一念多念証文

 

【1】 ^一念ということを間違いと思ってはならないこと。

一念ということを間違いと思ってはならないこと 称名しょうみょう念仏について、 一念すなわち一声の念仏で往生が定まるのか、 多念すなわち念仏の相続で往生が定まるのかという問題は、 ¬りょう寿じゅきょう¼ に説かれた 「ないじゅうねん」 「ない一念いちねん」 等の言葉にすでに含まれていたものであるが、 このことがまさしく問題とされたのは善導ぜんどうだいの解釈からである。 例えば ¬おうじょう礼讃らいさん¼ に、 「ただ信心をもって求念すれば、 上一形を尽し下十声・一声等に至るまで、 仏願力をもって易く往生を得」 とあるように、 善導大師はその解釈において、 経典に示された 「十念」 「一念」 等の語はしょうの念仏を示す語であり、 また 「乃至」 の意味を示して称名の遍数へんじゅには定まりのないことを明らかにされている。

 法然ほうねんしょうにんはその善導大師の釈について、 ¬せんじゃく本願ほんがん念仏ねんぶつしゅう¼ に、

問ひていはく、 ¬経¼ には 「乃至」 といひ、 釈には 「下至」 といふ。 その意いかん。 答へていはく、 乃至と下至とその意これ一なり。 ¬経¼ に 「乃至」 といふは、 多より少に向かふ言なり。 多といふは上一形を尽すなり。 少といふは下十声・一声等に至るなり。 釈に 「下至」 といふは、 下とは上に対する言なり。 下とは下十声・一声等に至るなり。 上とは上一形を尽すなり。いまこの願の 「乃至」 はすなはちこれ下至なり。 このゆゑにいま善導の引釈するところの 「下至」 の言、 その意相違せず。 ただし善導と諸師とその意不同なり。 諸師の釈には別して十念往生の願といふ。 善導独り総じて念仏往生の願といへり。 諸師の別して十念往生の願といふは、 その意すなはちあまねからず。 しかる所以は、 上一形を捨て、 下一念を捨つるゆゑなり。 善導の総じて念仏往生の願といふは、 その意すなはちあまねし。 しかる所以は、 上一形を取り、 下一念を取るゆゑなり。

と述べ、 一念と十念 (多念) の間には浅深勝劣の差別はなく、 ぼんぎょうぎょうごうであり、 仏願に随順した必得往生の称名であることを示されている。

 また、 一念と多念の関係について、 ¬黒谷くろだにしょうにん燈録とうろく¼ には、 「十声一声の釈は念仏を信ずるやうなり。 かるがゆゑに信をば一念に生るととり、 行をば一形にはげむべしと、 すすめたまへる釈なり」 と法然上人の言葉が示されている。 上人の門下に生じた争いは、 往生はいずれで定まるのか、 いずれか一方において定まるのなら他方はどう解釈すべきであるのかといった問題について、 「信をば一念に生るととり」 に固執して一形多念すなわち念仏の相続を廃捨する立場の人々と、 「行をば一形にはげむべし」 に固執して一念を軽視した立場の人々との争いに他ならない。 法然上人の示された念仏往生の教えは、 その正意を離れ、 自力他力の問題や造悪ぞうあく無礙むげ廃悪はいあく修善しゅぜんの問題を加えて互いに謗難をなし、 対立を生むことになる。

 この一念多念の問題は法然上人門下における最大の教学論争であり、 親鸞聖人の門弟の間でも、 その争いが起きていたと考えられる。 聖人がそのことに配慮されていたことは、 門弟のきょうにんぼうにあてた次のようなしょうそくにもうかがえる。

さてはこの御たづね候ふことは、 まことによき御疑どもにて候ふべし。 まづ一念にて往生の業因はたれりと申し候ふは、 まことにさるべきことにて候ふべし。 さればとて、 一念のほかに念仏を申すまじきことには候はず。 …念仏往生の本願とこそ仰せられて候へば、 おほく申さんも、 一念・一称も、 往生すべしとこそうけたまはりて候へ。 かならず一念ばかりにて往生すといひて、 多念をせんは往生すまじきと申すことは、 ゆめゆめあるまじきことなり。

 この ¬一念多念証文¼ は、 そのような争いをとどめるために、 ¬一念多念分別事¼ の註釈書という形式をとりながら、 法然上人が念仏往生と示された第十八願の教えについて親鸞聖人が示されたものである。 特に一念については、 行の一念と信の一念とに分けて示され、 行の一念は、 一念すなわち一声の称名のところで、 本願の行法のこの上なく勝れた徳を明らかにし、 信の一念は、 一念すなわち時のきわまりのところで、 信心の定まるときに往生が定まるという救いの成立する 「時」 を明らかにする教説とされたのである。 すなわち信の一念について親鸞聖人は、 「一念といふは、 信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり」 と述べ、 阿弥陀仏の本願を聞いて疑いなく信受した最初の時を信の一念 (こくの一念) として解釈し、 その信の一念において必ず往生することのできる身に定まることを明らかにされている。 そして、 一念も多念も真実の教えであり、 一念にとらわれて多念の教えを否定したり、 多念にとらわれて一念の教えを否定したりすることのないようにと示し、 「浄土真宗のならひには、 念仏往生と申すなり、 まつたく一念往生・多念往生と申すことなし」 と、 念仏往生の教えを明らかにされるのである。

 ^善導大師が ¬往生礼讃¼ に 「*恒願一切臨終時 勝縁勝境悉現前 (つねに願はくは一切臨終の時、 勝縁・勝境ことごとく現前せん)」 と述べられているのは、 ^「恒」 は 「つねに」 ということであり、 「願」 は 「ねがう」 ということである。 ここで 「つねに」 というのは、 絶えることがないという意味であるが、 折にふれ、 その時々に願えというのである。 だからここで 「つねに」 というのは、 「常」 の意味ではない。 「常」 というのは、 「つねに」 ということであるが、 絶え間なく続けよという意味である。 すなわち、 どのような時も絶えることがなく、 またどのような所も避けたり嫌ったりすることがないのを 「常」 というのである。

恒願一切… 「恒願」 のくん (親鸞聖人が文の左側に読みや意味などを付されたもの) には 「つねにねがふべし」、 「悉現前」 の左訓には、 「ことごとくまへにあらわれたまへとなり」 とあり、 これにしたがって書き下すと 「恒に願ふべし、 一切終りに臨まん時、 勝縁・勝境ことごとく前に現れたまへとなり」 となる。

 ^「一切臨終時」 というのは、 *極楽浄土への*往生を願うすべてのものは命が終ろうとするときまでという意味の言葉である。

命が終ろうとするときまで 「恒願一切臨終時勝縁勝境悉現前」 の句は通常、 臨終の来迎を願った文と見られるが、 親鸞聖人は 「臨終時」 の意味を臨終の時に至るまでと示すことによって、 平生から阿弥陀仏の摂取のやくを願うことを明す文と見られた。

 ^「勝縁勝境」 というのは、 仏のお姿も拝見し、 その*光明も見、 すばらしい香りもかぎ、 *善知識の導きにも出あいたいと思えということである。

 ^「悉現前」 というのは、 さまざまなすばらしいことが、 目の前に現れてくださいと願えということである。

【2】 ^¬無量寿経¼ の中には 「*諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心廻向 願生彼国 即得往生 住不退転 (*あらゆる衆生、 その名号を聞きて、 信心歓喜せんこと、 乃至一念せん。 至心に回向せしめたまへり。 かの国に生ぜんと願ぜば、 すなわち往生を得、 不退転に住せん)」 とも説かれている。

諸有衆生… 第十八願成就文。
あらゆる… しん文類もんるい訓。

 ^「諸有衆生」 というのは、 あらゆる世界のすべての命あるものという意味である。

 ^「聞其名号」 というのは、 *本願の*名号を聞くと仰せになっているのである。 聞くというのは、 如来の本願を聞いて、 疑う心がないのを 「聞」 というのである。 また聞くというのは、 信心をお示しになる言葉である。

 ^「信心歓喜乃至一念」 というのは、 「信心」 とは、 如来の本願を聞いて疑う心がないことである。 ^「歓喜」 というのは、 「歓」 は身によろこびがあふれることであり、 「喜」 は心によろこびがあふれることである。 すなわち、 得なければならない浄土往生を、 必ず得るであろうと、 あらかじめ往生に先立ってよろこぶという意味である。 ^「「乃至」 とは、 多いのも少ないのも、 長い間も短い間も、 前も後も、 すべて含めるという言葉である。 ^「一念」 というのは、 信心を得るそのときという時間的なきわまりを表す言葉である。

