正像末和讃

 

 

^*¬般舟三昧行道往生讃¼にいっている。

^つつしんで、 すべての往生をねがう同行たちに申す。 われらは大いに暫愧せねばならぬ。 釈迦如来は実にこれ慈悲のみ親である。 いろいろのてだてをもって、 わたしたちに他力の信心をおこさせてくださる。

 

^*康元こうげん二年二月九日の夜

 *とらの時、 夢のお告げにいわれるには

 

(1)

阿弥陀仏の本願を信じるがよい。 *本願ほんがんを信じる人はみな、 摂め取って決して捨てないという利益により、 この上ないさとりを開くことができる。

 

正像末浄土和讃

愚禿*善信ぜんしん

 

(2)

釈尊は*にゅうめつから二千年余りの時を経ておられる。 *しょうぼう*像法ぞうぼうの時代はすでに終わっているのであり、 釈尊の教えを受け継ぐ弟子たちは、 嘆き悲しむがよい。

 

(3)

さまざまな濁りに満ちた*末法まっぽうの世は、 あらゆるものが行を修めることもさとりを開くこともできない時代であるので、 釈尊が説き残された教えは、 すべて*りゅうぐうに隠れてしまった。

 

(4)

正法・像法・末法の時代を通して、 阿弥陀仏の本願はひろまってきた。 像法の終わりから末法に至るいまの世では、 さまざまな善い行いを修める教えは竜宮に隠れてしまう。

 

(5)

¬*大集だいじっきょう¼ には次のように説かれている。 今の世は*だいひゃくねんにあたり、 仏弟子たちの争いが盛になる中で、 仏の教えは隠れてしまった。

 

(6)

かつて寿命が数万歳であったあらゆるものも、 その*ほうが次第に衰えて二万歳にまで短くなると、 その時代はさまざまな濁りと悪に満ちた世と呼ばれるようになった。

 

(7)

濁りに満ちた世になると、 あらゆるものは次第に体が小さくなる。 さまざまな濁りやよこしまな思いがますます増える中で、 そのものたちの心はまるで毒蛇や悪竜のようである。

 

(8)

*みょう*煩悩ぼんのうが激しくおこり、 数限りない塵のように満ちわたっている。 ほしいままに愛着や憎悪をいだくありさまは、 まるでそびえ立つ高い峰や丘のようである。

 

(9)

あらゆるもののよこしまな考えは、 まるでおい茂った荊棘いばら枳殻からたちのように激しく盛んである。 それらのものは、 念仏の教えを信じるものを疑い謗り、 信心を打ち壊そうとする怒りに満ちている。

 

(10)

濁りに満ちた世の人々の寿命は短くはかないものであり、 身も心もまわりのものもみな失われてしまう中、 道理に背いたよこしまな思いが強くなるので、 不当に害を引き起こしてばかりいる。

 

(11)

いまは末法の世であり、 第五の五百年にあたっている。 あらゆるものは、 阿弥陀仏が慈悲の心からおこしてくださった本願を信じることなしに、 迷いの世界を離れることはないであろう。

 

(12)

*じゅうしゅのよこしまな教えが世にはびこり、 人々を惑わしている中で、 さとりを開くことのできる本願の教えだけが清らかである。 その教えにしたがってさとりを開くことによってのみ、 思いのままに迷いの世界のすべての人々を救うことができる。

 

(13)

さまざまな濁りに満ちた時代になると、 出家のものも在家のものも互いに争い、 念仏の教えを信じる人を見ては疑い謗り、 盛んに打ち壊そうとする。

 

(14)

さとりを得られないであろう人は、 みな念仏をもっぱら修める教えをさまたげる。 速やかにさとりに至る教えを謗り滅ぼそうとするので、 迷いの大海はどこまでも果てしなくひろがっている。

 

(15)

正法の時代のものであるかのように思っても、 迷いの底にいる愚かな*ぼんの身には、 清らかなまことの心などまったくない。 いったいどうしてさとりを求める心をおこすことができるであろう。

 

(16)

*りき*しょうどうもんのさとりを求める心は、 思いはかることも言葉に表すこともできない。 常に迷いの海に沈み、 生れ変り死に変りし続ける愚かな凡夫に、 どうしてそのような心をおこすことができるであろう。

