(5月9日)

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今年は、草の「先手」をとって庭の草引きをしています。

4月の中旬に執り行った春法座に先立ってざっと一巡庭の手入れができたため、たいていの草が花を咲かせる前に引いてしまえました。これで来春は、落ちている種が圧倒的に少なくなりますから、かなり楽になるはずです。

今は今年の二順目で、昨年荒れ方のひどいところから手を入れた関係で先送りになっていた、見かけ上調子のよいところの手入れが中心です。

それにしても、草引きは面白い。ほんとうにいろんなことを考えさせられます。

根源、根本などなど、ものごとの基本を表すのに「根」という言葉はよく使われますが、実際の根に付き合ってみると、文字通りリアリティーが変わる。

テッセンは引かずに残すのですが、当たり前のことながら、毎年同じところに生えて、同じような花を咲かせます。ところが考えてみると、根しか残っていないのに(茎は冬にみんな枯れます)、毎年ほぼ同じ形に育つのですから不思議です。つるが三本伸びるものは今年も三本で、南に拡がるものは今年も南に伸び拡がっている。まだ若い株で花を咲かせるまでには至らないものは5月になってもそんなに大きくならないのに、古い株はあっという間に大きく茂って、すでに例年と同じ趣の花を咲かせている。そう言えば一株だけ、去年はまだ幼くてやっと花を咲かせただけだったのに、周りのスギナと競争しなくてよくなったせいか、今年はいきなり倍くらいにまで茂ったものがありましたが。

逆に、薮になってしまう犯人(?)の一つの萩(正確には盗人萩で、本物の萩と比べればまがい物です)は去年徹底的に根まで引いたつもりなのですが、それでもあちこちに残っていて、なくなってしまうものかと言わんばかりに芽をふいてくる。大きな株だったものの「主株」だけ引いていたようなところでは、少しだけ残っていた根から、とにかく数で勝負というくらいたくさんの芽を出している。また、引いて残ったものほど成長が早いようで、とにかく元に戻ろうと必死になっているように見えます。

スギナや笹も、ほとんど「目の敵」にして引いたはずなのに、ぱっと見には去年と変わらないほどの威勢のよい芽を出しています。引いてみると、さすがに根が深くないので、見かけがはったりだとわかりますし、今年引いてしまえば来年芽を出すことはないでしょう。しかし今年放っておいたならば、きっと簡単に元に戻ってしまう。

本家のスギゴケもいろいろです。去年調子がよかったところでも、手入れが十分でなくて根が浮いていたところは軒並み元気がありません。今締め直しておけば、梅雨には元気を取り戻すでしょうが。反対に、弱っていて目土をしっかりしてやっていたところでは、若いスギゴケがいっぱい生えてきていて、やっぱり嬉しくなります。雑草を取り除けてしまったら後に産毛程度のスギゴケしか残らず、ここはもうダメかもしれないと思っていたところでも、勢いが死んでいない場所では、産毛の子どもくらいの、ピンセットでもなければつまめないような スギゴケ が緑を拡げています。

スギゴケそのものにははっきりした根はなくて(あるのは仮根です)、葉っぱをむしって散らした上に土をかけていても芽を出してきますし、扱いがテッセンやスギナなどとはまったく違うのですが、その場所に「根づいて」いるかどうかといったような意味で、やはり根と呼びたくなる何かがあります。

自分の根は、どこにあるのだろう。今どんな調子で、どのように伸び拡がろうとしているのだろう。あるいは、私が今考えたり感じたりしていることのうちで、これから根づいていくものとそうでないものとはどこで区別されるのだろう。

草引きというか庭の手入れは、そのまま「いのちの手入れ」と感じられます。私たちが逆立ちしてもいのちを生み出すことはできませんが、手入れはしっかりしなくてはならない。手入れをさせていただかなくてはならない。

生活が生存に直結していた時分では、生活がそのままいのちの手入れだったのでしょう。そうではない今だからこそ、いのちの手入れを心がけたいものです。

合掌。

文頭


ムカデ (5月30日)

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梅雨入りが宣言されました。昨日・今日と、静かな雨が降ったり止んだりしています。