得なければならない浄土往生を、 必ず得るであろう 原文 「うべきことをえてんず」 であるが、 解釈が一定していない。 この箇所は、 続いて述べられる 「即得往生」 の釈、 すなわち 「うべきことをえたり」 の箇所とあわせて考えるべきであろう。 まず、 「えてんず」 は、 動詞 「う (得)」 に推量の助動詞 「んず (むず)」 が接続し、 それを強める意味で助動詞 「つ」 が加わっているため、 「きっと得るであろう」 「必ず得るであろう」 と解釈され、 また 「えたり」 は、 同じく動詞 「う」 に完了の助動詞 「たり」 が接続したもので、 「すでに得た」 と解釈されるのが通常であろう。 「うべきことをえてんず」 の 「うべきこと」 が、 実際にはまだ得られていないものを表していることは、 続く 「かねてさきだちてよろこぶ」 という言葉からも明らかである。 これらのことは同じく ¬一念多念証文¼ に、

「歓喜」 は、 うべきことをえてんずと、 さきだちてかねてよろこぶこころなり。 「踊」 は天にをどるといふ、 「躍」 は地にをどるといふ、 よろこぶこころのきはまりなきかたちなり、 慶楽するありさまをあらはすなり。 慶はうべきことをえてのちによろこぶこころなり、 楽はたのしむこころなり、 これは正定しょうじょうじゅの位をうるかたちをあらはすなり。

と述べられている箇所についても同じである。 ここでは 「うべきことをえたり」 にあたる箇所が、 「うべきことをえてのちに」 と示されており、 この場合の 「うべきこと」 が実際にすでに得られたものであることは明らかである。 この 「うべきこと」 については、 親鸞聖人が ¬尊号そんごう真像しんぞう銘文めいもん¼ に、

「獲信見敬得大慶」 といふは、 この信心をえておほきによろこびうやまふ人といふなり。 「大慶」 はおほきにうべきことをえてのちによろこぶといふなり。

と述べられていることや、 ¬唯信ゆいしんしょうもん¼ に、

この信心をうるを慶喜といふなり。 慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。 慶はよろこぶといふ、 信心をえてのちによろこぶなり、 喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ、 うべきことをえてのちに、 身にもこころにもよろこぶこころなり。

と述べられていることから、 すでに得られた 「うべきこと」 とは 「信心」 であることが理解される。 一方の実際にまだ得られていない 「うべきこと」 とは、 浄土に往生し成仏することに他ならない。

 「うべきこと」 という言葉の意味については、 「将来得るであろうこと」 「将来得るはずのこと」 として解釈する見方もあるが、 「うべきことをえてんず」 の 「うべきこと」 と 「うべきことをえたり」 の 「うべきこと」 とが意味自体は同じであり、 かつ、 後者はげんしょうにおいてしゅじょうぎゃくとくする他力の信心であることを考えれば、 「うべきこと」 は 「得なければならないこと」 等と解釈するのが妥当であろう。 すなわち親鸞聖人は、 本願に随順する念仏の衆生が得なければならない二つのやくを示し、 信心を得て正定聚の位に住することを現生の利益として慶喜し、 往生成仏することを当来の利益として歓喜することを表されているのである。

 ^「至心回向」 というのは、 ^「至心」 とは、 真実という意味の言葉であり、 その真実とは阿弥陀如来のお心のことである。 ^「回向」 とは、 真実の徳をそなえた本願の名号を、 あらゆる世界の命あるものにお与えになるというお言葉である。

 ^「願生彼国」 というのは、 「願生」 とは、 すべてのものは、 本願によって成就された*真実の浄土へ生れようと願えということである。 「彼国」 とは、 「かのくに」 ということであり、 *安楽国を指し示しておられるのである。

 ^「即得往生」 というのは、 「即」 は 「すなわち」 ということであり、 時を経ることなく、 日を置くこともないという意味である。 ^また 「即」 は 「つく」 ということであり、 その位に確かに定まるという言葉である。 ^「得」 は得なければならないことをすでに得たということである。 ^真実の信心を得れば、 ただちに*無礙光仏はそのお心のうちにその人を摂取して決してお捨てにならないのである。 ^「摂」 はお摂めになるということであり、 「取」 は浄土へ迎え取るということである。 摂め取ってくださるとき、 ただちに、 時を経ることも日を置くこともなく、 *正定聚の位に定まることを、 「往生を得る」 と仰せになっているのである。

【3】 ^そのようなわけで、 *必至滅度の誓願を ¬無量寿経¼ にお説きになっている。 すなわち 「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚 (*たとひわれ仏を得たらんに、 国のうちの人天、 定聚に住し、 かならず滅度に至らずは、 正覚を取らじ)」 と、 願をたてておられるのである。

必至滅度の誓願 第十一願のこと。 必至滅度は、 浄土に往生して必ず仏のさとりを開くと言うこと。 誓願は、 阿弥陀仏が法蔵ほうぞうさつの時にたてられた願い。 成就しなければ仏にならないという誓いをともなっているので誓願という。
たとひわれ… しょう文類もんるい訓。

 ^また ¬*如来会¼ に、 「若我成仏 国中有情 若不決定 成等正覚 証大涅槃者 不取菩提 (*もしわれ成仏せんに、 国のうちの有情、 もし決定して等正覚を成り、 大涅槃を証せずは、 菩提を取らじ)」 とお誓いになっている。

もしわれ… 証文類訓。

 ^この願が成就したことを、 釈尊は ¬無量寿経¼ にお説きになり、 「*其有衆生 生彼国者 皆悉住於 正定之聚 所以者何 彼仏国中 無諸邪聚 及不定聚 (*それ衆生ありて、 かの国に生るれば、 みなことごとく正定の聚に住す。 ゆゑはいかん。 かの仏国のうちにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり)」 と仰せになっている。

其有衆生… 第十一願成就文。
それ衆生… しょう文類もんるい訓。

 ^これらの文の意味について、 まず ¬無量寿経¼ に説かれた必至滅度の誓願の文は、 「わたしが仏になるとき、 わたしの国の人々や神々が正定聚の位にも定まり、 必ずさとりを得ることがないようなら、 わたしは仏にならない」 とお誓いになっているという意味である。

 ^また次に ¬如来会¼ に仰せになっているのは、 「わたしが仏になるとき、 わたしの国のものが、 等正覚の位に確かに定まり、 必ず仏のさとりを得ることがないようなら、 わたしは仏にならない」 とお誓いになっているのである。

 ^そして、 そのように*法蔵菩薩がお誓いになったことを、 釈尊はさまざまな濁りに満ちた世に生きるわたしどものためにお説きくださったのであるが、 その文に仰せになっている意味は、 「阿弥陀仏の浄土に生れようとするものは、 みなことごとく正定聚の位に定まる。 なぜなら、 阿弥陀仏の浄土には*邪定聚や*不定聚のものはいないからである」 ということである。

阿弥陀仏の浄土に…正定聚の位に定まる 関連する部分を含めて原文を抜き出すと、

これらの文のこころは、 「たとひわれ仏を得たらんに、 国のうちの人・天、 定聚にも住して、 かならず滅度に至らずは、 仏に成らじ」 と誓ひたまへるこころなり。 またのたまはく、 「もしわれ仏に成らんに、 国のうちの有情、 もし決定して、 等正覚を成りて、 大涅槃を証せずは、 仏に成らじ」 と誓ひたまへるなり。 かくのごとく法蔵菩薩誓ひたまへるを、 釈迦如来、 五濁のわれらがために説きたまへる文のこころは、 「それ衆生あつて、 かの国に生れんとするものは、 みなことごとく正定の聚に住す。 ゆゑはいかんとなれば、 かの仏国のうちには、 もろもろの邪聚および不定聚はなければなり」 とのたまへり。

であり、 直前に漢文で示されている第十一願文、 ¬如来会¼ の文、 第十一願成就文について、 親鸞聖人がそれぞれの意味を述べておられる箇所である。

 ここで、 第十一願成就文の意味を述べるなか、 「生彼国者皆悉住於正定之聚」 について、 聖人は 「かの国に生れんとするものは、 みなことごとく正定の聚に住す」 と示しておられるが、 通常は、 「かの国に生ずれば、 みなことごとく正定の聚に住す」 と読み、 すでに浄土に往生した者が正定聚の位につくことを示すものである。 しかしながら、 如来より回向された他力の信を決定したとき、 浄土に往生して仏果に至る身となることが定まるのであるから、 他力念仏の行者が正定聚の位につくのはげんしょうにおける事態に他ならない。 このことを明らかにするために、 親鸞聖人は 「かの国に生れんとするものは」 と読み、 現生において浄土に往生しようと願う者が、 この世で正定聚の位につくことを明している文と見られているのである。

 このことは、 第十一願文の意味を示すなか、 「国のうちの人・天、 定聚にも住して」 と、 述べておられるところにもうかがえる。 第十一願は、 阿弥陀仏の浄土に往生したものが、 正定聚の位につくことを誓われた 「住正定聚の願」 と見るのが通常であるが、 親鸞聖人は、 「住定聚」 を 「定聚にも住し」 と、 助詞 「も」 を用いて読むことで、 この願の中心は、 「住定聚」 にあるのではなく、 「かならず滅度に至」 ることにあると示して、 願名も 「必至滅度の誓願」 とされるのである。 すなわち、 正定聚に住することは、 他力念仏の行者の現生におけるやくであることを示そうとされているのである。

