狂う (5月6日)

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最近、ひろさちやさんが「狂い」を広めていらっしゃるようです。

わたしが直接読んだのは『「狂い」のすすめ』だけですので、あまり踏み込むことはできません。また、本質的なところでは深く共感するものの、個人的にはうまくバランスを取っていらっしゃるなあというか、結局ご本人は狂ってはいらっしゃらないんだなと、少し醒めて受け止めています。

(ちなみに、フィロソフィーの philo 「愛」と、サンスクリット語の satya 「真実」とを組み合わせてペンネームになさっているのですから、並大抵の方ではありません。)

仕掛け人のひろさちやさんを離れて、以下勝手に「狂う」をひろげさせてもらいます。

まず、最低限の整理をしておきましょう。「狂う」がどういうことであるのかの前に、何に対して狂うのかをはっきりさせておきたい。

わたしは、「いのち」を、三層に分けて考えています。簡単に言えば、生物的な「生存する・いのち」、社会的な「つながる・いのち」、そして宗教的な「よろこぶ・いのち」です。順に拡がりも大きくなっていて、生物的ないのちが直接帰属するのは生物個体ですが、社会的いのちでは(歴史・伝統も含めた)共同体、そして宗教的いのちは全宇宙のスケールになります。

いのちを三層に考えることに対応して、たとえば「自分」などといった主題にしても、それぞれの層において吟味することができます。ここでは、「狂う」を同様に眺めようとしているわけです。

生物的に、狂う。社会的に、狂う。そして宗教的に、宇宙大で、狂う。最終的にはつながっているというか一つのことがらだと思っていますが、あえて分けて考えてみるのも一興でしょう。

生物的に狂うとき、直接には、有機的で安定した機能に対して、狂うことを指します。健全な状態から大きく逸脱した状態、病気や怪我の全般は、生物的な狂いです。(もっとも、ある種の病気はむしろ「社会的」なもので、純粋に生物的に考えてみると狂いととらえる必要はないものもありそうですが。)

一般に一番大きく問題になるのは、社会的に狂うことでしょう。ですからここは少していねいに吟味してみます。

まず、「何に対して」狂うのか。この時点で、漠然と「健全な共同体」のようなものが想定されていることが浮かび上がります。

一旦、それをどう規定するかなどということには興味を持たずに、「健全な共同体」というイメージは、健全な身体と同様、成り立つものと仮定してみます。そうすると、社会的に狂うこと自体に、二つの側面があることがわかります。

一つは、ある共同体の成員が、その共同体の健全な機能に添うことができなくて、単に社会的に脱落するだけという側面です。共同体の側には、福祉などの主題で課題となるでしょうが、それ以上ではありません。

もう一つは、ある成員が狂うことで、その共同体の健全な機能に差し障りが出るという側面です。このような形で狂った者は、社会的に徹底的に排除されなければなりません。健全な身体における細菌などの異物や、もっと悪くするとがん細胞と同等なのですから。

このあたりで、一旦仮定した「健全な共同体」というイメージがぐらつき始めます。ひろさちやさん流に「社会が狂っている」と言うとするならば、その狂いはどこに帰属し、どんな観点から、何に対して言えるものなのだろうか。

原理的に「社会」そのものを相対化する視座が必要になるのですが、ある程度は、最初に「社会的」と対置した、「生物的」観点からとらえることができます。簡単に言って、個々の成員が「生物的に」生存しにくい社会は、きっと狂っているのでしょう。

しかし、現代の日本を漠然と想定するとして、「生物的に」生存が難しいとは言えないでしょうから、それだけでは問題は片付きません。日本全体での成員数(人口)が減り始めていることを考えれば、そういう側面がないとは言い切れないと思うものの、純粋に生物学的に考えれば、ヒトという動物は環境許容力を大幅に超えてはびこっていると見る方が適切だと感じますので、問題はやはり別のところにあるのでしょう。

そこまで吟味した上で、宗教的に狂うことに関心を移します。

宗教的に狂うとは、何が、何に対して、狂うのか。

宗教を、「社会」の上位に来るもののように据えて吟味してみることもできると思いますし、ある意味必要でもあるのでしょうが、あまり関心も素養もないのでそちらは無視します。「社会」は可能な限り無視して、それとは別のチャンネルで「わたしにとっての」宗教という側面で考えます。

