◎朧月初八の暁、 明星を見てよめる。
あかぼしを みるも
昔し大聖世尊、 中天竺
こゝに古へ実如上人御在世の時、 蓮如上人二十五年忌の歳、 八月廿八日法談ほおりふし仰せられしは、 八の字につきて殊勝の徳あり、 ことに御一流にをきて、 規模としましますと云云。 この旨始て承るによりて、 内内ゑらび奉る蓮如上人の御法語、 九巻におよび侍るを、 八冊につゞめ奉る。 ¬釈迦譜¼ をみるにも、 御誕生より
こゝに十月廿日、 豫が病霧はれゆく暁、 往事を思ひ和歌を詠吟す。 それより同き廿五日にいたるまで、 漢和をまじへ十三首、 所解の趣き筆にまかせてしるす。 そののち廿八日より時時の頓作を書あつめて、 九十九首におよび、 先百首に一首をのこし筆をさしをき侍る
-けう心みに真俗繁栄の嘉端とかけりき、 仍もて吉祥とす、 内心に歓悦きはまりなし。
しかるに今日常楽寺へ妙意をまいらす。 時に北地より信乗法師上洛、 摂州より乘心来キタリ儀、イタル もとより上公参会、 善友あひみて慶
-去月十一日初雪のおりふし、 同き廿五日雪ふりし時、 豫定て吟詠あるべしと尊言ありしとなり。 今も所詠にをよぶべしやと、 なを窮屈のおりからは思ひよるべき由、 閑談ましましけるとなん。 愚なる身も独吟つねに心肝に銘ずること侍り。
-そのゆへは、 去九日端坊におひて、 西入と同聞衆あひ決し、 西入虚説あらはれ、 諸人の疑心はれ畢ぬ。 我いまだこれをしらず、 十日の夜、 或人来り、 ひそかにこの旨を告侍る。
-かくて寝床により暁をき出侍れば、 白雪遠山にあまねく庭上白たへにみゑ侍る。 かの越王
-その前の夜、 明公いで来て、 やがて帰路ありき。 その後十七・十八・十一の願の意、 よもすがら思ひ出で、 近日うつし侍る弥陀の一紙のおもてに合せ観ずるに、 自力修行の品位階次を経て、 十地より等覚補処の位に至り侍るところに、 念仏の行者は、 一念発起のとき正定聚不退の位にさだまり、 等正覚にいたるとも、 弥勒に同じとものべまします。 他力不思議の妙教、 信敬きはまりなし。
-御釈に、 「▲真
-¬和讃¼ (正像末和讃) にも、 「▲五十六億七千万 弥勒菩薩はとしをへん まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし」 と。
-又 「▲往生浄土のためには信心をさきとす、 そのほかをばかへりみざるなり。 すべて凡夫にかぎらず、 補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはかふべきにあらず、 まして凡夫の浅智をや。 かへすばへす如来の御誓にまかせ奉るべし」 (執持鈔) と云云。
抑純公とりわき懇情たぐひなく、 真俗のまさしき道をまもりたまふ、 衆人渇仰の思をいたす。 まづ平生兄弟親
就↠中明応八年三月九日、 蓮如上人御病注、 賢息五人の御兄弟に対して被
-そのうへに重て被↠仰けるに、 いかにをのをの仰せ合せらるといふとも、 つきしたがふもの
-この御人数都鄙仰合せられ、 仏法興隆専一の旨、 こまやかに仰せをかれければ、 御入滅の後は、 いさゝか粗略の輩もたちまちしりぞけられしかば、 華ミヤコ夷イナカともに真俗恢弘いやましなり。 この趣亡父つねづね実玄・顕誓に対して教訓あり。 しかれば一生この遺言の旨、 日夜朝暮心にかけ奉るものなり。 ことさらこの金言、 御門弟たる徒衆あひまもるべし、 況や其御子孫におひてをやと、 ふかく誡められき。
