のん気 (12月4日)

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寺の庭の台風の片づけが、やっと終わりました。

報恩講に間に合わせて一通りの掃除はしたのですが、時間が足らなくなって手をつけずにいたところも残っていたのです。ここのところ暖かいよい天気が続き、その日のお取り越しを済ませた後、少しずつ手をつけていました。庭木の下に吹きだまった枯れ葉や枯れ枝をていねいに除けていきながら、結局は好きな草引きにはまっていました。

スギゴケの手入れでやっかいな草の一つが、チドメグサです。1 cm くらいの小さな円い葉っぱが地中を横にはう茎から伸びて、ほおっておくと一面を埋め尽くしてしまいます。引いて除けようにも茎が細くて弱く、すぐにちぎれてしまうので、簡単にはいきません。

小学生の頃、掃除のときに学校の芝生の中に生えたチドメグサが引けなくて、とにかく気になってしかたがありませんでした。今ではドライバーを使いますから、時間さえかければ何とかなります。昔できなかったことができるようになったという意味では、引くのが「好き」な草と言えるかもしれません。それに芝と違ってスギゴケは横に広がらず、独立した一本一本が直立しているので、その中でチドメグサを引くのはまだ簡単です。

しばらく目を離していた間に、それまで生い茂っていた雑草をきれいに取って除けた後、取りきれずに残っていたチドメグサが、他の草のないのをいいことにうわっと広がっているところができてしまっていました。目にしたときには絶望的な気になりましたが、気を取り直して取り掛かりました。

まず、横にはっている茎を見つけます。それをちぎらないようにたどって、葉っぱのつけ根ごとに出ている根を、ドライバーを横に使って切ります。茎がつまんで持ち上げられるくらいになるとしめたもので、伸びている方向の見当がつけられるようになりますから、それを先読みしながらたどってとにかく最後まで追いかけます。

途中で他のチドメグサの茎の下を通ってしまっているときには、そちらに乗り換えて上のものから取り除けます。原則として枝分かれはしないようなので、思うほど複雑な網にはなりません。しかし相手が小さくて華奢なので、やっかいなところは地面にはいつくばっての作業になります。

短気になったらお終いです。ふっと集中力が切れてしまったり、日が陰って寒くなってきたりしたときには「続きは明日」で打ち切ります。(寒くなったのをこらえて区切りをつけようとして、風邪を引いてしまったのですが。)

やっと昨日、最後のチドメグサを片付けました。お取りこしが終わってからのまだ日が残っている間だけですから、一日の作業時間はせいぜい2時間といったところながら、一週間近くかかりました。

何事につけうまく集中できるのも楽しいものですが、気持ちよくのん気になることができたときの気持ちはまた格別です。自分の持てる技術をフルに発揮することと、できないことはほおっておけることとの微妙なバランスとでもいうのでしょうか。生き切ったときに、まかせられる。まかせ切ったとき、もっとも活き活きと、生かされている。

のん気はいいものです。

合掌。

文頭


思い込み (12月11日)

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一旦寒くなりかけたもののそのまま持ち直し、日中は冬とは思えないような暖かい日が続いています。

この時期、予定では山の手入れにかかっているはずだったのですが、暖かいのと行きがかりとで、そのまま庭の手入れを続けています。「草引き」は前回のチドメグサが片付いた時点で完了しました。実際、そのとき一度は続きは来春、と思ったのです。しかしふと他のことが気になってしまい、結局それに手をつけて、区切りがつくまで止められなくなりました。

他のことというのは、ハイゴケです。

スギゴケは華奢に見えて思いのほか強く、一度根づいてしまえばそんなに簡単には絶えません。が、ぱっと見に「きれい」に映るようにしようと思うと、気を使うポイントがあります。スギゴケは直立して密生するので、「地面にべたっとはいつく」ものが混じると、スギゴケの元気が弱まるだけでなく、見た印象としてそこだけが明るくなってしまって、どうもうまくありません。スギゴケに混じる「横にはいつくもの」の代表が、その名の通りハイゴケ(這苔)なのです。

