全体 (7月3日)

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凡夫に量り知ることのできないものがたくさんある中、「全体」もその一つなのだなあと痛感しています。

これではあまりにいきなりで、何が言いたいのかわかりませんね。考えようとしているのは、「生きる」とはどういう出来事か、「死」とは何なのか、ということなのです。大雑把には、「全体」を「死」と重ねてイメージしていると思っていただいてかまいません。

「全体」という言葉を今のような生々しさで考えるようになったのは、直接には息子の病状をどのように理解すればよいのかという切羽詰ったところからです。

息子は小児がんです。最初の手術(2年前)が終り、転移を警戒しての術後の化療も昨年末に完了して、本人は至って元気ですから、これで準「完治」だろう、あとはしばらく経過を観察して、転移が見つからなければ晴れて無罪放免と思っていたのも束の間、5月にその転移が膝の裏に出てしまいました。

見つかった転移巣を取り除く2回目の手術が、5月の25日に終りました。リンパ節を摘出するだけで済んだようで、皮膚から何からごっそり取り除いたために後の再建・形成が必要だった前回の手術に比べれば、手術自体は簡単なものでした。骨などの主要構造にも影響はなかったので、「目の前」の出来事に対しては対処が終ったことになります。

が、そこから先の治療――何をしなければならないのか、何ができるのか――がまったくイメージできませんでした。

抗がん剤の治療は、もう「終わって」います。正確に言えば、転移を警戒しての抗がん剤をすり抜けて生き残ったがん細胞が現実にあったわけですから、前回と同じ抗がん剤治療ではまったく意味がないということです。手術が終わったら、まだすること(できること)があるのか、それともそれで治療は完了で退院できるのか。

このあたりが、素人とプロ、あるいは未経験者と経験者の違いになります。

昔、塾で中学生に英語を教えていた頃、テストで点を取れるようにするようなはたらきかけは一切せず、英語ときちんとつきあっていく上で必要不可欠な基礎体力をつけることのみを考えていたことから、次のような説明を保護者にしたものでした。

〈うちでのはたらきかけでは中1の間は成績は上りませんから心得ておいてください。その代わり絶対に実力が下がらないことを請け負います。そして、中学生一般の英語に対する対処力は学年を追うに従って大きく下がっていくので、いくら遅くても中3の2学期には「相対的に」成績が上ります。さらに高校へ進学した後、圧倒的に楽に英語とつきあっていけるようになるはずです。〉

これで押し切ったのですから思えば無茶をしたものですが、決してうそはったりではなくて、ちゃんとそのようになりました。こちらは英語という教科に対してある「全体的」なイメージを持ち、それにどう対処していくか具体的な取り組み方を3年のスパンで組み立て、細かい成績の動きなどは無視して決してはずせない急所に相当する部分のみをきちんと押さえていたのです。

それがプロです。目の前の生徒の英語に対する「その時そのとき」の個別の出来事を、トータルなストーリーの中に位置づけて評価している。ですから大勢に影響のない学校での「良くない成績」などはどうでもよくて、逆に素人目には他愛のないような細かい間違いをしつこくしつこく指摘し続けたりすることになります。

ところが息子の病気の場合、立場が代って、私は目の前の出来事におろおろするしかない素人なのです。

素人目には具体的な手術こそが大事件で、その手術が息子の治療の「全体的なストーリー」の中にどう位置づけられるのかがわからない。ですから、手術が終わってしまうと、事実上「何も見えない」のと同じ状態に置かれてしまいました。

それでは実際の治療に際して腹の据えようがありませんから、しつこく繰り返して、先生方がどのような「全体像」をもって治療方針を考えていらっしゃるのか、私および当人にも具体的にイメージできるようになるまで質問させてもらいました。転移が「出た」ユーイング肉腫(息子の小児がんの正式な診断名。血液のがんといった側面があり、転移が出てしまうと予後は非常に厳しい)に対して術後の抗がん剤治療というものが意味を持つのか。他に治療の選択肢はあるのか。「根治」に向けてどの程度の期待ができるのか。もし治療をしても効果がなかった場合(あるいは治療を「しなかった」と仮定した場合)、これからどのようなタイミングでどのようなことが起こると予想されるのか。逆に治療が功を奏した場合、どのような治療がどのくらい続き、どんな形で退院できると考えられるのか。

