評価 (2月11日)

HOME 一覧 前へ 次へ

最近は、学校や医療機関などで「外部評価」が盛んです。時代の流れというのでしょうか。場合によってその必要性を感じる場面もあるのは事実ながら、私はどうもこういう評価が苦手です。「する」にしても、「される」にしても。

今年中学校のPTA会長を務めたことから、 近くの高等学校の「評価委員」にも選ばれていました。先日、実際に「学校評価書」なるものを作成する会議に出席してきたのですが、何とも居心地のよくないことでした。

具体的な作業は、校長が中心になって作成されている学校側の「自己評価」の報告を受けつつ、それぞれの項目について、6人の評価委員が合議して「学校関係者」としての評価を下していくという流れです。校長先生が熱心な方であり、また田舎の小規模校ですからまだ様子が分かりやすいということもあって、ただ学校側の自己評価を追認していくというだけではない、その限りにおいて生産的な作業だったと言えるでしょう。

しかし、その作業全般を通じて、最初から感じていた違和感はやはり大きくなっていきました。学校評価とはそもそも何なのだろう。その背景にある発想は、何を根拠とし、どこを目指しているものなのだろう。仮に現行の学校評価が「高く」なるような学校運営が実現されている学校があったとして、そこに通う生徒達にそれはどのように反映されるのだろう。

もとより、十分な学識(?)・経験や、明確な問題意識を持っている領域ではありませんので、本来はただ途方に暮れつつ沈黙しているのが分かなとは思うのですが、黙っていることは消極的であり「無責任な」姿勢だと受け止められかねない空気(←これは、私が参加した評価会のみにあったものではなくて、学校評価を義務づける流れそのものの中にあるものです)も感じるので、私としての感想もまとめてみておこうと思います。

最初から最後までずっと明確にあったのは、「明るすぎる」という感覚です。

学校側が、「情報公開」に努める。問題点あるいは課題を「明確」に意識する。努力目標を設定し、その成果を公平に評価する。校長先生のお人柄と、(私を除く)評価委員の善意(?)において、おそらくそれが理想に近い状況で実践された場だったと言い得ると思うのですが、それだけに、私には異常に感じられました。

私の住める場ではない。

近いものを挙げろと言われるならば、近代化されたオフィスビルの、空調が適切に利き、蛍光灯(あるいは有機EL?)の明るさに満ちた、影のない空間です。ひょっとしたら、コンピュータネットワークの中に構築されている仮想的なシステム空間の方がもっと近いかもしれない。ないしは、天上界(参考 →天上界)。

生命現象は、無駄のかたまりです。福岡伸一さんが『生物と無生物のあいだ』で最後に負けを認めざるを得なかった(そしてその「負け」こそが有意義であった)ところは、致命的な影響が出るはずのノックアウトマウス(一部の遺伝子が発現しないよう遺伝子操作された実験用マウス)が、何ごともなくゲージの中で餌を食べているという「いのちの事実」であったはずです。

学校評価書の提出を義務づけている教育行政の方向性には、すべての先生にオールラウンダーになるよう(少なくともそのように努力するよう)差し向ける圧力も含まれているようです。これは、真に受けると、かなりつらい。

私は、ある面、オールラウンダーです。(別名器用貧乏と言うのですが。) 高校までの範囲であるならば、最低限の準備期間さえもらえるならほぼ全教科「教えろ」と言われれば教えられますし、音楽も美術も好きです。体育は苦手でしたが、やれと言われるならバスケットゴールの上での逆立ちくらいならします。(中学生の頃はしていました。) 腕相撲だって、ヤワな若者には負けないでしょう。簡単に言って、チェーンソーもコンピュータも使えますし、英語も数学も怖くない。

が、それで何になるのと問われたとして、実際、何にもなりません。「生きる」ということは、そんな上辺っ面の話ではない。

私は、生きるために、自分自身の人権も人格も捨ててきました。(→人権人格) そのような姿が実は、強くありたいと願う気持ちと根が一緒であることも承知です。そのくらいに私はまだ迷っているし、これからも迷い続けます。しかし、迷うという以外に生きるということはあり得ない。私は、私の迷うことを、放棄しない。

評価とは、自分で生きることを止めて、「人(=社会、システム)の判断にゆだねて」生きる真似事を正当化しようとすることではなのか。

私の表現がまだ、恵まれた能力を前提にした、強さへの意志のように響くのを残念に思います。ほんとうに目指したいのは、愚かさの表現であり、愚かなままに生きて「いける」ことの楽さなのですが、私はまだ若すぎるようです。

最初に触れた高等学校の校長先生が、「他力本願ではいけない」と多用されるのを苦笑いしながら聞いています。何のことはないこの私自身が、「本願他力」からは一番遠いところにいるのですが。

合掌。

文頭