富士山 (9月2日)

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久しぶりに富士山を見ました。

山梨県の大月市でご法縁をいただき、出講してきたのです。ご当地の方には失礼なことながら、大月へはどう行けばよいのか(東京まで行って引き返して来るのか、あるいは三島あるいは熱海あたりからバスなどの便があるのか)わからず、問い合わさせていただいたようなことでした。最終的に三島駅まで車で迎えに来てくださったのですが、三島~大月は片道約1時間半、もったいないことです。

(なお、大月市を基準に考えると、一旦東京まで行って引き返してくるのが「一般」のようです。たまたまお迎えに来てくださった方が大月市内よりは三島寄りにお住まいであり、三島駅の近くに親戚のお寺があるとのことで往き来に慣れていらっしゃることから、このようにしていただいたようです。)

駅に着いたときは曇りだったのですが、静岡県側を上りに向かっている間に土砂降りの雨になりました。迎えにお見えになる際、山梨県側は曇りで静岡県に入ってから少し降っていたとのことで、丘(富士山の裾野)を越えたら止むだろうと楽観視していたのに、山梨県に入っても止みません。

結局そのまま降り続き、夜の法座も雨でした。集中豪雨というほどではなかったものの、十分に激しい雨で、皆様足元の悪い中お集まりいただいたことになり、恐縮なことでした。

山口県を発つ前、関東方面では集中豪雨で大変と聞いていたので、余裕を持って1本早い新幹線を使っておく必要があるかとまで考えました。ですから、富士山を見ることができるなどとはまったく期待していなかったのです。

富士山そのものには、東京で過ごしていた学生時代、友達と一緒に一合目から歩いて登ったことがあります。うちの子どもたちも五合目までは車で連れて行ってやっており、どうしても見たいというほどの思いもなく、まあ、(失礼でなければ)どうでもいいことでした。

夜のご縁が終わり、宿に送っていただいて、やはり疲れていたのでしょう、着替えだけしてそのまま倒れ込むように寝てしまいました。その分朝は早くに目が覚め、まだ薄暗かったのですが何も考えずに窓のカーテンを開けたら――目の前に富士山があったのです。

裏富士です。きれいな左右対称のシルエットでした。思っていたよりも小さく(正確には低く?)感じました。

昨夜の雨にもかかわらず富士山が「見えた」ことに単純に嬉しくなって、富士山が正面に見える位置に陣取ってそのままぼーっと眺めていました。空が明るくなるにしたがって裾野に雲がわき始め、しかも山頂に向かう上昇気流があるのか、富士山のあるところだけ雲が上へ上へと伸びていって、夜が明ける頃には雲に隠されてしまいました。

それに伴って――富士山がどんどん大きく高くなっていきました。

その日はもう法座はなく、近くのお寺を2ヶ寺ほど訪問して、それぞれしばらくご法義談義をして過ごさせてもらいました。お会いした皆さんそろって素朴で実直な方で、ご法義の味わいの話に時が経つのを忘れて花を咲かせました。これに勝る「お接待」はなく、とにかく楽しい時間を過ごさせてもらいました。

もう雨は降りませんでしたが、その日の日中、富士山はずっと雲の中でした。

しかしどこにいても、富士山が「そこ」にあるのが感じられます。地元の方は富士山を意識して見ることがほとんどなくなっていて、旅行客から「今日は富士がよく見えましたね」と言われ、「ああ、そうでしたか」と返答するようなことも少なくないとか。でも「見る」富士よりも「感じる」富士の方が大きく確かで、「忘れている」富士はさらにどっしりとそこにあるのでしょう。

いつも富士山に見守られている生活。ちょっとうらやましく思いました。

合掌。

文頭


草引き (9月16日)

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子どもたちに、草引きの講習をすることになりました。

日程などはまだ決まっていません。私の方から中学校の校長先生にお願いして、前向きに検討してもらえることになっています。いきなり全校生徒ということではなく、1つの学年だけということになるでしょう。そのくらいが人数的にも好都合なのですが。

いきさつは、偶然がからんだ中で「正論」が通った、といったかたちのものでした。

中学校での体育祭に先立ち、8月の末に環境整備作業がありました。鹿野(かの)では小学校と中学校のグラウンドが隣り合わせになっているのですが、春先、学校側の手違いから予定日が小学校と重なってしまっていたのです。例年、中学校が先に行ない、次の日曜日に小学校、という実施形態なのですが、子どもを小中両方へ通わせている親から見ると、2週続けて行事が入ることになります。せっかくだから同じ日に合同で実施しようということになりました。

