新年 (1月2日)

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年が明けました。

年末から年始にかけ、遊雲の入院に付き添っての上京、インターネット環境のADSL化と家のコンピュータの無線LAN構築、それに思わぬ雪と、なんやかやあたふたしていて、やっと今日になってお正月らしい落ち着いた気分になったところです。

遊雲は今回で術後の化学療法が完了し、「入院」からは解放されます。日程的に年内に退院できるかどうか微妙でしたが、本人の体調がよかったこともあり、すんなり帰って来られました。退院後二日目でふつうの食事ができるようになったのは始めてです。しばらく経過観察は続くものの、外来で済みますから、気持ちの上での負担は比べものになりません。それに何はさておき、元気になってくれた(正確には、手術直後や加療中を除いて元気で「なかった」ことはないのですが)のが一番です。これで、遊雲の治療最優先の「緊急事態」が解除され、日常に戻ることができます。

昨年末、私の留守中にADSLが開通していました。なのにわざわざ電話代を使ってネットにアクセスするのももったいなくて(これまでは Air H'' および通常のダイヤルアップ)、設定を急いでいたものの、いろいろと思い通りにいかないことが出てきて、やっと昨日の夜になって3台のコンピュータの無線LANおよびネットへの接続が問題なくできるようになりました。これまでのことを思えば圧倒的に速く(所要時間の単位の「時間」がほぼ「秒」に変わった感覚です。覚悟を決めて一晩がかりでやっていたことが、目の前で終る)、快適です。しかし、当たり前のことながら、ネットへの接続が速くなったといってもそれに見合って私の内実が変わる訳ではありません。これまた、道具が変わったところで私は私のままという「当たり前」のところに戻ってくることになりました。

雪も、何やかやいってもここは北国ではなく、今日は暖かく晴れ上がって、道路がもう乾いているような状態です。しっかり乾いた薪が十分にないのが心細いものの、雪が続くのでなければそれほど心配はいらないので、ほっとしているところです。

何もかもひっくるめて、当たり前で平凡な「日常」に戻りました。

新年。年が変わったといって去年の私の業が水に流された訳でもなく、劇的に何もかもが新しくなる訳ではさらになく、また身内の方をお亡くしであった方や、いろいろな災害に巻き込まれて不自由なさっている方もおいでになると思いますので、あえて「おめでとうございます」を添えませんでした。

ただ、新年といった「区切り」の折に、私たちはただ「生きて」いるのではなくて、実は刻一刻と自分として「生れて」いるのだという思いはより深く味わわれます。迷いの内に迷いの行いを重ね、それが今ここで迷いの私として「生れて」いる。そこに仏縁が加わってくださったとき、そして私が「迷いの娑婆世界に生れ直すことを終えた」とき、私はお浄土に生れさせていただける。

平凡で迷いの内なる日常があらためてリアルになってきたこの「新年」に、如来のお慈悲を喜んでいます。

合掌。

文頭


 (1月9日)

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大晦日に降り始めた雪が、降ったり止んだりで今日まで続いています。

雪国ではありませんから、根雪にはなりません。今日も、道は乾いてこそいませんがノーマルタイヤでも走れるくらいの状態です。ですからそれほど大騒ぎする必要もないのですが、こんなに長く雪がちなのはこのあたりでは珍しく、やはりそれに見合って外の仕事も滞り、何だか落ち着きません。

第一に薪に困っています。家族の過す家の暖房は薪ストーブで、この冬のように灯油の高いときはし合わせるのですが、去年薪の準備が遅れ、作りはしたものの乾きが悪くて、自転車操業でその日その日の乾いた薪を探してきてはしのいでいるものの、そろそろ種が尽きてきました。庭には雪が残っていて作業をする場所もままならず、とにかくあたふたし通しです。

昨年の冬は雪が少なくて、冬の入りばなに子供のために買っておいたそりが結局使われないままでした。雪遊びをするには都合のよい雪で、下の子は遊びたがっているのですが、お兄ちゃんが化療が終わって日が短く風邪をひかせるのが怖くて(白血球の数がかなり下がっている)、二の足を踏んでいるうちに冬休みも終わりが近づいてきました。

