(2月1日)

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この冬は薪ストーブをうまく燃やすのに苦労しています。

それほど寒くない日はぼそぼそ燃えているだけでもいいのですが、今日のように冷えるときはもう少しがんがん焚きたいのに、なかなか思い通りにいかなくて手を焼きます。

薪が乾ききっていないのが一番の理由です。夏の間に作っておくのが間に合わなくて、秋に台風で倒れた木を薪にしたものですから、まあ手抜きが今になって響いているということなのですが。

薪ストーブの薪には、本当は広葉樹を使うように言われます。しかし広葉樹で一冬分の薪を毎年準備するのは大変で、例年、植林した山の間伐材など針葉樹(杉・桧・松)を中心に準備します。数年前松をたくさんもらってきて、それをいい気になって焚いたことがありました。それで温度を上げ過ぎてしまい、今のうちのストーブは、メンテナンスに来ていただいたときの話によれば「瀕死の重症」状態です。

そのせいもあって、あまり(というか、極端に)温度を上げないよう、いたわりながら使っています。この冬の薪も、最初は松で目当てをつけていました。しかしさすがに松は避けようという気になって、そうこうするうちに薪の準備が遅れたようなことでした。

今ある薪は、ほとんどが栗です。しっかり乾けば申し分ない薪になるので、できるだけ使わずに来年に回そうと思っていたのですが、なかなかそうもいかず、結局使っています。火持ちは圧倒的によい。しかしもともと針葉樹と比べて火力が弱い上に生乾きですから、温度が上らないのです。

寺(私が子供の頃過していた家)の風呂は今でも五右衛門で、風呂を沸かすのは私の担当でした。その頃から喜んでやっていたというわけではないのですが、おそらくそのせいもあって、今に火遊びは大好きです。広葉樹にこだわらなければ薪はいくらでも手に入るということも込みながら、薪ストーブを使っているのはそんな理由もあります。

いつもは、基本的に私がストーブの守をします。しかしいつもついていられるとは限らないので、子供たちにも扱い方は教えてあって、私がいないときには彼らなりに何とかしています。(自分で焚かないことには寒い!)

先日の日曜日、朝焚きつけるだけは私が焚きつけて、日中留守にするので「ストーブは頼むね」とお兄ちゃんに引き継いだことがありました。寒くなかったかしらと心配しながら夕方帰ってみると、ぼそぼそとながら、至って調子よく燃えていました。

この子は、親ながら不思議な子です。一旦何かに取りかかると、息がとてつもなく長い。傍目には、すぐに飽きて他のことをし始めているように見えるのですが、ちょっと触って感触の糸口をつかんだら、しばらくほおっておいて(その間他のことをしている)、その感触が自分の内で育ってくるのをただ待っているようなところがあります。ある意味、寝ている間でもやり続けている。周囲にいる者が忘れた頃になっておもむろにまた取り上げ、え、いつの間にそんなに腕をあげたの? と驚かされます。その繰り返し。

別件ながら、私は手動式のタイプライターの頃からキーボードに触っていて、タイピングはかなり速い方です。子供たちにコンピュータを買ってやったとき、タイピングはちゃんと基本から練習しておくといいよ、というつもりで、ネットでさがしてフリーのタイピング練習ソフトも入れてやっておきました。その場ですぐに飛びついて始めているようでもなかったので、いらないお節介だったかなくらいに思っていたのですが、気がついてみると私よりも速くなっているのです。いい勝負、どころではなくて、1.5倍です! (試しに競争してみたら、私で平均6ストローク/秒、良くて8ストローク強なのに対して、コンスタントに9ストローク台を出す。しかも、側で見ている限り、私の方が速く打っているように見えると思うのですが。)

火の守も、この子の方がうまい。いや、私の感覚からする限り、あちこち神経の届いていないところがあって雑な「はず」なのに、何しろ火がちゃんと燃えているのですから文句のいいようがない。

私はまだまだ「工夫」の枠の中でしか工夫していないのかもしれません。最上の策は無策ということを、知ってはいるつもりでもまだまだそこまで任せられないようです。

それを、子供から教えられるのならば本望ですが。

合掌。

文頭


 (2月7日)

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車が2台そろって調子が悪くなってきて、頭をかかえています。

