一四(986)、上野大胡太郎実秀の妻への御返事

おむふみこまかにうけたまはりさふらひぬ。 はるかなるほどに、 念仏ねむぶちこときこしめさむがために、 わざとつかひをあげさせたまひてさふらふおむ念仏ねむぶちおむこゝろざしのほど、 返々かへすがへすもあはれにさふらふ

さてはたづねおほせられてさふらふ念仏ねむぶちことは、 わうじやう極楽ごくらくのためには、 いづれのぎやうといふとも、 念仏ねむぶちにすぎたることさふらはぬなり。 そのゆへは、 念仏ねむぶちはこれ弥陀みだほんぐわんぎやうなるがゆへなり。

ほんぐわんといふは、 あみだぶちのいまだほとけにならせたまはざりしむかし、 法蔵ほふざうさちまふししいにしへ、 ほとけこくをきよめ、 しゆじやうじやうじゆせむがために、 ざいわう如来によらいまふすほとけおむまへにして、 十八じふはちだいぐわんをおこしたまひしそのなかに、 一切ゐちさいしゆじやうわうじやうのために、 ひとつぐわんをおこしたまへり。 これを念仏ねむぶちわうじやうほんぐわんまふすなり

すなわち ¬りやう寿じゆきやう¼ のうへくわんにいはく、

「たとひわれぶちたらむに、 十方じふぱうしゆじやうしんいた信楽しんげうしてわがくにむまれむとおもふて、 ない十念じふねむせむ。 もしむまれずは、 しやうがくらじ」

せちとくぶち十方じふぱうしゆじやうしん信楽しんげうよくしやうこく↡、 ない十念じふねむにやくしやうじやしゆしやうがく↡」

ぜん0987だうくわしやうこのぐわんしやくしていは

「もしわれじやうぶちせむに、 十方じふぱうしゆじやう、 わがみやうがうしようせむことしもじふしやういたるまで、 もししやうぜずはしやうがくらじ。 かのぶちいまげんましましてじやうぶちしたまへり。 まさにるべし、 本誓ほんぜいぢうぐわんむなしからず、 しゆじやうしようねむすればかならずわうじやう」 と (礼讃)

にやくじやうぶち十方じふぱうしゆじやうしようみやうがう下至げしじふしやう↡、 にやくしやうじやしゆしやうがく↡。 ぶちこむ現在げんざいじやうぶちたう本誓ほんぜいぢうぐわんしゆじやうしようねむ必得ひちとくわうじやう↡。」

念仏ねむぶちといふは、 ほとけ法身ほふしん憶念おくねむするにもあらず、 ほとけ相好さうがうくわんねむするにもあらず、 たゞこゝろをひとつにして、 もはら弥陀みだぶちみやうがうしようねむする、 これを念仏ねむぶちとはまふすなり。 かるがゆへに 「しようみやうがう」 といふなり。

念仏ねむぶちのほかの一切ゐちさいぎやうは、 これ弥陀みだほんぐわんにあらざるがゆへに、 たとひめでたきぎやうなりといふとも、 念仏ねむぶちにはおよばず。 おほかたそのくににむまれむとおもはむものは、 そのほとけのちかひにしたがふべきなり。 されば弥陀みだじやうにむまれむとおもはむものは、 弥陀みだせいぐわんにしたがふべきなり。 ほんぐわん念仏ねむぶちと、 ほんぐわんにあらざるぎやうと、 さらにたくらぶべからず。 かるがゆへにわうじやう極楽ごくらくのためには、 念仏ねむぶちぎやうにすぎたるはさふらはずとまふすなり。

わうじやうにあらざるみちには、 ぎやうまたつかさどるかたあり。 しかるにしゆじやうしやうをはなるゝみち、 ほとけのをしへやうやうにおほくさふらへども、 このごろひとしやうをはなれ三界さんがいをいづるみちは、 たゞ極楽ごくらくわうじやうさふらふばかりなり。 このむねしやうげうのおほきなることわりなり。

つぎに極楽ごくらくわうじやうするに、 そのぎやうやうやうにおほくさふらへども、 われらがわうじやうせむこ0988と、 念仏ねむぶちにあらずはかなひがたくさふらふなり。 そのゆへは、 ほとけほんぐわんなるがゆへに、 ぐわんりきにすがりてわうじやうすることはやすし。

さればせむずるところは、 極楽ごくらくにあらずはしやうをはなるべからず、 念仏ねむぶちにあらずは極楽ごくらくへむまるべからざるものなり。 ふかくこのむねをしんぜさせたまひて、 ひとすぢに極楽ごくらくをねがひ、 ひとすぢに念仏ねむぶちをして、 このたびかならずしやうをはなれむとおぼすべきなり。

