スピリチュアル (11月23日)

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最近、自分の立ち位置が、これでよいのかまずいのか、少し混乱しています。

朝日新聞「こころ」欄で取り上げていただいたあたりから、『遊雲さん 父さん』への反響が、確実に一回り広いところから届くようになりました。それまでは何やかや言って「浄土真宗」とつながりのある方を中心に受け入れられていたと思うのですが、そこを離れ、はっきりとした色を持たない世界に接し始めたような感触です。

お手紙、メール、読書カードなどを通じて、男性からのコンタクトが増えました。年齢層もかなり下がったように思います。逆に言うと、これまで直接感想他を届けてくださった方は、(多少なり浄土真宗に親しい)年配の女性が中心だったということです。さらに、直接大切な人を亡くしたというわけではない方からも、コメントをいただき始めました。

基本的には嬉しいことであり、ある意味目指していた(?)ところでもあるのですが、とまどうことも増えました。

一番とまどった(驚いた?)のが、「この本は浄土真宗を超えてます!(取意)」という感想でした。何が言われているのかわからなくて(「私」にとって、「浄土真宗を超えたもの」など考えようがありませんから)、ていねいにその方の讃辞の背景をさぐってみると、どうもスピリチュアル系の受け止められ方をされているようなのです。

スピリチュアル(spiritual)とは、辞書的にはマテリアル(material、「物質的な」ないし「肉体的な」)と対になる形容詞で、「霊的な、精神的な、神聖な」という意味です。しかし最近ではある独特な語感を伴って、名詞として使われることもあります。

わたし自身、「宗教的」と打ち出すと、たとえばカルト的・狂信的な宗教の連想などから警戒されてしまいそうなとき、その警戒感を解いてもう少しゆるく受け止めてもらうために、積極的に「スピリチュアル」という言葉を使うことがあります。そのときの私の思いとしては、「ふっと自分が開かれるような、素朴で自然な感情や体験」を指そうとしていることになります。

そこにとどまるのであれば問題はないのですが、スピリチュアルは一方でとんでもない拡がりを持っています。細かく触れ出すと切りがないながら、ヨーガあたりから始まって霊視などの眉唾もの、果ては魔術などのかなり危険なものまで、「近代合理主義思想」に対して異を唱える一切のものをスピリチュアルとくくることができのです。

少し整理をしておこうと、磯村健太郎著『〈スピリチュアル〉はなぜ流行るのか』(PHP新書451)を読みました。(実は、磯村様は上述の朝日新聞「こころ」欄を取材してくださった方でもあります。この本自体は取材を受けるよりも前に買っていて読む暇がなく、ほったらかしになっていました。磯村記者が著者とはしばらく気づかずにいたのですが。)

読み終えてしばらく、がっくりと落ち込みました。

ここのところ、中学校を中心に、小学校高学年や高校も含め、学校で「子どもたち」相手に話をさせてもらう機会が増えています。試行錯誤を重ね場数を踏む中、「こういう語りかけが子どもたちに響く」といったノウハウを少しずつ蓄えてきていたのですが、そのことごとくが、スピリチュアルの枠内で、すでに誰かが開拓し実践しているものだったのです。

別に、私は自分のオリジナリティにこだわっているわけではありません。ですから、「他にも同じことに気づいている人があったのか、それならばこの方法が有効であることは間違いない」と鷹揚に構えてもよいくらいです。が、表現しようとしていること・表現できていることの、射程が問題になるのです。

私は、浄土真宗を表現しようとして、スピリチュアルに貶めているのではないか。

スピリチュアルを最大限好意的に解釈すれば、「人間の理解・はからいを超える何かが働いているという感覚」ですので、浄土真宗と直接食い違いはありません。少なくともその入り口として。しかし、逆に私の警戒感を込めて悪意にとらえると、「宗教を人間中心主義・個人主義的なサイズに矮小化したもの」とも言えます。それにくみしてしまうのは、何としても避けたい。

一応確認をしておくと、私は私の表現しているものがどのように受け止められようと誤解されようと、そのこと自体はまったく構いません。というより、私がどうのこうの言えることではなく、私たちの使い慣れた表現に逃げるならば、各自のご縁にそって受け止められる以外にないことだと思っており、さらにたとえ極端な誤解(私の真意とは逸れた解釈)であったとしても、その方にとって何かのきっかけとなったのであるならば嬉しいことと喜んでいます。

しかし、どのような言葉(表現)も、それがどう響いたかによって、絶えず重心を移していきます。私も、私の責任を確認するために言い切っておく必要がありますが、小さいながらも表現者です。私は自分の表現が重心を移していることに引きずられずに、当初の思いを表現し続けられるか。

もっと厳しく問うならば、そもそも私は浄土真宗に触れていたのだろうか。

私が、必要以上に浄土真宗系の用語に頼らず、ある思い・味わいを表現しようとしているのは事実であり、またこれからも大きくは変わらないと思います。浄土真宗の学者になることは放棄しましたので。

