(549)十七、 越中の光明房へつかはす御返事

越中えっちゅうのこうみょうぼうへつかはすへん だいじゅうしち

一念いちねんおうじょうは、 京中きょうちゅうにもほゞ流布るふするよしうけたまはるところなり。 およそごん道断どうだんことなり、 まことにほとほともんにもおよぶべからざること

¬双巻そうかんぎょう¼ (大経巻下) なかには 「ない一念いちねん信心しんじんかん」 といひ、 また善導ぜんどうしょうの ¬しょ¼ (礼讃) には 「かみいちぎょうつくしもじっしょういっしょうにいたるまでも、 さだめておうじょうすることをうとしんじて、 ない一念いちねんもうたがふこころ0550なかれ」 といへる。 これらのもんをあしくりょうけんするともがらの、 かゝるだい邪見じゃけんじゅうしてもうしそうろうところなり

ない」 といひ 「下至げし」 といへるは、いちぎょうをつくすをかねたることばなり。 しかるをこのごろの愚痴ぐち无智むちのともがらのおほく、 ひとえにじゅうねん一念いちねんなりとしゅうしてじょうじんいちぎょうをすつるじょうざん无愧むぎことなり。 まことじゅうねん一念いちねんまでもほとけのだい本願ほんがん、 なをかならずいんじょうたまじょうどくなりとしんじて、 いち退たいぎょうずべきなりもんしょうおほしといへども、 これをいだすにおよばず、 そくごんことなり

こゝにかの邪見じゃけんひと、 このなんをうけて、 こたへていはく、 わがいふところも、 しん一念いちねんにとりてねんずべきなり。 しかりといひて、 また念仏ねんぶつすべからずとはいはずと 云云。 ことばはじんじょうなるににたれども、 こころ邪見じゃけんをはなれず。 しかるゆへは、 けつじょう信心しんじんをもて一念いちねんしてのちは、 またねんずといふとも、 じゅうあくぎゃくなをさわりをなさず、 いはんや、 しょうざいをやとしんずべきなりといふ。

このおもひにじゅうせんものは、 たとひねんすといふとも、 あにほとけのこころにかなはんや、 いづれのきょうろんのいかなるせつぞや。 これひとへにだい道心どうしんのいたり、 とうぜんのたぐひの、 ほしいまゝにあくをつくらんとおもひていふことなり。 またねんぜずは、 そのあくかのしょういんをさへて、 むしろさんにおちざらんや。

かのいっしょう造悪ぞうあくのものゝりんじゅうじゅうねんしておうじょうする0551は、 これさん念仏ねんぶつのちからなり。 このあくには混乱こんらんすべからず。 かれはさんひとなり、 これは邪見じゃけんひとなり。 なをなを不可ふかせつことなり

たとひしょうじんのものなりといふとも、 このをきかばかならずだいになりなん。 まれにかいひとありといふとも、 このせつしんぜばすなはちざんになりぬべし。 およそかくのごときのひとは、 仏法ぶっぽうどうなり師子ししなかのむしなり

またうたがふらくは、 てんじゅんのために、 そのしょうをうばゝれたるともがらの、 もろもろのおうじょうひとをさまたげんとするか。もともあやしむべし、 ふかくおそるべし。 ことごと筆端ひったんにつくしがたし。 あなかしこ、 あなかしこ。