 

(17)

かつてこの世にお出ましになった数限りない仏がたのみもとで、 大いなるさとりを求める心をおこしてきたが、 自力ではどうすることもできず、 迷いの世界を生れ変り死に変りし続けてきた。

 

(18)

像法・末法というさまざまな濁りに満ちた世となり、 釈尊が説き残された教えは、 みな隠れてしまった。 阿弥陀仏が慈悲の心からおこしてくださった本願だけがひろまり、 念仏往生の教えが盛んになっている。

 

(19)

阿弥陀仏は、 あらゆる仏がたに超えすぐれたこの上ない誓いを五*こうもの長い間思惟して選び取られたのであり、 それは*こうみょうりょうの願と*寿じゅみょうりょうの願を大いなる慈悲の根本とされたのである。

 

(20)

*じょうもんでは大いなるさとりを求める心を説いて、 仏になろうと願う心すなわち願作仏心を勧めている。 その心はそのまま、 あらゆるものを救おうとする心すなわち度衆生心ともいわれている。

 

(21)

あらゆるものを救おうとする心すなわち度衆生心とは、 阿弥陀仏の本願により*こうされた心である。 この回向された真実の信心を得る人は、 大いなる*はんの悟りを開くことができる。

 

(22)

阿弥陀仏の回向により、 仏になろうと願う心すなわち願作仏心を得る人は、 *りきの回向を捨て去って、 どこまでもあらゆるものを救うのである。

 

(23)

阿弥陀仏の本願の海に*りきの信心の水が流れこんだなら、 真実の浄土にそなわるはたらきで、 煩悩とさとりは一つの味となる。

 

(24)

阿弥陀仏の*往相おうそう*還相げんそうの回向を深く信じる人は、 みな*とうしょうがくの位に至るので、 本願を思いおこす心は絶えることがない。

 

(25)

阿弥陀仏の本願のはたらきで回向された真実の信心を得る人は、 摂め取って決して捨てないという利益により、 等正覚の位に至るのである。

 

(26)

*ろくさつは、 五十六億七千万年の時を経て、 ようやく悟りを開くであろうが、 真実の信心を得る人は、 この世の命を終えると、 ただちに仏のさとりを開くことができる。

 

(27)

*念仏ねんぶつおうじょうがんのはたらきで等正覚の位に至る人は、 弥勒菩薩と同じ位となり、 間違いなく大いなる涅槃のさとりを開くことができる。

 

(28)

真実の信心を得ることによりただちに*正定しょうじょうじゅの位に入ったなら、 *いっしょうしょの弥勒菩薩と同じ位となり、 間違いなくこの上ないさとりを開くことができる。

 

(29)

*像法の時代の菩薩がたも、 自力のさまざまな教えではなく、 その時代に生きるものにふさわしい教えである念仏の法門に入られた。

 

(30)

真実の信心を得て阿弥陀仏の尊い*みょうごうを称える身となった人は、 常に本願を心に思いおこし、 仏のご恩に報いようとするのである。

 

(31)

さまざまな濁りと悪に満ちた世で、 往生の行として念仏を選び取られた本願を信じるものには、 たたえ尽すことも、 説き尽すことも、 思いはかることもできない功徳が満ちているのである。

 

(32)

*無礙むげこうぶつは、 未来のあらゆるものを救うために、 *せいさつ*智慧ちえの念仏を教え授けてくださった。

 

(33)

勢至菩薩は、 さまざまな濁りに満ちた世のあらゆるものを哀れんで念仏をお勧めになり、 信心を得て念仏する人を摂め取って、 浄土に*おうじょうさせてくださったのである。

 

(34)

釈尊と阿弥陀仏の慈悲により、 仏になろうと願う心すなわち願作仏心を得させていただいた。 信心の智慧を得ることで、 はじめて阿弥陀仏のご恩に報いる身となるのである。

 

(35)

智慧の念仏を得ることは、 法蔵菩薩の本願のはたらきによるものである。 信心の智慧を得ることなしに、 どうして涅槃のさとりを開くことができるであろう。

 

(36)

