セミ (7月5日)

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昨日までの梅雨とは思えない大雨が今日はあがって、久しぶりにうっすらと晴れ間がのぞいています。気がつくと、セミが鳴き始めていました。

蟪蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや。

(夏蝉は春秋を知らない。この虫は真夏の季節を知っていようか。)

【往生論註】

迷いのただ中にあって、迷いと知らずにいるわが身です。しかも迷いのただ中が、そのまま救いのただ中であろうとは。

それに気づけよとのセミの声、骨に沁み入ります。


 (7月9日)

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また、雨です。

ここでは、雨は山の木々の上に、野の草の上に、田畑の上に降ります。少しだけ、舗装された道路の上に降ってむなしく排水路へ流れ去り、そしてもっと少しだけ家の屋根の上に降る。

この雨に濡れている人がどれだけあるのでしょうか。


プラス思考 (7月13日)

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何でもよい方へ考えるというのは、まだまだ楽天的な偽物だ。

よいも悪いも離れて何があっても楽しむ覚悟ができたとき、ほんとうに恐れるものはなくなる。


土壌 (7月19日)

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追われるものがなくなり、心底安心した中で、今日も庭のスギゴケをいじりました。

数年にわたっていろいろな発想で世話をしてきたスギゴケを、はじめて総括的に概観してみたのですが、得られた感想はあっけないくらいにシンプルでした。スギゴケの世話をするのではなくて、土の守をせよ。

畑の土とスギゴケの庭の土は違います。それを断った上で、ちゃんと土まで世話のできているところは、一言で言ってほうっておいたとしても大丈夫です。草が生えないようにというのはこちらの都合、草が茂ってもおそらくある調和が崩れることはない。

しかしまだ、あちこち「見栄え」を優先した手入れになっているところがあるのです。ここは、これまでうすうす思っていた以上にまずい。手を緩めた途端、別の世界になってしまいそうな気配があります。

そろそろ、スギゴケを偏愛するような庭の手入れを卒業してみようかなという気持ちも少なからずある中、やはりそれはまだ禁句でしょう。手をつけた以上、最後まで見届ける義務がある。

ところで私自身は、どんな土壌に根を下ろしているのでしょうか。

土壌は、環境は、与えられたものであってそれを選ぶ権利は私にはない。基本的にそれが私の理解なのですが、土壌がこの私の営みと独立したものであるというのもきっと行き過ぎです。私は、与えられた土壌を、日々変えながらそこに居ついている。

逆説的ながら、他力の教えとは徹底的に自己責任を問われる教えでもあるようです。