小学校のPTA会長さんとも話をし、作業内容の多い(校舎内の美化作業も含まれる)小学校を優先して、事実上グラウンドの草刈り・草引きだけの中学校側がつじつま合わせをすることにしました。つまり、小中両校に子どもさんを通わせていらっしゃる家庭では、小学校側に参加してください、ということです(合同と言っても、同じ日に実施するというだけで、指揮系統他は小中それぞれで独立です)。多少人手が少なくなることになりますから、地域の方にも応援をお願いしようということになりました。

さらに、グラウンドの境目のあたりはどちらも手を出すのが最後になり、双方の微妙な遠慮も重なって、緑の帯になっているのです。今年は合同で作業をするメリットを生かし、ここをきちんときれいにしようということが提案されました。当日の作業だけでは間に合いませんから、事前に地面をならす器具を車で引き回してある程度きれいにしておくなど、下準備もかなりしました。公式には不可なのですが、後日、緑の残っているところには隠れて除草剤をかけておくということまでしました。

しかしそこまでして、見かけ上はかつかつ誤魔化せているものの、手の届いていないところがたくさん残っているのです。これから児童・生徒数も減っていくなか、これだけの広さのグラウンドをどう維持していくか。反省会の席で、それが問題になりました。

私は「趣味は草引き」と公言しているくらいで、草引きは大好きです。学校関係者だけで手が届かないなら、外部にいつもグラウンドの草の様子を気にしていて、必要に応じて勝手に手を入れる、庭師ならぬグラウンド師的なサークルを作ってはどうだろうか、認められるならば初代の会長に立候補する、と提案してみました。ところがこれは却下されたのです。

グラウンドは、何よりまず子どもたちがきれいにするべきだ。それで追い着かないところは、もっともっと保護者が協力すべきだ。ただ外部に任せて、きれいになっていればよいというものではない。反対意見は、整理すればこのような内容です。

まさに正論です。わたしも、今回の環境整備作業の前、子どもたちが戦力として使えるのであればもう少し違う絵も描けるのだがとは思っていました。しかしどうせ連中はまともに草など引けないし、技術的に無理なものを「ここを自分たちできれいにしろ」のように振っても事は進まないと、最初から逃げていたのです。

それを、考え直しました。引けないのならば、きちんと指導してやればいいじゃないか。さっそく学校と掛け合って、あっさりと話が動き出しました。

実は、昔塾などで教えていたころ、どこか学習が噛み合わない子どもたちを前にして、講師の間で「こいつら、まとめて草引きでもさせようか」と話していたことはよくあったのです。きちんと草引きができるようになれば、学習の上でも必ず違いが出る。それは確信を持って言えます。ただ、それを本気で具体化しようとしたことはありませんでした。

それが、ひょんなことから実現できることになったのです。「これは楽しいことになったぞ~」と、実際に子どもたちにどうはたらきかけるか、あれこれ思いをめぐらせています。

まず、道具を指定します。使い慣れた道具があるのであれば強制はしませんが、グラウンドのような固い地面の草引きにはドライバーが一番です。大きさが20cm前後のプラスのドライバーを持ってきてもらう。そしてドライバーを使う手には軍手をします。どうしても固い地面でこすれるので、素手だとすぐに関節のとがった部分の皮がむけてしまいます。

そして一番重要なことは、草引きの「楽しさ」を伝えるという点にあります。訓練して一人前に仕上げるのではない。きちんと草が引けたときの、あの手応え、楽しさを、一人一人に体験して欲しい。それにはどうすればよいか。

結局、「草をきちんと引く楽しさを味わって欲しい」と伝えた上で、注意点を2つに絞ることにしました。1つ目、草引きの原点であり現場でもあることは、草を「一本一本ちゃんと見る」ことです。どこにどの向きでドライバーを当てるか。どこをつまむか。どのくらいの力が要りそうか。初心者向けにはこのあたりまででしょうが、本当は、(ほおっておいたら)これからどう大きくなっていくのか、どう種を落として広がっていくのかと、一週間先、一年先のことまで見えるようになって初めて免許皆伝です。