阿弥陀仏の本願は、 無明煩悩の暗く長い闇を照らす大いなる灯火ともしびである。 智慧の眼が暗く閉ざされているといって悲しむことはない。 そのはたらきは迷いの大海を渡す乗りものである。 罪のさわりが重いといって歎くことはない。

 

(37)

阿弥陀如来の本願のはたらきはきわまりなく、 どれほど深く重い罪もさわりとなることはない。 阿弥陀仏の智慧のはたらきは果てしなく、 散り乱れた心で勝手気ままな行いをするものであっても見捨てられることはない。

 

(38)

阿弥陀仏が願いをおこされたおこころを尋ねてみると、 苦しみ悩むあらゆるものを見捨てることができず、 何よりも回向を第一として大いなる慈悲の心を成就されたのである。

 

(39)

真実の信心を得た者の念仏は、 阿弥陀仏から回向された行であるので、 源空聖人はそれを*こうと名づけ、 自力の念仏ではないと示された。

 

(40)

阿弥陀仏の本願の大海に、 凡夫の様々な心の水が流れこんだなら、 その善悪にかかわらずただちに大いなる慈悲の心に転じられる。

 

(41)

釈尊は、 「末法の時代になると、 悪事を好む弟子たちのよこしまな考えや勝手気ままな行いが盛んになり、 わたしの考えを滅ぼすであろう」 と ¬*れんめんぎょう¼ に説き示されている。

 

(42)

念仏の教えを謗るものは*けんごくに堕ちて、 八万劫にわたり激しい苦悩を絶え間なく受け続けると説かれている。

 

(43)

阿弥陀仏と釈尊のお導きで、 真実の浄土に生れる正しい因である信心をいただいて、 正定聚の位に定まるので、 必ず仏のさとりを開くのである。

 

(44)

すべての世界の数限りない仏がたが、 念仏の教えが真実であると証明し、 念仏するものを護ると仰せになるので、 自力で大いなるさとりを求める心をおこしても、 さとりを開くことはできないと知るべきである。

 

(45)

数限りない仏がたは、 真実の信心を得ることはさまざまな濁りに満ちた末法の世ではまれなことであり、 それがどれほど得難いものであるのかということを説き示されている。

 

(46)

阿弥陀仏の往相・還相の回向に出会わない身であったなら、 迷いの世界を生れ変り死に変し続ける。 苦しみに満ちた海に沈んだままで、 どうすることもできないであろう。

 

(47)

思いはかることのできない阿弥陀仏の智慧を信じる人は、 間違いなく正定聚の位に定まり、 真実の浄土に生れた人は、 優れた知恵をそなえ、 この上ないさとりを開くのである。

 

(48)

思いはかることのできない阿弥陀仏の智慧を信じることを、 真実の浄土に生れる正しい因とされている。 この信心という正しい因を得ることは、 難しいことの中でも特に難しい。

 

(49)

はかり知れない昔から迷いの世界を生れ変り死に変りし続けてきた苦を捨てて、 間違いなくこの上ない涅槃のさとりを開くことができると期するのは、 阿弥陀仏の往相・還相の回向によるものであり、 その恩徳はどれほど感謝しても尽せない。

 

(50)

真実の浄土に往生する他力の信心のものは多くなく、 方便の浄土に往生する自力の行を修めるものは数多い。 自力でさとりを開くことなどとてもできないので、 果てしなく遠い過去から迷いの世界を生れ変り死に変りし続けてきたのである。

 

(51)

南無阿弥陀仏の名号を回向していただいた恩徳は、 あまりにも広大で思いはかることができない。 その回向により、 浄土に往生してさとりを開くことの利益として、 迷いの世界に還ってすべてのものを救うのである。

 

(52)

浄土に往生してさとりを開かせるという大いなる慈悲により、 迷いの世界に還ってすべてのものを救うという大いなる慈悲を得させていただくのである。 阿弥陀仏の本願のはたらきによる回向がなかったなら、 いったいどうして浄土でのさとりを開くことができるであろう。

 

(53)

阿弥陀仏は、 *観音かんのんさつと勢至菩薩とともに大いなる本願の船に乗り、 迷いの海に浮かびながら、 さまようものを呼び続けて、 その船に乗せてくださるのである。