又永正十五年の比、 北国の面々御掟の旨心がけなきにより、 国みだりがはしく、 他家の偏執あひやまず。 然れば向後異見あるべからざる由仰出さる。 ことに三箇条の旨これあり。 一には攻セメ戦・防戦フセギ 具足懸之事。 一には贔負偏頗之事。 一には年貢所当無沙汰之事。 各在々所々に相談し、 この趣たしなみをなし、 御掟を守るべき由、 紙面にのせ連署をあげられしかば、 即上覧にそなへ奉り、 各心中改めらるべき段、 御本懐の由にて、 悉く御赦免なされ畢ぬ。
-時に永正十六年、 蓮誓参洛の折節にて、 円如上人・蓮淳仰合せられ、 一決し侍り、 同く三井寺公事の義も、 もろともに申あつかひ、 円城寺懇望の旨、 将軍家へ申あげられ、 一和成就し顕証寺還住し給ひぬ。
-これは去る永正十四年、 伐木往反の事に、 慧林院殿御下知をなされけるを、 三井寺上意を用ひず強訴ありしかば、 本願寺へ仰付られ、 小山の嶺切平げられ、 新く道をひらかれ、
-その後上意として、 北陸道あけられ、 即中堂供養事ゆへなく成就、 都鄙これより静謐、 人民歓喜この時にあるをや。
然に大永五年正月中旬、 実如上人御不例もてのほかの由告来る。 これによて蓮悟・蓮慶・顕誓上洛せられ、 そのほか南北の一族、 諸国の徒衆、 みなもて来集す。
-廿四日蓮淳・蓮悟に対しましまし、 御夢をかたり給ひしは、 蓮如上人のたまはく、 病床辛労の趣いたみおぼしめさる、 はや御参りあるべしとて、 左の御手にて招かせ給ふ。 往生の期近き由仰られぬ。 又のたまはく、 御自ら無智の身なりといへども、 前住の御詞の如く、 弥陀をたのみ信心決定し往生疑ひなし、 かまへて義ばし思ひたまふな、 義と云ははからひの詞なり、 小知智は菩提の妨げと云ことありと云云。
-同廿八日、 実円・蓮淳・蓮悟・蓮慶・顕誓五人を召寄られ、 御入滅の後は、 真俗ともに別してこの人数申合せ、 御掟の義守り奉るべし、 その趣普く申とゞけ仏法繁昌の道、 こゝろにかけ申すべし。 今師上人幼少につきて、 直に御相承の義委しからず。 然ども遊しをかれ、 又たとひ御申なくとも、 御智慧うたがひなし。 但し御若年につきて仰きかせられずは、 信仰の思や、 うすくあるべき、 をのをの諸人に、 御掟の旨よく申達すべし、 御掟みだれば不慮の題目出来すべし。
-然る処に、 御掟いるべからざる旨、 都鄙に申出すものあるべし。 さりながらあひたゝずは、 この霊場忽ち馬の蹄にかゝるべし、 正く明匠権者の立まします処、 空くなるべきこと、 一身の嘆これにあり。 然ども時刻到来は力をよばず、 その時は命を全くして何方にも遁れ、 堪忍して今師上人仏法再興の時の御便となり奉るべき由まで、 こまやかに御遺言ありけり。
-其後実英をして、 御一流の義、 五人に仰をかる。 第一仏法・世法御掟をよくよくまもるべし、 諸国共に無事に申調られ、 加・越も一和の扱あるべしと云云。 本覚寺それより後そのあつかひありとなん。
かゝりし処に、 享禄初の比より、 実英加州の所領の義申あつかはれ、
-これによて蓮如・実如仰せ定めまします六箇条・三箇条の御掟やぶれ、 国中みだりがはしく、 この御掟と申は、 往古より開山聖人定めましますといへども、 別して蓮如上人吉崎御在国の時仰付られ、 かたく末代までこの趣を守り奉るべき由、 御門弟中へ示し給ひ、 実如上人かの御詞の奥に御判を加へられ、 此旨をそむかん輩は、 門弟たるべからざる由、 定めましまし畢ぬ。
ことに去文明の比、 高田門徒、 加州の諸武士をかたらひ、 吉崎山上へ障礙をなし、 そのわざはいゆへ国みだれしかば、 御門徒の面々、 根本の守護