がんというのは何ともとらえにくい病気で、特に小児がんの場合、自覚症状はほとんどなくて目の前にはただの元気な男の子がいるだけなのです。それが「ほうっておけば死ぬ」と言われても、素人に理解できるはずがありません。

やっと、まだあちこち曖昧で不透明なところを残しながらも、素人としては精一杯と言えるくらいには「全体像」がイメージできるようになってきました。それに照らして「今」を位置づけ、今後どういう展開になったとしてもそれでよかったと引き受けることのできるスタンスを取ろうとしています。

後日補足:本題とは関係ないと思って書かなかったのですが、ある意味尻切れトンボになっているのも事実なので、私が現時点で理解している限りの内容を記述しておきます。なお、素人の考えですから、間違っている点のあるであろうことはご了承ください。息子は、もし今何も治療をしなかったとしたならば(あるいは、治療の効果が「全く」なかったとしても同じことですが)、おそらく半年以内に肺への転移が検査にかかるようになり、しかも手術他の対応がすでに不可能な数のものが姿を現してくると予想されます。そして最終的には呼吸不全という形でその生を終えると考えられる。(いわゆる末期がんとは違って、肉体的に痛みなどで苦しむことはなくて済むと思います。おそらく、年齢他からして、「眠るように」といった形になるのではないでしょうか。) で、今通常の発想――転移している「かもしれない」ことに対する保険――を1歩踏み越えて、検査でみつけられないだけで転移はすでに「している」と見なした抗がん剤治療を行っています。使う薬は実質的にこれまで(初回の術後の化療)と変わらないのですが、組み合わせ方や量が違います。最悪でも、転移したがん細胞の増殖を抑えることはできるはずです。ただ、皮肉なことに(?)、相手(新たな転移)が見つかってそこに焦点を合わせて観察しないことには、薬の効き具合が評価できません。治療上、どこか「(できればあまり質の悪くない)転移が早く見つかって欲しい」ところがあって、何とも妙な立場です。うまく筋書き通りに「手のひらに乗せることのできる」転移が見つけられれば、それに照準を合わせて自己抹消血造血幹細胞移植(通常の抗がん剤治療後の「回復期」に骨髄外(=抹消血)にも数の増える造血幹細胞を採取・保存しておき、後でからだに戻して免疫系を元に戻す)を前提にした超大量化学療法(副作用の骨髄抑制が限度を超えることを覚悟で、無菌室あるいはそれに相当する環境内でからだが耐えられる限界量の抗がん剤を投与する)をすることになるでしょう。ただ、そのような治療ができる形で進むかどうかはまったくの未知数です。さらに最後に残された選択肢として骨髄移植も視野に入れているのですが、いろいろな状況を勘案するにそれに頼れる可能性は小さいと思います。

「病気」という、ある意味で切り取ることのできる出来事でさえこうです。これが自分の生あるいは生涯となると、その「全体」像を把握するなど、至難のわざと言ったのでは追いつかなくて、端的に不可能です。

が、仮想的にそこに照らして擬似的な全体像を浮かび上がらせることのできる契機はあります。「死」です。

死とは何か。私は今、「凝り固まりが解きほぐされること」といった理解をしています。逆に言うならば、生とは、生きるとは、刻一刻新たに「我」というしこりを作り(あるいは「我」というしこりが生まれ)、それが動的に持続している姿であるということになります。

「我」に軸足を置いてしまう限り、死は我が消失することに他なりません。「この私」というかけがえのない特殊・個別が、不気味な全体の中に飲み込まれ消え去ることです。しかし本当にそうか。

「全体」が悪意に満ちた、あるいはそうでなくても「この私」の特殊に対して無関心なものでしかないならば、ないし単に不可解で不気味な有耶無耶でしかなかったとしても、上の考えはくつがえせません。というより、「全体」を無反省にそのような「冷たい他」と思ってしまうからこそ、意味・意義のとりでとして「我」にしがみつかなくてはならないのでしょう。

しかし宇宙の全体は、不気味な有耶無耶などではなく確かで大きな一つの〈いのち〉として、その全体の姿を現してくださってある。お名号、南無阿弥陀仏という「名乗り」です。しかもそのお名乗りは、ここに「この私」という特殊にしがみついて我を張り続ける者がいるからこその、この私目指しての大喝なのです。

