浄土三経往生文類

【1】 ^*だいきょうおうじょう」 というのは、 ^如来が選び取られた海のように広大で不可思議な*本願ほんがんのはたらきによるものであり、 これを*りきというのである。 ^これはつまり念仏往生の願 (第十八願) に誓われた因により、 必至滅度の願 (第十九願) に誓われた果を得るのである。 ^この世において*正定しょうじょうじゅの位に定まって、 必ず真実の浄土に至る。 ^これは*弥陀みだ如来にょらい*往相おうそう回向という真実の因によるものであるから、 この上ない*はんのさとりを開くのである。 ^この教えを ¬*りょう寿じゅきょう¼ のかなめとする。 このようなわけで 「大経往生」 といい、 また 「なん思議じぎおうじょう」 というのである。

【2】 ^この如来の往相回向について、 真実の行がある。 これはすなわち、 慈悲の心からおこしてくださった諸仏称名の願 (第十七願) に示されている。 ^その称名の願は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。

 ^「わたしが仏になるとき、 すべての世界の数限りない仏がたが、 みなほめたたえて、 わたしの*みょうごうを称えないようなら、 わたしは決してさとりを開かない」

 ^慈悲の心からおこしてくださった称名・信楽の願 (第十七・十八願) が成就したことを示す文は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。

 ^「すべての世界の数限りない仏がたは、 みな同じくりょう寿じゅぶつのはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。 ^すべてのものは、 その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき、 それは阿弥陀仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、 浄土へ生れようと願うときそのまま往生する身に定まり、 *退転たいてんの位に至るのである。 ただし、 *ぎゃくの罪を犯したり、 仏法を謗るものだけは除かれる」

【3】 ^また、 真実の信がある。 これはすなわち、 慈悲の心からおこしてくださった念仏往生の願 (第十八願) に示されている。 ^その信楽の願は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。

 ^「わたしが仏になるとき、 すべてのものがまことの心で信じ喜び、 わたしの国に生れようと思って、 たとえば十回でも念仏して、 もし生れることができないようなら、 わたしは決してさとりを開かない。 ただし、 五逆の罪を犯したり、 仏法を謗るものだけは除かれる。

 ^同じ経典の異訳である ¬*如来にょらい¼ に説かれている。

 ^「わたしがこの上ないさとりを得るとき、 他の国のものがわたしの名号のいわれを聞いて、 すべての功徳をまことの心から与えられ、 わたしの国に生れようと願い、 たとえば十回でも念仏して、 もし生れることができないようなら、 わたしは決してさとりを開かない。 ただし、 *けんごくに墜ちる五逆の罪を犯したり、 仏法や聖者たちを謗るものだけは除かれる」

【4】 ^また、 真実の証がある。 これはすなわち、 慈悲の心からおこしてくださった必至滅度の願 (第十一願) に示されている。 ^その証果の願は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。

 ^「わたしが仏になるとき、 わたしの国のものが正定聚の位にあり、 必ずさとりに至ることができないようなら、 わたしは決してさとりを開かない」

 ^同じ経典の異訳である ¬如来会¼ に説かれている。

 ^「わたしが仏になるとき、 わたしの国のものが間違いなく*とうしょうがくを成就し、 大涅槃をさとることができないようなら、 わたしは決してさとりを開かない」

 ^また ¬如来会¼ に説かれている。

 ^「他の国のすべてのものが、 無量寿如来の名号のいわれを聞き、 たちどころに清らかな信をおこして歓喜し、 すべての功徳をおさめた名号を与えられ、 無量寿如来の国に生れようと願うなら、 願いどおりにみな往生し、 不退転の位を得て、 この上ないさとりを開くことができる。 ただし、 無間地獄に墜ちる五逆の罪を犯したり、 仏法や聖者たちを謗るものだけは除かれる」

 ^必至滅度・証大涅槃の願 (第十一願) が成就したことを示す文は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。

