忘れ物 (3月31日)

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うちの末っ子(そう、新高一)は、忘れ物が上手です。

先日の高校入試の日も、30kmばかり離れた会場までバスで行かなくてはならないのでかなり早く家を出たのですが、「行ってきま~す」と家を出たほんの数分後、「ただいま~」と引き返してきました。上履きを忘れていたようです。いつもと変わらぬ様子に、これなら今日の試験は大丈夫だなと思いました。

(実際、きちんと結果を出しました。 いや、この子なら、受験票を忘れていたとしても何とかするんじゃなかろうか。帰ってきてからそう話したら、「さすがに受験場を忘れたらあわてる」と平然と言っていましたが。)

想のおっちょこちょいは血筋で、怒る気にもなれません。そう言えば数年前、庭の草引きをしていて二つ道具を使ったものですからいつの間にか一つをどこかに置いたまま、見あたらなくなってしまいました。かなり探したのですが見つからず、とうとう母にどこかで目にしなかったか聞いたところ、母いわく「これで跡継ぎはできたね」。三代がかりなら筋金入り(?)です。

忘れ物は、しないに越したことはありません。しかし、すまいと思っていてもしてしまうのが忘れ物です。通常忘れ物などせずきちんとしている人なら、かえって小さな忘れ物にうろたえてしまうかもしれない。いつも忘れ物をし慣れていると、少々の忘れ物は平気になります。まあ何とかなるだろうと。少し前、葬儀に出かけてお経本を忘れていて、さすがにあわてましたが近隣のご住職に Help! の電話を入れて届けてもらい、何とかしのぎました。

忘れ物など愚の骨頂、できるだけ賢くスマートに、貧乏くじを引かず負け組に回らず、失敗しないよう先手を打ってというのが現代の風潮です。しかし、私たちはみんな、一人残らず取り返しのつかない大失敗をしてしまっているのです。何の準備も心構えもなく、迷いの真っ直中に「生れて」きてしまっているのですから。

生れてきた以上、いつか必ず死ななくてはならない。生れてきた以上、刻一刻老い病みつつ、生きていかなくてはならない。それを棚に上げて「私はしっかり者です」面は、それこそ笑止千万でしょう。

しないに越したことはない忘れ物ながら、せずに済めばこの上ない失敗ながら、いつも忘れ物をせず失敗をしないように気を張っているのは窮屈です。それに、してしまった失敗は取り返しがつかない。

それを見越してのお慈悲です。何があっても大丈夫と。如来の大悲あればこそ、何があろうと、少々恥ずかしい思いをするばかりのことで、とにもかくにも生きていける。死んだ先のことは如来様のおはからい、私が気にかける必要もない。

でも、忘れ物はしないようにしましょうね。

合掌。

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