「全体」は、この私がここに「特殊」の我を張ることを痛み悲しみ、特殊の「孤独」に陥ってしまうことのないよう常に寄り添い慈しんでくださってあった。それに気づかされたならば、死は「この私」という小さな、しかし絶対的なしこりが解きほぐされ、暖かく大きな〈いのち〉の中へとくつろいでいくことに他ならないではありませんか。

それが、決定的なところで「死」と区別される、「往生」という出来事です。

思えばお浄土とは、死後の世界などではありません。今「生きて」しこり続け我を張り続けている者が触れることができないという限りにおいて生者の世界ではありませんが、ほうっておいたならば孤独な「死」にしかなり得ないこの私の生の終わりを、「往生」として大きな〈いのち〉の全体へと摂め取るために、常にこの私に寄り添ってはたらいてくださってある慈悲の業力、それこそがお浄土の本当の姿なのでした。

合掌。

文頭


集中 (7月7日)

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何だかやっと、からだが当たり前の大きさに戻って、景色がリアルな奥行きを取り戻したような気がしています。

昨日の草引きのおかげです。

思えば一月、まともにからだを使っての仕事を何もしませんでした。しかも慣れない都会の中、人工物に囲まれて、舗装されていない地面すらほとんど踏んでいなかったように思います。

1日の夜に東京を経って2日の朝徳山に着いたのですが、母親との付き添いの交代のばたばたや留守中に滞っていたもろもろのことに急ぎの対応をつけるのに追われ、やっと昨日の午後になってゆっくり庭と相向かうことができました。風の強い日があったのか思いがけずたくさんの枯葉があちこちに吹き寄せられており、草も伸び放題、やれやれといった風情です。

が、続いた雨で草だけでなくスギゴケもみずみずしく青みを増し、あちこち「あ、ここもこんなに元気になっている」と嬉しくなるところがあって、悪い気分ではありません。何より、スギゴケも雑草も、みんなたくましく生きている。

夏の法座が近いので、本当はそれまでに「掃除」を一巡しなくてはなりません。が、そんなことはどうでもいいや、とにかく手をつけたところから、きちんと、気の済むように相手をしていこうという気になって、まずはその場にあぐらをかいて座り込んでみました。

スギゴケの植わっているところではなくて、玉砂利を敷いた庭の真ん中です。手の届くところに、玉砂利の下から生えてきて、たった一月の間に 20cm 近く大きくなった草(スズメノカタビラ)が1株、大きな顔をしている。もう、根から何本にも分かれた茎の先には憎たらしいたくさんの実がついていて、「増えるぞ!」と脅迫してきます。

増やしてなるものかと思いつつも、何だかいとおしいような気もしてきて、ついでに腹ばいになって同じ目線の高さになってみました。

狭いと思っていた長久寺の庭も、腹ばいになってみるとけっこう広い。そして南北を山で切られた谷沿いの空が、思いの外広いのに驚きました。頭の上には本堂の伽藍がそびえています。(通常であれば「伽藍」などという形容を思いつくことなどない小さな山寺なのですが。)

何を間違ったかよりによって玉砂利の真ん中に根を下ろして実をつける雑草と、山深いこの地でつましくたくましく生活している村人、そして息子のからだの中で増えているがん細胞が、みんな同じもののように思えてきました。

みんな、憎たらしい。みんな、いとおしい。みんな、悲しい。

これが生の姿か。しばらく(といっても実際にはほんの数分)そうしていて、母が見たら変に思うだろうなと気がつき、起き上がるといっしょにその草を引き抜きました。思った以上に広く深く、しかし突き放してみればたかだか 30cm 四方くらいの小石をじゃらじゃらと動かして、白い根が日の下に出てきました。悪く思うなよ。私はあんたを一方的に引き抜くのではない、これがいっしょに生きていくということなのだから。

それからは玉砂利の上のごみを拾いながらスギゴケのところまで進んで、例によってドライバーでスギゴケをかき分けながらの草引きにかかりました。指先に集中して次々草を引いていると次第に気持ちが落ち着いてきて、ふと何だか、それまで目玉だけが宙に浮いていたように感じられてきました。