 

(54)

阿弥陀仏の大いなる慈悲の本願を深く信じる人は、 みなともに寝ても覚めても変わりなく南無阿弥陀仏の名号を称えるがよい。

 

(55)

聖道門の人は、 みな自力の心をよりどころとしているが、 思いはかることのできない阿弥陀仏のはたらきに出会えば、 自力のはからいがまじらないことを根本の法義とすると知らされるのである。

 

(56)

釈尊の教えは残っていても、 その通りに行を修めることのできるものがいないので、 末法の時代にさとりを得るものは一人としていないと説かれている。

 

(57)

浄土の教えを明らかにされたインド・中国・日本の祖師がた、 どうか慈しみの心からおまもりくださり、 真実の信心を勧め、 正定聚の位に入らせてください。

 

(58)

他力の信心を得る人は、 仏の教えを敬い信じて喜ぶので、 釈尊はこのものを、 わたしのまことの友である、 とおほめになっている。

 

(59)

わたしたちをお救いくださる阿弥陀仏の大いなる慈悲の恩徳と、 教え導いてくださる釈尊や祖師がたの恩徳に、 身を粉にしてでも骨を砕いてでも、 深く感謝して報いていかなければならない。

 

以上、 正像末法和讃 五十八首

 

 

 

(60)

阿弥陀仏の智慧を知らないために仏のさまざまな智慧を疑って、 悪の報いを恐れて善の果報を望み、 名号を称えた功徳によって往生しようとするので、 方便の浄土にとどまってしまうのである。

 

(61)

思いはかることのできない阿弥陀仏の智慧を疑って、 自力の念仏にとらわれるので、 方便の浄土にとどまってしまい、 仏のご恩に報いようとする心もおこらない。

 

(62)

悪の報いを恐れて善の果報を望む行者は、 思いはかることのできない阿弥陀仏の智慧を疑って、 方便の浄土にとどまってしまうので、 阿弥陀仏にもその教えにも菩薩がたにも会うことができない。

 

(63)

阿弥陀仏の智慧を疑う罪により、 方便の浄土にとどまってしまう。 疑う罪が深いので、 果てしなく長い時をむなしくすごすと説かれている。

 

(64)

方便の浄土にとどまるのは、 *転輪てんりんじょうおうの王子が罪を犯して王から罰せられ、 黄金の鎖でつながれて牢獄に閉じこめられるようなものである。

 

(65)

自力の心で念仏する人は、 みな阿弥陀仏の本願を信じず、 疑う罪が深いので、 金・銀・*瑠璃るり・水晶・珊瑚・*のう*しゃなどの七つの宝でできた牢獄に閉じこめられる。

 

(66)

真実の信心を得た人に劣ることのないように、 阿弥陀仏の本願を疑いながら自力で念仏するものも、 阿弥陀仏の大いなる慈悲のご恩を知って念仏に励むがよい。

 

(67)

自力の心でさまざまな善い行いを修める人は、 みな思いはかることのできない阿弥陀仏の智慧を疑うので、 *ごうとくの道理により、 七つの宝でできた牢獄に閉じこめられる。

 

(68)

思いはかることのできない阿弥陀仏の智慧を疑いながら、 名号を称えた功徳によって往生しようとする人は、 方便の浄土に生れてしまうので、 あらゆるものを救う大いなる慈悲の心は得られない。

 

(69)

阿弥陀仏の本願を疑う行者には、 蓮の花に包まれて出られない人もあり、 あるいは*へん*たいに生まれる人もあるとして嫌い捨てられる。

 

(70)

阿弥陀仏のさまざまな智慧を疑い信じることもなく、 さらに悪の報いを恐れて善の果報を望み、 名号を称えた功徳を求めてひたすら念仏に励んでいる。

 

(71)

阿弥陀仏の智慧を疑うので、 方便の浄土に生れる*たいしょうのものは智慧をそなえていない。 この浄土に必ず生れてしまうことを、 牢獄に閉じこめられるとたとえている。

 

(72)

七つの宝でできた宮殿に生れると、 五百年の間、 阿弥陀仏にもその教えにも菩薩がたにも会うことができないので、 あらゆるものを救うことなどあり得ない。

 

