悪人 (6月14日)

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何から書き出したらいいのだろう。それが見えてこないままに、とにかく書き始めてしまいます。

今回の「悪人」という主題は、いつかまとめてみたい、いや、まとめる必要があると、ずっと思っていたものでした。ところが、いざ書こうとするとやはり「おそろしい」ものでもあり、なかなかとりかかれずにいました。

上の「ずっと」は、直接にはここ半年ばかりを指します。ちょうど遊雲の葬儀の前後です。その頃に、確かに一つ大きな気づきがあった。ですが、記録も残しておらず正確には思い出せませんし、おそらく正しい(この「正しい」は、今のわたしにとってはより自然に遊雲と話のできる方向、といった意味合いです)ものではなくて、むしろつまづきの石だったような気がする。

それを避けるのに、というかそこから起き上がるのに、この数ヶ月が必要だったのかもしれません。

実は、書き始めたのは前々回の「大乗」からです。その時点から、大乗・浄土・悪人とセットでまとめる心算でした。ところが、思いがけず「大乗」が走ってしまった。そして歯止めをかけるつもりの「浄土」が書ききれなかった。一気に悪人にまで流れるはずの流れが、最初のちょっとしたずれから、行き先を見失っていました。

整理しましょう。

わたしは生来、情が薄いというか、美味しいものとかお洒落な服とかないしは地位とかお金とかには無頓着で、つまり気持ちの綾といった細かいディテールには不感症気味で、とにかくアホみたいに大きなものが大好きで、簡単に言ってしまうならばは歴史から学ぶことの下手な極楽トンボなのです。

ところが、そんなわたしに、ようやく地に足をつけるに足る錨がついた。と思いました。

おそらく、やっとわたし自身がわたしに落ち着くことができ始めているというのはほんとうです。しかし残念なことに、それを形容する言葉がわたしの内で十分に育っていません。表現しようとすると、これまで慣れ親しんできた大味な(その代わりかなり遠くにまで響いているはずなのですけれど)言葉に邪魔されて、自分の気持ち、というより今のわたしにおいて実現されんとしている機微からは逸れてしまう。

ここで、2日経っています。届きかけた、と思った言葉を見失っていました。

今、やっと、少なくともそのしっぽをつかまえ直しました。

愚かさとは、そしてそれをそのままに引き受けた悪人とは、人間らしさのことに間違いありません。迷いのままに。

当初は、かざらず背伸びせず、今をそのままに受け入れて喜べたとき、それが悪人と思っていました。それは確かにかすめています。しかし核心ではなかった。そもそも、そこまでは「大乗」で届く。

この半年、どうも自分が軽く感じられてなりませんでした。別に重々しく振る舞いたいわけではないし、やくざの親分のような渋さは性に合わないだけでなく、どうも信用しきれないところがあります。ましてや悲しみに沈んでいる親を演じたいなどというのではない。

わたしの姿は、まだ何も語っていないなと感じるのです。表現力の問題ではありません。わたしは、底の抜けているものが好きです。赤ん坊の笑顔とか、一筋の涙とか、疲れ果てた背中とか。抜けた底の向こうから、ときにまぶしく輝く、ときに静かにひろがる、いのちの確かさが響いてくるのに耳傾けるのが大好きなのです。

ところがわたしの姿は、顔も目も背中も、まだ隠している。如来のご説法の邪魔をしている。

大乗の側から小乗と貶称している立場の最上位を、縁覚と言います。その語義は、

縁覚:梵語プラティエーカ・ブッダ(pratyeka-buddha)の漢訳。因縁の道理を観じてさとる者。また師なくして飛花落葉を観て独自にさとりを開き、他に説法しようとしない者。独覚・辟支仏ともいう。(『浄土真宗聖典』第二版巻末註、下線有國)

です。

賢者は、すべて、説法をしていない方々です。みずからの考えを表現することは、説法ではない。自身の愚かさをそのままにさらけ出すことのみが、説法です。ただしそのときご説法くださってあるのは如来ですが。

わたしにはどうも、縁覚になりたい傾向があるらしい。

親鸞聖人は、不遜を承知で、不思議な方です。貴族的といえばめちゃくちゃ貴族的でもあり、わたしは庶民的という形容ほど聖人と遠いものはないと思っています。論理的、あるいは知性的な方であることは疑いの余地がない。にもかかわらず、懐かしい。この懐かしさは何なのでしょうか。

聖人には陰がある。ただ、本心を覆い隠し真実を見えなくしている陰ではなくて、その向こうから真実に照らされてある陰です。

わたしはまだ陰を消そうとしているようです。私の体臭が、においわたる真実を汚すことを恐れている。つまり、ほんとうに響きわたるのはわたしの体臭抜きのきれいごとではなくて、わたしがここにいて邪魔をしているということをも込みにした慈しみのかおりであることを疑っているのです。如来の邪魔をすまいというまさにその思いが、誹謗正法そのものでした。

ひょっとしたら、「人間」であるよりも、「賢者」や「畜生(←人間になり得ていないものの意味で、総括的に用いています)」である方が簡単かもしれない。かくも人間的とは難しいのか。

難しくしているのはわたし、有國です。その点は間違わないでください。親鸞聖人は、きっとあっさりと、人間してらした。

迷いの内なる、人間や善し。迷いの少ない天界よりも、迷うことを放棄した畜生よりも、迷える人間界や善し。もちろん、ご本願あった上での話ですが。

わが迷いを恐れず、みずからの体臭を嫌わず、ただその時々のご縁に一喜一憂し、怨み、ねたみ、喜び、させてもらおう。親鸞聖人と法然上人と、同じところに立たせていただこう。偉くなるのではなくて、おのれの愚かさに頭下げることにおいて。もったいない話です。