私にとって集中とは、どうもからだの感覚――周囲の肌触り――に耳を傾け、環境と静かに共振することのようです。つい先日までいた東京でも、都会の喧騒とはあまり縁がなくて、静かで「快適」なところが中心だったのですが、何というか「皮膚感覚」に対する刺激――環境の側からの抵抗――がほとんどなかった。それでいつの間にか目玉だけになっていたのでしょう。

何もかも散漫なままでほうっておいたのではどうしようもないとしても、考えを凝らすばかりが集中ではない。ましてや、相手が「生」というやわらかくて固定できないものであればなおさらです。からだで、皮膚で内臓で感じ取り、からだごとそこにはまり込んでいくことができたときに、はじめて私の抱えている生に集中していける。

そう言えば、東京で土砂降りの雨の中を歩かなくてはならないことがあって、ぐしょ濡れになったズボンの「下」を冷たい水がつーっと流れるの感じたとき、うっとうしさの中に忘れそうになっているものを思い出しかけたような心地よさを覚えました。そのときはそれ以上考えなかったのですが、あれも同じことだったのかもしれない。

息子は、この度のきつい抗がん剤治療を受けている間、目をつむって横になっているのがほとんどでした。ただ、しんどくてぐったりとしているというのとは違い、また寝ているわけではないのも様子からわかりました。漠然と、「集中しているんだな」と思って見守っていたのですが、何に集中しているのかはその時わからなかった。「吐き気」を見つめているのかしらなどととんちんかんなことを考えたりもしましたが、今になって思えば彼は自分の「生」に集中していたのでしょう。それならば、あまりに吐き気がきつそうなので寝られる薬を処方しようかという話になったとき、それを受け入れなかった理由も納得できます。

抗がん剤の治療の最中にでさえ、そうやって「生」を輝かすことができる。見習わなくてはなりません。

合掌。

文頭


孤独 (7月11日)

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今、あらためて「孤独」について考え始めています。「死」を、そして「生」を見つめる上で、というよりもより端的に「救い」を語る上で、確かな糸口になりそうな感触があるためです。

私個人は、実は孤独は好きです。それで伝わる方にはそれ以上何を言う必要もないのでしょうが、世間一般で言えば孤独を恐れる人、あるいはむしろ(やや僭越な響きになるのは許していただくとして)孤独を知らない人の方が多いのだろうと思われますし、私自身が親しんでいるつもりの孤独を問い直す意味でも、まずここから吟味してみることにします。

孤独が好きとはどういうことか。

孤独に信頼できてしまっている立場からすれば、孤独とは尊厳とほぼ重なり得る響きを持ちます。「この私」が抱え込まされている絶対的でかけがえのない重さ、それをそのままに引き受け、「よし(善し・宜し)」と受け止めている味わいとでも言えるでしょうか。

これは(少なくとも私にとっては)独善的な態度とはかけ離れたものです。どう踏ん張ろうと、ちっぽけな「個人」で支えられるようなものではありません。孤独が楽しめる人には、何らかの形で豊かな「全体(それ以上を考える必要のない統一的で大きなもの)」との出会いがあります。正確に言うならば順番が逆でしょうか。ある全体に触れたときはじめて、孤独がありありと立ち上がってくる。

(私個人における「孤独」ひいては私にとっての「全体」との出会いは、「自己否定」で簡単に触れています。それに至る「原体験」的な背景もあり一時は「穴」の中で公開していたのですが、今はリンクを削除しています。もし興味がおありでしたら「なつかしい無限」がそれです。また、限定した意味での「全体」の再吟味がつい先日の記事です。)

ここまでで言いたいことを整理しておきましょう。孤独と出会っている人と、出会い損ねている人とがある。孤独との出会いとは、実は私を包む「大きなもの」との出会いである。

言うまでもないこととは思いつつも言い添えておくならば、私は「孤独と出会えている者の方がえらい」ないし「孤独ときちんと出会うのが『正しい』生き方だ」などと主張しているのではありません。ただ、逆に聞こえるかもしれませんが、孤独と出会えていないとさみしい。自らの孤独と深く対峙したところに、同じ孤独な他者と共感する地平も拓かれてくる。それを含めた「救い」を、何とかして一人でも多くの人に紹介したい。それだけの思いであると好意的にご理解いただければと思います。