健全な身体からの類推で言えば、「健全な宇宙」とでも呼ぶべきものをイメージする必要があります。しかしわたしは宇宙の外に立つことはできませんから、それは「善きかな」というわたしの感嘆、でなければ宇宙の側の自足ないし豊穣の自覚以外にありえません。

わたしにとっては、つまり浄土真宗的には、それは正覚の阿弥陀、お名号としての南無阿弥陀仏です。

全宇宙的な「善きかな」に対して狂っているのは、一方では当然悪人たるこのわたしですが、それだけではありませんでした。わたしが狂っている限り、全宇宙も狂っている。わたしが南無阿弥陀仏様に対して狂っているとき、南無阿弥陀仏様は「このわたしに対して」狂ってくださってあるのです。お念仏としての南無阿弥陀仏です。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。

とんでもない結論になってしまいました。でも不思議に、さほど驚いていません。わたしはよくよく狂っているようです。

合掌。

文頭


楽しむ (5月20日)

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おかげさまで、『遊雲さん 父さん』が好評のようです。

発売直後は身内――直接・間接の知人や、浄土真宗教団内部の方――が中心だったのですが、これまでわたしはもちろん遊雲のこともまったく知らず、たまたま書店で見かけて求め、読後このサイトへアクセスして、メールを送ってくださるといった方もぽつぽつと出始めています。

(一方ですでに「古本」市場にも出回っていますから、当然かつさみしいことながら、ご縁のつながらなかった方もあるようです。)

いろんな感想の中、今のわたしにとって一番嬉しかったのは、「父さんは父さんの生を生きる(163頁最後)」という一節を指して、ここを読んだとき「肩の力がすっと抜けて、とたんにいろんなことが楽になり、自分も『生きよう』と感じた(複数よりの取意、文責有国)」というものでした。

これは確かにこの本全体の急所です。書き始めた最初から漠然とここを「ちゃんと通り抜ける」ことを目指していて、無事通り抜けられた後には、そこに広がる独特な伸びやかさの尻尾だけつかんで、わたし自身いつでもその感覚を思い出せるようにできたらそれ以上書くことは残っていなかった、というあたりが執筆当時の実際だったとも言えます。

ところが、わたし自身にそうはっきりとは自覚されておらず、というよりこの一節さえ、自分の記憶の中ではほかのいろんなエピソードの中に埋もれて、はっきり「ここ」と定位されてすらいなかったのでした。(今はしおりをはさんで、ぱっと参照できるようにしています。というより、まだしおりが必要です。)

言葉というのは面白いもので、自分で口にする言葉を自分がみんな理解しているなどということはあり得ません。上の一節は、言いようによってはわたしがこの本の中で一番言いたかったことだとも言えることなのに、そして実際、これがやっと表現として据わった後には「もう用事は済んだ、蛇足を描き始める前に、できるだけぶっきらぼうに、さっさと終わろう」という意識をはっきりと持った記憶があるのに、実は、自分では言ったことを(もう少し正確には、どこでどのようにして、どう「言えた」ことなのかを)忘れていた言葉なのです。

それが、そこをきちんと受け止めてくださった読者のおかげで、そういう方々によってあらためて力を補われより強く焦点を結び直したからこそ、わたし自身がこの一節に出会い直すことができました。

話が一旦飛びます。

今、わたしは、「常識」では語れない自由さの中に住んでいます。ここを謙遜してしまうと話の整理しようがなくなるので、あえて偉そうな言い方をさせていただきますが、まともに生きています。

そんなわたしの目から見たとき、生きていない人が多すぎる。

補足しましょう。わたしは、悟っているのではありません。そう形容したい向きにはそのように形容されても構いませんが、仏教教学上、「生きる」とは「迷う」と同義です。わたしは、悟ることを放棄した、つまり迷い続けることを受け容れた、より正確に言えば受け容れざるを得なくてそして受け容れることのできた、だけの者です。

上の「できた」は、能力を問うていません。むしろ能力の放棄です。その裏に、能力(=自分の内なるもので、自分で信頼できる限りのすべてのもの)を放棄してなお自分でいられる(自分でしかなかった)という信頼ないしあきらめが厳然と機能しているのは決定的としても。