もっといろんなことがすっきりと片付き、淡々とした毎日に戻っている「はず」のところが、ちょっとつまづいてよろけたまま、真直ぐ立てずにいるような感じです。

いや、これこそが日常なのかな。

今は止んでいるようですが、日中のような勢いで降り続けたら、明日の朝はかなり積もります。元気なときには夜ふとんに入るときから翌朝の雪かきが楽しみなこともあるのに、今日はひたすらおっくうです。

それでも、降るときには降る。

雪の朝は明るいので、それを楽しみにすることにしましょう。何事もそのままに喜んで受け入れていきたいと思いつつ、なかなかそう都合よくは動いてくれない私の心です。

合掌。

文頭


速さ (1月13日)

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速さと遅さの両方にはさまれ、バランスを崩しています。

「速い」方はネットへの接続環境です。これまでは実質的な転送速度が数k/秒の Air H'' を使っていたのですが、それがいきなりほぼ10M/秒(これまでの数千倍!)の ADSL になり、ついつい興味本位でこれまで封印していた(というか、実際問題としてアクセスできなかった)動画やストリーム(送られてくるデータを保存せず、そのまま垂れ流しで再生する情報伝達形式)を覗いてみています。

一番驚いているのが flash 作品です。flash とは「プロ仕様」のアニメーション作成ソフトで、flash を使って作られた作品がそれこそ山のように公開されています。高校生~大学生が中心だと思うのですが、見てみると、自分が知らない間に歳をとっていることを痛感させられました。青春真っ只中とでもいうのか、ものすごいエネルギーが「表現」されることを求めてひしめいています。

(興味がおありで、ブロードバンド接続が可能でしたら、たとえば http://flash.chbox.com/rw04/page.php/rwvs へどうぞ。)

私の歳になると、これは疲れます。というか、しばらくは面白いのですが、ものすごく消耗する。ただそこに、現代という時代を考える上でのヒントがたくさんあって、ついつい見てしまっているのですが。

「遅い」方は、ご縁をいただいて出講してきた広島県似島(にのしま)での体験です。

似島は広島港(宇品港)からフェリーで 20 分ほど、住所的には広島市南区ですから、離島などとはとても呼べず、現実問題としては長久寺のある山奥の方がよほど田舎です。

広島県は昔から浄土真宗が盛んなところで、特に島ではそうだということを聞いて知ってはいました。しかし実際に目の当たりにしてみると、文字通り単なる知識と生々しい生活感との違いで、圧倒的な説得力に翻弄されました。

そもそも、時間の流れ方というか、濃さがまったく違います。先進的な「個人」が自己啓発・自己実現などのために市民教養講座へ通うなどという出来事とは比べようもなくて、三代、四代がかりのお聴聞です。そのような方々の前でお話をさせていただくと、七百年、八百年を隔てた親鸞聖人、法然上人が実の親のように身近に感じられ、と同時にその数百年の間に塗り込められた伝統――相続――の重さがひしひしと迫ってくるのです。

私は――どこにいるのか。今、リアルタイムで動画を再生できるだけの速度でネットに接続しているのも現実であり、七百年・八百年はおろか、法蔵菩薩の五劫の思惟をリアルに感じているのも私です。

毎日、ある面では少しずつ、またある面ではものすごい速さで、変わりながら「同じ」私であり続けること。端的にいってそれを迷いと呼ぶのですが、その迷いこそが〈いのち〉の姿であることに、うろたえます。

しかし――短いスパンで切り取った「速さ」は、不毛であると言い切ってよいはずです。育つには、時間がかかります。

合掌。

文頭


快適 (1月23日)

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家族全員にとってのインターネット環境が、まったく新しくなりました。

ADSL が開通し、無線 LAN を組むまでは、「目の前の」コンピュータの接続の問題だったのですが、契約するプロバイダをはじめ、「通信」というできごとの全体を見直したのです。

インターネットを利用するには、インターネット網への接続サービスをしてくれる業者(ISP、Internet Service Provider)との契約が、原則として欠かせません。インターネット網へ「直接」つながっているのは ISP のコンピュータであり、その機械をいわば窓口として、自宅のパソコンは「間接的」にインターネットへつながるのです。