さて今度は逆に、それまで「平穏に」過していた人が、いやおうなく孤独に突き落とされてしまう場面に寄り添ってみようと思います。悲しいことながら、思いがけないこと、世間一般の意味における「不幸」と鉢合わせることが、その具体的で身近な様のようです。

私自身にとって切実であるということもあって、自分自身あるいはいとしい者が、がんになるという出来事を取り上げます。

がんと「孤独」とを重ねて意識するようになったのは、これまた最近書いた記事と重複することながら、偶然手にした佐藤秀峰さんの『ブラックジャックによろしく』というマンガがきっかけでした。(今確認のために調べるまで知らなかったのですが、テレビドラマにもなっていたのですね。どうもすでに「旬は過ぎている」といった感じですが。) その後、興味を引かれることがあって、それまであまり見なかった「がん闘病記録」サイトをあちこちのぞいてみました。

当事者の方に対しては不謹慎かもしれませんが(私も「当事者」であるということで厚顔無恥を通します)、当然、関心はそこに描かれている「孤独感」にあります。興味深いのは、がんになった当人だけではなく、たとえば当人よりも先に告知された家族などもが、少なくともある時期、孤独感に直面していることです。さらにある方のブログでは、ご自身が告知された後、それを自分から家族に伝えるときの複雑に逆転し重層した「取り残された感じ」が生々しく記述されていました。(リンクしようと思ったのですが、あらためて行ってみようとしたところどうしてもたどりつけません。すぐにアドレスを控えておかなかったのが悔やまれます。)

つまり、自分自身が具体的に死に直面したわけでなくても、ある状況において孤独感は襲ってくる。

私自身、人事ではありません。がんを病んでいるのは私ではなくて息子です。そして必ずしも「治る」ことを目指す気持ちだけでは事態の全景を埋められなくなっている今、息子当人の思いとは独立に、私自身の「だれにも伝えようのない気持ち」を味わわざるを得ません。不用意に「大丈夫、治りますよ」などと声をかけられたら白けきってしまいそうな感覚があります。

ここで、話を極端に転換してしまいます。一般に恐れられ往々にして目をそむけられている「死」とは、実は単にある生物個体の生が終るという生理的な出来事ではなくて、むしろ実体はこの「孤独感」なのではないか、と。

後半の話をまとめます。ふつうの人が思いがけず「不幸」と行き合わせたとき、「死」という姿を垣間見せながら「孤独」が抜き差しならなくなっている。

これから、この「孤独」を直視し、それを救いの内に解消することを目指します。

私がこれまであまり「がん闘病記録」サイトをのぞかなかったのは、その多くが「あきらめずに闘い抜く」といったトーンで、私が目をそらさず考えたいものとは肌触りが違っていたことにありました。結果的に「帰らぬ人」となった、多くの場合子供さんの闘病記録を静かに語ったものもそれなりの数あるのですが、そこに見られる「あきらめ」も、私には食い足りない。

今私は、端的に言って多くの方の「がん闘病」の姿を批判しています。社会的には「許されないこと」に近いことかと思いつつも、そのくらいの覚悟を持たないことにはここから先には踏み込めない。

言い方を変えるならば、二重に――「不幸」と鉢合わせになっていない人と話が通じないだけでなく、がんという「不幸」と直面し格闘している・格闘した人とも安易に共感しないという意味で――孤独なところに立ちたいのです。というよりも、そこに「立てる」ことを知って欲しいのです。

この記事の前半で紹介した孤独を、「開いた孤独」と呼ぶことにします。当然のことながら私は、後半で寄り添った、否応なく鉢合わせてしまった孤独を「閉じた孤独」と呼ぼうとしています。宗教者として、「閉じた孤独」をそのままに見過ごすことはできない。孤独は、「喜び」にまで届き得る豊かさをはらんでいます。途中で止まってしまっては惜しい。ましてや、孤独から無理に目をそらしてしまうのはできることならば避けて欲しい。

一見過酷に思えても、目をそらさず直視し続け、そのままに引き受けることができたならば、私が突き落とされている孤独の裏に暖かく大きな「全体」の動いていることが、必ず感じ取れるときが来ます。