 また、 第十一願文の 「住定聚」 ならびに第十一願成就文の 「住於正定之聚」 であるが、 「等正覚」 には、 仏そのものを表す場合と、 仏因ぶついん円満えんまんしたしょうがくに等しい位で、 仏になる一段階前の菩薩の位を意味する場合とがある。 そのような通常の意味に対して、 親鸞聖人は、 ¬如来会¼ の文の意味を述べるなか、 「等正覚」 について、 「マコトノホトケニナルヘキミトナレルナリ」 と左訓を施し、 「成等正覚」 とは、 正定聚に住することであると明示されているのであるが、 その正定聚に住するのは現生における事態であることをより明らかにするために、 続く釈のなかで、 「等正覚の位に定まる」 ことは、 「易行品」 に示された 「即時入必定」 ということ、 すなわち信心を得ると同時に、 この世において正定聚の位につき、 必ず仏果に至る身に定まることに他ならないと示しておられるのである。

 ^阿弥陀仏と釈尊がお示しになったこれらのお言葉をうかがうと、 さきに 「すなわち往生を得る」 と仰せになっているのは、 正定聚の位に定まるということであり、 それをまた、 「*不退転に住する」 と仰せになっているのである。 ^この正定聚の位に定まったなら、 必ずこの上ない仏のさとりを得ることができる身となるのであるから、 そのことを ¬如来会¼ では、 「等正覚の位に定まる」 ともお説きになり、 また龍樹菩薩は、 「*阿毘跋致に至る」 とも、 「*阿惟越致に至る」 とも説かれている。 そのことを 「*即時入必定」 ともいうのである。

阿毘跋致・阿惟越致 梵語アヴァイヴァルティカまたはアヴィニヴァルタニーヤの音写。 不退転のこと。 阿毘跋致の左訓には 「ほとけになるべき身となるなり」 と示されている。
即時入必定 「即の時に必定に入る」。 「ぎょうぼん」 の文。 信心を得ると同時に、 この世において正定聚の位につき、 必ず仏果に至ることに定まること。

【4】 ^本願に誓われたこの真実の信心は*他力横超の*金剛心である。 ^それで、 他力念仏の人のことを、 ¬無量寿経¼ には 「*次如弥勒 (次いで弥勒のごとし)」 とお説きになっている。

次如弥勒 左訓には 「念仏のひとは弥勒のごとくほとけになるべしとなり」 と示されている。 金剛の信心を得たものは、 次生において必ず仏になることに定まっているので、 いっしょうしょの菩薩である弥勒菩薩と同じ位にあるということ。

 ^*弥勒菩薩は竪の金剛心の菩薩である。 「竪」 というのは、 「*たてざまに」 という言葉である。 これは、 *自力で*難行道を歩む*聖道門の人のことである。 「横」 は 「*よこざまに」 ということであり、 「超」 は 「こえて」 ということである。 これは、 阿弥陀仏の本願他力の船に乗ったなら、 迷いの大海をよこざまに超えて真実の浄土の岸につくということである。

 ^「次如弥勒」 というのは、 「次」 は 「近い」 ということであり、 「つぎに」 ということである。 「近い」 というのは、 弥勒菩薩は必ず仏のさとりをお開きになる人ということである。 だから 「弥勒と同じようだ」 と仰せになっているのである。 すなわち他力信心の念仏者も仏のさとりに近づくということである。 「つぎに」 というのは、 釈尊の次に、 五十六億七千万年を経て必ず仏のさとりをお開きになるということである。 ^「如」 は 「同じようだ」 ということである。 「同じようだ」 というのは、 他力の信心を得ている人は、 この世ですでに不退転の位に至っており、 必ず仏のさとりを開くということが、 弥勒菩薩と同じようだというのである。

【5】 ^¬浄土論¼ に、 「経言 ª若人但聞彼国土 清浄安楽 剋念願生 亦得往生 即入正定聚º 此是国土 名字 為仏事 安可思議 (*経にのたまはく、 もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、 剋念して生ぜんと願ぜんものと、 また往生を得るものとは、 すなはち正定聚に入ると。 これはこれ国土の名字仏事をなす。 いづくんぞ思議すべきや)」 といわれている。

浄土論に…といわれている ここに引用されている文は、 天親てんじんさつの ¬浄土論¼ を、 真宗七高僧の第三祖曇鸞どんらんだい (476-542) が註釈された ¬おうじょうろんちゅう¼ のものである。

 ¬往生論註¼ は、 詳しくは ¬りょう寿じゅきょう優婆うば提舎だいしゃがんしょうちゅう¼ といい、 略して ¬じょうろんちゅう¼ ¬ろんちゅう¼ ともいう。 本書は ¬浄土論¼ の註釈書として代表的なものであるが、 その ¬浄土論¼ は二十四行九十六句のじゅ (詩句) すなわち願生偈と、 その意義を論述したじょうごう (散文) からなっている。 ¬往生論註¼ はこれを上下二巻に分けて、 上巻ではその願生偈の部分を註釈し、 下巻では長行の部分を註釈している。 ことに上巻では願生偈を釈するのに、 ¬浄土論¼ の長行にあらわされた礼拝らいはい讃嘆さんだんがん観察かんざつこうの五念門行を配当して釈し、 また下巻では長行を(一)がんたい、 (二)かんしょうしん、 (三)かんぎょう体相たいそう (観察かんざつ体相たいそう)、 (四)浄入じょうにゅう願心がんしん、 (五)ぜんぎょうせっ、 (六)しょうだいもん (だいしょう)、 (七)じゅんだいもん、 (八)みょう摂対せったい、 (九)がんじょうじゅ、 (十)ぎょう満足まんぞくという十科の章に分けて解釈されている。 そこには阿弥陀仏とその浄土の因果の徳用とくゆうを説き、 しゅじょう往生の因果もまた阿弥陀仏の本願力によることを説き明かしている。 浄土思想の発展に大きな影響を与えた書で、 しち聖教しょうぎょうの一である。

 親鸞聖人は、 天親菩薩の ¬浄土論¼ と曇鸞大師の ¬往生論註¼ とは切り離すことのできないものと考えられていたために、 ¬往生論註¼ の文を引用される場合、 しばしばこのように、 「¬浄土論¼ に…といわれている」 と示されることがある。

経にのたまはく… しょう文類もんるい訓。

若人但聞…即入正定聚 「経言」 以下のこの文は、 現存する ¬じゅりょう寿じゅきょう¼ およびその異訳の中には存在しない。 そのため、 ¬無量寿経¼ とその異訳にある分章を合せ、 またその意を取って造られたものとする解釈もある。 ただし ¬無量寿経¼ は五存七欠と言われるように、 現存する諸訳の他にも漢訳されていたことが知られており、 それらの現存していない漢訳の中に、 この文が存在していた可能性もある。

 ^この文の意味は、 「ひとえに阿弥陀仏の浄土が清く安らかであることを聞いて、 他力の信を得て往生しようと願うものも、 またすでに往生したものも、 ただちに正定聚の位に入るのである。 これは、 阿弥陀仏の国土の名を聞くなら、 その名が必ず人々を救う仏のはたらきをしているということである。 そのようなすぐれた功徳を思いはからうことなど、 どうしてできようか」 といわれているのである。

他力の信を得て…入るのである 原文は、 「剋念して生れんと願ふひとと、 またすでに往生を得たるひとも、 すなはち正定聚に入るなり」 であるが、 「剋念願生亦得往生即入正定聚」 は通常、 「剋念して生ぜんと願ずれば、 また往生を得て、 すなはち正定聚に入る」 と読み、 剋念願生する者が浄土に往生して正定聚に入ることを示すものである。 しかしながら、 他力の信を決定すると同時に、 浄土に往生して仏果に至る身となるのであるから、 衆生が正定聚の位につくのは現生における事態に他ならない。 そのようなことから、 親鸞聖人は、 「亦得往生」 の 「亦 (また)」 の字に着目され、 この文は、 正定聚について、 往生しようと願う者 (剋念願生) と、 すでに往生した者 (得往生) とがあることを示し、 現生において正定聚に住することを明されたものと見られているのである。

 ^安楽浄土の、 たたえ尽すことも、 説き尽すことも、 心で思いはかることもできない功徳を、 求めなくても、 知らなくても、 本願を信じる人に得させてくださると心得なさいということである。

【6】 ^また王日休は ¬*龍舒浄土文¼ に、 「*念仏衆生 便同弥勒 (念仏の衆生はすなはち弥勒に同じ)」 といっている。

念仏衆生便同弥勒 現存する ¬りゅうじょ増広ぞうこうじょうもん¼ には 「一念往生便同弥勒」 とある。

 ^「念仏衆生」 というのは、 決して壊れることのない他力の信心を得た人のことである。

 ^「便」 は 「すなわち」、 つまりただちにということであり、 また 「たより」、 つまり巧みな手だてということである。 他力回向の信心という巧みな手だてによって、 ただちに正定聚の位に定まらせてくださるから、 というのである。

