熱い (3月6日) 後日加筆

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現代は熱い。

「熱い社会」というのはレヴィ・ストロースの用語で、歴史的生成を取り込み、それを「発展」の原動力とする社会の姿を指します。

もちろん、熱いという以上、物理化学的な現象を譬喩に使っています。

たとえば、炭素 C と酸素 O2 とが反応して二酸化炭素 CO2 になる(燃える)とき、C および O2 として存在しているときのエネルギーの総和の方が CO2 として存在するときよりも高い、言い換えれば不安定なわけで、それがエネルギー的により安定な CO2 の状態に移行することで、エネルギーの差額が熱として放出されているのです。

ただ、単に C と O2 とがいっしょにあるだけではこの反応は起こらず(燃え出さず)、組み換えが起こるのに必要な最低限のエネルギーを外から加えて(熱くして)、それなりに安定している C と O2 とを一旦活性化してやらないといけません。うまく火がつくと、燃焼によって出る熱の一部が活性化に使われて反応が連鎖的に起こり、安定して燃え続けるようになります。

では、通常の「ものが燃える」という出来事に必要である以上の熱が加えられたらどうなるか。燃えられなくなります。比較的不安定な C、O2 という状態だけでなくより安定であった CO2 という状態でも活性化されてしまうので、活性化されたまま落ち着き先がなくなってしまうのです。蒸発する、とでも言えるでしょうか。

(原爆直下では、通常の意味で「焼け死んだ」のではなく、一瞬にして「蒸発」して消えてしまった人がかなりあるはずです。)

さらに話を飛躍させると、ふつうに私たちが目にする物質の持つ多様性は、対称性の崩れた姿と見ることができます。上の「蒸発」のような高エネルギー下では個々の物質の個別性が保てず、何にでもなれるけれども何でもない、ニュートラルな状態になります。もっと温度が高くなると――原爆はおろか太陽の中心でも「冷たい」といわれるくらいに――、現実の宇宙では別々の現われ方をしている「力」さえ(専門的には、重力、電磁気力、強い力、弱い力と4種類の力があります)区別を失って一本化されてきます。理論物理学者などが目指しているのは、そのような形で最高に対称性が高い、つまりすべての物理現象の根源とみなせるような状態を、把握し記述することなのです。

そこから振り返って現代を熱いというとき、ある閾値を超えて活性化され、落ち着きどころを見失っている様を形容していることになります。(ですから、決定的な部分ではレヴィ・ストロースの原意を踏み越えて使っています。)

この状態を、一方的に悪いと決めつけるのは適切でないでしょう。ある面から見れば、かつては手の届かない理想のように思えていたであろう「自由」と「平等」(=高い対称性)がかなりの度合いによって実現されていることでもあるのですから。

それに、これは歴史の必然であったようにも思えます。人間が人間として登場した以上、避けられない展開であった。必要以上に歴史を擬人化ないし人格化してしまうと、また極端な歴史観になりかねませんが、私としては人間という在り方が集合的に抱え込んでいる業の自己展開のようなイメージで捉えています。

とすると、私はこの「熱い」現代をそのままに引き受けていくしかない。

ここで問題を、「意味」の汲み出し方に絞り込んでしまいます。ただ、ここで言う「意味」とは、言葉の意味とか行為の意味とかいった意味論的なものではなくて、私のあり方を支えるものとしての存在論的な響きにおける「意味」です。

かつては、「私」が時に応じて孕む不安定さは、確固として安定したもの、たとえば神話や社会的な身分制度などに組み直されることで解消し、そこに意味が伴っていました(燃焼の譬喩)。しかし確固として安定していると思われていたものまでもが活性化されて流動的になった今、このようなスキームで意味を汲み出すことは難しくなっています(蒸発の譬喩)。

突き詰めて考えれば、意味は着目している二項間に「差異」がありさえすれば、項間格差として取り出すことができます。そして差異は、ある程度意図的に作り出すこともできる。極端な話、「今の自分のあり方」を一項とし、「まだ出会わぬ明日の自分の姿」をもう一項としてその間に差異を入れ込んでしまえば、永遠に終わらぬ自分探しという今風なアイデンティティ産出機構が簡単に出来上がります。

今、それを批判するつもりはありません。率直に言って私には不毛に思える作業ですが、それはそれで人間というものの可能性の一面を具現したものであり、私の感じ取れぬ「すばらしさ」を秘めているとしても不思議はないと思う。実際、事実上無から無限に意味を汲み出すことのできる方法なのですから。

後日補足:「無から無限に意味を汲み出すことができる」というのは理屈の上の話で、実際にはそんなに簡単なことではありませんね。自分探しが「続けられる」ためには、現実になった「明日」とかつての今との間にやはり有意な差が必要でしょう。つまり、勝ち組でい続けるか、少なくとも勝ち組幻想を持ち続けられるだけの「幸運」に恵まれないとうまく機能しない。そしてうまく機能しなかった場合、逆に被害者意識――私は正当に評価されていないという、往々にして根拠のない感情――の方を産出してしまう。何だか負の意味の方は「無限に」汲み出せそうで怖い気がします。