また一一ゐちゐちぐわんのおはりに、 「もししからずはしやうがくをとらじ」 とちかひたまへり。 しかるに弥陀みだぶち、 ほとけになりたまひてよりこのかた、 すでに十劫じふこふをへたまへり。 まさにしるべし、 せいぐわんむなしからず。 しかれば、 しゆじやうしようねむするもの、 一人ゐちにんもむなしからずわうじやうすることをう。 もししからずは、 たれかほとけになりたまへることをしんずべき。

三宝さんぽう滅尽めちじんときなりといゑども、 一念ゐちねむすればなほわうじやうす。 ぐゐやく深重じむぢうひとなりといゑども、 十念じふねむすればわうじやうす。 いかにいはむや、 三宝さんぽうにむまれてぐゐやくをつくらざるわれら、 弥陀みだみやうがうをとなえむに、 わうじやううたがふべからず。

いまこのぐわんにあえることは、 まことにこれおぼろげのえんにあらず。 よくよくよろこびおぼしめすべし。 たとひまたあふといゑども、 もししんぜざればあはざるがごとし。 いまふかくこのぐわんしんぜさせたまへり。 わうじやううたがひおぼしめすべからず。 かならずかならずふた0989ごゝろなく、 よくよくおむ念仏ねむぶちさふらひて、 このたびしやうをはなれ極楽ごくらくにむまれさせたまふべし。

また ¬くわんりやう寿じゆきやう¼ にいはく、

一一ゐちゐち光明くわうみやうあまねく十方じふぱうかいてらす、 念仏ねむぶちしゆじやうおば摂取せふしゆしてすてたまはず」

一一ゐちゐち光明くわうみやう遍照へんぜう十方じふぱうかい↡、 念仏ねむぶちしゆじやう摂取せふしゆしや

と。 これは光明くわうみやうたゞ念仏ねむぶちしゆじやうをてらして、 よの一切ゐちさいぎやうおばてらさずといふなり。 たゞし、 よのぎやうをしても極楽ごくらくをねがはゞ、 ほとけのひかりてらして摂取せふしゆしたまふべし。 いかゞたゞ念仏ねむぶちのものばかりをえらびて、 てらしたまへるや。

善導ぜんだうくわしやうしやくしてのたまはく、

弥陀みだ真色しんじき金山こむぜんのごとし。 相好さうがう光明くわうみやう十方じふぱうてらす。 たゞ念仏ねむぶちのものあてくわうせふかぶる。 まさにしるべし、 ほんぐわんもともこわしとす。」 (礼讃)

弥陀みだ真色しんじきによ金山こむぜん相好さうがう光明くわうみやうせう十方じふぱう
ゆい念仏ねむぶちくわうせふたうほんぐわんさいがう

念仏ねむぶちはこれ弥陀みだほんぐわんぎやうなるがゆへに、 じやうぶち光明くわうみやうつよくほんせいぐわんをてらしたまふなり。 ぎやうこれほんぐわんにあらざるがゆへに、 弥陀みだ光明くわうみやうきらいててらしたまはざるなり。

いま極楽ごくらくをもとめむひとは、 ほんぐわん念仏ねむぶちぎやうじて、 摂取せふしゆのひかりにてらされむとおぼしめすべし。 これにつけても念仏ねむぶち大切たいせちさふらふ、 よくよくまふさせたまふべし。

またしや如来によらい、 この ¬きやう¼ のなかぢやうさんのもろもろのぎやうをときおはりてのちに、 まさしくなんぞくしたまふときには、 かみにとくところの散善さんぜん三福さんぷくごふぢやうぜん十三じふさんぐわんおばぞくせずして、 たゞ念仏ねむぶちゐちぎやうぞくしたまへり。 ¬きやう¼ (観経)いはく、

ぶちなんつげたまはく、 なんぢよくこのたもて。 このたもてといふは、 すなわちこのりやう寿じゆぶちみなたもてとなり。」

仏告ぶちがうなん↡、 によかう是語ぜご↡。 是語ぜごしやそくりやう寿じゆぶちみやう↡。」

善導ぜんだうくわしやう0990もんしやくしてのたまはく、

仏告ぶちがうなんによかう是語ぜごより已下いげまさし弥陀みだみやうがうぞくして、 だい流通るづすることをあかす。 かみよりこのかたぢやうさんりやうもんやくとくといゑども、 ぶちほんぐわんのぞむには、 こゝろしゆじやうをして一向ゐちかうにもはら弥陀みだぶちみなしようするにありと。」 (散善義)

じゆ仏告ぶちがうなんによかう是語ぜご已下いげ正明しやうみやうぞく弥陀みだみやうがう↡、 だい↨。 じやうらいすいせつぢやうさんりやうもんやく↡、 まうぶちほんぐわん↡、 ざいしゆじやう一向ゐちかうせんしよう弥陀みだぶち名↡。」