(73)

方便の浄土では五百年の間、 七つの宝でできた宮殿から出ることができず、 自ら作ってきた罪により、 仏に会うことができないなどのわざわいを受けるのである。

 

(74)

悪の報いを恐れて善の果報を望み、 名号を称えた功徳を求めてひたすら念仏に励む人は、 疑いの心をもった善人であるので、 方便の浄土にとどまってしまうのである。

 

(75)

阿弥陀仏の本願を信じないで、 疑いの心をもちながら浄土に生れると、 蓮の花の中から出ることができないので、 これを母胎の中にいることにたとえている。

 

(76)

ある時、 弥勒菩薩は釈尊に、 「どのようなわけで、 胎生と*しょうの区別があるのでしょうか」 とお尋ねになった。

 

(77)

釈尊は弥勒菩薩に、 「疑いの心をもちながら、 名号を称えた功徳によって浄土に生れようとするので、 胎生して方便の浄土にとどまってしまうのである」 とおっしゃった。

 

(78)

阿弥陀仏の智慧を疑う罪により、 五百年の間、 牢獄にかたく閉じこめられる。 このことを胎生と説かれている。

 

(79)

思いはかることのできない阿弥陀仏の智慧を疑いながら、 悪の報いを恐れて善の果報を望むものは、 必ず方便の浄土に生れてしまうので、 胎生のものと説かれている。

 

(80)

自力の心をよりどころとし、 思いはかることのできない阿弥陀仏の智慧を信じないのなら、 方便の浄土に生れ、 五百年の間、 阿弥陀仏にもその教えにも菩薩がたにも会うことができない。

 

(81)

思いはかることのできない阿弥陀仏の智慧を疑いながら、 悪の報いを恐れて善の果報を望み、 名号を称えた功徳によって浄土に生れようと願うことを胎生というと説かれている。

 

(82)

阿弥陀仏の智慧を疑うことの罪は深い。 この心を思い知るものは、 悔いる心をよりどころとして、 思いはかることのできない阿弥陀仏の智慧を信じるがよい。

 

^以上、 二十三首 思いはかることのできない阿弥陀仏の本願を疑うことの罪を知らせようと述べ表したのである。

 

愚禿善信作

皇太子聖徳奉讃

(83)

*しょうとくたいのお導きにより、 思いはかることのできない阿弥陀仏の本願を信じる身となり、 正定聚の位に入って一生補処の弥勒菩薩のように必ずさとりを開かせていただくのである。

 

(84)

*救世くせ観音かんのんは、 聖徳太子としてこの世にそのお姿を現され、 まるで父や母がわが子を思うように、 見捨てることなくいつも付き添っていてくださる。

 

(85)

はかり知れない昔から今の世に至るまで、 聖徳太子はすべてのものを慈しむ心から、 まるで父や母がわが子を思うように、 いつも付き添っていてくださる。

 

(86)

聖徳太子がすべてのものを慈しみ、 思いはかることのできない阿弥陀仏の本願に導き入れてくださったことで、 正定聚の位に定まった身となっている。

 

(87)

他力の信心を得ている人は、 仏のご恩に報いるために、 往相・還相の回向による阿弥陀仏のはたらきを、 すべての世界にあまねく広めるがよい。

 

(88)

大いなる慈悲のはたらきをそなえた救世観音は、 聖徳太子としてそのお姿を現され、 まるで父や母がわが子を思うように、 いつも付き添っていてくださる。

 

(89)

果てしなく遠い過去からいまの世に至るまで、 救世観音は慈しみの心から、 思いはかることのできない阿弥陀仏の本願にすべてのものを導き入れ、 善いものも悪いものも、 清らかな心のものも汚れた心のものも、 分け隔てなく救われるのである。

 

(90)

日本に初めて仏教を説きひろめてくださった聖徳太子の広大な恩徳は、 どれほど感謝してもし尽くせるものではない。 その教えにしたがって一心に阿弥陀仏に*みょうし、 敬いたたえ続けるがよい。

 

(91)