このあたりでは公共の交通機関が使いにくく、たいてい各家に複数台の車があります。うちも、免許を持っているのは3人なのですが、軽トラを合わせると4台(うち1台が寺で行事があったときの送迎を意識した8人乗りのワンボックスで、他はみな軽)あります。

そのうちの2台が去年そろって 10 万キロを超え、正直に不具合が出始めました。

第一に、面白いくらいにランプが切れます。ヘッドランプ、方向指示器、ブレーキランプと、1台はここ数ヶ月で5回電球の交換をしました。電球は「消耗品」ですから切れるのは当たり前としても、ここまで重なると笑い出したくなります。そのほか、ワイパー、ドアやテールゲートの建てつけと、まあガタがきても仕方がなかろうと思えるようなところから、将棋倒しのように細かい不調が続きます。

もう、無視できるものはいちいち直しません。しかし一番調子の悪い軽もできれば車検が切れるまでもう1年強、ワンボックスの方はほんとうに走らなくなるまで乗りたいので、一切合財ほおっておくわけにもいかず、かえって神経を使います。実際、この時期になってオイルを小まめに変えるようになりました。これまでもいいかげんにしていたわけではないのですが、幸い今のところエンジンの調子はいいので、それだけでも維持しようという気になっています。

そうは言っても、この軽はミッションがすでに重症でいつ動かなくなるかわからない状態(直すのは放棄)、足回りも完全にへたっていて4人乗ってはまともに走れない有様で、オイルを換えるたび、ランプを交換するたびに、あっさり買い換える方が安上がりかなあと悩まされます。

ここまで調子が悪くなったのは、ほんとうにあっという間(ここ半年)でした。その意味では品質管理のしたたかさに舌を巻かされました。不具合が出ては困る期間はきちんと保障するが、必要な耐用年数を超えたらあっさり壊れるぎりぎりのところでバランスがとってあるようです。特に軽は少しでも安くしないと商品力が落ちるわけですから、そのあたりはシビアなのでしょう。

それまで特に意識していなかったところに不具合が出始めた当初は、乗るたびに不安でした。何が起こるかわからない。大げさでなしにそんな感じです。ところが、今は「調子が悪い状態で落ち着いている」ので、ある意味かえって安心していられます。さすがに遠出は無理ながら(と言いつつ先日は広島まで行ったのですが)、仮に突然走らなくなったとしても納得できるといった心持なのです。

案外、私たちの生活もそんなものなのかもしれません。正常である――期待通りに問題なく機能する――ことを基準にしているとちょっとした不具合が増幅されて不安につながるのですが、そもそもあまりにも正常であることの不自然さをの方を前提にすれば、少々のことは笑って受け入れられるように思えます。

さらに、ほんとうならばまともに動かないはずのものがちゃんと動いているということに驚くならば、ものの見え方がひっくり返ります。

私が生きているということは、そもそも間違いなのです。生きていて悪い、という意味ではなくて、迷い以外の何ものでもないという意味で。地獄以外行き場がない、いえ、もうすでに地獄に「いる」のですから、何をうろたえることもない。

ところが、その私の生がそのまま如来の願いの内にすくい取られ、お浄土への道行きと転ぜられているとは――ただ不可思議というしかありません。

合掌。

文頭


無始 (2月13日)

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歯の治療に追われています。

私は歯については劣等感のかたまりで、歯医者さんへ行くのが好きという人も少なかろうと思いますが、ふつうの方以上に歯医者さんのしきいが高く、逃げられる限り逃げていました。

(仏・如来の徳の高いことを形容する表現に、「歯の白き……」というのがあります。昔から、これが好きというか嫌いというべきか、いずれにしても強く印象に残っています。)

そもそもの始まりは、子供の頃の兄のいたずらです。歯ブラシに父のポマードをべっとりと塗りつけられていたことがあって、それに気がつかずそのまま歯を磨きかけたものですから、口の中をせっけんで洗うわけにもいかず、とにかく大変な思いをしました。それ以後歯磨きは大嫌いです。まあ、要は根が不精だということなのですが。

