにまかせてふるまえば、 放逸とてわろき事にてあるなり。

それに時にのぞみたる譏嫌戒のためばかりに、 いさゝか人めをつゝむかたは、 わざともさこそあるべき事を、 人目をのみ執してま事のかたをもかへりみず、 往生0428のさはりになるまでにひきなさるゝ事の、 返々もくちおしき也。

譏嫌戒となづけて、 やがて虚仮になる事もありぬべし。 真実といひなして、 あまり放逸なる事もありぬべし。 これをかまえてかまえてよくよく心えとくべし。 詞なをたらぬ心ちする也。

又この真実につきて、 自利の真実、 利他の真実あり。 又三界六道の自他の依正をいとひすてゝ、 かろしめしやし­めんに½も、 阿弥陀仏­の½依正二報を礼拝・讃嘆・憶念せんにも、 およそ厭離穢土・欣求浄土の三業にわたりてみな真実なるべきむね、 ¬疏¼ の文につぶさ也。 その文しげくして、 ことごとくいだすにあたはず。 至誠心のありさま、 略してかくのごとし。

「二に深心」 といは、 まづ ¬礼讃¼ の文にいはく、 「二者深心。 すなはち真実の信心なり。 自身はこれ煩悩を具足せる凡夫なり、 善根薄少にして三界に流転して火宅をいでずと信知して、 いま弥陀の本弘誓願の名号を称する事しも十声・一声にいたるまで、 さだめて往生する事をうと信知して、 乃至一念もうたがふ心ある事なかれ。 かるがゆえに深心となづく」­とい½へり。

つぎに ¬観経­の½疏¼(散善義意) の文にいはく、 「二に深­心といは、½ すなはちこれ深信の心なり。 又二種あり。 一には決定してふかく、 自身は現にこれ罪悪生死の凡夫なり、 広劫よりこのかた常没流転し0429て、 出離の縁ある事なしと信ぜよ。

二には決定してふかく、 かの阿弥陀仏の、 四十八願をもて衆生を摂受し給ふ事、 うたがひなくおもんぱかりなくかの願力に乗じてさだめて往生する事をうと信じ、

又決定してふかく、 釈迦仏、 この ¬観経¼ の三福・九品・定散二善をときて、 かのほとけの依正二報を証讃して、 人をして欣慕せしめ給ふ事を信じ、

又決定してふかく、 ¬弥陀経¼ のなかに、 十方恒沙の諸仏の、 一切の凡夫決定してむまるゝ事をうと証勧し給へり。

ねがはくは一切の行者、 一心にたゞ仏語を信じて身命をかへりみず、 決定してより行じて、 ほとけのすてしめ給はん事をばすなはちすて、 ほとけの行ぜしめ給はん事をばすなはち行じ、 ほとけのさらしめ給はんところをばすなはちされ。 これを仏教に随順し、 仏意に随順すとなづく。 これを真の仏弟子となづく。

又深心を深信といは、 決定して自心を建立して、 教に順じて修行して、 ながく疑錯をのぞきて、 一切の別解・別行・異学・異見・異執のために、 退失し傾動せられざれといへり。

わたくしにこの二つの釈を見るに、 文に広略あり、 言ばに同異ありといへども、 まづ二種の信心をたつる事は、 そのおもむきこれひとつなり。

すなはち二の信心といは、 はじめに 「わが身­は½煩悩罪悪の凡夫なり、 火宅をいでず、 出離の縁なし0430と信ぜよ」 といひ、 つぎには 「決定往生すべき身なりと信じて一念もうたがふべからず、 人にもいひさまたげらるべからず」 なんどいへる、 前後のことば相違して心えがたきにゝたれども、 心をとゞめてこれを案ずるに、 はじめにはわが身のほどを信じ、 のちにはほとけの願を信ずる也。 たゞしのちの信心を決定せしめんがために、 はじめの信心をばあぐる也。