定まらせてくださるから、 というのである 関連する部分を含めて原文を抜き出すと、 「便はすなはちといふ、 たよりといふ。 信心の方便によりて、 すなはち正定聚の位に住せしめたまふがゆゑにとなり」 であるが、 このなか、 「信心の方便によりて、 すなはち正定聚の位に住せしめたまふがゆゑに」 について、 これが 「念仏衆生便同弥勒」 という文中に 「便」 の文字が用いられている理由を示したものとして、 「如来の方便によって正定聚の位に定まらせてくださるから、 便の文字を用いているのである」 という意味に解釈する見方もある。

 本現代語訳においては、 「信心の方便によりて、 すなはち正定聚の位に住せしめたまふがゆゑに」 とは、 「便」 の文字が用いられた理由を示したものではなく、 「便」 の文字の意味を示した者と解釈した。 つまり、 「便」 の文字が、 以下の 「同弥勒」 の事態が成立する理由として、 「すなわち (ただちに)」 と 「たより (巧みな手だて、 如来の方便)」 という二つの内容を持っているということを示しておられると考え、 「巧みな手だてによって、 ただちに正定聚の位に定まらせてくださるから」 と訳しておいた。

 ^「同」 は 「おなじである」 ということである。 念仏の人は、 必ずこの上ないさとりに至るという点で、 弥勒菩薩と同じである人というのである。

【7】 ^また ¬観無量寿経¼ に、 「若念仏者 当知此人 是人中 分陀利華 (*もし念仏するひとは、 まさに知るべし、 この人はこれ人中の分陀利華なり)」 と説かれている。

もし念仏… しん文類もんるい訓。

 ^「若念仏者」 というのは、 「念仏する人は」 ということである。 ^「当知此人是人中分陀利華」 というのは、 「まさにこの人は、 人々の中に咲く白く清らかな蓮の花であると知るがよい」 ということである。 これは釈尊がそのお言葉の中で、 念仏の人を白く清らかな蓮の花にたとえておられるのである。

 ^この花は、 人々の中の、 すぐれた花であり、 すばらしい花であり、 美しい花であり、 たぐいまれな花であり、 すべての花の中でもっともすぐれた花であると、 善導大師が讃えておられる。 そして ¬観経疏¼ には、 念仏する人を、 すぐれた人、 すばらしい人、 美しい人、 たぐいまれた人、 もっともすぐれた人と讃えておられるのである。

【8】 ^また善導大師は ¬観念法門¼ の中で、 現生護念の利益をお教えになって、 「但有専念 阿弥陀仏衆生 彼仏心光 常照是人 摂護不捨 総不論照摂 余雑業行者 此亦是 現生護念 増上縁 (*ただ阿弥陀仏を専念する衆生のみありて、 かの仏心の光、 つねにこの人を照らして摂護して捨てたまはず。 すべて余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜず。 これまたこれ現生護念増上縁なり)」 といわれている。

ただ阿弥陀仏… 信文類訓。

 ^この文の意味について、 「但有専念阿弥陀仏衆生」 というのは、 ひとすじに阿弥陀仏を信じたてまつるというお言葉である。

 ^「彼仏心光」 というのは、 「彼」 は 「かれ」 ということであり、 「仏心光」 というのは、 無礙光仏のお心ということである。

 ^「常照是人」 というのは、 「常」 は 「つねに」 ということであるが、 絶え間なくということである。 「照」 は 「てらす」 ということである。 どのような時も嫌ったりすることもなく、 どのような所も避けたりせず、 絶え間なく真実信心の人を、 つねに照らしてお護りくださるのである。 阿弥陀仏はそのお心のうちに摂め取って、 つねに絶え間なくお護りくださるので、 阿弥陀仏のことを*不断光仏と申しあげるのである。 ^「是人」 というのは、 「是」 は非に対する言葉である。 真実の信心を得ている人を是人という。 うわべを飾っていつわり、 本願を疑っているものを非人という。 非人というのは、 人ではないと嫌い、 悪いものというのである。 是人とは、 よい人ということである。

不断光仏 阿弥陀仏の徳号の一。 常にしゅじょうを照らしてやくを与える仏のさとりの徳をあらわした仏名。

 ^「摂護不捨」 というのは、 「摂」 は摂め取るということである。 ^「護」 は、 所によって避けることなく、 時によって区別することなく、 人によって嫌うことなく、 信心を得ている人を絶え間なくお護りくださるということである。 護るというのは、 他の教えや他の見解にしたがう人たちによって信心を破られることがなく、 自力の心で念仏する人たちによって信心をさまたげられることがなく、 魔王にも襲われることがなく、 邪悪な鬼や神もその人を悩ますことがないということである。 ^「不捨」 というのは、 信心の人を、 *智慧光仏のお心のうちに摂めてお護りくださり、 その光明のうちに摂め取って、 どのような時でも決してお捨てにならないことを知らせようというお言葉である。

他の教えや…さまたげられることがなく 原文は、 「異学・異見のともがらにやぶられず、 別解・別行のものにさへられず」 であるが、 このなか、 「異学・異見」 と 「別解・別行」 については、 「コトコトヲナラヒマナフヒトナリ」 「ネムフチヲシナカラシリキノコヽロナルモノナリ」 と、 それぞれに左訓が施されている。

 また、 後には、 「一念多念のあらそひをなすひとをば、 異学・別解のひとと申すなり。 異学といふは、 聖道・外道におもむきて、 余行を修し、 余仏を念ず、 吉日良辰をえらび、 占相祭祀をこのむものなり、 これは外道なり、 これらはひとへに自力をたのむものなり。 別解は、 念仏をしながら他力をたのまぬなり。 別といふは、 ひとつなることを、 ふたつにわかちなすことばなり、 解はさとるといふ、 とくといふことばなり、 念仏をしながら自力にさとりなすなり。 かるがゆゑに別解といふなり」 と詳細に語釈を施し、 このなか 「異学・別解」 については、 重ねて 「コトコトヲナラヒマナフナリ シリキノヒトナリ」 と左訓を施しておられる。」

 もとより、 「異学・異見・別解・別行」 の語は、 善導ぜんどうだいの ¬かんぎょうしょ¼ 「散善さんぜん」 に示されており、 法然ほうねんしょうにんはこれを一括して、 「一切の別解・別行・異学・異見等といふは、 これ聖道門の解・行・学・見を指す」 と述べられて、 浄土門の解行に異なる聖道門の解行を学ぶものとされた。 しかし、 親鸞聖人の 「吉日良辰をえらび、 占相祭祀をこのむものなり、 これは外道なり」 という語釈からすれば、 「異学・異見」 の意味を、 聖道門だけではなく、 仏教以外の教えにまで広げて考えておられることがわかる。 「異学・異見」 の語に施された 「ことごと」 もまた、 聖道門の教えだけを指しているのではなく、 仏教以外の教えを含むものであろう。 そのようなことから、 本現代語訳においては、 特に 「異学・異見」 の語については広い意味で解釈し、 「他の教えや他の見解にしたがう人たち」 と訳した。

智慧光仏 阿弥陀仏の徳号の一。 衆生のまどいを除き智慧を与える仏のさとりの徳をあらわした仏名。

 ^「総不論照摂余雑業行者」 というのは、 「総」 はすべてみなということである。 「不論」 とは、 いわないという意味である。 「照摂」 とは、 照らし摂め取るということである。 「余の雑業」 というのは、 自力で修めるさまざまな善い行いのことである。 つまり、 念仏以外のさまざまな行を修め、 また自力の心で念仏している人についてはすべてみな、 照らし摂め取るといわないということであり、 護らないといわれているのである。 このことはすなわち、 本願を信じる行者ではないから、 阿弥陀仏がその光明のうちに摂め取ってくださるという利益にあずかることがないと心得なさいということであって、 この世においてお護りくださらないということである。

 ^「此亦是現生護念」 というのは、 この世においてお護りくださるというのである。 本願のはたらきは、 信心の人を浄土に往生させてさとりを開かせる強い縁であるから、 「*増上縁」 というのである。

増上縁 左訓には 「すぐれたる強縁となり」 と示されている。 縁となって果を引かせる強いはたらき。

 ^信心を得たことをよろこぶ人を、 ¬*華厳経¼ には 「諸仏と等しい人」 とお説きになっている。

【9】 ^源信和尚は ¬往生要集¼ に、 「我亦在彼 摂取之中 煩悩障眼 雖不能見 大悲無惓 常照我身 (*われまたかの摂取のなかにあれども、 煩悩、 眼を障へて、 見たてまつるにあたはずといへども、 大悲、 ものうきことなくして、 つねにわが身を照らしたまふ)」 といわれている。

われまた… 信文類訓。

 ^この文の意味は、 「わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、 *煩悩がわたしの眼をさえぎって、 見たてまつることができない。 しかしながら、 阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、 そのようなわたしを見捨てることなく、 つねにこの身を照らしていてくださる」 といわれているのである。