その一つの結果として、『遊雲さん 父さん』の読者や、学校の子どもたちなど、浄土真宗の枠内に留まっていては届かなかったところに響くようになっているということ自体は、素直に喜ぼうと思います。しかし怖い。「人間中心主義」とは、かくも深いとらわれなのかと、鳥肌だつ思いです。

私が、一現代人として、人間中心主義を離れられるわけはありません。それを阿弥陀如来はどう見つめてくださっているのやら。

合掌。

文頭


倫理 (11月27日)

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私は、倫理という言葉が嫌いでした。倫理的であろうとすることと宗教的であろうとすることは、ぎりぎりのところでぶつかり合う。あるいは、出発点を異としている。そんな意識をずっと持ってきたように思います。

論拠を、仏教における世間と出世間との区別に求めていました。

仏教で言う世間は、日本語でふつうに言う世間(人の世、世の中~地域共同体内での交際)よりは広く、必ずしも「人」に重心のない「世界」を指します。しかしその差異は決定的と言うほどでもないので、私は「世の中」程度の意味でゆるく使っています。もっとも、それが「迷い」の世界であるという明確な自覚を伴っていますから、その意味では「世俗」の方が適切かも知れません。

対する出世間は世間を超出することを意味し、簡単に言えば世俗に対する仏道のことです。

要するに、私は迷いの世界と、迷いを超えた世界とを、常に意識し分けようとしていたということです。けん虚仮こけ唯仏ゆいぶつしん

ただ、決して勘違いしないでいただきたいことは、「私は迷いを超えた世界に住んでいる」と言っているわけではないのです。簡単に言って、私は悟っているのではない。悟った立場から、言わば高みに立って、世間を虚仮にした話をしたいのではありません。

誤解を恐れずに言うならば、仏道の世界、迷いを越えた世界のことは、直接知ることができないばかりでなく、語ることすらできないのです。もの言えば 唇寒し 秋の風。ただ静かに耳傾ける以外にない。

では、そもそも私はいったい何を語ろうとしているのか。

私に語り得るのは、どこまでも世間=迷いの世界の内なる、私自身の姿のみです。それは最初から承知しています。迷っていると自覚している者がその迷いの姿を語るのですから、そこに「正しい」ものなど何もない。というよりも、「正しいことは何も語れない」という感覚こそが命で、その点において倫理という言葉の語感を嫌っていたのでした。

つまり、私は倫理という言葉を、「人として守るべき規範」のように窮屈に受け止め、そこに嗅ぎ取れる「正しさ」の主張に抵抗していたのでしょう。

多少なりの自己弁護も含めて、上の意識が完全にピントをはずしたものでないことは認めておくべきだろうと思います。でないと話は白紙に戻ってしまう。世間に埋もれて、出世間へと開かれる糸口さえ見失われ、迷いが迷いであると気づくことすらできなくなってしまいますから。

しかし、ただ倫理を嫌うのみでは次の一歩が踏み出せずにいたのもまた事実だったのです。

そんな中、茂木健一郎の『欲望する脳』(集英社新書0418)を読みました。これまでの自分がひっくり返されるくらいの、強烈なインパクトでした。

>かつての私に思い至らなかったのは、人間の欲望というものはその最高の知性の表れでもあり得るということだった。自然は、そもそもその内側に人間の脳が表出するのと少なくとも同程度の知性を宿しているという事実だった。(p.219)

>かつて、私は孔子の教えと老荘思想を対立的に考えていたが、「人間」という存在を深く掘り下げていった時、小異を超えた大きな風景が見えてくる。「自らの欲望を肯定する」ということが、「利己的」というニュアンスを失って生命哲学的な深みを呈するに至った時、人類はその長い概念上の進化の階段をまた一つ上ったことになるのだろう。(p.220)

必要以上に倫理を恐れる(そこに含意される「正しさの主張」を警戒する)必要はなかった。むしろ、倫理を包みつつそれを踏み越えていけばよいのだった。

自らを正しきに置かないとは、予定調和の解に安住しないことです。言い換えるならば、「生きる」という謎に対して開き徹すことです。つまり、あらかじめ計算することなく、その時そのときの「今」という出来事に、とまどいうろたえつつもしっかりと踏みとどまるならば、それは正しきに絡め取られることのない、常に正しきの向こう側へも滲み出している姿となるということです。

「今」とは、切り取られた瞬間などではなくて、持続の真っ直中にある動きです。むしろ、「今」のその動き(ないし、動的平衡という意味におけるバランス)の内にこそ、将来も、過去も、形を取ってくる。

そして「今」の中へ入り込んでいくには、開かれる以外にありません。開かれてあるとき、そこには一つの大きな信頼が機能しているのです。機能している信頼。その半身はこの私の迷いの生そのものなのですが、その裏側は、全宇宙に支えられているのでした。

出世間に照らされて初めて、世間が世間(迷い)と知れます。出世間を欠いた世間は、まっとうな迷いにすらなれず、まさに宙に浮いた限りのない不安の様相を呈することでしょう。

合掌。

文頭