今のわたしの関心は、わたしが味わっている伸びやかな気楽さを、ご縁のある方と分かち合いたいということにあります。断っておきますが、わたしは「こうするとよい」という主張をしているのではありません。前述のようにわたしは「迷って」いることを自認しているのであり、あえて言えば「迷える≒迷っていてもよい」ことを表現しているのですが、これも行きすぎると迷っていることを免罪符あるいは隠れ蓑にしてしまう態度につながりかねない。

切りがないので、もう、言い訳と変らない気配りも止めましょう。わたしは、結局、楽しいのです。生きることは、楽しい。そこ以外にないわが生に徹して、迷いのままに生きていることが、楽しい。それをできるだけ素朴に、表明したいだけなのです。

遊雲を、どうしても「立派なお子さん」ととらえ、わたしたちに「大変でしたねぇ」と言うしかない方がいらっしゃるようです。その通りなのですよ。遊雲は素敵な子だったし、その遊雲が死んでしまって、わたしたち家族は大変な思いを通り過ぎました。

あるいは、「やっぱり遊雲君はつらかったのだと思う」と言ってくださる方があります。わたしは、『遊雲さん 父さん』の中で、まだ遊雲を美化しすぎているのかもしれません。わたしたちが大変な思いを味わわざるを得なかったのと同様、遊雲はつらさをまったく感じていなかったのではなくて、それはそのように表現したつもりなのですが、わたしの力不足と気持ちの曖昧さのせいか、そうとばかりは響いていないようです。しかたないのかな。

ところが、遊雲がらみの授業やわたしの話を聞いた後、小中学生の中に、「遊雲君、幸せだったんだね」といったトーンの感想を漏らしてくれる子がいるのです。最初にそれと直面したときには「この子は何を言っているんだ?」ととまどったのですが、何度も似た感想と出会ううち、今ではわたしなりに理解できるようになってきました。

遊雲は、出会ったつらさをそのままに包み込んでいる、ある楽しさも同時に味わっていたのです。そして子どもたちは、多かれ少なかれ直感的に、そこまで「楽しめる」ということを知っている。だから、遊雲の病気や15歳で死んでしまったなどということとは関係「なく」、遊雲が楽しんだのだということに信頼できた子が、思わず「いいなあ」と口にする。そういうことなのでしょう。

わたしも、今は同じところにいます。残念なことに、すでに大人になってしまっているわたしにとっては、それは「逆縁」という出来事を通じて初めてたどり着けたところでした。ですから、わたしにとっての条件であった遊雲の死を離れては、なかなかうまく表現ができません。しかし、ポイントはただ楽しんでいるかいないかにあります。わが子の死を楽しんでいるのでないことは言う必要もないことです。

そこから振り返ったとき、「わが生を生きているのかどうか」ということが、一つの関所であるようです。そこに関心を集中して、しばらく語りかけを続けてみようと思うようになっています。

合掌。

文頭


自殺 (5月27日)

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結局さして考えが進んだわけではないのですが、一度思いを吐き出して、区切りをつけてしまっておこうと思います。自殺の話です。

近くある講演で、小中学生相手に、自殺の話にも触れる約束になっています。もう避けるわけにはいかなくなってきました。

なお、最近では自死という表現がよく使われます。しかし調べてみた範囲では、単に自殺という言葉の重さを嫌って語感的に少しは軽い言い方にしているだけのようなので、わたしはこだわらないことにします。何より、そこに伴う重さや暗さから目をそらしていたのでは話になりませんから。

公の場で自殺に触れにくい理由の一つは、聞き手の中に、身近な者を自殺という形で亡くした人があり得るという点です。それを意識する限り、自殺という出来事はそもそも一般的には語れない。

まず、そのような自殺者の遺族へ向けての思いを整理します。

このときのポイントは、「自殺なさった方には、もうどのような悩みも苦しみも残っていらっしゃらない」という点につきます。というより、死に方は問題にならない。浄土真宗の立場からすれば、死んでいくということはおおきないのちと一つになることです。それは真如実相の世界であり、さらに残された「この私」へ向けての救済活動の現場なのですから、それを迷いの生からの類推でおとしめてはなりません。