そのゆへは、 もしはじめのわが身を信ずる様をあげずして、 たゞちにのちのほとけのちかひばかりを信ずべきむねをいだしたらましかば、 もろもろの往生をねがはん人、 雑行を修して本願をたのまざらんをばしばらくおく。

まさしく弥陀の本願の念仏を修しながらも、 なを心にもし貪欲・瞋恚の煩悩をもおこし、 身におのづから十悪・破戒等の罪業をもおかす事あらば、 みだりに自身を怯弱して、 返りて本願を疑惑しなまし。

まことにこの弥陀の本願に、 十声・一声にいたるまで往生すといふ事は、 おぼろげの人にてはあらじ。 妄念をもおこさず、 つみをもつくらぬ人の甚深のさとりをおこし、 強盛の心をもちて申したる念仏にてぞあるらん。 われらごときのえせものどもの、 一念・十声にてはよもあらじとこそおぼえんもにくからぬ事也。

これは、 善導和尚は未来の衆生のこのうたがひをおこさん事をかへりみて、 この二種の信心をあげて0431、 われらがごとき煩悩をも断ぜず、 罪悪をもつくれる凡夫なりとも、 ふかく弥陀の本願を信じて念仏すれば、 十声・一声にいたるまで決定して往生するむねをば釈し給へる也。

かくだに釈し給はざらましかば、 われらが往生は不定にぞおぼへまし。 あやうくおぼゆるにつけても、 この釈の、 ことに心にそみておぼへはんべる也。 さればこの義を心えわかぬ人にこそあるめれ。

ほとけの本願をばうたがはねども、 わが心のわろければ往生はかなはじと申あひたるが、 やがて本願をうたがふにて侍る也。 さやうに申したちなば、 いかほどまでかほとけの本願にかなはず、 さほどの心こそ本願にはかなひたれとはしり侍るべき。 それをわきまえざらんにとりては、 煩悩を断ぜざらんほどは、 心のわろさはつきせぬ事にてこそあらんずれば、 いまは往生してんとおもひたつ世はあるまじ。

又煩悩を断じてぞ、 往生はすべきと申すになりなば、 凡夫の往生といふ事はみなやぶれなんず。 すでに弥陀の本願力といふとも、 煩悩罪悪の凡夫をば、 いかでかたすけ給ふべき。 えむかへ給はじ物をなんど申すになるぞかし。 ほとけの御ちからをば、 いかほどゝしるぞ。

それにすぎて、 ほとけの願をうたがふ事はいかゞあるべき、 又ほとけにたちあひまいらするとがありなんど申すべき事にてこそあれ。 すべてわが心の善悪0432をはからひて、 ほとけの願にかなひかなはざるを心えあはせん事は、 仏智ならでええはかなふまじき事也。

されば善導は、 ¬観経の疏¼ の一のまき (玄義分) に弘願を釈するに、 「一切善悪の凡夫むまるゝ事をうる事は、 阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせずといふ事なし」 といひおきて、 「ほとけの密意弘深にして、 教門さとりがたし。 三賢・十聖もはかりてうかゞふところにあらず。 いはんや、 われ信外の軽毛なり、 あえて旨趣をしらんや」 とこそは釈し給ひたれば、 善導だにも十信にだにもいたらぬ身にて、 いかでかほとけの御心をしるべきとこそはおほせられたれば、 ましてわれらがさとりにてほとけの本願はからひしる事は、 ゆめゆめおもひよるまじき事也。

たゞ心の善悪をもかへりみず、 罪の軽重をもわきまへず、 心に往生せんとおもひて、 口に南無阿弥陀仏ととなえば、 こゑについて決定往生のおもひをなすべし。 その決定によりて、 すなはち往生の業はさだまる也。 かく心えつればやすき也。 往生は不定におもへばやがて不定也、 一定とおもへばやがて一定する事なり。

所詮は深信といは、 かのほとけの本願はいかなる罪人をもすてず、 たゞ名号をとなふる事一声までに、 決定して往生すとふかくたのみて、 すこしのうたがひもなきを申す也。