私としては、むしろ逆向きに考えてみたいのです。差異は、すでに決定的に与えられていると。何のことはない、私たちのこの「身体」です。

時代の流れとしては、各身体の個別性を中和し、むしろ差異を見ない方向に向かっており、それを「自己家畜化」と形容することもできます。自己家畜化は精神的な隷属化を意味する以上に、身体の標準化、あるいはさらにそれを超えて標準化をも必要とせずに同一視できるような身体の透明化を指しているはずです。

が、あえて見方を逆転したとき、各身体が各身体としてあるということ、身も蓋もない言い方をするならば同時に同一の空間を二つの身体が占めることができないということまさにそのことが、決定的な差異、あるいは私の個別性を担保してくれる。

しかし、この身体の個別性は、まだ他の身体が他の身体としてあることを前提とした、相対的なものです。それを絶対的なものとして見ることのできる視座がある。言うまでもなく、死です。

よく考えてみればナンセンスな話なのですが、死は身体を離れて考えられていることが多い。おそらくそのときにアポリア(解くことの出来ない難問)を産んでいるのは、死ぬのは身体であって頭(コトバ、合理性、……)は死ねない、死ぬことのできないものが身体と共に消えてしまわねばならないという理不尽でしょう。頭を中心に考えた死は、個人差もあるとは思うものの、やはり恐怖であろうと思います。

後日補足:「理不尽」という表現をしたことで、現代における死の恐怖が、上の「自分探し」と同じ構造に基づいていることに気がつきました。一般的な感覚では、自分探しないし「自己実現」とはカムフラージュされた勝ち組願望に他ならない。しかし死によって、これは最終的に必ず破綻します。

ここで着目しているのは、身体の死です。死に照らしてとらえた、今の私の身体の絶対の個別性です。確固とした底を得たとき、「蒸発」を終えて、つねに「この私」という具体的な落ち着きどころへ帰っていく道が拓かれる。そして私の「今」は、その有り様を問わず意味を吐き出すことができるようになるのです。

後日補足:この項目の背景には、「情報の時代の到来」という問題意識があります。現代を熱くしているものの正体は「自己増殖するもの」(これは、厳密な一神教にとっては徹底的に否定されるべきものであるはずです)であり、その具現の一つが「資本」であった。今、あらたに「情報」という姿でより激しく自己増殖するのものが自律しはじめている。大雑把にはそのような捉え方です。これら「自己増殖するもの」は、元をたどれば言語の鬼っ子です。ですから一神教の立場からすれば、そもそも智恵の木の実を食べたときから、我々は神にそむく宿命を背負わされているというストーリーを描くこともできる。それに対して、自己増殖するものとは〈いのち〉であると捉え直し、いわば資本も情報も言語さえも、大きな〈いのち〉へ回収していくことができないだろうかというのが仏教者としての私の立場です。ただ、汎神論あるいはアニミズムへの回帰では現代は救えない。一方で、大きな〈いのち〉が全き「全体」として姿を現わしており、それに照らして定位されたいわば宇宙全体に響きわたる「死」でないと、私の死さえも小さな物語にしかなることができず、情報の海の中に拡散してしまいます。そしてまた「言語(≒頭)」とタメをはることのできる足がかりを得ないことには、〈いのち〉そのものがかえって言語に飲み込まれてしまう。そのような思いを込めての、「身体」の死です。

熱い現代を涼しく過ごす提案として、死を身体に取り戻すことに想いをはせています。

合掌。

文頭


身体的現在 (3月21日)

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時間の根源は、実は私たちの内側にある。そんなことを考えています。

ただ、そこに分け入る前に、「内面」に関するイメージあるいは諸概念の最低限の整理をしておいた方がよさそうです。文献的に多くの資料に当って、の上でのことではないので、私個人のいたっていい加減な思い込みの解きほぐしといった程度のことなのですが。

着目しておきたいポイントは、内面は閉じているのか、それとも底が抜けているのかです。

一方の極に、内面を外からうかがい知ることのできないもの、私秘性ととらえる考え方があります。現代では主流と言ってよいのかもしれません。実際、たとえば、私の「脳」の中で起こっている現象――神経回路網が特定の興奮の仕方をしていて、それに伴って特定のクオリア群が立ち上がっている――は、模倣できないはずです。言い換えれば、私の頭蓋骨の中の「思想」は極論的には私の頭蓋骨を出ることができない、ということになるでしょうか。

