声聞と菩薩 (6月7日)

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『浄土真宗聖典』 註釈版の、第二版が発行されました。

第一版は、本願寺第十一代顕如宗主の四百回忌と、本願寺の寺基が京都に移転された四百年とを記念する事業の一環として、1988 年に整備出版されました。各末寺にもれなく配布されたので、以後、僧侶の勉強会などでは基本のテキストとなっています。父がいろいろ書き込みをするために別に求めたものや、同じように私が自分用に購入したものも含め、うちには4冊あります。

元が漢文のものはすべて書き下しにして、各ページに脚註があり、さらに巻末註・補註がついています。このたびの第二版ではこれらの註が充実し、さらに索引がつきました。どのくらい変ったのか興味があったので、先行予約で注文していたのですが、それが先月の末に届きました。

仏説無量寿経資料思っていた以上に変っていて驚きました。註の見直しだけでなく、本文の読み(書き下し)が変っているところまであります。その確認も兼ねて、仏説無量寿経(大経)の資料を作り始めました。

元の漢文に返り点をつけたものと、註釈版の本文とを併記し、科段(内容構成を分析した分断)を書き込んで、各種註も参照できるようにしています。今巻上の資料を作り終わり、校正をすすめているところです。

今回は Web 上での閲覧を意識して作っており、できれば山寺でも公開したいのですが、外字の表示用に自前のフォント(真宗聖典明朝、真宗聖典ゴシック、真宗原典明朝)を使用しており、これらのファイルサイズが私の接続環境で扱えるものではないため、悩んでいます。

経典の冒頭には、そのお説教をお聴聞であった方々のお名前がずらずらと出てきます。大経では 31 人の声聞の方々と、たくさんの菩薩のお名前が並んでいます。今回の改版で、声聞の方々には一人残らず説明が加えられていました。(堅伏尊者だけは「事跡不詳」となっていましたが。) ところが、菩薩様はこれまでと同じで、普賢菩薩、文殊菩薩、弥勒菩薩しか取り上げられていません。

声聞とは 「声を聞く者」 の意で、狭義には釈尊の直接のお弟子さんということになります。実子の羅云(らうん)尊者、従弟の阿難尊者などなど、皆さん「具体的」で、物語に富んでいらっしゃいます。一方、菩薩とはボーディサットヴァの音写で 「さとりを求める者」 の意味です。大乗仏教では、自ら菩提 (さとり) を求める (上求菩提、じょうぐぼだい) 自利的側面だけでなく、一切衆生を利益(りやく)しよう (下化衆生、げけしゅじょう) という利他的な側面が強調されており、究極的には人物というよりはむしろ、真理の働きの擬人化されたものとなっています。

上の三菩薩でいえば、普賢菩薩が慈悲の象徴、文殊菩薩が智慧の象徴で、弥勒菩薩は今は待機していらして仏教が滅んだ後に出現して衆生を救済したもうという、仏教の永続性を保障するような役割を担っていらっしゃいます。

大乗仏教の発想の枠内でものを読んでいると、声聞は 「自分のさとりのみを追い求める」 姿としていつも貶められているのですが、このたび大経にお名前の出てくる各声聞の方々への巻末註を入力していて、言いようのない懐かしさを覚えました。どれもたくさんの伝承の中から一部を抜き出した数行程度のものなのですが、それで十分に重い。

具体的であろうとすれば、狭くなる。開こうとすれば、なにがしか宙に浮く。それが、何事にせよ、私たちの実践において避けることのできない矛盾なのかもしれません。

この身体を引きずりながら今・ここに生きる以外にない凡夫にとって、その姿のままに開かれるとは、結局大きな働きにまかせることに行き着くのでしょう。思えば阿弥陀如来の救済の働きすら、私たちには法蔵菩薩 (阿弥陀如来として 「成仏」 なさる前のお名前) のご苦労を通じてしか、届いてこないのでした。

合掌。

文頭


カヤ (6月19日)

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久しぶりにカヤで手を切りました。

カヤの葉はふちが硬くぎざぎざで、不用意に素手で触ってサッと引いてしまうと、小さなのこで切り裂くような感じで切れます。そんなに深い傷にはなりませんが、痛いのはよく切れるかみそりなどで切るよりも痛い。

草刈の作業などでは必ず軍手をしますし、素手の草引きでカヤを扱うときには葉を握りませんから、知らずに引っかいていたというのを除けば、血が滴るほど切ったというのはおそらく子どもの頃以来でしょう。

