◎御俗姓

【1】 ^宗しゅう祖そ*親鸞しんらん聖しょう人にんの出家前の氏姓についていえば、 藤原氏の流れにあり、 後ご長なが岡おか大臣*藤原ふじわらの内麿うちまろ公こうの子孫、 *皇太こうたい后ごう宮ぐうの大進だいしん*日野ひの有範ありのり公の子息である。

^またその*本ほん地じをうかがえば、 *阿あ弥陀みだ仏ぶつの*化身ともいわれ、 あるいは*曇鸞どんらん大師の生れ変りともいわれる。

^このようななかで、 九歳の年の春、 *慈じ円えんの門下に入り、 出家*得とく度どして範宴はんねん*少納言しょうなごんの公きみと名乗られた。 それ以来、 比ひ叡山えいざん横よ川かわに伝わる*源信げんしん和か尚しょうの流れをくみ、 *天台てんだい宗しゅうの学問を深く極められたのである。

^その後、 二十九歳の時に至り、 *源空げんくう聖人の住房を訪ねてその高弟となり、 浄土真宗の教えを受け継いで専修念仏の法義を明らかにし、 *凡ぼん夫ぶのままで往生できる真実の信心を示して世俗に生きる愚かな凡夫を教え導き、 真実の浄土への往生をお勧めくださったのである。

【2】 ^思えば、 この十一月二十八日は、 宗祖親鸞聖人がご往生された*御ご正しょう忌きである。 毎年訪れるこの御正忌のことは、 教えに親しいものもそうでないものも、 昔から今に至るまで念仏するものであれば知らないものはない。 そうであるから、 *浄じょう土ど真しん宗しゅうに身を置いて信心を得たもののなか、 この御正忌に際して報謝の志を寄せないようなものは、 まったく木石にも等しい心なきものでしかない。

 ^そのようななかで、 聖人の恩徳は高さ八萬*由ゆ旬じゅんといわれる*須しゅ弥み山せんより高く、 深さ三千里といわれる大海の底より深いものであり、 その尊い恩徳に報謝せずにいられるものではない。

^そこで毎年の仏事として、 七日間にわたり、 恩徳に報謝するために唯一無二の勤行を法式に沿って営むのである。 この七日間の*報恩ほうおん講こうに際しては、 門徒が全国各地から相集うのであり、 今も衰退することなく続いている。

^しかしながら、 真実の信心を得ていないものが、 この御正忌に際し、 信じるところをお互いに訪ねあい、 聞きあうことで、 真実の信心を定められるようなら、 それこそまことに聖人の恩徳に報謝する志としてふさわしいものである。

【3】 ^身にしみて感じることであるが、 親鸞聖人のご往生は遠い昔のこととなり、 ※すでに二百年余りの年月を経ているものの、 遺されたみ教えはますます盛んであり、 「*教行きょうぎょう信しん証しょう」 として示された法義は、 今も世の人々の心に残り語り継がれている。 まさに尊ぶべきものであり、 信じるべきものである。

 ^このことについて、 今の浄土真宗の行者のなかで、 真実の信心を得ているものはきわめて少ない。 ただ世間の良い評判を求めて恩徳に報謝するというのなら、 どれほど志を寄せたとしても、 *他た力りき真実の信心が定まっていないものに、 その甲斐はない。 まことに 「水に入っていながら垢を落とさない」 と譬えられるようなものであろう。

^そうであるから、 この七日間の報恩講の間に、 他力*本願ほんがんの道理を心から聞きひらき、 疑いなくひとすじに念仏する行者となってこそ、 実にこのたびの聖人の御正忌を営む本意にかなうことになる。 そうなってこそ、 まことに聖人の恩徳に報謝する尊い仏事といえるのである。 ^謹んで申しあげます。

 ^*文明ぶんめい九年十一月初旬、 ふと思い立って親鸞聖人の恩徳に報謝するために、 筆を取り書き記したものである。

 

得度 僧侶となること。 師弟同信の約を結ぶ儀式。
御正忌 祥月命日のこと。 新暦では一月十六日にあたる。
すでに二百年余りの年月を経ているものの 原文は、 「一いっ百ぴゃく余よ歳さいの星霜せいそうを送おくるといへども」 であるが、 本書の奥書に 「時ときに文明ぶんめい九く年ねん十じゅう一月いちがつ初はじめのころ、 にはかに報恩ほうおん謝徳しゃとくのために翰かんを染そめこれを記しるすものなり」 とあり、 この文明九年 (1477) は、 親鸞聖人のご往生から二百十五年を経ているので、 このように約しておいた。 なお 「一百余歳」 と記されるのは、 ¬報恩講私記¼ に 「旧きゅう跡せきを一いっ百ぴゃく余よ年ねんの霜しもに慕したふ」 とある文言に合わせられたものと考えられる。