 ^「浄土に生れるものは、 すべてみな正定聚の位にある。 なぜなら、 阿弥陀仏の浄土には*じゃじょうじゅ*じょうじゅのものはいないからである」

 ^また ¬如来会¼ に説かれている。

 ^「浄土に生れたものも、 まさに生れようとするものもみな、 必ずこの上ないさとりをきわめ、 涅槃に至るであろう。 なぜなら、 邪定聚や不定聚のものは、 浄土に往生する因が設けられていることを知らず、 往生することができないからである」

【5】 ^この真実の称名と真実の信楽とを得た人を、 ただちに正定聚の位に定まらせようとお誓いになったのである。 ^この正定聚の位に定まることを、 等正覚を成就するともいわれている。 等正覚というのは、 すなわち*いっしょうしょ*ろくさつと同じ位になることである。 ^だから、 ¬無量寿経¼ には 「*にょろく (*次いで弥勒のごとし)」 と説かれている。

 ^¬*おうじょうろんちゅう¼ にいわれている。

 ^「ª*妙声みょうしょうどくじょうじゅとは、 *がんしょうに、 «清らかなさとりの声は実に奥深くすぐれていて、 すべての世界に響きわたる» といわれているº と ¬*じょうろん¼ に述べられている。 ^これがなぜ不可思議なのであろうか。 経典に、 ª阿弥陀仏の浄土が清く安らかであることを聞いて、 他力の信を得て往生しようと願うものと、 また往生したものとは、 ともに正定聚に入る» と説かれている。 これはその浄土の名そのものがすべてのものを救うはたらきをするのである。 どうして思いはかることができようか。 (中略) ^また ª*眷属けんぞくどくじょうじゅとは、 願生偈に、 «浄土の清らかな方々は、 みな如来のさとりの花から*しょうする» といわれているº と ¬浄土論¼ に述べられている。 ^これがなぜ不可思議なのであろうか。 この世界には、 *たいしょうらんしょう湿しっしょうしょうというさまざまな生れ方をするものが多くいて、 そこで受ける苦も楽も千差万別である。 それはさまざまな迷いの行いに応じて生れるからである。 しかし、 浄土では、 みな阿弥陀仏の清らかなさとりの花からの化生である。 それは同じ念仏によって生れるのであり、 その他の道によるのではないからである。 そこで、 遠くあらゆる世界に通じて、 念仏するものはみな兄弟となるのであり、 浄土の仲間は数限りない。 どうして思いはかることができようか」

 ^また ¬往生論註¼ にいわれている。

 ^「浄土への往生を願うものは、 この世では*ぼんの違いはあっても、 往生してからは何の違いもない。 それは、 *せんの水も*じょうせんの水も海に入れば一つの味になるようなものである。 どうして思いはかることができようか」

 ^また ¬往生論註¼ にいわれている。

 ^「ª*清浄しょうじょうどくじょうじゅとは、 願生偈に、 «浄土のあり方を観ずると、 迷いの世界を超えている» といわれているº と ¬浄土論¼ に述べられている。 ^これがなぜ不可思議なのであろうか。 あらゆる*煩悩ぼんのうをそなえた*ぼんが、 阿弥陀仏の浄土に生れると、 迷いの世界につなぎとめるこれまでの行いも、 もはやその力を失う。 これは、 自ら煩悩を断ち切らずに、 そのまま浄土で涅槃のさとりを得るということである。 どうして思いはかることができようか」

【6】 ^こうした、 阿弥陀如来によって選び取られた往相回向の本願のはたらきについて、 うかがってきたのである。 これを 「難思議往生」 という。 このことを心得て、 他力においては*りきのはからいがまじらないことを根本の法義とすると知らなければならない。

【7】 ^二つに、 *還相げんそうの回向というのは、 ¬浄土論¼ に次のようにいわれている。

 ^「阿弥陀仏の*本願ほんがんりきの回向によるのである。 これを*しゅつだいもんという」

 ^これは還相の回向であり、 慈悲の心からおこしてくださった一生補処の願 (第二十二願) に示されている。 ^その大いなる慈悲の願は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。

