如来二種回向文

 

【1】 ^¬*じょうろん¼ にいわれている。

 ^「回向してくださるとはどういうことであろうか。 *弥陀みだぶつは苦しみ悩むすべてのものを捨てることができず、 いつも功徳を与えようと願い、 その回向を本として大いなる慈悲の心を成就されたのである」

 ^この*本願ほんがんのはたらきとしての回向について、 如来の回向に二種の相がある。 一つには*往相おうそうの回向であり、 二つには*還相げんそうの回向である。

【2】 ^往相の回向について、 真実の行があり、 真実の信があり、 真実の証がある。

【3】 ^真実の行というのは、 慈悲の心からおこしてくださった諸仏しょぶつ称名しょうみょうがん (第十七願) に示されている。 その称名の願は、 ¬*りょう寿じゅきょう¼ に次のように説かれている。

 ^「わたしが仏になるとき、 すべての世界の数限りない仏がたが、 みなほめたたえて、 わたしの*みょうごうを称えないようなら、 わたしは決してさとりを開かない」

【4】 ^真実の信というのは、 慈悲の心からおこしてくださった念仏ねんぶつおうじょうがん (第十八願) に示されている。 そのしんぎょうがんは、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。

 ^「わたしが仏になるとき、 すべてのものがまことの心で信じ喜び、 わたしの国に生れようと思って、 たとえば十回でも念仏して、 もし生れることができないようなら、 わたしは決してさとりを開かない。 ただし、 *ぎゃくの罪を犯したり、 仏法を謗るものだけは除かれる」

【5】 ^真実の証というのは、 慈悲の心からおこしてくださったひっめつがん (第十一願) に示されている。 そのしょうがんは、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。

 ^「わたしが仏になるとき、 わたしの国のものが*正定しょうじょうじゅの位にあり、 必ずさとりに至ることができないようなら、 わたしは決してさとりを開かない」

 ^慈悲の心からおこしてくださったこれらの*誓願せいがんを、 *せんじゃく本願ほんがんというのである。

【6】 ^この大いなる必至滅度の願をおこしてくださり、 この真実の信楽を得た人を、 ただちに正定聚の位に定まらせようとお誓いになっている。

 ^同じ経典の異訳である ¬*如来にょらい¼ に説かれている。

 ^「わたしが仏になるとき、 わたしの国のものが間違いなく*とうしょうがくを成就し、 大*はんをさとることができないようなら、 わたしは決してさとりを開かない」

 ^慈悲の心からおこしてくださったこの願は、 すなわち真実の信楽を得た人に間違いなく等正覚を成就させようとお誓いになったというのである。 等正覚とは、 つまり正定聚の位のことである。 等正覚というのは、 *いっしょうしょ*ろくさつと同じ位につかせようとお誓いになったのである。 これらの選択本願は、 思いはかることのできない広く大いなる*法蔵ほうぞうさつの誓願である。 ^そこで真実の信心を得て念仏するもののことを、 ¬無量寿経¼ には 「*にょろく (*次いで弥勒のごとし)」 と説かれている。 これらの大いなる誓願のはたらきを、 往相の回向というのである。 信心を得た人は弥勒菩薩と同じであると ¬*りゅうじょじょうもん¼ にも示されている。

【7】 ^二つに、 還相回向というのは、 ¬浄土論¼ に次のようにいわれている。

 ^「阿弥陀仏の*本願ほんがんりきの回向によるのである。 これを*しゅつだいもんという」

 ^これがすなわち還相の回向である。

【8】 ^この内容は、 大いなるいっしょうしょがん (第二十二願) に示されている。 そのおおいなる慈悲じひがんは、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。

 ^「わたしが仏になるとき、 他の仏がたの国の菩薩たちが、 わたしの国に生れてくれば、 必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至らせよう。 ただしそれぞれの願いに応じて、 自由自在に人々を導くため、 かたい決意に身を包んで、 多くの功徳を積み、 すべてのものを救い、 仏がたの国に行って菩薩の行を修め、 すべての世界の仏がたを供養し、 数限りない人々を導いてこの上ないさとりを得させることもできる。 すなわち、 通常に超えすぐれて菩薩の徳をすべてそなえ、 大いなる慈悲の行を実践できる。 もしそうでなければ、 わたしは決してさとりを開かない」

 ^これは如来の還相回向のお誓いである。 これは*りきの還相の回向であるから、 *自利じり*利他りたともに行者の願いによるのではなく、 法蔵菩薩の誓願によるのである。 「他力には自力のはからいがまじらないことを根本の法義とする」 と、 法然ほうねんしょうにんのお言葉にあった通りである。 この慈悲の心からおこしてくださった選択本願を、 深くお心得になるがよい。

 

^*しょう元年閏三月二十一日、 これを書き写す。

 

みなほめたたえて…称えないようなら 関連する部分を含めて原文を抜き出すと、 「設我得仏十方世界無量諸仏不悉咨嗟称我名者不取正覚 (たとひわれ仏を得たらんに、 十方世界の無量の諸仏、 ことごとく咨嗟し、 わが名を称せずは、 正覚を取らじ)」 である。 このなか、 「不…称我名者 (わが名を称せずは)」 について、 諸仏が阿弥陀仏のみょうごうの徳をほめ讃えられること、 すなわち阿弥陀仏の教えを広く説き示すこととする解釈と、 諸仏が阿弥陀仏の名号を称えることとする解釈とがある。
 「行文類」 に示された第十七願の願名に、 「諸仏しょぶつしょうようの願」 とあることからすれば、 「わが名を称せずは」 とは、 「わが名を称揚せずは」 すなわち 「わたしの名を広くほめ讃えないようなら」 という意味と考えられる。 一方、 ¬唯信鈔文意¼ に、 「第十七の願に、 ª十方無量の諸仏にわがなをほめられん、 となへられんº と誓ひたまへる」 とあることからすれば、 「わが名を称せずは」 とは、 「ほめ讃える」 という意とは別に 「名を称える」 という意をあらわすと考えられる。
 本現代語訳においては、 後者にしたがって訳しておいた。
他力においては…根本の法義とする 原文は、 「他力には義なきを義とす」 となっている。 このことについて、 しょうそくに、

義といふことは、 はからふことばなり。 行者のはからひは自力なれば、 義といふなり。

義と申すことは、 自力のひとのはからひを申すなり。

行者のはからひのなきゆゑに、 義なきを義とすと、 他力をば申すなり。

等と示されており、 「義なき」 とは 「行者のはからいがないこと」 を意味しているのは明らかである。
 次に 「義とす」 の 「義」 については、 同じく御消息に、

他力と申すは、 仏智不思議にて候ふなるときに…仏と仏のみ御はからひなり。 さらに行者のはからひにあらず候ふ。

他力と申すことは、 義なきを義とすと申すなり…如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、 仏と仏との御はからひなり。 凡夫のはからひにあらず。

等と示されることから、 「仏の御はからひ」 の意味とする見方がある。
 本現代語訳においては、 「義なき」 の 「義」 も 「義とす」 の 「義」 も、 本来同じ意味を持つものとして用いられており、 「義なきを義とす」 の全体は、 「他力の救いにおいては、 凡夫がはからうこと、 すなわち、 こうあらねばならないと捉えるような法義は無く、 ただ阿弥陀仏のはたらきにより救われていく、 これを法義とするのである」 という意味であろうと考え、 「自力のはからいがまじらないことを根本の法義とする」 と訳しておいた。
法然上人  → 源空上人
次いで… しん文類もんるい訓。
正嘉元年 1257年。 親鸞聖人八十五歳。