このぢやうさんのもろもろのぎやうは、 弥陀みだほんぐわんにあらず。 かるがゆへにしや如来によらいわうじやうぎやうぞくしたまふに、 ぢやうぜん散善さんぜんおばぞくせずして、 念仏ねむぶちはこれ弥陀みだほんぐわんなるがゆへに、 まさしくえらびてほんぐわんぎやうぞくしたまへるなり。

いましやのおしえにしたがひてわうじやうをもとむるもの、 ぞく念仏ねむぶちしゆして、 しやおむこゝろにかなふべし。 これにつけてもまたよくよくおむ念仏ねむぶちさふらひて、 ほとけぞくにかなはせたまふべし。

また六方ろくぱう恒沙ごうじや諸仏しよぶちしたをのべて、 三千さんぜんかいにおほいて、 もはらたゞ弥陀みだみやうがうをとなへてわうじやうすといふは、 これ真実しんじちなり証誠しようじやうしたまふなり。 これまた念仏ねむぶち弥陀みだほんぐわんなるがゆへに、 六方ろくぱう恒沙ごうじや諸仏しよぶち、 これを証誠しようじやうしたまふ。 ぎやうほんぐわんにあらざるがゆへに、 六方ろくぱう恒沙ごうじや諸仏しよぶち証誠しようじやうしたまはず。 これにつけてもよくよくおむ念仏ねむぶちさふらふべし。

弥陀みだほんぐわんしやぞく六方ろくぱう諸仏しよぶち証誠しようじやうねむを、 ふかくかうぶらせたまふべし。 弥陀みだほんぐわんしやくそんぞく六方ろくぱう諸仏しよぶちねむ一一ゐちゐちにむなしからず。 このゆへに、 念仏ねむぶちぎやうしよぎやうにすぐれたるなり。

また善導ぜんだうくわしやう弥陀みだ化身くゑしんなり。 じやう0991祖師そしおほしといへども、 たゞひとへに善導ぜんだうによる。 わうじやうぎやうおほしといゑども、 おほきにわかちてふたつとしたまへり。 ひとつには専修せんじゆ、 いはゆる念仏ねむぶちなり。 ふたつには雑修ざふしゆなり、 いはゆる一切ゐちさいのもろもろのぎやうなり。 かみにいふところのぢやうさんとうこれなり。

¬わうじやう礼讃らいさん¼ にいは

「もしよくかみのごとく念念ねむねむ相続さうぞくして、 ひちみやうとするものは、 じふはすなわちじふながらしやうず、 ひやくはすなわちひやくながらしやうず」

にやくのうによじやう念念ねむねむ相続さうぞくひちみやうしやじふそくじふしやうひやくそくひやくしやう

いへり。 専修せんじゆざふぎやうとの得失とくしちなり。

とくといふは、 わうじやうすることをうるといふ。 いはく念仏ねむぶちするものは、 すなわちじふ十人じふにんながらわうじやうし、 ひやくはすなわちひやくにんながらわうじやうすといふ、 これなり。 しちといふは、 いはくわうじやうやくをうしなえるなり。 雑修ざふしゆのものは、 ひやくにんなかにまれにゐちにんわうじやうすることをえてそのほかはしやうぜず、 千人せんにんなかにまれにさんにんむまれてそのはむまれず。

専修せんじゆのものはみなむまるゝことをうるは、 なにのゆへぞと。 弥陀みだぶちほんぐわん相応さうおうせるがゆへなり、 しや如来によらいのおしえにずいじゆんせるがゆへなり、 雑業ざふごふのものはむまるゝことのすくなきは、 なむのゆへぞと。 弥陀みだほんぐわんにたがへるがゆへなり。 念仏ねむぶちしてじやうをもとむるものは、 そんミダシヤカノおむこゝろにふかくかなへり。 雑修ざふしゆをしてじやうをもとむるものは、 ぶちおむこゝろにそむけり。

善導ぜんだうくわしやうぎやう得失とくしちはんぜること、 これのみにあらず。 ¬観経くわんぎやうしよ¼ とまふすふみのなかに、 おほく得失とくしちをあげたり。 しげきが0992ゆへにいださず。 これをもてしるべし。

おほよそこの念仏ねむぶちは、 そしれるものはごくにおちてこふをうくることきわまりなし。 しんずるものはじやうにむまれてゐやうごふたのしみをうくることきわまりなし。 なほなほいよいよ信心しんじむをふかくして、 ふたごゝろなく念仏ねむぶちせさせたまふべし。

くはしきことおむふみにつくしがたくさふらふ。 このおむつかひまふしさふらふべし。