ですから、実は「見る」だけでいいのです。地面の下の根まで見る。その草を引いている自分の姿を見る。その草が生えている地面・環境を見る。その草が育ってきた歴史、はらんでいる将来まで見る。向き合った草とわたしを包む縁起の総体を見る。それが草引きの醍醐味です。しかしそれはちゃんと引けるようになり、一年を通じて草と付き合ってみて初めて見えるようになるものであるのも確かで、まだ引けない前からそこまで触れても無意味でしょう。

ということで、限りなく蛇足に近い2つ目は、「根まで引く」ことです。ちぎれてしまったら掘り返してでも根を残さない。それをいいかげんにしておくと、1本の草がまともに見えるようにならない。当然、草引きの楽しさにも届かない。

【後日訂正】

「根まで引く」では、あまりにも「課題」が表に出すぎて面白味にかけるなあと思っていたのですが、同じことを、「つまむべきところをつまむ」と伝えることにしました。つまむべきところを適切につまみ、いい案配に力を入れると、1本の草は1回の作業で必ず引き抜けます。

そこから先は、草に教えてもらえばよい。ほんとうに草の種類ごと、しかも草の大きさによってつまむべきところも力の入れ具合も違いますから、個別に説明し始めるときりがありません。しかしそこはよくしたもので、こちらが生身ですから、ちゃんと気を配ってさえいれば調整していけるはずです。というより、子どもたちの中には私が気づけなかったような「つまみ方」を見つける者が出てくることでしょう。

グラウンドということもあり、1つだけは具体的な説明をしておいてやろうと思っています。オオバコです。オオバコは初級の上くらいの難易度かな。工夫なく「自然に」つまむと、オオバコではつまむところが上すぎて、まず必ず葉だけちぎれて根が残ります。地面上に出ているところから1cm弱下、一度円錐形に広がった根が、急に細り始めるところがあるのです。そこをちゃんとつまむと、つまむ力にもよりますが、1回で引き抜けます。

なお、念のために補足しておくと、初級の上くらいという難易度は、「1本の」オオバコを問題としての話です。オオバコは群生するので、1回の視野(仮に10cm四方としておきましょう)に大小取り混ぜて数十本生えていることがままあります。それに気力負けせず、1本1本すべてていねいに引くとなると、中級になります。

それから、「1本の草は1回の作業で必ず引き抜け」るというのも、やや建て前です。シロツメクサやカタバミなど、つる性のものは、あちこちに根をおろすので、それぞれを引き抜かなくてはなりません。相手が大物であれば、つるを切って、複数に扱わないと手に負えないこともあります。が、大元の根を見つけてそこから手をつければ、感覚的には1回の(一連の)作業と言えなくはありません。

また、ドクダミなど、地下茎がからむものは話が別になります。(土が掘り返せるところであれば、ドクダミは引けますが。難易度は上級の下くらいでしょうか。) しかし鹿野中のグラウンドを問題とする限り、地下茎がらみの草はないので、今回は触れません。

そして、私にも今のところ手に負えないものもいくつかあります。1つはスギナです。茎が弱いので、どこをつまんでもちょん切れてしまいます。地下茎を掘り出すとしても、深さが尋常ではなく、掘り返す作業中に千切れてしまうこともあり、(重機で土ごとえぐり取って水で洗うなどということをしない限り)「きれいに1本(1株)引き抜く」ということの実現しようがありません。

実は、今回課題となっているグラウンドに生えている草の中で、シバ(ノシバ?)も、まだ対応法が確立できていないものに入ります。地下茎ではありませんから理屈上は気長に挑戦すれば引き抜けるはずですが、節ごとに出ている根が強く、複雑にからまり合っているので、現実問題として時間的に折り合いがつきません。今思いつけるとしたら、重機で土ごとけずり取るか、強力な除草剤に頼るかくらいです。(もちろん、「一面」になる前の、まばらに生えている状態であればさほどの難なく引けます。)

子どもたちは、あちこちで、きっととまどうと思う。でも、とまどって、そこで工夫するのがポイントなのです。周囲の、「かっこよく」草を引けている友達を「見る」のもいい。試行錯誤を繰り返すのもいい。楽しくなるところまで続ければ、必ず楽しくなります。

さて、この2点だけでどこまで伝わるかなあ。実際に草引きの楽しさを味わってくれる子が、どれくらい出てくるかしら。心細くなってくるととたんに気持ちが萎むのですが、やってみないことにはわかりませんし、何より始まりません。そして、何としてでも伝えなくてはならないことでもあります。