さらに、小学生時分、上の乳歯がまだぐらつかないうちに永久歯が生えてきて、ずいぶんたくさん歯を抜かれました。当時は麻酔の効きが今ほどではありませんでしたから(麻酔薬が変わった以上に、注入器が進んでいるのだそうです。ふつうの注射器で、ということは人間の握力で、薬が届く範囲は限られるのに対し、今では圧搾空気の力で押し込むのでちゃんと効くのだとのことでした)、これはつらかった。しかも、生えた永久歯の矯正などしていませんので、今ではひどい乱杭です。

昔、といっても独り暮らしを始めた後ですから大学生の頃、魚を食べていて間違って小骨が前歯のすき間にはさまり、抜けなくなったことがあります。ピンセットでつまんだのでは力が足らず、ペンチでつまもうにも小さすぎて、面倒くさくなってしばらくそのままにしていたら、正直にそこが虫歯になって穴が開いてしまいました。水を飛ばして遊ぶには都合が良かったのですが水だけでなく息も抜けるので、いろいろと不便もあって埋めてもらっていました。

その詰めがまた、ポロッと取れてしまったのです。これまではいつも、パテのようなもので埋めて紫外線を当てて固めるといった対処だったのでその程度のことだろうとたかをくくって歯医者さんに行ったところ、大げさなことになっています。

何やかやで、かつての魚の骨のせいで欠けた歯だけでなく、上の前歯4本がそれぞれにみんな欠けています。うち3本は治療してもらっていたのですが、4本目は最近――といっても5年位前?――で、あまり目立ちもしないのでそのままにしていました。ところがこれが、歯根部へ拡がって腐っていた。

確かに、これまでも疲れがたまると歯茎が痛んでいました。でも、ちゃんと寝ると大人しくなっていたのでそれほどのこととは思っていなかったのです。ちょちょっとパテ埋めしてもらって終わりどころか、その膿巣をきれいにするのが先なので――私は頼んでいないよ~(←こういうのを愚痴というのですが)――、結構毎回大変です。

麻酔は、効いています。ですから、治療中には「飛び上がるほど」といった鋭い痛みはありません。が、脳みそが地震を起こしているような、(麻酔が効いていなかったら耐えられないだろうなあと予想されるような)痺れた感じが頭の中で共振します。そして、治療後麻酔が切れると、まあ触らない限り大丈夫としても、下手に歯と歯がぶつかりでもしようものなら、ほんとうに天井まで飛び上がれそうです。

自分の不摂生のつけですから、いたしかたありません。それに、嬉しくはないですし、麻酔がなかったらと思うとかなりぞっとはするものの、痛みも、ある意味で慣れてしまえばそれほどのことはありません。「来るぞ、来るぞ、来るぞ!」と思って身構えているときの方が実はよけいに痛いのかもしれない。具体的な痛みって、きちんと「上限」があるのだなあという気がします。

治療中、「始まったものは必ず終わる」と思って気持ちを慰めています。たかが数分。どんな喜びも陶酔も永続しませんが、それと同じで始まった苦痛は必ず終わる。

では、「始まっていない」苦悩は?

仏教では、煩悩の根源を「無始無明」と見ます。無明(むみょう)はものごとの真実のあり方に眜(くら)いとらわれた見方のことを指し、無始を、一般には「始まりがわからないくらい大昔からの」といった長い時間の意味に理解するのですが――案外、文字通りの意味なのかもしれない。

ちゃんと生まれたならば、確実に死して光の内へと帰っていける。生まれていない者が、始まっていない苦悩におびえ続けているというのが、迷いの実態ではないか。

とすれば、具体的に、痛いというのは有難いことです。

合掌。

文頭


文脈 (2月21日)

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ライブドアの堀江さんの言動が、波紋を呼んでいます。

私自身は経済にはうとく、株など無縁で、さらに新聞もテレビもほとんど見ませんから、実はつい一週間ほど前までは多くの芸能人同様、堀江さんの名前すら知りませんでした。

しかし、今回の騒動は面白い。何よりも、支持するにせよ反発するにせよ批評家めいた分析がしにくくて、自分は一体何を基準にものを考えているんだ? と突き返されてしまうところが愉快です。逆に言えば、堀江さんに巻き込まれて動き出した人たちはみんな、自分の存立基盤をむき出しにせざるを得なくなっているようです。