今、上のような理解を批判するつもりはまったくないのですが、そのような理解がたくさんの前提に乗っていることは吟味してみる必要があると思いますし、可能ならばまた別の「内面」のとらえ方を提示してみたいのです。

まだ準備・材料が整っている段階ではないので、いきなり他方の極に飛びます。

内面とは、実は自分を超えたものと出会う場であり、そこでは一切はつながっている。内面こそ、大きな〈いのち〉が私と具現している現場である、と。

上で断ったように、今それを説得力をもって表現できるだけの準備がなく、私自身そう考えていると断言することすらできません。ですからここでは、単に「他の極」として提示するに留めます。

しかしそれを通じて、「『内面』とは閉じたものとは限らない」ということを一種強引に持ち込みます。それを比喩的に、内面の底は抜けている(のかもしれない)と言っておきます。そうすれば、時間や空間といった、カント流に言えば認識の「枠組み」を与えるものとして私の「外」にあるとされていたものの位置づけも、別の見方あるいは触れ方ができる可能性が開けます。

内面を「底が抜けている」と形容したとき、意識しているのは非常に広く漠然とした意味でのコミュニケーションあるいはある種の「感応」です。ただ、それは狭い意味での共感とはまったくと言ってよいほど肌触りが違う。むしろ共感不可能なものと直面したときにより生々しく現われる、暴力的と言ってもよいような、概念よりは感情、感情よりさらには沈黙に近い何かです。

それを、絶対的な他者との出会いと呼んでもよい。このとき、他者(あるいは自己)は言語によって絡め取られる「前」の相貌において、親しさのかけらもなく一方的かつ圧倒的に「問いかけて」くる。

内田樹さんに借りれば、端的な他者とは死者、あるいはもっと引きつけてしまえば(極限的には肉親の)「死体」でしょう。わが親の(わが子の、連れ添いの、…)亡骸(なきがら)と直面したとき、そこで「交わされる」、決して届かぬ、決して聞き取ることのできない、ことば。そしてそのような「ことば」が響きわたっているときにこそ成り立つ、互いに一方通行でしかあり得ないという意味で逆説的な、コミュニケーション。

本当は、屁理屈をこね回したり、そうでないまでも物事を「むつかしく」考えているのではない「日常生活における」私たちの姿は、上のようなコミュニケーションにより親しいはずです。「おはよう」―「お早う」というやり取りで交換されているのは、タキシード着た「意味」などではなくて、もっと素朴で単純な言語以前の何か、あるいは掘り下げて大げさに表現するならば互いの存在感(という不気味なもの)の尊重(あるいは敬遠)とでも呼ぶしかないような感情、でしょう。

そのときに語っているのは、実は「口(あるいは頭)」ではなくて、実は身体なのではないか。

ここで言う身体は、その「物質性」を問題にしていません。何とかそこに気持ちを集中しようとしているのは、その「個別性」であり、歴史性ないし「現在性」です。

織田信長の 10 才のときの頭蓋骨が出てきた、というジョーク(?)がありますが、私たちが「現在」にしか生きられないのは、とりあえず私たちの身体のせいです。が、これをもひっくり返したらどうなるか。私たちは身体において常に「現在」を産み出している、時間は過去から未来へ向かって真直ぐに伸びている直線のようなものではなくて、私の身体性において常に現在として噴き出し、それが過去へ向かって堆積していく、そのような理解もできるのではなかろうか。

そのとき、未来(あるいはより正確に将来)とは、基本的には「思い出す」ものになります。

そこからさらにもう一歩を「仏教的に」踏み出すならば、私は刻一刻この身体として「生まれ」ていると言える。縁起の思想です。そこで含意されているのは、生物学的な誕生とは異なる地平において、私は「仏子」として生まれ出さねばならぬということです。親と子は「同い年」という譬喩に信頼する限りにおいて、それはそのまま、仏は「私の身体性において」刻一刻成仏くださっていることになる。

私の個別性と、如来の成仏の相即。少なくともこの私においては理解不可能なコミュニケーション。それが、お念仏――如来の側からすれば「南無阿弥陀仏」の名号として、衆生の側からすれば「ナンマンダブ」の称名として、出会い得ぬ出会いとして実現した様――として、リアルとなる。

それを、親鸞聖人は現生正定聚――いまここで、仏子として生まれ、仏となる確証をいただくこと――と喜ばれました。

合掌。

文頭


いのちの尊さ (3月26日)

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「いのちの尊さ」について話をして欲しいと、依頼を請けました。

いいですよ、と簡単にお引き受けしたものの、これはけっこう難儀だぞと頭をかかえ始めています。このようなテーマを仏教の土俵に乗せて語るには一度世間一般での考え方をひっくり返してしまう必要があるのですが、それが思うほど簡単でない。