聖徳太子は、 日本の人々を慈しみ、 巧みな手だてを施して阿弥陀仏の本願の教えを説きひろめてくださった。 大いに慶び敬い讃えるがよい。

 

(92)

これまで果てしなく長い間生れ変り死に変りし続けてきた中で、 慈しみを受けてきたこの身である。 阿弥陀仏に一心に帰命し、 絶え間なく敬いたたえ続けるがよい。

 

(93)

聖徳太子は慈しみの心から、 絶えずわたしたちを護り育て続け、 往相・還相の回向による阿弥陀仏のはたらきに導き入れてくださっている。

 

以上、 聖徳奉讃 十一首

 

愚禿悲歎述懐

(94)

浄土の真実の教えに帰依しているけれども、 このわたしがまことの心をもつことなどあり得ない。 嘘いつわりばかりのわが身であり、 清らかな心などあるはずもない。

 

(95)

みなそれぞれ賢く善い行いに励んでいるかのように振る舞っているが、 内心は貪りや怒り、 いつわりばかりであり、 その身には人を欺こうとする思いが満ちている。

 

(96)

悪い本性を抑えることなどできるはずもない。 その心はまるで蛇やさそりのようであり、 たとえ善い行いをしても、 煩悩の毒がまじっている。 だから、 その行いはいつわりの行と呼ばれている。

 

(97)

罪を恥じる心がないこの身には、 まことの心などないけれども、 阿弥陀仏があらゆるものに回向してくださる名号があるから、 その功徳はすべての世界に満ちわたっている。

 

(98)

わずかばかりの慈悲さえもないこの身であり、 あらゆるものを救うことなど思えるはずもない。 阿弥陀仏の本願の船がなかったなら、 苦しみに満ちた迷いの海をどうして渡ることができるであろう。

 

(99)

蛇や蝎のような毒のあるよこしまな心では、 自力で善い行いを修めることなどできるはずもない。 阿弥陀仏の回向を信じることがないなら、 罪を恥じることもないまま命を終えてしまうであろう。

 

(100)

さまざまな濁りに満ちた時代の中で、 この世の出家のものも在家のものもみな、 仏教を信じるものであるかのように振る舞いながら、 内にはそれ以外の教えを敬い信じている。

 

(101)

何と悲しいことであろう。 出家のものも在家のものも、 日の良し悪しを選び、 天地の神々を崇めながら、 占いや祈祷を日々のつとめとしている。

 

(102)

僧や*ほうという呼び名は尊いものと聞いていたけれども、 *だいだっが示した五つのよこしまな教えと同じように、 人々からさげすまれるものを僧や法師と呼ぶようになっている。

 

(103)

仏教以外のさまざまな教えを信じるものと同じ心をもって、 釈尊と同じ袈裟を身にまといながら、 あらゆる*じんを崇めているようである。

 

(104)

何と悲しいことであろう。 近頃の日本の出家のものや在家のものは、 みな仏教を信じるものであるかのように振る舞いながら、 天地の鬼神を尊び敬っている。

 

(105)

さまざまな濁りと悪に満ちた時代には、 僧や法師という呼び名を召使いの名とし、 さげすまれるものであるかのように決めつけている。

 

(106)

*戒律かいりつをたもつことのできない名ばかりの僧であっても、 さまざまな濁りに満ちた末法の世においては、 *しゃほつ*目連もくれんと同じように、 あつく敬い供養することを勧められる。

 

(107)

罪とはもとよりかたちのあるものではなく、 誤ったものの見方からつくられるのである。 心の本性とはもとより清らかなものであるが、 この世にまことの心をもっている人などいない。

 

(108)

末法という悪に満ちた世では、 何とも悲しいことに、 奈良や比叡山の僧たちが、 輿をかつぐなどの力仕事をするものを僧や法師などと呼び、 徳のあるものであるかのように扱っている。

 

(109)

仏の教えを軽んじ侮ることにより、 出家のものを見下し、 徳のある法師や僧という呼び名を軽んじて、 召使いの名としている。

 

^以上、 十六首 これは愚禿の悲歎の思いを述懐したものである。 今の世で本寺・本山におられる高位の僧といっても、 法師といっても、 嘆かわしいばかりある。

 