本当は、きちんと考えてみるならば、テロという問題と直面したときも教職員殺傷事件をどうとらえるかというときも、実は同じところに突き返されているのですが、さすがにそれを愉快とは形容できない。その意味では今回の騒動は、自分の足元を問い直してみる上で得がたいチャンスであり、力まずに考えられるという点でむしろより大きな拡がりを持っていると言えるかもしれません。

キーワードは「情報」です。細かい説明は放棄して、情報を、経済の問題として考えるときの「資本」、倫理や国際政治を考えるときの「正義・正論」、さらには危機管理やビジネスチャンスとして考えるときの「戦略・ゲーム」の、一通りに通底するものとしてイメージしておきます。

さらに飛躍するならば、情報とは文脈だと言い替えてもよい。

私たちは文脈にしばられて生活しています。初対面の人を肩書きで判断するのも文脈、会社組織や田舎のしきたりも文脈、今はやりの自分さがしも文脈、あるいは現代ではアートも文脈を離れては考えにくくなっている。批評という活動は文脈をみつける作業で、説明に対する度を越した信頼も文脈依存の裏返しでしょう。

一応断っておくと、そもそも私たち人類は文脈というニッチを見出すことで生物的に成功を収めているのですから、言い換えれば私たちの脳は文脈を把握し処理できるように進化しているのですから、文脈が悪者だという見方は当りません。仮に文脈を完全に離れてしまうとすると、私たち人間は生存が危うくなる。どうあがいたところで文脈から逃れることはできないと、腹をくくるのが妥当です。

ただ、文脈から逃れることはできないとしても、現代が文脈過剰であることはまた別の事実です。それを、脳が身体を忘れて拡大しているという風に解釈しても、文脈=情報が自己増殖していると理解してもかまいません。(問題があるとすれば、どちらもまた一つの「文脈」だということですが。)

さて、このくらいの雑な準備で本題に戻るならば、堀江さん騒動の一番面白いところは、巻き込まれている人たちの個々の文脈が徹底的に相対化され、事実上無化されているところです。堀江さんを支持している人は大なり小なりこのような文脈の相対性に親しんでいる人であり、反発している人は自らの拠って立つ文脈が解体されることに抵抗していると見て、大きく外れてはいない。

堀江さん本人が文脈に対してここまで透明でいられる理由は、堀江さんが、具体的な内容を離れた「文脈そのもの」と限りなく一体化しているからでしょう。その限りで堀江さんは時代の寵児であり、堀江さんのような人が登場してくることで、私は「情報(=文脈)」主導の時代がいよいよ本格的に始まったと感じます。

とすれば私たちの課題は、そのような文脈に溢れかえる時代において、どのようにスタンスを決めるかということになります。スタンスはどのように選んだところで一つの文脈ですから、原理的に他の文脈と対等で、「その」スタンスを選ぶ根拠を与えてくれません。

ここまで問題を絞り込んでくるならば、課題の中心は「文脈の外」に立つ術があるかないか、という点に集中することがわかります。あるかないか。ある。しかも二つ。

一つは、文脈の「下」に基準点を置く方向です。素朴な生活者として、私たちはかわいくいとおしい文脈をたくさん抱え込んでいるわけですが、それらがすでに過剰に贅沢なのだと意識してみればよい。何をもって過剰と呼ぶかというのも簡単で、「生存」に照らしてです。もっと簡単に言えば、歯をガリガリと削られているときに考えられないことは、すべて過剰だと思ってそんなに外れないでしょう。過剰をすべてはぎとったところに残るものを愚直に喜ぶことができるならば、平べったい文脈に振り回されることはなくなります。

もう一つは文脈の「上」に信頼する方向です。どんな大きな文脈もそれに照らされると個別の意味を保てない端的な「全体」、全体が全体であるために外を必要としない全体の中に、私の個別を放り込んでしまえば、個々の意味にとらわれること自体が意味をなさなくなります。

ただ、繰り返しになりますが、そのようにして具体的に選んだ(与えられた)スタンスなり態度なり生き方なりは、あくまで一つの文脈です。しかし「安心して」選び任せることのできた文脈にいるとき、不要に自分を守る必要もましてや他を攻撃する必要からも、自由でいられるというのは得がたいことです。