【10】(註:この段は ¬一念多念分別事¼ に引かれている ¬大経¼ の文、 「其有得聞彼仏名号歓喜踊躍乃至一念当知此人為得大利則是具足無上功徳」 (*それ、 かの仏の名号を聞くことを得て、 歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。 まさに知るべし、 この人は大利を得とす。 すなはちこれ無上の功徳を具足するなり) を解説したもの。)

それかの… 行文類訓。

 ^「其有得聞彼仏名号」 というのは、 本願の名号を信じるがよいと、 釈尊がお説きになったお言葉である。

 ^「歓喜踊躍乃至一念」 というのは、 「*歓喜」 とは、 得なければならない往生を必ず得ることができると、 往生に先立ち前もってよろこぶという意味である。 ^「踊」 は天に跳び上がるようにおどることをいう。 「躍」 は地にはねるようにおどることをいう。 よろこびの心がきわまりないすがたである。 これはまた、 慶び楽しむありさまを表してる。 「慶」 は得なければならない信心をすでに得てよろこぶという意味であり、 「楽」 は楽しむという意味である。 これは正定聚の位を得たすがたを表しているのである。 ^「乃至」 とは、 念仏の数が定まっていないことを表す。 ^「一念」 とは、 功徳がきわまっていること、 すなわち一声の念仏にすべての功徳がことごとくみなそなわっており、 あらゆる善がみな収まっているということである。

歓喜 左訓には 「みをよろこばしむ、 こころをよろこばしむとなり」 と示されている。

前もってよろこぶという意味である 原文は、 「かねてよろこぶこころなり」 であるが、 このなか、 「こころ」 について、 いわゆる 「心」 と解釈する見方もある。 本現代語訳においては、 親鸞聖人が語の意味をあらわす場合に、 「~するこころなり」 と示されるものの一つとして、 「こころ」 を 「意味」 の意で解釈した。 以下の 「すでに得てよろこぶという意味」 (原文は 「えてのちによろこぶこころ)、 「楽しむという意味」 (原文は 「たのしむこころ」) についても同様に解釈しておいた。

一声の念仏 原文は 「一念」 であるが、 この 「一念」 を、 本現代語訳のように 「一声の念仏」 すなわち行の一念として解釈する見方と、 「信心を得たそのとき」 すなわち信の一念として解釈する見方とがある。

 行の一念とする解釈は、 その直前に親鸞聖人が 「ない」 を解釈されて 「念仏の数が定まっていないこと」 と示されていることによるが、 その場合は最初の一声だけではなく、 一声一声の念仏に無上の功徳がみなそなわっていることをあらわしている。 一方、 信の一念とする解釈は、 後に 「一念信心をうるひとの」 とあることによるが、 その場合は、 信心を得たそのときに、 すべての功徳を如来より与えていただくことをあらわしている。

 ^「当知此人」 というのは、 信心の人を表しているお言葉である。

 ^*為得大利」 というのは、 この上ないさとりを開くのであるから、 そのことを 「則是具足無上功徳」 とも説かれているのである。 「則」 というのは、 「すなわち」 ということであり、 また、 「のり」 という言葉である。 ^如来の本願を信じてひとたび念仏すれば、 求めなくても必ずこの上ない功徳を得させてくださり、 知らなくても限りなく大きな利益を得させてくださるのである。 つまり、 *自然にさまざまなさとりをただちに開く法則だということである。 法則というのは、 行者のはからいによってはじめてそうなるのではなく、 思いはかることのできないすぐれた利益にあずかることは、 もとより本願のはたらきによっておのずからそうなることを教えてくださっているのである。 そのことを*法則というのである。 他力の信心を得た人が、 おのずからこの上ない功徳を得るということが、 「則」 という文字で表されている。 そのことを法則というのである。

為得大利 左訓には 「ほとけになるべき利益をうるなりとしるべしとなり」 と示されている。
法則 左訓には 「ことのさだまりたるありさまといふこころなり」 と示されている。

【11】^¬無量寿経¼ に、 「無諸邪聚及不定聚」 と説かれているのは、 「無」 は 「ない」 ということである。 「諸」 はあらゆることという意味の言葉である。 「*邪聚」 というのは、 他力念仏以外の行を修め、 さまざまな善や多くの行によって往生しようとする自力の人のことであり、 そのような人は真実の浄土にはいないからであるというのである。 「及」 は 「および」 ということである。 ^「不定聚」 というのは、 自力の念仏、 すなわち本願を疑ったまま念仏する人のことであり、 そのような人は真実の浄土にはいないというのである。 他力の信心を得た正定聚の人だけが真実の浄土に生れるからである。

邪聚 じゃじょうじゅのこと。

 ^これらの文は、 一念ということが間違いでないことを証している文である。 十分にいい表すことはできていないけれども、 これらの文によってお考えいただきたい。

【12】^他念ということを間違いと思ってはならないこと。

 ^¬無量寿経¼ の*本願の文に、 「乃至十念」 とお誓いになっている。 すでに十念とお誓いになっていることから、 一念に限定するのではないと知ることができる。 まして乃至とお誓いになっているのである。 だから、 *称名の数は定まっていないと知ることができる。 この誓願は、 誰もが浄土に往生することのできる他力*易行の道をあらわし、 如来の大いなる慈悲のお心がきわまりないことをお示しになっているのである。

易行の道 阿弥陀仏の本願力によって浄土に往生してさとりを開く他力の道。 易行はなんぎょうに対する語。
本願の文 「たとひわれ仏を得たらんに、 十方の衆生、 心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、 乃至十念せん。 もし生れざれば正覚を取らじと。 ただ五逆と誹謗正法を除く」 (しん文類もんるい訓)

【13】^¬阿弥陀経¼ に、 「*たとえば一日あるいは七日の間、 名号を称えるがよい」 とあるのは、 釈尊が説き示しておかれた教えである。

たとえば一日… ¬一念多念分別事¼ に 「¬阿弥陀経¼ の ª一日乃至七日º の称名」 とある文を解説したもの。 ¬阿弥陀経¼ には 「名号を執持すること、 もしは一日、 もしは二日、 もしは三日、 もしは四日、 もしは五日、 もしは六日、 もしは七日」 とある。

 ^この経は無問自説の経という。 この経をお説きになるにあたっては、 釈尊に問いをおこした人もなく、 自らお説きになったのである。 ^これは、 釈尊がこの世に出られた本意を明らかにしようとお思いになったからであり、 そのようなわけで無問自説というのである。

 ^この経に説かれているのは、 阿弥陀仏が往生浄土の行としてその本願に選び取られた他力の念仏であり、 この念仏による救いの教えをすべての世界の仏がたが真実であると証明され、 その仏がたもまた阿弥陀仏の本願を説くことを世に出る本意とされ、 念仏するものを数限りない仏がたがお護りくださるということである。 これは、 *諸仏咨嗟の誓願を明らかに示そうとされているのである。

諸仏咨嗟の誓願・諸仏称名の誓願 第十七願の願名。 「ぎょうもんるい」 には第十七願の願名として、 諸仏称揚の願・諸仏称名の願・諸仏咨嗟の願・往相回向の願・選択称名の願の五つが示されている。

【14】^その*諸仏称名の誓願は、 ¬無量寿経¼ に説かれている。 すなわち、 「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚 (*たとひわれ仏を得たらんに、 十方世界の無量の諸仏、 ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、 正覚を取らじ)」 と、 願をたてておられるのである。

たとひわれ… 行文類訓。

 ^この大悲の願に誓われている意味は、 「わたしが仏になるとき、 すべての世界の数限りない仏がたが、 みなほめたたえて、 わたしの名を称えないようなら、 わたしは決してさとりを開かない」 ということである。

みなほめたたえて…称えないようなら 関連する部分を含めて原文を抜き出すと、 「たとひわれ仏を得たらんに、 十方世界無量の諸仏、 ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、 仏に成らじ」 であり、 ¬無量寿経¼ の第十七願文について、 親鸞聖人がその意味を示されたものである。 このなか、 「わが名を称せずは」 について、 諸仏が阿弥陀仏のみょうごうの徳を広く讃えておられること、 すなわち阿弥陀仏の教えを広く説き示すこととする解釈と、 諸仏が阿弥陀仏の名号を称えることとする解釈とがある。 「行文類」 に示された第十七の願名に、 「諸仏称揚の願」 とあることからすれば、 「わが名を称せずは」 とは、 「わが名を称揚せずは」 すなわち 「わたしの名をひろくほめ讃えないようなら」 という意味と考えられる。 また一方では、 聖人が 「咨嗟してわが名を称せずは」 と書き下し、 後に 「咨嗟と申すは、 よろずの仏にほめられたてまつると申す御ことなり」 と、 「咨嗟」 の語について 「ほめたたえる」 という釈を施されていることからすれば、 聖人は、 「咨嗟」 の語と 「称」 の語を分けて考えておられるとも解釈される。 これに関連するものとして、 ¬唯信鈔文意¼ には、 「第十七の願に、 十方無量の諸仏にわがなをほめられん、 となへられんと誓ひたまへる」 とあり、 これらのことからすれば、 「わが名を称せずは」 とは、 「わたしの名を称えないようなら」 の意味とも考えられる。 本現代語訳においては、 後者にしたがって訳しておいた。