合掌。

文頭


人権 (6月22日)

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今年、中学校のPTAの役を引き受けており、執行部ではありませんが常任委員で、「研修部」に配属されています。

これまで知らんぷりをしていた(あるいは実際に知らずにいた)いろんな行事に、無理のない範囲でながら、できるだけ顔を出させてもらおうと思っています。先日は「人権教育講座」なるものがあって、午前・午後と続けて参加してきました。このような形の啓蒙運動(?)に、実際に参加したのは初めてです。テキストや教材ビデオ・パンフレットなどよく整備されていて、昨日今日に動き出したものではなくもうしっかりとノウハウの蓄積されている世界なのだなとうならされました。

直接「人権」という切り口で研修を受けたのは初めてですが、住職という社会的立場上日頃から関心は持っている主題ですから、一般向け・入門編レベルの問題提起であれば、おこがましい話ながら私個人は十分に消化し内面化できているようです。その限りにおいて特に目新しい気づきはありませんでした。

しかし、私が見失うまいとしているのは「世間(≒社会)」のうちでの個の尊厳ではなくて、あえていうならば「宗教的孤独」とでも呼ぶべき絶対的な「この私のかけがえのなさ」です。それは表向き強い自尊感情でもありますが、実態は根源的な罪の意識であって、「人権」とは一見重なりそうで実はほとんど接点を持たない異質なものです。そのことをあらためて確認させられました。

つまり、今書こうとしているのは前回の「悪人」の補足なのです。「人間らしさ」をヒューマニズムに重ねられてしまうと困る。

わたしが基本的な重心を宗教的な文脈に(つまり社会の「外」に)置こうとしていることを理解していただいた上で、社会的な課題としての「人権」に話を戻します。啓蒙活動としての人権意識の啓発は、意義あることだと認めます。あくまでその上で、なのですが、人権意識を育てるということがとんでもない矛盾を内在していることも、だれかが指摘しておくべきことでしょう。

自分自身および周囲の人の「人権」に十分センシティヴであるということは、よくよく考えてみると、徹底的に自律せよということをはらんでいます。不用意・無自覚に他者の人権を侵害しないためには極限まで自覚的でなければならず、かつそこではやさしくいたわり合い手をさしのべ合うことはできるとしても、安易に依存することは許されないのですから。

(入門編のビデオの中で、「アサーティヴな対応」という項目がありました。アサーティヴとは「自分の気持ち・考え・意見・希望などを率直に正直にしかも適切な方法で自己表現すること」であり、「自分と相手の相互を尊重しようという精神で行うコミュニケーション」を目指すものなのですが、assertive という語のもともとの意味は「断定的な・独断的な」であって、それが「自分の考えをはっきりと述べる、積極的にはきはきと表現する」というあたりにシフトしてきているものです。それが相互に理想的に実現されたとすれば、徹底的な自律となる以外にはないでしょう。)

社会の個々の構成員の人権を尊重することは、対称性を高めることです。対称性が高いとは、固定的な何かに固まって身動きがとれなくなることなく、何にでもなることのできる「可能性」が保証されている状態です。たとえば、氷が融けて水になり、水が蒸発して水蒸気になるとき、順に対称性が高くなります。コップの中の水はそこに局在してコップの外へ出られませんが、水蒸気は自由に部屋中を飛び回っています。言い換えるならば、人権意識の高い社会は、必然的に不安定な社会になるということです。

不安定な社会の中で、自律して生きよ。人権を大切にするということは、暗にそういう方向を目指しています。これは、実際にはかなり「つらい」課題であるはずです。

ところで、不安定な社会を旧態的な規範でしばって無理に安定させるのではなく、新しい行動原理を見いだしてそれを中心にしていこうとしたとき、その新しい行動原理は一種感性的なものになります。抑圧的なものであることはできないのですから。もちろん、公共の福祉を乱してはならない以上、ある踏み越えることのできない枠組みは厳然として残ります。

この状況に主体的に適応している姿を、「自己家畜化」と呼びます。決してある枠組みを超えず、強く規範的であるものを求めず、その時そのときの要求に自然に従いながらも他者を侵害しない姿です。

触れてきませんでしたが、その背景に「生存はおびやかされていない」という時代的に実現されている事実もあります。

話はかなり飛んでぎりぎりの要点のみの説明ながら、人権意識を育むことがはらむ矛盾とは、「人間的であろうとすることが、実は自己家畜化という形に至る」ということです。

これをどう受けとめていくかは、これからの社会の問題でしょう。実際、自己家畜化というかなりショッキングな形容にしても、必ずしも否定的というわけではなく、 社会を前提にした人間には自己家畜化という契機は本来不可欠なものでもあります。

以上で社会の枠の中でとらえた「人権」を離れ、自分の問いに戻ります。

悪人≒「人間らしくあること」とは、極論すれば人権を放棄することです。いえ、一方では(他者の人権にではなくて)人権を尊重しようにも尊重しようのない自分自身に自覚的であることであり、もう一方では自己家畜化などという方向を受け入れずに自分のわがままなかけがえのなさを引き受けることです。わたしの「かけがえのなさ」は、人権として支えられるものなどではなくて、端的に「我執」そのものなのですから。

それを許して下さってあるのが、必ず一切衆生を救うと誓われた如来の願いです。本願なくしての悪人は、宇宙的な無価値、いや、負の価値(罪悪)です。だからこそ、悪人という姿で人間でいられることは、喜びに他なりません。

合掌。

文頭