-然どもこれさらに仏法領の事に非るあひだ、 蓮如斟酌ありと雖も、 勅定の上は国の面々談合すべき旨内々仰下されしかば、 公家心を合せ、 当守護正親に懇望せしめ、 寺社本所領かへし付られ畢ぬ。 此に由て諸家いよいよ当家の義入魂ありし事、 偏にこの御掟を守り奉る故なり。
-然を今さらやぶらるゝ義、 しからざる旨、 最前御遺言のすぢめをもて、 五人の衆、 都鄙心を合せ連々申上侍る。 然ども調らず、 すでに越中の諸侍
-されば隣国の武士よしみを通じ、 加・越・能州の守護和談の道を
-これさらに兼順のぞむ所に非ず。 然りと雖も国ざかひ山田に居住せしうへは、 是非に及ばず、 加・越両国和談の義、 近日国の面々申し
-然れば讒者力を得て、 既に本宗寺実円・下間源七頼盛、 その外同名諸傍輩はせ下り、 蓮慶も子息実慶・慶助以下、 下間上総法橋
蓮悟はもとより能州守護多年の芳好なれば、 其国に申付られ、 法徒を引付られ、 一宗の法度申談じ、 本寺御再興の便成べしとて、 その煩ひなし。 遂には本寺に対し私しなき旨あひ達すべき由、 義
-それより後は、 都鄙共に乱れ、 山科の貴坊も回禄ありしかば、 いよいよ敵軍威を振ひ、 大坂の霊場へも諸勢をさしむかへ、
又大坂も数月
然ども加州には超勝寺実顕・子息実照なを権威に誇り、 真俗の道たゞしからず。
-此義自他申むすび事やぶれしかば、 同名
-それより以来、 あひかはらず寺社本所領わたし申されしを、 実顕はからひとして思のまゝに所領を渡し与へ、 自分の知行過分になりしまゝ、 国の守護侍等までもなきが如し。 剰へ能・越両州へ軍勢を
就↠中本善寺実孝、 五十九歳にして天文廿二年正月六日往生、 その真弟証祐も同廿三年遠行、 これに由て順興寺実従の長子その跡をつぎ給ふ。 本徳寺実円は弘治元年十二月十八日に卒逝、 その孫弟証専相続あり。
-然れば則顕誓も極月二十日播州へ下向せしめ、 かの国におひて葬礼中陰とりをこなひ、 五旬すぎて上著。 それより当寺に安住せしめ、 聞法歓喜の思念、 仏祖の照覧、 一生の喜楽、 これにすぐべからざるものか。
-然に弘治第三の年、 厳師御祝儀の喜兆、
永禄元年戊午七月十七日、 今師上人の御母公顕能禅尼御薨去、 御年いまだ三十七歳、 証如上人に別れさせ給ひしをさへ、 哀れなる御事に申侍りしに、 僅に五とせの中になくならせ給ふ。 言の葉もたへたる事にこそ。 其年九月十六日、 厳師御嫡男生れさせおはします。 この折節まで、 世にましまさゞりし事よと、 ほいなく人皆申あひ侍る。
その年冬の初
抑開山聖人三百年忌、 永禄四辛酉年に当り給ふ。 これに由て諸国御門弟、 御一門一家、 その外坊主衆参洛。 但し三月の比、
-然れば左衛門太夫頼
-然ば御仏寺の儀式、 当分御門跡になし申され候と申し、 院家各々出頭、 ことさら御年忌邂逅タマサカの御事なれば、 他宗の衆参詣もあるべし。 先聖道の衣装しかるべき由にて、 法服・衲袈裟用意あり。 青蓮院門跡の周世松泉院法印に御談合と云云。
-法事の作法は、 日中 「三部経」 一巻づゝ伽陀あり。 讃誦の後、 まづ導師礼盤に向ひ三礼、 其後 「十四行偈」 を始め行道、 次に漢音の ¬阿弥陀経¼、 念仏回向なり。 導師は御堂衆賢勝・教明・明覚寺・光徳寺かはるがはる勤めらる。 内陣行道の衆は、 御門主・本宗寺・願証寺・顕証寺・教行寺・慈敬寺・常楽寺に御堂衆なり。 役者は常の如し。
-南の御座敷も、 畳まはり敷になされ、 著座の衆、 順興寺・光教寺・願得寺・光善寺・本善寺等、 その外一家衆
-衣裳は、 行道衆、 法服・金襴衲袈裟・横被裳・水精七装束数珠・檜扇・草鞋。 御堂衆同前。 但し行道より前は、 後戸の縁に祗候、 導師の衆ばかり著座。 南座敷の衆の出仕も同じ。 去ながら太夜は織袈裟・素絹・裳付衣。 但し南座の衆は絹袴を著せず。 朝勤・斎非時も同じ。 坊主衆も白袈裟・裳付衣にて、 そのまゝ御堂へ出仕ありき。 浄照坊は所労の事なれば、 出頭これなし。
