じしょうゆいしん 自性唯心 万有はその本性についていえば、 ただ心の変現にほかならないもので、 自己の心以外に何ものもないとする聖道門の考え。 この立場より自己の心性を指してただちに弥陀といい、 この心を浄土であると主張する。 このように弥陀も浄土もともに自己の心の中にあることを 「己心の弥陀、 唯心の浄土」 あるいは 「己心の浄土、 唯心の弥陀」 という。 親鸞はこれを 「信巻」 別序で 「末代の道俗、 近世の宗師、 自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」 と批判している。 浄土門では弥陀と浄土が自己の己心の外に説かれることの意義を強調する。 →指方立相。