(10月7日)

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ずいぶん前(ほとんどこのサイトを立ち上げた頃)から、「穴」というテーマに関心を持っていました。突然、「『私』とは穴なのだ」と思ったことがあって、一時期はそれをきちんと肉付けしようとまとまったものを書き始めてさえいたのです。

しかし外堀を埋める話題はいくつか思いつけるものの、肝心な部分についてはまったく見通しが立たず、立ち消えのようになっていました。久しぶりに思い出して書きかけていた部分を読み直してみると、「穴」を、漠然と「内部と外部が交流するところ」のようにとらえようとしていたことが読み取れます。それが行き詰まりのもとでした。

一方、最近、心理学やカウンセリングなどのことを考え直していて、重要なことに気付いたのです。

ちなみに、わたしはどうも心理学になじめません。学生時代から興味は持ち続けているのですが、何を読んでも「隔靴掻痒」にまで至らない「隔壁掻痒」といった感じで、いつの間にか関心を失っていました。

面白いのが、わたし自身のことと切り離していわば「一般的な」自己をとらえようとする類のものは、まだ読めるのです。内容に賛同するかどうかは別として。ところが、精神分析など、一般論では意味がなくて「個別」に切り込んでいこうとするものほど、読めない感が強くなる。わたしが知りたいと思っているのは一般論ではなくて、「この私」という個別のとらえ方であるはずなのに。

わたしには心理学のセンスがないのだろうと、半ばあきらめていました。社会科学全般はじめアンテナの欠落している領域はほかにもたくさんありますが、それらはわたしにとってあまり痛くも痒くもありません。しかし心理学ばかりは、理解できないのをどこかさみしく思っていました。

ようやく、事態が納得できました。仏教で定位される「私」には、そもそも「内面」などというものが考えられていなかった。

その思いに立って、そのとき一気に書いたものを「貼り付け」ます。

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仏教では、無我を基本的な考え方の一つとしています。ここでのは「それ自身で独立して存在する実体」といった意味で、近代的な自己などよりははるかに広い(あるいは、立脚点が異なるためほとんど重なりを持たない)ものなのですが、いずれにせよ、仏教には自己や、あるいはもっとやっかいな「内面」などというものがありません。

無我を説く仏教においても、行動主体は常にあります。その行動主体そのものを実体視することはありませんので、或るはたらき、ないしは効果、という響きで理解されますが。

初期の仏教では、自分自身を指す「私」はそのまま残っています。根拠なく自分の本質・実体のように思い込んでいるものを、一つひとつ「これは〈私のもの〉ではない」「これは〈私〉ではない」「これは〈私の自我〉ではない」と吟味して、我執を解きほぐしていくのが原初の無我観でした。

大乗仏教が登場すると、その「私」をひっくり返してしまいます。中観のくうです。私の側からものごとを見るのではなく、いわば「全宇宙」に向かって自らを開くことが課題ととらえられた。「『私』は有るのでもなく、無いのでもない」と言うとき、宇宙の全体性への信頼が問われているのです。ですから、虚空、あるいは涅槃は、はっきり実体視されます。そんな大乗宇宙観に相即し得る「私」を問題にしたのが、唯識です。誤解を恐れずに言い切ってしまうならば、「私」の根底に、「機能している信頼」を見るのです。

宇宙の側の全体性とそれに呼応するこちらの側の信頼との相即の内に、種々の大乗思想が花開きます。華厳では全体性=信頼のようにとらえられ、ただ感嘆のみが響きわたります。どのような意味においても、「私」は消し去られてしまいました。天台では個々の信頼をつなぎ合わせて全体に届こうとします。個の「重さ」が、天台においては受け止められました。真言は「私」の個別を残したまま、全体となろうとします。このとき全体は、個別の目のくらむような重なり合いと現われます。フラクタル、あるいは、曼陀羅です。

そのような中に、禅と浄土が登場します。ともに、「私」が全体を支えることを放棄しました。全体を全体の側に任せてしまうという意味で信頼の深化でもあり、こちら側からでは全体に届けないと認めるという意味では個別(≒自己)の自立でもあります。両者のうち、禅はただ「開く」ことのみを残しました。それは限りなく「開かれる」ことに裏打ちされたものではあるのですが、開き開かれる場には、なにがしかの「私」的なものがまだつきまとうのです。「私」は開き(あるいは開かれ)続けなくてはならない……。対して浄土は、「開かれている」ことを既存の事実として受け止めようとしました。しかし最後の最後、開かれているという出来事を事実と「する」主体性の手を、放し切れなかった。

そして親鸞聖人です。親鸞聖人は何もなさらなかった。何かを「できる」者がしないのではない。「できない」と開き直るのでもない。ただ、何もできないところに立ち尽くされ、握ろうにも放そうにもそんな主体性そのものに見放されているご自身を、見つめられた。

そうやって、ただの穴でしかない、いや、ただの穴である、ご自分に出会われた。

穴が穴であるとは、そこにおいて異質なものが接し、そこを確かに何かが通り抜け続けていることです。全体はもちろん信頼も、「私」ではなかった。ここにおいて全体と信頼が相互に面して(あるいは全体と信頼が分かれて)おり、互いに相手と交流しているその現場の「リアル」な感覚、それこそが、親鸞聖人が浄土真宗(浄土のまことのむね)と喜ばれた「私」の姿なのです。

浄土真宗的な「私」にとって、一切は「外」です。内面どころか、「私」には何もありません。何もないが故に…… そのままで、一切に包まれた、今・ここです。

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あまりに話を急いでいるためこのままで外に問えるものではないのですが、ただ「お蔵入り」させるのももったいなく、とりあえず前後を「補足」のオブラートで包んで、いずれ加工し直す素材として人の目にさらすことにしました。

この気づきは、大切に育てていきたいと思っています。

合掌。

文頭