¬観経¼(意) の下品下生を見るに、 「十悪・五逆の罪0433人も、 一念・十念に往生す」 とゝかれたり。 「十悪・五逆等貪瞋、 四重・偸僧・謗正法、 未曽慚愧前」(礼讃) といへるは、 在生の時の悪業をあかす。 「忽遇往生善知識、 急勧専称彼仏名、 化仏・菩薩尋声到、 一念傾心入宝蓮」(礼讃) といへるは、 臨終の時の行相をあかす也。

又 ¬双巻経¼(大経巻下意) のおくに、 「三宝滅尽ののちの衆生、 乃至一念に往生す」 とゝかれたり。 善導釈していはく、 「万年三宝滅、 此経住百年、 爾時聞一念、 皆当得生彼」(礼讃) といへり。 この二つの心をもて、 弥陀の本願のひろく摂し、 とをくおよぶほどをばしるべき也。

おもきをあげてかろきをおさめ、 悪人をあげて善人をおさめ、 とをきをあげてちかきをおさめ、 のちをあげてさきをおさむるなるべし。 ま事に大悲誓願の深広なる事、 たやすく詞をもてのぶべからず、 心をとゞめておもふべきなり。

そもそもこのごろ末法にいれりといへども、 いまだ百年にみたず。 われら罪業おもしといへども、 いまだ五逆をつくらず。 しかれば、 はるかに百年法滅のゝちをすくひ給へり、 いはんやこのごろをや。 ひろく五逆極重のつみをすて給はず、 いはんやわれらをや。 たゞ三心を具して、 もはら名号を称すべし。 たとひ一念といふとも、 みだりに本願をうたがふ事なかれ。

たゞし、 かやうのことはりを申つれば、 つみをもすて給はねば、 心にまか0434せてつみをつくらんもくるしかるまじ。 又一念にも一定往生すなれば、 念仏はおほく申さずともありなんと、 あしく心うる人のいできて、 つみをばゆるし、 念仏をば制するやうに申しなすが、 返々もあさましく候也。

悪をすゝめ善をとゞむる仏法は、 いかゞあるべき。 されば善導は、 「貪瞋煩悩をきたしまじへざれ」(礼讃) といましめ、 又 「念々相続して、 いのちおはらんを期とせよ」(礼讃) とおしへ、 又 「日所作は五万・六万乃至十万」(観念法門意) なんどこそすゝめ給ひたれ。 たゞこれは大悲本願の一切を摂する、 なを十悪・五逆をももらさず。 称名念仏の余行にすぐれたる、 すでに一念・十念にあらはれたるむねを信ぜよと申すにてこそあれ。

­か½やうの事は、 あしく心うれば、 いづかたもひが事になる也。 つよく信ずるかたをすゝむれば、 邪見をおこし、 邪見をおこさせじとこしらふれば、 信心つよからずなるが術なき事にて侍る也。 かやうの分別は、 このついでに事ながければ、 起行の下たにこまかに申ひらくべし。

又ひくところの ¬疏¼ の文を見るに、 のちの信心について二つの心あり。 すなはちほとけについてふかく信じ、 経についてふかく信ずべきむねを釈し給へるにやと心えらるゝ也。

まづはほとけについて信ずといは、 一には弥陀の本願を信じ、 二には0435釈迦の所説を信じ、 三には十方恒沙の護勧を信ずべき也。

経について信ずといは、 一には ¬无量寿経¼ を信じ、 二には ¬観経¼ を信じ、 三には ¬阿弥陀経¼ を信ずる也。 すなはちはじめに 「決定してふかく阿弥陀仏の四十八願」 といへる文は、 弥陀を信じ、 又 ¬无量寿経¼ を信ずる也。 つぎに 「決定してふかく釈迦仏の ¬観経¼」 といえる文は、 釈迦を信じ、 ¬観経¼ を信ずるなり。 つぎに 「決定してふかく ¬弥陀経¼ の中」 といへる文は、 十方諸仏を信じ、 又 ¬阿弥陀経¼ を信ずる也。

