わからない (7月2日)

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やっと、つながってきました。

この7月はわたしには珍しく忙しくて、今月中に今日の時点で5件、ご法縁(他の浄土真宗寺院へ「法話」の講師として呼ばれること)や講演の依頼を受けています。

わたしは不器用に手足がついているような人間で、並行して同時にたくさんのことを回していくということができません。またどんどん集中してしまうところがあり、何かが面白くなると他のことはみんな忘れて(思い出せなくなって)しまいます。昔、駅を降りて下宿まで歩いて帰る途中ふっと面白いことを思いついて、集中して考えているあいだに下宿を通り過ぎて知らないところまで来ていて、どこをどう歩いたのか記憶にありませんから道に迷ったことがありました。さすがに歳を取ってからはそれほどの集中力はなくなりましたが、気を抜くと周りが見えなくなってしまうのは今も昔も変りません。

そんなわたしですから、一月で5件となるとあっぷあっぷです。どんなことを話させてもらうか気持ちを作っていく前に、約束を忘れてポカってしまわないよう気を遣います。先日も、「日にちを間違えて穴をあけてしまった」夢を見て、夜中に冷や汗をかいて飛び起きました。

小回りができないので、ある短い(数ヶ月程度の)期間中は、結局どこでも(私にとっては)同じ話をすることになります。ただ、聞いてくださる方々や求められている内容が異なる以上、それに寄り添えるよう精一杯「見え方」の工夫はします。しかしそれでは吸収しきれないギャップが次第に抜き差しならなくなってきて、どこかでドッと次の主題(=私にとって「面白いこと」)に移っていく。そんなことの繰り返しです。

遊雲の葬儀後、1月のご法縁は、まことに申し訳ないことながら、最悪でした。自分の内面が大きく変っていることにまったく気づけなくて、当人は「自分の気持ちのフォローはしているつもり」でいたものですからなおどうしようもなく、いざ口を開いてみると出てくる言葉がまったく響かない。あせりまくりました。

3月に中学生相手に話をさせていただく機会があり、それで立て直せました。子どもたちにはウソは通じない。子どもたちの前で話すことができたおかげで自分がどれだけ着飾っていたのかに気づくことができ、また「彼らに届いた話」に信頼して、先月までのリアリティを支えてきたことになります。

そんな中、5月末(もうそんなに前なんだなあ)の「公開質問会」が、やはり大きかった。十分なことができたとはとても思えないのですが、ただ「これだ!」という確かな手応えが厳然とあって、ステージはどうしようもなく次の局面に移り始めていたのです。

その狭間で、先月のご縁(講演)はつらいものでした。私にとっての新しい「面白さ」にそって組み立て直すには時間が足らず、これまで持ち合わせてきたノウハウを総動員して何とか踏ん張ったのですが、私自身がそのご縁を楽しみ切れたかと問い詰められると、ぎりぎりのところで口ごもります。楽しまなくは、なかった。それは認めてよいと思う。が、わたしにとって新鮮でなかった。それもまた事実です。

やっかいなことは、おそらく、「講演会」としては大成功と言ってよいだろうと思われることです。話しているわたし自身にとって話している最中に気づかされた新しいものがなかったということは、誇張して言うならば、隅から隅まで計算どおりだったということです。まずい点はなかったと思う。しかしいくらきれいに仕上がっているとしても、こんな退屈なものはない。

(上は、お聞き下さった方々に対してものすごく失礼なことであり、どんな状況であろうと楽しみ、新たな驚きと出会えるようになりたいというのはわたしにとっての今後の大きな課題です。が、その言い訳はしません。まだまだわたしは青いということです。)

明日・明後日と、「法話」のご縁をいただいています。ただ、今回はお呼び下さったご住職の許可を得て、どんなことをお話しさせてもらうか事前の準備を一切せず、できる限りご参詣の方々の思いを掬い上げた上での「行き当たりばったり」とさせてもらうことにしています。正直、怖い。「どんな問いかけが出てくるかわからない」怖さもありますが、それ以上に私の意にかなう(要するに私好みの)展開にならなかったときに「つまんないな~」と感じてしまう「かもしれない」自分が怖い。

すぐ続いて連研(連続研修会、この地域の浄土真宗寺院の寄り合いで行う2年越しの研修会)の講師です。かなり力を入れた準備はできています。ご参加くださった方々に、「自分の問題」として仏教と直面して欲しい。かなりのことができそうな気がしています。

3日、間を置いて、中学校の「総合学習の時間」で授業(枠組みは「講演」なのですが、子どもたちが相手ですし、わたしの思いとしては授業です)をします。子どもたちの相手はもともと大好きで、これは掛け値なしに楽しめます。

一般的な枠組みの(オーソドックスが求められる?)ご法縁と自坊(私自身が住職をしている寺、要するに長久寺)での法座をはさんで、下旬には「学校(幼・小・中)の先生方の研修会」の講師を依頼されています。が、気を抜くとこれは鬼門になる。世の中で先生(政治家、学者、医者、宗教家、教職員、……)と呼ばれることのある人ほどものわかりの悪い(人から「学ぼう」という意識から遠い。なお、「利用できるものを利用してやろう」というのは「学ぶ」とは別のできごとです)ものはないので、ついついつられて(私も「先生」と呼ばれる立場なんですよね……)斜に構えるか高みに立つかしてしまいがちです。

以上をいったん整理すると、わたしが置かれていた(正確には、自分で自分を追い込んでしまっていた)状況は、こうなります。

こける(致命的な失敗をしてしまう)わけにはいかないので、どうしてもまず「守り」から考えてしまいます。そうすると個々のご縁の「違い」が大きく目の前に立ちはだかるかたちになり、わたしの好きなものと苦手なものとがくっきりわかれてしまうのです。好きなものには、ほおっておくとどんどん入れ込んで他をほったらかしにしてしまいかねないので、ブレーキをかけます。苦手なものほど「何とかしなければ」と思ってかえって力が入ってしまい、結果的に苦手感がよけいに強まる。絵に描いたような悪循環!

それが、何の拍子にか、一番入れ込みたい楽しいものと、力みかえってやっと踏みとどまって対応しようとしていた苦手なものとが、底で通じたのです。わたしには「わからない」ところで。

わかろうと、というか、好きだとか苦手だとか区別しようと、しなければ同じことじゃないか。とたんに、不思議なくらい楽になりました。

(上の一文は、わたしには珍しいくらい大胆なウソです。ここに丸々1回分以上のことを書いていたのです。が、それを全部削除しました。「できました」という方が近いのかな。「楽」になったのは、その結果です。)

今は何だか、すべてのご縁を、表向きがどうであれ同じ立ち位置で、楽しみ驚けそうな気がしています。(←これは明らかに間違っていて、いずれそのボロが出るのですが、でも「今」わたしがそう感じているというのはわたしにとっては事実で、だからこれでいいのです。)

おっと。書き始めた時点での予定と、今の(わたしにとっての)状況が大きく違うので、ウソでも最低限のつじつま合わせをしておかなくてはなりませんね。やっとつながった結果、それまでつながっていると思っていたものはばらばらになりました。だから出だしの一文は(当初の意味においては)ナンセンスなのですが、今、思いがけないかたちでつながっているのはより大きな事実なので、あらためて断言します。

わかろうとしなければ(わからないことに信頼できれば)、すべてはつながっていました。

合掌。

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