あまり人目につかない庭の南側は、雑草を引いて除けた後も、ハイゴケがカーペットのように広がっている中にスギゴケが頭をのぞかせているような状態でした。それを去年、大雑把にハイゴケを掻き退けて、そのままではスギゴケの根が浮くのとハイゴケの勢いをそいでしまいたいのと両方で、目土でハイゴケをみんな覆ってしまっておきました。思った以上に効果は大きく、もうハイゴケのカーペットという様ではなくなっているのですが、それでもところどころ、ハイゴケが勢いを取り戻しかけているところができていたのです。

放っておくと元に戻ってしまいますから、今回はていねいに一つ一つ取り除けていきました。取るのがむつかしくはありません。ただ数が多いので、時間がかかります。とは言えのん気に気長にかかるのは慣れたもの、取り掛かってみれば案外簡単に終わってしまいました。

さて、これでいよいよ今年の庭の手入れを終わりにしようと見回していて、これまでついぞ本気で手を入れていない一角があることに気がついたのです。

父が造園したとき、スギゴケの縁に沿って、ジャノヒゲが植えてありました。今ではスギゴケが当初より広がっているため、スギゴケの中にジャノヒゲの島が残っているようなかっこうになっています。それがあまり不恰好なところはジャノヒゲを引いて除けてスギゴケだけ残しているのですが、ジャノヒゲが広がって 50 cm 四方くらいになっているところがあります。

ここにはスギゴケはあまりなく、またジャノヒゲが覆っているために雑草もほとんど生えないので、いつも素通りでした。しかも、ジャノヒゲの下はハイゴケがびっしりです。いつの間にか私の中で、ジャノヒゲのあるところにはハイゴケがあって、とても取り切れないものという思い込みが定着していました。

今日初めて、あれでもという気になってジャノヒゲの中のハイゴケを取ってみたのです。

何と。びっしりと思っていたこと自体が間違いで、かたまりになっているものがいくつかあるだけでした。スギゴケの中のハイゴケを取る方がよほどやっかいで、30 分もかからずに終わってしまった。ジャノヒゲのあるところにはハイゴケがあるというのも、まったく根拠のない思い込みでした。ただ、これまで長く手入れをしていなかったというだけのことだった。

思い込みというのは怖いなあ。それを痛感しました。

主体的に選ぶのはよいことであって、それですべてはうまくいくというのはとんでもない思い込みです。あるいは、凡夫が何の修行もせず仏になることができるというのも信じがたいことながら、「できるはずがない」というのも底の浅い思い込みです。

万事、そのままに。

合掌。

文頭


単純 (12月20日)

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単純に考えよう。今、そこでバランスを取り戻そうとしています。

本来そんなに単純ではないものを無理に単純に見てしまうならば、それは問題です。が、今はそういうことではなくて、「私」を出さずに虚心にものごとに向かうこと、それを単純と呼んでおきます。

考えてみれば、私が好きで、安心してできること、どこかバランスを崩してしまったときそこへ帰って落ち着きを回復できることに、二つあることに気付きました。

一つが、草引きや山の手入れです。行事が重なって一週間も離れていると、禁断症状が出る。

もう一つが、資料の整理です。かつては教材を作る作業を日常的にしていました。今は浄土真宗の聖典の資料整備を進めています。

どちらも、単調で、かつ事実上終わりのない作業です。それがよい。

今までは自覚せずにただ「好きだ」というだけでしていたのですが、気が付いてみるとどちらも、「私」を忘れることができ、そして自分を忘れたところで「ここ」というツボのようなものが見えてきて、それを押さえているかはずしているかを基準に自分のからだを合わせていくような作業でした。

父が、出先でしばらく離れていると、むしょうにお勤め(仏前で読経をすること)がしたくなると言っていたのを思い出します。もったいないことに、お勤めについてそのように感じたことはこれまでありませんでした。が、今はそれがよくわかります。

虚心にものごとに接するということは、如来様と真向きになることです。如来様と真向きになるとは、私の小ささが消え去って、大きないのちで満たされることです。

それをリアルに感じられるようになってみると、これまでのリアリティがずれてきて、それでバランスを崩していました。というより、これまでが不自然だったのでしょうが、今感じるリアルの肌触りにまだ慣れなくて、うまく言葉が出てきません。

自分から「集中」して、この「はずしていない」感覚にはなれない。まかせ切ること。

万事、そのままに。

合掌。

文頭