ということは、続いて自宅のパソコンと ISP のコンピュータとの間をどうやって接続するかということが問題になります。電話回線、光ファイバー、ケーブルテレビのケーブル、何を利用してもかまいませんが、ここで通信業者との契約が必要になり、通信料が発生します。

またメールを使うには、世界中で一意の「メールアカウント」を登録し、そのアカウントにアドレスを割り当ててもらっておかなくてはなりません。さらにホームページを作ろうと思うならば、公開するデータを実際に置いておく場所を確保し、しかもアクセスされたならばきちんとデータを送り返すというサービスが必要です。これらをひっくるめてウェブサーバと呼びます。

整理しておくと、私が「やりたい」ことを分解してみるならば

  ① ISP

  ② 接続

  ③ メールアカウント

  ④ ウェブサーバ

の4点にきちんと対応をつけないといけないことになります。

これまでは ISP には BIGLOBE(ビッグローブ)を利用し、接続は家族用のパソコンが通常の電話回線を使ってのダイヤルアップ、私のノートが Air H''(エア・エッジと読みます)というカード型のケータイを使ってのパケット通信と二本立てでした。そしてメールアカウントとウェブサーバは BIGLOBE が基本サービスの中にセットにしてくれていたものを使っていたことになります。(ただし、メールアカウントは無料では1つで、母親用のものは「家族会員サービス」による追加。)

これをコストの面から見ると、ア.BIGLOBE への ISP 契約料+家族会員費用、イ.NTT への電話代(従量制)、ウ.Air H'' への通信料(定額)となっていました。

今回、ADSL が開通したということは、直接には上の整理の②が変わったということです。イとウをそのまま ADSL 使用料に回してもおつりがあったのですが、子供たちの使っているノートもネットにつなぐことができるようになったので欲が出て、子供たちにもメールアカウントを作ってやりたくなったのです。

ついでに、うちのドメインも取得することにしました。ドメインとは、インターネットに公開されているメールやホームページのアドレス「名」に相当するものです。これまでは BIGLOBE のお世話になっていたので、私のメールアドレスにも当山寺のアドレスにも biglobe の文字が入っていました。これを yamadera に置き換えようというのです。

そのためには、yamadera という「名前」を登録して、世界に公開しなくてはなりません。結局 neo-serve という業者にその業務の代行を頼むことにしました。レンタルサーバと込みで、月当たり 1,000 円です。自分のドメインが取れればメールアカウントの発行が自由にできますから、これで家族全員のメールアカウントがまかなえます。

そうすると、BIGLOBE に依存しなくてはならない部分は①だけとなり、③、④が込みの分割高になっているのが気になり始めました。BIGLOBE は決して高い ISP ではないのですが、欲しいサービスを分解しているとそのようになってしまったのです。で、ISP そのものも ぷらら に乗り換えました。

その結果、

  ①′ISP → ぷらら

  ②′接続 → フレッツ・ADSL

  ③′メールアカウント → 自前

  ④′ウェブサーバ → ⑤に込み

  ⑤ ドメイン管理業務委託 → neo-serve

と、⑤を欲張ってなお割安という状況になったのです。

それに止まりません。Air H'' は解約するつもりでいたのですが、ブロードバンド(広い通信帯域を利用した高速通信)時代へ向けての生き残り策なのでしょう、A&B割(Air H'' & Broadband ?)というものがあるのです。その他の割引と重ねると、半額近くになる。解約するのが惜しくなって、大阪にいる娘に回すことにしました。

結局、これまでは2台だけ別々に、細々とネットに接続していたのが、大阪の娘も含めて家族全員ネットが自由に利用できるようになり、独自ドメインまで取得して、これまでより安くおさまることになりました。しかも副次的に、通常の音声電話まで全国一律3分8円になっています。

(正確に言えば、ADSL モデムは買い上げているので、それを考えると短期的には多少足が出ています。)

「賢く立ち回れば得できる!」の成功例のような話です。実際、「やりたい」ことがすべて納得できる範囲で実現できているのですから、快適であることに間違いはありません。

でもそれで万事めでたしめでたしか……。自分でそうしておきながら、実は微妙です。

ADSL ひとつとっても、とにかくこれまでより「千倍」単位で桁違いに速くなっているにもかかわらず、「まともな速度が出ているのかどうか」が気になる。ついついチューニングに手を出して、実際何もしなかったときと比べ3倍くらいの速さになりました。そうすると今度は、全体でどのくらいの順位なのだろう(つまり、もっと上がいるのだろうか)ということが気になる。この山奥にいながら中継局との距離が比較的近く、しかも混信する信号の少ないところなので、ADSL としては十分以上の、一部の光ファイバーをもしのぐ速度だとわかって安心する。