【後日補足】念のために想(そう、中三)に試してみたところ、「1本1本きちんと見る」と「つまむべきところをつまむ」でいいと思う、との感想でした。

いっしょに楽しんでもらえなければ、楽しくない。実際に味わってもらう以外に、方法はない。

手元に集中しないと楽しくならないので、「おしゃべりはしない」というのも必要と言えば必要なのですが、これは最初からは言わないことにしています。そんなどうでもいいことを言っていると、大切なことがぼやける。

とにかく、草引きは間違いなく「楽しめる」ことなのです。生きていることと同様に。

合掌。

文頭


還相回向 (9月30日)

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大きなことを、勘違いしていたのに気がつきました。

浄土真宗では、二種のこうということを説きます。往相おうそう回向と還相げんそう回向の二つで、往相とは「往く」ありさま、迷いの私がお浄土へと往かせてもらえるからくりやそれを知らされた私の思いを指します。対して還相とは、ひとたびはんのさとりの境界へ到ったものが、あらためてこの迷いの世界へと還ってきて、衆生教化に勤めるさまという内容です。共に阿弥陀如来のはたらき(=他力)であると受け止めることから、回向と添えられます。

それを背景としての話です。

ご葬儀やご法事などの席で、「倶会くえ一処いっしょ(ともに一処にて会う)」というお取り次ぎをよくします。一処とは言うまでもなくお浄土のことです。亡くなっていかれた方とも、命終えようとなさっている方とも、お浄土でまた会おう、という響きです。

一方、ここのところ私は、「先に亡くなっていかれた方は、晴れてお浄土参りをなさっており、今ではご本尊南無阿弥陀仏様と同体の仏さまなのです」というご案内をすることが多くなっていました。「お浄土でまた会おう」という話と、「今では南無阿弥陀仏様」という話が、私の内で微妙に食い違っているぞと意識はしつつ、あまり踏み込むこともしないままに過ごしていたのですが。

先日のご法事(ご葬儀後の還骨かんこつ勤行)で、たまたま寺の本堂を使ってのご縁だったことから、まえじょくの六鳥の紹介をしました。浄土真宗寺院の内陣(ご本尊が安置してある板張りの間)には、ご本尊が乗っていらっしゃる台(しゅだん)の前に、もう一つ大きな机があって、その上にお花・お灯明・香炉(3つ合わせてみつそく、お花・お灯明がそれぞれ一対になっていることもあって、その場合は具足)が置かれています。

この「前の机」を前卓と言います。前卓の全面には六つの枠があって、中にそれぞれ仏説阿弥陀経にちなむ鳥が彫り込んである(場合によっては描かれている)のが普通です。このような様式を六鳥彫りと呼びます。仏説阿弥陀経の中に、「かの国にはつねに種々奇妙なる雑色の鳥あり。びゃっこうじゃくおうしゃりょうびんみょうの鳥なり」と、具体的に六つの鳥の名が出てくるのです。

個々の鳥の説明は省略させてもらいますが、要するに、お寺の内陣(あるいはご家庭のお内仏)はお浄土を模したもので、お浄土には花が咲き乱れ鳥が鳴いているというご案内です。

ご法事では仏説阿弥陀経をお勤めしますから、少しでも阿弥陀経に親しんでもらえたらと思ってのことです。いつもであればそこで止まるのですが、葬儀の前後に「今はご本尊様」とご案内した直後だったものですから微妙な食い違いが気になって、「でもこのお浄土は、お母様が往ってのんびりくつろいでいらっしゃるところではなくて、今はご本尊様と一体となっていらっしゃるお母様が、『あなたのために』一生懸命お荘厳くださっていらっしゃる様なのですよ」と言い添えたのです。

言って、自分で驚きました。そうだったんだ! と。これなら確かに食い違いはありません。そればかりか、お浄土とより強いご縁をつないでいただけることになります。

倶会一処とは、人間世界でのように、対等な者同士が会うような会い方ではなかったのでした。今は永遠のいのちの仏となってくださってある懐かしい方と、つまり懐かしい方のご縁も重なってくださってある阿弥陀如来と、私自身も一つとさせていただくような出会われ方だったのです。

これこそ、お亡くなりであった方が、迷いの世界に身を置いたままでいるこの私のために、まさに還ってきてはたらいてくださっているお姿、すなわち還相回向に他なりません。

還相回向を、このように身近にリアルに感じられたのは、もったいないことながら、初めてのことでした。

合掌。

文頭