ウサギのえさを採っていたのです。いまだに正式名称のわからない、このあたりではシロウと呼んでいる草の葉を茎ごと折りとっていて、気付かずカヤの葉を指の間にはさみ込んでいました。それを力を込めて思い切り引っ張ったので、あ痛! と思わず握った手を放したときには、右手の中指と薬指との付け根のところをすぱっと切っていました。

見る間に血玉が膨らんできて、血を止めようと指と指をぎゅっとくっつけたら、次第に指と指の間の谷を埋め、とうとう手のひらにたまるくらいになってきました。どのくらいまでたまるだろうと面白く(?)なって見ていたのですが、結局はたかがカヤで切った傷、500 円玉よりちょっと大きいくらいにまでなったところで、縁が乾き始めました。

さて、そうなってみると、後をどうするか困ります。家へ帰る途中の道沿いなので、洗い流そうにも水もなく、手を拭くものすらありません。それに、何だか捨ててしまうのも惜しいような気がして、一瞬飲んでしまおうかとも思いました。しかし表面が固まり始めている血だまりがおいしそうにも見えず、結局手を振って払い捨て、残った血をシロウの葉っぱで拭って、思わず放り出したシロウを拾い集め、ウサギの待つ家へ向かいました。

痛かったこと、血が出てきたこと、そしてちゃんと血が止まったことで、妙に、自分はちゃんと生きていたんだなあと納得しました。同時に、私たちは、自分が生きているという、当たり前というかいろんなことの出発点であるという意味で基本的なことすら、直接目で見ることはできないのかと悲しい気もしました。

それを思えば、凡夫の私が仏にさせていただけるというほとんど信じようのないことが、南無阿弥陀仏のお念仏を通じて、具体的に示されてあるというのはとんでもないことです。

合掌。

文頭


真・仮・偽 (6月30日) (後日加筆)

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一般の方も含めた浄土真宗関係者の研修で、「真実の宗教」 について勉強しました。

むつかしい課題です。何より、参加者全員が 「浄土真宗は真実の教えだ」 という前提にたっている訳ですから、よほど丁寧に考えないと、部外者にも有意義であると自信をもって言い切れるだけの内容にはしにくい。

真実の教えと、足をすくわれてはならぬ迷いを深めるだけの教えとの違いは、はっきりと、あります。問題は、それをどのような土俵の上で述べていくかです。

第一に、主題が宗教である以上、実証的に真偽を区別することはできません。宗教をどのようにとらえるかにも多少は依存するでしょうが、最終的に 「この私が如何に救われていくのか」 が問題となっている限り、そもそも一般化・対象化のできない問題なのです。そしてその時点で、たとえ傍目にはどれほど滑稽であろうと、当人が 「私はこの教えによって救われた(救われている)」 と主張しているとき、それを否定する術はないことになります。

「ヒーローインタビューです。今日の勝ち投手、○○選手に壇上に上がっていただきました。いいピッチングでしたねえ。ところで、○○選手は何かジンクスはお持ちなんでしょうか」

「いえ、そんなものにはまったく頼りません。そう言っていると不思議に勝てるんですよ」

また第二に、社会倫理的な適否で宗教の正邪を判断することも、(社会の側からは別として)少なくとも宗教の側に立つ者にはできません。倫理的によしとされる行為がそのまま宗教的に意味を持つとは限りませんし、ときと場合によっては倫理道徳的な価値を宗教が否定しなくてはならないこともあり得ます。ということは、「真実の宗教」 とは何かを問う問いも、社会的な活動とは異なる切り口において問われなくてはならない。

宗教を、科学 「ではない」 もの、倫理道徳 「ではない」 ものととらえはじめると、宗教の純粋さや 「優越性」 のようなものは支えやすいかもしれませんが、最初から都合の悪いものには目をつむっているようで、何だか問いそのものが窮屈になってしまいます。ここは簡単に、科学も社会も、何らかの度合いにおいて宗教的である、と見てしまうことにします。人間の行為はすべて、宗教的な側面を持っている。そうくくってしまうならば、真実の宗教を考えることはそのまま、宗教 「外」 のものに照らしての相対的な自己定位ではなく、宗教そのものの自己反省となります。

その上で、真実さの度合いに応じて真・仮・偽というグラデーションを考えます。このとき、たとえば偽なる宗教も宗教で 「ない」 のではなくて、真なる宗教と連なるものであり、極論すれば真なる宗教のある一面でさえあり得ることに注意してください。