釈親鸞、 これを書く。

 

(110)

*善光ぜんこう*如来にょらいは、 わたしたちを哀れんで*難波なにわうらにお越しくださった。 この如来の名さえも知らない*物部もののべのもりが…

 

(111)

…その時 「ほとほりけ」 と呼ばれる病が流行したのはこのためではないかとして、 守屋たちはみな、 如来を 「ほとほりけ」 と呼んだのである。

 

(112)

守屋が人々に如来を軽んじさせようと、 呼びやすいように 「ほとけ」 といったので、 当時の仏教以外の教えを信じるものはみなともに、 「ほとけ」 と呼ぶようになった。

 

(113)

今の世で仏教を信じる人もみな、 守屋の言葉にしたがって 「ほとけ」 と呼んだので、 僧や法師をもおとしめてしまうことになった。

 

(114)

 *おおむらじである*弓削ゆげの守屋は、 この上なくよこしまな考えから、 あらゆるものに如来を軽んじさせようと、 呼びやすいように 「ほとけ」 といったのである。

 

 

親鸞八十八歳御筆

 ^「獲」 という字は、 *いんで獲得することをあらわし、 「得」 という字は、 *果位かいにいたって獲得することをあらわすのである。

 ^「名」 という字は、 因位での名前をあらわし、 「号」 という字は、 果位での名前をあらわす。

 ^「自然」 というのは、 ^「自」 は 「おのずから」 というということであり、 これは念仏の行者のはからいによるのではなく、 「そのようにあらしめる」 という言葉である。 ^「然」 というのは、 「そのようにあらしめる」 という言葉であり、 行者のはからいによるのではなく、 阿弥陀仏の本願によるからそういうのである。 ^「法爾」 というのは、 阿弥陀仏の本願によるからそういうのである。 「法爾」 というのは、 阿弥陀仏の本願によるのであるから、 そのようにあらしめることを 「法爾」 という。 この 「法爾」 とは、 阿弥陀如来の本願のはたらきであるから、 そこには行者のはからいはまったくないということであり、 そのことにより、 「他力においては自力のはからいがまじらないことを根本の法義とする」 と知らなければならない。 「自然」 というのは、 もとよりそのようにあらしめるという言葉なのである。

 ^阿弥陀如来の本願は、 もとより行者のはからいではなく、 南無阿弥陀仏と信じさせ、 浄土に迎えようとはたらいてくださっているのであるから、 行者が善いとか悪いとかおもいはからわないのを、 「自然」 というのであるとお聞かせいただいている。

 ^この本願というのは、 すべてのものを 「無上仏にならせよう」 とお誓いになっているのである。 「無上仏」 というのは、 かたちを超えたこの上ないさとりものをいうのであり、 かたちを離れているから、 「自然」 というのである。 かたちがあると示すときは、 この上ないさとりとはいわない。 かたちを離れたこの上ないさとりを知らせようとして示されているのが、 阿弥陀仏であるとお聞かせいただいている。 阿弥陀仏とは、 「自然」 ということを知らせようとするはたらきそのものである。 ^この道理を心得た後には、 「自然」 についてあれこれと思いはからってはならない。 あれこれと 「自然」 について思いはからうなら、 「自力のはからいがまじらないことを根本の法義とする」 といったところで、 やはりはからっていることになる。 これは、 思いはかることのできない仏の智慧のはたらきそのものなのである。

 

(115)

「善」 「悪」 という字の意味さえも知らない人は、 みなまことの心であるのに、 その意味をさも知っているかのように振る舞っているこのわたしは、 嘘いつわりにまみれた姿である。

 

(116)

ものごとの善悪も、 正しいことやよこしまなことの区別もつかないこの身である。 わずかばかりの慈悲さえもっていない身でありながら、 名誉や利益を求めて人の師となることを望むのである。

 

以上

 

自力のはからいが…根本の法義とする 関連する部分を含めて原文を抜き出すと、 「他力不思議にいりぬれば 義なきを義とす」 であるが、 このなか、 「義なき」 については、 自然法爾章の 「法爾」 を釈するなかで、