今日は、あえて仏教にひきつけてくることをしません。というよりも、仏教である必要はない。極論すれば「宗教」と意識される必要すらない。ただ、中途半端なはぐらかしではなくて孤独が苦悩がそのまま救いと喜べる道が「ある」こと、そのことに気づいてもらえたら嬉しい。

私は、たとえ根治がかなわずとも、息子ががんになって「くれた」ことを喜んでいます。そうでなくては出会えなかった多くの人との出会いがあり、そうでなくては過せなかった素敵な時間を息子と過すことができ、そしてそうでなくてはここまで徹底して味わうことのできなかったであろうことに新鮮な感動を持てたことに、感謝します。

後日補足:上の一文は、まだいろいろに言葉足らずです。決して「息子ががんになったからこそ」出会い味わうことのできたものを喜んでいる、という意味ではありません。本当に言いたいのは、ああであったらこうであったらと考えて比べることを離れ、ただ「目の前」の状況を喜びたいということなのですが、おそらくまだ私自身の味わいがそこまで届いていないのでしょう。定型的な言い回しに流れているなあと思うのですが、それが現時点での精一杯という気がしますので、加筆訂正するという形を取らず、元の文は残したまま補足としておきます。その思いを一歩進め、「一語法話」の方へ「プラス思考」を上げました。

息子も同じ思いであると信頼します。というよりも親の責任として、息子も同じ喜びに今を生きていると信頼し切るつもりです。そこまで、私自身が息子のがんを直視する。それは、息子のがんという私たち家族にとって抜き差しならない個別の孤独な出来事を、大きな全体の中へと開いて、その全体の暖かさとして味わうことであるはずです。

その中で、できる治療に専念し、何があってもおろおろしながら楽しんでいこうと思う。そうでなければもったいない「貴重な」出来事ではないですか。

合掌。

文頭


遊雲 (7月17日)

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生れてはじめて、読後感ならぬ話後感のよいご法話をすることができました。自坊の山寺こと長久寺でのことです。

「完璧に話せた。やったぜ!」といった感覚とは無縁です。そうではなくて、後で話し手の技量や責任を問う必要のないくらいまで話し手の体臭が問題でなくなる、「大きなもの」が語り出だすのが感じられたのです。

ご法話として、皆さんの前でご法義のお話をさせていただくことを、お取次ぎと呼びます。実際にご説法なさっているのは阿弥陀如来、そのご説法の「媒介者」に徹してできるだけ阿弥陀様のご説法の邪魔をしないのが、私がイメージしているご法話の理想です。ですから「法話をする」というのは、たとえば「講演」などというのとは(少なくとも私にとっては)まったく異なる出来事です。

〈実際にご説法なさっているのは阿弥陀如来〉だなどと言っても、一般の方にはほとんど神話めいて聞こえるでしょうか。もう少し私の語彙で噛み砕くならば、お聴聞下さるお一人お一人は、各人の「ご縁」と出会っていらっしゃるのだということです。仮に私が、現代的な意味で「完璧にわかりやすくて整った」話をすることができたとして、それで仏法(阿弥陀如来のお慈悲のはたらき、それに気づくことのできた喜び)を「わからせる」ことはできません。逆に、私がどんな拙い話をしていようと、お聴聞し抜いた方にはご法話と響く。そういうことです。

長久寺では、昼席、夜席、そしてあくる日の昼席と、2日3席の法座を勤めます。住職の至らなさもあって、同じ方が続けてお参りくださることは少なく、ほとんど顔ぶれが入れ替わってしまいます。それを見込んで、今回は事実上同じ話を3回しました。

なお、法座といえば専門(?)のご講師の先生をお招きしてご法話いただくのがふつうなのですが、長久寺では私が継職して以来十数年、もっぱら住職である私が講師を勤めています。(内部的には「手勤め」と呼びます。) 決して間違ったあり方などではなくて、住職である以上門信徒の方々にご法義を伝えていくのは当然以上のことながら、いつも同じ住職がお取次ぎをするというのでは内容が偏りかねず、その申し訳なさはいつもあります。