合掌。

文頭


現代人 (2月27日)

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やっと私も現代人になった。あるいは、私もとうとう現代人になってしまった。そんなことを味わっています。

何が言いたいのかというと、今どきのいわゆる「不安」がやっと内面化でき、それに対して自分の態度を決めることができたのです。

いくら過疎の田舎で生活していると言っても、私も現代の空気を吸っているのですから、そういった現代の気分を知らなかった訳ではありません。が、ミイラ取りがミイラになったのではシャレにならないと、むしろ踏み込み過ぎないように、自分の足元を見失わないように気を使っていました。

それが本当の解決にならないこと、場合によってはそんな私の態度が「弱者」を生み出してしまいかねないことは自覚していました。しかし目の前の時代の流れに対する漠然とした嫌悪感とでもいうか、〈オレはああはなりたくない〉といった気持ちがあったのは事実で、言い換えるならば時代の流れにさらされない聖域(サンクチュアリ)をどこかに求めていたのです。

そんな力みが、どうでもよくなりました。安心して現代人してられるようになったと言うのでしょうか。もう少し正確にかつ真面目に形容すれば、自分自身がそうであるところの「現代人」を、そのまま心底いとおしく感じることのできる視座が与えられた、ということです。

これからその整理・吟味にかかりたいのですが、とりあえず短期的に考えてみたとき、きっかけが2つと、新しい道具が3つあったように思います。

きっかけの1つは、スタンド・バイ・ミーという映画です。タイトルの原意は「私のそばにいて欲しい」あるいは「僕を支えてくれ」といったニュアンスで、12 才の少年4人が、ある事件を通じて2日の間に子供から思春期の中へと脱皮していく様を描いた作品です。あこがれ、心細さ、悪意、信頼、孤独、背伸び、様々な心情が生々しく思い出されました。

きっかけのもう1つは、ネットで flash 作品をたくさん観たことです。flash とは音声と画像・映像を組み合わせてネット公開用の動きのある素材を作るソフトの名前ですが、flash で作られた作品の中にはちょっとした短編アニメ映画といった仕上がりのものもあり、それらを通じて、激しく渦巻く思春期のめまいのような感覚に触れ直したのです。

これらがどうしてきっかけになったかというと、その思い出され方が、ああ、もう思い出せなくなっているという感覚を伴うもので、自分の年齢を単なる数字としてではなく人生の一局面として意識させられたからです。言い換えれば私ははじめて自分の人生を「歴史」として感じた。

道具の3つはすべて、歴史観、つまり「自分が今どんな時代にいるのか」という問いに関わるものです。

第一は「資本主義」をとりあげたもので、「外」へ向かう資本主義→「内」へ向かう資本主義→ナルシシズムの資本主義という展開の中に「欲望のフロンティアの拡張の自動運動」を見ています。

注:佐伯啓思『「欲望」と資本主義―終りなき拡張の論理』、講談社 1993 年、講談社現代新書 1150

第二は紹介されてネット上で読んだ社会学者の発言で、近代の中の脱中心化・脱主体化・脱標準化といった動きを切り出し、情容赦なく突きつけられました。

注:宮台真司 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=241

そして第三はあらためて触れたフーコーです。内田隆三さんの解説書を通じてなのですが、そもそもここでの「歴史」という捉え方そのものがフーコーの影響の下にあります。

注:内田隆三『ミシェル・フーコー―主体の系譜学』、講談社 1990 年、講談社現代新書 0989

これらが重なったとき、もう逃げ場はないと観念させられました。現代、あるいはポストモダン=後期近代=近代成熟期に徹するしかない。

ただ、そこに救いはあるのか。徹底的に孤立し、わがままで、動物的な快不快原則以上のものを要求されることのない現代人に共感の術はあるのか。さらに、そのような現代人が古典人とつながり、明日の人間を信頼することができるのか。

その救いが、はっきりと見えたのです。決して裏切られることなく、そこに照らせば自分の立ち位置をくっきりと定位することのできるもの。そこにおいてすべてとつながり、歴史の中に現実感を回復できる視座。

死です。

「みな死ぬる ものと思えば なつかしき」 (山本仏骨)

合掌。

文頭