御ちかひなりけるゆゑに、 すべて行者のはからひなきをもちて、 このゆゑに他力には義なきを義とすとしるべきなり。

と示し、 また、 ¬親鸞聖人御消息¼ の第十九通に、 「義と申すことは、 自力のひとのはからひを申すなり」、 第三十四通に、 「行者のはからひのなきゆゑに、 義なきを義とすと、 他力をば申すなり」 等と示されていることから、 「義なき」 とは 「行者のはからひがないこと」 を意味しているのはあきらかである。
 次に、 「義とす」 の 「義」 については、 ¬親鸞聖人御消息¼ の第二十通に、

他力と申すことは、 義なきを義とすと申すなり如来の誓願は不可思議にましますがゆゑに、 仏と仏との御はからひなり。 凡夫のはからひにあらず。

等と示されていることから、 「仏の御はからひ」 の意味とする見方がある。
 本現代語訳においては、 「義なき」 の 「義」 も、 「義とす」 の 「義」 も、 本来同じ意味をもつものとして用いられており、 「義なきを義とす」 の全体は、 「他力の救いにおいては、 凡夫がはからうこと、 すなわち、 こうあらねばならないと捉えるような法義は無く、 ただ阿弥陀仏のはたらきにより救われていく、 これを法義とするのである」 という意味であろうと考え、 自力のはからいがまじわらないことを、 「根本の法義とする」 と訳しておいた。
入らせてください 原文は、 「いれしめよ」 であるが、 このなか、 「よ」 について、 請求の意とみる解釈と、 提示の意とみる解釈がある。 前者は、 「七人の高僧がたよ、 わたしたちを正定聚の位に入らせてください」 という意味になり、 後者は、 「七人の祖師がたは、 わたしたちを正定聚の位に入らせてくださった」 という意味になる。 本現代語訳においては、 左訓に 「カナラズホトケニナルクラヰニスヽメイレタマヘトナリ」 とあることから、 前者にしたがって訳しておいた。
親鸞八十八歳御筆… この一段は 「ねんほうしょう」 といわれる法語で、 ¬末灯まっとうしょう¼ 第五通にも収録され、 また高田派専修せんじゅにはけん上人の書写本が現存する。 顕智上人書写本は、 「自然」 についての釈の二行目以降が六字ほど下げて書かれており、 「愚禿親鸞八十六歳」 という署名と、 「正嘉二歳戊午十二月日善法坊僧都御坊三条富小路の御坊にて聖人にあひまゐrせての聞き書き、 そのとき顕智これをかくなり」 というばつがある。 ¬末灯鈔¼ 第五通に収録されているものは、 「ぎゃくとくみょうごう」 についての解説を省き、 「正嘉二年十二月十四日」 という日付と 「愚禿親鸞八十六歳」 という署名があって、 全体が消息の形式となっている。
他力においては…根本の法義とする
  → 自力のはからいが…根本の法義とする
引文の現代語訳は ¬聖典意訳 七祖聖教¼ より。
康元二年 1257年。 親鸞聖人八十五歳。
寅の時 午前四時頃。
竜宮 大海の底にあるとされる竜王の宮殿。 現世において釈尊の遺法が隠没する時、 竜王がここに経巻をおさめ護持するという。
大集経 ¬だい方等ほうどう大集だいじっきょう¼ のこと。 「月蔵がつぞうぶん」 巻十には、 五箇五百年説 (釈尊滅後の仏教の展開を五種の五百年に区切って表すもの) をあげ、 末法まっぽうのすがたを説く。
第五の五百年 五五百年 (五五百歳、 五箇五百年) の第五期。 五五百年は仏滅後の二千五百年を五百年ごとに五期 (だつけんぜんじょう堅固・もん堅固・ぞう堅固・とうじょう堅固) に分け、 仏教が次第に衰えていくさまを示したもの。
自力の回向 行者が自ら修める善根ぜんごんの功徳をふり向けて浄土へ往生しようとすること。
像法の… りゅうじゅ菩薩・天親てんじん菩薩などを指す。
難波の浦 現在の大阪湾。 特に旧淀川河口付近のこと。
大連 大臣おおおみと並ぶ大和やまと朝廷の最高執政官の称号。
弓削 現在の大阪府八尾市内。