題材は、遊雲の転移です。狭い地域社会のことですから、隠しておくわけにもいかず(別に隠そうとしているわけではありませんが)、かといって立ち話の挨拶で簡単に伝えられることでもなく、きちんと広報しておこうというのが下心の一端です。もちろん、お取次ぎのご法話である以上、「転移」を通じて私が味わってきた様々な思いが中心で、かつそれも単に個人的な感慨にとどまらない「ご法義の味わい」として口にするのですが。

しかし、いくら自坊での(つまり、遊雲を「お寺の坊ちゃん」として知ってくださっている方々へ向けての)話とは言っても、実際に「する」か「しない」かでは結構悩みました。家族に説明する、というのとは訳が違います。本来(本人にとっても)あまり公言すべきではないプライヴェートな事柄ですし、さらに(聞く側にとっても)その内容が重い。

結局「する」ことに腹は決めたものの、そのためらいから、「この度は、重い題材を通じて、大切な事柄をお話させていただきます。大切な事柄とは『死』と『往生』の違いで(→「全体」末尾)、重い題材とは遊雲のことです。」 と大上段に振りかぶった導入になってしまいました。

初日の2席は、それで通しました。が、どうも感触がしっくりこないのです。取り上げている題材が題材だけに、どうしても情のねばっこさから離陸できなくて、「スカッと爽やかな(←言うまでもないことながら、バランスを取るためにあえて誇張した形容をしています)」ご法義の味わいが隠れてしまう。健気にがんと立ち向かう息子と、それを暖かく強く見守る家族、とでもいった至って演歌的な響き具合に負けてしまうのです。

それはそれで致し方なかろう、お聞きくださる側には聞く側の事情もあると思いつつも、やはり、嬉しくない。私の「何とかして伝えたい」思いとずれるのはいいとして、遊雲の実状ともかけ離れています。何と言っても、「可哀想!」とった形容ほど遊雲の今の様子と遠いものはないでしょうから。

通常、ご縁をいただいたときには、法話の前は法話最優先で、たとえ自坊の法座であっても、原則として前日は何もせずお話しする内容に集中します。今回は6月中留守をしていて7月に入ってから予定を決め準備にかかりといったどたばたの上に天気が悪く、前日一杯まで掃除に追われました。(それでも「完了」はできなかった。)しかも現在母親不在の父子家庭で、2日目の16日には弟の想の野球の試合がありました。応援・手伝いに行けないのは許してもらうとして、弁当を作ってやらなくてはなりません。15日の昼席が終った夜席までの間に買い物などの下準備は済ましておいて、当日も朝起きるとすぐ弁当の支度です。(といっても実際にはむすびを握ったくらいで、後は買ってきたものと残り物とを詰め合わせるだけなのですが。でも、むすび用にご飯を固めに炊き、彩りを考えてミニトマトを準備――母に採って来てもらっただけです――しと、それなりに大騒動でした。想のいつもを思うと少し多すぎるかなという仕上がりだったのに、「美味しかった!」といってみんな食べてくれていたのは単純に嬉しかった。) そしてその延長で、法座真っ最中の2日目の午前中も、目にはつかないと後回しにしたところの庭の草を引いていました。

ひょっとしたら、かっこつけて力もうにも力みようのなかったことがよかったのかも知れません。草を引いている最中に、ふと、遊雲はあのつらい化療を「辛抱して耐えている」のではなくて、「遊んでいる」のだとわかったのです。

そうか。それならばまこと、あの子は何があろうと大丈夫だ。治るものならば当たり前に治り、治らない縁であるならば真っ当に命終えていく。ただ、不満を言うことなど思いつきもせず、いつも目をキラキラさせにこにこしたまま。ならば、それと同じところで親たる私が遊べずしてどうしよう。

直後の第3席目、最終回ですから「ご満座」と言うのですが、それまでと同じ内容を、「住職とっておきの『痛快』なお話をさせていただきましょう」と始めました。治るかもしれない、治らないかもしれない小児がんの治療に、目をそむけず力まず臨んでいる我が子の姿。それをそのまんまに楽しんでいる様。これを痛快と呼ばずして他の何が痛快か。

何のことはない、阿弥陀様のご説法の邪魔をしていたのは、まさにこの私の我執です。我が子に少しでも楽をさせてやりたい、少しでもいい思いをさせてやりたいと、狭い孤独にすすんで首を突っ込んで、ひいひい言っていた。当の本人は、楽もへったくれもなくて、ただ自分が置かれた状況を楽しんでいるのに。