 ^「わたしが仏になるとき、 他の仏がたの国の菩薩たちが、 わたしの国に生れてくれば、 必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至らせよう。 ただしそれぞれの願いに応じて、 自由自在に人々を導くため、 かたい決意に身を包んで、 多くの功徳を積み、 すべてのものを救い、 仏がたの国に行って菩薩の行を修め、 すべての世界の仏がたを供養し、 数限りない人々を導いてこの上ないさとりを得させることもできる。 すなわち、 通常に超えすぐれて菩薩の徳をすべてそなえ、 大いなる慈悲の行を実践できる。 もしそうでなければ、 わたしは決してさとりを開かない」

 ^慈悲の心からおこしてくださったこの願は、 如来の還相回向のお誓いである。

【8】 ^如来の二種の回向によって、 真実の信楽を得た人は間違いなく正定聚の位に定まるのであるから、 他力というのである。 ^そこで ¬浄土論¼ にいわれている。

 ^「回向してくださるとはどういうことであろうか。 阿弥陀仏は苦しみ悩むすべてのものを捨てることができず、 いつも功徳を与えようと願い、 その回向を本として大いなる慈悲の心を成就されたのである」

 ^これは ¬無量寿経¼ に説かれた教えのかなめとされているものである。 これを 「難思議往生」 というのである。

【9】 ^*かんぎょうおうじょう」 というのは、 ^修諸功徳の願 (第十九願) によって 「*しん発願ほつがん」 と誓われた要門に入り、 さまざまな善や多くの行によって自ら積んだ功徳を*こうし、 浄土往生を願うのである。 ^そこで ¬*かんりょう寿じゅきょう¼ には、 *じょうぜん*散善さんぜん*三福さんぷくの行や九品のさまざまな善、 あるいは自力の念仏を説いて、 九品それぞれに異なる往生をお勧めになっている。 ^これは、 他力の中で自力をかなめとして説かれた教えである。 ^このようなわけで 「観経往生」 というのは、 どれもみな*方便ほうべんじょうへの往生である。 これを 「双樹そうじゅりんおうじょう」 というのである。

【10】^至心発願の願 (第十九願) は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。

 ^「わたしが仏になるとき、 すべてのものがさとりを求める心をおこして、 さまざまな功徳を積み、 心からわたしの国に生れたいと願うなら、 命を終えようとするとき、 わたしは多くの聖者たちとともにその人の前に現れよう。 そうでなければ、 わたしは決してさとりを開かない」

 ^また ¬*悲華ひけきょう¼ に説かれている。

 ^「わたしがこの上ないさとりを開いたとき、 ほかの数限りない仏がたの世界にいるものがみな、 この上ないさとりを求める心をおこしてさまざまな功徳を積み、 わたしの世界に生れたいと願うなら、 命を終えようとするとき、 わたしは多くの聖者たちとともにその人の前に現れよう。 その人はわたしを見て、 すぐさまわたしの前で心に喜びを得、 わたしを見ることによって、 さまざまなさまたげが除かれ、 そこで、 命を終えてわたしの世界に生れるであろう」

 ^至心発願の願 (第十九願) が成就したことを示す文は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。

 ^*しゃくそん*なんに仰せになる。 ªすべての世界の神々や人々で、 心から無量寿仏の国に生れたいと願うものに、 大きく分けて*じょうはいちゅうはいはいの三種がある。 まず上輩のものについていうと、 家を捨て欲を離れて修行者となり、 さとりを求める心を起して、 ただひたすら無量寿仏を念じ、 さまざまな功徳を積んで、 その国に生れたいと願うのである。 このものたちが命を終えようとするとき、 無量寿仏は多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださる。 (中略) だから阿難よ、 この世で無量寿仏を見たてまつりたいと思うものは、 この上ないさとりを求める心を起し、 功徳を積んでその仏の国に生れたいと願うがよいº

 ^また仰せになる。 ª次に中輩のものについていうと、 すべての世界の神々や人々で、 心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、 上輩のもののように修行者となって大いに功徳を積むことができないとしても、 この上ないさとりを求める心を起し、 ただひたすら無量寿仏を念じるのである。 そして善い行いをし、 *八斎はっさいかいを守り、 堂や塔をたて、 仏像をつくり、 修行者に食べものを供養し、 *天蓋てんがいをかけ、 灯明をささげ、 *さんや焼香をして、 それらの功徳を回向してその国に生れたいと願うのである。 この人が命を終えようとするとき、 (中略) 無量寿仏は*報身ほうじんさながらのおすがたで、 多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださるのであるº (中略)