-次に堂荘厳の
-南座敷の衆は懐中ありて出仕。 御仏事は十日の間なり。 御影堂の内には坊主衆相伴の衆候して、 其外は
その後霜月御正忌は、 去春御取越の間、 三箇日とり行はる。 浄照坊望申さるゝにより、 法服・衲袈裟著用にて導師勤仕あり。 綾の袈裟・裳付衣、 一家衆の如し。 又始て散華のこと申され、 内陣の衆
-去ながら一家衆、 絹袴各々著用。 浄照坊は望申されしかども、 その儀なし。 坊官衆、 絹袴・裳付衣・白袈裟にて正面に著座、 丹後・上野・大蔵卿・筑後等なり。 御講中は、 御式太夜にこれありと雖も、 当日には、 法服にて日中に読せらる。 毎夜改悔讃歎もあるべき由なり。
翌年は報恩講行道これなし、 衣裳は去年の如し。 勤行は例年にかはらず。 一七日坊主衆
同六年、 御仏事に
然る処に、 永禄七年十二月廿六日はからざるに回禄の事ありて、 御坊中一宇も残らず焼失ありしかども、 程なく御再興、 造立事ゆへなく成就せしかば、 霜月報恩講には、 昔の如く法事
八年報恩講は、 太夜・日中、 素絹・綾袈裟・絹袴、 朝勤・非時、 直裰・絹袈裟。 總一家衆、 絹袴。 御堂衆、 日中白袈裟・裳付衣、 太夜同前。 南の座敷の畳もつめしきになりぬ。 内陣には廻り敷の外に左右に二帖づゝ敷かる。 これは興正寺当年始て内陣出仕の故歟。 その上に、 中将・侍従・少将著座、 翌年よりこれなし。 坊主衆衣裳は先の如し。
同九年八月十三日証如上人御十三年忌、 一七日勤行。 衣裳は日中、 素絹・絹袴・綾袈裟、 太夜、 直裰・絹袈裟、 朝勤同前。 坊主衆は裳付衣停止の由仰せらる、 白袈裟はかけらる。 報恩講には太夜・日中、 素絹・絹袴・織物袈裟、 内陣の衆ばかりなり。
-南座敷の一家衆は、 太夜、 直裰・絹袈裟、 日中は裳付衣・綾袈裟、 衣も所持に随ふべき旨仰らる。 御堂衆も太夜は直裰・白袈裟、 裳付衣は日中ばかり也、 坊主衆は斎非時共に布袈裟旧儀の如し。 一家衆は直裰・絹袈裟、 ・木数珠・末広の扇なり。 斎非時同前。
-又当年報恩講、 御厨子の扉も御戸両方へ開き申、 華束は二合まいる、
-同下旬、 顕証寺教忠法印加階の儀御望により、 本宗寺教什・慈敬寺教清・常楽寺純慧、 一度に法印に叙す。 豫も同日に同官に叙す。 超涯の極位、 厳師の高恩、 真俗にあづけて慈愍、 報謝しがたきものをや。 よりて由来の縁をしるし、 いよいよ師徳の大いなる趣を、 筆にあらはし奉るところなり。
右此両冊今古独語者、最前数日之蟄居、徒然之余暇、所↠記之吟詠、至↢于九十九首↡、先擱↠筆訖。是者始之一巻、二河白道之釈云、是道自↢東岸↡到↢西岸↡、長百歩者、人寿百歳譬↠之、行↢一分二分↡者、年歳時節喩↠之云云。准↠之奉↠待↢其時↡者也。
然当月始
-報恩講式云、悪時悪世界之今、常没常流之族、若不↠受↢聖人之勧化↡、争悟↢無上之大利↡。既揮↢一声正念之利剣↡、忽截↢無明果業之苦因↡、忝乗↢三仏菩提之願船↡、将↠到↢涅槃常楽之彼岸↡。弥陀難思之本誓、釈迦慇懃之付属、不↠可不↠仰。諸仏誠実之証明、祖師矜哀之引入、不↠可不↠憑。因↠茲各持↢本願↡称↢名号↡、弥協↢二尊之悲懐↡、戴↢仏恩↡荷↢師徳↡、特呈↢一心之懇念↡。已上
-併聞↢持此師説↡、弥所↠蓄↢信心↡也。尤可↠貴↠之、専可↠仰↠之。
于時永禄十年十二月十五日書之
本に
元亀三年二月十三日書写之
今古独語
元禄十五年壬午歳二月四日写↠之正本在↢性応時↡
今由↢転写本↡写↠之 光瀬寺雲堂乗貞