 ^「咨嗟」 というのは、 すべての仏にほめたたえられるという意味のお言葉である。

【15】(註:この段は ¬一念多念分別事¼ に引かれている ¬散善義¼ の文、 「一心専念弥陀名号行住坐臥不問時節久近念念不捨者是名正定之業順彼仏願故」 (*一心に弥陀の名号を専念して、 行住座臥、 時節の久近を問はず、 念々に捨てざるをば、 これを正定の業と名づく、 かの仏願に順ずるがゆゑに) を解説したもの。)

一心に… 信文類訓。

 ^「一心専念」 というのは、 「一心」 とは、 決して壊れることのない他力の信心のことであり、 ^「専念」 とは、 一向に専修することである。 一向とは、 念仏以外の善に心を移さないことであり、 阿弥陀仏以外の仏を念じないことである。 専修とは、 本願の名号を、 二心なくただひとすじに称えることである。 「修」 は心が定まっていない状態をととのえ直して、 念仏するということである。 「専」 は 「もっぱら」 ということであり、 一つということである。 「もっぱら」 というのは、 念仏以外の善を修めたり、 阿弥陀仏以外の仏に心を移したりすることがないのをいうのである。

 ^「行住座臥不問時節久近」 というのは、 「行」 は歩くことであり、 「住」 は立っていることであり、 「座」 は座っていることであり、 「臥」 は臥していることである。 「不問」 とは、 問題にしないということである。 「時」 は*一昼夜を十二時に分けた場合の時を示しており、 「節」 は一年を十二月や四季に分けた場合の時を示す。 「久」 は 「ひさしい」 ということであり、 「近」 は 「ちかい」 ということである。 時を選ばないのであるから、 念仏は、 不浄とされる時を避けることもなく、 すべてのことに対して選び捨てることがない。 だから問題にしないというのである。

一昼夜を… 昼を卯・辰・巳・午・未・申の六時、 夜を酉・戌・亥・子・丑・寅の六時として、 一昼夜を十二に分割する。

 ^「是名正定之業順彼仏願故」 というのは、 阿弥陀仏の広大な本願を信じることを、 それが真実の浄土に往生する因と定まっていることをもって、 *正定の業と名づけるというのであり、 なぜならそれは仏の願にしたがうものであるから、 という文である。

阿弥陀仏の広大な本願を…正定の業と名づける 関連する部分を含めて原文を抜き出すと、 「是名正定之業順彼仏願故といふは、 弘誓を信ずるを報土の業因と定まるを正定の業となづくといふ、 仏の願にしたがふがゆゑにと申す文なり」 であるが、 このなか、 「正定の業となづく」 について、 正定の業と名づけるのは 「弘誓を信ずる」 ことなのか 「報土の業因と定まる」 ことなのかで解釈の仕方が分かれている。

 「是名正定之業順彼仏願故」 という ¬観経疏¼ 「散善義」 の文は、 称名しょうみょう念仏が正定業である理由を仏願によって示されたものであり、 善導大師の教学の根幹をなす文である。 また、 この言葉が法然上人のしんに大きく影響したことはよく知られている。 すなわち、 念仏はしゅじょうが選んだ行ではなく、 仏が願の中で選び取られていた行であることを、 この善導大師の 「散善義」 の文において知られたのである。 このことを法然上人は、 その主著 ¬選択本願念仏集¼ のなかで、 「名を称すれば、 かならず生ずることを得。 仏の本願によるがゆゑなり」 と述べられている。 法然上人が念仏往生の法義を示された理由は、 それが 「仏の本願による」 からに他ならない。 言いかえれば、 称名念仏が正定業であるのは、 「仏の本願による」 ということをその内容としているのである。

 ここで親鸞聖人が、 称名念仏が正定業であることを示した 「散善義」 の文を、 「弘誓を信ずるを報土の業因と定まるを正定の業となづくといふ、 仏の願にしたがふがゆゑにと申す文」 といわれたのは、 法然上人によって示された称名正業の内実が、 本願の信に他ならないことを明らかにされた釈ということができる。 親鸞聖人はその御消息のなかで、 「信心の定まるとき往生また定まるなり」 と示されているが、 「弘誓を信ずるを報土の業因と定まるを」 とある箇所は、 称名念仏が正定の業であることも、 その内実からいえば、 本願の信が正定業すなわち報土の業因であることを明らかにされたものである。

 本現代語訳においては、 以上のようなことから、 「正定の業となづく」 の直接の目的語は 「弘願を信ずる」 ことと考え、 本願の信がまさに報土の業因と定まっていることを正定業の内容としていることを示した文として訳した。

正定の業 正しくしゅじょうの往生がけつじょうする業因ごういんということ。

【16】^一念多念の争いをする人を、 異学・別解の人というのである。

 ^異学というのは、 聖道門の教えや仏教以外の教えにしたがって、 念仏以外の行を修め、 阿弥陀仏以外の仏を念じるのであり、 また日の善し悪しを選び、 占いや神々を祭ることを好んで行うものであって、 これは仏教以外の教えである。 これらの人々はただ自力だけをたのみとするものである。

 ^別解とは、 念仏をしながら他力をたのみとしないことである。 ^「別」 というのは、 もともと一つであることを二つに分けるという言葉である。 ^「解」 は 「さとる」 という言葉であり、 「とく」 という言葉である。 如来より与えられた念仏をしていながら、 それを自力の行として理解しているのである。 だから、 別解というのである。 ^また、 他力の念仏以外の行を好んで修めるものは、 自力をたのみとして行にはげむ人に他ならない。 自力というのは、 わが身をたのみとし、 わが心をたのみとすることであり、 自分の力を頼って行にはげみ、 時分がつくるさまざまな善を頼りにする人のことである。

【17】^*「上尽一形」 というのは、 「上」 は 「かみ」 ということであり、 「すすむ」 ということであり、 「のぼる」 ということであって、 命が終るまでということである。 ^「尽」 は 「つきるまで」 ということである。 ^「形」 は 「かたち」 ということであり、 「あらわす」 ということであって、 念仏することが命の終るまで続くというのである。

上尽一形… 以下は ¬一念多念分別事¼ に引かれている ¬法事讃¼ の文、 「上尽一形至十念三念五念仏来迎直為弥陀弘誓重致使凡夫念即生」 を解説したもの。 「上一形を尽し、 十念・三念・五念に至るまで、 仏来迎したまふ。 ただちに弥陀の弘誓重なれるをもって、 凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」 (しん文類訓)。 なお、 ¬一念多念分別事¼ には 「上尽一形至十念三念…」 とある。

 ^「十念・三念・五念のものも仏が浄土にお迎えになる」 と示されているのは、 浄土に往生するのが念仏の数によるのではないことを表している。

 ^「直為弥陀弘誓重」 というのは、 「直」 は正しいということであって、 如来の直説、 すなわち真実にかなった如来の説法ということである。 諸仏が世にお出ましになった本意である教えを直説というのである。 ^「為」 は 「なす」 ということであり、 「もちいる」 ということであり、 「さだまる」 ということであり、 「かれ」 ということであり、 「これ」 ということであり、 「あう」 ということである。 「あう」 というのは 「相」 のことであって、 「かたち」 という意味である。 ^「重」 は 「かさなる」 ということであり、 「おもい」 ということであり、 「あつい」 ということである。 本願に誓われた名号を用いて*凡夫の浄土往生をお定めになったことは、 諸仏が重ね重ね説き示されていると知らなければならない。 そのことを教えようとしているものである。

為はなすということであり…意味である 原文は、 「はなすといふ、 もちゐるといふ、 さだまるといふ、 かれといふ、 これといふ、 あふといふ、 あふといふはかたちといふこころなり」 であり、 ここには、 「為」 の字訓として、 「なす」 「もちゐる」 「さだまる」 「かれ」 「これ」 「あふ」 の六つが示されている。 「為」 については、 これと同様の字訓が ¬教行信証¼ 「信文類」 にもあり、 そこには、 「為の字、 定なり、 用なり、 彼なり、 作なり、 是なり、 相なり」 とあって、 やはり六つが示されている。 これらを対応させてみると、 ¬一念多念証文¼ の字訓と ¬教行信証¼ の字訓とは共通しており、 そのなか、 「あふ」 という字訓は、 「相」 に当たることが知られる。 原文の 「かたち」 を七つ目の字訓として見る解釈もあるが、 「あふといふはかたちといふこころなり」 とあるのは、 「あふ」 が 「相」 に当たることを明示したものと考える方が妥当であろう。 本現代語訳においては、 そのことを示して、 「あうというのは相のことであって、 かたちという意味である」 と訳しておいた。