 ^また仰せになる。 ª次に下輩のものについていうと、 すべての世界の神々や人々で、 心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、 たとえさまざまな功徳を積むことができないとしても、 この上ないさとりを求める心を起し、 ひたすら心を一つにしてたとえば十回でも無量寿仏を念じて、 その国に生れたいと願うのである。 もし奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、 疑いの心を起さず、 たとえば一回でも無量寿仏を念じ、 まことの心をもってその国に生れたいと願うなら、 命を終えようとするとき、 この人は夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、 その国に往生することができ、 中輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのであるº」

 ^¬無量寿経¼ に説かれている。

 ^「わたしが仏になるとき、 わたしの国の菩薩で、 たとえ功徳の少ないものでも、 わたしの国の*どうじょうじゅが限りなく光り輝き、 四百万里の高さであることを知ることができないようなら、 わたしは決してさとりを開かない」

 ^道場樹の願 (第二十八願) が成就したことを示す文は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。

 ^「また、 無量寿仏の国の道場樹は高さが四百万里で、 根もとの周囲が五十*じゅんであり、 枝や葉は二十万里にわたり四方に広がっている。 それはすべての宝が集まって美しくできており、 しかも宝の王といわれる*月光がっこう摩尼まに*かい輪宝りんぼうで飾られている。 枝と枝の間には、 いたるところに宝玉の飾りが垂れ、 その色は数限りなくさまざまに変化し、 はかり知れないほどの光となってこの上なく美しく照り輝いている。 そして美しい宝でできた網がその上におおいめぐらされている。 (中略) すべてのものは、 *しょう法忍ぼうにんを得て不退転の位に入り、 仏のさとりを得るまで身も心も清らかになり、 何一つ悩みわずらうことがないのである」

 ^*源信げんしんしょうの ¬*おうじょうようしゅう¼ に*かん禅師の ¬*ぐんろん¼ を引用して、 次のようにいわれている。

 ^「問うていう。 ¬*さつ処胎しょたいきょう¼ の第二巻に、 ª^この世界から西方へ十二億*由他ゆたのところに*まんがいがある。 (中略) さとりを求める心をおこして阿弥陀仏の浄土に生れようと願うものは、 ほとんどみな懈慢界に深く執着してとどまり、 そこから進んで阿弥陀仏の浄土に生れることができない。 億千万もの人々の中で、 阿弥陀仏の浄土に生れることができるのは一人いるかどうかであるº と説かれている。 ^この経によって考えるなら、 はたして阿弥陀仏の浄土に往生できるのであろうか。 ^答えていう。 ¬群疑論¼ には、 さきの*善導ぜんどうだいの ¬*おうじょう礼讃らいさん¼ の文を引用してこれを解釈し、 また自らの解釈を加えて次にようにいっている。 ª^この ¬菩薩処胎経¼ の次の文に、 «なぜなら、 みな怠惰で慢心しており、 信心が堅固でないからである» と説かれている。 これによって知ることができた。 さまざまな行を修めるものは信心が堅固でない人である。 だから懈慢界に生れるのである。 他の行をまじえないでひとすじに念仏するのは、 これは信心が堅固なのであって、 間違いなく*極楽ごくらく世界に生まれるであろう。 (中略) また真実の浄土に生れるものはきわめて少なく、 方便の浄土に生れるものはきわめて多い。 だから ¬菩薩処胎経¼ と ¬無量寿経¼ とはまったく矛盾しないのであるº」