さて、どのようなものも、見方を変えればまったく異なった見え方をします。今私の前には一切合財を 「宗教」 とくくった一つのものしかないのですから、上のグラデーションも、私と切り離されて実在する出来事の宗教度の違いを表しているのではなく、私自身のものの見方を反映しているだけのことになります。

ものごとが相対の相において見えているとき、それを偽と呼ぶことにします。悪に対する善、邪に対する正は、すでに偽です。言い方を変えれば、正を語るために邪を要請する発想は、その本性において偽であるということです。現世利益を掲げる教えは、現世利益が不幸を避け幸福を志向している点において、避けがたく偽です。浄土教も、厭離穢土・欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど、この娑婆世界を厭い捨て、浄土を願い求める)として穢土に対比された浄土が意識されるならば、その時点で偽となります。

ものごとが相対の相において見えているときとは、もう少し心象風景的に言えば、ものごとを明暗に分けて見ているときです。仏教では 「おかげさま」 という表現をよく使いますが、自分の都合のよいもののみ 「おかげさま」 と喜び迎えるのであれば、そのときの私が住んでいる仏教は偽です。

同様に、何がしかの 「改善」 が意識されている限り、すべての福祉や社会活動は偽です。私は、偽ゆえに止めよ、と主張しているのではありません。私たちが社会的に生きるということは偽を生きるということ、もっと言うならば生きるということ自体が、偽を受け入れることだと言っているだけです。ただ、事実上すべての政治や道徳が 「偽」 であるということから目をそらさず見据える者が社会的にも必要であろうとは思っており、それを引き受けるのが宗教家としての自分の役割の一部であるという風には意識しています。

次に、今目の前の現実が、私にとって抜き差しならぬ唯一のもの=絶対と現れているとき、それを仮(け)と呼ぶことにします。絶対というと良くも悪くも何か価値的なものを考えてしまいがちですが、それほど大げさなものではなくて、他との比較を離れているとき、それは十分に絶対です。ですから仮は、相対を離れ絶対に生きているときの心象風景です。

ひょっとしたら、ものごとを相対的に眺めることを知らない生き物は、常に絶対の中に生きているのかもしれません。言論の自由・職業の自由・信教の自由などなど、自由という名の相対にさらされる前の多くの庶民も、比べることが実際的な意味を持たない絶対の世界に、思いのほか安住できていたのかもしれません。

身近なところでは、普遍妥当性を標榜する限りにおいて、現代の自然科学は仮の相における宗教と言い得ます。

ものごとを絶対の相において見ているとき、特徴的なことは、「全体」 が視野に入ることです。もう少し正確に言えば、全体が全体として、くっきりとした輪郭をもって見えます。

自己修練を掲げる教えは、共産党のプロパガンダのように分りやすいのですが、最大限好意的に解釈しても、詰まるところ仮の相における宗教が最終目標になります。

これをひっくるめて、浄土教の言葉で自力と呼びます。つまり、どのように言い繕おうとも、絶対として姿を現すのは 「自分」 でしかないのです。

そして最後、絶対が絶対のままにその絶対としての唯一性を必要とせず、この私に 「おいて」 現れ出でたとき、それを真と呼びます。

みずからを真と主張する真は、仮です。本当の真は、何も言わない。ただ、この私です。

浄土教には、「末法」 といい、法然上人の 「愚者」 といい、親鸞聖人の 「悪人」 といい、厳しい自己反省とでもいった思いを投影しやすい用語が多いのですが、厳しい自己反省は仮です。

末法も愚者も悪人も、この私が前景をふさいでいるようでありながら、実はその全景が他力なのです。他力は、浄土教の専売特許ではありません。すべての真なる教えは、他力です。他力の真髄は、そののびやかさにあります。

浄土真宗 「が」 真実の宗教なのではありません。浄土真宗という教えそのものは、真にも仮にも、偽にさえもなりえる。真であるのは、ただ端的に、この私において、あるいは貴方において、現れ出でた他力です。

真なる宗教の相においてものごとを見ると、実は何も見えません。ただ聞えるだけです。それも、私が聞くのでなく、聞えるという出来事が今まさに実現しているという 「だけ」 の意味で、ただ聞えます。

そこに具体的に見えるのは、阿呆面下げた、私であり、貴方です。

合掌。

文頭