本願に誓われた…重ね重ね説き示されている 関連する部分を含めて原文を抜き出すと、

「直為弥陀弘誓重」 といふは、 「直」 はただしきなり、 如来の直説といふなり。 諸仏の世に出でたまふ本意と申すを直説といふなり。 「為」 はなすといふ、 もちゐるといふ、 さだまるといふ、 かれといふ、 これといふ、 あふといふ、 あふといふはかたちといふこころなり。 「重」 はかさなるといふ、 おもしといふ、 あつしといふ。 誓願の名号、 これをもちゐさだめなしたまふことかさなれりとおもふべきことをしらせんとなり。

であるが、 このなか、 「誓願の名号、 これをもちゐさだめなしたまふことかさなれり」 について解釈が分かれている。 一つには、 直前に引かれている 「直為弥陀弘誓重」 当面の意味としては、 「重」 の主語が 「弥陀弘誓」 であることから、 「かさなれり」 の主語を 「阿弥陀仏」 または 「弘誓」 と解釈する見方である。 二つには、 「直」 について、 「如来の直説」 「諸仏の世に出でたまふ本意」 と示されていることから、 「直為」 は 「諸仏の本意として用い定めたもう」 の意と考えられるため、 「もちゐさだめなしたまふことかさなれり」 とは、 「諸仏が弘誓の名号を衆生往生の行として用い定めたもうことが重なっている」 と解釈する見方である。 本現代語訳においては、 後者にしたがって訳しておいた。

【18】^このようなわけで ¬無量寿経¼ には、 「*如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利 (如来、 世に興出したまふゆゑは群萌を拯ひ、 恵むに真実の利をもってせんと欲してなり)」 と説かれているのである。

如来所以… ¬だいきょう¼ には 「如来無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。 世に出興するゆゑは、 道教を光闡して、 群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり」 (きょう文類もんるい訓) とある。

 ^この文の意味は、 「如来」 というのは、 諸仏のことをいうのである。 「所以」 とは、 「ゆえ」 という言葉である。 ^「興出於世」 というのは、 仏が世にお出ましになるということである。 ^「欲」 はお思いになるということである。 「拯」 は 「すくう」 ということである。 ^「群萌」 とは、 すべての衆生ということである。 「恵」 は 「めぐむ」 ということである。 ^「真実之利」 というのは、 阿弥陀仏の誓願をいうのである。

 ^そうすると、 諸仏が次々に世にお出ましになるわけは、 阿弥陀仏の本願のはたらきを説いて、 すべての衆生に恵み与えて救おうとお思いになるからであり、 それを世にお出ましになる本意としようとされているから、 阿弥陀仏の誓願を 「真実之利」 というのである。 それで、 阿弥陀仏の本願のことを、 諸仏が世にお出ましになった本意である教え、 すなわち直説というのである。

 ^総じて八万四千といわれる釈尊の教えは、 みな浄土の教えに導く*方便としての善なのである。 これを*要門といい、 これを*仮門と名づけるのである。 ^この要門・仮門というのは、 すなわち ¬観無量寿経¼ にお説きになっている定善・散善の教えである。 定善とは、 心を一つに定めて修める*十三の観察の行であり、 散善とは、 散漫な心のまま修める*三福の行であり、 *九品のものの修めるさまざまな善である。 これらはみな浄土の教えに導く方便としての要門であり、 これを仮門というのである。 ^この要門・仮門により、 さまざまな衆生を導き育んで、 阿弥陀仏の本願すなわち*一乗円融無礙の真実功徳の大宝海に導き入れてくださるのであるから、 すべての自力の善は、 これを方便の教えというのである。

仮門 左訓には 「かりなり、 まことならず」 と示されている。
十三の観察の行 阿弥陀仏とその浄土を観想する十三の観法かんぽうのこと。

 ^ここで 「一乗」 というのは、 阿弥陀仏の本願のことである。 「円融」 というのは、 すべての功徳や善が満ちみちて、 欠けているものがなく、 そのはたらきが自在であるという意味である。 「無礙」 というのは、 衆生の煩悩や悪い行いに少しもさまたげられず、 そこなわれないことをいうのである。 「真実功徳」 というのは、 名号のことである。 この名号には、 一実真如のすぐれたことわりが欠けることなくそなわっているから、 *世親菩薩は大宝海にたとえておられるのである。 ^一実真如というのはこの上なくすぐれた大いなる*涅槃のことである。 涅槃とはすなわち*法性である。 法性とはすなわち如来である。 宝海というのは、 どのような衆生も除き捨てることなく、 何ものにもさまたげられることなく、 何ものも分け隔てることなく、 すべてのものを導いてくださることを、 大海がどの川の水も分け隔てなく受け入れることにたとえておられるのである。

 ^この一実真如の大宝海からすがたをあらわし、 法蔵菩薩と名乗られて、 何ものにもさまたげられることなく衆生を救う尊い誓願をおこされた。 その誓願を因として阿弥陀仏となられたのであるから、 阿弥陀仏のことを*報身如来というのである。 この如来を、 世親菩薩は*尽十方無礙光仏とお名づけ申しあげられたのである。 この如来を南無不可思議光仏ともいう。 ^そして、 この如来を*方便法身というのである。 方便というのは、 すがたをあらわし、 み名を示して、 衆生にお知らせくださることをいうのである。 すなわちそれが阿弥陀仏なのである。 この如来は光明である。 光明は智慧である。 如来の智慧は光というすがたをとるのである。 智慧はまた、 すがたにとらわれないから、 この如来を不可思議光仏というのである。 この如来は、 すべての数限りない世界に満ちみちておられるから、 *無辺光仏という。 このようなことから、 世親菩薩は尽十方無礙光如来とお名づけ申しあげられたのである。

如来の智慧は光というすがたをとるのである 原文は、 「智慧はひかりのかたちなり」 であるが、 智慧がかたちであるのか、 光明がかたちであるのかで解釈が分かれている。 本現代語訳においては、 ¬唯信鈔文意¼ に、 「無礙光仏の御かたちは、 智慧のひかりにてまします」 とあり、 「しかれば阿弥陀仏は光明なり、 光明は智慧のかたちなりとしるべし」 とあって、 また ¬尊号真像銘文¼ に、 「光如来と申すは阿弥陀仏なり、 この如来はすなはち不可思議光仏と申す。 この如来は智慧のかたちなり」 とあることから、 ¬一念多念証文¼ のこの箇所もまた、 光明がかたちである意味を示したものと考えて、 「如来の智慧は光というすがたをとるのである」 と訳しておいた。

無辺光仏 阿弥陀仏の徳号の一。 十方世界を際限なく照らす仏のさとりの徳をあらわした名。

【19】^¬浄土論¼ には、 「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海 (*仏の本願力を観ずるに、 遇うて空しく過ぐるものなし。 よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ)」 といわれている。

仏の本願力を… ぎょう文類もんるい訓。

 ^この文の意味は、 「阿弥陀仏の本願のはたらきを観ずると、 この本願に出あって、 むなしく時をすごす人はない。 速やかに大いなる功徳の宝の海を満足させてくださる」 といわれているのである。

 ^「観」 は本願のはたらきを心に思い浮べて見るということであり、 また知るという意味である。 「遇」 は 「出あう」 ということである。 「出あう」 というのは、 本願のはたらきを信じることである。 「無」 は 「ない」 ということである。 「空」 は 「むなしく」 ということである。 「過」 は 「すぎる」 ということである。 「者」 は 「人」 ということである。 「むなしく時をすごす人はない」 というのは、 信心を得た人は、 いたずらに迷いの世界を生れ変り死に変りすることはないということである。

 ^「能」 は 「よく」 ということである。 「令」 は 「させる」 ということであり、 「よい」 ということである。 「速」 は 「すみやかに」 ということであり、 はやいという意味である。 「満」 は 「みちる」 ということである。 「足」 は 「たりる」 ということである。 「功徳」 というのは、 名号のことである。 「大宝海」 とは、 あらゆる功徳が欠けることなく満ちていることを、 海にたとえておられるのである。 ^そしてこの功徳を、 本願のはたらきを信じる人の心のうちに、 速やかにはやく、 欠けることなく満ちわたらせることを知らせようというのである。 そのようなわけで金剛の信心を得た人は、 知らなくても、 求めなくても、 すぐれた功徳の宝がその身に満ちみちるので、 そのことを大宝海とたとえておられるのである。

【20】^¬法事讃¼ に、 「致使凡夫念即生 (*凡夫念ずれば、 すなはち生ぜしむることを致す)」 といわれているのは、 ^「致」 は 「むねとする」 ということである。 「むねとする」 というのは、 これを根本とするという言葉である。 また、 「いたる」 ということである。 「いたる」 というのは、 真実の浄土に至るというのである。 「使」 は 「させる」 ということである。 ^「凡夫」 とは、 すなわちわたしどものことである。 わたしども凡夫は本願のはたらきを信じることを根本としなさいというのである。 ^「念」 とは、 如来のご本願を疑いなく信じることを言うのである。 ^「即」 は 「すなわち」 ということである。 時を経ることなく、 日を置くこともなく、 正定聚の位に定まることを 「即生」 というのである。 「生」 は 「うまれる」 ということである。 これを 「念即生」 というのである。