【11】^これらの文によって、 「双樹林下往生」 ということを深くお心得になるがよい。

【12】^*弥陀みだきょうおうじょう」 というのは、 ^植諸徳本の願 (第二十願) によって 「*すいしゃ」 と誓われた真門に入り、 あらゆる功徳をそなえた名号を選んで*善根ぜんごんの少ないさまざまな行を捨てるのである。 ^ところが、 自力で修める行にとらわれている人は、 阿弥陀仏の不可思議の智慧を疑って信じずに、 如来の名号を自分の善根とし、 その功徳を自ら回向して、 必ず浄土往生を果たしとげさせると誓われた願に頼るのである。 ^本願に誓われた不可思議の名号を称えていながら、 たたえ尽すことも、 説き尽すことも、 思いはかることもできない大いなる慈悲の心からおこされたその本願を疑っている。 それは深く重い罪であり、 浄土に生れても七つの宝でできた牢獄に閉じこめられて、 五百年の間、 自由に振舞うことができず、 仏にも教えにも菩薩や*しょうもんたちにも会うことができず、 お仕えすることもできないと如来は説いておられる。 ^それでも、 如来の名号を称えるから、 *たいといわれる方便の浄土にはとどまるのである。 あらゆる功徳をそなえた名号によるから 「なんおうじょう」 というのである。 不可思議の本願を疑う罪によって 「難思議往生」 とはいわないと知らなければならない。

【13】^植諸徳本の願 (第二十願) は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。

 ^「わたしが仏になるとき、 すべてのものがわたしの名号を聞いて、 浄土に思いをめぐらし、 あらゆる功徳をそなえた名号を称え、 心を励まして、 その称える功徳により浄土に生れたいと願うなら、 その願いをきっと果たしとげさせよう。 そうでなければ、 わたしは決してさとりを開かない」

 ^同じ経典の異訳である ¬如来会¼ に説かれている。

 ^「わたしが仏になるとき、 数限りない国々のあらゆるものが、 わたしの名号について説かれるのを聞き、 その名号を自分の善根として称えることにより極楽世界に生まれようとするであろう。 もしそのものが生れないようなら、 わたしは決してさとりを開かない」

 ^この願 (第二十願) が成就したことを示す文は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。

 ^*たいしょうのもののいる宮殿は、 あるいは百由旬、 あるいは五百由旬という大きさで、 みなその中で、 *とうてんと同じように何のさまたげもなくさまざまな楽しみを受けているのである。

 ^そのとき弥勒菩薩がお尋ねした。 ª*そん、 いったいどういうわけで、 浄土の人々に胎生と化生の区別があるのでしょうかº

 ^釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。 ª本願を疑う自力の心でさまざまな功徳を積み、 浄土に生れたいと願うものは、 この上なくすぐれた無量寿仏の智慧を知らず、 この智慧を疑って信じない。 それでいて悪の報いを恐れて、 善の果報を望み、 あらゆる功徳をそなえた名号を称えて浄土に生れたいと願う。 ^これらのものは浄土に生れても宮殿の中にとどまり、 五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、 教えを聞くことができず、 菩薩や声聞たちを見ることもできない。 そのため、 浄土ではこれをたとえて胎生というのである。 (中略) ^弥勒よ、 よく知るがよい。 化生するものは智慧がすぐれているが、 胎生のものは智慧が劣っているº (中略)

 ^釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。 ªたとえば*転輪てんりんじょうおうが七つの宝でできた牢獄を持っているとしよう。 そこにはさまざまな装飾が施されており、 立派な座が設けられ、 美しい幕が張られ、 さまざまな旗がかけられている。 その国の王子たちが罪を犯して父の王から罰せられると、 その牢獄の中に入れられて金の鎖でつながれるº (中略)

 ^釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。 ª胎生のものもまたその通りである。 仏の智慧を疑ったためにその宮殿に生れるのである。 (中略) ^これらのものは、 仏の智慧を疑った罪を知り、 深く自分のあやまちを悔い、 その宮殿を出たいと願うがよい。 (中略) ^弥勒よ、 よく知るがよい。 仏の智慧を疑うものは大きな利益を失うのであるº」

 ^また ¬如来会¼ に説かれている。

 ^「釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。 ª本願を疑う心を持ちながらさまざまな功徳を積んで、 この上なくすぐれた仏の智慧を願い求めるものは、 自ら積む功徳にとらわれて信心を生じることができない。 このようなわけで、 五百年の間宮殿の中にとどまるのである。 (中略) ^弥勒よ、 そなたはすぐれた智慧のものを見たであろう。 それらのものは広大な智慧のはたらきによりさとりの花の中に化生して結跏趺坐しているのである。 また、 そなたは智慧のない劣ったものを見たであろう。 (中略) それらのものはさまざまな功徳を修めることができず、 正しい因である信心を得ることもなく無量寿仏にお仕えしているのである。 これらのものはみな過去の世に仏の智慧を疑ったためにそうなっているのであるº (中略)