又つぎの文に、 「ほとけのすてしめ給はんをばすてよ」 といふは、 雑行雑修なり。 「ほとけの行ぜしめ給はん事をば行ぜ­よ」½といふは、 専修正行也。 「ほとけのさらしめ給はん事をばされ」 といふは、 異学・異解、 雑縁乱動のところ也。 善導の 「みづからもさへ、 他の往生の正行をもさふ」(礼讃) と釈し給へる事、 まことにおそるべき物也。

「仏教に随順す」 といは、 釈迦の御おしへにしたがひ、 「仏願に随順す」 といは、 弥陀の願にしたがふ也。 「仏意に随順す」 といは、 二尊の御心にかなふ也。 いまの文の心は、 さきの文に 「三部経を信ずべし」 といへるにたがはず。 詮じては、 たゞ雑修をすてゝ専修を行ずるが、 ほとけの御心にかなふとこそはきこへたれ。

又つぎの文に、 「別解・別行のためにやぶられざれ」 といふは、 さとりことに行ことならん0436人の難じやぶらんについて、 念仏をもすて往生をもうたがふ事なかれと申す也。 さとりことなる人と申すは、 天臺・法相等の諸宗の学生これなり。 行ことなる人と申すは、 真言・止観等の一切の行者これなり。 これらはみな聖道門の解行也。 浄土門の解行にことなるがゆへに、 別解・別行とはなづけたり。 かくのごときの人に、 いひやぶらるまじきことはりは、 この文のつぎにこまかに釈し給へり。

すなはち人につきて信をたつ、 行につきて信をたつといふ、 二の信をあげたり。 はじめの人につきて信をたつといへる、 これなり。 この文広博にして、 つぶさにいだすにあたはず。

その義至要にして、 さらにすてがたきによりて、 ことばを略し心をとりて、 そのをもむきをあかさば、 文の心、 「解行不同の人ありて、 経論の証拠をひきて、 一切の凡夫往生することをえずといはば、 すなはちこたえていへ。 なんぢがひくところの経論を信ぜざるにはあらず、 みなことごとくあふいで信ずといへども、 さらになんぢが破をばうけず。 そのゆへは、 なんぢがひくところの経論と、 わが信ずるところの経論と、 すでに各別の法門なり。 ほとけ、 この ¬観経¼・¬弥陀経¼ 等をとき給ふ事、 時も別にところも別に、 対機も別に利益も別なり。 ほとけの説教は、 機にしたがひ、 時にしたがひて不同なり。 かれには通じて人0437・天・菩薩の解行をとく。 これは別して往生浄土の解行をとく。 すなはち、 ほとけの滅後の五濁極増の一切の凡夫、 決定して往生する事をうととき給へり。 われいま一心にこの仏教によりて、 決定して奉行す。 たとひなんぢ百千万億むまれずといふとも、 たゞわが往生の信心を増長し成就せんとこたへよ」(散善義意) といへり。