「いのちを大切に」という標語があります。私はこれが大嫌いです。こんなアホなことを言い始めるから、いのちについて考えなくなってしまう。そもそもいのちは「どこ」にあるのか、あるいは「誰」のいのちのことを言っているのか。いのちを大切になどとは思いあがりもはなはだしく、いのちに大切に「されている」自分に気づかされるというのが筋ではないか。

私としてはそんなことを思っているのですが、いきなりそれをまくし立てても ? でしょう。無用に引っ掻き回して混乱させただけでは、実際問題として生産的とは言いがたい。最低限「なるほど」とうなづいていただけるものを伝えないことには、話す方にしてもいたづらに消耗した上に腹立たしさのようなものが残るだけで、ろくなことになりません。

ところが話の糸口をつかもうといざ解きほぐしにかかってみると、意外に手ごわいのです。

「地球にやさしく」というやはり最近はやりの言い回しも、うさん臭さの度合いは同じようなものなのですが、こちらは割合簡単に解きほぐせます。要は自分に都合のよい「環境」を、自分のことは棚に上げてあたかも地球の「ために」大切にして「あげている」かのように取り繕っているのが気に食わないので、そこを指摘すれば済みます。「いのちを大切に」も基本的には同じような構造であることに間違いはないのですが、「いのち」に自分自身も織り込まれていますから、ひっくり返してもひっくり返したことにならず、振り出しに戻ってしまう。

とすると、何とか工夫していのちの「外」を仮設し、一旦自分をそこへ置かなくてはならない。そうすればひっくり返すという簡単な戦略が再び有効になって、最低限の「はっとする」体験を味わってもらえるようになります。

いのちの「外」を考え、しかもそこへ自分を置きたいのですから、何よりもまず「私の(あるいはあなたの)」いのちという考え方を壊さなくてはなりません。私は無反省に自分が生きていると思い込んでいるけれど、それは間違いで、本来私はいのちから疎外されている、と。

いわゆる「生物学的」な生命のみには還元できない側面がいのちにあることは、比較的納得してもらいやすいようです。ではそれをどのように呼べばよいのか。そして実は、生物学的な生命に回収できないいのちの側面を、さらに二つに分けて考えたいのです。

一つは、社会的(あるいは歴史的)な地平に現われたいのちです。つまり、私たちは動物としてだけでなく、社会的にも生きる必要がある。このように現われたいのちの側面を、仮に「共感」と呼んでおきましょう。

たとえば、いのちに照らしていろいろな社会問題を考えたいとき、焦点を当てる必要があるのは当然ながら共感、すなわち社会的ないのちの側面です。社会的にきちんと生きることができていない人がいるならば場合によってはカウンセリングなどの「治療」が問題になるでしょうし、さらには社会のあり方そのものを問い直す必要に迫られることもあり得ます。

が、それは直接には社会学の主題です。仏教もある一面は間違いなく社会現象なのですから、共感と無縁ではない。しかし仏教が本来問題にすべきいのちの側面は、単なる共感ともまた異なる地平に属します。

仏教に限定せず広く宗教全般でとらえるならば、「霊性(スピリチュアリティ)」とでも呼ぶべきでしょう。しかしここでは仏教の枠内で考えることとして、それを「仏性(ぶっしょう)」ととらえることにします。

これでやっと話の枠組みが整理できました。一言でいのちと呼んでも、生物学的な「生命」、社会的な「共感」、そしてさらに仏教的な「仏性」の各側面がある。「いのちの尊さ」を仏教に問うのであれば、仏性を主題にしなくてはならない。

仏性をどのようにとらえるかについては、仏教においても宗派によってかなり大きな違いがあり、そもそも私たちの内に仏性が「ある」のか「ない」のかの理解から分かれます。浄土真宗の立場では、素の(阿弥陀仏のご本願に出合っていない)凡夫の内に仏性は認めません。

本来仏性(=ほとけだね)がないのですから、我々凡夫が仏となる可能性はその根源において断たれている。それを放っておけないと建てられたのがご本願で、そのご本願にうちまかせたとき、ご本願の独りばたらきで救われようのない凡夫がお浄土へ迎え入れられ、そこで弥陀同体のおさとりを開かせていただける。つまり、この私に届いてくださったご本願=ご信心が、その徳として、仏性としてはたらいてくださる訳です。

文学的に形容するならば、如来の親様が私を親とまかせよと呼びかけてくださるお呼び声(お名号)に、はいおまかせしますとあずけた(ご信心いただいた)とき、私は仏の子として生まれ出ずることとなり、親の育みのままに必ず親と同じ仏に成らせていただける身に定まる(正定聚、しょうじょうじゅ)。その喜びの中に、凡夫である私の口からこぼれてくださる「仏の息」が、報謝のお念仏であるとでも言えるでしょうか。

ご信心こそが、まことのいのちなのでした。本来私には「ない」いのちなので、これを他力と呼ぶのです。

合掌。

文頭