情なくなるを通り越して、愉快になりました。それでいいのだ、それしかないのだ、そこでこそはたらいてくださるお救いではないかと。

その思いに立ってお話しした「ご法話」が、通じたかどうかは知りません。世間一般の「情」の世界とはかけ離れた、とらえようによってはメチャクチャな、(治らない可能性が決して小さくはない)がんを楽しんでいる親子の話なのですから。

ただ、こんな生き方、あるいは死んでいき方もある。

息子の遊雲が、ないし私が「立派」な人間でそんな生き方ができるなどという話ではありません。むしろ、親子揃ってよくよくアホなのでしょう。が、アホでいられることは親様のお慈悲のたまものです。

合掌。

文頭


頑張る (7月22日)

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子供の頃から変に引っかかってしまっている言葉があります。「頑張る」です。

引っかかる理由は、その字面です。頑張るの「頑」は頑固の「頑」で、「かたくな」の意味ではないですか。語源的には「我に張る」がなまったもののようですが、同じことです。というよりもうまく字を当てたものだと思います。

日本語でふつうに「頑張って!」と声をかけるような場面で、英語では Take it easy! (テイク・イット・イージー、テイキッティージー)と言います。訳せば「気楽にいこう」といったところでしょうか。ですから「頑張れ」と口にする代りに、「気楽に」とか、「健闘を祈る」とか言い換えてお茶を濁してきました。

今でもまだそれを引き摺っていて、比較的新しくには「踏ん張る」という語彙も見つけ、場面に合わせて使い分けています。いずれにしても、どうも「頑張る」という言葉が嫌いで使えない。変なところで「頑張ってしまって」いるわけです。

本来、あいさつは一々意味など考えずに使うものでしょう。「さようなら」が「左様なら=そのような次第であるならば」だからといって、「え? どんないきさつで今お別れの場面になったんだっけ?」と引っかかっていたのでは落語になってしまいます。

が、引っかかってしまったものはどうしようもないところがあって、もうおそらく数十年、あいさつに「頑張って!」「頑張ります!」といった表現を使っていません。

そういう偏屈な目で眺めていると、よくよく日本人は頑張るのが好きなんだなという気がします。というより、何もせずにいるというのが苦手なのかな。かと思うと、「善処します」とか「真摯に反省して」とか、実は「何もしない」ことを耳当たりよく言っているだけの表現も多いような気がしますが。

冗談はさておき、今、あらためて「頑張る」ときちんと直面しなくてはならないはめになってしまいました。平たく言うならば、頑張ろうにも「頑張れない」事実が目の前にあるのです。

もう一度「頑張る」に激しく抵抗していた時分の頃に話を戻すと、ある与えられた情況に対して、「我を張り通せる」と本当に思っているのか、それってえらい傲慢じゃないか、もっと謙虚に状況そのものを受け入れることから始めてみてはどうか、という青い思いが裏にありました。let it be (レット・イット・ビー、レティッビー、なるがままに)とか que será, será (ケ・セラ、セラ、なるようになる)とかの方がより高尚な思想のように思えたのです。

今でも基本線はそのままなのですが、微妙なところで方向が変わってきています。「頑張る」と「ケ・セラ、セラ」は、実は同じことなのではないかと。

たとえば極端な話、死にかけてもう息の止まりそうな人に、「頑張れ!」と励ますのは酷でしょう。むしろ、「よく頑張ったね。お疲れ様」というのが優しさであり、死ないし生に対する謙虚さというものではないか。が、成り行きに任せると言いつつ形を変えて我を張り、そして我を張ること自体が大きな成り行きの中に飲み込まれてしまっているというのが私たちの「生きている」ということの実際でしかないのです。

私は、「頑張る」という言葉の字面にとらわれるという形で二重に「頑張る」にからめとられてしまっているのですが、存外、それが自分にとっては自然なことに思えてきました。

やたらひねくれた表現になってしまいました。要は、もうこだわらないという形でこだわり続ける、ということです。

日常、何気なく使う「頑張る」という言葉ですが、よかったらちょっと立ち止まって問い直してみてください。「頑張る」という表現で、いったい何を表現しているのか。思いがけない新鮮な発見があるかもしれません。

合掌。

文頭