凡夫念ずれば… しん文類訓。

提婆達多が…願わせたのである 原文は、 「むねとすべし」 であるが、 この箇所以外に、 原文で 「むねとせしむべし」 と述べられているところが一箇所、 「むねとすべし」 と述べられているところが一箇所あって、 「むねとす」 に助動詞 「べし」 を付した形で示されているところは、 全部で三箇所ある。 最初の 「むねとすべし」 については、 「(しゅじょうが) 根本とするべきである」 という解釈でほぼ一致しているが、 次の 「むねとせしむべし」 ならびに最後の 「むねとすべし」 については、 「(仏が) その本意とされている」 の意とする解釈もある。 本現代語訳においては、 この二箇所についても、 助動詞 「べし」 を付した形で示されていることから、 最初の箇所と同様に、 「(衆生が) 根本とすべきである」 という意味で訳した。

 ^また、 「即」 は 「つく」 ということである。 「つく」 というのは、 その位に必ずのぼることになる身分だということである。 世間でも、 国王の位にのぼることを即位という。 位というのは、 「くらい」 ということである。 このようなことから、 皇太子の位にある人は必ず王の位につくように、 正定聚の位につくことは、 皇太子の位となるようなものなのである。 王の位にのぼることを即位というが、 ここではすなわちこの上ないさとりに至ることをいっているのである。 信心を得た人は正定聚の位に至り、 浄土に生れて必ずさとりに至るとお誓いになっているのである。 このことを 「致」 すなわち 「むねとする」 というのである。 「むねとする」 というのは、 涅槃のさとりを開くことを根本とするというのである。

 ^「凡夫」 というのは、 わたしどもの身には*無明煩悩が満ちみちており、 欲望も多く、 怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起り、 まさに命が終ろうとするそのときまで、 止まることもなく、 消えることもなく、 絶えることもないと、 水火二河の譬えに示されている通りである。 このような嘆かわしいわたしどもも、 二河にはさまれた一すじの白道すなわち本願のはたらきの中を一歩二歩と少しずつ歩いていくなら、 無礙光仏と示された光明のお心に摂め取ってくださるから、 必ず浄土に往生することができる。 そうすれば、 浄土のさとりの花に生れ、 阿弥陀如来と同じく、 この上ないさとりを開かせていただくのである。 このことを根本としなさいというのである。 これを、 「致使凡夫念即生」 といわれているのである。 ^水火二河の譬えの中に、 「一歩二歩と行く」 とあるのは、 一年二年と過ぎていくことをたとえているのである。

 ^諸仏が世に出られ、 釈尊がさとりを開かれて教えを説かれた本意は、 凡夫は弥陀の本願を疑いなく信じて、 正定聚の位に至り、 浄土に往生することを根本としなさいということなのである。

【21】^¬往生礼讃¼ に、 「*今信知 弥陀本弘誓願 及称名号」 といわれているのは、 如来の誓願を信知するという意味である。

今信知…及称名号 以下は ¬一念多念分別事¼ に引かれている ¬往生礼讃¼ の文、 「今信知弥陀本弘誓願及称名号下至十声一声等定得往生乃至一念無有疑心」 を解説したもの。 「いま弥陀の本弘誓願は、 名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、 さだめて往生を得と信知して、 すなはち一念に至るまで疑心あることなし」

 ^「信」 というのは、 他力の金剛心のことである。 ^「知」 というのは、 「しる」 ということである。 如来の本願は煩悩に満ちて悪い行いしかできない衆生を浄土に導いてくださると知るのである。 また、 「知」 というのは、 「観」 ということでもある。 心に浮べて思うことを 「観」 といい、 心に浮べて知ることを 「知」 というのである。

 ^「及称名号」 というのは、 「及」 は 「およぶ」 ということである。 「およぶ」 というのは、 兼ねているという意味である。 ^「称」 は阿弥陀仏のみ名を称えるということである。 また 「称」 の字には、 「はかり」 という意味もある。 「はかり」 というのは、 ものごとの程度をそのままに定めることである。 名号を称えることがわずか十声や一声のものや、 ただ名号を聞いて信じるものであっても、 少しも本願を疑う心がないので、 真実の浄土へ生れるという意味である。

称の字には…そのままに定めることである 原文は、 「また称ははかりといふこころなり、 はかりといふはもののほどを定むることなり」 であるが、 この 「称」 の字については、 ¬教行信証¼ 「行文類」 にも、 ¬往生論註¼ の文を引用する中に、 次のような自釈が施されている。

いかんが讃嘆する、 いはく、 かの如来の名を称 (称の字、 軽重を知るなり。 ¬説文¼ にいはく、 せんなり、 なり、 とうなり、 俗にはかりに作る、 斤両を正すをいふなり) す。 かの如来の光明智相のごとく、 かの名義のごとく、 実のごとく、 修行し相応せんと欲ふがゆゑに

すなわち、 「称」 には、 ものの軽重を知り、 「はかり」 のように正確に、 ものの重さそのままに定めるという意味があることを示して、 「かの如来の名を称す」 ることは、 如来のみょうごうのいわれの通りにそのままに、 しゅじょうを往生成仏させる徳をもつものであることを示されているのである。 ¬一念多念証文¼ における 「また称ははかりといふこころなり、 はかりといふはもののほどを定むることなり」 という字釈もまた、 親鸞聖人が 「行文類」 に示されている字釈と同様の意味を持つものであろう。 すなわち、 「称」 の字釈を示すことにより、 他力の称名しょうみょうが、 如来の名号のいわれのままに、 衆生の往生成仏を定めるはたらきをもつものであることを示されたものと考えられる。 本現代語訳においては、 そのような 「名号のいわれのままに定める」 という意味をあらわすために、 「もののほどを定むる」 について、 「ものごとの程度をそのままに定める」 と訳した。

名号を称えることが…信じるものであっても 原文は、 「名号を称すること、 十声・一声きくひと」 であるが、 これは善導大師の ¬往生礼讃¼ に、 「名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、 さだめて往生を得」 とあり、 「名号を称すること、 十声・一声きくひと」 とはこの箇所を解釈されたものである。 ¬一念多念分別事¼ では 「今信知弥陀本弘誓願及称名号下至十声一声等定得往生乃至一念無有疑心」 と引用されている。 しかしながら、 このどちらの漢文にも親鸞聖人が ¬一念多念証文¼ に述べられている 「きくひと」 にあたる文字が含まれていない。 親鸞聖人が ¬一念多念証文¼ において 「十声・一声きくひと」 と示されているのは、 この箇所について、 しょうの ¬集諸経礼懴儀¼ に収められた ¬往生礼讃¼ の文をあわせて解釈されているからである。 ¬集諸経礼懴儀¼ は、 上巻には諸経中の礼讃文、 下巻には善導大師の ¬往生礼讃¼ の全文を収めたものであるが、 この中の ¬往生礼讃¼ には 「今信知弥陀本弘誓願及称名号下至十声聞等定得往生」 とあり、 「一声」 のかわりに 「聞」 の字が示されている。 親鸞聖人が、 「名号を称すること、 十声・一声きくひと」 と示されているのは、 ¬往生礼讃¼ の文に、 この 「聞」 を加えておられるのである。 この箇所について、 「わずか十声や一声のもの」 としている解釈や、 ¬集諸経礼懴儀¼ に収められている文にしたがって、 「わずか十声のものや、 ただ名号を聞いて信じるもの」 とする解釈もあるが、 本現代語訳においては、 親鸞聖人が 「聞」 の字を加えて解釈しておられることに意味があると考えて、 「名号を称えることがわずか十声や一声のものや、 ただ名号を聞いて信じるものであっても」 と訳した。

 ^また ¬往生礼讃¼ には、 このことを示すのに、 ¬阿弥陀経¼ の 「たとえば七日あるいは一日の間、 名号を称えるがよい」 の文を引かれているのである。

【22】^これらの文は、 多念ということが間違いでないことを証している文である。 十分にいい表すことはできていないけれども、 これらの文によって、 一念多念の争いなどあってはならないということをお考えいただきたい。 ^浄土の真実の教えでは、 念仏往生というのである。 決して一念往生ということも、 多念往生ということもない。 そのことを、 これらの文によって知っていただきたい。

  南無阿弥陀仏

 

 ^都から遠く離れたところに住む人々は、 仏教の言葉の意味もわからず、 教えについてもまったく無知なのである。 だから、 そのような人々にもやさしく理解してもらおうと思い、 同じことを繰り返し繰り返し書きつけたのである。 ものの道理をわきまえている人は、 おかしく思うだろうし、 あざけり笑うこともあるだろう。 しかし、 そのように人からそしられることも気にかけず、 ただひたすら教えについて無知な人々に理解しやすいようにと思って、 書き記したのである。

 

*康元二年二月十七日、 *愚禿親鸞八十五歳、 これを書く。

康元二年 1257年。