 ^釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。 ªその通りである。 本願を疑う心をもってさまざまな功徳を積み、 この上なくすぐれた仏の智慧を願い求めるなら、 自ら積む功徳にとらわれて他力の信心をおこすことができない。 また、 仏の名号を聞いても自力の信心をおこすのであるから、 浄土に生れても蓮の花の中に閉じこめられて外に出ることができない。 それらのものは花の中にいることを、 花園や宮殿の中にいるかのように思っているº」

 ^善導大師の ¬*かんぎょうしょ¼ にいわれている。

 ^「花に包まれたまま、 外に出ることがない。 また*へんに生れるともいい、 胎宮に生れるともいう」

 ^*きょうごうが ¬*じゅつもんさん¼ にいっている。

 ^「仏の智慧を疑うことによって、 浄土に生れても辺地にとどまり、 仏の教えを受けることがない。 もし胎宮に生れたなら、 必ずその疑いを捨て去るべきである」

【14】^これらの真実の文によって、 「難思往生」 ということを深くお心得にならなければならない。

 

  南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 

*康元こうげん二年三月二日、 これを書き写す。

*禿とく*親鸞しんらん八十五歳

 

みなほめたたえて…称えないようなら 関連する部分を含めて原文を抜き出すと、 「たとひわれ仏を得たらんに、 十方世界の無量の諸仏、 ことごとく咨嗟し、 わが名を称せずは、 正覚を取らじ」 であり、 ¬無量寿経¼ の第十七願文について、 親鸞聖人が書き下されたものである。 このなか、 「わが名を称せずは」 について、 諸仏が阿弥陀仏のみょうごうの徳をほめ讃えられること、 すなわち阿弥陀仏の教えを広く説き示すこととする解釈と、 諸仏が阿弥陀仏の名号を称えることとする解釈とがある。
 「行文類」 に示された第十七願の願名に、 「諸仏しょぶつしょうようの願」 とあることからすれば、 「わが名を称せずは」 とは、 「わが名を称揚せずは」 すなわち 「わたしの名を広くほめ讃えないようなら」 という意味と考えられる。 一方、 ¬唯信鈔文意¼ に、 「第十七の願に、 ª十方無量の諸仏にわがなをほめられん、 となへられんº と誓ひたまへる」 とあることからすれば、 「わが名を称せずは」 とは、 「ほめ讃える」 という意とは別に 「名を称える」 という意をあらわすと考えられる。
 本現代語訳においては、 後者にしたがって訳しておいた。
無量寿仏  → 阿弥陀あみだぶつ
往生論註にいわれている 原文は、 「¬浄土論¼ にいはく」 であるが、 ここに引用されている文は、 天親てんじんさつの ¬浄土論¼ を、 真宗七高僧の第三祖曇鸞どんらんだいが註釈された ¬おうじょうろんちゅう¼ のものである。
 親鸞聖人は、 天親菩薩の ¬浄土論¼ と曇鸞大師の ¬往生論註¼ とは切り離すことのできないものと考えられていたために、 ¬往生論註¼ の文を引用される場合、 しばしばこのように示されることがある。
自ら煩悩を断ち切らずに…さとりを得る 関連する部分を含めて原文を抜き出すと、 「すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃の分を得」 であるが、 このなか、 「涅槃の分」 について、 涅槃の分斉ぶんざいすなわち涅槃のさとりのことと見る解釈と、 涅槃の因分すなわち正定しょうじょうじゅを指すと見る解釈とがある。 本現代語訳においては、 前者にしたがって訳しておいた。
他力においては…根本の法義とする 原文は、 「他力には義なきを義とす」 となっている。 このことについて、 しょうそくに、