「又行者さらに難破の人にむかひてときていへ。 なんぢよくきけ、 われいまなんぢがためにさらに決定の信の相をとかん」(散善義) といひて、 はじめは地前菩薩・羅漢・辟支仏より、 おはり化仏・報仏までたてあげて、 「たとひ化仏・報仏、 十方にみちみちて、 おのおのひかりをかゞやかし、 したをいだして十方におほひて、 一切の凡夫念仏して一定往生すといふ事はひが事なり、 信ずべからずとの給はんに、 われこれらの諸仏の所説をきくとも、 一念も義退の心をおこしてかのくにゝむらるゝ事をえざらん事をおそれじ。 なにをもてのゆへにとならば、 一仏は一切仏也、 大悲等同にしてすこしきの差別なし。 同体の大悲のゆえに、 一仏の所説はすなはちこれ一切仏の化なり。 こゝをもて、 まづ弥陀如来、 称我名号、 下至十声、 若不生者、 不取正覚と願じて、 その願成就してすでに仏になり給へり。 又釈迦如来は、 この五濁悪世にして、 悪衆生、 悪見、 悪煩悩、 悪邪、 无信さかりなる時、 弥0438陀の名号をほめ、 衆生を勧励して、 称念すればかならず往生する事をうとゝき給へり。 又十方の諸仏は、 衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらん事をおそれて、 すなはちともに同心同時におのおの舌相をいだして、 あまねく三千世界におほひて、 誠実のことばをとき給ふ。 なんだち衆生、 みな釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。 一切の凡夫、 罪福の多少・時節の久近をとはず、 たゞよく上みは百年をつくし、 下もは一日・七日、 十声・一声にいたるまで、 心をひとつにしてもはら弥陀の名号を念ずれば、 さだめて往生する事をうといふ事を信ずべし。 かならずうたがふことなかれと証誠し給へり。 かるがゆへに人について信をたつ」(散善義意) といへり。

かくのごときの一切諸仏の、 一仏ものこ­ら½ず同心に、 あるいは願をおこし、 あるいはその願をとき、 あるいはその説を証して、 一切の凡夫、 念仏して決定往生すべきむねをすゝめ給へるうゑには、 いかなるほとけの又きたりて往生すべからずとはの給ふべきぞといふことはりをもて、 ほとけきたりての給ふとも、 おどろくべからずとは信ずる也。 ほとけなをしかり、 いはんや地前・地上の菩薩をや、 いはんや小乗の羅漢をやと心えつれば、 ましえ凡夫のとかく申さんによりて、 一念もうたがひおどろく心あるべからずとは申す也。

おほかたこの信心の様を、 人の0439心えわかぬとおぼゆる也。 心のそみぞみと身のけもいよだち、 なみだもおつるをのみ、 信のおこると申すはひが事にてある也。 それは歓喜・随喜・悲喜と­ぞ½申べき。 信といは、 うたがひに対する心­にて、½ うたがひをのぞくを信とは申すべき也。

見る事につけても、 きく事につけても、 その事一定さぞとおもひとりつる事は、 人いかに申せども、 不定におもひなる事はなきぞかし。 これをこそ、 物を信ずるとは申せ。 その信のうゑに、 歓喜・随喜なんどもおこらんは、 すぐれたるにてこそあるべけれ。

たとへば、 としごろ心のほどをもみとりて、 そら事せぬたしかならん人ぞとたのみたらん人の、 さまざまにおそろしき誓言をたて、 なおざりならず、 ねんごろにちぎりをきたる事のあらんを、 ふかくたのみてわすれずたもちて、 心のそこにふかくたくわえたらんに、 いと心の程もしらざらん人の、 それなたのみそ、 そら事するぞと、 さまざまにいひさまたげんにつきて、 すこしもかはる心はあるまじきぞかし。

それがやうに、 弥陀の本願をもふかく信じて、 いひやぶらるべからず。 いはんや一代の教主も付嘱し給へるをや、 いはんや十方の諸仏も証誠し給へるをやと心うべきにや。 まことにことはりをきゝひらかざらんほどこそあらめ。 ひとたびもこれをきゝて信をおこしてんのちは、 いかなる人と0440かくいふとも、 なじにかはみだるゝ心あるべきとこそはおぼへ候へ。

つぎに行について信をたつといふは、 すなはち行に二つあり。 一には正行、 二には雑行なりといへり。 この二行について、 あるいは行相、 あるいは得失、 文ひろく義おほしといへども、 しばらく略を存ず。 つぶさには、 下もの起行のなかにあかすべし。 深信の大要をとるにこれにあり。

この文に下巻あるべしとみゆるが、いづくにかくれて侍るにか、いまだたづねえず。もしたづねうる人あらばこれにつげ。

 

黒谷上人語灯録巻第十一

 

底本は龍谷大学蔵元亨元年刊本。