梅雨に入る前にスギゴケの手入れを終える予定が、何とか間に合いました。後は梅雨の雨が世話をしてくれます。他のコケに負けて絶えかけていたところが、どこまで戻ってくれるか楽しみです。(去年は草や他のコケを取って除けただけで、それではやはり元気を取り戻すにまでには至りませんでした。今年は土にもだいぶ手を入れ、新しい芽が出やすいようにしてやっています。増え拡がる気配が出始めてはいるものの、うわっと勢いがつくとすれば梅雨の間です。)

今年の梅雨に間に合わなければ来年回しでもいいなと思っていたのが、山門の左手、大きなもみじの木と、大昔本堂を直したときの懇志芳名録が彫りこまれた石碑の陰になって、庭中で一番スギゴケの機嫌のよい一画です。畳一畳分くらいの広さで、スギゴケが元気なことを別にすれば、別にこれといった風情もない平坦な場所です。

ここは、ほおっておいてもスギゴケの調子がよい上に、どこか「ただ生えているだけ」といった印象で面白味が少なくて、あまり本気でかまってやっていませんでした。しかも、ここはなぜかムカデが多いのです。

手袋をして作業をすると指先が利きませんから、近頃は少々のやぶの手入れでも素手でします。しかし、さすがに不用意にムカデをつまんでしまうのはあまり気持ちがよくないので、庭仕事用のゴム引きの手袋をして作業にかかりました。

通常のように右手のドライバーでスギゴケの根を分け、間にひょろっと割り込んでいる草を取るだけでなく、今回は土がゆるんでいるところに目土をして踏み締めてもいきました。冬、土が凍(し)みるときにゆるむのか、思っていたよりもズカズカでした。密生しているズギゴケの根元に砂を入れるのですから、上から撒く訳にはいきません。砂を握った握りこぶしをスギゴケの中につっこみ、握りこぶしでスギゴケを掻き分けながら指先の感触で下のでこぼこや土のゆるみ具合を探り、適当に砂を落としていくとなると、手袋をしていては何とも歯がゆくて、とうとう素手に戻しました。覚悟していた通りムカデもたくさん(といっても、今回の作業中気がついたので4匹)いましたが、向こうも狙って待ち構えているわけではありませんから、いきなり食いつきもすまいとたかをくくることにしました。

ムカデといっても、ふつうにいるのはせいぜい5~6センチ程度のものなのでたかもくくれたのですが、今回、スギゴケの中でいきなり、20センチ近くて頭がオレンジ色、百かどうかは知らないにしてもたくさんある足の先が赤くて背中が緑っぽく、とにかく毒々しいものに行き合わせたときには肝をつぶしました。ウワ、とかなんとか声にならない悲鳴をあげて、思わず跳ね退いて尻もちをつきました。眼の照準を小さな草に合わせていることもあり、体感的には竜と鉢合わせになったくらいに恐怖でした。

気を取り直して、あれほど大きければほおってもおけまい、つかまえてムカデ油(油の中に生きたまま入れて毒を出させると、虫刺されややけどの薬になります)にでもしようと思ったときには、どこに行ったのか見当たらなくなっていました。寺の庭で無用な殺生をしなくてすんだとほっとする気持ちもあったものの、また出っくわさないとも限らないと思うと、続きの作業中気が気ではありませんでした。

ここにムカデが多かったのは、湿気が多いのと、おそらく下の土の隙間の感じが彼らに手ごろで、居場所として心地よかったのだろうという気がします。今回目土をして隙間を詰めましたから、これからは少なくなるのではないでしょうか。

無事作業を終え、これまで気持ちの上では「暗黒地帯」だったところにきちんと目が届き、目土までできて「すっきり」したものの、どこかさみしいような哀しいような気分も味わいました。スケールがまったく違うとはいえ、森を一つつぶしてしまった、魔物や化け物の住む暗黒の森が明るくて風通しのよい公園の木立になってしまったとでもいった、取り返しのつかないことのようにも感じられたのです。

確かに、魔物は退治していかなくてはならない。疑心の生む暗鬼、不信や敵愾心が生んでしまう投影された悪魔は、相手をではなくて、その根元の自分の心において居場所をつぶしていかなくてはならない。そう思うのですが、一方どんなに工夫しようと鬼は「いる」のだという、鬼といつ出会うかわからないといったおびえのようなものも、私たちが謙虚であるには必要なのかもしれないという気がするのです。

つかまえそこねたあのムカデは、今どこで何をしているのかしら。思えば、惚れ惚れするくらいに「綺麗な」ムカデでもありました。

合掌。

文頭