義といふことは、 はからふことばなり。 行者のはからひは自力なれば、 義といふなり。

義と申すことは、 自力のひとのはからひを申すなり。

行者のはからひのなきゆゑに、 義なきを義とすと、 他力をば申すなり。

等と示されており、 「義なき」 とは 「行者のはからいがないこと」 を意味しているのは明らかである。
 次に 「義とす」 の 「義」 については、 同じく御消息に、

他力と申すは、 仏智不思議にて候ふなるときに…仏と仏のみ御はからひなり。 さらに行者のはからひにあらず候ふ。

他力と申すことは、 義なきを義とすと申すなり…如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、 仏と仏との御はからひなり。 凡夫のはからひにあらず。

等と示されることから、 「仏の御はからひ」 の意味とする見方がある。
 本現代語訳においては、 「義なき」 の 「義」 も 「義とす」 の 「義」 も、 本来同じ意味を持つものとして用いられており、 「義なきを義とす」 の全体は、 「他力の救いにおいては、 凡夫がはからうこと、 すなわち、 こうあらねばならないと捉えるような法義は無く、 ただ阿弥陀仏のはたらきにより救われていく、 これを法義とするのである」 という意味であろうと考え、 「自力のはからいがまじらないことを根本の法義とする」 と訳しておいた。
菩薩処胎経と…矛盾しないのである 原文は、 「経の別説、 まことに相違せざるなり」 であるが、 このなか、 「経の別説」 が何を意味しているのかについて、 ¬菩薩処胎経¼ に説かれた内容を指しているとみる解釈や、 ¬菩薩処胎経¼ と ¬観無量寿経¼ (または 「浄土三部経」) のそれぞれに説かれた内容を意味しているとみる解釈などがあり、 一定していない。 ここは、 「観経往生 (方便化土の往生)」 について述べられているところであるので、 信心が堅固であるのか否かによってほう二土の往生のあることを、 ¬観無量寿経¼ とは別の経典にも説かれていることを述べられたものとみて訳しておいた。
自ら積む功徳に…生じることができない 原文は、 「みづからの善根において信を生ずることあたはず」 であるが、 「みづからの善根」 とは如来こうの善根であり、 如来より回向されたみょうごうが自分のがんぎょうであることを信じることができないことを述べられたものであるとする解釈や、 自己の善根が薄少であり、 しゅつの縁がないことを信じることができないことを述べられたものとする解釈もある。
大経往生 ¬大経¼ に説かれた他力念仏による往生のこと。
邪定聚 さとることのないもの。 左訓には 「自力のもろもろの善人なり」 とあり、 親鸞聖人は、 自力の諸善によって浄土に往生しようとする第十九願の行者のことと見られている。
不定聚 さとるともさとらないともけつじょうしていないもの。 左訓には 「自力の念仏者なり」 とあり、 親鸞聖人は自力の称名しょうみょう念仏によって浄土に往生しようとする第二十願の行者と見られている。
次いで… しん文類もんるい訓。
妙声功徳定聚 国土荘厳十七種の第十一荘厳。 浄土のすぐれた名は、 あまねく十方世界に聞えて、 すべての者を往生させる徳があるということを示す。
眷属功徳成就 国土荘厳十七種の第十三荘厳。 浄土の往生人はことごとく阿弥陀仏の正覚によって生れた清浄な者で優劣の差がないということ、 および一切世界の念仏者も平等の眷属であるということを示す。
観経往生 ¬観経¼ に説かれた自力諸行による往生のこと。
至心発願… 至心発願とは第十九願に誓われた諸行往生を願う心をいい、 親鸞聖人はこの第十九願の法門を、 しょうどうもんの機を浄土門に導くかなめの法門として要門といわれた。
回向 ここでは自力の回向のこと。 行者が自ら修める善根ぜんごんの功徳をふり向けて浄土へ往生しようとすること。
弥陀経往生 ¬阿弥陀経¼ に説かれた自力念仏による往生のこと。
不果遂者 不果遂者の果遂とは、 一つには化土けど往生を、 二つには第十八願への転入を果しとげさせることをいい、 第二十願の誓いをあらわしている。 親鸞聖人はこの第二十願の法門を真門といわれた。
康元二年 1257年。