切りがありません。今は(現時点で)ADSL 最後発のサービスに乗っているのでいいのですが、いずれもっと上をいくものが登場し、そうすると今の「快適」はそのまま「不満」に変わるでしょう。

快適とは、結局、より劣った状態と比べて得ているだけにすぎない危なっかしいものだということです。

合掌。

文頭


過剰 (1月27日)

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ここのところ、「過剰」という考え方に惹かれています。

出会ったのは佐伯啓思著『「欲望」と資本主義』(講談社現代新書 1150)の中で、もともとはフランスの特異な思想家ジョルジュ・バタイユ (1897~1962) によるそうです。

原典に当たっていないという引け目もあってなかなかそこから動き出せずにいたのですが、バタイユの紹介が目的でも、また思想のオリジナリティが問題になる場面でもないので、なぜ「過剰」に惹かれるのか、私自身の関心事としてある程度の整理をしてみることにします。

そもそも語感として、過剰には豊穣や躍動などと近親の響きがあります。実際、どの語も個人的には好きな言葉で、特に若い頃は多用したものでした。その名残があるのも事実ながら、しかし今の私の関心がそこだけに帰着するわけでもなさそうです。

より強い切迫感を持つものとして、現代の日本で生活していることで感じる、つじつまが合いすぎていることに対する強烈な違和感があります。

新幹線は事故を起こさないのが当然で、危機管理はもっと徹底されなくてはならない。高齢者や障害者が、より安心して楽に生活できる社会を実現しよう。環境問題は、もはや先送りすることなど許されない目の前の問題だ。……

このような「声」に異を唱えるのはむつかしい。いえ、光の当たっている「表」の部分はどれも正論で、反対する必要などどこにもありません。ひっかかるのは、一つにはそのような主張の「身分」の問題で、もう一つはそのような運動が具体化した結果の「底の浅さ」です。

「身分」の問題とは、上のような主張は何を根拠とし、何を担保にその「正しさ」を手に入れているのか、ということです。私にはどうしても、人間中心主義としか理解できない。「人間」の内側に目を据えている限り、そして前景に「かけがいのない個人」といった錦の御旗を振りかざしている限り、これらの主張はほとんど自明です。しかし、このときの自明とは、実際には無根拠と同等なのではないか。ですからこの自明さを疑うことはみずからの無根拠をあばくことにほかならず、「疑義申し立て」は実に周到に封印されています。

結果の「底の浅さ」とは、本来より人間らしい生き方ができるようにと意図されたものであったはずであるにもかかわらず、このような運動が具体化されてくるのに比例して実生活の風景を塗りこめてくる平板さです。もはやすでに、意図と結果が食い違うという意味を込めて「矛盾」といっても追いつかず、「人間疎外」などという表現さえ時代遅れに思えるほど、平板であることが日常となってしまっている。

これはまずい。とりあえず、少なくとも私は、現実にそう感じ、何とかそこで踏みとどまろうとあがいています。

ところが、疑義申し立てが封じられ、当座の共感の出発点となるべき日常が「すでに」平板であるとき、声を上げるどころか、踏みとどまるにも寄る辺がないという実際に直面するはめになるのです。

(上の表現はやや誇張があって、実際には踏みとどまるのに必ずしも根拠はいらず、ただ踏みとどまればよくて、またただ踏みとどまることが分相応のことを表現し得るということに信頼できるくらいには、新しい静かな動き――あるいは動かないこと――が時代的な意味を持ち始めているという印象があります。)

私は今、すでにまとまっている考えを書いているのではなくて、書きながら考えている、いえ、考えを進めるために書いているのですが、ここでやっと私の内でのつながりがはっきりと見えました。

「過剰」には、動かないことを支えられる何かがある。

今日は、それが確認できたことでよしとしましょう。

合掌。

文頭