ここまではよいのです。(いえ、決して「よく」はありませんが、話としては一貫しているという意味です。) しかし、今はまだ生きていて、ときにふと「死んでしまいたい」と思うかもしれない人、あるいはもっと生々しく、今が苦しくて苦しくて、とにかくその苦しさから脱れたいと願っている人がその話を聞いて、「死んだら楽になれるんだ」と思ってしまうとしたら困るのです。

一見、最初に話した自殺者の遺族へ向けての話と食い違うのですが、その食い違いは一旦無視して、きっぱりと言い切っておきます。

死は、何の解決にもなりません。もっと言うならば、「死ねる」と思っていること自体が大間違いなのです。

(「死ねない」ことについては「地獄」で触れていますので、ここでは取り上げません。)

「生きていること=良いこと≒勝ち」、「死んでしまうこと=悪いこと≒負け」といった安直な図式に乗っている限り、ここから先には踏み込めないでしょう。そんな底の浅い考え方は捨てます。生も死も同等です。迷いの内にある限り。

迷いの内にあるとは、言い換えると、閉じてしまっていることです。生きるか死ぬかなどどうでもよくて、ある開かれた体験と出会えるかどうか、迷いを超えられるかどうかが問題なのです。

最低限の用語の整理をしておきましょう。ただ無自覚に生きているだけの姿を、「生きる真似事」と呼んでおきます。同様に、何の解決にもなっていない死を「死んだことにならない死」とします。

そうすると、最近はやりのネット自殺などは、「生きる真似事」につらくなって、「死んだことにならない死」を選んでいるわけですから、話はちっとも前に進んでいません。死んだことにならない死を経て、生きる真似事はより深く偽物にせものとなっていることでしょう。

それに対して、迷いを離れた生ないし死を、「開かれた生」および「開かれた死」ととらえます。

「開かれた死」とは、往生のことです。この私の小さな迷いの生死をはなれ、おおきないのちへ抱きられていくことです。これはおおきないのちの側のはたらきです。おおきないのちの側から見る限り、どのような死も「開かれた死」なのです。

ですから、最初に言った「亡くなった方にはどのような悩みも苦しみも残っていらっしゃらない」というのは、実はおおきないのちの側から語ったものでした。これまでは口にするのを避けていたことなのですが、当の亡くなられた方ご本人のことには触れていないのです。

「亡くなられた方ご本人」という言い方自体、その人の何かがそのまま続いているかのようで、いかにも「死んだことにならない死」そのものです。ここで、話が一番大切なところに触れてきます。

まず「自殺者の遺族」に対してですが、あなたはその自殺なさった方を、苦しみ続けさせたいですか、おおきな楽しみの中にくつろいで欲しいですか。もし後者であるならば、変な言い方ですが、当の「亡くなられた方ご本人」のことはほおっておいて(その方の「死んだことにならない死」を真に受けずに)、おおきないのちに信頼してください。もっと言うならば、あなたの迷いで亡くなられた方を苦しみの内につなぎ止めるのではなく、あなたの信頼において、その方を救済してください。

上は、きわどい表現です。が、言いたいことは「あなた自身が(開かれた)生を生きよ」ということです。そのとき、亡くなっていかれた方も、ともに、開かれた死を死んでいかれる。

やっと、話を一本に絞ることができるところにたどり着きました。

わたしは、いわゆる人道的な立場(ちなみに、「人道的」という感覚を基本的にはまったく信頼していません)から「死ぬな」と言っているのではありません。そんな生ぬるい話ではないのです。

課題はどこまでも、このわたしが、あなた自身が、いかに「開かれた生」を生きるかにあるのです。それは、自殺ばかりか、偽物の生にも逆らう姿です。自殺を止めて生きる真似事に戻ってくるのでは、しゃれにもならない。

今回は必要以上に口調が激しく(厳しく?)なっています。「開かれた生」を生きるとは、実は立派な姿などではなくて、ただ楽で楽しいものなのですが、それは別の主題としましょう。

さらに、現実に今が「死にたいほど」つらい人に対しても、結局突き放したようなことしか言えていません。それも心外なのですが、とりあえず「話の中心」をわたしが自分自身に対して確認した作業と、好意的に受け止めていただければと逃げて、一旦締めくくることにさせてもらいます。

合掌。

文頭